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2007年3月30日金曜日

核力の到達距離

 湯川会のMさんにアメリカの古書店を教えて貰い、そこで注文した本が、1週間目の一昨日届いた。湯川博士の中間子論の一部分を別の方法で導けることを述べた Wick の論文 [1] を含む "Nuclear Forces" [2] という本である。

 この本は、その第1部において、1932年から1960年代前半までの原子核理論を大学生向きのレベルで解説し、第2部に14編の基礎的な論文のリプリント(複写でなく、活字を組み直してある)を掲載している。湯川博士が中間子論を導く参考にしたハイゼンベルクの原子核構造に関するシリーズ論文3編中の I と III の英訳や、湯川博士のノーベル賞受賞論文も入っている。Wick の論文は、核力の到達距離と中間子質量の関係式を不確定性原理から導出することのみを扱っていて、B6版程度の大きさのこの本でわずか2ページのものである。

 Wick の論文の記述は、同じことを書いた朝永 [3] やセグレ [4] の記述よりも分かりにくい感じがする。不確定性原理を仮想粒子のエネルギーと存在時間に直接適用しないで、観測装置(some device which could "see" the heavy electron;"heavy electron" とは中間子のこと)を仮定して、話を進めているからだ。不確定性原理がもともと観測の精度についてのものだったことを思えば、この原理の応用がまだあまり広まっていなかった当時の書き方としては、これが自然だったのだろう。

 また、Wick の導出は、ガモフの公式(トンネル効果によるα崩壊の式か)や他の関連問題に対するボーアの議論(これらについても調べてみたいところである)のアナロジーとして得たように書いてある。湯川の中間子場の理論が電磁場のアナロジーから生まれ、その一部についての簡単化した説明もアナロジーから生まれたというのは面白い。

  1. G. C. Wick, "Range of Nuclear Forces in Yukawa's Theory", Nature, Vol. 142, p. 994 (1938).
  2. D. M. Brink, Nuclear Forces (Pergamon, Oxford, 1965).
  3. 朝永振一郎, 原子核の理論 (初出 1941);『量子力学的世界像』(弘文堂, 東京, 1965) p. 1;『朝永振一郎著作集』(みすず書房, 東京, 1982) p. 41所収.
  4. E. Segrè, From X-Rays to Quarks (W. H. Freeman, 1980; original edition by Mondadori, Milan, 1976).

2007年3月27日火曜日

湯川ポテンシャルへのヒント

 先に「湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)」のグループメールでπ中間子の名の由来 [1] を話題にしたことに関係して、同会のIさんから質問が出た。湯川博士のノーベル賞受賞論文で、中間子の場を「U場」と名づけたことについて、博士自身がその由来を語っている文章があるのだろうか、というものである。

 そのような文を私は見たことがない。原子の散乱の理論では、ポテンシャル(位置のエネルギー)V に 2m/(h/2π)2 を乗じた量を U で表わすことがある [2]。しかし、湯川論文中の式を見ると、U場の U はこういう量ではなく、ポテンシャルそのものである。そこで、U場の名の由来については、次のように想像するのみである。湯川博士は特別な場を提案するにあたり、アルファベットの順位としても文字の形としても、ポテンシャルに普通用いられる V に近く、また、湯川の「ユ*」も連想される U を使ったのだろうか、と。

 ところで、これに関連する情報を探すために、文献 [3] を見ていたところ、その中の高林の文 [4] の脚注に、のちにユカワ・ポテンシャルと呼ばれることになった関数形の先駆的使用例が三つ記されていた。

 (1) ゼーリガー (1885) がニュートン・ポテンシャルの修正として提案。
 (2) 量子力学で遮へいクーロン場として使用。
 (3) 朝永らが中性子・陽子散乱の計算をする際に、一つの可能なポテンシャルとして使用。

 ニュートン・ポテンシャルの修正として湯川型ポテンシャルが研究された [5, 6] ことは、私もパウリの本 [7] で知り、昨2006年4月18日付けの湯川会メーリングリスト宛メールで述べた。そのメール中に「湯川博士はこれからヒントを得たのだろうか。あるいはこれを知らず、独立に思いついたのだろうか」と書いたが、実は、もっと身近で朝永らが使っていたという事情があったのである。

 朝永らの計算については、同じく文献 [3] 中の小沼の文 [8] に詳しく述べられている。その要点は次の通り。

 「1933年に朝永博士(理化学研究所)が湯川博士(京都大学)に宛てた手紙の中に、『小生の方の計算もやっと少し結論らしいものが出ましたから一寸お知らせします』とある。この計算とは、仁科・朝永の1936年の論文の脚注に、『1932年に仁科・梅田(魁)・朝永はポテンシャルをいろいろ変えて、中性子・陽子散乱の計算を行なった』と書かれているものである。このとき、のちにユカワ・ポテンシャルとして知られるようになった関数を使っていたことが、上記の手紙に『Ae-λr/r としたのは仙台でやりました』と明記してある。同手紙の裏面には湯川博士によるλの値などについての書き込みが残っている。朝永博士らのポテンシャルが、湯川理論を生み出す上で役立ったのではないだろうか。」

 なお、高林の (2) の記述にある使用は、誰がいつ最初に行なったかを知りたいと思い、私の蔵書の範囲や Google の検索で調べたが、いまのところ分からない(たとえば、[9-12] には、遮へいクーロン場についての記述はあるが、文献引用まではしてない)。ご存知の方があれば、教えいただきたい。

 * 現在ミューオンと呼ばれている粒子が宇宙線中に発見されたとき、これが湯川博士の予想した粒子かと思われ、ワルソーで開かれた世界物理学会の席上、ボーア、ド・ブロイらによって、ユーコンと命名されたという [13]。ただし、これは U-kon と記したのではなく、Yukawa-electron を略して、Yukon と書かれた。その後、この粒子は陽子・中性子との相互作用が弱く、湯川博士の予想した粒子とは異なることが分かり、それとともにこの名も消滅したようである。

  1. パイオンの名の由来, Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月24日).
  2. たとえば、N. F. Mott and H.S.W. Massey, The Theory of Atomic Collisions, reprinted 3rd edition, p. 20 (Oxford University Press, Oxford, 1971).
  3. 『自然』増刊号「追悼特集 湯川秀樹博士 [人と学問]」(1981).
  4. 高林武彦, 知的ジャイアントを偲ぶ, ibid. p. 38 (1981).
  5. C. Neumann, Allgemeine Untersuchungen uber das Newtonsche Prinzip der Fernwirkungen (Leipzig, 1896).
  6. H. v. Seeliger and S. B. Bayer. Akad. Wiss. Vol. 26, p. 373 (1896).(高林の引用とは年が異なる。別の論文であろうか。)
  7. W. Pauli, Theory of Relativity, p. 180 (Dover, 1981; originally published by Pergamon, 1958).
  8. 小沼通二, 湯川史料からみた中間子論の周辺, 文献 [3], p. 70 (1981).
  9. L.I. Schiff, Quantum Mechanics, p. 325 (McGraw-Hill International, Auckland, 1981; original publication by McGraw-Hill in 1949).
  10. D. Bohm, Quantum Theory, p. 552 (Prentice-Hall, Englewood Cliffs, 1960, Maruzen Asian edition; originally published in 1951).
  11. R. D. Evans, The Atomic Nucleus, p. 888 (Tata McGraw-Hill, New Delhi, 1976; original publication by McGraw-Hill in 1955).
  12. H. Frauenfelder and E.M. Henley, Subatomic Physics, p. 111 (Prentice-Hall, Englewood Cliffs, 1974).
  13. 「宇宙線に日本名」大阪朝日新聞 (1939) (「湯川秀樹・朝永振一郎生誕百年記念展」パンフレットに紙面の写真がある。発行年は、湯川博士が「三十二歳の少壮学者」とあるところから推定。)

2007年3月24日土曜日

パイオンの名の由来

 ちょうど10日遅れの話題だが、3月14日はその数字から「πの日」となっている。また、アインシュタインの誕生日でもある。このことから、ふと、その日は「π中間子(パイオン)の日」でもあるとして、この粒子の存在を理論的に予測した湯川博士と、宇宙線中にそれを見つけた実験グループの指導者セシル・パウエル(湯川博士の翌年にノーベル賞受賞)も祝われるべきだ、などと思った。

 ところで、パイオンは発見当初 "heavy meson" と呼ばれていた、とジョージ・ガモフの本 [1] にある。「重い」と「中間 (meso)」が一緒になっていることから、ガモフは「"heavy middle-weight boxer" のように」と()内につけ加えているが、少なくともいまは、そういう名称のボクシングの階級はないようだ。重い方から、heavy weight、cruise weight、light heavy weight、super middle weight などとなっている。

 π-meson という名は、パウエルがヨーロッパ式の命名法に従って、μ-meson の名と合わせてつけた、とマイケル・リョーダンの本 [2] にある。しかし、なぜπとμにしたかは書いてない。私は、πは Powell の頭文字から、μはアンダーソンらの見つけた粒子が最初に呼ばれた mesotron の頭文字(meson の m とダブるが)から、あるいはπより先に来るギリシャ文字アルファベット中の使いやすいもの(例えばνはニュートリノという粒子とまぎらわしくて使いにくい)から、とったかと想像する。

 パイオンの名の由来についてウエブサイトを探したところ、粒子や高エネルギー物理学用語の由来が集めてあるサイト [3] が見つかった。しかし、そこには [2] の記述を引用してあるだけだった。πとμが選ばれた本当の事情をご存知の方があれば教えていただきたい。

 追記:アブラハム・パイスの本 [4] によれば、パウエルのグループの論文 [5] に次のような文で、π、μ両中間子が命名されているという。

 There is . . . good evidence for the production of secondary mesons constant in mass and kinetic energy . . . . It is convenient to refer to this process . . . as the μ-decay. We represent the primary meson by the symbol π, and the secondary by μ.

これでもなお、πとμを選んだ理由が分からない。

文献

  1. G. Gamow, "The Great Physicists from Galileo to Einstein" p. 320 (Dover, New York, 1988; originally published by Harper & Brothers, 1961).
  2. M. Riordan, "The Hunting of the Quark" p. 52 (Simon & Schuster, New York, 1987).
  3. Lynne Zielinski, Physics Folklore (http://ed.fnal.gov/samplers/hsphys/folklore.html).
  4. A. Pais, "Inward Bound" p. 454 (Clarendon Press, New York, 1986).
  5. C. M. G. Lattes, G. P. S. Occhialini and C. F. Powell, Nature Vol. 160, 453 (1947).

2007年3月5日月曜日

市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム

 表記シンポジウムで湯川博士のノーベル賞論文第1章を解説するE氏。氏は論文解説グループの「隊長」と呼ばれている。

 昨3月4日(日)午前11時から午後5時まで、中之島の大阪市立科学館において、湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)・大阪市立科学館・大阪市立科学館友の会主催の「市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム」が開催され、約80名が参加した。シンポジウムのキャッチコピーは「よっしゃ!! わかった!? 中間子論!!」。

 湯川会は、2005年12月から4回の準備会を重ねて、2006年4月に正式に発足し、11回の例会と1回の特別勉強会を経てシンポジウム開催にこぎつけた。私は第3回準備会から参加し、K氏とともにアドバイザー役を勤めた。

 午前の部「湯川理論の生まれた時代、湯川の業績」では5つ、午後の部前半「湯川理論の理解のために」では6つ、午後の部後半「湯川理論を理解する」では同じく6つの発表が行われ、参加者の方がたからの鋭い質問も多くあった。半ば自画自賛になるが、素人たちによるものとは思えないほど立派なシンポジウムが出来たといえよう。

 湯川会では、このシンポジウムの成果に磨きをかけて出版を行なうための作業を続けることになる模様である。

2007年3月2日金曜日

ビキニデー

 3月1日は太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が行った水爆実験によって、マグロ漁船第五福竜丸が被曝したビキニデーである。関連行事が2月27日から始まり、3月1日には日本原水協と原水禁国民会議が静岡市と焼津市で、それぞれ集会や墓前祭を開き、核兵器廃絶を訴えた [1]。このニュースがあまり報道されていないのは、まことに遺憾な状況である。

 第五福竜丸が被曝したのは1954年のこと、今年は53回目のビキニデーだった。被曝から約半年後の9月23日、第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが急性放射能症で死亡した。

 最近、毎日新聞のインタビュー記事「今、平和を語る」で、物理学者・小沼通二博士が核兵器問題について語り、湯川博士の核兵器廃絶運動に触れている [2]。それによれば、湯川博士は指導的な物理学者として日本での原爆研究に手を貸した(これについては [3] を参照されたい)という反省と自責の念があったところへ、アメリカが1954年3月に上記の水爆実験を行なったことで大きな衝撃を受けたそうだ。湯川博士は、それからは毅然として核廃絶を訴え、核兵器は「必要悪」ではなく「絶対悪」との立場を取り、核兵器を戦争や、どうかつ(恫喝)の手段にするのは、人類に対する最大の犯罪だと決めつけたのである。

 小沼博士はまた、湯川博士を含むメンバーによって1955年に結成された「世界平和アピール7人委員会」が1967年に出した「核アレルギー・核の傘論を排除するアピール」は、博士が自ら読み上げたものだと述べ、そのアピールを次のように紹介している。

 「最近、核の傘に覆われた世界という表現がしばしば使われるようになったが、そこには今後の人類は核の傘の下で暮らさねばならない、という宿命論的なあきらめさえ感じられる」とした上で、「傘は雨を防ぐためのものであるが、核の傘といわれるものは、それとは全く反対に人類の頭に火の雨を降らす源となるものである。それどころか核の傘自身がどんどん巨大化しつつある怪物で、このまま成長してゆけば結局人類を呑みつくしてしまうであろう」と断じている。明快ではないか、と。

  1. 27日からビキニデー関連集会, goo ニュース (中国新聞) (2007年2月26日).
  2. 今、平和を語る:物理学者・小沼通二さん/上 核兵器は「絶対悪」, 毎日新聞 (2007年1月31日).
  3. 湯川博士と源氏物語, Ted's Coffeehouse (2007年2月8日).