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2008年10月27日月曜日

理論物理学者の3つのモード (2)

 以下は、昨日掲載の10月24日づけのものに続いて、10月26日づけで「湯川秀樹を研究する市民の会」会員へ送ったグループメールのコピーである。


 皆さん、お早うございます。

 私が先のメールに書いた疑問・質問に、かなりの程度自分で答えることになりますが、南部さんの「理論物理学者の3つのモード」について、以下のことが分かりました。

 南部さんのモード論は、1985年の中間子論50年京都国際シンポジウムでの講演 "Directions of Particle Physics" に始まったようです。私はその講演を聞いて、鋭い分析だと感服したのですが、内容をすっかり忘れていました。そのときは、湯川モードとディラック・モードの2つが対比されていただけです。湯川モードも、bottom up という簡単な表現を与えられてはいなくて、次のように説明されています。

The Yukawa mode is the pragmatical one of trying to divine what underlies physical phenomena by attentively observing them, using available theoretical concepts and tools at hand. This also includes the building and testing of theories and models. It is the standard way of doing research in all branches of science.

 これならば、とくに疑問は湧きません。(私は divine という単語を「神の、神性の」という形容詞としてしか知りませんでしたが、上に引用した文では、「発見する、推測する」という意味の動詞として使われています。)

 ディラック・モードの説明は次の通りです。

The other mode, the Dirac mode, is to invent, so to speak, a new mathematical concept or framework first, and then try to find its relevance in the real world, with the expectation that (in a distorted paraphrasing of Dirac) a mathematically beautiful idea must have been adopted by God.

 そして、まれな場合にはこれらの2つのモードは1つになるとして、アインシュタインの重力理論(一般相対性理論)やディラック方程式を例に挙げています。つまり、1人の理論物理学者に1つのモードが固定的に対応するものでないばかりか、モードの混合もあり得るという考えです。これで、私の疑問はほぼ解けます。

 南部さんのこのモード論は、Michio Kaku and Jennifer Thompson, "Beyond Einstein" (Oxford University Press, 1997; first edition, 1987 by Bantam) p. 84 に紹介されています。そこでは、南部さんの講演と異なって、アインシュタインの重力理論はディラック・モードとなっています。さらに、1985年の南部さんの65歳の誕生日にあたって、同僚たちが功績を讃えて「南部モード」を作り出したが、それは、2つのモードの長所を合わせたものだ、と述べられています。私のもう1つの疑問にも、答えがすでにあったことになります。

 上記の本も私は読んでいながら、忘れていました。Einsein Yukawa Dirac Nambu を並べたグーグル検索で同書の上記ページが出て来て、そこにあった1985年という言葉から、もとは中間子論50年シンポでの講演と推測できた次第です。

 ところで、南部さんがいつから3モードへの転換をしたかという、新しい疑問が生じます。グーグル検索で、"Yukawa-Tomonaga Centennial Symposium: Progress in Modern Physics" (2006年12月11〜13日)での南部さんの講演記録 "The legacies of Yukawa and Tomonaga" も出て来ました。(http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~yt100sym/files/yt100sym_nambu_text.pdf

 しかし、そこではすでに、3モードが以前発表したことを引く形式で言及されていて、"Heisenberg, Einstein, and Dirac modes" と3分類され(1999年の講演をまとめた小冊子ですでに3モードだったのですから、当然です)、湯川の中間子論は H mode と述べられています。ハイゼンベルクは核力の理論に成功しなかったのですから、「湯川の中間子論は H mode」というのは変なようにも聞こえますが、先にも書きましたように、1人の理論物理学者に1つのモードが固定的に対応するという考えではないのですから、ハイゼンベルクの代表的な仕事を H mode と呼ぶとき、彼の核力の仕事は、それに成りきっていなかったということでしょう。


 上掲のメールに対して、会員のMさんから、同じく10月26日づけで返信があった。南部さんは、『日経サイエンス』2007年5月号、湯川秀樹生誕100年特集の「湯川と朝永から受け継がれたもの」とうい文の中で「3つの研究アプローチの事例」として、湯川型 (Y)、アインシュタイン型 (E)、ディラック型 (D) のアプローチを挙げ、各アプローチについて例を述べて解説していること、また、素粒子理論の70年の歴史の中で、ここ30年間については、素粒子の理論家のタイプはYからEへ、そしてDへと移りつつあり、中間子論から、くりこみ理論を経てゲージ理論へ、さらには超ひも理論へと続く流れを振り返ると、YとEによる到達点が標準モデルであり、そしていま、Dの時代に入ったとみることができると述べていることを紹介していた。以下は、それに対する、きょう、10月27日づけの私の返信である。


 私も『日経サイエンス』のその号を買っていましたが、南部さんの文のあったことを忘れていました。(このところ、忘れていた話ばかりです。)その文は、私が昨日紹介しました英語講演 "The legacies of Yukawa and Tomonaga" をもとにして、加筆されたものと思われます。筋書きは同じですが、「湯川と朝永から受け継がれたもの」の方が少し詳しくなっています。前者では、もともと「湯川型」だったものが「ハイゼンベルク型」になっていましたが、後者では、「湯川型」に戻っているのですね。

2008年10月26日日曜日

理論物理学者の3つのモード (1)

 以下は、10月24日づけで「湯川秀樹を研究する市民の会」会員へ送ったグループメールのコピーである。

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 皆さん、今晩は。

 先日、ジュンク堂書店大阪本店で、「ノーベル賞受賞」との広告もなく棚にひっそりと並んでいた南部さんの小さな本を見つけて買いました。『素粒子物理学の100年』高等研選書 8(国際高等研究所、2000年)50ページ、税込み 500円。(http://www.copymart.co.jp/wcc/iiasap/sen_frame.html からオンライン版も購入できます。税込み 299円。)

 1999年11月に行われた国際高等研究所フェロー公開講演会の話をもとに、著者が加筆したもので、やさしい内容です。誤植が沢山ありますが、内容の理解に影響するほどではありません。後半26ページからの、素粒子論の指導原理の説明や、「物理学はいくつかの段階を経て発展する」(武谷の「3段階論」の紹介)と「理論家としての3つの研究方法」の節は興味深いものがあります。巻末の年表も私たちの研究に役立ちそうです。

 ここでは、湯川の名の出てくる「理論家としての3つの研究方法」の節を簡単に紹介します。著者は、自らの観察に基づいて、理論物理学者には人によって3つの異なった研究方法または態度が見られると述べ、それを3つのモードと呼んでいます。各モードの名前は、「アインシュタイン型」「湯川型」「ディラック型」です。これらについて合わせて、約3ページの説明がありますが、「湯川型」については、約1ページ半と、最も多くのスペースをさいています。

 「アインシュタイン型」は、まず自然の従う原理についての仮定を立て、それに基づいて理論を創る、いわば上から下へ(top down)の立場です。

 「湯川型」は、これとは逆で、「新しい現象の背後には、深い理由は別にして、何か新しい場や粒子がある」という作業仮定から出発する、下から上へ(bottom up)の立場です。

 「ディラック型」は「天下り型」ともいえるもので、「数学的に美しい理論は真である」とする立場です。

 南部さんは、「ヨーロッパの学者たちが既知の電子、陽子、中性子以外の粒子を仮定するよりも、新しい現象は新しい理論、恐らく量子力学に代わるもの、で説明すべきだという先入観をもっていたときに、湯川は完成された量子力学をそのまま受け入れ、その帰結をあくまで追求する立場を取った。すると、核力のような新しい力の場には新しい量子が付随していなければならないことになる」旨、述べています。

 「湯川型」の定義に照らせば、これは確かに bottom up の立場ですが、量子力学あるいは場の量子論を「自然の従う原理」とみなした(湯川自身がそれを新しく考え出して仮定したのではありませんが)と考えれば、top down の立場と見ることもできるように思われます。当時のヨーロッパの学者たちの方が、新しい現象という bottom から、それを支配する top の理論を構築しようとしたという意味で、bottom up の立場ともいえます。

 また、アインシュタインにも、「数学的に美しい理論は真である」とする考え方がいくらかあったように思われます。こう考えると、南部さんの3つのモードは、必ずしも、すっきり割り切れないような気がします。また、南部さん自身は、何型なのでしょうか。皆さんは、いかがお考えでしょうか。

2008年10月9日木曜日

2008年ノーベル物理学賞への湯川博士の影響

 2008年ノーベル物理学賞についてのテレビのニュースで、南部さんが、湯川秀樹博士の影響で素粒子の研究を始めた旨を語っているところがあった。益川さんは坂田昌一博士に惹かれて素粒子論に進んだそうだが、坂田博士は湯川博士の高弟というべき人だから、こちらにも湯川博士が間接的ながら影響している。

 また、きょう10月9日づけ朝日新聞朝刊の「ノーベル物理学賞の3氏に聞く」という記事中では、九後太一・京大教授が「益川先生たちは、当時,全然信用されていなかった場の理論の精密な論理を適用した。これは朝永流だ。さらに、クォークは6種類あるという大胆な予言をした。これは湯川先生の伝統を受け継ぐ」と、小林・益川理論について、専門家らしい意見を述べている。

 上記の記事中には、南部さんの言葉として「私が学生のころ、湯川秀樹博士が予言したパイ中間子が実際に発見され、博士の名は世界的に有名になった。それをきっかけに、私も物理学をやっていこうと思った」とある。しかし、南部さんは1920年生まれだから、パイ中間子が発見された1948年には28歳で、「学生のころ」ではない。1937年にミュー中間子が発見されて、湯川博士が世界的に有名になり始めたことに影響されたはずである。

 私が最近新聞記者から取材された経験によれば、新聞記者とは、自分の思い込みで記事中に被取材者が読めば冷や汗をかくような間違いをいくつも書く人種である。南部さんの話の上記の部分も記者が勝手に手を加えた間違いであろう。




 南部さんの受賞に関連して、昨夕のNHK総合テレビ「テラス関西」で、わが湯川会顧問の斎藤さんが発明した、科学館の「自発的な対称性の破れが見える装置」について説明しているところが放映された。南部さん自身が以前、科学館を訪れた折に感心しておられた様子や、子どもたちが「よく分かった」といっている場面もあった。これはよい取材である。

 なお、2008年ノーベル化学賞でも、クラゲの緑色蛍光タンパク質を発見した日本人、下村脩さんがアメリカのマーティン・チャルフィー (Martin Chalfie) 、ロジャー・チェン (Roger Y. Tsien) 両教授と共同受賞することになったのは、ことのほか喜ばしい。ただし、これを機会に、政府が基礎研究に多くの投資をすべきことを理解することこそが重要であろう。