2016年5月29日日曜日

幼少年時代の絵 6 (Drawings in My Childhood. 6)

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『やかん』(1947 年、12 歳)。
"The kettle" (1947, age 12).


『天徳院の鐘楼堂』(1947 年、12 歳)。
"The bell tower of Tentokuin Temple" (1947, age 11).

 『やかん』と 『天徳院の鐘楼堂』は、私が小学校 6 年生になって初めて使用した水彩絵の具で、図画の時間に描いたものである。敗戦後の大連にいた 5 年生の間には絵の具を使う機会がなかったが、金沢の小学校にいた級友たちはすでに使った経験があったようで、中には水彩画を習いに通っているという児童もいて、いくらか引け目を感じながら描いた。この 2 枚の中では『天徳院の鐘楼堂』を先に描いたように思っていたが、『やかん』の裏面には所属の学級を「五ノ一」(「一」は短く、「二」の上の棒だけを書いてやめたのかもしれない)と書いた上に線を引いて消し、「六ノ二」に直している。これを見ると、『やかん』が 6 年生になって間もない時の作品のようである。

 学校で描いたこの絵に満足できなくて、家で同様なやかんを再度描いたのも残っている。そちらは、いま見ると、明暗の表現にもっと工夫を加えているものの、全体的な力強さでは学校で描いたものに劣るので、掲載は割愛する。他に、絵の具を使う練習のために、家でインクびんと辞書や後ろの家などの写生をした記憶もあるが、それらは残っていない。

 『天徳院の鐘楼堂』は、学校から近い寺院へ行って写生した。この絵の着彩も自分では大いに不満だった。しかし、裏面に四重丸を貰っている。朱塗りの鐘楼部分やその屋根は、正面に向かって左寄りから見た姿のようだが、鐘楼堂の左右にある白壁廊は、ほとんど正面から見た姿のように描かれている。これは、キュビスムをてらったのではなく、いささか不思議な、あるいは稚拙な、写生である。

 当時、天徳院の境内への出入りは自由だったが、現在は「珠姫の寺・天徳院」として観光地の一つとなり、山門を入るには拝観料を払わなければならなくなっている。先年金沢を訪れた際に、この写生をした場所を見たいと思いながら、有料と知って、山門から引き返してしまった。この写生画の明瞭な記憶がなく、〈 山門を描いたのだったが、それがいまの山門の形に大きく変容したのか 〉 とも思ったのであり、「有料」だけが引き返した原因ではないが...。石川県のウェブサイト内のこちらのページに、この鐘楼堂を右斜めから撮った写真があり、鐘楼堂が現存することを知った。(つづく)


 追記:本記事の掲載時点では、「鐘楼堂」を「楼門」と書いていた。2019 年 7 月、金沢へ墓参に行った折に天徳院を見学し、この部分が「霊鐘」と呼ばれる鐘を内部に収めた鐘楼堂であることを初めて知り、「鐘楼堂」に訂正した。楼門とはこの寺の山門の様式であり、その山門は 1693 年建立の天徳院が、1768 年の火災で焼け落ちた際に残った唯一の建物で、他の部分はその後再建されたものだという。(天徳院見学の記事と写真はこちら。)

2016年5月15日日曜日

幼少年時代の絵 5 (Drawings in My Childhood. 5)

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『オオカミ』(1947 年、11 歳)。
"The wolf" (1947, age 11).


『ハクチョウ』(1947 年、11 歳)。
"The swan" (1947, age 11).


『大八車』(1947 年、12 歳)。
"The large hand‐drawn cart" (1947, age 12).

 1 枚目の『オオカミ』と 2 枚目の『ハクチョウ』は、金沢へ引揚げ後に、家で古雑誌の写真を参考にして、一枚のわら半紙(313 mm × 237 mm)に描いたものである。半分に強く折って保存してあったので、別々に写真を撮った。参考にした写真が載っていた古雑誌は、英語学習用のものである。私が終戦後に大連で習いに通った英語を好きになっていたため、母が知人から貰ってきてくれたのだったかと思う。描いた時期は、はっきりしないが、比較的退屈していた時であり、6 年生になる前の春休みと考えられる。

 3 枚目の『大八車』は、金沢の小学校で 6 年生の時、図画の時間に写生したものである。大八車とは、江戸時代から昭和 20 年代にかけて荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車である。車輪が荷台の全長の中ほどにあるとすれば、最初、左側に見える後半部を長すぎる形に描いたのに気付き、修正した跡がある。前方の引き手部分も、傾きが大きくなる方向に修正している。裏面には所属を「六の一」として氏名をしたため、先生の手で四重丸が記されている。5 年生の 3 学期途中に金沢の小学校へ転校して以来、所属したクラスは 2 組だったのだが、1 組と書き間違えたのは、大連で 5 年 1 組だった記憶の影響と思われる。この間違いから、6 年生初期の作品と推定されるが、私の誕生日は 4 月 17 日なので、絵の下の説明に記した通りに、12 歳になっていたかどうかは微妙なところである。(つづく)

2016年5月12日木曜日

幼少年時代の絵 4 (Drawings in My Childhood. 4)

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『グラブ』(1946 年、11 歳)。
"Glove" (1946, age 11).


『キツネとツル』(1947 年初め、11 歳)『イソップ物語』の絵本から模写。
"The Fox and the Stork" (early 1947, age 11). Drawn after a picturebook Aesop's Fables.

 1 枚目の『グラブ』は、学校での写生である。クラス全員がいくつかのグループに分かれて、その中の一人が持ってきたグラブを、グループの一同(4 名程度だったか)が囲んで写生したと思う。「第二号様式」として「学齢児童氏名」「保護者」「就学」などの欄が印刷された用紙(ほぼ B5 サイズ)の裏を使っている。「学齢児童氏名」欄の下に、「本籍」などに続いて「渡満年月」という欄があり、大連や旧満州内で使用された独特の様式と分かる。描かれているグラブは級友のものである。私が当時使っていたグラブは、その水彩画が後で出てくる。

 2 枚目の『キツネとツル』は、『イソップ物語』の絵本から模写で、305 mm × 210 mm の画用紙を使っている。この紙は前回掲載の『アゲハチョウ』などに使ったものよりやや大きいが、質は悪く、変色が激しい。この絵は、大連から内地への引揚げ直前に、Y 子さんと記念に交換する目的で描いたものである。戦後、中国人の支配となった大連市政府から、日本人住宅の半数明け渡し命令が出されたため、後ろの家に住んでいた A さん一家にわが家の 2 階へ入って貰った。大連港からの引揚げを目指して、満州各地から移動してきた人たちを受け入れる必要もあり、それほど広くもなかったわが家に、他の 3 家族も同居した。Y 子さんは A 家の末娘で、私と同学年だった。引揚げは私たち一家の方が少し早く、帰国先は同じ石川県だった。

 Y 子さんにあげるはずだった絵が私の手元にあるのは、描き上げた時にあげるのが惜しくなって、前に描いてあった別の絵をあげたからである。別の絵の内容は覚えていないが、前回掲載の『アフリカ象』に似たモノクロの絵だったと記憶している。その後、この交換のことを思い出すと、失礼なことをしたものだと思った。しかし、引揚げ後何度も Y 子さんと会う機会がありながら、そうしている時間中には、思い出すことがなかった。先年彼女が亡くなり、姉君から納骨の催しに招かれた折に、それに続くお別れ会の席上で参加の皆さんにこの話をして、ようやく霊前でのお詫びとしたのだった。

 Y 子さんが私のために描いてくれたのも、漫画の絵本を手本にしたものだった。しかし、それは手本通りではなく、第一の場面では 2 匹の子リスが木の上の一つの小屋に住んでいることが表現され、第二の場面では 2 匹が別々の土瓶を船代わりにして、川か海を旅して行く情景が描かれていた(手本の漫画は 1 匹の子リスが、洪水に出会ったためか、土瓶に乗って流されながら冒険をする話だった)。

 いまこう書いて、ようやく気づいたが、Y 子さんの絵は、しばらく同居した私たちが別々の船で引揚げるようになったことを表したものと見ることが出来る。絵の筆運びはいささか幼稚に思えた彼女が、そのようによく考えた絵を描いたとは思いもよらなかった。私の理解力こそ幼過ぎたというべきか。お別れ会の席上、彼女から貰ったハガキに描かれていた絵を褒めていた人たちもいた。その話と合わせると、彼女の絵はいつも自らの思いを表した独創的なものだったようだ。私が模写した『キツネとツル』の 2 匹の動物は、こともあろうに、仲の悪い間柄である。その意味では、これをあげなくてよかった、と思うのは身勝手な弁解だろうか。(つづく)

2016年5月10日火曜日

幼少年時代の絵 3 (Drawings in My Childhood. 3)

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『アゲハチョウ』(1946 年、11 歳)1 枚目は背部、2 枚目は腹部からの写生。
"Swallowtail butterfly." Upper, sketch from the back side; and lower, from the front side (1946, age 11).


『アフリカ象』(1946 年、11 歳)。
"African elephant" (1946, age 11).

 1 枚目と 2 枚目の『アゲハチョウ』は、背部と腹部からの写生を合わせて、一枚の 290 mm ×190 mm の画用紙に横並びに描いてあるが、細部を再現するため、ここでは分割して、余白をカットした。同じチョウを両面から描いたにしては形が少し異なるのは、描いているうちに水分の蒸発などで変形したのだろうか。画用紙の裏面には「五年一組」という所属を書いてあるので、終戦の翌年、大連の小学校在学中に描いたものと分かる。学校で描いたものかと思ったが、学校での他の作品にあるような「優」の印あるいは四重丸がない。3 年生から 5 年生の 1 学期まで、私のいたクラスの担任だった松本貞雄先生は、家で描いた絵を持って行くと、教室に張り出して下さった。その松本先生は 2 学期の初め頃だったか、隣の学校へ転任された。そのため、家で描いて提出しそびれたのだろうか。図画として描いたのでなく、夏休み中の理科の自由研究だったのかも知れないが、それにしては、なぜモノクロなのか不思議である。

 松本先生に提出して張り出して貰った記憶のある絵としては、『桃太郎』、『爆弾三勇士』、『赤い屋根と白い壁の家』がある(絵の題名はいずれも、この文を書くにあたって便宜上つけている)。前回記したウェブサイト『小さな資料室』の、「資料156」によって、国民学校国語教科書『初等科國語二』(3 年後期用)の第二十一課に「三勇士」の話のあることが確認出来る。『爆弾三勇士』は、そこを習った 1945 年の初め頃、あるいは習うに先立って、その挿絵を見て描いたものである。当時の軍国主義教育に、私も大いに感化されていたのだ。『赤い屋根と白い壁の家』は、終戦後だったと思うが、私の住んでいた祖父の家の左隣の家を写生したもので、この絵ついての思い出は、大連嶺前小学校同窓会会報に書き、本ブログ中の記事「ぼくの真似をしたな」に転載してある。

 3 枚目の『アフリカ象』は、子供向け雑誌にあった絵の模写で、用紙は『アゲハチョウ』のものと同じである。画面の右端には「アフリカ象こそ密林の王様」と書いてある。裏面には、「八月十二日(月)」と記されていて、年が分からないが、幸い、曜日があるため、『1000 年カレンダー』というウェブサイトで、1946 年であることが確認出来る。裏面にはまた、ライオンらしい動物の姿が薄く下描きしてあり、頭部だけ細かく描きかけて、未完成のままになっている。(つづく)

2016年5月8日日曜日

幼少年時代の絵 2 (Drawings in My Childhood. 2)

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『蛙と牛若丸』(1943 年、8 歳)国語教科書の挿絵の模写。
"Frogs and Ushiwakamaru," drawn after pictures in the textbook of national language (1943, age 8).


『鍾馗(しょうき、中国に伝わる魔除けの神)』(1945 年 5 月、10 歳)端午の節句に飾る小型の「のぼり」から模写。
"Zhong Kui (a figure of Chinese mythology)," drawn after a picture on a decoration flag for Children's Festival (May 1945, age 10).

 1 枚目の絵は、小学校 2 年生の時に、わが家へ来た友人と絵を描き合って遊んだ折に、国語教科書の二つの話の挿絵を、あわせて一枚のわら半紙(ほぼ A4 サイズ)に模写したものである。私はこのように、外で遊ぶよりも家の中で遊ぶことの多い子供だった。この時の友人が誰で、その友人が何を描いたかは覚えていない。当時の国語教科書については、『小さな資料室』というウェブサイトに紹介があり、その中の「資料 144」のページに、国民学校国語教科書『よみかた 三』(2 年前期用、文部省、昭和 16 年 3 月 7 日発行・昭和 16 年 3 月 25 日翻刻発行)の内容が掲載されている。その教科書の第六課に「牛わか丸」、第八課に「蛙」がある。「蛙」は『イソップ物語』中の「蛙と牛」の話から取られたものである。

 2 枚目の絵も、ほぼ A4 サイズのわら半紙に描いたもので、黒と灰色の部分は珍しく墨を使い、習字用の筆で描いている。裏面には「昭和二十(1945)年五月六日」の日付けがある。私はその前年の 4 月に父を亡くし、9 月初めに母と大連の祖父母の家へ引っ越した。その際に、兄が亡くなった小学校 3 年生の初めまでの間に描き残した絵など、家にあった思い出の品の多くを処分してしまったが、私自身の絵を少数ながら大連まで持って行ったのは、母が兄の絵をかなり長らく保存していたことに習ったのかも知れない。模写した『鍾馗』の絵の手本は、端午の節句の飾りの中にあった小型の「のぼり」に描かれていたものである。その飾りは、祖父母の家に私たちより早くから同居していた伯母(母と同じく、夫を亡くしていた)が、それより何カ月か前に海軍飛行予科練習生(「予科練」の略称で知られる)として徴集された従兄の安全を祈って、例年通りに飾ったのだった(従兄は無事に終戦を迎え、私たちが引き揚げるより先に親の出身地へ戻っていた)。

 ここまでに紹介した私の子供時代の絵は、模写ばかりである。学校では写生をしたものの、それらの作品は返して貰えなかったのだ。記憶にある小学校低学年での写生は、七尾の小円山公園でのものと、同じく七尾の小学校校庭でのものである。前者はうす紅色に広がる満開の桜の花の様子を、そして後者は青色に塗られた肋木(ろくぼく)を中心付近に描いたものだったことが、いまでも、おぼろげながら思い出される。

 校庭での写生については、次のような思い出もある。肋木の下には、何人かの同級の女児が写生をしていたので、それを簡単に絵に描きこんだ。その中に、やや目立つ深緋の服を着た女子がいた。その頃よくそういう色の上着で登校していたのは、小柄で愛らしい顔ながら勝気なところのある N さんだった。教室に張り出された私の絵を見た男子同級生の一人が、「これは N さんか」と聞いたので、私は「そうらしい」と答えた。すると、その同級生は私の絵に N さんが描いてあると、盛んにいいふらした。その結果、私は N さんから、「あの日、私はこんなところにいなかったわよ。いい加減なことをいわないでちょうだい」とやり込められ、返す言葉もなかった。

 なお、大連へ引っ越して間もなく、私は従兄に連れられて、転入したばかりの小学校のレンガ造りの校舎を俯瞰できる小高い山へ連れて行って貰い、そこで A5 サイズ程度の用紙に、小学校を中心にしたスケッチをした記憶もある。また、七尾の小学校の図画の時間の課題では、見たものを記憶で描く種類のものもあった。青柏祭に曳き廻される日本一大きな山車「でか山」や、和倉への遠足を描いたのがそうした課題であった。私のそれらの絵にも、逸話的な思い出があるが、長くなるので割愛する。(つづく)

2016年5月5日木曜日

幼少年時代の絵 1 (Drawings in My Childhood. 1)

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『起き上がり小法師』(1943 年、8 歳)。
"Okiagari-koboshi (self-righting Dharma doll)," (1943, age 8). It was during the 2nd World War, and we could not get drawing paper. This picture was drawn on the back of a used letter sheet.


『加藤清正の虎狩り』(1943 年頃、幼年雑誌中の絵の模写)。
"Katō Kiyomasa hunting a tiger," drawn after a picture in a children's magazine (around 1943).

 先の記事に、大連からの引揚げ時に持ち帰った絵の手本のことを書いた。その続きとして、同時に持ち帰った私の子供の頃の絵と、引揚げ後の小・中学生時代の絵で、いまだに残っているものを紹介したい。掲載する絵の一部はホームページを作成したばかりの頃、英文の簡単な説明を添えて、そこに掲載したが、当時のホームページ・サービスは容量が小さかったので、その後削除してしまった。今回の掲載にあたっては、改めて原画を写真に撮り直すことにした。紙が変色していたり、シミや汚れが生じていたりしているものが多く、再生にはいくらか苦労を要している。また、今回は、それぞれの絵にまつわる若干の思い出も和文で記すことにする。

 初回に掲載する 1 枚目の絵は、石川県七尾市の小学校(当時は国民学校と呼ばれた)で、2 年生の時に描いたものである。実物の「起き上がり小法師」を見ての写生ではなく、図画の手本にあった絵の模写だったかと思う。戦争中の物資不足のため、画用紙代わりに配布された用紙は、枠の線や文字が透けて見える、使用済みの便箋であった。右上に朱書してある私の名前は、クラス担任の大成先生(女性)が、教室の後ろの壁に張り出すために記したものである。私自身の署名は裏面左下に「初二竹」という所属に続いて、したためてある。当時の小学校には初等科と高等科があったので、初等科の 2 年生であることを表すために「初二」とする必要があったようだ。「竹」はクラスの名称で、一学年に松、竹、梅の 3 クラスがあった。いま便箋の面をみると、達者な草書で経済関係の論文の下書きと思われるものが記してあって、「99」とページ数が入れてあり、最終行に「七、結論」とある。約 100 ページに及ぶ論文の末尾近くの一枚だったのだ。便箋右下には「第一生命保険相互会社」の文字が印刷されている。

 大成先生はまだかなり若かったと思われるが、端整な、いかにも教師らしい方で、私たちが 1 年生の時から優しく適切な指導をして下さった。ところが、2 年生の 2 学期途中から休まれたと思う間もなく、亡くなられてしまった。結核だったようである。先生の思い出を記した私の作文に、おそらく隣の松組担任の年配の先生(やはり女性)が手を入れて弔辞の形にして下さったものを、私は告別式で朗読した。戦争中のことでもあり、告別式は簡素なものだったが、私が朗読をした場所は、小高いところにあった建物中の、あまり広くない一室で、前方の窓から自然の多い風景が望まれたような印象がある。しかし、古いことなので、どこまで正確か自信がない。

 2 枚目の絵は、小学校 3 年生で亡くなった兄のお下がりの幼年雑誌にあった「加藤清正の虎狩り」の絵を、わら半紙(ほぼ B4 サイズ)に家で模写したものである。伯父か誰かが訪ねてくるというので、その時に見せようと、がんばって描いたのだが、トラが用紙の中に収まりきれなくなって残念に思ったものだ。あらかじめ全体的な位置決めをすることなく描き始めたので、槍の手元より後ろの部分の向きを何度も修正した跡も見える。描いた時期は分からないが、『起き上がり小法師』と相前後する頃と思う。(つづく)