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2019年12月22日日曜日

「五色浜の子守歌」を守ってきた人たち (People Who Followed "Goshikihama Lullaby")

[The main text of this post is in Japanese only.]


「五色浜の子守歌」の楽譜と、この歌の「復活秘話」。
The score of "Goshikihama Lullaby" and "Secret Story" about the resurrection of the song.

 先の記事に記した「五色浜の子守歌」の合唱ビデオを、かつての朝日新聞への投書「心に残る母の子守歌:どなたかルーツ教えて」にあった楽譜と注意深く比較しながら聞いてみた[注 1]。すると、合唱と楽譜とでは、音の長さや直前の音に比べての高さなどが、所どころで異なっていることに気づいた。そこで、合唱に使われている楽譜を入手したいと思い、合唱の行われた場所・淡路文化会館のウェブサイトの、「お問い合わせ」ページから質問を送ってみた。12 月 6 日の夕方のことだった。それからちょうど 10 日後の 12 月 16 日の朝、会館から電話があり、合唱グループ「五色サルビアエコー」が楽譜を会館へ届けてくれることになり、それを郵送するので、もうしばらく待って欲しい、とのことだった。

 12 月 18 日に会館からの封書が届き、開けてみると、楽譜の他に、思いがけなく「『五色浜の子守歌』復活秘話」と題する文[文献 1]のコピー(A4 紙 4 ページ)が同封されていた(上掲の写真参照)。これらは「五色サルビアエコー」代表・高鍋禮子さんと採譜者・高鍋和男さん(「復活秘話」の著者でもある)から提供されたものであることと、淡路島以外でもこの歌に関心を持つ人がいることに両氏が感激しておられたということを記した会館の担当者のメモも添付されていた。「復活秘話」の内容は、あたかも小説のような素敵な話であり、ここにかいつまんで紹介したい。

 長崎の小学校で「五色浜の子守歌」を習い、フィリピンに渡って歯科医を開業していた中野敏一さんが、1945 年の敗戦で長崎へ引き揚げてみると、生家は原爆で跡形もなくなっていた。彼はその時、とっさにこの子守歌を思い出し、淡路島へ行き、その南東部にある福良の歯科医院に身を寄せて勤務していた。その頃、福良小学校の先生で音楽の得意な平野まきゑさんが歯の治療に来た。そして、治療をした中野さんは、ギター伴奏で平野さんに「五色浜の子守歌」を聞かせた。これが縁で、二人は 1946 年にめでたく結婚した。1952 年、中野夫妻は念願の五色浜のある地域への転居を果たし、敏一さんは地域の小・中学校の校医も勤めながら、二人でこの歌を守り続けて来たということである。

 「復活秘話」の著者・高鍋和男さんは、小学校長を退職して、五色浜教育委員会に勤務していた 1990 年 5 月、小学校同級生の一人から上記の「... ルーツ教えて」の投書を知らされた。そして、入院中だった中野まきゑさんを、院長の許可を得て、1990 年 12 月に採譜のためテープレコーダー持参で訪れた。まきゑさんは 1986 年に亡くなった夫・敏一さんのことを思い浮かべながら、涙ながらにこの歌を歌ったそうである。翌 1991 年 10 月には、「五色サルビアエコー」が、洲本市民会館で開催された淡路合唱祭で「五色浜の子守歌」を初披露し、全員合唱もして、大反響を呼んだとのことである。

 「復活秘話」は次のように結ばれている。
 明治 35 年(1902 年)生まれの中野敏一先生が「長崎の小学校で教えてもらった」と云うことは、明治の終わり頃、教えてもらっていることになります。日本音階で作曲されている、この子守歌は、貴重な日本の文化遺産です。中野敏一先生が掘り起こされた、この素晴らしい子守歌を、再び消滅させてはなりません。日本の古き良きもの——唱歌・童謡と共に、歌い継ぐ責務を感じています。
 この歌を私に歌ってくれた母も、中野敏一さんと同じ年の生まれである。「復活秘話」には、「... ルーツ教えて」の投書への反響としての投書 3 通が簡単に紹介されている。その中の「ほかの歌と一緒に亡き母から聞いた。特に『珠よりきれいな白い石、星よりきれいな青い石』のところは、テンポが速くなっており、美しいメロディーが心の中に残っている」(堺市、大学教授)という 1 通は、私がルーツ探しの手掛かりになればと思って、母の生年、出生地(金沢市)、学んだ場所(石川女子師範附属小から同師範)などを併記して送った投書である。ルーツ探しに直接役には立たなかったが、中野敏一さんと母の生年が同じであることからすれば、1902 年前後生まれの児童が日本各地の小学校で習っていた可能性がありそうである。

 高鍋禮子さん、高鍋和男さん、そして、淡路文化会館の担当者・Y. Y. さんに深く感謝する次第である。


 [注]
  1. 先の記事中に当初引用した「五色浜の子守歌」の歌詞は、朝日新聞への投書「... どなたかルーツ教えて」にあったものを使用した。その中の「花よりきれいな」となっていたところは、今回貰った資料から、「珠よりきれいな」が正しいと分かり、修正した。
 [文 献]
  1. 高鍋和男「『五色浜の子守歌』復活秘話」、『ふるさとの歴史探訪』(鳥飼まちおこし協議会、2006)p. 168 所収。
 (2019 年 12 月 25 日最終修正)

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2019年12月17日火曜日

鳥羽への旅 (The Trip to Toba)

[The main text of this post is in Japanese only.]


宿の窓からスケッチした鳥羽港の眺め。
View of Toba Port sketched from the hotel window.

鳥羽への旅

 さる 12 月 12 日、妻と私は鳥羽への旅をした。先月の赤穂への旅と同様に、「かんぽの宿」の宿泊客向けに週 2 回、JR 大阪駅前から運行している直行バスを利用した。乗客は私たちの他に一組の夫婦(大阪・箕面在住の I さん)があっただけで、往復とも大型バスを 4 名でゆったりと占有した形となった。車窓には紅葉した山々の風景が続いた。

 宿の窓からは鳥羽港が眺められ、翌日の朝食後、スケッチをした(上掲の写真)。短時間で急いで描いたので細部には狂いもある。絵具「ウインザー&ニュートン コットマン・ハーフパン 12色スケッチャーズポケットボックス」、絵筆「ステッドラー ウォーターブラシ」、スケッチブック「hot press 細目、F0」を使っている。

 高台にある宿から、港の対岸の道へ下り、鳥羽中央公園沿いの道を進んで、鳥羽民の森公園まで行くウォーキングも楽しんだ(往復約 1 時間)。その公園には小さな動物園が付属していて、孔雀、猿、羊などが見られた。

 旅行中の写真 9 枚を Facebook にまとめて掲載した。下掲のイメージをクリックすると、拡大版を 1 枚ずつご覧になれる。


(2020 年 1 月 6 日修正)

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2019年12月4日水曜日

N・T 氏へのメール -9-:南部さん、真木君、修論など (Email Messages to N. T. -9-: Y. Nambu, K. Maki, Master Thesis, etc.)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の秋色、ハナミズキ。2019 年 12 月 2 日撮影。
Autumn color of my home, flowering dogwood; taken on December 2, 2019.

N・T 氏へのメール -9-:南部さん、真木君、修論など

2019 年 10 月 16 日
N・T さん

 貴殿は団塊の世代に属し、中学の 1 学年が 7 クラスだったとのことですが、その数字にはあまり驚きません。私の中学時代は戦後の新学制に移行したばかり(3 期生)で、中学校校舎を増設する必要があった時です。そこで、旧制中学などの既存の校舎が当てられた新制中学では、新設校が出来ればそちらへ移る予定の小学校区からの生徒たちを暫定的に受け入れたので、私が入った中学では、1 年生の時の 1 学年は 10 クラスありました。

 しかし、各クラス 70 人強というご経験には、ちょっと驚きます[注 1]。私にもそれに似た経験がないではありませんが、大連で引き揚げ直前のごく短期間という、いわば非常事態でのことです。大連港から引き揚げ船に乗るために、旧満州の各地から大連へ来て滞在した家族の子供たちの転入を、大連の各小学校が受け入れたためだったと思います。教室は机でいっぱいになり、教室内の場所によっては、机の上を渡り歩かなければ行き着けない状態だったことを記憶しています。

 外国の方が講演で、「かの偉大な南部の出身地」と言われた「出身地」は英語ではどういう言葉だったでしょうか。北陸という意味よりも、外国から見ると小さな島国に過ぎない日本全体を指したのではないでしょうか。なお、南部さんを金沢に結びつけ、さらに四高にも結びつけておられたということなので、南部さんは実際にはどの旧制高校出身だろうかと、再度『ウィキペディア』を見ると、「一高に補欠合格」とありました。補欠合格とはどういう事情だったのか、興味が湧きます。

 なお、素粒子論の亀淵迪さんが石川県生まれ(県内の詳細な場所は不明)で、四高で学ばれたことを最近知りました。彼が岩波の PR 誌『図書』7 月号に「私の『二都物語』—金沢とコペンハーゲン」という文を載せていたからです。どちらの市でも、それぞれ所属した機関(四高とニールス・ボーア研究所)の関係で、「市民から特別視され親切にされた」そうです。また、雪の結晶の研究で知られる中谷宇吉郎も石川県(現・加賀市)生まれで、四高で学んだ人です。

 昨日いただいたメールの真木君の思い出に関連することも失せた返信に書いたのですが、その話などは次回にします。

 T・T


2019 年 10 月 26 日
N・T さん

 休メールの件、承知しました[注 2]。

 先日来、美交会展が開催されていたためもあり、失せたメールの後半に書いていたことを再現してお知らせすることが遅れていました。その中から、貴殿の先のメールにあった修士論文発表会に関連して書いたことだけを、間延びしないうちに以下にしたため、お返事はご無用とさせて貰います。

 どんな質量でもよいという意味で、真木君が月の質量を持ち出したのは、まことに奇抜ですね。貴殿が修士論文の段階からすでに「人びとに知られる」結果を出しておられたことを知り、改めて敬服いたしました。私の修士論文は、原子核が陽子を捕獲した際に放出する γ 線の測定によって、原子核の励起状態を調べるという、核分光学に属するものでした。指導を受けながら一緒に実験をした助教授と博士課程在学中の先輩の二人それぞれの学位論文になった仕事を、私の修士論文に兼用させて貰った形で(私が主に手伝った、peeling-off という方法による γ 線スペクトルの分析部分に力点を置いて発表しましたが)、発表会では特に質問もなく、形式的に終わったと記憶しています。私は核分光学が、医者が個々の患者の病状の変化を記録しているようなものに思えて、好きになれませんでした。

 では、お仕事のスムーズな進行を祈りながら、またのメール交換を楽しみにしております

 T・T

 [注]
  1. これに対して、N・T 氏からの 10 月 26 日付けメール(今回の最終メール)に、「前回のメールでクラスの人数を 70 強と云ったのは多少オーバーだったかもしれません」とあった。
  2. 注 1 にあるのと同じ最終メールに、「新たな講義を仙台でもやることに」なったなどの理由で、「しばらく休筆ならぬ休メールでいきたいのです」とあった。
(今回のシリーズ、完)

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