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2004年10月27日水曜日

自然科学と「私見」

 ある SNS サイトの自然科学関係グループの投稿で、宇宙の将来について、一つの「私見」を述べているものがあった。それはそれで結構なことだが、私個人としては、自然科学の問題について、見通し的な私見を述べることは、ほとんどしない。私も同じ場所で「暗黒物質」について述べたが、それは私見ではなく、文献で知ったことの紹介である。

 私が自然科学の問題について「私見」を述べないのは、それらの問題に対する答えは専門的な理論や実験によって追及して行くべきもので、しろうとの考えは、単なる「想像」に過ぎず、「見解」と呼べるものにはなり得ない、と思うからである。また、自分の専門分野の問題についても、私自身が組立て得る客観的推定を述べることはするが、それは「私見」と呼ぶほど主観的なものではない。

 研究の過程では、インスピレーションを働かせて答えに迫るという、個人的・主観的操作も入るが、その答えが正しい、あるいは正しい可能性があるということは、あくまでも客観的に根拠づけられなければならない。したがって、自然科学と主観とは、外面的ないしは最終的には相いれない関係にある。

 自然科学の論文では、理論や実験データから導き出せる範囲の、他の専門家にも一応納得して貰える結論を述べることだけが有効であり、全くの想像を書いても通用しない。(「投稿誌の閲読審査を通過するような形で主張をしなければならない」という意味であり、「パラダイムの変革を求めるような新説」を述べることを排除するものではない。)自然科学者のハシクレをやっていると、このような書き方の習慣が、日常生活にもにじみ出てくる。

 これに反し、人文・社会科学方面では、しろうとの私見も、大いに幅をきかせる余地がありそうに思われる。

 後日の注記:この文は、消滅したブログサイトに掲載したものの再掲載で、若干の修正を加えてある。とくに、第 4 段落中のカッコ書きは、初期掲載に対して貰ったコメントを参考にした。(2011年1月19日)

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