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2004年12月20日月曜日

「文化」論を読む

 『「文化」という混乱―文化概念の再構築に向けて―』という論文 [1] を読んだ。著者・川原ゆかり(早稲田大学、文化人類学)は、現在「文化」の根本的概念が危機にさらされており、この論文は、文化人類学を中心に文化概念の成立・発展の系譜を批判的に概観し、文化理論再構築の可能性を探ることを目的とするものである、と概要で述べる。

 文化概念の発展の系譜をたどる中で、まず、Edward Tylor による文化の定義(1871)が紹介される。それは
 文化または文明とは、知識・信仰・芸術・道徳・法律・慣習・その他、人間が社会の一員として獲得した能力と習慣を含む複合的全体である。
というものである。著者は、この定義の問題点の一つとして、「文化」と「文明」が同義語として用いられていることを指摘する。

 そのあと、著者は、文化人類学において、「文化」と「文明」の区別はある程度決着をみている、と述べ、Bronislaw Malinowski による次の文化の定義(1944)を紹介する。
 文化は明らかに、道具・消費財・種々の社会集団の憲章・観念や技術・信念・慣習からなる統合的全体である。
「文明」はこの論文の主題には含まれていないが、「文化」と「文明」の区別を知る上で、読者としては、後者についての最近の定義も紹介してほしかったと思う。

 次いで、上記二つの定義にみられる「複合的全体」や「統合的全体」という概念が、ある地域に特定な総体という意味を持つようになり、Franz Boasの「歴史個別主義」が生まれたことが述べられる。そして、著者は、いま議論の的となっているのが、このように、文化を「統合的全体」ととらえる理論であることに言及する。続いて、文化の「解体」と、文化理論の再構築への動きが述べられる。

 著者・川原は、最も新しい動きとして、Akhil Gupta & James Ferguson(1992)やRenato Rosaldoによる「境界域の文化」の分析に焦点をあてるべきであるという主張を紹介し、20世紀後半の人類学者は、先行の研究者が作り出した「文化」の概念を解体する試みに一定の成果を収めたが、その再構築は、21世紀の研究者が模索すべき課題である、として論文を結ぶ。概要にあった「文化理論再構築の可能性を探る」という目的から、著者独自の新しい提言を期待したのだが、それは見られなかった。

 「境界域」といえば、科学において、研究分野が細分化された結果、分化した領域間の協力や、境界領域にある問題への取り組みの必要性が叫ばれ始めたのは、半世紀ほども以前であった。そして、現在なお、その重要性は続いている。いろいろな局面で、「境界」が大切な、いまである。私は文化の成分としての科学と芸術の境界域と、両者の相互作用について、これから注目して行きたいと思う。

 なお、インターネットで "definition of culture" の句で検索したところ、出てきたページの中に次のような、マニトバ大学芸術学部講義資料 [2] があった。
Although there is no standard definition of culture, most alternatives incorporate the Boasian postulates as in the case of Bates and Plog's offering, which we shall accept as a working version:
Culture: The system of shared beliefs, values, customs, behaviours, and artifacts that the members of society use to cope with their world and with one another, and that are transmitted from generation to generation through learning. This is a complex definition and points to four important characteristics stressed by cultural relativists: 1. symbolic composition, 2. systematic patterning, 3. learned transmission, 4. societal grounding.

  1. 川原ゆかり『日本の科学者』Vol. 40, p. 36 (2005).
  2. http://www.umanitoba.ca/faculties/arts/anthropology/courses/122/module1/culture.html.(後日の注:その後、リンク切れとなった。)

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

四方館 12/20/2004 16:52
 いささかか専門的になりすぎていてコメントが難しいですが‥‥。文化と文明が異なるものとしてみるか、同義のものとしてみるかは別として、今後、いや寧ろ遅きに失する感もあるかと思いますが、文化理論の解体と再構築に「境界域」が重視されなければならないというのは、そのとおりだと思います。現在の国際情勢の混乱と多様な現象は、ポスト・コロニアリズムの視点から見ていくべきだと思われます。これもまた果てもなくひろがりゆく「境界域」の問題のように思われますし、決して、民族紛争や宗教戦争などという言説に回収されてはならない、と。

Ted 12/20/2004 17:30
 「境界域」問題の具体的中身、ご指摘の通りと思います。ご高説ありがとうございました。

Y 12/21/2004 07:00
 いやいや私は文化人類学を出発点とする文化論は大好きだから、このブログに来るのを取っておいたんですよ♪ 11年前ですが大学で勉強してあります。
 「境界域」重視なんて、かえって私には、もうとっくにそうなのでは?という感があるんですが。Ted さんが科学でおっしゃっているように、文科系の学問で言えば、私の10年前の大学時代から、学際性、というのは大流行で、もちろんこれからの学問も、異なる学問間の「境界域」が出来なければならないんですが、
 私はむしろ、「複合的全体」や「統合的全体」と言われた文化概念の「解体」は、境界域だけでなく、この世の中文化の中心で起こっている、なんて考えたほうが、そういう「解体思考(?)」のほうが刺激的に感じますね。
 一体現代において、文化を統合的全体と言っていいものか。ネットの世界も果てしなく広がり、価値観の多様化なんて当たり前ですが、何かが中心から「解体」していると見ていいんじゃないか、まとまりない私たちになっていくんじゃないか…ということを、「個人主義的生活」のような語句より新しい語彙で捉えなければならない気がするのですが、Ted さんいかがでしょうか? ちょっと、即興で書いてますが。

Ted 12/21/2004 08:39
 文化人類学者が「文化概念」を解体してもしなくても、文化の中心自体が解体現象を起こしている。そこで、解体そのものを新しい言葉なり概念なりで捉えることが重要である――ということですね。現代の文化には、確かにそのように見える面があります。しかし、多様化が一つの大きな流れであれば、同一の流れの構成成分としての多様な各因子の中には共通性・連携性もあるはずで、解体現象と見ることが適切かどうか、という問題もあろうかと思います。
 と、偉そうに書きましたが、私は、ここに紹介した論文で文化論を初めて勉強したような、この方面の新参者です。よろしくご教示下さい。

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