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2005年1月23日日曜日

自己においての二律背反

高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952 年 1 月 23 日(水)曇り

 編集室が静かだ。それもそのはず、彼らが二人集まると、存在することすなわちしゃべることとなる KJ 君と SN 君が、KJ 君のいう「白い部屋」へ行くために休んだからだ。一昨年、ぼくは伯母に連れられて同じところへ行き、その結果、世界が繊細な輝きと歴然として明瞭な物体に満ちていることを認識したのだった。

 まったく同一の自己は、その一瞬以外には見出せない。他方、自己の中には永続的無変化の要素が流れている。この相反する二つの事実が自己を形成している。——まだ言い尽くせない。

(Sam)

1952 年 1 月 24 日(木)晴れ

 昼休み前、委員会室でタイプを打っていると、「金大教育学部のものですが、生徒会役員の方はおいでになりませんか」といって、大学生が入って来た。「あなたは何か役員でも …」と聞くので、「執行委員です」と答える。「私も本校の第 2 期の卒業生なので …」といいながら、風呂敷包みをほどき、かくかくしかじか、といって数枚のポスターを見せる。講演会の演題が謄写版の赤で刷られている。「新しい論理」というのと、もう一つが並んでいる。講師は K.Y. とか。本来なら金大の講師になられるはずだったのだが、ある事情でうんぬん、と丁寧な説明がある。「近ごろはどこも極右の傾向が強くなってね。それに対抗する意味でも、といっても左のほうでもないんだ。そらね、ユネスコなんかも協力してくれてるんだ。何しろこんな会を催すには、相当な金がいるだろう。だから、たびたび開くわけにはいかないんだ。で、こんな機会に一人でも多くの方がたに聞いていただこうと、高校にも来たんだ」など、巧みに説得しようとする。「指導課の許可がいる」というと、そそくさと出ていった。

 昼食後、第 1 体育館で篭球をした。20 人ほどだったので、ごたごたに入り乱れて、なかなか球を取れなかった。


[引用時の注]

 私の日記に書いてある KJ 君の休暇の理由は、眼鏡をかけ始める検査のために、SN 君に付き添われて大学病院の眼科へ行ったということである。私は中学 3 年の春からすでに眼鏡のご厄介になっていた。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 01/24/2005 11:51
 やはり、タイトルに惹かれて来た甲斐がありました。Ted さん、高校生時にすでに「自己」について重要なことを見出されていましたね。これは私の専門的テーマ?でもありました。つまり、永続無変化の自己が、底辺にたえず流れていて、普段は特に意識することもないわけですが、それと、「その時一瞬一瞬」の、二度と同じ形・内容はもちえない自己とが、関係性を持っている、その「関係性の全体」こそが本来の「自己」なんですね。
 だから、その時一瞬一瞬の自己も、永続不変化の自己と無関係に発生するわけではないのです。自己とは、それらの関係性の全体、なのだから。いわゆる、「自己が自己にかかわっている、そのことが自己である」といったような西田幾多郎的な言い方になりますね。これが哲学的な解釈のひとつですが、物理学だとどうなるんでしょうね?

Ted 01/24/2005 15:57
 「自己」は、「意識」にかかわる問題ですが、残念ながら物理学は「意識」について発言できるにはほど遠い状態です。
 24 日付けで二つ掲載した私のブログの一つ「万物の理論」の中で、同理論に対するオックスフォード大教授ロジャー・ペンローズの展望を簡単に紹介していますが、彼は、物理学的な「万物の理論」は少なくとも意識という現象についての説明の種となるものを含んでいなければならない、とも述べています。しかし、宇宙創成直後の現象や各種物理定数の値などを説明できる物理理論がまだ模索されている状況ですから、「自己」の解釈は、まだまだ、哲学や生理学に頼らなければならないと思います。

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