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2005年2月27日日曜日

青大将君がいっそう青く

高校時代の交換日記から。

1952 年 3 月 7 日(金)曇り

(Sam)

 ズックを脇に、弁当を右手にぶら下げて、下駄をはいて学校へでかける。明日の送別会の準備をしなければならないのである。まず、各ホームおよび水泳部の部室から教壇を運んでステージを組む。各学校から借り集めて来た暗幕を張り、天井へ上がって舞台の幕を張る。これだけのことが午前中にできた。これらの準備をしたのは、執行委員と馬術、陸上競技、山岳、篭球各部の部員および各ホームから一人ずつの準備委員である。彼らがすべて出席扱いにされることはいうまでもない。
 ぼくは二限だけ授業に出てきた。英語は一日でも欠かせば困ると思ったから。
 荷車を引いて、スポーツ会館へ映写機を取りに行く。これは大した労働だった。済んで家へ帰ったのは八時。詳しいことを書いているのはおっくうだ。


(Ted)

 虹彩と書くべきところへ網膜と書き、尿のうを中胚葉からとし、エビの眼の再生に関する問題で二つとも間違った。力の使い方を知らないものに等しいような有り様だ。どうして、こう抜かっているのだろう。
 ホームで弁当を食べているとき、廊下が騒がしくなり、YMD 君が 3 日前の夕刊にあった地震の名前を持ちだしたのだったが、放課後、編集室で校正をしていると、ほんとうに地震が来た! あだ名が青大将の FJ 君がいっそう青くなって、庭球場へ飛び出した。TK 君、HN 君、それにぼくも続いた。(KJ 君らは帰宅して、いなかった。)講堂で明日の準備をしていたものたちも、外へ出てきて、木の下に黒くかたまっていた。近くにある KS 君の家の犬がほえ続け、それが周囲にこだました。この騒ぎに、ぼくは TK 君が誰かに借りたのだという赤鉛筆をどこかへやってしまった。1 回の揺れが終ってから、火鉢に火が残っていたことに気づいたわれわれでもあった。

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