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2005年8月11日木曜日

『こころ』再読

 漱石の『こころ』を再読した。最初に読んだのは高校 2 年のときだったから、実に 53 年ぶりである。再読のきっかけは、次のようなことだった。ブログに連載中の高校時代の交換日記に、私が
 もしも、『夏空に輝く星』のテーマが君の思ったようなものだったら、…(略)…稔や敏夫はどのような考察をしただろうか。彼らの生みの親は、その解答にちょっと迷う。それは、身をもってする芸術であるとするか、『こころ』(まだ、読み終わっていない)の中で「先生」がいった言葉は真実であるとするか。

と書いたところがあった [1]。それに対して、ブログの友人 Y さんから

 『こころ』の先生の台詞とはどんなものを指しているでしょうか。「恋とは罪悪でございますよ」ではないですよね…。
というコメントを貰った。そこで、私は「先生」の台詞を確認する必要にせまられたという次第である。

 その台詞は、すぐに分かった。第十二章の終りで「先生」は「私」に、こういっている。「然し……然し君、恋は罪悪ですよ。解ってゐますか。」まさに、Y さんの想像通りだった。

 『こころ』は 56 の章からなっているので、第十二章は、まだ、ごく始めの部分である。しかし、私は必要な答を見出して、そこで止めることをしなかった。途中で、竹西寛子の短編集 [2] を読んだりもしたが、きょう、『こころ』を読み終えた。読み終えて、巻末の小宮豊隆による解説を見ると、この作品は 1914(大正 3)年 4 月 20 日から 8 月 11 日まで、110 回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された、とある。奇しくも、91 年前のきょう、連載が終ったのである。

 漱石がこれを書いたのは 47 歳のときだそうだ。改めて、その構成と表現の巧みさに感じ入る。欲をいえば、「先生」とその親友 K が競って好きになった「お嬢さん」の描写がいくらか弱い。同じ人物の、「先生」の夫人としての「奥さん」時代はよく描かれているのだが、「お嬢さん」と「奥さん」の間にはギャップが感じられる。そして、「お嬢さん」の母である「奥さん」と「先生」の夫人の「奥さん」が、母と娘であるにしても、似すぎているように思われる。

 なお、この作品は、2003 年の岩波書店創業90年記念「読者が選んだ〈私の好きな岩波文庫 100〉」で、圧倒的な投票を得て第 1 位だったという。『こころ』が誕生から約 90 年を経たいま、なお好まれるのは、その中に見られる愛の形式によってではなく、「先生」の目を通した形で示される K における自己の信念と感情との葛藤や、「先生」における良心の呵責の、鋭い描写によってであろう。

 ちなみに、私は『こころ』よりも、上記の読者投票で 15 位だった『三四郎』(漱石 41 歳の作品)の方を好む。その理由は、よりモダンで明るいというところにあるだろう。上記の投票で、『三四郎』は漱石の作品としては、『こころ』『坊っちゃん』『吾輩は猫である』に次いで、4 位だった。(『こころ』は [3] などで読めるが、私が今回読んだのは [4] である。)

文 献
  1. ハイビスカス / 漆黒の瞳…、"Ted's Coffeehouse" (2005 年 6 月 26 日).
  2. 竹西寛子編、蘭:竹西寛子自選短編集 (集英社文庫、2005).
  3. 夏目漱石、こころ (岩波文庫、1989).
  4. 夏目漱石、心、漱石全集(新書サイズ版)第 12 巻 (岩波書店、1956).

[最初の掲載サイトでのコメント欄からの転記]

Y 08/12/2005 01:14
 しばらくブログを休んでいましたが、『こころ』が記事タイトルにあがっていましたので楽しみに来ました。漱石作品は、私の今の状況でも本当なら日々、読みたいです。
 『こころ』の隠された焦点は、「私」が自発的に、同性の年上の人を「先生」と呼び続けて、その「先生」が倫理的な死を遂げたことの愛情関係ではないかと思います。というのは、私にとっての「先生」の論文でそのような内容のものがあったからですが。けれども同時に、「私」が直接には会いえなかった「K」に限って、その人格的な強靭さは鮮烈で、「先生」が「私」に語るべき唯一の事柄として「K」を「先生」の人生で生かしてきた…、といった構成が巧みだと思います。
 『三四郎』でも『こころ』でも、女性像はそれほど複雑ではないですね。ですが作家であっても、彼は男性か女性かどちらかである、という制約を外れないところが、かえって面白いかもしれません。すべて均斉の取れた芸術は、かえって貧弱になってしまいますからね。

Ted 08/12/2005 08:00
 Y さんのコメントを予めお断りすることなく引用して、失礼しました。ブログ執筆をお休みだったので、メールをお送りすることを遠慮した次第です。また、「8 月 11 日読了」に意味があったので、掲載を急ぎました。
 「私」が「先生」を尊敬し慕う、そして、「先生」が隠された過去を遺書の形で「私」にのみ打ち明ける、――これは確かに、同性の愛情関係という、一つのテーマをなしていますね。
 『三四郎』を高校生時代に読んだときは、美祢子に惹かれたものですが、数年前に再読して、彼女の発している言葉が意外に少ないのに驚きました。

ぱんだ 08/18/2005 15:55
 面白いですね。今年は「吾輩は猫である」発刊 100 年目だそうです。夏目漱石には心に残る名言が多いので好きです。私のブログでも記事にしたので、よかったらお越しください。コメントなんぞいただけると倍うれしいです♪

Ted 08/18/2005 16:25
 ぱんださん、コメント、ありがとうございます。「吾輩は猫」君が 100 歳になりましたか。ぱんださんの記事も読みに行かせていただきます。

後日の追記:最初の掲載サイトの記事が、ぱんださんからのトラックバックを受け、同サイトのトラックバック掲載欄にぱんださんの記事のタイトルと文頭が自動引用されていた。それをここに手入力しておく。
 呑気(のんき)と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする(夏目漱石) 親鸞会講師のブログ
 夏目漱石のデビュー作「吾輩は猫である」、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」ではじまるユニークなこの小説には鋭いメッセージがたくさん散りばめられています。… (2005/08/18 16:14)
追記への注:ぱんださんのブログは、著者名を 2010 年 5 月 2 日付けで「親鸞会講師の筬島」に変更されたようであり、タイトルの後の「親鸞会講師のブログ」という記述は、現行のもので置き換えた。

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