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2007年7月23日月曜日

アテネ会議湯川講演

 先に日本物理学会誌7月号掲載の湯川関連記事の一つを紹介した [1] のに続き、もう一つの関連記事「アテネ会議湯川講演と科学の理想」[2] を紹介する。

 著者はまず、朝永が随筆「鏡の中の世界」に記した「過剰ならざる哲学」や、パウリが真に革新的な理論に必要としたクレージネス(狂気、そしてまた、群れを抜く素晴らしさをも意味する)は、湯川にとってはどんなものだったか、と問いかける。

 次いで、湯川が1964年6月5日に開かれたギリシャ王立協会主催アテネ会議で行った講演「科学的思索における直感と抽象」[3] での問題提起、「なぜ科学は古代ギリシャだけから生まれたか」と、その答えとして抽象と直観の釣り合いの重要性を述べた部分を引用し、そこに湯川の「群れを抜く素晴らしさ」についての考えも出ていることを示す。

 さらに、直観と抽象についての湯川の考えを裏付けるような C・N・ヤンやバートランド・ラッセルの言葉を引用している。また、物理学者が示した「過剰ならざる哲学」の例として、ファインマン、サラム、T・D・リーらの著作の末尾の言葉を挙げている。最後に、湯川の問いである「科学はなぜ東洋から生まれなかったか」に対するコロンビア大・ドゥブレの指摘や、関連したことがらについてのサラムの見解を述べている。

 ――著者自身の問題提起に続いて、湯川の問題提起とそれへの答えが紹介され、その問題と答えが、後の章で、著者自身が出したものと並列の問題として扱われている、という複雑な構造の一文である。また、引用の多いこともあって、このエッセイには、一読しただけではその趣旨をとらえがたい面がある。しかし、関連の記述をよく収集していることは、称賛に値すると思われる。私にとっては、湯川のアテネ会議講演を通読してみたいという気持ちを起こさせて貰った点で、ありがたい文であった。――

  1. 日下、オッペンハイマー、湯川の関係, Ted's Coffeehouse 2 (2007年7月20日).
  2. 法橋登:日本物理学会誌 Vol. 62 p. 555 (2007).
  3. もとは英文で、河辺六男訳が『湯川秀樹自選集4』p. 244 に収められている。法橋氏は『科学』誌掲載の「川辺」訳を参考文献に引いているが「河辺」の誤りだろう。

2007年7月22日日曜日

湯川の想いを引き継いで

 今年の原水爆禁止世界大会・科学者集会は「北東アジアに非核兵器地帯を―核兵器廃絶への湯川の想いを引き継いで―」と題して、8月2日(木)10時から16時30分まで、ひと・まち交流館京都(京都市下京区河原町通り六条東側)で開催される。

 京都は湯川博士のゆかりの地であり、また今年は博士の生誕100年に当たるとして、この集会では、博士の想いを引き継ぎ、核兵器廃絶を実現するための具体的道筋の一つとして、北東アジアに非核兵器地帯を設けることを提案し、その実効性ならびに実現可能性について議論したい、としている。

 愛知大学教授、日本物理学会会長の坂東昌子さんによる「湯川博士の想い」と題する講演もある。集会の詳細について興味のある方は、「原水爆禁止2007年世界大会・科学者集会 サーキュラー」[1] を参照されたい。

 没後20数年を経て、このように、その想いを引き継ぐ動きがあることは、湯川博士の核兵器廃絶にかけた熱意の大きさと、方向の正しさを裏付けるものであろう。

  1. 北東アジアに非核兵器地帯を―核兵器廃絶への湯川の想いを引き継いで―, 原水爆禁止2007年世界大会・科学者集会サーキュラー (2007年6月).

2007年7月20日金曜日

日下、オッペンハイマー、湯川の関係

 日本物理学会誌2007年7月号に湯川博士関連記事が2編掲載されていた。ここではその一編、「日下周一(1915-1947)―もう一人の中間子研究者―」[1] を簡単に紹介する。著者の加藤賢一氏は大阪市立科学館勤務で、この文は同館の斎藤吉彦氏(「湯川秀樹を研究する市民の会」顧問)との共同調査に基づいて書かれ、「歴史の小径」欄に投稿されたものである。

 日下は大阪生まれで、4歳で両親や姉とカナダに渡り、MITで修士課程を終え、カリフォルニア大でオッペンハイマーの指導を受け、博士号を得た(1942)。1939年から1945年の間に、中間子関連のものを中心として10編ほどの論文を発表し、パウリ、セグレ、ウィグナー、ウー、アインシュタイン、湯川らと交流もしたが、1947年夏、遠泳中に溺死し、彗星のように学問の舞台から消えた。31歳だった。その頃、プリンストン高等研究所長に就任したオッペンハイマーは、翌年に湯川を、翌々年に朝永をプリンストンに招いたのである。

 加藤氏は

オッペンハイマーは愛弟子の日下を通し、日本にある種の親しみを感じ、それゆえに[原爆の開発と日本への投下に関して]悔恨の情にとらわれることがあったのではなかろうか。そうした気持ちが湯川や朝永への支援となり、ノーベル賞の推薦へと結びついたと想像される。

と記している([]内は引用者の注)。プリンストン大学には日下奨学金が設けられ、現在でも物理の優秀な学生の表彰を行っているそうである。日下の年譜と業績の詳しい紹介については著者と斎藤氏のウエブページ [2, 3] を参照されたい、とのことである。

  1. 加藤賢一, 日本物理学会誌 Vol. 62, p. 555 (2007).
  2. http://www.sci-museum.jp/~kato
  3. http://www.sci-museum.jp/~saito