2007年7月20日金曜日

日下、オッペンハイマー、湯川の関係

 日本物理学会誌2007年7月号に湯川博士関連記事が2編掲載されていた。ここではその一編、「日下周一(1915-1947)―もう一人の中間子研究者―」[1] を簡単に紹介する。著者の加藤賢一氏は大阪市立科学館勤務で、この文は同館の斎藤吉彦氏(「湯川秀樹を研究する市民の会」顧問)との共同調査に基づいて書かれ、「歴史の小径」欄に投稿されたものである。

 日下は大阪生まれで、4歳で両親や姉とカナダに渡り、MITで修士課程を終え、カリフォルニア大でオッペンハイマーの指導を受け、博士号を得た(1942)。1939年から1945年の間に、中間子関連のものを中心として10編ほどの論文を発表し、パウリ、セグレ、ウィグナー、ウー、アインシュタイン、湯川らと交流もしたが、1947年夏、遠泳中に溺死し、彗星のように学問の舞台から消えた。31歳だった。その頃、プリンストン高等研究所長に就任したオッペンハイマーは、翌年に湯川を、翌々年に朝永をプリンストンに招いたのである。

 加藤氏は

オッペンハイマーは愛弟子の日下を通し、日本にある種の親しみを感じ、それゆえに[原爆の開発と日本への投下に関して]悔恨の情にとらわれることがあったのではなかろうか。そうした気持ちが湯川や朝永への支援となり、ノーベル賞の推薦へと結びついたと想像される。

と記している([]内は引用者の注)。プリンストン大学には日下奨学金が設けられ、現在でも物理の優秀な学生の表彰を行っているそうである。日下の年譜と業績の詳しい紹介については著者と斎藤氏のウエブページ [2, 3] を参照されたい、とのことである。

  1. 加藤賢一, 日本物理学会誌 Vol. 62, p. 555 (2007).
  2. http://www.sci-museum.jp/~kato
  3. http://www.sci-museum.jp/~saito

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