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2008年4月26日土曜日

後世に残ることをした人たちは…

 小説家・文芸評論家の竹西寛子は最近の著書の中で、文学上、後世に残る大きなことをした人の多くに共通して見られる仕事のスタイルについて触れている [1]。まず、それ以前の文学への「反抗」があるが、それは単なる反抗でなく、それまでの文化遺産を学んだ上で、新しい表現を生んでいる、という。彼女が紫式部、芭蕉、蕪村などを研究して得た教訓である。

 これは、科学上の大きな仕事をした人たちの場合にも、そっくり当てはまるであろう。反抗というと語弊があるかもしれないが、過去の成果の一部に疑問を抱き、しかも、それ以外の過去の遺産からは大いに学んで、新しいものを生み出すという過程は、たとえば、湯川博士の中間子論の構築においても、はっきりと見られる。

 湯川の取り組みは、彼が大学を出て間もない1932年に抱いた決心に始まった。その決心は、量子力学の創設等の業績に対してこの年にノーベル賞を受賞することになる大物理学者・ハイゼンベルクが先行して発表した、陽子・中性子の結びつきの理論の難点(電子を交換するというハイゼンベルクの考えでは、電子のスピンと統計という性質から無理があるという疑問)を解決して、核力の本質を究めようというものであった。

 そして湯川は、電磁場の理論からの類推で得た方程式によって、核力のポテンシャルを求め、また、その方程式中の微分演算子に量子力学の関係式を代入した結果をエネルギーと運動量についての相対性理論の関係式と比較することから、未知の粒子・中間子の質量を推定した。ここには、電磁場の理論、量子力学、相対性理論という過去の大きな遺産の巧みで徹底した活用がある。

 竹西はまた、「表現の世界における新しさは、究極的には、宇宙との関係を新しくして行くことではないか」「ものの見方を変えないことには、新しさはないのではないか」とも述べている [2]。これらの表現も、説明するまでもなく、科学の世界における新しい発見と相通じるものがあるといえよう。

  1. 竹西寛子, 言葉を恃む, p. 34, 旅の詩人、松尾芭蕉 (岩波, 2008).
  2. 同上, p. 57, 定型の器.

2008年4月17日木曜日

湯川博士ノーベル賞受賞の一つの意義

 先に法橋登氏から『大学の物理教育』3月号に掲載された随筆「アインシュタインの三通の手紙:ルーズベルト、ニコライ、ラッセル」のコピーをメールで貰い、その中の湯川関連の記述について氏に質問したことを記した [1]。氏とのそのやり取りの間に、氏の別の随筆 [2] のコピーを貰い、その最終パラグラフも湯川評になっていることを告げられた。その箇所は次の通り。

 橋本は和訳書刊行の趣旨をこう書いている。「かつて和漢洋の三順序で示された日本の学問がいまや人文、社会、自然の科学三分野併挙から超科学の実践世界を目指す時代になった。シュレディンガー博士に遅れること一六年、わが国の湯川博士が同じ賞を受けたことの意義は甚大である。」

 ここで、和訳書とはシュレディンガーの自伝『わが世界観』のことで、橋本とはその和訳を監修したインド哲学者、橋本芳契のことである。法橋氏は和訳書として [3] を引用しているが、アマゾンで調べると、初刊の単行本は [4] のようである。

 橋本の文は、分かりやすく言い換えれば、次のようになるであろう。

 「江戸から明治の時代にかけての日本の学問は、和学を第一とし、ついで漢学、洋学の順で重んじるという傾向にあった。しかし、湯川博士がシュレディンガーより16年遅れてではあるが、ノーベル賞を受賞したことは、日本の学問が欧米並みになった証しである。その頃になって、同じように三つの学問といっても、それは人文、社会、自然の各科学を指し、これらを同列に並べて尊重することが確立したのである。さらに、湯川博士の受賞は、これらの三つの学問が境界を超えて相互作用し、実践的な効果を生み出す時代の幕開けに寄与したという大きな意義を持っている。」

 湯川博士自身は、核兵器廃絶の必要性を論じたり、創造論についての著述をするなど、自然科学の枠を超えての活動を盛んに行った。しかしながら、三つの学問が境界を超えて相互作用する「超科学」の実現は、現状ではまだまだ不十分であるように思われる。

  1. 素領域と純粋経験, Ted's Coffeehouse 2 (2008年4月2日).
  2. 法橋登, シュレディンガーの自伝とアインシュタインの接点, 日本物理学会誌 Vol. 60, p. 741 (2005).
  3. エルヴィン・シュレーディンガー=著, 中村量空ほか=訳, わが世界観 (ちくま学芸文庫, 2002).
  4. エルヴィン・シュレーディンガー=著, 中村量空ほか=訳, わが世界観(自伝) (共立出版, 1987).

2008年4月3日木曜日

核兵器廃絶の遺伝子

 先に日経新聞の月曜日夕刊に連載されていた「湯川秀樹の遺伝子」という記事を紹介した [1]。さる3月31日づけの第10回 [2] をもって、その連載は終了した。最終回の記事は、核兵器廃絶を訴える『Over-killed(過剰殺りく)』『実験の名前たち』などの映像作品を発表している神奈川県・箱根ラリック美術館の学芸主任、橋本 公 氏(48)の人物と活動を詳しく紹介している。

 シリーズの題名は、この最終回への伏線だったのである。湯川博士の先輩教授、荒勝博士についての記述が最初に長く続いたので、京大の学問的遺伝子という意味ならば、前後が逆という感じを抱いたが、これで納得できる。

 いま核兵器保有国の間では、核拡散への対処を口実に、核兵器先制使用を容認する発言が続いている。これでは、地球の崩壊へまっしぐら、ということになる。湯川博士の核兵器廃絶の遺伝子は、ぜひ世界中に広まって欲しいものである。

  1. 分からなかった, Ted's Coffeehouse 2 (2008年3月20日).
  2. 湯川秀樹の遺伝子(10)反核訴える新感覚映像, 日経ネット関西版 (2008年3月31日).

2008年4月2日水曜日

素領域と純粋経験

 日本物理学会誌などに湯川博士関連の随筆等をよく投稿している法橋登氏が、先日、アインシュタイン関連の新しい随筆をメール添付で送って下さった [1]。その最終の第4章「アインシュタインの京都講演」において、湯川博士にも触れている。アインシュタインは京都見物の一日をさいて、京都大学で原稿なしの講演「私はいかにして相対論を創ったか」をしたが、このタイトルは哲学者西田幾多郎の注文だったという。そして法橋氏は、相対論の先駆になったマッハが創造的発想の源泉と考えた「純粋経験」を西田が自身の哲学の出発点にしたことを述べ、「純粋経験は、既存観念や文明から解放された自然の直観的・全体的把握を指す。ファラデーの電磁力線も、少年時代のアインシュタインが直観した光の相対運動も、湯川の素領域も、物理学以前であり以後でもある純粋経験の産物だった」と指摘している。

 素領域については、湯川博士自身が「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」という李白の言葉が自分の考えを顕在化させるひとつの動機となったと述べているが、これは純粋経験のうちに入るといってよいのだろうか」という趣旨の質問を、私は法橋氏にしてみた。氏からは、以下のような説明を貰った。

 湯川の場合「物理以前の純粋経験=縄文文化の生命エネルギー」である。世界最古の哲学である古代インドベーダ哲学の研究者でもあるシュレーデインガーは、自伝『わが世界観』[2] において、山中でのベーダ的「純粋経験」の内容を詳しく記録している。…中略…。特殊相対論を正準形式の力学理論として完成したのはプランクで、幾何学化したのがミンコフスキーである。湯川はミンコフスキー空間の量子化を考えた。ベーダ哲学の「念じ続けたことは実現する」という考えをマッハは「純粋経験の持続」と表現したが、ベルグソンは、シオニズム(念)からのイスラエル建国(実現)はその実例だとしている。素領域もひとつの「念」だといえる。念じ続けるだけで論文化の機会はあってもなくてもてもよく、他力(縁=出会い)本願である。西田家も湯川家も「一念三千世界」の浄土宗の人で、そのように考えていたと思う——と。

 この説明はいささか分かりにくいが、私は、「物理学以前」すなわち物理学以外のところに、ひとつの起源のある物理学という意味では、素領域理論は純粋経験の産物ということになるのだろうと、自分なりに納得している。シュレーデインガーがベーダ哲学の研究者でもあったということは、初めて知った。『わが世界観』の英語版を持っていながら、少し読んだところで投げ出してあるのを読んでみたいとも思ったことである(注:英語版にはドイツ語原書 [4] と日本語版に含まれている「自伝」の部分は入っていない)。

  1. 法橋登, アインシュタインの三通の手紙:ルーズベルト、ニコライ、ラッセル, 『大学の物理教育』 Vol. 14, No. 1 (2008).
  2. エルヴィン・シュレーディンガー=著, 中村量空ほか=訳, わが世界観 (ちくま学芸文庫, 2002).
  3. E. Schrödinger, My View of the World (Ox Bow, Woodbridge, 1983; originally published by Cambridge University Press in 1964).
  4. E. Schrödinger, Mein Leben, meine Weltansicht (Deutscher Taschenbuch, Woodbridge, 2006).