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2014年9月24日水曜日

『加藤義明・加藤隆親子展』 (Yoshiaki Kato and Takashi Kato, Father-Son Exhibition)

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木々に囲まれた愛らしいギャラリー・キットハウス。
Lovely gallery, Kit House, surrounded by trees.

 大阪市住吉区長居東の小さな画廊、ギャラリー・キットハウスで開かれている『加藤義明・加藤隆親子展』を昨日見に行った(開催はきょうまで)。加藤義明さんは「東の滝平、西の加藤」と呼ばれた関西の草分け的な切り絵画家である。私が 40〜50 代初め頃に事務局を手伝っていた「堺の文化を育てる市民の会(略称・堺文化会)」の世話人の一人だった関係で知り合っていたが、4 年前にいまの私と同じ年齢で亡くなった。

 息子の隆さんは、生まれつき身体に麻痺があり、障害者支援施設で、足を使ってパソコン画や油絵を描いて、プロの画家を目指している。義明さんの繊細かつ力強い切り絵はよく知っていたところだが、隆さんの作品からも、独特の境地を開きつつあるという感じを受けた。親子展を世話したのは、私も出品して来た堺文化会主催の美交会展(今年は会期が大連嶺前小同窓会と重なるため出品を休む)に協力している一人で、義明さんのお弟子さんの前田尋(ひろし)さんである。

 なお、この展覧会については、2014 年 6 月 18 日付け朝日紙大阪版夕刊に、「父よ、足で描く思い:亡き切り絵巨匠と親子展——あこがれ・反発…生きる力、筆に——」と題して、隆さんの挑戦と思いを中心に紹介されていた。

2014年9月22日月曜日

「ハルカス 300」からの眺望 (Views from "Harukasu 300")

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「ハルカス 300」から見た大阪城。ズームを一杯に効かせて撮影。
Osaka Castle as viewed from "Harukasu 300," the top floor of Japan's heighest building "Abeno Harukasu." The photo was taken by full zooming-in of the camera.


「ハルカス 300」から見た大阪の一部。中央遠方に大阪城が写っているのだが、このサイズでは分らない。
Part of Osaka seen from "Harukasu 300." Osaka Castle is captured at the distant middle but we cannot identify it in the image of this size.


「ハルカス 300」から見た天王寺公園。
Ten'noji Park as viewed from "Harukasu 300".

 小学校同期生の S・Y さんが毎年出品している新象作家協会の大阪展が、京都展に続いて、 9 月 17 日から 天王寺美術館で開催された。彼女は京都展には毎年顔を出しているが、来年からは、京都展が廃止になる(京都在住の会員がいなくなるため)ということで、大阪の会場へ行くのに慣れておきたいと、その初日に顔を出すと聞いた。それで、私も 17 日の開場間もない時間に見に行った。

 新象作家協会の人たちの作品は、みな抽象的な絵や造形である。今回の展示には、何人かの人たちの製作の準備過程を表示したものもあり、抽象画といっても周到な準備を重ねて緻密に作られているものが多いことに驚いた。S・Y さんの絵は、例年とは少し趣きを異にしていたが、やはりひと目で彼女のものと分る作風だった。感想を聞かれたが、とっさに考えをまとめることが難しく、「何か新しいものが生まれ出るような印象ですね」とだけ答えた。

 S・Y さんは、せっかくだから日本一高いビル、「あべのハルカス」の天井回廊(「ハルカス 300」、高さ 300 m)へ行ってみたいというので、付き合った。大阪城は近くに黒く聳えるクリスタルタワーというのを目印に探すと、その左下に見える、と館員に教えて貰った。その方面を見たところ、ビルの谷間にほんの小さく、それらしいものが見えるだけだった。カメラのズームを一杯に効かせて撮ると、確かに城の形をしていた(1 枚目の写真)。

 ズームを全く効かせていない 2 枚目の写真でも、パソコン上で実サイズで見ると、大阪城がちゃんと写っている。3 枚目の写真は、天王寺公園一画を撮ったもので、新象展を見て来たばかりの天王寺美術館とその後ろに広がる日本庭園・慶沢園(来年 3 月末まで、改修工事のため閉園中)が中央に見える。

 「ハルカス 300」からの眺めの北東辺りに、大きな水面のようなものが見えた。しかし、その辺りに、それほど大きな川や湖はないはずである。「ハルカス 300」のリーフレットにある広角写真にもそんなものはない。何が見えていたのか不思議だ。その写真を撮って来なかったのが悔やまれる。

2014年9月18日木曜日

2014年7、8月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of July and August 2014)

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ヤブラン。2014 年 9 月 5 日、わが家の庭で撮影。
Big blue lilyturf; taken in my yard on September 5, 2014.

2014年月分7、8月分記事へのエム・ワイ君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" への感想を 2014 年 9 月 17 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 少年時代からの親友への手紙とメール

 T・K 君と J・M 君との手紙とメールのやりとりの様子が掲載されていました(J・M 君とはその後もメールの交換が頻繁に行われ、以後のブログに掲載されています)。以下にその内容を引用しながら、感想を述べます。

(1) T・K 君へ:パスカルの三角形の拡張のことなど
 前略
早速手書きのお返事をいただき、嬉しく拝読しました。毎日新聞の記事について、「コメントできる立場ではありません」とありますが、鏡像問題は「立場」などに関係なく、迷答・珍答でも聞かせて貰えばよい問題です。
から始まり、
 貴君が数学などについて他にも書かれたものがありましたら、また読ませて下さい。私のこの手紙には、昨年『日本物理学会誌』の「会員の声」欄に投稿して、10 月号に掲載された文の原稿を同封します。ご笑覧の上、「コメント出来る立場ではありません」などといわないで、率直なご感想を聞かせて貰えれば幸いです。長い手紙になり、失礼しました。
で終わっています。筆者の結婚披露宴での祝辞を「再登場」して貰ったこと、同封してあった「数学を楽しむ:生徒とともに AHA 体験を」という話に関して、その文章表現についての指摘、ならびに高校・中学時代の秀才らしい数学的体験に関する思い出が語られ、「他に書かれたものがありましたら、また読ませて下さい」と、自らは最近の会誌への投稿原稿を同封し、「率直なご感想を」と、とらわれない柔軟な発想による意見交換を促しています。

「鏡像問題は『立場』などに関係なく、迷答・珍答でも聞かせて貰えばよい」との筆者の言葉は、本ブログ(8月11日付け「鏡の謎について」に、「プラトン以来、若い日の朝永やファインマンの考察を経てなお,近年まで正解が出なかったものであるが,哲学と呼ぶほどの問題ではない」と書かれていることから考えると、当を得たものと思います。
後日、図書館の倉庫に眠っていた R. Fricke の "Lehrbuch der Algebra" 中に多項係数の関係式を見出したという話がつけ加えられているのが、高級感のある締めくくりになっていると思います。
と、T・K 君の「数学を楽しむ」について筆者は評しています。この本には、パスカルの三角形の拡張に関連する式についての説明があるようです。筆者は三項展開へのパスカルの三角形の拡張は、いつ頃から知られていたのだろうかと思い、インターネット検索をしてみます。そして、
貴君の文中の図 1 に相当するものは、「パスカルのピラミッド」または「パスカルの四面体」の名で呼ばれていることを知りました。また、加藤一郎という人のウェブサイト[注:ここには、パスカルのピラミッドが分りやすく説明されています]に、彼が高校生の頃、パスカルの三角形の拡張を考えたという話が書いてあるのを見つけました。[…]同じことを高校時代に考えた人が貴君の生徒たち以外にもいたようです。
とT・K 君に伝えています[注:T・K 君の「数学を楽しむ」には、彼が教えていた高校の生徒たちと一緒にパスカルの三角形の拡張を考えたとが書かれていたのです]。このように筆者は丹念に調べ、T・K 君の業績を理解し、彼が知らなかったことを教えています。
 ところで、[高 1 のとき]ヨウコ先生が休まれた日があり、K 先生が代理で来て、私たち一同に何か質問がないかと尋ねられました。すると、T 君が、先生を困らせようと思ってでしょうか、(a+b) の 10 乗を展開するとどうなりますかと質問しました。K 先生はもちろんパスカルの三角形をご存じで、記号 C を使った二項係数の性質までも説明して下さいました。貴君はこの出来事を覚えていませんか。
と筆者は問いかけ、続いて、次のような思い出も記して、往時を回想しています。
 私が生徒の頃に楽しんだ数学の問題の一つは、中 3 のときに M 君から出題されたもので、正三角形の一辺を n 等分した長さを一辺とする正三角形を、もとの正三角形の中にぎっしり埋め込んだとき、いろいろな大きさの正三角形が全部で幾つあるか、というものでした。[…]M 君も答を知らなくて、二人で放課後などに黒板にいろいろな式を書き合っていました。そのとき、研究する喜びとはこういうものだろうかという思いをしたことをいまでも覚えています。
この手紙を読みながら、T・K 君と筆者との年来の友情を感じ、心温まるひとときを過ごしました。

(2) J・M 君へ:最近の読書のこと
 昨日のメールの続きとして、読書のことなどを書きます。貴君は聖書を精読しておられるとのことですが、私は聖書(和英とも)を持っていながら、ときおり部分的に眺めるだけです。
との書き出しでJ・M 君へ最近の読書について書いています。
 春頃に、作家の高橋源一郎氏が金沢を紹介するテレビ番組に出ていて、井上靖の『北の海』に触れていました。[…]かなりの長編小説、そして、金沢が舞台になっているのはその一部分だけのようだったので、読むほどでもないかと思いました。ところが、[…]娘たちが結婚するときに残して行った文庫本の中にその作品があるのを見つけて、2 週間ほどで読みました。『北の海』には、金沢が舞台の話が結構長く続いていました。
と書き進められ、筆者も異なる形でながら通りすぎた青春時代が、こと細かに描かれているせいか、興味深く速読できたと記しています。内灘についての記述や、筆者が就職して金沢を離れるときに何人も見送ってくれた人がいたという、『北の海』と類似の追憶の記述があり、同郷の J・M 君も興味をそそられる話だろうと思いました。

 次に、加藤周一の著作を網羅的に読んでいることや、筆者が加藤周一の著作を好むようになった理由を述べています。
 『北の海』より先に、『加藤周一最終講義』を買って読みました。続いて、18 年も前に買って第一巻の始めを少し読んだだけにしてあった『加藤周一講演集』(全二巻)を読みました。第一巻は政治の話が多かったですが、第二巻は日本の文学、美術、文化の話でした。それを読んでいると、彼の主著の一つ『日本文学史序説 上・下』を読みたくなって、購入しました。そして、7 年前に買って、これも少しだけしか読んでなかった、加藤周一の『日本文化における時間と空間』を読了してから、『日本文学史序説 』に移り、目下それを読み続けています。文学を広い意味にとらえて書かれていて、文化・思想史ともいえる重厚な内容です。
 私が加藤周一の著作を好むようになったのは、彼が朝日紙に毎月一回書いていた評論を読み、その文体のよさに加えて、政治観にも大いに同感出来たところからです。[…]加藤周一は現代の著作家の中では最も尊敬出来る人の一人と思っています。それでも、『日本文化における…』中の加藤氏の日本語文法解釈には、少しばかり異論を持ったので、それについてブログ記事を書きました。
と書いており、異論などをまとめる、筆者の読みの深い読書力がよく表現されています。

 『日本文学史序説 』に関しては、朝日紙夕刊の、作家・水村美苗について連載されていた「人生の贈りもの」欄の第 3 回(8 月 13 日付け)に、次のような記述がありました。「[イェール大に]日本の企業が基金を創設し、日本から知識人を招聘していて、幸いその時期と重なったのです。[…]私は加藤周一さんと柄谷行人さんの授業を受けました。加藤さんは『日本文学史序説 』をお書きになっている最中で、生徒は私一人だけというセミナーを担当して下さいました。週一回、私どもの家に食事にお越し頂いて、お酒を飲みながら、鎌倉時代のことを書いていらっしゃる時は鎌倉仏教のことを拝聴して、後はしばし雑談、という具合。本当にぜいたくな、最高の時間でしたね。」
 上記のような日本語の本の他に、英語で書かれた物理学関係の本も併読しています。いま読んでいるのは、Jim Baggott というサイエンスライターの "Farewell to Reality: How Modern Physics Has Betrayed the Search for Scientific Truth" です。Part I は "The Authorized Version2" と題して、すでに正しいとされた物理学の説について解説してあります。かなり難しいことを易しい言葉で巧みに説明していることに感心するくらいで、私としては新しく知るところが少ないです。しかし、これから読む Part II は "The Grand Delusion" と題して、 近年提唱されている諸理論の問題点を批判的な観点で紹介しているようで、面白そうだと思います。
と、筆者は物理関係の本の原書を併読していて、新刊でめぼしい科学関係の情報にも広く読書の関心を広げています。最後に、
 話は変わって、わが家では先月 13、14 日に金沢へ墓参に行ってきました。…金沢市内の見物もしました(ブログ記事参照)。長町の武家屋敷跡へも行きましたが、高校時代にお邪魔したことのある貴君の家がどの辺りだったか、全く思い出せませんでした。次のメールででも地図で教えていただければ幸いです。
と記して、メールは終わっています。充実した内容の「最近の読書のこと」を興味深く拝見しました。これからも頻繁に続くメールで、高質な対話をされるよき間柄の旧友をお持ちのことにも感銘を受けました。

2. 「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」
 先般、『自由と自治・進歩と革新をめざす堺市民の会だより』第 45 号への原稿を依頼された。400 字以内で何を書いてもよいということだった。会の趣旨から考えて、昨年 7 月 20 日付けの本欄にいくつかの短文をまとめて「改憲論に抗して思う」の題名で載せた中の「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」を選び、これを短縮して送った。[…]以下に[上記紙]「鬼太鼓」欄掲載の文を転載する。昨年本ブログに掲載した文と比較して読んで貰えば、文の短縮法の参考にもなろうか。



 私の高校1年のある日の日記(1951 年)に、「『ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重』、何と知的で整然とした解答だろう」とある。『』内は、社会科の宿題「明治憲法と日本国憲法の比較」への優秀解答として先生が紹介したもので、それを書いたのは、学年のマドンナ的存在の女生徒、S 子だった。
 何年か前の高校同期会の折に、私は「湯川秀樹を研究する市民の会」や、地域の「9 条の会」に関わっていることを話した。「9 条の会」といったとき、驚きの声を発した男性たちがいた。そのとき、すかさず、「湯川博士も憲法 9 条を大切と思ったでしょう」と助太刀してくれたのも、S 子だった。確かに、湯川秀樹は 1965 年に「日本国憲法と世界平和」というエッセイを書き、憲法前文の平和に関わる文と第 9 条を讃えている。
 自民党の改憲草案は明治憲法を彷彿させ、まさに、「ヒューマニズムの否定」である。そういう憲法改悪は、断じて阻止するほかない。
という内容の記事が掲載されています。日本国憲法は 1946 年 11 月 3 日に公布され、筆者たちは小学 5 年から中学時代にかけて新憲法について教わったことと思います。高校 1 年の社会の宿題「明治憲法と日本国憲法の比較」への『ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重』と題した優秀回答については、ヒューマニズムの尊重というと、まず、「人権の尊重」が思い浮かび、当時を思い起こし、たいへん新鮮味があり優れていると感心しました。

 敗戦後間もなく軍隊が武装解除、続いて解体されたとき、子供心にも日本はどうなるのだろうかと、いささか心配でしたが、新憲法 9 条により国際的にも戦争放棄が明確にされ、平和を愛する国に生まれ変わることに喜びを感じました。これも「ヒューマニズムの尊重」の最たるものです。

 この掲載文のすぐれているところは、過去の日記の事実に、近くは同窓会での経験を加えてまとめ、筆者が敬愛してやまない湯川博士が 1965 年に書かれた「日本国憲法と世界平和」というエッセイも援用して、「ヒューマニズムの否定につながる憲法改悪は、断じて阻止するほかない」との主張でしめくくったことです。さらに文の短縮法の参考例にもなろうか、という筆者の提示の仕方も、教育者らしい計らいです。

2014年9月9日火曜日

J・M 君へ:滋賀県高島市へのバス旅行 (To J. M: Bus Trip to Shiga Prefecture)

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高島市・畑(はた)の棚田ヘの道端で見かけたタカサゴユリ。
Easter lily flowers seen at the side of the road to terraced rice fields of Hata, Takashima City.


畑の棚田。
Terraced rice fields of Hata.


棚田の近くの八幡神社。写真中央の木はツバキ。
幹に幾つも見られるコブが古さを物語っている。
Hachiman Shrine near the rice terraces. The tree at center is camellia.
Some bumps on its stem shows the oldness of the tree.


昼食を取ったソラノネ食堂。カマドで炊いた御飯がおいしい。
Soranone restaurant where we took lunch. Rice cooked by the cooking stove was delicious.


針江の風景。
Landscape of Harie.


針江で最初に発見された湧水。
The spring that was discovered first in Harie.


針江大川の中に群生するバイカモ。
Ranunculus nipponicus growing in crowds in the Harie-ōkawa river.

2014 年 9 月 2 日

M 君

 8月31日付けと9月1日付けのメール、ありがとうございました。私は昨日、妻と滋賀県への1日バス旅行に参加していました。「湖西の川端[かばた]を訪ねて、黄金色の畑[はた]の棚田とソラノネ食堂」と名付けられた旅です。貴君は大津に住んでおられたので、旅の題名にある「川端」と「畑の棚田」[農林水産省選定「日本の棚田百選」の一つ]のどちらもをご存知と思いますが、私にとっては珍しい眺めでした。

 畑の棚田は昭和の中頃に比べて面積が半分以下になっており、いまも住民の減少と老化が進んでいて保存が難しく、都会からの移住や応援を歓迎しているということでした。針江生水[しょうず]の郷では、いまでも湧水[環境省選定「平成の名水百選」の一つ]を生活に利用する「川端」を備えた家々が沢山あるのを見て、過去へタイムスリップした感を抱きました。[見学中は小雨が降っていましたが、十分に楽しめました(写真参照)。]

 貴君が西日本パイレーツの外野手(のちに巨人へ移籍したといえば、南村不可止選手でしょうか)のインタビュー記事を『紫錦』に書かれたことは覚えていませんでした。Y・KB さんという才女が同期にいたことも知りませんでした。才女や秀才といえば、話は数々あるのですが、[…以下略…]。

 ではまた。

 T・T

 (注:メール原文に修正を加えた。[ ]内に示した読みその他は追加。)

2014年9月7日日曜日

J・M 君へ:深田久弥のことなど
(To J. M: On Kyūya Fukada, etc.)

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カノコユリ。2014 年 9 月 1 日、滋賀県高島市畑(はた)の棚田への道路脇で撮影。
Lilium speciosum, shot at the side of the road to the Hata rice terraces in Takashima, Shiga Prefecture.

J・M 君へ:深田久弥のことなど

2014 年 8 月 31 日

M 君

 今回は、那須からお帰り後の第一報への返事を中心に書きます。

 湿度が高いにしても、毎夏のように大阪より相当涼しいところで優雅な日々を過ごしておられるとは、うらやましいことです。

・深田久弥のこと

 妻は久弥の『日本百名山』の本は持っていませんが、朝日新聞社が 2001 年に発行した『週間日本百名山』を買いそろえ、そこに引用されている久弥の『日本百名山』を愛読しています。その『白山 荒島岳 大山』の号にある久弥の荒島岳についての文に、「大学一年の秋、私は年上の友人と二人で白山一周を試みた」とあることを、妻が教えてくれました。貴君のメールから察するに、この「年上の友人」とは貴君の伯父さんではないでしょうか。

 また、貴君が小谷温泉の山田旅館で聞かれた話は、確かに久弥とその恋人のことです。『週間日本百名山』の『雨飾山 高妻山』の号に、山岳写真家の三宅修が、雨飾山は「遠くから見るときれいな双耳峰」であることを述べています。そして、久弥の
左の耳は僕の耳
右の耳は
はしけやし[いとおしい]
君の耳
そんな詩が浮かんだのに理由があるが、それは言えない。
という文(1957 年、同人誌『霧藻』掲載の「二つの耳」の終節)を引用し、その「理由」なるものを、次のように明かしています。
昭和16 [1941] 年、彼[久弥]は一高時代に見初めた少女と再会し、一緒に小谷温泉に出かけ、雨飾山に登ろうとしたが果たせなかった。彼女の名前は木庭志げ子、昭和22 [1947] 年に結婚して深田志げ子となる運命の出会いであった。

 私たちが高校 1 年のときだったと思いますが、新聞部の先輩(同輩の誰かも同行したかも知れませんが、記憶がありません)が、当時金沢に住んでいた深田久弥にインタビューに行き、『菫台時報』の「門を叩く」という欄の記事を書いていました。どういう記事だったか覚えていないのが残念です(ひょっとすると、KJ 君はわれわれの在校時代の『菫台時報』を全部保存しているかも知れません)。大聖寺には「深田久弥 山の文化館」があり、2007 年 7 月、金沢へ墓参に行った折に妻と訪れました。

・紫中新聞部の人たちのこと

 F さんは旧姓 MT で、満月というあだ名の他に旧姓由来の呼び名も持っていたようです。Y・K さんと同級で彼女と大変仲のよかった Y・SK 君も OT という旧姓の持ち主でした。彼は私たちの 1 年下であるにしては、心身の発達がともに私たちに近いような感じの少年でした。それもそのはず、彼は中国で終戦にあい、その後、学校で勉強が出来ないまま引き揚げて来たので、1 年下に編入したのだそうです。(私は戦後の大連で、ある程度の勉強が出来たので、引き揚げ後、同じ学年に入りました)。彼は高校卒業後のある時期からだったでしょうか、OT 姓に戻りました。

 私は中学 3 年のときに岩波文庫の本を買って読み始めましたが、最初に読んだのは漱石の『坊ちゃん』とマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』でした。後者には主人公トムと仲のよいベッキーという女の子が登場するので、私の日記中では、SK 君に Tom、K さんに Becky のあだ名をつけていました。S 君に誘われて千石町の K さんの家(貴君の書かれた「治作」という料理店名は覚えていませんでした。家と料理店は離れていたのでしょうか)を訪れたこともありました。戸外で彼らが立ち話をしていたのを聞いていただけでしたが。

 私は中学 3 年から高校 1 年の頃、祖父と母を加えた 3 人で、天徳院脇の TN さんという家の二階に間借りしていました。その家の小柄な次女が K さんと同級でした。K さんは、私が高校 1 年のある日、TN さんを訪ねて来たことがあり、私は K さんに、われわれが去ったあとの新聞部をしっかり頼むと伝えました。いや、私が彼女たちの談笑していた部屋を訪れると、K さんの方から、「新聞部をしっかりやります」といったのだったかも知れません。

 SK 君は泉丘高校卒業後、東京でチンドン屋のアルバイトをしながら演劇の勉強をしている、と風の便りに聞いていましたが、私は大学院生の頃、K さんに電話して、彼の連絡先を教えて貰ったりしました。お陰で、私は OT 君となった SK 君が、名古屋で医療器械の販売店を経営していた頃までを知っています。私は 50 代の頃、名古屋大学プラズマ研究所との共同研究をしていて、名古屋へ行く機会が多かったので、そういう折に 2、3 回 OT 君と会い、年賀状も交換していましたが、ある年から賀状がぷっつり来なくなりました。故人となったのではないかと思っています。

 K さんが結婚・離婚したことは知りませんでしたが、彼女が比較的若いうちに病死したことを OT 君から聞きました。彼女は医者を訪れて、気分が悪いのですということを訴えたと思うと、へなへなとくずおれて、そのまま亡くなったとか。「そのまま」といっても、それから入院した後、回復することなく、ということだったのかも知れませんが、彼の言葉がその通りに、私の脳裏に映像となって焼き付きました。スカッとした性格だった彼女らしい最期のようにも思えます。

 新聞部の写真に写っている T・Y 君は、「べんきょう」というあだ名を貰っていてましたね。実は、彼と私は小学校の 2、3 年生ぐらいのときに、友人同士でした。私は当時七尾市の御祓(みそぎ)国民学校にいて、彼は父君の転勤(警察関係だったと思います)で金沢から転校して、私のいたクラスへ入って来たのです。彼の家へ遊びに行ったこともあったのですが、私は 3 年生の 2 学期から大連へ移りました。紫中で再会後は、お互いに内気になっていたせいでしょうか、あるいは、私にはすでに KJ、KZ、KB 君などの親友がいたからでしょうか、廊下ですれ違えば挨拶する程度の間柄でしかありませんでした。1998 年発行の紫中同窓会名簿では、彼はもう故人となっています。七尾での思い出を語り合う機会がなかったのが残念です。

 ではまた。

 T・T

 [注:実際に送ったメールの一部(紫中野球部の人たちのこと)を割愛した。]

2014年9月6日土曜日

『生誕 140 年 中澤弘光展—知られざる画家の軌跡』 (NAKAZAWA Hiromitsu: Retrospective Exhibition of Commemorating the 140th Anniversary of the Artist's Birth)

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上、三重県立美術館。下、『中澤弘光展』の看板。
Upper: Mie Prefectural Art Museum. Lower: Sign of NAKAZAWA Hiromitsu Exhibition.

2014 年 8 月30 日

M 君

 「ウォッチャンのこと」へのご返信、ありがとうございました。それを拝読して、またまた、書きたいことが増えましたが、まずは、ご要望に応えて、中澤弘光展のことを書きます。

 私がこの展覧会を知ったのは、妻がよく見ているテレビ東京系列の放送番組『なんでも鑑定団』の、さる 3 月 11 日分を私もしばらく見ていてのことでした。その日の放送は、過去の放送から選りすぐったものの再放送で、中澤弘光の『潮風』の鑑定依頼も取り上げられており、その末尾にこの展覧会の案内を挿入してあったのです。その放送記録を見ると、鑑定額は 400 万円です。貴君が購入された瀬田の唐橋方面の油絵も、さぞ高価だったことでしょう。

 中澤弘光展を開催中の三重県立美術館のある津市へは、これまで、大連嶺前小学校での恩師 M 先生が亡くなられたあと、その夫人を尋ねて一回行ったことがあるだけでした。私がまだ 50 代の頃のことで、近鉄の津駅からどのようにして先生宅へ向かったのかを、もう全く思い出せません。美術館は、駅から街路樹や道路脇に広がる津偕楽公園(奇しくも貴君は 28 日付けメールに、この公園の名がそれに似せられたと思われる水戸の偕楽園について書かれましたね)の豊かな緑を眺めながらの徒歩、約十分で行けるところにあります。

 中澤弘光展の副題には「知られざる画家の軌跡」とあり、最近まで中澤の名を知らなかった私などは「知られざる画家」だったのかと思いがちですが、チラシの説明をよく読むと、保存されていたアトリエを今回調査して発見された貴重な資料をもとに、彼のいままで知られていなかった一面をも明らかする展示を行なっている、ということだと分ります。誤解されないように、「画家の知られざる軌跡」と書くべきだと思います。それはともかく、見応えのある展覧会でした。常設展にも内外の著名な画家たちの絵が含まれており、レストランが上質のフランス料理を提供しているのもよく、また訪れたい美術館だと思いました。

 中澤の絵そのものの印象については、画家の奥様をお持ちの貴君に私が下手な感想を書くのは気がひけますので、ほんの二、三言だけにしておきます。中澤がいろいろな画風を比較的長期にわたって模索したことを示す絵も沢山ありました。それで、他の内外の著名な画家の絵の多くが、これは誰々の絵だと分りやすいのに比べ、特徴が掴み難い感じがしました(最終的には、初期の、黒田清輝の影響の大きいスタイルに戻った、というか、それを発展させたものに落ち着いたのでしょうか)。それだけに、いろいろな試みの絵に接することが出来るとともに、小ぶりの水彩画多数、そして、デザイナーとしての一面を示す展示(与謝野鉄幹・晶子の著書他、多くの本の装丁と挿絵や雑誌の表紙絵など)も見ることが出来、興味の尽きない展覧会でした。亡くなる 90 歳の年にも、大きな油彩画を描いているのが印象的でした。こちらに同展の案内、また、こちらに 9 月 12 日からの、そごう美術館(そごう横浜店内)での開催案内があります。

 ではまた、多分すぐに。

 T・T

2014年9月5日金曜日

J・M 君へ:ウォッチャンのこと (To J. M: About "Watchan")

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「かんぽの宿岐阜羽島」の部屋からの風景。2014 年 8 月 29 日描く。
View from the room of Kampo Hotel Gifuhashima, drawn on August 29, 2014.

J・M 君へ:ウォッチャンのこと

2014 年 8 月 26 日

M 君

 本日の興味深いメール拝受。

 昨晩ふと、岐阜羽島の「かんぽの宿」に一泊して津市の三重県立美術館で開催中の中澤弘光展などを見に行こうと思い立ちました。幸い、宿はまだ空室があり、予約できました。列車の時間等を調べていたところ、貴君へ十分な返信を書く時間がなくなりました。明日も地域の9条の会の世話人会議や旅の準備などあって、書けないかと思いますので、旅から帰ってから、ゆっくり書くことにします。

 では。

 T・T


2014 年 8 月 27 日

M 君

 昨夜も夜中に目覚めて、貴君のメールにあった中学 2 年生のときの新聞部の集合写真のことを思い出し、思い出が次々に広がりました(昔のことの記憶がよすぎるのも善し悪しです)。そのごく一部を、とりあえず書きます。

 上記写真中の女生徒は、1年上の M・Y さんと1年下の Y・K さんだけだったと思います。M さんは小立野の美容院の娘さんです。私たちと同期に H・S 君(石引小の遊撃手、紫中でも野球部にいたと思います)というのがいて、彼の家は、その美容院の隣の時計屋でした。それで、 H 君は Y さんから「ウォッチャン」と親しく呼ばれていると、U 君が冷やかしていました(U、S 両君と私は小学校 6 年のときも、中学 2 年のときも同じクラスでした)。

 当時はなぜ S 君が「ウォッチャン」なのか気にしていませんでしたが(「坊ちゃん」の訛りだろうぐらいに思っていたようです。小学校以来の友人仲間が彼を呼ぶあだ名は「ナベ」でした。野球を始めたばかりの頃、鍋を逆さにしたような野球帽を被っていたということからついたあだ名だそうです)、昨夜ふと、時計屋は watch を扱っていて、そこの坊ちゃんだから「ウォッチャン」になったのだろう、Y さんがつけたのならば、彼女はなかなかの wit の持ち主だったのだ、と思いました。

 ウォッチャンは北陸放送のカメラマンになり、われわれがまだ 40 代のときの石引小の同級会の折には、アメリカ出張での見聞などを鋭い観察を交えて話してくれました。それで、石引小の男子同級生中では、いまや私と最も話の合う人物になったと思っていました(女子同級生も加えると、もっと話の合う人がいます。貴君宛にまだ書いたことがなかったようでしたら、また別の機会にでも)。しかし、ウォッチャンは早く病死してしまったそうで、これもまことに残念なことです。

 Y・K さん関連の男性のことも思い出しましたが、次回にします。

 ではしばらく、ごきげんよう。

 T・T

2014年9月4日木曜日

J・M 君へ:貴君にとって意外だったこと 2 題について (To J. M: On the Two Topics That Surprised You)

[The main text of this post is in Japanese only.]


筆者が大学院生のときの物理学科研究室対抗ソフトボール大会の様子。打者は筆者。
A scene of the softball tournament among divisions of Physics Department when I was a graduate student. The batter is the author.

J・M 君へ:貴君にとって意外だったこと 2 題について

2014 年 8 月 4 日

M 君

2 題の 1

 加藤周一が医業を止めたのは 1958 年ということです(http://ja.wikipedia.org/wiki/加藤周一参照)から、39 歳くらいまでは二刀流だったことになり、貴君が生涯二刀流の人と思っても、さほどおかしくはありません。しかも、『日本文学史序説』は 1960 年秋にブリティッシュ・コロンビア大学に招聘されて行なった講義をまとめたものということですから、その素材は二刀流時代に仕込んでいたことになりますね。

2 題の 2

 ハハハ。「唯一無二」の阪急ファンだった貴君の友人が2人になりましたか。浜崎監督は大連にいた人だったので、阪急ファンになった次第です。それにしても、南海ファンだった貴君が、「ヘソ伝」から「山口」「加藤」らまでよくご存じですね。

 私はスポーツは全く苦手でしたが、野球の真似事やソフトボールだけは好きでした。T・KJ 君の家が小立野を出外れたところにあった頃は、そこを訪れると、稲刈りの終わった田んぼで、怪しげなバットを使い、よく野球の真似事をしたものです。

 紫中 2 年のときは、石引小の名ピッチャーだった U 君と同じクラス(3 組でした。貴君は 5 組でしたか)で、昼休みや自習時間などに「東西対抗」と称して、打つと硬球に似た音を出す U 君手製のボールを使って野球をする仲間の端っこに加わっていました。ある日、相手の A 君という、軟投型のピッチャーから、3 打席目にうまくレフト前へヒットしたことを、いまでも覚えています。1 打席目ではサードライナー、2 打席目はもっと力を入れて打ったところ、レフトフライ、そこで 3 打席目では、前の 2 打席の中間ぐらいの力で打ったのです。私にしては珍しいヒットだったからでしょうか、U 君からそのあとで、「サードオーバー、レフト前ヒーット! やな」と冷やかされました。

 その頃、同様の仲間でソフトボール試合をして、ランニングホーマーを放ったこともあります。これは多分生涯に一本だけの記録でしょう。また、自習時間に一斉に抜け出してソフトボール試合か「東西対抗」をしていたところ、あとでクラス担任の N 先生から、壊れた椅子の足だったか、木の棒で、頭のてっぺんをごつんと一同が一発ずつやられました。それを見ていた女生徒たちの中の、I さんというのが、「T さんまで!」と、同情の声をあげてくれました。つまらないことを覚えているものですね。

 ソフトボール試合といえば、大学院生のときの研究室対抗(写真参照)や、大放研での部対抗でも、ある程度活躍しました。大抵、捕手を勤めました。走るのが遅くてもよいので。

 また、中学時代には、二つのサイコロと、統計と確率に基づいて多数の表を使う野球ゲームを作成して、主に T・KB 君とそれでよく遊んでいました。それで、高校の数学で習う確率や統計は、いたってやさしく感じられました。その野球ゲームは、研究者になってからの、電子の物質透過のモンテカルロ法による計算に通じるところがあります。そのモンテカルロ法というのは、電子が物質内を通過するときにくり返し起す素過程を、サイコロの代りに乱数表を使って、各素過程の理論的確率分布に従うようにコンピュータ内で発生させ、結果を統計的に求める方法ですから。自分たちで直接モンテカルロ計算はしませんでしたが、それを学び、その方法の簡略化に役立ちそうな研究をしたり、国外の共同研究者がその方法で計算してくれた結果を経験式作成に利用したりしました。

 雑談を多く書き、失礼しました。

 T・T

2014年9月3日水曜日

J・M 君へ:読書のこと(続き)とファンであるということ [To J.M: On Reading (Continuation) and Being a Fan of Something]

[The main text of this post is in Japanese only.]


咲きかけのハマユウの花。2014 年 8 月 15 日、わが家の庭で撮影。
Flower of crinum just beginning to bloom; taken in my yard on August 15, 2014.

J・M 君へ:読書のこと(続き)とファンであるということ

2014 年 8 月 3 日夜

M 君

 貴君の聖書についてのお考え、「中東、ヨーロッパの歴史・芸術理解には必要不可欠では」、「一部歴史書なのかも」、「修養書の一面がある」は、全くその通りと思います。

 貴君も加藤周一を好んでおられましたか。私が「夕陽妄語」を朝日紙で読んでいたのは、主に、読書用、家用、外出用の三つの眼鏡を持っていた時期です(いまは始めの二つが兼用になっています)。新聞記事は家用の眼鏡でおおざっぱにしか読まなかったのですが、「夕陽妄語」だけは、書斎へ持込んで読書用の眼鏡で精読しました。しかも、単行本になったときには、それを必ず買って再読するという熱心な加藤ファンでした。貴君は彼の文学書渉猟範囲の広さを偉大と書かれましたが、彼は最初の専門は医学でも、後に評論家に転向したので、評論の専門を極めようとすればこの程度の渉猟は必要かという気もします。貴君が触れられた丸山真雄も読んでみたい人ですね。

 ファンといえば、私はプロ野球のオリックス・ファンですが、オリックスは今年久しぶりに強いので、CATV の実況放送やインターネットの「一球速報」を毎試合、必ずしも全試合時間ではありませんが、見ています(以前はオリックスの一前身の阪急ファンで、若い頃は、たまには、旧西宮球場まで観戦にも行きました。いまは球場まで見に行く元気がありません——野球の一試合は長時間かかるので)。しかし、このところオリックスの調子が下がり、昨日と今日は 2–7、3–8と、ロッテに大差で連敗しました。ひいきチームが負けると、自分のことでもないのに、いかにも悔しいのは、心理学でいう「同一視」の現象でしょうか。貴君はタイガース・ファンだったでしょうか。

 ではまた。

 T・T

 (注:実際に送ったメールに対して、若干の修正を行なった。)