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2014年12月31日水曜日

電気ツリーまたはリヒテンベルク図形 (Electrical Tree or Lichtenberg Figure)

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冬姿の木の枝。
Branches and twigs in winter.


アクリル樹脂ブロック中の電気ツリー(リヒテンベルク図形)。
Electrical tree (Lichtenberg figure) in an acrylic block.

 電気ツリー[リヒテンベルク図形 (Lichtenberg figure) とも呼ばれる]とは、絶縁体内で絶縁破壊による放電が生じたときにできる模様のことである。その模様が樹枝状をしているところから、電気ツリーの名がある。しかし、樹枝自体が、いわゆる樹枝状を呈するのを見ることが出来るのは、葉を落としている冬に限られる。

 昨日のウォーキング中に、これぞリヒテンベルク図形に近い樹枝の姿だ、と思って撮影したのが、1 枚目の写真である(2 枚目の写真との比較のため、反時計回りに 90 度回転した)。2 枚目の写真は、1998 年にウクライナのハリコフ国立大学放射線物理学研究所を訪れた際に土産として貰った、アクリル樹脂ブロック中のリヒテンベルク図形を撮ったものである。この図形は、ブロックに電子線照射をしたのち、放電を起こさせて作られている。撮影の際には、後方に黒い紙を当て、撮った写真をイメージ処理ソフトで白黒反転させた。

 2 枚の写真を比較してみると、1 枚目の樹枝のほうが、直線的な部分がより多く、また、枝分かれ頻度がより少ない図形になっている、といえるようだ。ただし、いま述べた二つの相違のうち、第 1 のほうは、第 2 のほうが原因となって生じているのかもしれない。

 これらの図形は、どちらも、その一部分が全体に似た形をしている。難しくいえば、「部分と全体が自己相似になっている」ということである。このような図形に対して、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロ (1924–2010) は、「フラクタル」という幾何学の概念を導入した。いまやフラクタルの研究や応用は、工学、生物学から美術にいたるまで、広範囲に及んでいる。同じフラクタル状の図形でも、1 枚目と 2 枚目の写真に見られる相違については、どのような計量的表示方法があるのだろうか。フラクタル次元という量があるが、これは必ずしも図形の形を一義的に決めるものではないという(Fractal dimension, Wikipedia, The Free Encyclopedia 参照)。

2014年12月29日月曜日

A・M 君へ:湯川博士と原子力のことなど (To A. M: Hideki Yukawa and Nuclear Power, etc.)

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木々の葉がすっかり落ちて、冬景色を呈している堺市・八田荘公園。
The leaves of trees having been fallen completely, Hattasō Park, Sakai, shows a winter scenery.

A・M 君へ:湯川博士と原子力のことなど

2014 年 12 月 4 日

A・M 君

 先日は学士会館までお越しいただき、楽しくまた有益な時間を持つことが出来、ありがとうございました。帰阪後すぐにお礼を書こうと思いながら、パソコンを使うと肩や首が痛む状態が続いていたため、サボっていて、大変遅くなりました。

 あの時、B さんから湯川博士と原子力の関係について尋ねられたということを伺いましたが、私のブログ記事 「原発計画に関する湯川博士の言葉 1〜3」(http://ideaisaac2.blogspot.jp/2011/06/hideki-yukawas-words-about-nuclear.htmlとそれに続く 2 編)を見つけていただいたでしょうか。

 念のため、私の主なブログサイトの URL を記しておきます。
"Ted's Coffeehouse" http://ideaisaac2.blogspot.jp(和文、時々英文付き)
"IDEA & ISAAC: Femto-Essays" http://ideaisaac.blogspot.jp(英文)

 なお、先日、南部さんのノーベル賞の仕事には、南部さんのところへ留学した真木君の超電導の仕事の影響があったのではないかとのご意見を伺いましたが、時期的に考えて、それはないだろうと思われることを "Ted's Coffeehouse" の 11 月 24 日付けの記事末尾、「引用時の注 2」に記しました。ご覧いただければ幸いです。

 では、よい年をお迎え下さい。

 T・T


2014 年 12 月 11 日

A・M 君

 一昨日はご丁寧なお返事をいただき、ありがとうございました。その中に、来月、NPO法人「あいんしゅたいん」主催の講演会で日本とドイツの原爆研究についてお話をされるとありましたので、以前 online で購入しました Scientific American 誌の特集号 "The Science of War: Nuclear History" (2002) のコピーを圧縮ファイルでお送りします。多少なりともご参考になるところがあれば幸いです。

 T・T

2014年12月24日水曜日

晩秋の旅 -2- (Trip in Late Fall -2-)

 旅の第2、3日目(11月28、29日)については、以下の写真で紹介する。

I convey impressions on the second and third days (November 28 and 29) of our trip by photos below.


宿から見た播磨灘の日の出。
Sunrise from Harima Sea, seen from the hotel.


たつの市、武家屋敷のある街角。
Street corner with preserved samurai mansions in Tatsuno.


龍野公園の紅葉。
Autumn leaves of Tatsuno Park.


たつの市、童謡の小径の途中にある展望台からの眺め。
View from the observatory at the middle of Children's Songs Path, Tatsuno.


童謡の小径への東側入り口。
Eastern entrance to Children's Songs Path.


童謡の小径の南側にある哲学の小径(この小径の途中にある三木清の哲学碑については、こちらに書いた)。
Philosophy Path on the south side of Children's Songs Path (Photos of Philosophy Monument area of Kiyoshi Miki at the side of this path are given here).


赤穂城跡。
Remnants of Akō Castle.
(完)(End)

2014年12月1日月曜日

晩秋の旅 -1- (Trip in Late Fall -1-)

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姫路公園(姫路城)内にある日本庭園・好古園で。
A view of Koko-en Garden, a Japanese garden located next to Himeji Castle.


姫路城。
Himeji Castle.


かんぽの宿赤穂の部屋からの眺めのスケッチ。
Sketch of the view from the room of Kampo Hotel Ako.

 11 月 27 日、妻とかんぽの宿赤穂で 2 泊する静養の旅に出た。初日は姫路に寄り、好古園で紅葉の見頃を楽しみ、また、平成の改修の成った姫路城天守閣を眺めた。

 宿からのスケッチ(3 番目のイメージの)で、右に広がるのは播磨灘。28 日朝におおむね描き、その翌朝に着彩を追加した。(つづく)

2014年11月24日月曜日

J・M 君へ:中学ミニ同窓会での会話への付言 (To J.M: Additional Remarks to the Conversation at the Junior High School Mini-Reunion)

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ナンキンハゼの紅葉した葉と実。2014 年 11 月 15 日、泉北スポーツ広場横で撮影。
Leaves and fruits of Chinese tallow tree; taken at the side of Semboku Playground on November 15, 2014.

中学ミニ同窓会会話への付言

2014 年 11 月 15 日

M 君

 12 日には、楽しいひとときをを持つことができました。貴君が中学の佐々木先生(私は理科を習いました。電気抵抗のことを電気回路中の邪魔者といって説明されたので、「邪魔者」のあだ名をつけられていたかと思います)のことを話された時、KJ 君は「行列式!?」と突飛な連想の発言をしましたね。KJ 君と私の行っていた高校で解析 I を習った先生が同姓の佐々木ヨウコ先生という、奈良女高師出身の若い先生だったのです。下記のURLに、東京で「すみれ会」と称する高校同窓生関東在住者の会に出席した折に、ヨウコ先生を囲んで撮った小さな写真(TK 君と故 KB 君も写っています)と英文の記事を掲載してあります。
  http://ideaisaac.web.fc2.com/joking01.html#sec2
その記事中に、KJ 君と「行列と行列式」を使って連立方程式を解く方法の質問にヨウコ先生宅を訪れた思い出も、ごく簡単に書いてあります[注 1]。ご笑覧いただければ幸いです(この辺りにある英文随筆などをまとめて 2 冊目の自費出版書にしようと、編集を 9 割方進めましたが、その後とん挫しています)。

 突飛な連想といえば、私の京大時代の友人、真木和美君というのも、休憩時間に仲間で雑談をしていると、突飛かつ高尚な連想の言葉を発して友人たちを楽しませる人でした。彼は湯川研の博士課程を出ながらも超電導理論の道に進み、南部陽一郎氏(南部さんのノーベル賞は素粒子分野への貢献でしたが、超電導にも関係のある仕事でした[注 2])のもとへ留学し、32 歳で東北大教授になり、間もなく南カリフォルニア大学へ頭脳流出してしまいました。超電導方面でのノーベル賞受賞者がそれに先立って獲得するジョン・バーディーン賞を受けてもいて、私の 身近では唯一、ノーベル賞受賞の可能性のある人物でしたが、惜しくも数年前に亡くなりました。数学の達者な人でした。突飛な連想をするのは数学の得意な人の特徴かもしれません。

 また、KJ 君は阪神ファンだといって、貴君が私たちの中・高校生頃の阪神の選手の名を挙げられたのに話を合わせていましたが、実は、その頃の彼は大下弘選手の大ファンで、東急フライヤーズ・ファンだったのです(彼がせっかく話を合わせていたので、私は黙っていました)。大下選手が神戸出身だったからです(ここにも彼の神戸への執着が伺われます)。その点では、私が大連にいた浜崎監督の率いる阪急のファンになったのと共通しています。彼が阪神ファンになったのは、息子さんが野球に興味を持つようになってから、その好みに合わせたということでした。

 T・T

 引用時の注:
  1. 1951 年 8 月 12 日付けの私の高校時代の日記の後半にもこのことが書いてあった(こちら参照)。ヨウコ先生の回答は、翌日、学校で聞かされることになった。行列を使った連立方程式の解法は、高校では習うことになっていなかったので、先生も、とっさに分かりやすく説明することはできなかったのだろう。

  2. このことから、M・Y 君、A・M 君と私が 10 月 9 日、東京・学士会館に集まった折に、A・M 君は「南部さんのノーベル賞の仕事は、真木君の影響を受けたものではないか」との考えを述べた。しかし、その後調べてみると、南部さんのノーベル賞受賞対象となった仕事は 1960 年になされている(こちら参照。関連の論文発表は 1961 年)のに対して、真木君の渡米は 1964 年であり、A・M 君の仮説は成り立たない。

2014年11月14日金曜日

K・F 氏へ:アメリカ旅行報告への返信 (To K. F: Reply to His Message about Trip to USA)

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イチョウの黄葉。2014 年 10 月 28 日、堺市・八田荘公園で撮影。
Ginkgo leaves in autumn color; taken in Hattasō Park, Sakai, on October 28, 2014.

F 氏へ:アメリカ旅行報告への返信

2014 年 11 月 2 日

K・F 様

 アメリカ旅行の詳しいお土産話[注 1]を書き送っていただき、ありがとうございました。「ちょっと大変な旅行」を奥様とご一緒に無事にこなされたとは、お二人とも、すこぶるお元気ですね。そしてまた、F さんは帯磁率を比較する装置を自作して持参されたとのこと、すばらしいです。

 10 月 9 日に東京学士会館で持った M・Y 君、A・M 君とのミニ同窓会は、なかなか有益でした。夕食前と夕食中の合計約 4 時間、楽しく語り合いました。M 君が、木村先生の偉大さがいまになって分かってきたということを、最も多く話しました。

 お勧めした ResearchGate[注 2]について宿題にしてくださいとのこと、承知しました。いろいろなことに興味を持ち続けておられるのは、すてきなことだと思います。若さを保つ秘訣でもありましょう。機会があれば、ゆっくりお目にかかりたいものです。

 錦秋の候、ますますお元気でお過ごしください。

 T・T

 P. S. 私が何年か前に Quora というウェブ上の質問サイトで鏡像の左右逆転について答えた文[注 3]が、"Huffington Post" というアメリカの新聞の科学記事のウェブページに、10 月 30 日付けで引用されました。URL は次のとおりです。
  http://www.huffingtonpost.com/quora/why-does-a-mirror-reverse_b_6070582.html
Quora では、利用者がよいと思った回答に対して票を投じることができるようになっています。その投票では、必ずしも正解でなくても、一般の人たちにとって分かりやすい、あるいは、面白いと思われる答に票が集まるので、私の答は目下 1、2 位に大きく離されて、16 回答中、4 位程度でしかないのです。それにもかかわらず選んでくれた編集者は目が肥えていると思います。

 引用時の注
  1. F 氏からのメールには、アメリカの旅はヨセミテ公園から始まり、そこではエル・キャピタンと名付けられている高さ約千メートルの花崗岩の一枚岩を見ることを楽しみにしていたことや、その岩の直下に立ってハンマーで叩き、岩肌に触ってみたかったが、その機会はなかったことなどが書かれていた。そのメールをもらった少し後で、たまたま、私はテレビでヨセミテ公園を紹介する番組を見て、エル・キャピタンの名にも出会った。
  2. ResearchGate は、次のように説明されている、研究者の交流のためのウェブサイト。"Founded in 2008 by physicians Dr. Ijad Madisch and Dr. Sören Hofmayer, and computer scientist Horst Fickenscher, ResearchGate today has more than 5 million members. We strive to help them make progress happen faster. Our mission is to connect researchers and make it easy for them to share and access scientific output, knowledge, and expertise. On ResearchGate they find what they need to advance their research." 筆者の ResearchGate 上のプロフィール・ページはこちら
  3. Quora への投稿は 2011 年 1 月だった。こちら参照。

2014年11月8日土曜日

2014年9月3日~10月7日分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from September 3 to October 7, 2014)

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イロハモミジの紅葉。2014 年 10 月 19 日、堺市・大仙公園内の日本庭園で。
Leaves of Japanese maple in autumn color; taken in Japanese Garden of Daisen Park, Sakai, on October 19, 2014.

2014年9月3日~10月7日分記事へのエム・ワイ君の感想

 M・Y 君から最近の "Ted's Coffeehouse 2" への感想を 2014 年 10 月 30 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. J・M 君へ:読書のこと(続き)とファンであるということ
2014 年 8 月 3 日夜
M 君
 貴君も加藤周一を好んでおられましたか。私が「夕陽妄語」を朝日紙で読んでいたのは、主に、読書用、家用、外出用の三つの眼鏡を持っていた時期です([…略…])。新聞記事は家用の眼鏡でおおざっぱにしか読まなかったのですが、「夕陽妄語」だけは、書斎へ持込んで読書用の眼鏡で精読しました。しかも、単行本になったときには、それを必ず買って再読するという熱心な加藤ファンでした。[…略…]
 ファンといえば、私はプロ野球のオリックス・ファンですが、オリックスは今年久しぶりに強いので、CATV の実況放送やインターネットの「一球速報」を毎試合、必ずしも全試合時間ではありませんが、見ています(以前はオリックスの一前身の阪急ファンで、若い頃は、たまには、旧西宮球場まで観戦にも行きました。[…略…])。[…略…]
と、J・M 君が加藤周一を好んでいたことに関連して、筆者が熱心な加藤周一ファンであることと、オリックス・ファンであることが述べられ、8月4日付けのメールからなる、次のブログ記事に続きます。

2. J・M 君へ:貴君にとって意外だったこと 2 題について

 「2 題の 1」では、「加藤周一が医業を止めたのは 1958 年ということです」と、J・M 君が加藤周一を生涯二刀流の人と思っていたのを正したことへの追加をしています。

 「2 題の 2」では、「『唯一無二』の阪急ファンだった」J・M 君の友人に筆者が加わって 2 人になったことに関連して、次のように述べています。
浜崎監督は大連にいた人だったので、阪急ファンになった次第です。[…略…]私はスポーツは全く苦手でしたが、野球の真似事やソフトボールだけは好きでした。KJ 君の家が小立野を出外れたところにあった頃は、そこを訪れると、稲刈りの終わった田んぼで、怪しげなバットを使い、よく野球の真似事をしたものです。
 当時の小中学生の間には野球が盛んでした。といっても、それは筆者が書いている通り、野球の真似事のような遊びでした。最近の小中学生の野球といえば、皆がユニフォームを着て大人が指導してやっていますが、当時は誰でもその輪の中に入れる放課後の遊びでした。近所の仲間(学年を問わず集まってきた連中)と暗くなるまでよく遊んだものです。
 […略…]A 君という軟投型のピッチャーから、3 打席目にうまくレフト前へヒットしたことを、いまでも覚えています。[…略…]私にしては珍しいヒットだったからでしょうか。[…略…]
 その頃、同様の仲間でソフトボール試合をして、ランニングホーマーを放ったこともあります。これは多分生涯に一本だけの記録でしょう。[…略…]
 ソフトボール試合といえば、大学院生のときの研究室対抗や、大放研での部対抗でも、ある程度活躍しました。大抵、捕手を勤めました。走るのが遅くてもよいので。
 また、中学時代には、二つのサイコロと、統計と確率に基づいて多数の表を使う野球ゲームを作成して、主に KB 君とそれでよく遊んでいました。それで、高校の数学で習う確率や統計は、いたってやさしく感じられました。その野球ゲームは、研究者になってからの、電子の物質透過のモンテカルロ法による計算に通じるところがあります。[…略…]
 以上のように、野球ゲームは高校の数学で習う確率や統計の理解を容易にし、後の研究にも役立ったことが書かれています。モンテカルロ計算は、計算機が大容量化しの計算速度早くなるにしたがって、正確に現象を取り扱えることが評価され、原子炉内部の計算、遮蔽計算にも実用化されています。

 J・M 君と筆者との関係については、一連の文通の中から読みとれますが、中学時代に共に新聞部に属していたようです。J・M 君は大学卒業後関西の会社に入社して経理を担当し、筆者が修士 2 年の 6 月に下宿に尋ねている仲、現在は大阪府下在住で、長期にわたる親友であると推察できます。

3.『生誕140年 中澤弘光展―知られざる画家の軌跡』

 2014 年 8 月 27 日付けの J・M 君宛てメールでは、「昨夜も夜中に目覚めて、貴君のメールにあった中学 2 年生のときの新聞部の集合写真のことを思い出し、思い出が次々に広がりました」と、亡き友人「ウォッチャン」のことが書かれ、中澤弘光展につながって行きます。そして、8 月30日付けのメールでは、
 「ウォッチャンのこと」へのご返信、ありがとうございました。それを拝読して、またまた、書きたいことが増えましたが、まずは、ご要望に応えて、中澤弘光展のことを書きます。
 私がこの展覧会を知ったのは、妻がよく見ているテレビ東京系列の放送番組『なんでも鑑定団』の、さる 3 月 11 日分を私もしばらく見ていてのことでした。その日の放送は、過去の放送から選りすぐったものの再放送で、中澤弘光の『潮風』の鑑定依頼も取り上げられており、その末尾にこの展覧会の案内を挿入してあったのです。[…略…]貴君が購入された瀬田の唐橋方面の油絵も、さぞ高価だったことでしょう。
 中澤弘光展を開催中の三重県立美術館[…略…]は、近鉄駅から街路樹や道路脇に広がる津偕楽公園([…略…])の豊かな緑を眺めながらの徒歩、約十分で行けるところにあります。
と、J・M 君と筆者の共通の話題である最近の美術展『画家の知られざる奇跡』鑑賞についての感想を書いています。中澤弘光の油絵を購入したことを書いて、美術展の感想を尋ねてきた J・M 君の要望に応えたものです。このような対話をしながらの生き生きとした文通が繰り返されており、ご両人の気まめさに感服します。新聞部での体験はこのように生かされているのですね。また、TV 放送でそれとなく見た絵に触発され、期間中にはるばる鑑賞に出かける好奇心と行動力にも感心させられました。私がこのブログを見た後に、横浜のそごう百貨店で同じ展覧会が開催されました。近くだから行って見ようと思っているうちに終わってしまいました。

4. J・M 君へ:深田久弥のことなど
[…略…]久弥の荒島岳についての文に、「大学一年の秋、私は年上の友人と二人で白山一周を試みた」とあることを、妻が教えてくれました。貴君のメールから察するに、この「年上の友人」とは貴君の伯父さんではないでしょうか。
 2014 年 8 月 31 付けメールで、筆者は上記のように J・M 君に問い、彼が聞いたという話を裏付ける、深田久弥についての話も以下のように紹介しています。
[…略…]貴君が小谷温泉の山田旅館で聞かれた話は、確かに久弥とその恋人のことです。『週間日本百名山』の『雨飾山 高妻山』の号に、山岳写真家の三宅修が、雨飾山は「遠くから見るときれいな双耳峰」であることを述べています。そして、久弥の
左の耳は僕の耳
右の耳は
はしけやし[いとおしい]
君の耳
そんな詩が浮かんだのに理由があるが、それは言えない。
という文(1957 年、同人誌『霧藻』掲載の「二つの耳」の終節)を引用し、その「理由」なるものを、次のように明かしています。
昭和16 [1941] 年、彼[久弥]は一高時代に見初めた少女と再会し、一緒に小谷温泉に出かけ、雨飾山に登ろうとしたが果たせなかった。彼女の名前は木庭志げ子、昭和22 [1947] 年に結婚して深田志げ子となる運命の出会いであった。
 また、次のように、深田久弥との古き縁について回想しています。
 私たちが高校 1 年のときだったと思いますが、新聞部の先輩[…略…]が、当時金沢に住んでいた深田久弥にインタビューに行き、『菫台時報』の「門を叩く」という欄の記事を書いていました。どういう記事だったか覚えていないのが残念です。

5. J・M 君へ:KJ 君の大恋愛
2014 年 9 月28 日
M 君
 昨日の昼食時、先にも書きました、近年恒例の R・M 君らとの菫台高校ミニ同期会があり、KJ 君を含めて 5 人が集まりました。[…略…]
 KJ 君と私は集合場所へ行く前に先に落ち合いました。彼は、奥さん(M 子さん)が要介護 1 の認定を受けることになったことを話し、「私の口からいうのも何だが、頭のよい人だったのに、昔のことは覚えていても、少し前に話したことも覚えていなくて…」といっていました。彼と M 子さんの大恋愛のことは、貴君に伝たことがあったでしょうか。婚約時代の彼らに私が初めて会ったのは、私が修士課程 2 年の夏休み前のことでした。[…以下略…]

2014 年 10 月 1 日
M 君
 KJ 君の大恋愛については、私が母へ送った手紙に、彼自身の手紙を引用しながら詳しく報告しています。…KJ 君の大恋愛関係の部分を抜き出して集めることによって、貴君に伝えることにします(KJ 君に無断で悪いですが、50 年以上も昔のことですから、事後にでも快諾を貰えることと思います)。
 […略…]
 婚約時代の KJ 君と M 子さんに私が初めて会った、修士課程 2 年の夏休み帰省前頃の記録がありませんが、それまでに KJ 君が決心し、私も意見を聞かれて賛成した通り、M 子さんは最初の婚約者との約束を破棄して、KJ 君と婚約したのです。1960 年の春休み早々に彼らは結婚式を挙げ、私も披露宴に招かれて出席しました。以下、母への手紙からの抜粋です。
×     ×     ×
 KJ 君から最近 2 回も封書での便りがありました。某女子大を昨年出て彼の学校へ就職してきた人が、「実にすばらしい」人で、「早速お近づきになっ」て、一緒に帰ったり、「お茶を飲みに行っ」たりしているそうです。しかし、「この先生にはちゃんと婚約者があっ」て、「私はみのらぬ恋ゆえ実に実に悲しいです」と。彼女の婚約者は(…略…)。「雨がまるで私の心を読み取ったかのように寂しく降っています…。[…略…]
(1959 年 5 月 21 日——修士課程 2 年生のとき——)
×     ×     ×
 最近の KJ 君の手紙から。
 「きょうは少々冷静に考えて下さい。〈冷静にならなければならないのは彼の方です。〉
「私のために…ここまで書けば分かると思いますが…実は某女子大出身の同僚の先生・M. I さんとのことなのです。(…中略…)。4月以来、ほとんどといっていいくらい毎日一緒に帰ります。たとえば、火曜日は(…中略…)。土曜日、まず、一緒に元町、三の宮へ行き、ドンクに入り、それから須磨浦へ行った。そして、ステレオコンサートを聞き、また三の宮へ出た。非常に疲れて、家まで送るのが辛かったので、タクシーに乗って貰うために、お金を彼女に渡したが、彼女はそれを拒み、『そんなんだったら、家まで送って』と私の手を強く握りしめていた。それでは送ろうとしたとき、同僚の先生にその熱い場面を見られた。また、生徒たちも私たちのことはよく知っている…。
「(…中略…)。いろいろと話し合った。なぜこうも気が合うのか? もしも私が彼女にとって価値のない男性であれば、彼女は婚約している身だから、こうはならなかっただろう。しかし、彼女も迷っている。私の心は決まっている。
「このように全く気の合う女性は初めてなのだ。私は好きで好きでたまらない。どうしても彼女を自分のものにしたいのです。(…中略…)。ともあれ、君の意見を聞かせてくれ給え。」
 […略…]
(1959 年 6 月 x 日)
×     ×     ×
 【引用者の注:(…中略…)と(…略…)はブログ原文中の略、[…略…]はここへの引用に当たっての略。】
 以上が「KJ 君の大恋愛」に関する抜粋です。KJ 君は優れた文章力で苦悩の過程を筆者に伝えています。M 子さんの婚約破棄という大決断の陰に筆者のご母堂も間接的に関与され、筆者が「それまでに KJ 君が決心し、私も意見を聞かれて賛成した通り、M 子さんは最初の婚約者との約束を破棄して、KJ 君と婚約したのです」という通り、親友として相談にのり、また M 子さんには、筆者の高校2年の創作「夏空に輝く星」が KJ 君のバックグランドを理解する上で、貴重な役割を果たしたことなどを考えると、KJ 君との知的でしんみりとした深い友情が感じられました。

 8 月 3 日から 10 月 1 日までの間に頻繁に交換されたメールを通して読みましたが、J・M 君の文章を直接には引用せず、それが読み解けるようにし、これほどの内容が(ここではふれませんでしたが、大津に住んでいた彼になじみ深い場所への旅行についても書かれています。「J・M 君へ:滋賀県高島市へのバス旅行」参照)うまく構成され、継続的に、事実をライブ放送のようにウェブ書かれた手腕に深く感銘しました。文通の内容があたかも予め構成されたように進んでいることにも感心しました。

 【引用者の注:「J・M 君の文章を直接には引用せず、それが読み解けるようにし」とありますが、十分に読み解けないところもあって、M・Y 君の推定が完全には当たっていなかった部分もありました。そういうところには修正を加えました。】

2014年10月29日水曜日

J・M 君へ:返信への返信、そして漱石の『門』のこと (To J.M: Reply to Your Reply and about Sōseki's Mon)

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ギンモクセイ。堺市が高石市へ少し入り込んでいる道路で、2014年10月25日撮影。
Sweet Osmanthus; taken on the road of Sakai City that penetrates a little
into Takaishi City, on October 25, 2014.

J・M 君へ:返信への返信、そして漱石の『門』のこと

October 18, 2014

M 君

 「貴君が反対意見を述べられたとしても、[彼は]結局は思い通りにことを運ばれたでしょう」にいたる、ご感想「●KJ 君」、まことに適切です。

 「●貴下宿」の二つの話題のご記憶には驚きました。話した当人は全く覚えていませんでしたので。光速を超えて飛行(実際には不可能)しながら過去を見るという想像を、私は中学時代に知り、そういう作文——超光速ロケットで地球から遠ざかりながら、戦国時代の武将の戦いをかいま見る——を書いたことがありました。学校においてではなく、自分で雑誌風のものを作って、その中に書いたと思います。群論の話は、大学 3 年生のときに、試験を受けて単位を取る気まではないながら、有名教授・秋月康夫先生の講義を数学教室へ聞きに行ったことにふれたものでしょう。同先生の講義でいま覚えているのは、参考書として先生が鈴木道夫氏との共著になる『高等代数学 I』(岩波全書)を挙げて、「鈴木道夫は私の娘婿です」といわれたことぐらいです。

 「●阪急ファン来訪」——KS 君もクライマックス・シリーズ first stage でのオリックス敗退は、きわめて残念に思われたことでしょう。貴君は彼と、西宮、西京極、神戸グリーン・スタジアムまで付き合われたとのこと、道理で、阪急の歴代選手の名を記憶されているのですね。私も機会があれば、KS 君にお目にかかりたいものです。

 […中略…]

 先般、『学士會会報』(誌名には、この通り、2 種の「会」の字が使われています)2014 年 9 月号に掲載の、山折哲雄氏著「『門』の内と外」というエッセイに、わが国の文学作品には「男女の三角関係を描く作品が極端に少ない」とあるのを読み、興味を引かれました。氏は、「例外中の例外ともいうべき作品」として『源氏物語』にふれ、「[その]作者によって発見されたはずの世界が、それ以後受けつがれたような形跡がまったくみられない」と述べています。そして、「ようやく近代になってから、このテーマに重い腰をあげてとりくもうとしたのが、わずかに夏目漱石だった」として、『それから』と『門』における人間関係の分析に入っています。

 分析の結果は、『それから』では、「三角関係の輪郭がしだいにぼやけて」、「気がつくと、三千代と代助の二極の関係だけがひそかにつづけられている」というものです。山折氏は『門』についても、「『それから』の場合とおなじように、いつのまにか宗助と御米という二極の関係、すなわち対の関係へとすりかわっている」とみて、さらに、「最後の場面で主人公の宗助が自分一人で鎌倉の寺に行って参禅しようと思う」ことから、「対の関係のなかからさえも、唯一のこされた大切な相手の項を差し引こうとしていたのではないだろうか」と述べています。

 西洋の文学における三角関係の記述は、確かにもっと強烈です。たとえば、トルストイの『アンナ・カレーニナ』、スタンダールの『赤と黒』、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』など。それでもやはり、三角関係の頂点の人物がみな同じ強度の印象を与えることはない(上記 3 作におけるカレーニン氏やレナール氏やアルベルトの印象は薄い)ことを見れば、漱石が三角関係を取り上げながらも二極の関係に移行しているというのは、必ずしも漱石の作品の弱点ではないのではないかという気が、私にはします。

 私は『門』をテレビ・ドラマで見ましたが、原作はまだ読んでいなかったので、このたび読みました。インターネット検索をしてみると、『門』のテレビドラマは、TBS系「金曜ドラマ」第 1 期第 3 シリーズとして、『わが愛』の題名で、1973 年に放映されたと分りました。出演は加藤剛、星由里子ら。加藤剛が出演していたことは覚えていましたが、その他はほとんど忘れていました。

 そのドラマの解説に「友を裏切って駆け落ちした男女二人のささやかな生活と心のさびしさを描く」とあるのを見て、確かに、ささやかな暮らしと夫婦愛が印象的なドラマになっていたとは思いましたが、「友を裏切って駆け落ち」という三角関係部分の記憶は全くありませんでした。逆に、テレビドラマでわずかに記憶に残る、宗助が妻・御米を「足弱さん」と呼ぶ場面に、原作では出会わず、キツネにつままれた感じがしました。「足弱さん」は、原作にない脚色だったのでしょうか(他のドラマと勘違いしているとは思えませんが)。

 朝日紙に目下連載中の『三四郎』の昨 17 日分、第十二回「二の四」、大学の池のほとりで美穪子を初めて見る場面は、高校の国語の教科書にあった懐かしい部分です。貴君の高校とは教科書が違っていたでしょうか。

 爽快な秋晴れの日々です。貴君は戸外活動をお楽しみでしょうか。

 T・T

2014年10月7日火曜日

J・M 君へ:KJ 君の大恋愛 (To J. M: KJ's Passionate Love Affair)

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バラ。2014 年 9 月 22 日、堺市・中の池公園で撮影。
Rose; taken in Nakanoike Park, Sakai on September 22, 2014.

2014 年 9 月 28 日

M 君

 昨日の昼食時、先にも書きました、近年恒例の R・M 君らとの菫台高校ミニ同期会があり、KJ 君を含めて 5 人が集まりました。会場は、これも恒例になった堂島の「魚匠・銀平」という店。そこからほど近いセルフサービスのコーヒー店で二次会をしている時、テレビに御岳山噴火のニュースが映りました。御岳山は百名山の一つで、妻も 2 年前に登っています。今日午後 2 時現在では、登山客らの心肺停止が 30 数人にもなったそうですね。

 KJ 君と私は集合場所へ行く前に先に落ち合いました。彼は、奥さん(M 子さん)が要介護 1 の認定を受けることになったことを話し、「私の口からいうのも何だが、頭のよい人だったのに、昔のことは覚えていても、少し前に話したことも覚えていなくて…」といっていました。彼と M 子さんの大恋愛のことは、貴君に伝たことがあったでしょうか。婚約時代の彼らに私が初めて会ったのは、私が修士課程 2 年の夏休み前のことでした。帰省後、MS 君に M 子さんの印象を話したところ、「君自身のことをいっているようだ」といわれました。字が綺麗で静かな話し方をするなどなどの美点を述べたためだったでしょう。

 [中略]

 私は 10 月にはいくつもの予定が入りましたので、貴君とともに KJ 君に会う機会は 11 月にでも持てれば嬉しいと思っています。(昨日 KJ 君に、貴君とメールでやり取りした話の一部を伝えました。)

 T・T


2014 年 10 月 1 日

M 君

 KJ 君の大恋愛については、私が母へ送った手紙に、彼自身の手紙を引用しながら詳しく報告しています。それらの私の手紙を、最初に使っていたブログサイト『エコー!』で記事にしたのですが、そのプロバイダーのシステムが事故を起こし、ブログは消滅しました。幸い、各記事の控えはパソコン上においてあったので、一部、目下使っているブログサイトへ過去の日付けで再現しました。しかし、母への手紙を掲載した 2006 年頃の記事は、まだ再現出来ていません。そこで、パソコン上の控えから、KJ 君の大恋愛関係の部分を抜き出して集めることによって、貴君に伝えることにします(KJ 君に無断で悪いですが、50 年以上も昔のことですから、事後にでも快諾を貰えることと思います)。

 文中、「MT 君」とあるのは、貴君のことです。貴君に私の下宿へ遊びに来て貰った折に、KJ 君がもう婚約したと話したようです。貴君のご来訪は主題には直接関係ありませんが、KJ 君の婚約時期の間接的証拠として、以下の引用に含めます。また、最後の引用は、私の小説「夏空に輝く星」に対する M 子さんの感想が中心の話ですが、そこには KJ 君と M 子さんの親密さや彼女の頭のよさが現れていると思い、含めるものです。その中に出て来る「SN 君」とは、紫中 1 年と菫台高校で KJ 君や私と一緒だった友人(中学は 2 年から野田中)のことです。

 婚約時代の KJ 君と M 子さんに私が初めて会った、修士課程 2 年の夏休み帰省前頃の記録がありませんが、それまでに KJ 君が決心し、私も意見を聞かれて賛成した通り、M 子さんは最初の婚約者との約束を破棄して、KJ 君と婚約したのです。1960 年の春休み早々に彼らは結婚式を挙げ、私も披露宴に招かれて出席しました。以下、母への手紙からの抜粋です。

×     ×     ×

 KJ 君から最近 2 回も封書での便りがありました。某女子大を昨年出て彼の学校へ就職してきた人が、「実にすばらしい」人で、「早速お近づきになっ」て、一緒に帰ったり、「お茶を飲みに行っ」たりしているそうです。しかし、「この先生にはちゃんと婚約者があっ」て、「私はみのらぬ恋ゆえ実に実に悲しいです」と。彼女の婚約者は(…略…)。「雨がまるで私の心を読み取ったかのように寂しく降っています…。近いうちにぜひ来たまえ。テレビもあることだから」とも。
(1959 年 5 月 21 日——修士課程 2 年生のとき——)

 最近の KJ 君の手紙から。
 「きょうは少々冷静に考えて下さい。〈冷静にならなければならないのは彼の方です。〉
 「私のために…ここまで書けば分かると思いますが…実は某女子大出身の同僚の先生・M. I さんとのことなのです。(…中略…)。4月以来、ほとんどといっていいくらい毎日一緒に帰ります。たとえば、火曜日は(…中略…)。土曜日、まず、一緒に元町、三の宮へ行き、ドンクに入り、それから須磨浦へ行った。そして、ステレオコンサートを聞き、また三の宮へ出た。非常に疲れて、家まで送るのが辛かったので、タクシーに乗って貰うために、お金を彼女に渡したが、彼女はそれを拒み、『そんなんだったら、家まで送って』と私の手を強く握りしめていた。それでは送ろうとしたとき、同僚の先生にその熱い場面を見られた。また、生徒たちも私たちのことはよく知っている…。
 「(…中略…)。いろいろと話し合った。なぜこうも気が合うのか? もしも私が彼女にとって価値のない男性であれば、彼女は婚約している身だから、こうはならなかっただろう。しかし、彼女も迷っている。私の心は決まっている。
 「このように全く気の合う女性は初めてなのだ。私は好きで好きでたまらない。どうしても彼女を自分のものにしたいのです。(…中略…)。ともあれ、君の意見を聞かせてくれ給え。」
 すぐに返事を送りましたが、母さんならば、どんな意見を述べるでしょうか。
(1959 年 6 月 x 日)

 母さんの KJ 君に対する感想は、ぼくのと大体同じでした。KJ 君はその後何ともいって来ませんが、某女子大出身の先生とはどうなったのやら。
(1959 年 6 月 22 日)

 24 日の秋分の日には、前日に会社に電話して、MT 君に遊びに来て貰いました。晴天ならば、一緒にどこかへ行くつもりで、午前 10 時過ぎに下宿へ来て貰う約束をしたのですが、あいにく雨でした。それでも、昼食を挟んで前後 4 時間余り、いろいろ楽しく話し合いました。
 湯川研究室の修士課程を今春終えた MR さんという人が彼の会社へ就職してきたそうです。MR さんはゆっくりと話す人で、「ぼくの、ような、つぶしの、きかない、にんげんが、こういう、ところへ、きても、なにも、することが、ないね」などといっているとか。MT 君自身は経理関係の仕事をしているそうです。ぼくも、夏休みの旅行の話、実験の珍談、KJ 君のニュース等々を話し、話題はつきませんでした。MT 君は「奥さんのある自分というものが、まだピンと来ない」といっていました。
(1959 年 9 月末頃)

 先日、KJ 君から手紙が来て、九州へ修学旅行に行って来たとのことでした。M 子さんが彼の本箱から菫台高校の雑誌『新樹』を見つけ出して、ぼくの小説を読み、彼らの交換日記帳にその感想を書いていたと、学会の帰途神戸へ寄ったとき彼が話してくれたので、彼に後でその内容を知らせてくれるように頼んでおきました。それについても、次のように書いてきました。
 「『文全体として、表現や物の形容にしつこさがあり、何となくゴツゴツした生硬さが感じられますが、内容の進展に頭のよさがうかがわれます。また、全体から受ける感じは、適確さそのものですね。登場人物中のあなたはすぐ分かりました[KJ 君が作中のどの人物のモデルになっているかということ]。SN さんも。[夏休み中に SN 君が KJ 君のところへ来て、M 子さんも一緒に会ったらしい。](…中略…)。よいお友だちに恵まれた高校生活を過ごされたあなたは大変幸せだと思います。』彼女は以上のように述べています。」
 ぼくは以下の感想を送りました。
 「M 子さんのご感想を知らせてくれてありがとう。(…中略…)。文章の生硬さと形容の執拗な点をまず批判しておられることは、この評者の感受性の鋭さをうかがわせるものである、と私からご批評に対する批評を呈したい。ところで、君が写し送ってくれた文章の後半は、私の作品そのものに対する直接の批評ではない。その文章が述べられた場所にふさわしく、それは、あの作品の登場人物の一人のモデルとして、あの中に呼吸している過去の君を、あの中でやさしくまさぐってみたことに関する彼女の感想である。そこまでわざわざ写してくれて、ご馳走様!」
(1959 年 11 月 16 日)

×     ×     ×

 KJ 君の件は以上です。

 きょうから朝日紙で漱石の『三四郎』の連載が始まりましたが、私はそれをよそ目に、『門』を読んでいます。その理由や、他の書きたいことについては、また日を改めて。

 T・T

2014年10月3日金曜日

K・F 氏へ:心がぐらつく (To K. F: My Mind Has Been Shaken)

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Farewell to Reality written by Jim Baggott and The Universe edited by John Brockman.

2014 年 10 月 2 日

K・F 様

 10月1日付けメール、ありがとうございました。

 ResearchGate[注:リンク先は同インターネット・サービスのの私のプロフィル・ページ]は登録して、後は放っておいて、気の向くときに眺めるだけでもよいので、ひるまないで参加されることをお勧めします。無理にとはいいませんが。

 秋田大学の地球科学コース受講やアメリカ西部海岸への旅行など、お元気なご活躍ぶりに感服しています。アメリカの土産話を期待しています。

 私は、今月 10 日に東京で、大連にいたときの小学校の同窓会総会(一同が高齢化し、今回が最終回)が開催されますので、前日に上京します。その夕方、逗子市から Y 君、我孫子市から M 君が来てくれて、木村研のミニ同窓会を持つ予定です。

 F さんは anthropic cosmological principle(人間原理)が提唱されたばかりの頃、それに興味を持っておられましたね。私は、その考えはコペルニクス以来の宇宙観・物理観に反すると思っていました。 最近、science writer の Jim Baggott が著した "Farewell to Reality: How Modern Physics Has Betrayed the Search for Scientific Truth" (Pegasus, 2013, paperbound) という本を読みました。Baggott はその本において、multiverse、anthropic cosmological principle、super-symmetric particles などの現代の宇宙物理学・物理学の理論には観測的、実験的根拠がない、もしくは原理的に得られない、として、それらの説を "fairy-tale physics" と呼んでいます。これを読んで、私はわが意を得たりと思いました。

 しかし、続いて、John Brockman 編の "The Universe" (Harper Perennial, 2014, paperbound) という本を読み始めたところ、"fairy-tale physics" は、必ずしもそう呼ばれるべきものではないのではないか、と心がぐらついています。この本には 20 名近くの著名な宇宙物理学者、物理学者たちが最近の理論を分りやすい言葉で述べていて、super-string theory で無数の解の存在が予想されることは、multiverse や anthropic cosmological principle につながる、といわれると、なるほどと思わされるのです。

 では、ご旅行の無事を祈っています。

 T・T

2014年9月24日水曜日

『加藤義明・加藤隆親子展』 (Yoshiaki Kato and Takashi Kato, Father-Son Exhibition)

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木々に囲まれた愛らしいギャラリー・キットハウス。
Lovely gallery, Kit House, surrounded by trees.

 大阪市住吉区長居東の小さな画廊、ギャラリー・キットハウスで開かれている『加藤義明・加藤隆親子展』を昨日見に行った(開催はきょうまで)。加藤義明さんは「東の滝平、西の加藤」と呼ばれた関西の草分け的な切り絵画家である。私が 40〜50 代初め頃に事務局を手伝っていた「堺の文化を育てる市民の会(略称・堺文化会)」の世話人の一人だった関係で知り合っていたが、4 年前にいまの私と同じ年齢で亡くなった。

 息子の隆さんは、生まれつき身体に麻痺があり、障害者支援施設で、足を使ってパソコン画や油絵を描いて、プロの画家を目指している。義明さんの繊細かつ力強い切り絵はよく知っていたところだが、隆さんの作品からも、独特の境地を開きつつあるという感じを受けた。親子展を世話したのは、私も出品して来た堺文化会主催の美交会展(今年は会期が大連嶺前小同窓会と重なるため出品を休む)に協力している一人で、義明さんのお弟子さんの前田尋(ひろし)さんである。

 なお、この展覧会については、2014 年 6 月 18 日付け朝日紙大阪版夕刊に、「父よ、足で描く思い:亡き切り絵巨匠と親子展——あこがれ・反発…生きる力、筆に——」と題して、隆さんの挑戦と思いを中心に紹介されていた。

2014年9月22日月曜日

「ハルカス 300」からの眺望 (Views from "Harukasu 300")

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「ハルカス 300」から見た大阪城。ズームを一杯に効かせて撮影。
Osaka Castle as viewed from "Harukasu 300," the top floor of Japan's heighest building "Abeno Harukasu." The photo was taken by full zooming-in of the camera.


「ハルカス 300」から見た大阪の一部。中央遠方に大阪城が写っているのだが、このサイズでは分らない。
Part of Osaka seen from "Harukasu 300." Osaka Castle is captured at the distant middle but we cannot identify it in the image of this size.


「ハルカス 300」から見た天王寺公園。
Ten'noji Park as viewed from "Harukasu 300".

 小学校同期生の S・Y さんが毎年出品している新象作家協会の大阪展が、京都展に続いて、 9 月 17 日から 天王寺美術館で開催された。彼女は京都展には毎年顔を出しているが、来年からは、京都展が廃止になる(京都在住の会員がいなくなるため)ということで、大阪の会場へ行くのに慣れておきたいと、その初日に顔を出すと聞いた。それで、私も 17 日の開場間もない時間に見に行った。

 新象作家協会の人たちの作品は、みな抽象的な絵や造形である。今回の展示には、何人かの人たちの製作の準備過程を表示したものもあり、抽象画といっても周到な準備を重ねて緻密に作られているものが多いことに驚いた。S・Y さんの絵は、例年とは少し趣きを異にしていたが、やはりひと目で彼女のものと分る作風だった。感想を聞かれたが、とっさに考えをまとめることが難しく、「何か新しいものが生まれ出るような印象ですね」とだけ答えた。

 S・Y さんは、せっかくだから日本一高いビル、「あべのハルカス」の天井回廊(「ハルカス 300」、高さ 300 m)へ行ってみたいというので、付き合った。大阪城は近くに黒く聳えるクリスタルタワーというのを目印に探すと、その左下に見える、と館員に教えて貰った。その方面を見たところ、ビルの谷間にほんの小さく、それらしいものが見えるだけだった。カメラのズームを一杯に効かせて撮ると、確かに城の形をしていた(1 枚目の写真)。

 ズームを全く効かせていない 2 枚目の写真でも、パソコン上で実サイズで見ると、大阪城がちゃんと写っている。3 枚目の写真は、天王寺公園一画を撮ったもので、新象展を見て来たばかりの天王寺美術館とその後ろに広がる日本庭園・慶沢園(来年 3 月末まで、改修工事のため閉園中)が中央に見える。

 「ハルカス 300」からの眺めの北東辺りに、大きな水面のようなものが見えた。しかし、その辺りに、それほど大きな川や湖はないはずである。「ハルカス 300」のリーフレットにある広角写真にもそんなものはない。何が見えていたのか不思議だ。その写真を撮って来なかったのが悔やまれる。

2014年9月18日木曜日

2014年7、8月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of July and August 2014)

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ヤブラン。2014 年 9 月 5 日、わが家の庭で撮影。
Big blue lilyturf; taken in my yard on September 5, 2014.

2014年月分7、8月分記事へのエム・ワイ君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" への感想を 2014 年 9 月 17 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 少年時代からの親友への手紙とメール

 T・K 君と J・M 君との手紙とメールのやりとりの様子が掲載されていました(J・M 君とはその後もメールの交換が頻繁に行われ、以後のブログに掲載されています)。以下にその内容を引用しながら、感想を述べます。

(1) T・K 君へ:パスカルの三角形の拡張のことなど
 前略
早速手書きのお返事をいただき、嬉しく拝読しました。毎日新聞の記事について、「コメントできる立場ではありません」とありますが、鏡像問題は「立場」などに関係なく、迷答・珍答でも聞かせて貰えばよい問題です。
から始まり、
 貴君が数学などについて他にも書かれたものがありましたら、また読ませて下さい。私のこの手紙には、昨年『日本物理学会誌』の「会員の声」欄に投稿して、10 月号に掲載された文の原稿を同封します。ご笑覧の上、「コメント出来る立場ではありません」などといわないで、率直なご感想を聞かせて貰えれば幸いです。長い手紙になり、失礼しました。
で終わっています。筆者の結婚披露宴での祝辞を「再登場」して貰ったこと、同封してあった「数学を楽しむ:生徒とともに AHA 体験を」という話に関して、その文章表現についての指摘、ならびに高校・中学時代の秀才らしい数学的体験に関する思い出が語られ、「他に書かれたものがありましたら、また読ませて下さい」と、自らは最近の会誌への投稿原稿を同封し、「率直なご感想を」と、とらわれない柔軟な発想による意見交換を促しています。

「鏡像問題は『立場』などに関係なく、迷答・珍答でも聞かせて貰えばよい」との筆者の言葉は、本ブログ(8月11日付け「鏡の謎について」に、「プラトン以来、若い日の朝永やファインマンの考察を経てなお,近年まで正解が出なかったものであるが,哲学と呼ぶほどの問題ではない」と書かれていることから考えると、当を得たものと思います。
後日、図書館の倉庫に眠っていた R. Fricke の "Lehrbuch der Algebra" 中に多項係数の関係式を見出したという話がつけ加えられているのが、高級感のある締めくくりになっていると思います。
と、T・K 君の「数学を楽しむ」について筆者は評しています。この本には、パスカルの三角形の拡張に関連する式についての説明があるようです。筆者は三項展開へのパスカルの三角形の拡張は、いつ頃から知られていたのだろうかと思い、インターネット検索をしてみます。そして、
貴君の文中の図 1 に相当するものは、「パスカルのピラミッド」または「パスカルの四面体」の名で呼ばれていることを知りました。また、加藤一郎という人のウェブサイト[注:ここには、パスカルのピラミッドが分りやすく説明されています]に、彼が高校生の頃、パスカルの三角形の拡張を考えたという話が書いてあるのを見つけました。[…]同じことを高校時代に考えた人が貴君の生徒たち以外にもいたようです。
とT・K 君に伝えています[注:T・K 君の「数学を楽しむ」には、彼が教えていた高校の生徒たちと一緒にパスカルの三角形の拡張を考えたとが書かれていたのです]。このように筆者は丹念に調べ、T・K 君の業績を理解し、彼が知らなかったことを教えています。
 ところで、[高 1 のとき]ヨウコ先生が休まれた日があり、K 先生が代理で来て、私たち一同に何か質問がないかと尋ねられました。すると、T 君が、先生を困らせようと思ってでしょうか、(a+b) の 10 乗を展開するとどうなりますかと質問しました。K 先生はもちろんパスカルの三角形をご存じで、記号 C を使った二項係数の性質までも説明して下さいました。貴君はこの出来事を覚えていませんか。
と筆者は問いかけ、続いて、次のような思い出も記して、往時を回想しています。
 私が生徒の頃に楽しんだ数学の問題の一つは、中 3 のときに M 君から出題されたもので、正三角形の一辺を n 等分した長さを一辺とする正三角形を、もとの正三角形の中にぎっしり埋め込んだとき、いろいろな大きさの正三角形が全部で幾つあるか、というものでした。[…]M 君も答を知らなくて、二人で放課後などに黒板にいろいろな式を書き合っていました。そのとき、研究する喜びとはこういうものだろうかという思いをしたことをいまでも覚えています。
この手紙を読みながら、T・K 君と筆者との年来の友情を感じ、心温まるひとときを過ごしました。

(2) J・M 君へ:最近の読書のこと
 昨日のメールの続きとして、読書のことなどを書きます。貴君は聖書を精読しておられるとのことですが、私は聖書(和英とも)を持っていながら、ときおり部分的に眺めるだけです。
との書き出しでJ・M 君へ最近の読書について書いています。
 春頃に、作家の高橋源一郎氏が金沢を紹介するテレビ番組に出ていて、井上靖の『北の海』に触れていました。[…]かなりの長編小説、そして、金沢が舞台になっているのはその一部分だけのようだったので、読むほどでもないかと思いました。ところが、[…]娘たちが結婚するときに残して行った文庫本の中にその作品があるのを見つけて、2 週間ほどで読みました。『北の海』には、金沢が舞台の話が結構長く続いていました。
と書き進められ、筆者も異なる形でながら通りすぎた青春時代が、こと細かに描かれているせいか、興味深く速読できたと記しています。内灘についての記述や、筆者が就職して金沢を離れるときに何人も見送ってくれた人がいたという、『北の海』と類似の追憶の記述があり、同郷の J・M 君も興味をそそられる話だろうと思いました。

 次に、加藤周一の著作を網羅的に読んでいることや、筆者が加藤周一の著作を好むようになった理由を述べています。
 『北の海』より先に、『加藤周一最終講義』を買って読みました。続いて、18 年も前に買って第一巻の始めを少し読んだだけにしてあった『加藤周一講演集』(全二巻)を読みました。第一巻は政治の話が多かったですが、第二巻は日本の文学、美術、文化の話でした。それを読んでいると、彼の主著の一つ『日本文学史序説 上・下』を読みたくなって、購入しました。そして、7 年前に買って、これも少しだけしか読んでなかった、加藤周一の『日本文化における時間と空間』を読了してから、『日本文学史序説 』に移り、目下それを読み続けています。文学を広い意味にとらえて書かれていて、文化・思想史ともいえる重厚な内容です。
 私が加藤周一の著作を好むようになったのは、彼が朝日紙に毎月一回書いていた評論を読み、その文体のよさに加えて、政治観にも大いに同感出来たところからです。[…]加藤周一は現代の著作家の中では最も尊敬出来る人の一人と思っています。それでも、『日本文化における…』中の加藤氏の日本語文法解釈には、少しばかり異論を持ったので、それについてブログ記事を書きました。
と書いており、異論などをまとめる、筆者の読みの深い読書力がよく表現されています。

 『日本文学史序説 』に関しては、朝日紙夕刊の、作家・水村美苗について連載されていた「人生の贈りもの」欄の第 3 回(8 月 13 日付け)に、次のような記述がありました。「[イェール大に]日本の企業が基金を創設し、日本から知識人を招聘していて、幸いその時期と重なったのです。[…]私は加藤周一さんと柄谷行人さんの授業を受けました。加藤さんは『日本文学史序説 』をお書きになっている最中で、生徒は私一人だけというセミナーを担当して下さいました。週一回、私どもの家に食事にお越し頂いて、お酒を飲みながら、鎌倉時代のことを書いていらっしゃる時は鎌倉仏教のことを拝聴して、後はしばし雑談、という具合。本当にぜいたくな、最高の時間でしたね。」
 上記のような日本語の本の他に、英語で書かれた物理学関係の本も併読しています。いま読んでいるのは、Jim Baggott というサイエンスライターの "Farewell to Reality: How Modern Physics Has Betrayed the Search for Scientific Truth" です。Part I は "The Authorized Version2" と題して、すでに正しいとされた物理学の説について解説してあります。かなり難しいことを易しい言葉で巧みに説明していることに感心するくらいで、私としては新しく知るところが少ないです。しかし、これから読む Part II は "The Grand Delusion" と題して、 近年提唱されている諸理論の問題点を批判的な観点で紹介しているようで、面白そうだと思います。
と、筆者は物理関係の本の原書を併読していて、新刊でめぼしい科学関係の情報にも広く読書の関心を広げています。最後に、
 話は変わって、わが家では先月 13、14 日に金沢へ墓参に行ってきました。…金沢市内の見物もしました(ブログ記事参照)。長町の武家屋敷跡へも行きましたが、高校時代にお邪魔したことのある貴君の家がどの辺りだったか、全く思い出せませんでした。次のメールででも地図で教えていただければ幸いです。
と記して、メールは終わっています。充実した内容の「最近の読書のこと」を興味深く拝見しました。これからも頻繁に続くメールで、高質な対話をされるよき間柄の旧友をお持ちのことにも感銘を受けました。

2. 「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」
 先般、『自由と自治・進歩と革新をめざす堺市民の会だより』第 45 号への原稿を依頼された。400 字以内で何を書いてもよいということだった。会の趣旨から考えて、昨年 7 月 20 日付けの本欄にいくつかの短文をまとめて「改憲論に抗して思う」の題名で載せた中の「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」を選び、これを短縮して送った。[…]以下に[上記紙]「鬼太鼓」欄掲載の文を転載する。昨年本ブログに掲載した文と比較して読んで貰えば、文の短縮法の参考にもなろうか。



 私の高校1年のある日の日記(1951 年)に、「『ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重』、何と知的で整然とした解答だろう」とある。『』内は、社会科の宿題「明治憲法と日本国憲法の比較」への優秀解答として先生が紹介したもので、それを書いたのは、学年のマドンナ的存在の女生徒、S 子だった。
 何年か前の高校同期会の折に、私は「湯川秀樹を研究する市民の会」や、地域の「9 条の会」に関わっていることを話した。「9 条の会」といったとき、驚きの声を発した男性たちがいた。そのとき、すかさず、「湯川博士も憲法 9 条を大切と思ったでしょう」と助太刀してくれたのも、S 子だった。確かに、湯川秀樹は 1965 年に「日本国憲法と世界平和」というエッセイを書き、憲法前文の平和に関わる文と第 9 条を讃えている。
 自民党の改憲草案は明治憲法を彷彿させ、まさに、「ヒューマニズムの否定」である。そういう憲法改悪は、断じて阻止するほかない。
という内容の記事が掲載されています。日本国憲法は 1946 年 11 月 3 日に公布され、筆者たちは小学 5 年から中学時代にかけて新憲法について教わったことと思います。高校 1 年の社会の宿題「明治憲法と日本国憲法の比較」への『ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重』と題した優秀回答については、ヒューマニズムの尊重というと、まず、「人権の尊重」が思い浮かび、当時を思い起こし、たいへん新鮮味があり優れていると感心しました。

 敗戦後間もなく軍隊が武装解除、続いて解体されたとき、子供心にも日本はどうなるのだろうかと、いささか心配でしたが、新憲法 9 条により国際的にも戦争放棄が明確にされ、平和を愛する国に生まれ変わることに喜びを感じました。これも「ヒューマニズムの尊重」の最たるものです。

 この掲載文のすぐれているところは、過去の日記の事実に、近くは同窓会での経験を加えてまとめ、筆者が敬愛してやまない湯川博士が 1965 年に書かれた「日本国憲法と世界平和」というエッセイも援用して、「ヒューマニズムの否定につながる憲法改悪は、断じて阻止するほかない」との主張でしめくくったことです。さらに文の短縮法の参考例にもなろうか、という筆者の提示の仕方も、教育者らしい計らいです。

2014年9月9日火曜日

J・M 君へ:滋賀県高島市へのバス旅行 (To J. M: Bus Trip to Shiga Prefecture)

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高島市・畑(はた)の棚田ヘの道端で見かけたタカサゴユリ。
Easter lily flowers seen at the side of the road to terraced rice fields of Hata, Takashima City.


畑の棚田。
Terraced rice fields of Hata.


棚田の近くの八幡神社。写真中央の木はツバキ。
幹に幾つも見られるコブが古さを物語っている。
Hachiman Shrine near the rice terraces. The tree at center is camellia.
Some bumps on its stem shows the oldness of the tree.


昼食を取ったソラノネ食堂。カマドで炊いた御飯がおいしい。
Soranone restaurant where we took lunch. Rice cooked by the cooking stove was delicious.


針江の風景。
Landscape of Harie.


針江で最初に発見された湧水。
The spring that was discovered first in Harie.


針江大川の中に群生するバイカモ。
Ranunculus nipponicus growing in crowds in the Harie-ōkawa river.

2014 年 9 月 2 日

M 君

 8月31日付けと9月1日付けのメール、ありがとうございました。私は昨日、妻と滋賀県への1日バス旅行に参加していました。「湖西の川端[かばた]を訪ねて、黄金色の畑[はた]の棚田とソラノネ食堂」と名付けられた旅です。貴君は大津に住んでおられたので、旅の題名にある「川端」と「畑の棚田」[農林水産省選定「日本の棚田百選」の一つ]のどちらもをご存知と思いますが、私にとっては珍しい眺めでした。

 畑の棚田は昭和の中頃に比べて面積が半分以下になっており、いまも住民の減少と老化が進んでいて保存が難しく、都会からの移住や応援を歓迎しているということでした。針江生水[しょうず]の郷では、いまでも湧水[環境省選定「平成の名水百選」の一つ]を生活に利用する「川端」を備えた家々が沢山あるのを見て、過去へタイムスリップした感を抱きました。[見学中は小雨が降っていましたが、十分に楽しめました(写真参照)。]

 貴君が西日本パイレーツの外野手(のちに巨人へ移籍したといえば、南村不可止選手でしょうか)のインタビュー記事を『紫錦』に書かれたことは覚えていませんでした。Y・KB さんという才女が同期にいたことも知りませんでした。才女や秀才といえば、話は数々あるのですが、[…以下略…]。

 ではまた。

 T・T

 (注:メール原文に修正を加えた。[ ]内に示した読みその他は追加。)

2014年9月7日日曜日

J・M 君へ:深田久弥のことなど
(To J. M: On Kyūya Fukada, etc.)

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カノコユリ。2014 年 9 月 1 日、滋賀県高島市畑(はた)の棚田への道路脇で撮影。
Lilium speciosum, shot at the side of the road to the Hata rice terraces in Takashima, Shiga Prefecture.

J・M 君へ:深田久弥のことなど

2014 年 8 月 31 日

M 君

 今回は、那須からお帰り後の第一報への返事を中心に書きます。

 湿度が高いにしても、毎夏のように大阪より相当涼しいところで優雅な日々を過ごしておられるとは、うらやましいことです。

・深田久弥のこと

 妻は久弥の『日本百名山』の本は持っていませんが、朝日新聞社が 2001 年に発行した『週間日本百名山』を買いそろえ、そこに引用されている久弥の『日本百名山』を愛読しています。その『白山 荒島岳 大山』の号にある久弥の荒島岳についての文に、「大学一年の秋、私は年上の友人と二人で白山一周を試みた」とあることを、妻が教えてくれました。貴君のメールから察するに、この「年上の友人」とは貴君の伯父さんではないでしょうか。

 また、貴君が小谷温泉の山田旅館で聞かれた話は、確かに久弥とその恋人のことです。『週間日本百名山』の『雨飾山 高妻山』の号に、山岳写真家の三宅修が、雨飾山は「遠くから見るときれいな双耳峰」であることを述べています。そして、久弥の
左の耳は僕の耳
右の耳は
はしけやし[いとおしい]
君の耳
そんな詩が浮かんだのに理由があるが、それは言えない。
という文(1957 年、同人誌『霧藻』掲載の「二つの耳」の終節)を引用し、その「理由」なるものを、次のように明かしています。
昭和16 [1941] 年、彼[久弥]は一高時代に見初めた少女と再会し、一緒に小谷温泉に出かけ、雨飾山に登ろうとしたが果たせなかった。彼女の名前は木庭志げ子、昭和22 [1947] 年に結婚して深田志げ子となる運命の出会いであった。

 私たちが高校 1 年のときだったと思いますが、新聞部の先輩(同輩の誰かも同行したかも知れませんが、記憶がありません)が、当時金沢に住んでいた深田久弥にインタビューに行き、『菫台時報』の「門を叩く」という欄の記事を書いていました。どういう記事だったか覚えていないのが残念です(ひょっとすると、KJ 君はわれわれの在校時代の『菫台時報』を全部保存しているかも知れません)。大聖寺には「深田久弥 山の文化館」があり、2007 年 7 月、金沢へ墓参に行った折に妻と訪れました。

・紫中新聞部の人たちのこと

 F さんは旧姓 MT で、満月というあだ名の他に旧姓由来の呼び名も持っていたようです。Y・K さんと同級で彼女と大変仲のよかった Y・SK 君も OT という旧姓の持ち主でした。彼は私たちの 1 年下であるにしては、心身の発達がともに私たちに近いような感じの少年でした。それもそのはず、彼は中国で終戦にあい、その後、学校で勉強が出来ないまま引き揚げて来たので、1 年下に編入したのだそうです。(私は戦後の大連で、ある程度の勉強が出来たので、引き揚げ後、同じ学年に入りました)。彼は高校卒業後のある時期からだったでしょうか、OT 姓に戻りました。

 私は中学 3 年のときに岩波文庫の本を買って読み始めましたが、最初に読んだのは漱石の『坊ちゃん』とマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』でした。後者には主人公トムと仲のよいベッキーという女の子が登場するので、私の日記中では、SK 君に Tom、K さんに Becky のあだ名をつけていました。S 君に誘われて千石町の K さんの家(貴君の書かれた「治作」という料理店名は覚えていませんでした。家と料理店は離れていたのでしょうか)を訪れたこともありました。戸外で彼らが立ち話をしていたのを聞いていただけでしたが。

 私は中学 3 年から高校 1 年の頃、祖父と母を加えた 3 人で、天徳院脇の TN さんという家の二階に間借りしていました。その家の小柄な次女が K さんと同級でした。K さんは、私が高校 1 年のある日、TN さんを訪ねて来たことがあり、私は K さんに、われわれが去ったあとの新聞部をしっかり頼むと伝えました。いや、私が彼女たちの談笑していた部屋を訪れると、K さんの方から、「新聞部をしっかりやります」といったのだったかも知れません。

 SK 君は泉丘高校卒業後、東京でチンドン屋のアルバイトをしながら演劇の勉強をしている、と風の便りに聞いていましたが、私は大学院生の頃、K さんに電話して、彼の連絡先を教えて貰ったりしました。お陰で、私は OT 君となった SK 君が、名古屋で医療器械の販売店を経営していた頃までを知っています。私は 50 代の頃、名古屋大学プラズマ研究所との共同研究をしていて、名古屋へ行く機会が多かったので、そういう折に 2、3 回 OT 君と会い、年賀状も交換していましたが、ある年から賀状がぷっつり来なくなりました。故人となったのではないかと思っています。

 K さんが結婚・離婚したことは知りませんでしたが、彼女が比較的若いうちに病死したことを OT 君から聞きました。彼女は医者を訪れて、気分が悪いのですということを訴えたと思うと、へなへなとくずおれて、そのまま亡くなったとか。「そのまま」といっても、それから入院した後、回復することなく、ということだったのかも知れませんが、彼の言葉がその通りに、私の脳裏に映像となって焼き付きました。スカッとした性格だった彼女らしい最期のようにも思えます。

 新聞部の写真に写っている T・Y 君は、「べんきょう」というあだ名を貰っていてましたね。実は、彼と私は小学校の 2、3 年生ぐらいのときに、友人同士でした。私は当時七尾市の御祓(みそぎ)国民学校にいて、彼は父君の転勤(警察関係だったと思います)で金沢から転校して、私のいたクラスへ入って来たのです。彼の家へ遊びに行ったこともあったのですが、私は 3 年生の 2 学期から大連へ移りました。紫中で再会後は、お互いに内気になっていたせいでしょうか、あるいは、私にはすでに KJ、KZ、KB 君などの親友がいたからでしょうか、廊下ですれ違えば挨拶する程度の間柄でしかありませんでした。1998 年発行の紫中同窓会名簿では、彼はもう故人となっています。七尾での思い出を語り合う機会がなかったのが残念です。

 ではまた。

 T・T

 [注:実際に送ったメールの一部(紫中野球部の人たちのこと)を割愛した。]

2014年9月6日土曜日

『生誕 140 年 中澤弘光展—知られざる画家の軌跡』 (NAKAZAWA Hiromitsu: Retrospective Exhibition of Commemorating the 140th Anniversary of the Artist's Birth)

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上、三重県立美術館。下、『中澤弘光展』の看板。
Upper: Mie Prefectural Art Museum. Lower: Sign of NAKAZAWA Hiromitsu Exhibition.

2014 年 8 月30 日

M 君

 「ウォッチャンのこと」へのご返信、ありがとうございました。それを拝読して、またまた、書きたいことが増えましたが、まずは、ご要望に応えて、中澤弘光展のことを書きます。

 私がこの展覧会を知ったのは、妻がよく見ているテレビ東京系列の放送番組『なんでも鑑定団』の、さる 3 月 11 日分を私もしばらく見ていてのことでした。その日の放送は、過去の放送から選りすぐったものの再放送で、中澤弘光の『潮風』の鑑定依頼も取り上げられており、その末尾にこの展覧会の案内を挿入してあったのです。その放送記録を見ると、鑑定額は 400 万円です。貴君が購入された瀬田の唐橋方面の油絵も、さぞ高価だったことでしょう。

 中澤弘光展を開催中の三重県立美術館のある津市へは、これまで、大連嶺前小学校での恩師 M 先生が亡くなられたあと、その夫人を尋ねて一回行ったことがあるだけでした。私がまだ 50 代の頃のことで、近鉄の津駅からどのようにして先生宅へ向かったのかを、もう全く思い出せません。美術館は、駅から街路樹や道路脇に広がる津偕楽公園(奇しくも貴君は 28 日付けメールに、この公園の名がそれに似せられたと思われる水戸の偕楽園について書かれましたね)の豊かな緑を眺めながらの徒歩、約十分で行けるところにあります。

 中澤弘光展の副題には「知られざる画家の軌跡」とあり、最近まで中澤の名を知らなかった私などは「知られざる画家」だったのかと思いがちですが、チラシの説明をよく読むと、保存されていたアトリエを今回調査して発見された貴重な資料をもとに、彼のいままで知られていなかった一面をも明らかする展示を行なっている、ということだと分ります。誤解されないように、「画家の知られざる軌跡」と書くべきだと思います。それはともかく、見応えのある展覧会でした。常設展にも内外の著名な画家たちの絵が含まれており、レストランが上質のフランス料理を提供しているのもよく、また訪れたい美術館だと思いました。

 中澤の絵そのものの印象については、画家の奥様をお持ちの貴君に私が下手な感想を書くのは気がひけますので、ほんの二、三言だけにしておきます。中澤がいろいろな画風を比較的長期にわたって模索したことを示す絵も沢山ありました。それで、他の内外の著名な画家の絵の多くが、これは誰々の絵だと分りやすいのに比べ、特徴が掴み難い感じがしました(最終的には、初期の、黒田清輝の影響の大きいスタイルに戻った、というか、それを発展させたものに落ち着いたのでしょうか)。それだけに、いろいろな試みの絵に接することが出来るとともに、小ぶりの水彩画多数、そして、デザイナーとしての一面を示す展示(与謝野鉄幹・晶子の著書他、多くの本の装丁と挿絵や雑誌の表紙絵など)も見ることが出来、興味の尽きない展覧会でした。亡くなる 90 歳の年にも、大きな油彩画を描いているのが印象的でした。こちらに同展の案内、また、こちらに 9 月 12 日からの、そごう美術館(そごう横浜店内)での開催案内があります。

 ではまた、多分すぐに。

 T・T

2014年9月5日金曜日

J・M 君へ:ウォッチャンのこと (To J. M: About "Watchan")

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「かんぽの宿岐阜羽島」の部屋からの風景。2014 年 8 月 29 日描く。
View from the room of Kampo Hotel Gifuhashima, drawn on August 29, 2014.

J・M 君へ:ウォッチャンのこと

2014 年 8 月 26 日

M 君

 本日の興味深いメール拝受。

 昨晩ふと、岐阜羽島の「かんぽの宿」に一泊して津市の三重県立美術館で開催中の中澤弘光展などを見に行こうと思い立ちました。幸い、宿はまだ空室があり、予約できました。列車の時間等を調べていたところ、貴君へ十分な返信を書く時間がなくなりました。明日も地域の9条の会の世話人会議や旅の準備などあって、書けないかと思いますので、旅から帰ってから、ゆっくり書くことにします。

 では。

 T・T


2014 年 8 月 27 日

M 君

 昨夜も夜中に目覚めて、貴君のメールにあった中学 2 年生のときの新聞部の集合写真のことを思い出し、思い出が次々に広がりました(昔のことの記憶がよすぎるのも善し悪しです)。そのごく一部を、とりあえず書きます。

 上記写真中の女生徒は、1年上の M・Y さんと1年下の Y・K さんだけだったと思います。M さんは小立野の美容院の娘さんです。私たちと同期に H・S 君(石引小の遊撃手、紫中でも野球部にいたと思います)というのがいて、彼の家は、その美容院の隣の時計屋でした。それで、 H 君は Y さんから「ウォッチャン」と親しく呼ばれていると、U 君が冷やかしていました(U、S 両君と私は小学校 6 年のときも、中学 2 年のときも同じクラスでした)。

 当時はなぜ S 君が「ウォッチャン」なのか気にしていませんでしたが(「坊ちゃん」の訛りだろうぐらいに思っていたようです。小学校以来の友人仲間が彼を呼ぶあだ名は「ナベ」でした。野球を始めたばかりの頃、鍋を逆さにしたような野球帽を被っていたということからついたあだ名だそうです)、昨夜ふと、時計屋は watch を扱っていて、そこの坊ちゃんだから「ウォッチャン」になったのだろう、Y さんがつけたのならば、彼女はなかなかの wit の持ち主だったのだ、と思いました。

 ウォッチャンは北陸放送のカメラマンになり、われわれがまだ 40 代のときの石引小の同級会の折には、アメリカ出張での見聞などを鋭い観察を交えて話してくれました。それで、石引小の男子同級生中では、いまや私と最も話の合う人物になったと思っていました(女子同級生も加えると、もっと話の合う人がいます。貴君宛にまだ書いたことがなかったようでしたら、また別の機会にでも)。しかし、ウォッチャンは早く病死してしまったそうで、これもまことに残念なことです。

 Y・K さん関連の男性のことも思い出しましたが、次回にします。

 ではしばらく、ごきげんよう。

 T・T

2014年9月4日木曜日

J・M 君へ:貴君にとって意外だったこと 2 題について (To J. M: On the Two Topics That Surprised You)

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筆者が大学院生のときの物理学科研究室対抗ソフトボール大会の様子。打者は筆者。
A scene of the softball tournament among divisions of Physics Department when I was a graduate student. The batter is the author.

J・M 君へ:貴君にとって意外だったこと 2 題について

2014 年 8 月 4 日

M 君

2 題の 1

 加藤周一が医業を止めたのは 1958 年ということです(http://ja.wikipedia.org/wiki/加藤周一参照)から、39 歳くらいまでは二刀流だったことになり、貴君が生涯二刀流の人と思っても、さほどおかしくはありません。しかも、『日本文学史序説』は 1960 年秋にブリティッシュ・コロンビア大学に招聘されて行なった講義をまとめたものということですから、その素材は二刀流時代に仕込んでいたことになりますね。

2 題の 2

 ハハハ。「唯一無二」の阪急ファンだった貴君の友人が2人になりましたか。浜崎監督は大連にいた人だったので、阪急ファンになった次第です。それにしても、南海ファンだった貴君が、「ヘソ伝」から「山口」「加藤」らまでよくご存じですね。

 私はスポーツは全く苦手でしたが、野球の真似事やソフトボールだけは好きでした。T・KJ 君の家が小立野を出外れたところにあった頃は、そこを訪れると、稲刈りの終わった田んぼで、怪しげなバットを使い、よく野球の真似事をしたものです。

 紫中 2 年のときは、石引小の名ピッチャーだった U 君と同じクラス(3 組でした。貴君は 5 組でしたか)で、昼休みや自習時間などに「東西対抗」と称して、打つと硬球に似た音を出す U 君手製のボールを使って野球をする仲間の端っこに加わっていました。ある日、相手の A 君という、軟投型のピッチャーから、3 打席目にうまくレフト前へヒットしたことを、いまでも覚えています。1 打席目ではサードライナー、2 打席目はもっと力を入れて打ったところ、レフトフライ、そこで 3 打席目では、前の 2 打席の中間ぐらいの力で打ったのです。私にしては珍しいヒットだったからでしょうか、U 君からそのあとで、「サードオーバー、レフト前ヒーット! やな」と冷やかされました。

 その頃、同様の仲間でソフトボール試合をして、ランニングホーマーを放ったこともあります。これは多分生涯に一本だけの記録でしょう。また、自習時間に一斉に抜け出してソフトボール試合か「東西対抗」をしていたところ、あとでクラス担任の N 先生から、壊れた椅子の足だったか、木の棒で、頭のてっぺんをごつんと一同が一発ずつやられました。それを見ていた女生徒たちの中の、I さんというのが、「T さんまで!」と、同情の声をあげてくれました。つまらないことを覚えているものですね。

 ソフトボール試合といえば、大学院生のときの研究室対抗(写真参照)や、大放研での部対抗でも、ある程度活躍しました。大抵、捕手を勤めました。走るのが遅くてもよいので。

 また、中学時代には、二つのサイコロと、統計と確率に基づいて多数の表を使う野球ゲームを作成して、主に T・KB 君とそれでよく遊んでいました。それで、高校の数学で習う確率や統計は、いたってやさしく感じられました。その野球ゲームは、研究者になってからの、電子の物質透過のモンテカルロ法による計算に通じるところがあります。そのモンテカルロ法というのは、電子が物質内を通過するときにくり返し起す素過程を、サイコロの代りに乱数表を使って、各素過程の理論的確率分布に従うようにコンピュータ内で発生させ、結果を統計的に求める方法ですから。自分たちで直接モンテカルロ計算はしませんでしたが、それを学び、その方法の簡略化に役立ちそうな研究をしたり、国外の共同研究者がその方法で計算してくれた結果を経験式作成に利用したりしました。

 雑談を多く書き、失礼しました。

 T・T

2014年9月3日水曜日

J・M 君へ:読書のこと(続き)とファンであるということ [To J.M: On Reading (Continuation) and Being a Fan of Something]

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咲きかけのハマユウの花。2014 年 8 月 15 日、わが家の庭で撮影。
Flower of crinum just beginning to bloom; taken in my yard on August 15, 2014.

J・M 君へ:読書のこと(続き)とファンであるということ

2014 年 8 月 3 日夜

M 君

 貴君の聖書についてのお考え、「中東、ヨーロッパの歴史・芸術理解には必要不可欠では」、「一部歴史書なのかも」、「修養書の一面がある」は、全くその通りと思います。

 貴君も加藤周一を好んでおられましたか。私が「夕陽妄語」を朝日紙で読んでいたのは、主に、読書用、家用、外出用の三つの眼鏡を持っていた時期です(いまは始めの二つが兼用になっています)。新聞記事は家用の眼鏡でおおざっぱにしか読まなかったのですが、「夕陽妄語」だけは、書斎へ持込んで読書用の眼鏡で精読しました。しかも、単行本になったときには、それを必ず買って再読するという熱心な加藤ファンでした。貴君は彼の文学書渉猟範囲の広さを偉大と書かれましたが、彼は最初の専門は医学でも、後に評論家に転向したので、評論の専門を極めようとすればこの程度の渉猟は必要かという気もします。貴君が触れられた丸山真雄も読んでみたい人ですね。

 ファンといえば、私はプロ野球のオリックス・ファンですが、オリックスは今年久しぶりに強いので、CATV の実況放送やインターネットの「一球速報」を毎試合、必ずしも全試合時間ではありませんが、見ています(以前はオリックスの一前身の阪急ファンで、若い頃は、たまには、旧西宮球場まで観戦にも行きました。いまは球場まで見に行く元気がありません——野球の一試合は長時間かかるので)。しかし、このところオリックスの調子が下がり、昨日と今日は 2–7、3–8と、ロッテに大差で連敗しました。ひいきチームが負けると、自分のことでもないのに、いかにも悔しいのは、心理学でいう「同一視」の現象でしょうか。貴君はタイガース・ファンだったでしょうか。

 ではまた。

 T・T

 (注:実際に送ったメールに対して、若干の修正を行なった。)

2014年8月31日日曜日

「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」 ("Negation of Humanism, Respect for Humanism")

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サルスベリ。2014 年 8 月 15 日撮影。
Crape myrtle, taken on August 15, 2014.

「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」

 先般、『自由と自治・進歩と革新をめざす堺市民の会だより』第 45 号への原稿を依頼された。400 字以内で何を書いてもよいということだった。会の趣旨から考えて、昨年 7 月 20 日付けの本欄にいくつかの短文をまとめて「改憲論に抗して思う」の題名で載せた中の「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」を選び、これを短縮して送った。掲載紙(2014 年 8 月 19 日発行)が送られて来たのを見ると、依頼されたのは、第 1 面下部の「鬼太鼓」と題する、朝日紙の「天声人語」相当の欄の原稿だったのだ。400 字に短縮するには、いささか苦労したが、うまく 1 段に収まっている。以下に「鬼太鼓」欄掲載の文を転載する。昨年本ブログに掲載した文と比較して読んで貰えば、文の短縮法の参考にもなろうか。



 私の高校1年のある日の日記(1951 年)に、「『ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重』、何と知的で整然とした解答だろう」とある。『』内は、社会科の宿題「明治憲法と日本国憲法の比較」への優秀解答として先生が紹介したもので、それを書いたのは、学年のマドンナ的存在の女生徒、S 子だった。

 何年か前の高校同期会の折に、私は「湯川秀樹を研究する市民の会」や、地域の「9 条の会」に関わっていることを話した。「9 条の会」といったとき、驚きの声を発した男性たちがいた。そのとき、すかさず、「湯川博士も憲法9条を大切と思ったでしょう」と助太刀してくれたのも、S 子だった。確かに、湯川秀樹は 1965 年に「日本国憲法と世界平和」というエッセイを書き、憲法前文の平和に関わる文と第 9 条を讃えている。

 自民党の改憲草案は明治憲法を彷彿させ、まさに、「ヒューマニズムの否定」である。そういう憲法改悪は、断じて阻止するほかない。

2014年8月16日土曜日

J・M 君へ:最近の読書のこと (To J. M: On My Recent Reading)

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今夏は平均気温が低いせいか、毎年 8 月終り頃に開花するタマスダレが、
わが家の庭で、もう花開いた。2014 年 8 月 15 日撮影。
The white rain lily, which bloom near the end of August each year, has blossomed already in my yard this summer, probably because the average temperature has been low.
The photo was taken on August 15, 2014.

J・M 君へ:最近の読書のこと

2014 年 8 月 3 日

M 君

 昨日のメールの続きとして、読書のことなどを書きます。

 貴君は聖書を精読しておられるとのことですが、私は聖書(和英とも)を持っていながら、ときおり部分的に眺めるだけです。

 春頃に、作家の高橋源一郎氏が金沢を紹介するテレビ番組に出ていて、井上靖の『北の海』に触れていました。その作品を読みたいと思ってアマゾン書店の紹介を見ると、主人公は柔道に一生懸命になる少年で、かなりの長編小説、そして、金沢が舞台になっているのはその一部分だけのようだったので、読むほどでもないかと思いました。ところが、4 月下旬のある日、娘たちが結婚するときに残して行った文庫本の中にその作品があるのを見つけて、2 週間ほどで読みました。

 『北の海』には、金沢が舞台の話が結構長く続いていました。柔道のことは皆目知らない私ですが、自分も異なる形でながら通りすぎた青春時代が、こと細かに描かれているせいか、退屈しないで読めました。『北の海』という題名は、主人公・洪作が四高柔道部の連中と金石から内灘までの海岸を歩きながら眺めた荒々しい日本海の風景から来ています。内灘には、私の従兄が住んでいるので、大学生時代から就職して間もない頃にかけて、よくそこに泊まって、海岸へ甲羅干しに出かけたものです。

 終盤に、主人公の洪作が中学の先生夫妻、友人たち、そして淡い気持を抱いたトンカツ料理屋の娘・れい子に見送られて、第四高等学校受験の勉強のため、両親の住む台湾へ向かって沼津を出発する場面があります。そこを読んだときには、私が就職して金沢を離れた日が思い合わされました。場所は違いますが、そのとき、何人も見送ってくれた人たちがいたからです。

 『北の海』より先に、『加藤周一最終講義』を買って読みました。続いて、18 年も前に買って第一巻の始めを少し読んだだけにしてあった『加藤周一講演集』(全二巻)を読みました。第一巻は政治の話が多かったですが、第二巻は日本の文学、美術、文化の話でした。それを読んでいると、彼の主著の一つ『日本文学史序説 上・下』を読みたくなって、購入しました。そして、7 年前に買って、これも少しだけしか読んでなかった、同じく加藤周一の『日本文化における時間と空間』を読了してから、『日本文学史序説 』に移り、目下それを読み続けています。文学を広い意味にとらえて書かれていて、文化・思想史ともいえる重厚な内容です。

 私が加藤周一の著作を好むようになったのは、彼が朝日紙に毎月一回書いていた評論を読み、その文体のよさに加えて、政治観にも大いに同感出来たところからです。残念ながら、2008 年に 89 歳で亡くなりましたが、現代の著作家の中では最も尊敬出来る人の一人と思っています。それでも、『日本文化における…』中の加藤氏の日本語文法解釈には、少しばかり異論を持ったので、それについてブログ記事を書きました。

 上記のような日本語の本の他に、英語で書かれた物理学関係の本も併読しています。いま読んでいるのは、Jim Baggott というサイエンスライターの "Farewell to Reality: How Modern Physics Has Betrayed the Search for Scientific Truth" です。Part I は "The Authorized Version" と題して、すでに正しいとされた物理学の説について解説してあります。かなり難しいことを易しい言葉で巧みに説明していることに感心するくらいで、私としては新しく知るところが少ないです。しかし、これから読む Part II は "The Grand Delusion" と題して、近年提唱されている諸理論の問題点を批判的な観点で紹介しているようで、面白そうだと思います。

 話変わって、わが家では先月 13、14 日に金沢へ墓参に行ってきました。梅雨明け前でしたが好天に恵まれ、長女も同伴したので、ついでに金沢市内の見物もしました(ブログ記事参照)。長町の武家屋敷跡へも行きましたが、高校時代にお邪魔したことのある貴君の家がどの辺りだったか、全く思い出せませんでした。次のメールででも地図で教えていただければ幸いです。

 ではまた。

 T・T

 (注:実際に送ったメールに対して、省略・追加などの編集を行なった。)

2014年8月12日火曜日

日本物理学会誌への投稿「鏡の謎について」に対するエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comment on My Contribution to Butsuri, "On Mirror Puzzle")

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わが家の庭に次つぎに咲くハマユウの花。2014 年 8 月 6 日撮影。
Crnum flowers bloom one after another in my yard. The photo was taken August 6, 2014.

日本物理学会誌への投稿「鏡の謎について」に対するエム・ワイ君の感想

 前のブログ記事で紹介した私の日本物理学会誌への投稿「鏡の謎について」に対して、M・Y 君から感想を貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



 これを機会に吉村浩一著『鏡の中の左利き』の巻末に貴君の書かれた「一物理屋のコメント」を再読しながら報文「鏡の謎について」を読みました。

 「一枚の平面鏡に非対称な物体を映すとき、物体と鏡像に、それぞれの固有座標系を適用すれば、物体と鏡像の間で、非対称性の特徴が逆になる」という「謎」に対する貴君の答えは、数学・物理学を勉強した人なら、なるほどと感心し、理解することが出来ましょう。「プラトン以来、若い日の朝永やファインマンの考察を経てなお、近年まで正解が出なかったが、哲学と呼ぶほどのものではない」という問題について、学界で重ねられている論争の様子がよくまとめられています。

 上記の「一物理屋のコメント」の一節「数学者の示唆(1):滝沢の教科書」には、次のように記されています(本報文にある、朝日新聞の記者が読者からの質問に対して最近まとめた「鏡の謎」への答えに関係するとものと思われますが)[注 1]。
[…]多摩市の主婦[…]が 20 年前に滝沢精二の大学生向け代数教科書に出会って、目からウロコが落ちるような気がしたとして引用していた[…]その答えは、滝沢の「一次変換」の章中、「ベクトル空間の向き」という節の一つの問題に対する解答として,巻末にのっている。問題は、「鉛直に立てられた鏡に向かうと、左右が逆になっていることはよく知られている。では、なぜ上下は逆にならないか」となっている。[…]答えを滝沢の本から直接引用する。
 鏡に映る時、実は左右も上下もそのままで、ただ前後だけが変わる。ところがわれわれの日常用語では前後を指定して初めて左右が定義されるもので、前後を逆にすれば、左右は逆になるとみなされている。これに反して上下の定義は前後の指定に関係しない。
 滝沢の答えは 3 軸決定の順を踏まえたものかと想像されるが、文面には、上下の決定を優先することが現れていない。[…]われわれが Tabata–Okuda の報文を書くにあたって、滝沢の説明から最もよいヒントを得たのであり、[…]
この意味からも私は、(幾何光学、立体幾何学の知識を持つ)数学・物理学を勉強した人なら理解できるだろうと感じた次第です。報文には、「[Psychonomic Bull. に投稿した論文の]私たちの答えは決定的なものといってよいと考えられる」と述べられています(投稿以来議論が交わされたようですが)。心理学者たちの中からも賛同者が出ていることは、大きな成果ですね。
物理学者・小亀氏も「鏡の謎」について論文を発表した。同氏は観測に二つの座標系を用いることは許されないとしている。
と記されています。これはどういうことでしょうか[注 2]。このことを意識してか[注 3]、貴君は結びに、
アインシュタインは、16 歳のときに光を追って光速で飛ぶ想像をしたことが、後に特殊相対論の構築に役立った」と述べており、異なる座標間の観測の比較は、許されないことではなく、逆に、重要な理解をもたらす操作なのである。
と断言しています。
いにしえの世に「鏡の謎」を出題した人物は、左右の概念の把握における人々の弱みを巧みについて、現代人をも翻弄したといえよう。
は名言であり、FS 小説の結びのようでもあります。

引用者の注

  1. 「鏡の謎について」中に記した 2006 年の朝日紙の記事は、「一物理屋のコメント」で紹介した 1985 年の朝日紙の記事とは全く無関係に書かれたもので、前者の記事を書いた記者は、いかにも不勉強と思われます。その記事は、「取材協力=東京都・杉並区立科学館・渡辺昇館長、東京大・滝川洋二客員教授」となっていますが、小亀説だけを知って書かれたかのように、同説そっくりです。すなわち、「鏡が逆転するのは前後だけ」というものです。これは、鏡に対して正面を向いている人の座標系を実物と鏡像の共有座標系とした見方にのみこだわって、「鏡の謎」の本質を理解することなく、その謎は「質問が間違っている」とするものです。私はこの記事を見てすぐに、朝日新聞大阪本社へ電話し、記事が一説にかたよっていることと、私たちが別の答えをアメリカの心理学誌に投稿し、掲載されたことを伝えました。電話に出た人は、いずれお考えを聞かせてほしいというような返事をしたと思いますが、その後連絡はありませんでした。
  2. 小亀説は、注 1 に述べたように、実物とその鏡像を比較するとき、鏡に対して正面を向いている人の座標系だけで左右をいうべきであるとするものなので、実物と鏡像のそれぞれに固有座標系をあてはめて比較するということは許されない、というのです。これは、たとえば、物体 A に対する B の相対運動を記述したいとき、A には A の座標系を、B には B の座標系を使ったのでは話にならない、という考えからきているかと思います。しかし、二つの座標系同士の関係を見れば、A に対する B の相対運動は分りますし、また、相対運動の記述と形態(特に上下・前後・左右に関わる形態)の記述は話が異なると思います。
  3. 「意識して」というより、一つの反論として書きました。「会員の声」欄の字数制限のため、言葉足らずのところがあったかも知れません。

2014年8月11日月曜日

「鏡の謎について」("On Mirror Puzzle")

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わが家の庭のランタナ。2014 年 7 月 19 日撮影。
Lantna flowers in my yard, taken on July 19, 2014.

「鏡の謎について」

 先般、M. Y. 君に『日本物理学会誌』Vol. 62, p. 213 (2007)(「会員の声」欄)掲載の私の投稿「鏡の謎について」のコピーを送ったところ、それに対する感想文を貰った。その感想文を紹介するに先立って、私の投稿文をここに掲載する(『日本物理学会誌』に掲載されたままの PDF 版はこちらからダウンロードできる)。


鏡の謎について

 国府田氏は本欄の「鏡の謎:物理学と哲学の関係について」という文(文献 1)において,「物理学に文理を超えた総合知を求める機運」の高まりを望んでいる.私はこれに大いに賛同する.ただ,「なぜ鏡は左右を逆に映すのか.上下はそのままなのに」という「鏡の謎」は,プラトン以来(文献 2),若い日の朝永(文献 3)やファインマン(文献 4)の考察を経てなお,近年まで正解が出なかったものであるが,哲学と呼ぶほどの問題ではない.そうはいっても,私と共著者・奥田(ともに物理学会会員)は,この「謎」についてアメリカの認知心理学誌に論文(文献 5)を寄せ,国府田氏の望む機運のささやかな一端を担ったので,そこに記した「謎」の答えをこの機会に紹介したい.

 私たちの論文は,「鏡の謎」に対する心理学者・高野氏の多重プロセス説(文献 6, 7)という複雑な答えへの反論として投稿したもので,同様の反論がニュージーランドの心理学者 Corballis からも先に寄せられていた(文献 8)が,厳しい査読を経て,両論文は同時掲載となった(これらの反論に対する高野氏の再反論は不採用だった).また,イギリスの心理学者 McManus も,やや遅れて独立に,私たちのものと同じ答えを著書(文献 9)に記している(ただし,その答えに続いて,高野氏の分類では「回転説」に入るファインマンの説明を肯定的に引用しているのは矛盾している).以来,私たちの答えに対する有効な反論は出ていない(終りの 2 節に付加的説明を記す).こうした状況から,私たちの答えは決定的なものといってよいと考えられる.

 「鏡の謎」で「鏡は左右を逆に映す」というのは,例えば,私が右手を上げた姿を鏡に映すとき,その鏡像を鏡の向こう側にいる別の人物と見れば,鏡に対する私の向きがどうであっても,「向こう側の人物」は左手を上げていると見なされることを指す.これを,もっと正確かつ一般的に述べれば,「1 枚の平面鏡に非対称な物体を映すとき,物体と鏡像に,それぞれの固有座標系を適用(これを『固有座標系の個別使用』と呼ぶ)すれば,物体と鏡像の間で,左右非対称性の特徴が逆になる」ということである.ここで,物体の固有座標系とは,物体に基準をおいた「上」「前」の二つの向きに加えて,「右」の向きを,右・前・上の向きが右手座標系の x・y・z 軸の正の向きにそれぞれ対応するように定めた座標系である.鏡像の固有座標系も,これと同じ構造のもの(その鏡映でなく)である.

 さて,幾何光学は,平面鏡による像が,もとの物体の鏡面に垂直な向きを逆にしたもであると教える.また,立体幾何学は,非対称な物体を任意の一つの方向について逆にすれば,もとの物体に対して,右の手のひらに対する左の手のひらのような関係にある「対掌体(enantiomorph)」の生じることを教える.この二つの知見を合わせれば,物体とその鏡像は互いに対掌体で,上下・前後・左右のどの軸に沿って逆になったものと見てもよいことになる.それにもかかわらず,物体と鏡像に対して固有座標系の個別使用をすると左右が逆と観察される原因は,左右軸の定義段階での性格にある.

 すなわち,物体に固有の上下・前後は物体の外部的特徴によって決まるのに対し,左右は上下・前後が決まった後で,それらに関連づけて決まる(上下・前後軸のうちの 1 または 2 軸が決められない物体には,左右も決められない).例えば人体の場合,固有の下→上・後→前の向きは足→頭・背→腹の向きとして,まず決まり,鏡像においても同じ決め方がなされる.したがって,これらの方向の非対称性の特徴は逆になりようがない.そこで,対掌体同士で非対称性が逆になっている方向は,最後に決まる左右軸に,いわば押しつけられるのである.――以上が「鏡の謎」の答えである.なお,2 次元の形象である文字の鏡映による左右逆転も,文字とそれが書かれている媒体を合わせて考えれば,一般の物体の場合と全く同様に説明できる.

 高野氏はこの答えに納得していないが,氏はその後[注 1],多重プロセス説を上下・前後・左右の逆転・非逆転という,鏡像に対するさまざまな認知を説明する,いわば「拡張された鏡の問題」に当てはめており(文献 10),その思考は本来の「謎」の解明から外れ,「謎」自体への彼の答えは複雑なままである.拡張された問題については,「謎」への私たちの答えに立脚した,心理学者・吉村氏の説(文献 11)もあり,私はこちらを支持する[注 2].

 物理学者・小亀氏も「鏡の謎」について論文(文献 12)を発表した.同氏は観測に二つの座標系を用いることは許されないとして(文献 13),従来の諸説を批判している.朝日新聞の記者が読者からの質問に対して最近まとめた「鏡の謎」への答え(文献 14)も,小亀説と同じ立場を取っており,紙上の回答者である架空の人物「藤原先生」に,「ものを観察するとき,途中で自分の『見る位置』を変えてはダメ」「一カ所に立って川を見れば水が流れていくのがわかるけど,水と一緒に走り出したら,止まって見えちゃうでしょ」といわせている.しかし,アインシュタインは,16 歳のときに光を追って光速で飛ぶ想像をしたことが,後に特殊相対論の構築に役立ったと述べており(文献 15),異なる座標系間の観測の比較は,許されないことでなく,逆に,重要な理解をもたらす操作なのである.いにしえの世に「鏡の謎」を出題した人物は,左右概念の把握における人々の弱さを巧みに突いて、現代人をも翻弄したといえよう.

文 献
  1. 国府田隆夫:日本物理学会誌 62 (2007) 60.
  2. R. Gregory: Mirrors in Mind (W. H. Freeman, 1997) p. 88.
  3. 朝永振一郎:『鏡の中の世界』(みすず書房, 1965) p. 130.
  4. J. Gleick: Genius (Pantheon, 1992) p. 331.
  5. T. Tabata and S. Okuda: Psychonomic Bull. Rev. 7 (2000) 170.
  6. 高野陽太郎:『鏡の中のミステリー』(岩波書店, 1997).
  7. Y. Takano: Psychonomic Bull. Rev. 5 (1998) 37.
  8. M. C. Corballis: Psychonomic Bull. Rev. 7 (2000) 163.
  9. C. McManus: Right Hand, Left Hand (Weidenfeld & Nicolson, 2002) pp. 307-312.
  10. Y. Takano and A. Tanaka: J. Exp. Psychol. (in press).[注 3]
  11. 吉村浩一:『鏡の中の左利き』(ナカニシヤ, 2004).
  12. 小亀淳:認知科学 12 (2005) 319.
  13. 小亀淳:日本認知科学会公開シンポジウム「なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?」(2006年11月23日, 東京) での発言.
  14. 武居克明:朝日新聞,「Do 科学」欄 (2006年12月17日).
  15. A. Einstein: Autobiographical Notes, in P. A. Schilpp ed.: Albert Einstein: Philosopher-Scientist, 3rd Edition, Vol. 1 (Open Court, 1969) p. 53.

 (ブログへの転載にあたって記す)
  1. 「氏はその後」と書いたが,正しくは,高野氏は文献 6, 7 の段階から「拡張された鏡の問題」を扱っていたというべきである.高野氏はさらにその後,次の論文を発表し,文献 7 における欠点の一つとして文献 5 が指摘した点への回答を述べている.Y. Takano: Phil. Psychol. http://dx.doi.org/10.1080/09515089.2013.819279 (2013).しかし,高野氏はその回答が複雑なものであることを自ら論文中で認めており,そういう複雑さを内含するする説は,プトレマイオスの天文学における「従円と周転円」モデルを思わせるものといわなければならない.そのモデルを含む天動説は,地動説に取って代わられる運命となった.なお,「オッカムのカミソリ」の言葉で表される、より単純な説がよいとする考えについては,次の文献によくまとめられている.Alan Baker, "Simplicity", The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Edward N. Zalta, ed. (Fall 2013 Edition).
  2. 吉村氏と私は,この投稿後間もなく,文献 11 に基づいて「拡張された鏡の問題」への答えを書いた共著論文を発表した.H. Yoshimura and T. Tabata: Perception 36, 1049 (2007).
  3. その後分った書誌情報は次の通り.J. Exp. Psychol. 60, 1555 (2007).

2014年8月10日日曜日

2014年6月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of June 2014)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭のカンナ。2014 年 8 月 8 日撮影。
Canna in omy yard, taken on August 8, 2014.

2014年6月分記事へのエム・ワイ君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2014 年 6 月分への感想を 2014 年 8 月 2 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。(6 月の記事は、感想を貰った 1 編だけだった。)



加藤周一の日本語文法解釈

 「加藤周一は『日本文化における時間と空間』において、過去・現在・未来を鋭く区別しようとしない日本文化の特徴を説明するため、夏目漱石の文を引用し、その特徴が日本語の時制にも現れていることを述べている」ということを主題としています[Ted の注 1 参照]。そして、上記の本の 54~59 ページに書かれた漱石、鴎外、他の引用例を再配列し、二つの文献をも援用して解説し、論評したものです。文学に造詣深く、語学にも堪能な筆者が楽しみながら考察されたものと思いながら、興味深く拝読しました。以下に加藤の論旨と筆者の見解を対比させ、コメントします。
 ——Ted の注 1:貴君が冒頭の「」内で紹介されたことは、実は私の文の主題ではなく、「主題に関わる箇所での加藤の大筋の主張」です。私がこの記事で取り上げている箇所での加藤の記述は、漱石がフランス語の半過去・単純過去に似た使い分けをした原因の追及に話がしばらくそれています。私はそのような、それた細部での考察を問題にする、ということを、まず明言しなかったので、主題が分かりにくかったと思います。貴君のご感想の末尾には「一冊の本の一部の論旨に対して」とありますので、冒頭の紹介のずれにもかかわらず、主題をよく理解して貰えたようでもありますが。——
 筆者はまず、次のことを紹介します。
 [加藤は]具体的には、漱石が過去の出来事を記していながら、多かれ少なかれ持続する現象(フランス語の半過去の使用対象)には現在形を、過去の特定の時点で起こった出来事(フランス語の単純過去形の使用対象)には過去形を使っていることを指摘している。そして加藤は「しかしフランス語から漱石が深い直接の影響を受けたとは考えにくい」としているのである。
そして、筆者は「漱石によるこのような述部の用法の源はどこにあるかについての答を保留している」と指摘しています。私は、加藤はここでは文脈上、フランス語から漱石が深い直接の影響を受けてはいないことを説明したかったのではなかろうかと考えます[Ted の注 2 参照]。
 ——Ted の注 2:私が「加藤は[…]答を保留している」と書いたのは、推定的な指摘ではありません。加藤自身が「しかしフランス語から[…]影響を受けたとは考えにくい」に続いて、「私はさしあたり問題の答を保留するほかはない」と書いているのです。したがって、加藤は、貴君のいわれるように「フランス語から漱石が深い直接の影響を受けてはいないことを説明したかった」だけでなく、それを説明した上で、なお、彼自身の心の中に問題が残ることを述べているのです。しかし、加藤の大筋の論旨では、貴君が考えられたように、漱石の文体はフランス語から影響を受けたようでありながらも、そうではなく、日本文化の特徴である「過去・現在・未来を鋭く区別しようとしない」形式に従っているということを主張しているのは確かです。「答を保留するほかはない」のあと、加藤は改行して、「われわれの当面の課題は、過去・現在・未来を鋭く区別しようとしない日本文化の特徴を仮定すれば、その特徴は日本語の時制にもあらわれ、[…]日本文学の文体にも反映しているということの確認である」と、本筋へ戻しています。「Ted の注 1」で述べた通り私の文の主題が分かりにくかったことと、「答を保留するほかはない」という加藤の言葉をそのまま引用しなかったため、貴君が異論的な感想を持たれることになったと思います。——
 次いで、
 ところで、私たちは英文法で、進行形に出来る動詞と出来ない動詞として、状態動詞 (stative verb) と動作動詞 (dynamic verb) という区別を習う。漱石が過去のことでありながら現在形を使った述部と過去形を使った述部の間には、状態動詞と動作動詞の相違に対応する相違がある。
と、筆者は述べています。そして、加藤が引用している漱石の『夢十夜』の一節の具体例を示し、「加藤はフランス語に堪能なあまり、日本語にも時制の適用について状態動詞と動作動詞に相当する区別が古来あるとか、あるいは、少なくとも明治時代にはあったという可能性を考えることなく、漱石の場合にどういう外国語の影響があったのだろうかという考察に突き進んでしまったようであると」と論じています。私は、加藤が、漱石が影響をうけたのはフランス語ではないと上述し、ここではどういう外国語の影響があったのだろうかと考察し、やはり日本文化の特徴ではなかろうかということを裏付けたのではなかろうかと考えました[Ted の注 3 参照]。
 ——Ted の注 3:ここでも、「Ted の注 2」の後半の「しかし、加藤の大筋の論旨では」以下と同じことがあてはまります。加藤の大筋の展開は、貴君の考えられた通りで、私はここでは、加藤の細部の考察での「答を保留するほかはない」とした点への検討を続けているのです。——
 筆者はさらに、次のことを紹介しています。
 加藤は漱石の『夢十夜』からの引用をする前に、森鴎外の『寒山拾得』からの一節も引用している(…加藤の書中、この引用のあるページの記述を省略…)。(…引用例の記述を省略…)加藤はこの過去(または完了)、現在、現在、過去(または完了)という並び方について、日本語の文法が許す過去の出来事への現在形の使用を鴎外が利用し、単調さを破る工夫をした、と解釈している。
これについても筆者は、次の通り、独自の見解を述べています。
しかし、この場合も、現在形の述部は二つとも状態を表し、過去(または完了)形の述部は二つとも動作を表しており、漱石の場合と同じ使い分けになっている。鴎外が単調さを破る工夫をしたとすれば、単に活用形を変えたのではなく、叙述の内容の配置に工夫をしたと見ることが出来るのではないだろうか。
 筆者は次の点も取り上げています。
 また、加藤は鴎外と漱石の文を引用するよりも先に、『源氏物語』、『平家物語』、そして上田秋成の『雨月物語』からの引用文を使って、「過ぎ去った出来事を語りながら、現在形の文を混入させて臨場感を作り出す技法」が、「厳密な時制を要求しない日本語の文法が前提条件であった」と論じている(…加藤の書中の関連ページの記述を省略…)。そして、このことは『雨月物語』のフランス語への訳文と比較すればあきらかになるだろう、としている。
これに対して、筆者は、
過去の出来事に臨場感を与える表現として現在形を使用する「歴史的現在」は、各国語で用いられているようであり、加藤の論は、いささか強引であるように思われる。ただ、フランス語ならば半過去形を用いる過去の出来事に対して、日本語では抵抗なく現在形を用いることが出来るという時制の緩やかさが、「過去・現在・未来を鋭く区別しようとしない日本文化の特徴」の一例である、という加藤の主張には間違いがないであろう。
と述べて、結びとしいます。

 一冊の本の一部の論旨に対して、読者が対話するような形で、巧妙にブログにまとめたこの一例を読み、著者と読者との間の敬意ある親近性を感じ、感銘を受けました[Ted の注 4 参照]。
 ——Ted の注 4:「著者と読者との間の敬意ある親近性」とは、よく書いて下さったと思います。この記事では加藤に反論していますが、私は加藤の著作の大の愛読者なのですから。——

2014年8月9日土曜日

追悼:岡部茂博士 [Obituary: Shigeru Okabe (1923–2013)]

[English version of this post is given at http://bit.ly/1oksz9I.]


1961年の岡部博士。
Shigeru Okabe in 1961.

 私の最初の職場の上司として、長年親切で適切なご指導をいただいた岡部茂博士が、昨年他界され、さる 6 月 25 日に、当時の仲間たちとともに「岡部先生を偲ぶ会」を旧・大阪府立放射線中央研究所(現・大阪府立大学・地域連携研究機構・放射線研究センター)の講堂で開催しました。ご遺族の岡部夫人と 2 人の令嬢も加えて約 20 名が集まり、記念すべき催しとなりました。当日、私が担当して述べた岡部博士の経歴紹介に若干の補足をして以下に掲載し、重ねて哀悼の意を表します(経歴紹介文の作成に当たっては、K・K 氏が作成した「偲ぶ会」案内状も参考にしました)。

 なお、上掲の写真は 1961 年 5 月 5 日に開催された荒勝・木村研究室同窓会の集合写真から作成しました。また、本記事英語版中の写真は、同年 4 月 7 日の昼休みに、岡部博士以下、私を含む数名が職場を抜け出して、近くへ花見に行った折の写真から作成したものです。



 岡部茂さんは、1923 年に鹿児島市でお生まれになり、旧制第七高等学校を経て、京都大学理学部に入学されました。物理学科において、太平洋戦争中と終戦直後の何かと不自由な中、荒勝文策教授のもとで原子核実験物理学を専攻し、1946 年に京都大学を卒業されました。そして、1949 年には、鳥取大学助教授になられました。鳥取大学では、世界有数のラドン含有量を誇る三朝温泉が近いという地の利を生かして、自然放射能の研究を手がけられました。中でも、岡部さんの大気中のラドン濃度の変化による地震予知の研究(文献 1)は、世界に先駆けた研究として、国際的に知られています。

 岡部さんは 1949 年に、創立早々の大阪府立放射線中央研究所に第 1 部放射線源課長として着任し、電子ライナックの設置・維持・管理の傍ら、同装置を利用して、電子線諸元の監視方法、電子の物質透過、光核反応、水和電子の性質などなどの幅広い研究を指導・推進されました。この間、6 年度にわたり連続して科学技術庁所管の「原子力平和利用研究費補助金」を獲得されたことは、岡部さんが研究を立案・推進する高い能力の持ち主だったことを証明するものです。研究や一般業務の推進に当たっては、放射線源課の各メンバーを適材適所に割り当てるとともに、各メンバーの学位取得や所外への栄転などにも配慮するなど、部下に対する面倒見のよさも示されました。

 岡部さんは 1973 年に、放射線中央研究所第 1 部長に昇任されました。その後間もなく、研究所の組織が課制から研究グループ制に移行し、施設や装置の運転・維持・管理には別途、作業班を設けるという大きな変革があり、また、大阪府議会から大阪府に役立つ研究を求められるという状況もある中で、優れた研究管理能力を発揮されました。他方、研究面では、応用物理学会誌や原子力学会誌に総説・解説論文を多く寄稿され、応用物理学会放射線分科会の大御所として、会の発展に尽力もされました。

 部長職定年後の 1981 年、岡部さんは福井大学工学部に教授として赴任されました。福井大学では教育の傍ら、自然放射能の研究に戻られ、ここでも地の利を生かした雪の中のラドンの研究などをされるとともに、学外のラドン研究委員会やエキソ電子研究委員会などでも活躍されました。

 岡部さんは 1989 年に、福井大学を定年退官されました。同時に、ご自宅にラドン科学研究所を設置して、精力的に研究を継続されました。1993 年には、学生時代から趣味として描いて来られたスケッチを集めて、「折々のスケッチ画集」と題する立派な画集を出版されました。岡部さんはグルメ趣味を持っておられたことでも、よく知られています。以上のように、数々の素晴らしい業績を残して、岡部さんは 2013 年 6 月 30 日に、89 歳で永眠されました。

 (2014 年 8 月 16 日、一部追加修正)

文 献
  1. S. Okabe, Time variation of the atmospheric radon-content near the ground surface with relation to some geophysical phenomena. Memoirs of the College of Science, University of Kyoto, Series A, Vol. XXVIII, No. 2, Article 1, pp. 99–115 (1956).[Google Scholar によれば、2914 年 8 月 9 日現在、この論文は 39 編の論文に引用されたということです。]

2014年8月7日木曜日

エム・ワイ君への暑中見舞い (Summer Greeting to M. Y.)

[The main text of this post is in Japanese only.]


(和文写真説明は本文参照。以下の写真も同じ。)
Seisonkaku, a large Japanese villa in the city of Kanazawa, built in 1863 by Maeda Nariyasu, 13th daimyo of the Kaga Clan, as a retirement home for his mother Shinryu-in.


Part of one of the works of the exhibition "Leandro Erlich −The Ordinary?" at 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa. Thie work uses a large half-transparent mirror, and a visitor sitting in front of the mirror is seen as though she is playing one of music instruments beyond the mirror.


The main gate of Oyama Shrine, a Shinto shrine in Kanazawa.


Samurai mansions preserved in Nagamachi Street, Kanazawa.

2014年7月29日

M・Y 君

 暑中お見舞い申し上げます。

 わが家では、さる 14、15 日に金沢へ墓参に行ってきました。梅雨明け前でしたが好天に恵まれ、長女も同伴したので、ついでに金沢市内の見物もしました。見物先は以下の通りです。

  • 前田家 12 代奥方の御殿として江戸時代末期に造営された成巽閣(せいそんかく):1 枚目の写真。
  • 金沢 21 世紀美術館:同館常設の作品『スイミング・プール』の作者、レアンドロ・エルリッヒによる『ありきたりの?』展が開催中(撮影可の展示)。鏡や半透明鏡面を利用した、不思議を感じさせる大型造形作品が各小部屋、大部屋を占めていました。半透明の鏡面を使った部屋は、鏡の向こう側にピアノ、バイオリン、チェロ、コントラバスが配置されれていて、こちら側には演奏者用の椅子があり、そこに腰かけて演奏の手つきをすると、鏡にはあたかも演奏しているような姿が映るという仕掛け。2 枚目の写真は、長女がピアノ用の椅子に座り、笑いながら演奏しているふりをしている鏡像。光の加減もあって、上半身はおぼろげにしか写りませんでした。
  • 前田利家を祀る尾山神社:3 枚目の写真はその山門。
  • 長町武家屋敷跡:4 枚目の写真。

 私の肩はほとんど痛まなくなってきましたので、9条のブログをやや頻繁に書いたり、長らく放置していたホームページの手直しをしたりし始めています。さる27日付けで掲載した "Ted's Coffeehouse 2" の記事の「T・K君」というのは、"Ted's Archives" に連載した高校時代の日記に、Jack のニックネームで登場する友人です。この夏は、2年あまり描かなかった水彩画にも取り組みたいと思っていますが、どうなることやら…。

 酷暑の折、くれぐれもご自愛下さい。

 T・T

2014年7月31日木曜日

ヤノネボンテンカ (Pink Pavonia)

[The text of this post is in Japanese only.]


 ヤノネボンテンカ(矢の根梵天花)、アオイ科、別名:パヴォニア・ハスタータ、タカサゴフヨウ(高砂芙蓉)、ミニフヨウ(ミニ芙蓉)、学名:Pavonia hastata、英名:Pink Pavonia、原産地:南米。

 昨秋、近所の家から、タカサゴフヨウと聞いて、苗を3本貰い、庭に植えたのが花をつけ始めた。2014年7月30日撮影。

2014年7月27日日曜日

T・K 君へ:パスカルの三角形の拡張のことなど (To T. K.: On the Extension of Pascal's triangle, etc.)

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わが家の庭に咲いたハマユウの花。2014年7月19日撮影。
Spider lily in my yard, July 19, 2014.

T・K 君へ:パスカルの三角形の拡張のことなど

2014年5月26日

T・K 君

前略

 早速手書きのお返事をいただき、嬉しく拝読しました。

 毎日新聞の記事について、「コメント出来る立場ではありません」とありますが、鏡像問題は「立場」などに関係なく、迷答・珍答でも聞かせて貰えばよい問題です。

 私の結婚披露宴での祝辞を「再登場させ」るとありましたが、実際に聞かせて貰ったのは、これとはかなり異なっていました。その文面は当日貰って、わが家のアルバムに貼付してあります。奥様の手で清書されたもので、今回の文よりは、かなり真面目なものに修正されています。今回のものは恐らく初案で、読み上げられたのは、奥様が大幅に添削されたものだったのでしょう(わが家へお越しの機会があれば、ご覧に入れます。あるいは、またの機会に写真に撮って送ってもよいです)。

×     ×     ×

 同封して貰った「数学を楽しむ:生徒とともに AHA 体験を」の一文は、なかなか立派な内容だと思います。先生方の研究会ででも発表されたのですか。文章表現については、指摘したい点が幾つかありますが、主なものは二つです。その一つは、「です」調と「である」調が混在していますが、どちらかに統一していたらよかったということです。もう一つは、貴君自身も文の初めに書いている通り、「試行錯誤過程の生々しさ」が表現出来ていないことです。

 例えば、「生徒 A がこれこれの試みをしたが、うまく行かなかった。私がこれこれのヒントを与えると、生徒 B がそれに沿った試みをして見通しが開けた」など、失敗も含めた過程を少し詳しく書けば、生々しさがいくらかでも伝わったかと思います(字数の制限があったのでしょうか)。

 後日、図書館の倉庫に眠っていた R. Fricke の “Lehrbuch der Algebra”(書名の最後の単語に不要な文字が一つありますよ)中に多項係数の関係式を見出したという話がつけ加えられているのが、高級感のある締めくくりになっていると思います。

 三項展開へのパスカルの三角形の拡張は、いつ頃から知られていたのだろうかと思い、インターネット検索をしてみました。歴史については分りませんでしたが、貴君の文中の図1に相当するものには、「パスカルのピラミッド」または「パスカルの四面体」の名で呼ばれていることを知りました(注 1)。ということは、パスカル自身が拡張していたのでしょうか。

 また、加藤一郎という人のウェブサイト(注 2)に、彼が高校生の頃、パスカルの三角形の拡張を考えたという話が書いてあるのを見つけました。加藤氏は貴君の生徒の一人かと思いましたが、彼は自分一人で考えたように書いています。同じことを高校時代に考えた人が貴君の生徒たち以外にもいたようです。

×     ×     ×

 ところで、私は高 1 のとき、二項展開の係数がパスカルの三角形で求まるということを、その名を知らないままに、M 君が持っていた解析 I の問題集のようなもので知り、その方法を解析 I の時間に隣の席にいた T 君に話しました。その頃、ヨウコ先生が休まれた日があり、K 先生が代理で来て、私たち一同に何か質問がないかと尋ねられました。すると、T 君が、先生を困らせようと思ってでしょうか、(a+b) の 10 乗を展開するとどうなりますかと質問しました。K 先生はもちろんパスカルの三角形をご存じで、記号 C を使った二項係数の性質までも説明して下さいました。貴君はこの出来事を覚えていませんか。

 私が生徒の頃に楽しんだ数学の問題の一つは、中 3 のときに M 君から出題されたもので、正三角形の一辺を n 等分した長さを一辺とする正三角形を、もとの正三角形の中にぎっしり埋め込んだとき、いろいろな大きさの正三角形が全部で幾つあるか、というものでした(このような文でなく、図での出題でしたが)。M 君も答を知らなくて、二人で放課後などに黒板にいろいろな式を書き合っていましたが、コンパクトな形の正解にはたどりつけませんでした(なぜか、n が偶数と奇数の場合に分けて、それぞれに 2 組ばかりの数列を与え、その和を計算すればよいとして、出来たつもりでいました)。

 ただ、そのとき、研究する喜びとはこういうものだろうかという思いをしたことをいまでも覚えています。高 1 で習った解析 I の教科書に同じ問題があって、たしか、自然数の和とその二乗和の、習った公式を使えば、容易に奇麗な答が出たのでしたが。

×     ×     ×

 貴君が数学などについて他にも書かれたものがありましたら、また読ませて下さい。私のこの手紙には、昨年『日本物理学会誌』の「会員の声」欄に投稿して、10 月号に掲載された文の原稿を同封します。ご笑覧の上、「コメント出来る立場ではありません」などといわないで、率直なご感想を聞かせて貰えれば幸いです。

 長い手紙になり、失礼しました。

草々

T・T

  1. "Pascal's pyramid," http://en.wikipedia.org/wiki/Pascal's_pyramid (last modified on 16 July 2014).
  2. 加藤一郎,「パスカルの三角形拡張」, http://www1.c3-net.ne.jp/kato/pascal/index.html (2002).

2014年7月18日金曜日

2014年3月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of March 2014)

[The main text of this post is in Japanese only.]


アガパンサス。2014 年 7 月 1 日、鳳公園で撮影。
Agapanthus, taken in Ōtori Park on July 11, 2014.

2014年3月分記事へのエム・ワイ君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2014 年 3 月分への感想を 2014 年 4 月 21 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。(私が肩の痛みでブログを休んでいたので、掲載が大幅に遅れた。今後も、当分の間、新記事はまれにしか書かない予定である。)



1. バス旅行「愛知県美術館:印象派を越えて——点描の画家たち」
 さる 3 月 6 日、朝日旅行社催行の日帰りツアー「愛知県美術館:印象派を越えて——点描の画家たち」に妻と参加した。『点描の画家たち』展は、「分割主義」という理念に着目し、この理念の核となるスーラ、シニャック、ゴッホ、モンドリアンなどの作品を、オランダのクレラー・ミュラー美術館の協力で、相当数ずつ展示している。最初に美術館学芸員による約 10 分間の説明を聞いた。その中で、モンドリアンの絵を、「デジカメの画素数を減らして行った極限」に例えていたのが興味深かった。
と述べられ、[後日の追記]に、この記事を掲載したことを告げたツイートがクレラー・ミュラー美術館によってリツイートされたことが報じられています。クレラー・ミュラー美術館は、同美術館自体のツイートのフォロワーを増やすという熱心な公報活動の一環として、同美術館名の出てくるツイートなどを検索しているのでしょう。興味深い記事でした。

2. 堺市民会館でのクラシック・コンサート
 昨日午後、妻と堺市民会館小ホールで開催された「ヴァイオリン・チェロ・ピアノで奏でるクラシック・コンサート:室内楽・美しきロマン派時代」を聞きに行った。プログラムは次の通り。
[第1部]
ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第 5 番「春」ヘ長調 op. 24
ショパン:バラード第 3 番 変イ長調 op. 47
シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 op. 70
[第2部]
ベートーヴェン:ピアノ 3 重奏曲「大公」変ロ長調 op. 97
[出演]
ピアノ 森下奈美、ヴァイオリン 寺西一巳、チェロ 日野俊介
 […中略…]堺市民会館はこの 4 月から建て替えのため、向こう 5 年間休館となり、少なくともここでは、しばらくこのような演奏会を聞けないのが残念である。「大公」は妻の好きな曲の一つで、結婚間もない頃、そのレコード(ヴァイオリン=ダヴィッド・オイストラフ、チェロ=スヴィアトスラフ・クヌーシェヴィツキー、ピアノ=レフ・オボーリン)を買い、よく聞いていたものだ。第 1 楽章の特徴ある旋律が、大阪の団地で暮らした若い時代を想起させてくれた。
 このように述べられています。近くのコンサートホールでよいコンサートを聴くことができるのは、音楽を楽しむための大きなメリットです。5 年間の休館とは残念ですが、思い出深いピアノ 3 重奏曲「大公」を聴けてよかったすね。ご結婚間もない頃よく聞かれたレコードの演奏家のヴァイオリン=ダヴィッド・オイストラフ、ピアノ=レフ・オボーリンについては、私の学生時代にこの二人の演奏したベートーヴェンのヴァイオリンソナタのレコード「クロイツェルソナタ」を本当によい演奏だと思い、何回も聴いたものです。チェロ奏者のスヴィアトスラフ・クヌーシェヴィツキーは知りませんでしたので、インターネットで検索しましたところ、なんと、筆者のこのブログそのものが現れました。クヌーシェヴィツキーに関する他のよい情報はありませんでした。貴ブログの知名度の高さに感心した次第です。

3. わが家の3月初旬の花々、3月中旬の花々、春の花々が一斉に咲くレンギョウ、ヒヤシンス、アセビローズマリー、サンシュユなど白花のジンチョウゲ、ヒュウガミズキなど堺でサクラ開花三日見ぬ間に

 筆者の庭で咲く花々やウォーキングで見た花々を、3 月初旬から中旬にかけて、さらに春の花が一斉に咲き御地でのサクラ開花までの一か月にわたって、美しい写真に撮り、計画的に連載されています。日々楽しく見ながら春が足早に訪れる様子を感じることができました。ありがとうございました。トサミスキとヒュウガミズキが見られたのは参考になりました。また御地での桜開花判断の標準木を独自に決め観察しておられることに筆者らしさを感じました。

4.「9 条にノーベル平和賞を」の署名運動に協力しよう! に関する先月の記事への補足

 1 月に本ブログに掲載された表記の件に関連して、4 月 20 日付けの朝日紙朝刊に「『9 条にノーベル平和賞を』実行委、推薦受理を報告」という記事が報道されました。要約すると、次の通りです。
戦争放棄を定めた憲法 9 条をノーベル平和賞に推薦した「憲法 9 条にノーベル平和賞を」実行委員会が 19 日、東京代々木であった環境を考えるイベント「アースデイ」で、ノルウェーのノーベル委員会から 9 日、「候補に登録された」とのメールが届いたと報告した。運動を呼びかけたメンバーらが参加。その後の記者会見では「受賞した際は誰に式に出席してほしいか」との質問を受け、発案者の神奈川県座間市の鷹巣直美さん(37)は、「日本代表として(安倍晋三)首相に喜んで行ってほしい」と答えた。
 なお 4 月 2 日の朝日紙(夕刊)に大きく、「9 条にノーベル賞を、神奈川の主婦ネットで呼びかけ、受賞者「日本国民」、委員会に推薦」との見出しで、鷹巣さんが思いつきで始めた取り組みに共感の輪が広がり、集団的自衛権の行使や改憲が議論される中、「今こそ平和憲法の大切さを世界に広めたい」との願いをこめて、ノルウェーのノーベル委員会への推薦に至った経緯が詳しく報道されています。本来ならば政府関係者が「積極的平和外交の一選択肢」として、外交努力により憲法 9 条の意義を世界に周知しなければならないことを、神奈川の主婦がよくぞ行ったことだと、勇気ある行動力に厚く敬意を表します。

2014年7月18日