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2015年5月28日木曜日

あらゆるところで戦争法案反対の意思表示を! (Let's Express Everywhere Our Opposition against the War Bill!)

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私のフェイスブック・カバーとホームページに掲げた写真。いずれも部分。
Parts of photos I posted on my Facebook cover and homepage.

 「九条の会」は、新しい請願署名用紙「安保関連法案は、海外で戦争をするための戦争法案であり、平和憲法を破壊します。すみやかな廃案を求めます」を作って、戦争法案反対の運動を進めています(署名用紙の PDF ファイルはこちらからダウンロード出来ます)。これにこぞって賛同し、危険な法案を葬り去ろうではありませんか。

 私も、上掲のような写真をフェイスブック・カバーホームページに掲げ、戦争法案反対の意思表示をしています。

2015年5月24日日曜日

恵那と三ヶ根への旅 (Trip to Ena and Sangane)

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岩村の江戸時代城下町・町並み。
Edo era castle town street of Iwamura.


「農村景観日本一」展望台からの眺め。
View from the observation deck of "the best rural landscape in Japan".


中山道広重美術館。
Hiroshige Museum of Art, Ena.


中山道の 69 宿場中の 46 番目の宿場、大井宿。
Ōi-juku, the 46th of the 69 stations of the Nakasendō. It is located in the present-day city of Ena.


海辺の文学記念館。
Seaside Memorial Hall of Literature.


「かんぽの宿・恵那」から見た恵那峡。
Ena Gorge seen from "Kampo Hotel Ena".


「かんぽの宿・三ヶ根」から見た三河湾。
Mikawa Bay as seen from the "Kampo Hotel Sangane".

 5 月 21 日から 23 日まで、「かんぽの宿・恵那」(岐阜県)と「同・三ヶ根」(愛知県)を利用しての旅をした。初日には、明智鉄道沿線の岩村町へ行き、江戸時代城下町の町並み(1 枚目の写真)散策と「農村景観日本一」という展望台(2 枚目の写真がそこからの眺め)へのウォーキングを楽しんだ。

  2 日目には、JR 恵那駅近くの中山道広重美術館(3 枚目の写真)で、『描かれた東海道、歌われた五十三次の旅』展を鑑賞し、大井宿(4 枚目の写真)も訪れた。3 日目には、蒲郡・竹島園地内の「海辺の文学記念館」(5 枚目の写真、展示されている蒲郡関連の文学作品については、愛知県文学資料館のウェブサイトが参考になる)と竹島水族館を見学した。

 各「かんぽの宿」では、例によってペンと色鉛筆でのスケッチをした(6、7 枚目の写真)。私が恵那という土地の名を知ったのは、かつて『週刊朝日』に連載されていた松本清張の作品によってだった。その小説の題名も筋も覚えていなかったが、インターネット検索で『眼の気流』と分かった(こちら参照)。

2015年5月20日水曜日

2015年3月13日~4月27日分記事への M・Y 君の感想 -3- (そして、M・Y 君の戦中・戦後体験)(M.Y's Comments on My Blog Posts from March 13 to April 27, 2015 -3-)

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アヤメ。2015 年 5 月 8 日、堺市・中の池公園で。
Siberian iris; taken in Nakanoike Park, Sakai, on May 8, 2015.

2015年3月13日~4月27日分記事への M・Y 君の感想 -3-

3. ホームージの引越し
 1998 年 12 月に開設した私のホームページは、NTT コミュニケーションズの "Page On" というサービスを利用していたものだが、さる 2 月末で、そのサービスが終了となった。経過措置として、5 月末まではアクセス可能にしてあるとのことである。しかし、私は 3 月末に新しいホームページへの転送サービス(1 年間有効)を申し込んだので、さる 9 日から、インデックス・ページへアクセスすると引越し先のインデック・スページ(http://ideaisaac.web.fc2.com)が出るようになった。[…略…]引越し先では、ページ数を減らし、カウンターを置くのはインデックス・ページだけにしておこうかと思っている。
以上のように述べられています。引越し先へのリンクをクリックして見ると、アクセス・カウンターが "1867 since Oct 3, 2014" となっていました。インデックス・ページから色々の項目を引き出してみました。ホームページ・サイトは概してうまく移転出来ているようです。ただ、"Photos and Pictures" の範ちゅう内では、"Italy" 以外は FC2 ホームページにつながり、「ご指定のファイルが見つかりませんでした」とのエラー・メッセージが出ました。[引用者の注:引越しはまだ未完なので、インデックス・ページ上部に「注意:本サイトは目下改修中のため、目次等のリンクは必ずしも全ては働いていません」と記してあります。]

4. 兄の半ズボン
明 3 月 14 日から北陸新幹線の長野・金沢間が開業するので、私の郷里・金沢が最近何かと TV で取り上げられている。さる 10 日には、NHK BS プレミアムの番組『世界ふれあい街あるき』が金沢を扱っているのを見た。金沢出身の俳優・鹿賀丈史氏が案内していて、彼の出身校である材木町小学校も訪れていた。私は幼時に、その近くに 2 年ほど住んでいたのである。町名は又五郎町といったが、現在は材木町に編入されている。
と筆者は話題性のある金沢・東京間新幹線開業から書き始め、幼時に住んでいた町での、兄と「勝って来るぞと勇ましく…」と歌った戦時中の幼児の遊びと、兄の半ズボンの思い出を述べ、敗戦後の物資不足時代に、その兄の半ズボンを下ばきに使っていたために起こった失敗談をユーモラスに語っています。そして、「兄の嫌った兵隊が、憲法9条改悪によって、この国に再び生まれないことを切に望んでいる」と、平和を愛する筆者の切なる願いで結ぶ、巧みな構成の文に仕上げています。興味深く拝読しました。結びの言葉に賛同する意味で、私の戦争末期から敗戦直後の苦労について以下に述べます。

 日・独・伊三国同盟のうち、イタリアのファシスト党ムッソリーニ首相の 1943 年 7 月辞任、逮捕、幽閉に続いて、日本がサイパン島玉砕したことを、父は深刻に受け止め、1949 年 9 月初めに、私たちが生まれ育っていた上海から、母と子供たちを一時日本に疎開させる決心をしました(結果的には引き揚げとなりました)。南京、天津、満州をかすめ、鴨緑紅、京城、釜山と鉄道で、釜山から関釜連絡船で(8 時間、浮遊機雷に当たって沈没することがないようにと祈りつつ)下関に上陸し、別送も含め一時しのぎの荷物を持って約 5 日間かけ、日本の親戚の家にたどり着きました。

 父は家を買い求めた後(人が住んでいた家だったので、空くまで半年ほど待ちました)、再び上海に帰り、1945 年 7 月に徴兵免除ぎりぎりの老兵として現地招集され、南京の部隊にいるとの手紙が来ました。その後は、1946 年春まで消息がなく、母は大変心配していました(これが無条件降伏の実態です)。上海では食料、衣服など物資は豊でしたが、日本ではすでに物資不足(箪笥などは買えましたが、衣料など日常必要なものは店で売っていませんでした)、食料は統制(末尾の注参照)がかかり、配給で、米のご飯はたまにしか食べられず、おかゆや代用食で空腹をがまんしながら、学童は「戦意高揚」に励んでいました。

 上海の国民学校では質実剛健にしつけられ、冬の寒い日でも外套着用は一般的に許されず、半ズボンにすねの下までの靴下で、寒さに耐えながら通学していました。気温は日本と大同小異だったと思います。雪が積もる日本の生活は初めてで、長靴がなくて大いに苦労しました。日本では、冬には低学年児童でも長ズボンを履き、外套の着用は許されていました。しかし、長ズボンを買おうにも品物がなく(あったとしても人絹—Staple Fiber を略してスフと呼んでいましたが—のもので、履いて 1 週間足らずで、すねのあたりから破れてくる代物です)、母が半ズボンに布切れをついで仕立て直した長ズボンをはいていました。

 敗戦色が濃くなった 1944 年後半、レイテ決戦で敗れた日本の国内では、急速に物資不足・食料難になりました。食料については 1945 年から 46 年は惨たんたるものでした。米の配給は微々たるもので、大豆、トウモロコシなどは手に入り難く、春はジャガイモ、秋はサツマイモをよく食べました。ジャガイモはまだ主食代わりにはよく、サツマイモは秋の出たての頃は甘くておいしく食べましたが、1 週間も続くとあきてしまい、仕方なしに食べていました。敗戦まで、神戸から集団疎開してきた学童が、旅館に分宿し、学校には 2、3 室を与えられて、通学していました。彼らは「勝利の日まで」という歌を歌いながら、親から離れて暮らす寂しさや食料難に耐えていました。

 敗戦後2年目に、小学生対象に米軍から脱脂粉乳が放出され、週一回、午前の授業が終わった時に先生が、新しいバケツに入ったミルク約 300 cc を丸い金属のボールに配ってくれました。また、米国から無償供与された小麦によるコッペパンが時々配られました。この脱脂粉乳ミルクやコッペパンがいかにおいしく感じられたことか。次第にミルクの支給の回数が増え、ミルクに切り刻んだ大根が入るようになりました。これが現在の小学校の学校給食の起源です。また敗戦後、米国から慈善で提供された衣類の配給があり、体に合うように仕立直して使用しました。他の人々に比べ引き揚げ者ゆえの苦労が多かったようで、このような困窮度はその地方の平均的なものではなかったと思います。

 筆者の「兄のズボン」を読んで間もなく、UNICEF の日本の事務局から「あなたはずっと以前から UNICEF に寄付をして下さっているが、動機は? という質問などを含む、電話によるアンケートがありました。私は「敗戦直後の食料・物資難の時に米国から放出された脱脂粉乳のミルクが大変おいしかった。国の紛争によって餓えている子供たちに、貧者の一灯に過ぎないが、時々寄付をしている」と伝えました。5 月 3 日付け朝日新聞に、論説主幹・大野博人氏は「連帯なき『「積極的平和主義』」と題し、以下のように重要な指摘をしています。
 安倍晋三首相は米議会演説で日本の「新しい旗」として[「積極的平和主義」についての "proactive contribution to peace" という]英訳語を繰り返した。国際社会に「平和への貢献者」と宣言したわけだ。紛争が起きる前に、あるいは起きてしまったら事態が破局的になる前に、平和を取り戻すための先手を打つ。国際社会はどんな「貢献」を期待するだろうか。まず思い浮かぶのは各地で会った「難民」や「避難民」の姿だ。[…]難民への姿勢は、「積極的平和主義」のほんとうの姿をあぶり出しているように見える。米国との軍事的一体化、[…]その延長線上で憲法を改正しても、日本は「積極的平和主義」という旗の下、ゆがんだ「一国主義」の国になるだけだろう。

 注:米はヤミで農家から買うことはできたが(ヤミ米)、家に持って帰るとき警察官に見つかれば、量が多い場合には警察署へ同行を求められ、少量なら没収さるかそのまま通された。農家から町へ通じる橋には、昼夜警官の見張りが厳しかった。ヤミ物資に手を付けなかった裁判官が戦後餓死した例もあった。

 付記:教科書の墨塗り作業 敗戦後、学校の先生は軍国教育から民主教育者に一変した。子供心にもあまりよい感じはしなかったが、仕方がないことだと受け止めた。1945 年 11 月頃から、学校の授業時間に、児童が先生と一緒になって全ての教科書について戦争に関する文章や単語(飛行機まで含め)に至るまで、精査し墨で塗りつぶした。進駐軍の士官が時々視察にきて教室を見回っていた。このように、今まで教わった軍国主義教育の結果を自らリセットすることが民主教育にいたる学校教育の出発点であった。教科書が使用不可能になってしまった後、新年度になるまでの授業で何をしていたかについては記憶がない。(完)

2015年5月19日火曜日

2015年3月13日~4月27日分記事への M・Y 君の感想 -2- (M.Y's Comments on My Blog Posts from March 13 to April 27, 2015 -2-)

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ドクダミ。2015 年 5 月 17 日、わが家の庭で。
Lizard tail; taken in my yard on May 17, 2015.

2015年3月13日~4月27日分記事への M・Y 君の感想 -2-

2. 三つの絵画展へ

 次のように述べられています。
さる 4 月 17 日、妻と私は神戸市立博物館で開催中の『チューリヒ美術館展』を見に行った。[…略…]その夜は、神戸に宿泊し、翌 18 日は、午前中に神戸・御影の香雪美術館で『郷倉和子 百寿の梅』展を見た。2000 年と 2001 年の大作「春日蜿々(紅梅)」「春日蜿々(白梅)」を含む約 40 点が展示されていた。18 日の午後、兵庫県立美術館で『堀文子[一所不住・旅]展』を見た。こちらは 回顧展の形式になっていて、1939 年の「自画像」から、昨年の「冬枯れの萩の姿」までの約 130 点は見応えがあった。
 […略…]堀文子さんは 96 歳を超えて、また、郷倉和子さんは 100 歳を迎え、どちらもなお描き続けている人たちである。彼女たちの止まらない創作意欲にあやかりたいものだ。
 なお、長女が私の傘寿を記念して、私の水彩画と彼女のキルト作品で親子展をしようといってくれている。その際に共通の題材の作品を一組出そうということになり、私はいま、長女のドクダミのキルト作品に似たドクダミの絵を描いている。郷倉和子、堀文子両展にもドクダミを描いた作品が一点ずつあったのは興味深かった。[…略…]私が描いているようにドクダミだけを取り上げた作品ではないのだが。
 […略…]帰宅して 17 日付け朝日紙に堀文子展を紹介した特集記事があったのを見ると、その中にドクダミを含む作品の写真があった。「名もなきものシリーズ どくだみ 露草 姫小判草」と題する作品で、2013 年という最近の制作になるものである。
 堀文子の作品展が東京銀座の小画廊で毎年一回開催されています。私は妻と一緒に、この作品展を鑑賞しています。昨年の秋、大学教養時代の同級会の旅行会で、箱根の成川美術館に立ち寄りました。この美術館では、季節毎の特別展に一室が割り当てられていて、その時には『堀文子 命のかがやき』展が開催されていました。退職後直ぐに岩手県に転宅し、大学の講習を受講したりして、地域農園を開発していた友人が、皆へのメールで次のように述べ、堀文子の絵の神髄を喝破し、その感動を伝えていました。
「いま私たちは、有機農業と有機社会の研究会と研修会を持っていますが、例えば土壌は鉱物でなく生き物の集まり―細菌・原生動物・カビ・藻類・ミミズなど小動物の集合体と、とらえています。堀文子の『地に還る日』の絵は、宮沢賢治の "すべての生き物のほんとうの幸せ" という言葉を具現していました。また、『極微の宇宙に生きるものたち』は、まさにその世界を美しく描いていました。思想や哲学を表したピッタリの絵との出合いは、まさにスパークでした。」
 筆者は「彼女たちの止まらない創作意欲にあやかりたいものだ」という言葉の通りに、美作湯郷、焼津と三ケ日への旅での各宿泊地で一枚ずつスケッチをし、また、傘寿を記念して、筆者の水彩画とお嬢さんのキルト作品で親子展を開催する計画を立てて励んでいます。ご成功を祈ります。作品に共通してとりあげられるドクダミは、5 月中旬から梅雨時期に、招かれざるか客のように家の周りに自生して咲いているのを見て、美しい花だと眺めています。小学生の時の絵の時間に、近くで花を取って教室に持ち帰り、その花を描く機会がありました。ドクダミを摘んで教室に戻り、左手に持って観察しながら描いたところ、ほめられました。後で左手になんとも言えない臭い匂いが残り、困ったことを思い出しました。(つづく)

2015年5月16日土曜日

2015年3月13日~4月27日分記事への M・Y 君の感想 -1- (M.Y's Comments on My Blog Posts from March 13 to April 27, 2015 -1-)

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バラ、2015 年 5 月 8 日、堺市・中の池公園で撮影。
Rose; taken in Nakanoike Park, Sakai, on May 8, 2015.

2015年3月13日~4月27日分記事への M・Y 君の感想 -1-

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2015 年 3 月 13 日~ 4 月 27 日分への感想を 2015 年 5 月 12 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 序

 この期間には「かんぽの宿」を利用した美作湯郷、そして焼津と三ケ日への旅、さらに「東京、2015 年春」「三つの絵画展へ」の旅の記事があるのを拝読し、大変お元気に活躍しておられる様子がうかがわれました。

 「東京、2015 年春」に記されている学士会館での出身研究室ミニ同窓会には、私も参加して、楽しい思いをしました。ブログで拝見しますと、金沢菫台高校同期関東在住者会出席を中心にして、東京駅着直後に『黄金郷を彷徨(さまよ)う——アンデス考古学の半世紀』展を鑑賞し、同期会に向かう午前中に千鳥ヶ淵で、ちょうど満開のサクラを眺め、同期会の後にはインターネットで知り合った J・T 氏と学士会館で、「鏡の謎」に関連する問題について話し合い、帰宅の日には、同期会幹事の一人である R・M 君と東京駅で待ち合わせて新幹線出発の間際まで歓談し、東京駅の新幹線列車案内の電光表示に、郷里「金沢」の駅名が(北陸新幹線開通によって)出ているのも見て、帰途の列車に乗車したとのこと。筆者も「スケジュールが比較的密な上京であった」と書いているように、3 日間の日程を半日刻みで、好奇心旺盛に効率よくこなされたことに感服しました。

 焼津への途中、静岡で寄った『大原美術館展』は、「同美術館は 2 月に訪れたばかりだったが、『大原美術館設立への道』、『珠玉の西洋絵画』、『日本近代美術の名作』、『民芸運動の作家たち』、『生きて成長していく美術館』の 5 部からなる[…]、全 75 点も見応えがあった」とのことです。この内容は、大原美術館の館長が同美術館の貴重な作品を広く見て貰うために絵画の貸出し(美術館の門外不出の名宝もあろうかと思いますが)を積極的に進めている方針の表れではないかと推察しました。この点に関しては、大英博物館の考え方が参考になります。

 現在、東京都立美術館で『大英博物館展―100 のモノが語る世界の歴史』が開催されています。ニール・マクレーガー館長の解説で人気を博した BBC のラジオ番組にもとづき、8 つの所蔵部門から厳選された 100 作品から「世界の歴史(200 万年前から現代まで)」をたどろうとする壮大な試みです。2003 年 10 月にも大英博物館の 250 周年を記念して『世界一周 1 万年の旅』と題した大英博物館展が同美術館で開催されました。その時マクレーガー館長は、「国王のためではなく、市民のために博物館ができたことはとても革命的でした。大英博物館では、一つの屋根の下で世界の文化遺産を見ることができます。私はここを『人類のメモリー』と呼びたい。つまり世界中の人々の『記憶』があるからです。日本の展覧会では、そこに(異なった地域の文化遺産について)どんな共通点があるかを、普遍的な視野をもって探してみてください」と述べています(当時の朝日新聞から抜粋)。その時は唯一日本で開催されたとのことでしたが、今回はその他の国々にも巡回するとのことです。(つづく)

2015年5月7日木曜日

英語の試験に出た名前 (A Name in English Language Exam)

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カラーの花。2015 年 5 月 6 日、ウォーキング途中で撮影。
Flower of calla; taken on my way of walking exercis on May 6, 2015.

英語の試験に出た名前

 フェイスブック上のイタリアの友人、キアラ・マイエロンさんの新しい書き込みを見に行くと、サビノ・チヴィタという名の彼女の友人によるコメントが書き込まれていた。チヴィタという名は、大学教養課程時代の英語の試験問題にあったレヴィ-チヴィタという名の数学者を私に思い出させた。それはアインシュタインについての文を和訳する問題で、英語の先生は、理学部の学生ならその話を好み、ほとんどの学生がうまく訳せるだろうと思って出題したのだが、大学 2 年生にはかなり難しかった。

 まず、Levi-Civita というイタリア名の読みが「レヴィ-チヴィタ」のようになることに気づかず、私は「レヴィ-スィヴィタ」と書いた(ここで減点されたかどうかは知らない)。しかし、のちに著名な物理学者(超電導理論専門)になった親友の真木和美君は、「レヴィ-チヴィタ」と正しく書いたと言っていた。

 また、私は英語が結構得意だったにも関わらず、"mechanics" という単語が「力学」のことであるとは当時まだ知らず、mechanical engineering を連想して「工学」と訳してしまった。これも真木君は正しく訳したようだった。(高エネルギー加速器や GPS がまだ出現しない時代に、相対論による「工学」とは、私は何を想像したのだろう。)

 レヴィ-チヴィタの名に再び出会ったのは、同じ大学 2 年生の間に、有志仲間で相対論の本を輪読していたときのことだったと思う。ある日、その輪読を、教室でなく、その輪読のアドバイザーをお願いしていた田村松平先生(湯川博士の先輩にあたる)の部屋ですることになった。のちに広島大学教授になった鷲見(すみ)義雄君というのが、先生の書棚にレヴィ-チヴィタの著書を見つけて、「レヴィ-チヴィタ、けったいな名前やな!」といった。しばらくして、田村先生が「鷲見君は、将来結婚するときに不都合があるだろう」といった。鷲見君は驚いて、「どうしてですか」といった。先生は答えた。——「湯川君の奥さんはスミという名だ。鷲見君が同じ名の女性と結婚すると、その女性は "すみスミ" という、いともけったいな名になる。」

 [注]この記事は、英語版の概要として書き始めたが、かなり詳しくなってしまった。それでも、英語版とは多少異なる。最後のパラグラフの話は以前どこかに書いたように思う。友人宛のメールに英語で書いたのだっただろうか。

2015年5月5日火曜日

ことば (Words)

[The main text of this post is in Japanese only.]


新緑。2015 年 5 月 5 日、泉北スポーツ広場脇で。
Fresh green;taken on May 5, 2015, at the side of Semboku Sport Ground.

ことば

 『日本の大和言葉を美しく話す』という本の広告を新聞で見た。いま、「やばい」(最近は、本来の意味とは反対の意味でも使われている)、「すごーい」(テレビの旅番組などで、案内人のタレントたちが、うるさいほどこの言葉を発する)、「つなげる」(「つなぐ」が、すでに他動詞である)、「〜になります」(「〜です」と言えばよいところで、しょっちゅう使われている)などの、変な日本語が幅を利かせている。そういう状況下で、心惹かれる本である。

 しかし、この本の題名は美しいとはいえない。「大和言葉」とは、「日本固有の言葉」のことだから、「日本」をわざわざつける必要がない。また、大和言葉(少なくともこの本の著者が勧めている大和言葉)自体が美しいので、「大和言葉を美しく話す」という表現も変である。「大和言葉を使って、美しく話す」を縮めたのだろうという見方もできそうだが、この本が紹介しているのは「話し方」ではなく、大和言葉そのものであり、 この見方には無理がある。

 ケチをつけるばかりで代案を言わないのもよくないだろうから、私の案を書いておく。『大和言葉で話をおしゃれに』とでもすればよかっただろうと思う。

2015年5月3日日曜日

キリの花 (Blossoms of Empress Tree)

[The main text of this post is in Japanese only.]


キリの花。2015 年 4 月 30 日、ウォーキング途中で撮影。
Blossoms of empress tree; taken on my way of walking exercise, on April 30, 2015.

 先般、マックのシステムソフトをバージョン 10.10.3 に更新し、それに伴って、写真を整理するソフト iPhoto も新版の Photos に変えた。Photos の操作方法は、iPhoto の場合とはかなり異なっている。まだ十分に使い慣れないそのソフトで、ウォーキング中に撮影して来た写真を調整していると、途中で応答が遅くなり、一旦中止した。改めて Photos を開いてみると、明度を上げただけのつもりのキリの花の写真の、空の色がほとんど真っ白になっていて驚いた。しかし、それはそれで、植物画か日本画のような趣があって面白いと思い、そのままここに載せることにした。イメージをクリックすると、拡大版をご覧になれる。