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2016年6月14日火曜日

2016 年 4 月 11 日から 6 月 25 日までの記事への M・Y 君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from April 11 to June 25, 2016)

[The main text of this post is in Japanese only.]


八重咲きの花(正確には総苞片が八重状になっている)をつけたドクダミ。恵那市明智町で、2016 年 6 月 11 日撮影。
Double flowers of fish mint; taken in Akechi, Ena, on June 11, 2016.

2016 年 4 月 11 日から 6 月 25 日までの記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 6 月 10 日付けで貰った。文末の注の部分に、消滅した過去の記事が紹介してあるのには驚いた。以下に引用して紹介する(一部訂正を施した)。(文中、「筆者」とあるのは、感想の対象であるブログ記事の筆者、T・T を意味する。)



 筆者は幼少の頃から絵を描くことが大好きだったことが、今回紹介する記事で明らかにされました。「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」に始まり、「幼少時代の絵」(1~7、なお継続中)と題し、大連への転居、敗戦による引き揚げ後、金沢市の小学校に転入し中学校に進学するなど、生活環境の変化にもかかわらず、大切に保存した数々の絵を取り上げ、幼少期を回顧し、語っています。どの絵も描かれた学年を基準に観ると優れた作品です。『鍾馗(しょうき)』(「幼少時代の絵 2」)には闊達な筆使いと鮮やかさで引き付けられます。

 「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」は、持ち物が最小限に制限される引揚げ時に絵の手本『明治神宮外苑』(石井柏亭・画)を持ち帰ったいきさつ、その絵の中の建物が TV 番組から「聖徳記念絵画館」と分ったこと、そして、大連小学校同期生の画家から石井画伯の名が懐かしい思い出につながっていると聞いたことを、一つの線上に浮かびあがらせた名作です。

 「幼少時代の絵 1」には、七尾市の国民学校 2 年の時、クラス担任だった若い女性の先生が突然亡くなられ、先生の思い出を告別式で朗読したことが述べられています。「幼少時代の絵 4」では、学校で配布されて使用した用紙の裏の印刷を見て、「学齢児童氏名」「保護者」「就学」などの欄があり、「学齢児童氏名」欄の下には、「本籍」などに続いて「渡満年月」という欄があり、大連や旧満州内で使用された独特の様式であったことに思いを馳せています。また、敗戦後大連の家に同居した Y 子さん(故人、文末の注参照)との出会いの絆を大切にし、生涯の友としたことにも触れてあるのが印象に残りました。日を追ってブログに掲載される構成がよく考えられていて、読みやすく、興味深く拝読しています。

 時間をかけて一枚一枚の絵を精査し、当時の社会も加味し、広い視野に立って追憶した物語を読み、筆者の必要なものの保管のよさや記憶力、推察力と文章力に感心しました。喜寿を記念して開催された『水彩画トキルト 親子展』の後に幼少年時代の絵についてまとめられているのは、時宜を得た意義深いことだと思います。

 この一連のブログ記事を読まれる方の便宜のため、筆者の学齢と在籍学校等を下記にまとめてみました。
  • 1942(昭和 17)年、七尾市の国民学校入学。
  • 1943(昭和 18)年、2年生。
  • 1944(昭和 19)年、3年生。4月、父君逝去。9 月初めに祖父君を頼って大連市へ転居。大連嶺前国民学校に転入。
  • 1945(昭和 20)年、4 年生。8 月 15 日敗戦。
  • 1946(昭和 21)年、5 年生。2 学期の途中で仮終業式をして閉校。
  • 1947(昭和 22)年、大連から引き揚げ、金沢市の国民学校に転入。4月、小学校 6 年生。

 一般的にいって、興味あることについてはよく記憶しており、忘れていたことも、写真や関連した文書など見ると記憶が蘇ってくるものです。私は、絵に関しては何年生の授業でどんな絵を描いたかについて、断片的な記憶があるのみです。1 年生の後半に絵日記を書くことが宿題になっていましたが、手元にないので、内容は憶えていません。工作については、実利的な意味もあり、興味を持っていましたので、造ったものや、その状況をよく憶えています。教科書の記憶については、「幼少年時代の絵 3」の爆弾三勇士の説明に引用してあった『小さな資料室』の、「資料 156」[国民学校国語教科書『初等科國語二』(3 年後期用)]を開いて確かめると、多くの表題とその概容についてぼんやりとではありますが、思い出されて、懐かしく拝見しました。

 爆弾三勇士については、3 年生の 3 学期に習いました。上海にいた時、遠足でその戦場の廟行鎮(びょうこうちん)に行き、攻め落としたトーチカ群やその前に張られていたという鉄条網の位置、かなり近距離の日本軍の攻撃開始位置など観察していましたので、この授業はよく記憶しています。経験豊富な女性の先生だけあって、与謝野鉄幹作詞(作詞者と詩作の動機などは後年知りました)「爆弾三勇士の歌」も教えてくれました。このメロディーは陸軍部隊が行軍する時に歌うに適した軍歌だと思ったものでした。ちなみに、憶えていた歌詞は次の通りです。
1. 廟行鎮の敵の陣/我の友隊すでに攻む/折から凍る如月の/二十二日の午前五時
2. 命令下る正面に/開け歩兵の突撃路/待ちかねたりと工兵の/誰か後をとるべきや
[引用者注:この歌は 10 番まであり、全歌詞はこちらこちらでご覧になれます。後者のウェブページには、爆弾三勇士とされた兵士らの行動の真相も記されています。]

 [注]”Ted’s Coffeehouse" 2008 年 6 月 27 日付けの記事「(続)『大連物語』を読んで」には、Y 子さんの母親 I・A さんの著書『大連物語』への感想文(I・A さん宛)の後半が引用されていて、その中に、A 家と筆者の関係が詳しく述べられていました[引用者注:"Ted’s Coffeehouse" 旧サイトは消滅し、一部の記事を現サイトに復元しましたが、この記事はまだ復元出来ていません]。筆者はその前文で、「A 家にわが家の二階に住んで貰うような事態になったのは、戦後、中国人が支配した大連市役所の「住宅調整」命令によるものだったが、当時の私はそのことを知らなかった。満州の奥地や中国の青島あたりから多くの人々が引き揚げに備えて大連に集まってきて、大連の人口が増えたことだけが原因だと思っていたのである。[…]不確かだった私の認識は、富永孝子著『大連・空白の六百日』(新評論、1986年)と『大連物語』によって修正されたのである」と述べています。

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