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2017年3月28日火曜日

2016 年 12 月 9 日〜2017 年 2 月 23 日分記事への M・Y 君の感想 2 (M.Y's Comments on My Blog Posts from December 9, 2016 to February 23, 2017 -2-)

[The main text of this post is in Japanese only.]



上:石光寺の寒ボケ、下:石光寺の寒咲アヤメ。2017 年 3 月 13 日、日帰りバス旅行で撮影。
Upper, Japanese quince blossoms in Sekko-ji garden; lower, Winter irises in Sekko-ji garden;
taken during one-day trip by bus on March, 2017.

2016 年 12 月 9 日〜2017 年 2 月 23 日分記事への M・Y 君の感想 2

3. J. M. W. ターナーの作品 140 余点など:Artsy サイト

 "Artsy" の職員は、J. M. W. ターナーの作品について有力な検索エンジンでサーベイしたことと思いますが、連絡が来るきっかけとなった貴ブログ記事には、内容をよく表した美しい写真と簡潔明解な英文もあるので、その職員の容易に知ることとなったと思います。また同職員は、貴ブログがターナーのページへのリンクを設けて、アクセスを広げられたことを感謝することでしょう。紹介されているターナーのページは、なかなか見ごえがありました。"Artsy" の「美術収集と教育」への筆者の協力を評価します。

4. 漱石「夢十夜」の読み続・漱石「夢十夜」の読み続々・漱石「夢十夜」の読み

 筆者は 3 回にわたり、漱石の「夢十夜」につて独自の見解を述べています。初回の冒頭で、
 岩波書店の広告誌『図書』2 月号に、夏目房之介と近藤ようこの対談が載っている。近藤が漱石の「夢十夜」をもとにした漫画『夢十夜』を岩波書店から出版した機会に、「多様な読みの可能性へ」と題して語り合っているのだ。この対談を読むと、《 確かに「夢十夜」は多様な読みを可能にする作品だ。私の読みは彼ら二人の読みとは異なるぞ 》と思われて来た。[…中略…]また、対談記事の二人と読みが大きく異なるのは、第一夜の話だけのようにも思われた。そこで、ここでは第一夜だけを取り上げることにする。
と述べる。そして、近藤と房之介の対話の中で、筆者と読みが異なる第 1 点として、「すごく西洋的な話」だということについて、筆者は他の九夜との調和からいっても、最初の場面には畳の部屋がふさわしく、第一夜全体として和風の話だと思う、と読みます。

 次に、「私が二人の読みと異なる読みをするところは、女の目についての描写である」として、近藤が「一面に黒目と書いてあって」といっているのに対し、筆者は、
しかし原作では、「一面に黒目」や「白目がない」という通りの言葉はなく、「大きな潤(うるおい)のある眼で、長い睫(まつげ)に包まれた中は、ただ一面に真黒であった」とある。私は、房之介が匂わせている通り、「ただ一面に真黒」は美人を表す「黒目がち」の誇張的な表現と取りたい。
と述べています。また、
房之介は続いて、「一番変なのは、[男が『私の顔が見えるかい』と聞いたのに対し]女が『[見えるかいって、そら、]そこに、写ってるじゃありませんか』と言うところです」と述べている。
ことを取り上げています。筆者はこれに関して、
女のいう「そこに、写ってるじゃありませんか」を筋の通った言葉と取るのは、やはり無理なようだ。謎や矛盾の多いのが夢というものであろう。
と自説を述べ、続編の議論へつなぎます。

 続編では、次のような指摘がなされています。
 「夢十夜」の言葉を検索してみると、『ぶっくらぼ』というサイトの「夏目漱石『夢十夜』問題と解説と読書感想文」と題する記事に「『第一夜』問題と解説」という章があり、いくつかの問題と、それに対する答えが書いてあった。
 その 2 番目に、
 Q.<ほら、そこに、写ってるじゃありませんか>の「そこ」とは、どこをさすか?
 A.自分の瞳。
というのがある。この記事では、「女」と、彼女に相対している男を意味する「自分」を使い分けているので、この「自分」は、<ほら、そこに …>といった女自身という意味でなく、文中に「自分」とある男のことを指していることになる。男が女に尋ねたのは彼の顔が見えるかということである。この答えでは、その問いに対して、男の顔が男自身の瞳に映っているじゃないですか、と答えたことになり、私としては合点がいかない。女の言葉自体が、私の先の記事でも述べたように、謎めいているにもかかわらず、それについて一つの答えを求める問題を作るのもどうかと思われる。
 そもそも、しばしば多義的な解釈を可能にする文学作品を取り上げて、一義的な答えを求める質問を作ること自体に問題があるだろう。
これに関連して、1948 年度から 54 年度まで、大学進学希望者に対して、全国一斉の進学適性検査というものが行われたという歴史的なことが述べられているのは興味深いことです。補足しますと、私立大学は入試に進学適性検査の結果は利用されませんでした。国立大学では、足切りに利用され、かつ入学試験の点数にも加えられました。例えば学科試験 1000 点に対して進学適性検査が 100 点くらいの割合で。

 最終的には続々編において、筆者が 20 数年前に読んだ吉田敦彦著『漱石の夢の女』に書かれている、「そこに、写ってるじゃありませんか」についての段落を引用し、
内なる女と外なる女を考えることによって、「そこ」という代名詞が生きてくるのである。
と結んでいます。私も吉田氏の解釈を、なるほどと思いました。(完)

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