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2020年2月29日土曜日

長谷川櫂氏の『こころ』評 (Kai Hasegawa Reviews Soseki's "Kokoro")

[The main text of this post is in Japanese only.]


長谷川櫂「『こころ』の深層」掲載ページ。
A page of K. Hasegawa's review on Soseki's Kokoro.

 岩波書店の PR 誌『図書』に若松英輔氏による漱石『こころ』を分析した文が連載されていたのは、もう一昨々年から一昨年にかけてのことになるだろうか。その連載が単行本「『こころ』異聞: 書かれなかった遺言」として昨 2019 年 6 月に岩波から発行されている。アマゾンの同書のページに引用されている「BOOK」データベースの内容紹介には、「漱石がテキストの中にちりばめた様々なイメージを丹念に拾ってゆくと、思いもかけなかった謎が浮かび上がってくる。これまで誰も気がつかなかった、全く新しいテキストの読み解き」とある。連載として少しずつ読んだせいか、あるいは私の読みが浅かったせいか、記憶力が衰えたせいか、どういう新しい読み解きがなされていたのかについて、残念ながら覚えがない。かつて読んだ(2 回ぐらいは読んでいる)『こころ』の記憶を蘇らせながら、ただ楽しんで読んだように記憶している。

 『図書』の2020 年 2 月号 pp. 54–57 にも『こころ』の短い批評が載っている。俳人・長谷川櫂氏による連載『隣は何をする人ぞ』の第 5 回「『こころ』の深層」がそれである。漱石ファンの私としては、こういう批評もあるということを忘れないように、ここにその要点を書き留めておきたい。

 『こころ』といえば、私などは恋にまつわる惑いとか、良心の呵責とかいう言葉を思い浮かべるのだが、長谷川氏が述べる評は、『こころ』という作品の衣服をはぎとって丸裸にする(と私が感じる)ところから始まる。氏はあらかじめ文学の本質について、「欲望に翻弄され、互いに争い、その言い訳に終始する人間、その滑稽な姿を描くのが文学」と述べ、その永遠のテーマは「人間の根源にあって人間を突き動かす二つの欲望、お金と性」であるとする。そして、「この文学の基本的な性格がぴたりと当てはまるのが夏目漱石の『こころ』なのである」と断じ、その観点から半ページ強にわたってあらすじを紹介している。文学の永遠のテーマを、そろえて巧みに扱ったとすれば、名作である理由がいかにも明らかである。

 次いで長谷川氏は、漱石の小説にはしばしば「高等遊民」が登場し、『こころ』の先生もそうであることを述べる。「高等遊民」については、「仕事をせず、親の財産で遊んで暮らすインテリのことである」と説明している。先のあらすじの部分によれば、「先生は資産家の息子だったが、学生時代に両親を同時に疫病でなくし、後見人となった叔父に財産の大半を騙し取られる」。しかし、「親の財産の一部が残っていたので」、高等遊民でいられたのである。長谷川氏は、「国家のためではなく自分のために生きる、新しい生き方にもっとも近いところにいたのが高等遊民」だったはずだが、「自由の光に目の眩んだ動物が檻へ後退りするように、先生は明治の国家主義へ逆戻りしてしまう」と、先生の自殺のあり方を批判する。そして、「明治の国家主義の亡霊にひれ伏す先生の最期は、やがて訪れる国粋主義時代の大衆の姿を予見しているかのようである」と結んでいる。私は、漱石は実際に予見したのだと思いたいが、ファンの身贔屓(みびいき)だろうか。

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