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2005年2月7日月曜日

道徳的とは

高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952 年 2 月 10 日()雨と雪

 午前九時から十分間のうちに行くから、六枚町の踏み切りのところで待っていてくれ、といい渡しておいたのに、ちょっと遅刻して来て、こんなつもりじゃなかったと、弁解みたいなことをいった。広岡町の鉄道官舎が KD 君の家だ。同じような構造の家ばかり並んでいるので、一人で行ったら探すのに時間がかかるだろうと思った。テーブルかけのかかっている机と、Ted の家にあるのと同じ火鉢がおかれている前に座った。ラジオのスイッチが入れてあって、ちょうど「光を掲げた人びと」のテーマ・ミュージックが流れて来た。きょうは、Ted が昨年の夏休みに研究していた作家
[1] についてだ。
 初めは、彼らの通信文だけ見せて貰うつもりだったが、サイン帳やアルバムや切手の収集まで見せて貰うことになった。サイン帳には「成せば成る成さねば成らぬ何事も」という言葉がたくさん書いてあったようだ。何かの花や教会の鐘の絵を描いて、そこに詩を書いたものもあった。「あまり書け書けといわれるから仕方なしに書く」とか「ご建康を祈る」というような、味気ないものも中にはあった。切手収集では、諸外国のものや、名古屋のあるデパートで買ったという四枚八十円也のものや、珍品がたくさんあった。その点数も相当なものだ。
 まだ、その他、敦賀中時代の学校新聞『若竹』というのを見せてくれたり、『級苑』という八十数ページにのぼる学級雑誌を見せてくれたりもした。
 彼の家で、まだ顔を見たこともなく話をしたこともない、しかし、地球上の、いや、敦賀市のどこかにいるはずの一人の人物に宛てて葉書を書き、帰りの道で投函した。


(Ted)

 ヒースクリッフの、月世界の夜のような性格と感情は、ただ作者によってあまりにも巧みに一人の人間に結集した形で表されているだけで、われわれも彼がエミリ・ブロンテによって与えられた凄惨さと執念深さを持ち合わせているのだ。

 ヤースナヤポリャーナで始まり、リャザンウラ線の中間の一寒駅アスターボタに終った生命。確かに「光を掲げた人」だ [2]。道徳的とはどういうことだろう。それは、人間が光――といっても、その前に立てば、反対側に影ができるような物理的な光とは異なって、光源が一つでも、湯につかるように、あらゆる方角から囲まれることの出来る精神的な光――に全身をさらすことではないか。

 われわれを存在させている一点一点が…。
 単なる思弁上の結論を書くだけで、「生き方」を知ったとはいえまい。もっと実際の苦闘の薮に飛び込んでからのことだ。

 「メンデルの瞳」とは、参ったね。「話の泉」の最中に、この番組のテーマ音楽がなり、Minerva を答とする問題となって終った。この番組を聞いていると、番組へ送る問題の製作意欲が湧いてくる。氷の問題は、いつか「子どもの時間」にあった「科学の散歩」の話から、そっくりそのまま拾ったものだ。ぼくが解答者だったら、鐘をならさせはしなかったのに。

 欄外への書き込み
(Sam) "Minerva【ローマ神話】才芸を司る神" とはいったいどんな意味なんだい。
(Ted) ぼくが「とんち教室」を聞き漏らすよりもこれを聞き漏らす方がガマンの出来ないほど気に入っている番組を聞かなかったのかい? 音楽をかけて、それに関係のあるギリシャ・ローマ神話の神の名を答えさせる問題だったのだ。Minerva は知恵の女神ともいわれる。

 引用時の注
  1. トルストイ。
  2. Sam が KD 君の家で耳にしていたのと同じ、トルストイについてのラジオ番組を聞いたのである。

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