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2005年2月23日水曜日

生死の境をさまよう兵隊たち

高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952 年 2 月 26~28 日(火~木)

 目の前の電線が盛んに上下し、左手に見える赤茶けた杉の林がざわめいてはいるが、雲といえば、向こうの山と青空の間に霜焼けの直ったばかりの皮膚のような薄紫がかった色をしたのが少し横たわっているだけである。少年鑑別所の白い壁やその手前に多数立て掛けられている細い材木は、のどかで喜ばしい春の光の中にあるように見える。[1] そして、事実、もう春である。

 T・U 君 [2] が高峰賞 [3] を受賞した。ぼくがあの家にいたとき [4] の彼は、勉強する机も持っていないようだったが。

 一昨日のホームルーム時は HS 先生の比島従軍談を聞いた。いつもは、ただ厳めしい先生だと思っていたが、この時の先生は、少し窮屈かと思われる国防色の洋服を着ていたことも手伝って、半ば愉快で、半ば恐ろしい話で心を惹きつけることが可能な先生という印象を、われわれに一度に与えられた。機銃掃射、爆弾、大砲、これらの音、その下で自ら生死の境をさまよう兵隊たち。焼かれて喉を通るカエル、トカゲ、果てはネコの肉。音や動作を表現する副詞の次に引用の格助詞を一つつけただけで、再び前の副詞を繰り返される話法 [5] は成功だった。

 (44 − 4)/4 がどうして分からなかったのだろう。並べてはいけないのかい。[6]

 a + b + c = 1/a + 1/b + 1/c = 2 のとき次式の値を求めよ。
 (1 − ab)(1 − bc)(1 − ca)/(1 − a2)(1 − b2 )(1 − c2)
というのをやって見給え。

 「ノンセクションの私は誰でしょうと三つの知識」が今年度最後のアセンブリーだった。各ホームから1名の解答者が順じゅんに出て、「私は…」と「三つの…」のどちらかを選び、司会者 YMG 君の読むヒントで考え、答え、当たれば賞品を貰って降壇する。Hard nut to crack [7] というほどのものはなかったが、YMG 君の声は低過ぎてやや聞きづらかった。13 ホームからの出場者だった KJ 君は、シェークスピアをチャップリンといって笑われたが、最終ヒントである第3ヒントで無事正解を出した。胸に手を当てて登壇した 2 年生男子が "No comment" という発言で有名な人物を、頭を掻きながら「思い出せない」とか「グレムイコ」とかいっていたが、皆を笑わせる芝居だったようだ。
 出場者が少なかったので、残った問題が会場に向けて出題された。会場から最初に賞品を獲得したのは、盛り上がり気味の眼瞼を白い顔の中でさらに目立たせる感じで「ノンちゃん雲に乗る」の作者、石井桃子を答えた Vicky だった。ぼくも最近の『週間朝日』のスポーツ欄をちょっと読んでいたお陰で、「卓球」という答で、ノートと鉛筆 2 本を貰った。

 引用時の注
  1. 間借りしていた 2 階の部屋の前が縁側であり、そのガラス戸越しに見た光景である。向かいは製材所だった。
  2. 2 年先輩(先輩も当時は君付けで呼んでいた)。東大へ進学、のちに静岡大学教授。

  3. 石川県で育った高峰譲吉博士を記念して、同県下の理科、化学の優秀な中学、高校の 3 年生各 10 名 に対して与えられていた奨学金。現在は中学生と、団体としての中学校への授賞という形に変わっている。詳しくは「アドレナリン」の復権を参照。
  4. 母と私は、私の中学生時代、U 家の 2 階に間借りしていた。その時、祖父は伯母と、やはり近くに間借りしていた。
  5. たとえば、「ダダダッ!と。ダダダッ!」という具合。
  6. 4 個の 4 と小数点と各種演算で、10 以上のいろいろな数を表わせ、という(ものだったかと思われる)Sam からの問題に挑戦していたのである。「並べる」のもよかったようである。11~30 と、そのあと飛び飛びに 112 までの作り方を書いた紙片が日記帳に挿入されていた。
  7. 「難問」の意。

 
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

四方館 02/23/2005 09:23
 授業 (HR) のなかで比島従軍談を聞ける時代だったんですね。私の高校時代は60年安保から始まりましたので、政治的、党派的な洗礼は強かったですが、生々しい戦争の爪跡からはすでに遠いものでした。

Ted 02/23/2005 10:24
 私たちの中学生時代には、まだ、軍隊帰りの元気な先生たちの中には、行儀の悪い生徒に「ビンタを取る」(殴る)という教育方法を用いられた方がたもありました。いまならば、児童虐待で問題になるところです。私も一度、教室で自習をするようにいわれた時間に、仲間と一緒に運動場でソフトボールをしていた罰として、椅子の壊れ端のような角材で、それほど強くはなくですが、脳天をポンと一発打たれた記憶があります。

M☆ 02/23/2005 10:56
 私の頃になると、もうそうした従軍談の話などは皆無になってしまいます。事実なのに知らずに生きている私達の世代…。歴史の授業が子供に与える影響は大きいと感じる今日この頃です。

Ted 02/23/2005 15:40
 大岡昇平の『俘虜記』(1948)も比島従軍体験を綴ったものです。野間宏の『真空地帯』(1952、岩波文庫にあり)は、軍隊の非人間性をあばいた作品。戦争を知らない世代の方がたに読んで貰いたいものです。

四方館 02/24/2005 09:36
 そうですね、中学時代の教師には、戦時の軍事教練的習慣を遺していたのがいましたね。体罰はごく日常的にありましたし、生徒指導も民主的というにはほど遠かった。高校へ入学して、教師のあり方がこんなに違うのかと大いに驚いたものです。

Ted 02/24/2005 17:04
 四方館さんの頃でも中学の先生はそういう具合でしたか。軍国主義の影響、恐るべしです。

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