2004年12月23日木曜日

「アドレナリン」の復権

 12 月 22 日付け朝日新聞夕刊「窓:論説委員室から」欄に高峰譲吉(1854–1922)の活躍と業績が紹介されている [1]。高峰は、消化薬タカジアスターゼの開発者であり、血圧を上げるホルモン、アドレナリンの抽出に成功し、命名したことでも知られる。記事は、高峰の生誕 150 周年記念展が、東京・上野の国立科学博物館で開かれていることに因んで書かれたものである。

 高峰は、数々の特許を申請し、日米両国で製薬会社を興したバイオ産業の祖であり、ニューヨークに大邸宅をかまえて日米交流に力を注ぎ、理化学研究所の創設を提唱した。これらの、科学者として以外の顔があまり知られていないのは、30 代の後半から終生、米国に移り住んだためだろう、と「窓」子は記す。

 高峰譲吉は富山県高岡市で生まれたが、翌年、石川県金沢市に移り、そこで育った。成育の地・金沢では、1950 年に高峰博士顕彰会が結成され、同会は化学に優れた成績を修めた石川県下の中学・高校生各 10 名に毎年与える「高峰賞」を設定し、1951 年度から授賞を実施した [2]。不肖私は第 3 回受賞者(高校生の部)の一人である。1971 年度から、個人賞は中学生 10 名前後のみとなり、新たに学校賞が設けられ、毎年 2~5 の中学校が選ばれて来ている [3]。

 2000 年 12 月、高峰博士顕彰会 50 周年記念パーティが金沢で開催され、私も受賞者の一人として参加した。ちょうどその頃、高峰譲吉の伝記 [4] が発行された。同書には、アドレナリンの特許権が切れた頃から、米国と日本ではアドレナリンが「エピネフリン」と呼ばれてきており、その陰にあった米国薬学者による「高峰の盗作」説が、この伝記の著者たちの提案で正されようとしていることが記されていた。

 「窓」欄の記事が、上記提案の成果を次のように知らせているのは喜ばしい。「アドレナリンの名でも」とあるところに、いささか不満は残るが。
菅野富夫北大名誉教授らの働きかけで、2 年後からアドレナリンの名でも呼べることが決まり、150 周年に花を添えた。

  1. 辻篤子「高峰譲吉」朝日新聞夕刊(2004年12月22日)
  2. 三浦孝次『高峰譲吉・かがやく偉業』(高峰博士顕彰会、1953)(非売品)
  3. 高峰譲吉博士顕彰会 50 周年記念 秀峰会会員名簿(高峰譲吉博士顕彰会、2000)(非売品)
  4. 飯沼和正、菅野富夫『高峰譲吉の生涯:アドレナリン発見の真実』(朝日新聞社、2000)(この書名をクリックすると開くアマゾンのページに、現在 1 件のみあるカスタマーレビューは、私の投稿)

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

poroko 12/23/2004 21:24
 アドレナリンは一般名詞化していますよね。タカジアスターゼは知っていましたが、アドレナリンのことは知りませんでした。功績のあった日本人をもっと広く知らしめるべきだと思いますね。

Ted 12/23/2004 21:51
 「アドレナリンは一般名詞化」、そうですね。興奮したときに、「アドレナリンの働きが活発!」などといったりして。
 「功績のあった日本人をもっと広く知らしめるべき」、同感です。

Y 12/24/2004 08:26
 高峰譲吉博士が、製薬会社の祖であり、また日米両国でそれをなさっている点が、興味深いですね。科学者が科学者以外の顔をもって活躍されること、社会にとっても重要で必要度が高いですよね。そのへんはやっぱり、企業社会で通用するだけの柔軟性、ノウハウ、人間関係力と、発想がないと出来ませんよね。理化学研究所は有名ですよね。いい所なんでしょうね。
 うちの夫の昨日の談ですが、自分は才能も研究者の道を拓いて行く能力もないが、実験技術が教官たちよりも十分獲得できていることと、何より出発点として、物事の真髄を見抜く力(多くのデータ類の中から何が重要で必要かを見抜く力、など)が自分にあると思ったから、科学者になろうと思ったのだということです。で、研究室での姿勢は、ひたすら「滅私奉公」で、後輩や医師や留学生を指導して教授に仕え、信頼を得ているそうなのですが。Ted さんは先輩として、Ted さん流とはどのようなものだったか、いかがですか?

Ted 12/24/2004 09:48
 理化学研究所では、かつて仁科芳雄、朝永振一郎ら、一流の物理学者が研究していました。いまも、国際的に最前線を行く実験等が行われています。
 私は大学へ入った時は湯川先生のもとで学ぶつもりでしたが、湯川先生のノーベル賞受賞という「湯川効果」によって、素粒子論研究の志望者が多すぎる状況でしたし、また、早く一人前にならないといけない家庭の事情もありましたので、専門の選択に当たっては、理論好きの頭で実験をするのもよいか、と原子核実験を選びました。
 そして、担当教授がちょうど大阪府に放射線の研究所を作られましたので、境界領域を攻めようと、そこへ入りました。本当の境界領域は、物理学と化学、生物学、医学などとの間にあるのですが、そこまでは踏み込めず、それらの各領域の研究にも役立つ放射線の基礎データの整備に関わる研究を続けました。そのようなデータの整備には、経験式の作成という、理論の頭の必要な仕事もありましたので、曲がりなりにも初志を通したことになりました。
 ご夫君がご自分の得意な面を生かして、ひた向きにやっておられる姿勢は、立派だと思います。

さくら 01/10/2005 19:58
 偶然このページを見つけました。夫は第 8 回高校の部、私は同じ時期中学の部で、それぞれ個人賞を受賞しました。2000 年 12 月の会にも夫婦で出席しました。このようなページを見つけることができてうれしいですね。

Ted 01/10/2005 20:26
 秀峰会会員名簿で、さくらさんご夫妻の実名と、さくらさんが私の中学後輩に当たられることが分かります。ご夫君とは、受賞がご縁で結婚されましたか。私は菫台高校で受賞しました。

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