S さん
速達拝受。『仮面の告白』は私も新潮文庫版を持っていましたので、送って貰わなくてもよかったのですが。
指導教官が三島と『仮面の告白』の「私」が別物だというお考えならば、「三島由紀夫における〈二面性〉——『仮面の告白』を通して」という題でまとめようとすれば、真っ向から対立することになり、なかなか OK が出ないような気がします。
本当の学術論文ではなく卒論なのですから、少し妥協して「三島由紀夫の作品における告白性と虚構性——『仮面の告白』を通して」という題にしてはどうでしょうか。あるいは「三島由紀夫」の代わりに『仮面の告白』を中心に据えてもよければ、もう少し簡潔に「三島由紀夫の『仮面の告白』における告白性と虚構性」とすることも考えられます。
このようにしても、三島の二面性に言及できることは同じです。ただ、同性愛者という可能な一面を結婚以前の若い時代の経験に限定し、しかも作品上は、告白を含みながらも文学的脚色が大いになされている(虚構も大いに入り込んでいる)だろう、ということを述べれば、指導教官と真っ向から対立する程ではなくなるでしょう。「結論」に書かれている「三島は実生活においては、申し分のない良家の夫であった」ということとも矛盾しません。
少年時代の一時期、格好いい、あるいは逞しい同性に惹かれるということは、少なくない男性が経験することと思います(私にも、そのような時期がありました)。しかし、三島の場合は、彼の感受性の豊かさも手伝い、その経験がかなり強烈で永続的なものだったと想像されます。
草稿案の p. 2 に引用されている三島の二つの叙述(どこから取ったかを記入しておくとよいと思います)は、この作品が彼の体験に根差していることを示しており、そこに告白性を主張できる「論拠」があるでしょう。また、三島がこの作品の続編のような『禁色』を書いていることも、三島の同性愛への関心の深さを裏付けるものでしょう。
しかし、他方、草稿案 p. 3 の始めに引用されている三島の二つの文は、『仮面の告白』が完全な告白ではないこと、つまりそこには虚構性があることの「論拠」になります。
その他、『仮面の告白』の文章と、三島の実生活に関する記述のいくつかの比較も、告白性あるいは虚構性のどちらかの「論拠」に振り分けることが出来るでしょう。
新潮文庫版末尾にある福田恆存の解説でも、——この解説は高尚な表現で書かれていて、論旨の把握がやや困難ですが、——この作品には告白性と虚構性の両面のあることが述べられていると思います。
論文の題名を変えては、という大胆な提言をしましたので、面食らわれたかも知れませんが、指導教官のお考えを尊重するとともに、『仮面の告白』を中心にして三島について言えることを考えるとき、三島の生涯を通じて、愛情における一般性と特殊性(同性愛)の二面性があったと論じ切ることは困難かと思い、上記のような提案を書いてみました。
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2005年2月26日土曜日
告白性と虚構性
大学の通信教育を受けている友人が、卒論を準備するところまで漕ぎ着けた。卒論のテーマとしては、三島由紀夫の『仮面の告白』を取り上げている。指導教官に草稿案を見て貰ったところ、友人とは意見が異なり、また、「論拠」はどこにあるかをはっきりさせるようにいわれたとのことで、どうすれば、論理的な論文になるか助言して欲しい、といってきた。私は次のような返信を送った。
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