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2005年5月10日火曜日

真似たくないことば


 写真は堺市大仙公園で、2005年5月7日(記事には無関係)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年7月21日(月)晴れ

 詩的――。先日1頭の牛が死んで大損害のあった SN 君の家へ、Jack と TKH 君と一緒に行った。TKH 君が犀川を渡るのは大仕事だった。遊ぶこと以外は一切考えなかった午後――。しかし、詩的感興がうすれるにつれて、ぼくは彼らの仲間であることに倦怠を感じた。母の心配を懸念して帰宅したのは、「三つの歌」の始まったとき。[1]

1952年7月22日(火)晴れ

 「僕の友達は一人だけです。」東京へ移った KZ 君から Jack へ来た葉書の最後のことばである。8月1日にこちらへ来る(といっても金沢は素通りで、能登にいる OK 君のところへ行くのだ)予定だと書いてある。円盤投げや砲丸投げが得意で、考古学が好きだった OK 君、黒い大きな顔の中に、大きな白い歯を持った彼、奥満州で経験した奇々怪々を純真な調子で、かつ物恐ろしさを加えて語った彼、彼が KZ 君とそれほど固く結びついた理由はどこにあるのだろう。一方は豪快、他方は繊細。
 「友達は一人だけ」という考え方をしたいならば、それもよかろう。しかし、それは、その一人の中にあらゆるものを見出してのことばか、その一人以外の、かつて接触した人物すべてに絶望してのため息か、あるいは、他の理由による発言か、いずれにせよ、ぼくの真似たくないことばだ。

 引用時の注

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  1. 実は、この日の日記には斜線を引いて消してある。翌日の日記との間に多少の矛盾を感じたからだろうか。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/10/2005
「僕の友達は一人だけです」と云った彼は、むしろとてもナイーブで繊細な人のような気がしますね。外部への表現としては無骨で紋きり方の言い方しかできない。自分の内面や思考をうまく言葉に言い表せないタイプの人には意外に多いのではないかと思いますが‥‥。

Ted 05/10/2005
 私の日記には、KZ君が「一人だけの友達」と考えたOK君は豪快で、KZ君自身は繊細、と書いたつもりですので、四方館さんが「繊細な人」といわれるのはよいのですが、「むしろ」や「気がします」と書かれたのは、日記の文が分かり難かったのかと思います。KZ 君は文学青年で、「外部への表現としては無骨で紋きり方の言い方しかできない」ということはありませんでしたが、繊細過ぎたと思います。40歳台で死亡し、お悔やみに行ったときの夫人の口ぶりから、自殺だっただろうと私は思っています。

四方館 05/10/2005
 ああ、そうだったのですか。完全に取り違えをしてしまいましたね。Ted さんにとっては KZ さんの繊細にすぎる弱さや脆さのなかにご自分との「似て非なるもの」を感じていらっしゃったのでしょうか。一見似ているようだが、非なる部分が明瞭にある。その非は決定的なほどの差異なんだろうと。近いが遠い、遠いは近い、といったような逆説が成り立つようなところがあるように。「一人だけの友達」という言葉に、ある受け容れ難さを感じられていた Ted さんを考えますと、そんな感がしてきますが‥‥。

Ted 05/10/2005
 「似て非なるもの」、そうです。KZ 君は、小学校6年から中学校3年の途中、Sam という親友が出来るまでは、影響を受けることの多かった友人でしたが、高校時代には、かなり差異を感じていました。昨年、小学校の同窓会で、KZ 君が「一人だけの友達」と言った OK 君に会いました。そのとき OK 君は、「KZ 君に会うと、彼はよく君のことを話題にしたものだ」と言っていましたから、KZ 君にとって私は「似て非なるもの」同士として、OK 君に次ぐくらいの友人だったのかもしれません。

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