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2005年7月19日火曜日

オクラ(写真)/ 無意味と無駄と不必要を除いた生活



 昨年、わが家の植木鉢の一つに、偶然オクラが芽を出し、いくつかの実を賞味することが出来た。今年は、それに味をしめて、何本かを種から育てている。朝、薄黄色の花が咲き、アサガオと同様に、昼にはしぼんでしまう。別名は陸蓮根(おかれんこん)。なるほどと思う名だ(2005年7月17日撮影)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

(続)1952年10月9日(木)曇りのち晴れ

 汽車の中では、「デカメロン」の著者の名をあだ名に持ち、よくしゃべるおどけた3年生が、彼の持ってきた「私は誰でしょう」と「話の泉」の問題集から、アナウンサーぶりよろしく問題を読み上げて、Jack とぼくを少しばかり楽しませてくれた。旅館へ入ってからすぐ散歩に出たが、始めからあやしかった旅館の下駄の緒が切れてしまい、HT 君が手ぬぐいを裂いてくれたので恐縮した。
 午後 TJ 君と Jack とぼくは傘を持って貸ボートに乗り込み、苔色の水を四つの櫂でかき分けながら、湖上を散策した。TJ 君はボートの進路と櫂の動かし方を指導し、Jack はもっぱら力漕し、ぼくは時計の長針が一回転の何分の一したか、あとどれだけで一回転になるか、を刻々報じる一方、水上を走る愉快さと、その愉快さに不釣り合いな、曇っていてときどき小雨を落とす空の色と、Jack の櫂がはね上げるしぶきの香りとを楽しんだ。

 こうした昨日の旅行の終り頃になって、無意味と無駄と不必要の完全に除去された生活は、どうすれば実現できるか、と考えた [1]。ここに並べた三つは、似た事柄だが、少しずつ異なっているように思う。すなわち、「無意味」は理に合うかどうかを基準とし、「無駄」はある目的達成への距離やそのための努力の能率を基準とし、「不必要」は簡潔な円満性を基準とするものだろう。

 SN 君とTKS 君が書き、ぼくがその文章のぎこちないところを直して掲載した「菫台時報」第15号の夏休み実態調査の記事がほどんどそっくり北国新聞の4面に取り上げられている!

 引用時の注

  1. いまは、そのような生活がよいとは考えていない。当時は、勉強好きの私といえども、大学受験がいくらかのプレッシャーになっていて、こういうことを考えたのだろう。

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