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2007年1月28日日曜日

精神一到

 「湯川秀樹を研究する市民の会」の顧問の一人のOさんから先般、『サライ』誌に長岡半太郎、湯川秀樹両博士の声も入っているCDが付録になっていると、グループメールで知らせて貰った。その日から少し遅れてスーパーマーケットの書店へいってみると、ちょうど『サライ』は3月号に置き換えられたばかりで、くだんのCDがついている2月号はもうなかった。

 たまたま、友人がメールで『サライ』2月号本誌にあった三島由紀夫のエピソードを書いてきていたことを思い出し、その友人に『サライ』2月号を買い損ねたことをいってみたら、付録のCDを親切に送ってくれた。NHKが放送を開始してからの歴史的録音をつづったもので、「大正14年放送開始―82年の軌跡―:ラジオが語った『時代の記録』」という題になっている。

 長岡博士は、NHK第2放送で1935年から始まった学校放送全国放送の「朝礼訓話」として、電磁気の理論を大成した19世紀イギリスの物理学者マクスウエルの話をしている(録音は途中からしか入っていないようだ)。そして、日本が外国の真似ばかりしているのは情けないという趣旨のことを述べ、「精神一到何事か成らざらん」という言葉で結んでいる。

 1935年といえば湯川博士の中間子論文の出た年でもある。この論文は、湯川博士があたかも長岡博士のこの訓話に応えたかのように、日本の理論物理学の優秀さを世界にとどろかせることになった。CDに収められている湯川博士の声は、敗戦後間もない時期の明るいニュースとして、1949年ノーベル賞受賞時の言葉を取り上げたもので、「日本の理論物理学は、こういうことがなくても、世界で認められて来ている。日本の再建の勇気づけになれば喜ばしい」という内容である。

2007年1月27日土曜日

湯川博士日記

 以下は、けさ私が「湯川秀樹を研究する市民の会」メンバーへ送ったグループメールからの引用(若干修正)。

*     *     *

 皆さん、お早うございます。

 昨1月26日の朝日新聞夕刊科学欄に「公開の湯川博士日記 記載なし:質量いつひらめいた 中間子理論 残る謎」というタイトルの記事が掲載されていました。

 「湯川博士は新粒子の理論を1934年10月前半の4日間で集中的に練っていたこと が、このほど公開された日記の記述で分かった。だが、この粒子の質量を計算した様子は、日記から直接には読み取れない。博士はいつ質量にたどりついたのだろうか」という趣旨の前書きで、本文にはもう少し詳しい考察が述べられています。ここで「いつ」とは、10月中の正確な日付けを意味しています。結びの文は「質量計算の謎の解明は、新しい史料の発掘に期待するしかないようだ」となっています。

 湯川博士自身の日記に明らかでなければ、新しい史料とは、当時同じ研究室にいた人たちの日記ということになるでしょうか。詳しい日記をつけていた人がいて、それを家族が保存しておればよいのですが。

 上記の記事に続いて、23日に京大で行われた記念式典と講演会の記事も載っています。題名は「湯川氏・朝永氏 生誕100年:記念式典『京大の誇り』」。大阪府下に住む私たちは、阪大で生まれた湯川博士の中間子論は大阪の誇り、とも思っていることを主張したいものです。

 T.T.

2007年1月26日金曜日

場と量子のどちらが主か

 湯川博士の中間子第1論文 [1] の第3章は "Nature of the quanta accompanying the field" と題されている。「湯川秀樹を研究する市民の会」の勉強会で、これを「場に伴う量子の性質」と訳していることに、私は疑問を持たなかったが、さる21日の定例会の後で、Eさんが「場を伴う量子の性質」がよいのではないか、とグループメールで提案した。「場に伴う量子」といえば、場が主で量子は従だが、「場を伴う量子」といえば、量子が主で場は従となる。Eさんの提案理由は、量子あっての場であり、湯川博士も量子に重点をおいていただろう、ということである。

 確かに、湯川論文は電子の約200倍の質量を持つ、当時未発見の量子(中間子)が核力を媒介しているだろうという画期的な提唱をしたのである。また、場は古典物理学以来の概念であるのに対し、素粒子の運動を支配する量子力学の、「量子化」という操作をすれば、場に粒子像が現れる。したがって、極微の世界では量子が主役ともいえる。念のため、片山泰久訳 [2] の中間子第1論文を見ると、Eさんの提案のように「場を伴う量子」となっている。

 しかし、"A accompanying B" という英語の句では、Bが主でAは従の役割を持つ。つまり、これは「Bに付随するA」を意味する。Bは accompany という動詞の目的語であるが、英語の目的語を日本語にするとき、「~を」という表現になるとは限らない。

 湯川論文は量子力学が誕生してまだ年数の浅い時期に書かれたものであり、「場に付随する量子」といういい方に抵抗はなかったであろう。というよりも、核力の場に未知の量子が関係しているだろうということ自体、他の誰もが考えおよばなかった時代だったのだから、場が主であって不思議はない。

 さらに、湯川論文は、まず、第2章において「相互作用を記述する場」を論じ、いわゆる湯川ポテンシャルを半古典的に導き出している。そして、「その場を量子化したときに出てくる粒子」を議論するための第3章が続くのである。この流れを見ても、「場に伴う量子」と見るのが自然であろう。したがって、原文に忠実な訳は「場に伴う量子」でなければならない。

 このような私の考えをメールで書き送ったところ、Eさんは湯川論文を再度読み直して、賛同してくれた。

 私はその後、湯川博士の半生の自伝『旅人』の中に、「核力の場に付随する粒子を、既知の素粒子――新しく登場した中性微子をも含めた既知の粒子の中に、さがし求めることはやめよう」という文があることに気づいた。これは、「に」と「を」の選択上の、決定的な材料であろう。「場を伴う量子」という片山訳は、ちょっとした誤訳ということになる。

 なお、場とその量子の密接な関連が明らかとなった現在においては、「場に伴う量子」でも「場を伴う量子」でもなく、単に「場の量子」と書くのが普通であろう。

  1. H. Yukawa, On the interaction of elementary particles. I. Proc. Phys.-Math. Soc. Japan, Vol. 17, pp. 48-57 (1935).
  2. 片山泰久訳, 素粒子の相互作用について I,『湯川秀樹自選集 第二巻』p. 261-276 所収 (朝日新聞社, 1971).

2007年1月25日木曜日

受教簿

 京都大学総合博物館で開催中の「素粒子の世界を拓く:湯川秀樹・朝永振一郎生誕百年記念展」が来たる28日で終りと最近気づき、昨日、急に思い立って見に行った。私にとって、内容はおおむね知っていることだったが、展示はよく出来ていて、湯川博士の学生時代のノートなどの展示品からは、博士の学問への情熱がひしひしと伝わってきた。

 他方、私の学生時代はといえば、湯川博士の量子力学の講義が、『岩波講座・現代物理学』中の量子力学の巻に博士が書かれた通りだったので、ノートもとらないで聞いていた。友人のY君は、日付け入りでノートしていたそうで、12月第2週からは、湯川教授が海外出張のため、井上助教授が講義と単位認定を引き継いだと、メールで教えてくれた。そうならば、私は大学3・4回生のときの単位取得認定を記した「受教簿」をなくして残念に思っていたが、「湯川秀樹」の署名は井上助教授のものだった可能性が大である。(なくしても惜しくない、といっては井上博士に失礼だが。)

2007年1月23日火曜日

湯川博士生誕100年記念日

 以下は、私がけさ「湯川秀樹を研究する市民の会」メンバー宛に送ったグループメールである(字句を少し修正した)。




湯川の会の皆さん

 きょうは、いよいよ湯川博士生誕100年記念日。朝日新聞第1面が、博士の中間子発想の少し前の日々の日記に、「γ' rayについて考へる」と書かれていたという記事を載せています*。博士が、電磁場の光子の類推として核力の場の中間子を考えていたことが、「γ' ray」の語に現れていますね。

 * 中間子着想4日間、湯川博士の日記に ノーベル賞の原点


 Sさんからお知らせいただいた昨夕のNHKテレビ「かんさいニュース1番」の終りの部分での、私たちの会の活動についてのニュースを、私も見ました。「10代から70代の市民が…」といっていましたね。

 さて、このやや長いメールでは、原子核の束縛エネルギーと湯川論文のλの値について、それぞれ、少しばかりの説明と考察をします。

 まず、束縛エネルギーですが、一昨日の定例会でHさんが発表のリハーサルをされたとき、ボナーの実験に関するところで、核子1個当たりの束縛エネルギーの原子核の質量数Aに対する依存性の話が出ました。その関係を表わしたグラフを、例えば次のウエブサイトで見ることが出来ます。

   原子核の質量,結合エネルギー


 核子1個当たりの束縛エネルギーは、質量数Aの非常に小さいところでは、Aの増大とともに急激に増加し、鉄の原子核(質量数約56)付近で最大になり、あとは緩やかに減少します。Aの非常に小さい原子核はくっついてAの大きいものになった方がより安定、Aの非常に大きい原子核はバラバラになってAの小さいものになった方がより安定、ということです(これらのより安定になる変化の際に、結合エネルギーの差が外部へ放出されます)。前者の場合は核融合反応、後者の場合は核分裂反応の起こる理由となります。

 次にλの値ですが、λは核力の有効距離の逆数になりますので、その値は原子核の大きさ、特に陽子と中性子各1個からなる重陽子の半径から推定できます。湯川論文の第2章の終りでは、λを1012 cm−1 と 1013 cm−1 の間と仮定し、第3章の mU の推定に当たっては、5×1012 cm−1 という値を使っています。この値は、粗っぽく先の二つの値の中間を取ったもののようです。しかし、これは核力の有効距離でいえば 2 fm [1 fm は 10−13 cm] であり、次に記すように、現在知られている重陽子の半径とかなりよく一致するようです。当時、1桁に及ぶ不確かさの幅があったのだとすれば、うまい中間値の取り方をしたものです。

 次のウエブサイトに、原子核の大きさの測定方法の説明に続いて、原子核半径の近似的な一般式が書かれています。

   原子核の大きさ

その式は

   R=1.2A1/3 fm

というものです。重陽子の場合(質量数 A=2)にこの近似式を当てはめてみると、R=1.5 fm となり、その逆数のλは 6.7×1012 cm−1 となります。

 ちなみに、原子核半径の最初の測定結果は、ラザフォードが原子構造を明らかにしたときの、α粒子の金箔による散乱実験から求めたものです。

 [余談]1月11日付け高エネルギー研ニュースに「湯川博士生誕100周年~ 原子核をつなぎとめる中間子 ~」という記事があることを、たまたま見つけました。陽子と中性子が中間子をキャッチボールする動画が挿入されていますが、陽子と中性子が上方へ飛行しているのは奇妙です。時間経過のつもりでしょうか。動画では空間的に時間を示す必要はないと思います。

 T. T.

2007年1月17日水曜日

パイ中間子の質量推定

 湯川博士が存在を予言したパイ中間子の質量は、ハイゼンベルクが見出した不確定性原理を使って推定できるという話がいろいろな本(例えば [1])に書かれている。私は長年、湯川博士はそういう考え方でパイ中間子の質量を予想したものと思い込んでいた*。

 ところが、このたび「湯川秀樹を研究する市民の会」で、湯川博士の中間子論第1論文を勉強して初めて、その論文の中では、運動量とエネルギーに対する量子力学的演算子の関係をクライン-ゴルドン方程式に代入したものと、エネルギーと運動量の間の相対論的関係式の比較から推定していることを知った。そもそも、クライン-ゴルドン方程式は、この相対論的関係式から湯川博士が行なったのと逆の代入で導くことができ、前者の中の定数λは、その導出から 2πmc/h (m は粒子の質量、c は光速、h はプランクの定数)と決まるので、わざわざ比較する必要もなさそうである。しかし、当時はこのことが明らかでなかったので、こういう手続きを踏んだのであろう。

 そこで、不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定は、湯川博士自身がのちに考えたのか、誰か他の人が考えたのか、という疑問が生じ、いくつかの本をあたってみた。ボルンの原子物理学の本 [2] には、中間子論がかなり詳しく紹介してあるが、パイ中間子の質量については、湯川博士の論文に近い記述になっている。セグレの原子核と素粒子に関する本 [3] を見たところ、「Wick (1938) による」として、不確定性原理による質量の導き方を記してあった。

 これで疑問は解けたが、Wick の文献は引用されていない。私信の類いだったのかも知れない**。ただし、セグレの本の中に G. C. Wick という名は、中性子・陽子散乱から交換力の存在を指摘したこと(1933年という意外に早い年である)や、「原子核物理学における不変原理」という総説論文 [4] によっても登場している。

 また、同じセグレによる物理学の歴史に関する本 [5] の第12.1図(湯川博士が1948年にバークレーを訪ねたときの写真)には、フェルミ、セグレ、湯川、そして Wick が並んで写っていて、その付近のページに、やはり不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定が「湯川の議論を簡単化した説明」として記されている。

 後日の追記:「湯川秀樹を研究する市民の会」のMさんから、朝永博士の著書 [6] にも不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定が説明してあると教えて貰った。私は朝永博士のノーベル賞受賞の年に発行されたその本の新装版をすぐに買って読み、いまも持っているが、同書の最初の文「原子核の理論」(初出の出版物は未詳、1941年。[7] にも収められている) の中への[追加]として、その説明が記されていたことは、全く覚えていなかった。1941年といえば、セグレが引用している Wick の説明より後であり、説明文もよく似た流れになっている(より丁寧で教育的な感じはするが)ので、朝永博士は Wick の説明を知って、それを紹介したのかと思われる。

 さらに後日の注記:
 * たとえば [8] にも、"In formulating his theory, Yukawa used Heisenberg's Uncertainty Principle ..." と誤って記されている。
 ** 文献 [9] であることが分かった(詳しくは [10] を参照されたい)。

  1. 原康夫著, 素粒子物理学 (裳華房, 2003).
  2. M. Born, Atomic Physics, 8th edition (Dover, 1989; first edition published by Blackie & Son in 1935).
  3. E. Segrè, Nuclei and Particles, 2nd edition (W. A. Benjamin, 1977).
  4. G. C. Wick, Ann. Rev. Nucl. Sci. Vol. 8, p. 1 (1958).
  5. E. Segrè, From X-Rays to Quarks: Modern Physicists and Their Discoveries (Freeman, 1980).
  6. 朝永振一郎, 量子力学的世界像 (弘文堂, 1965).
  7. 朝永振一郎著作集 8 量子力学的世界像 (みすず書房, 1982; 新装版 2001).
  8. M. Riordan, The Hunting of the Quarks, p. 45 (Simon & Schuster, 1987).
  9. G. C. Wick, Nature, Vol. 142, p. 994 (1938).
  10. 核力の到達距離, Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月30日).

2007年1月15日月曜日

湯川博士関連の問題に挑む日本のグループ

 新着のネイチュア誌に、2004年ノーベル物理学賞受賞のフランク・ウィルチェック博士が、私たち「湯川秀樹を研究する市民の会」が学んでいる湯川論文を引用して、最近の研究を紹介している("News & Views" 欄)。その研究は日本のIshiiら筑波大と東大のグループによるもの**である。ウィルチェック博士は来たる23日の湯川生誕100年記念日に京大で講演する予定になっており、その中でも、この話が出るのではないかと思われる。

 * F. Wilczeck, "Hard-core revelations." Nature, Vol. 445, p. 156 (2007).
 ** N. Ishii, S. Aoki and T. Hatsuda, preprint available at http://arxiv.org/abs/nucl-th/0611096 (2006).

 ウィルチェック博士が書いている記事のアブストラクトには、「原子核がどのようにして結びついているかについてのわれわれの理解は、いままでのところ、全く経験的なものである。強い核力の理論[訳注:量子色力学(QCD)]から出発する困難な計算が、物質の固い芯への道を与えるであろう」とある。

 記事の第1図(同様の図は、Ishiiらの論文中にも第1図として掲載されている)として、核子間ポテンシャルのグラフが載っていて、その説明が、この記事の概要をもう少し詳しく分からせてくれる。核子間ポテンシャルのグラフとは、二つの核子(中性子と陽子の総称)の間の距離を横軸にとり、縦軸に位置エネルギーをとって、両者の関係の曲線を示したものである。これを距離の大きい方から見ていくと、数フェルミ(1フェルミは10のマイナス13乗cm)の距離では、位置エネルギーは0付近から次第に勾配を大きくしながらマイナスの大きな値に変化する。位置エネルギーが低いほど、安定な状態なので、これは二つの核子の間に引力が働き、二つを近づける傾向があることを意味する。

 湯川博士の1935年の理論によれば、この力は、中間子として知られる粒子の交換によって生じる。この理論の誕生後、最も軽い中間子であるπ中間子(パイオン)は、最も遠距離での引力を説明するものであり、より近距離では、もっと重い中間子(ρ、ω、σ)がこれに取って代わることが分かって来た。しかし、ちょうど1フェルミ以下の距離では、様相が突然一変する。ここでは、曲線が近距離になるほど激しく上昇し、力は強い斥力となる。この斥力は、核子同士が溶け合うことを防いでいるのである。

 このようなポテンシャル曲線の形は、いままで経験的に知られていただけであるが、これを第1原理から計算する基礎は、1970年代に作り上げられた量子色力学によって備わっている。ただ、その計算はとても複雑で、容易にはできない。筑波大・東大のグループは、巧妙な計算法と目下利用できる最大最速のパラレルコンピュータを駆使して、このポテンシャルの経験的な形を再現する最初の計算を行なったのである。

 ウィルチェック博士は、「原子核を保っている力を理解しようとするわれわれの努力は、はなばなしい冒険となったが、その道程において最初の目的がむしろ路傍に置き去りにされていた。画期的な仕事とみなされることになると思われる Ishii らの論文は、この状況を変えるものである」というようなことばで、筑波大・東大のグループの計算を讚えている。

 なお、ウィルチェック博士は記事の冒頭において、核力の理解への努力が「われわれに、クォークと、強い核力を媒介する色つきグルーオンと、量子色力学というすばらしい理論を発見させた。この理論は、高エネルギーの最前線における実験的研究を主導し、"統一場の理論" の夢を鼓舞し、理論物理学を初期宇宙の研究にまで浸透させた」と記している。これらはすべて、湯川博士の中間子論と素粒子の理論的研究方法の確立という偉大な業績の影響といってもよさそうである。

×     ×     ×

 私は、中性子や陽子が素粒子でなく、実はそれぞれ三つのクォークからなるという内部構造を持ち、クォーク同士によるグルーオンという粒子の交換が核力の真の源だということになったのに、湯川博士の理論がなぜ中間子の存在をうまく予言し得たのか不思議に思っていた。しかし、クォークと反クォークからなるいろいろな中間子が現実に核子間を飛び交っているのであれば、中間子論はある程度よい近似だったことになるのであろう。

2007年1月13日土曜日

中間子命名にハイゼンベルクの父が関与

 先に中間子を媒介として中性子と陽子が引き合う核力が生じるという湯川博士の中間子論を、ガモフが、二匹のイヌが一本の骨というエサを取りあって、両側からかみついて離れないという例えで説明している [1] ことを紹介した [2]。昨日、18年も前に買って「積ん読」になっていたガモフの別の本 [3] を何気なく開いてみたところ、同じ例えが、ガモフ自身の描いた漫画入りで述べられていた。そのほかに、次のような、中間子の命名にかかわるエピソードも記されている。

 湯川博士が存在を予言した、重さが電子と陽子の中間の粒子に対して、初めのうち「ユーコン(yukon)」や「重い電子」「軽い陽子」という名前が用いられていた("yukon" の "yu" は、"Yukawa" の "yu" であると同時に、湯川博士が論文中に、この粒子が作る場を "U" という記号で表わしたことにもよるだろう)。そのうち、ギリシャ語で「中間」を意味する "mesos" にちなんだ「メソトロン(mesotron)」が提唱されたが、古典言語の教授だったハイゼンベルクの父親が "tr" が入るのはおかしいと反対した。

 ギリシャ語で「琥珀(こはく)」を意味する "electra" には、もともと "tr" が入っているので、これにちなんだ "electron"(電子)はよいが、"mesos" には "tr" が入っていないので、この語から "mesotron" は作れないというわけである。そこで、フランスの物理学者が、フランス語で「家」を意味する「メゾン(maison)」とまぎらわしいとして反対したものの、最終的に "meson"(メソンあるいはメゾンと読む)に落ち着いたという。――ハイゼンベルクの父親が物理学史の片隅に登場するのが面白い。――

文献

  1. G. Gamow, "Mr. Tompkins Gets Serious: The Essential George Gamow, The Masterpiece Science Edition" (Pi Press, 2005).

  2. 素粒子間の力の例え, Ted's Coffeehouse (Nov. 30, 2006).

  3. G. Gamow, "The Great Physicists from Galileo to Einstein" (Dover, 1988; first published by Harper & Brothers in 1961 with the title "Biography of Physics").

2007年1月8日月曜日

「補習」会

 「湯川秀樹を研究する市民の会」が昨1月7日に持った「補習」会の熱心さは、私がけさ同会のメーリングリスト・メンバー宛に送った下記のメールで想像して貰えるだろう。



 皆さん、お早うございます。

 昨日は「補習」お疲れさまでした。

 「補習」の中で、(12) 式*中のm_U(_U は、U が下付きという意味)は、m_U の2乗でなければならないとの鋭いご指摘がありました。私は (14) 式の後に書かれている説明が、いまだに腑に落ちないので、その辺りについて何か分からないかと思って、いま Brown & Rechenberg 著 "The Origin of the Concept of Nuclear Forces" を見ていました。すると、(12) 式とその後の数行が原文のまま引用されていて、ちょっと驚きましたが、その前後の湯川の手書き原稿も掲載されていて、そこでは m_U にちゃんと2乗がついていました。したがって、2乗が抜けたのは出版社の誤植と分かります。**

 (14) 式の後に書かれている説明で私が腑に落ちないのは、昨日、C^12(^ は上付きの意味)の束縛エネルギーに相当するエネルギーが、1個の陽子の核内での運動エネルギーに変わっているという話になった点です。C^12 が他の原子核から何らかの反応で生成されるとき、束縛エネルギーにかかわる反応前後の原子核の静止エネルギーの差(質量差)は、C^12 を含む反応生成物の運動エネルギーとして放出されてしまっているはずです。そうだとすると、昨日の議論は成り立たず、湯川の書いている「原子核における陽子の束縛エネルギーが m_U c^2 と同程度ならば…」という説明が、依然として理解できないことになります。

 なお、昨日、(7) 式から (8) 式への移行の際に、p^2 のかかるDの1次の項が無視され、τ_3 のかかるDの1次の項が残されているのは不思議、ということになりました。これは、p^2 のかかる項同士の比較では、Dの1次の項は0次の項より明らかに小さいが、τ_3 のかかるDの1次の項が他の項と比べてどうかは必ずしも明瞭でない、ということで理解出来るのではないでしょうか。

 T.T.

 * いわゆる中間子論第1論文[H. Yukawa, "On the interaction of elementary particles. I." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan Vol. 17, pp. 48-57 (1935) ]中の式。
 **『湯川秀樹自選集2 素粒子の謎』に掲載の片山泰久訳「素粒子の相互作用について I」では、この式は正しい形で示されている。

2007年1月1日月曜日

2007年の初めに

 以下はこの正月に際して、私からの賀状に印刷したり、メールでの新年の挨拶に書いたりした文である。


新年おめでとうございます

  今よりは世界ひとつにとことはに平和を守るほかに道なし
               ――湯川秀樹『歌集 深山木』

 今年生誕百年にあたる湯川博士が、未知の広野に挑んだ探求心と核兵器廃絶にかけた情熱を学びたいものです。

 皆様のご多幸をお祈り申し上げます。