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2009年11月9日月曜日

益川氏の勘違い (Maskawa's Wrong Guess)

 さる4日づけの私の記事に益川敏英氏の講演要旨を引用した。その中に、湯川秀樹が中間子第1論文中で符号の誤りをおかしたことに対して、湯川が坂田昌一と共著した第2論文では気づいて訂正したとして、次のように述べたところがあった。

 「間違えました。ごめんなさい」ではなく、「前のこの何行目の文章は、こう読まれるべきである」という表現になっています。実はこういった表現方法は、我々の分野の論文の特徴の一つでもあるのです。

しかし実際には、第2論文中に上記の表現での訂正文はない。

 私はこの点について、「第2論文では結果の相違を客観的に述べただけで、解決は先送りした」旨の解説を記した。これに対し、その記事のコメント欄で「議論の先送りを訂正といえることは、この分野ではよくあるのか」との質問があった。私は「論文の発表時点で間違いだと分かるような単純な間違いであれば、論文掲載誌に正誤表を掲載して貰うのが普通だが、湯川の間違いは、当時としてはそれほど容易に分かる間違いではなかった。第1と第2論文の間で符号が一致しないという問題を見つけて、それを記したことは、いまから見て一種の訂正になる(かなり特殊な場合である)」旨の答えをした。

 このとき「正誤表」にふれたことが、私に益川氏の説明の一つの不思議な点をふと理解させてくれた。「前のこの何行目の文章は、こう読まれるべきである」とは、英語の出版物に対する一般的な正誤表の上欄にある言葉の、いささか間違った(英語嫌いの益川氏らしい)和訳なのである。正誤表には、まずページと行を書き、ついで間違っていた表現(「誤」)と訂正表現(「正」)を記す。「誤」に相当する英語表現は "Now reads" であり、「正」に相当する英語表現は "Should read" である。この場合の "read" は「読む」という意味の他動詞ではなく、「〈文章が〉(…と)なっている、書いてある」という意味の自動詞である。

 ところが、益川氏は "read" を多くの場合にそうである「読む」という他動詞と見て、 "Should read" を "Should be read" のように解釈し、読者の側に責任を半ば押しつけるような冷たい訂正の仕方であり、日本の新聞などで見る「訂正し、おわびします」にくらべて、いかにもそっけなく、理論物理学専門誌ないしは自然科学方面の専門誌に特有の表現だと思ったようである。そこで氏は、もしも湯川が訂正文を書いたとすれば、そういう表現になっているはずだという「推測」を述べ、「こういった表現方法は、我々の分野の論文の特徴の一つでもあるのです」とつけ加えたのであろう。

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