『學士會報』(同誌は最近このような難しい漢字表記に戻っている)No. 879(2009年11月号)に、益川敏英氏が7月10日に学士会館夕食会で行った講演「七〇年代の素粒子物理学――混沌から収束へ――」の要旨が掲載されている。そこでは、湯川の中間子第一論文中の符号の間違いについて次のように述べられている。
ただこの論文の中の計算式には、私が大学院生の時にその原文を初めて見た瞬間、「あっ、ここ間違えている」と思ったくらいの大きな誤りがあります。ハイゼンベルグ[原文のまま]やパウリが作ったばかりの量子場の理論をそのまま式に適用しているため、特殊相対性理論によって計算を行うと、時間と空間を一つのまとまりと考えるローレンツメトリック(四次元時空)にマイナスの符号がつくことから、ベクトル型の交換力では斥力になってしまうのです。この誤りは、私の恩師である坂田昌一先生と共著で発表した第二論文の中では訂正されていますが、どのような形でなおされているかというと、「間違えました。ごめんなさい」ではなく、「前のこの何行目の文章は、こう読まれるべきである」という表現になっています。実はこういった表現方法は、我々の分野の論文の特徴の一つでもあるのです。
益川氏のこの説明では、間違いの性質や原因が分かり難いと思う。湯川論文の筋道を踏まえて分かりやすくいえば、次のようになるだろう。
湯川はハイゼンベルクやパウリが作った量子場の理論においてベクトル型の交換力に相当するものを仮定しながらも、特殊相対性理論による計算をしなかったので、その仮定では必然的に斥力になることに気づきませんでした。そして、重陽子の基底状態のスピンについての考察に頼って、ベクトル型の交換力としては、たまたま正しいけれども、問題の性質からは間違っている斥力の符号を選んでしまったのです。
また、第二論文の中での「訂正」についての益川氏の表現も不正確である。実は、第二論文に「訂正」はしてなくて、次のように書かれている。
非相対論的近似では (17) 式[得られた核力ポテンシャルの表現]は、符号を別として、第一論文の結果と同じになる。第一論文の結果と完全に一致させるには、H-bar_U [相互作用のハミルトニアン]の符合を変えなければならない。しかし、そうするとU場が負エネルギーになるという困難が生じる。スカラーでないU場を導入してこの欠陥を取り除けるかどうかは、第三論文で議論する。
上記の表現を分かりやすく紹介するならば、次のようになるだろう。
「第二論文でスカラー場を仮定して場の量子論に従って計算したところ、第一論文の結果とは符号が異なる結果となった。この相違については、さらに次の論文で検討する」旨を記して、結果の相違を客観的に述べただけで、解決は先送りしました。
これを一種の「訂正」であると、いえなくもないが…。
(2009年11月3日づけ「湯川秀樹を研究市民の会」会員宛の私のメールによる。引用文中の[ ]は私の注。)
素人なので、湯川氏の符号の間違いがどのような問題を引き起こしたのかはまったくわからないのですが、少し不思議に思ったところだけ質問させて下さい。
返信削除議論を次の論文に先送りするということを「訂正」とすることができるのは、この分野ではよくあることなのでしょうか。
また益川氏は湯川氏の間違いを「こう読まれるべきである」という形で訂正されたようですが、何故「間違っている」ではいけなかったのかがよくわからないのです。Tedさんはどうお考えですか。
よいご質問です。
返信削除最初のご質問について:湯川さんが第1論文を発表した段階の世界的学問レベルでは、いま見直して比較的簡単な間違いと思われることが、間違いとは分からなかったのです。ところが次の第2論文において、別の方法で検討したところ、符号に問題点が見つかり、問題の解決までにはまだ至っていないものの、とりあえずその問題点について明記したのです。これはいま見れば、第1論文に間違いがあったようだと述べたことと同等であるという意味で、一種の訂正と見なせるということです。論文の発表時点ではっきり間違いだと分かるような種類の間違いであれば、論文掲載誌に正誤表を掲載して貰うのが普通ですが、湯川さんの間違いは、当時としてはそれほど単純な間違いではなかったのです。
2番目のご質問について:益川さんが湯川さんの間違いを訂正したのではなく、湯川さんの第2論文に見られる「訂正」方法は「こう読まれるべきである」と述べたに等しいスタイルのものだった、と説明されたのです。それは先のパラグラフにも書きましたように、学問の最先端でようやく分かりつつあった事柄に関係していたため、「間違っていた」とは、第2論文でもまだはっきり言えなかったという事情によると思います。