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2010年3月18日木曜日

自発の助動詞など (Auxiliary Verbs, Etc., of the Japanese Language)

 後日 W さんから貰った返信中の質問で、以下の説明には2箇所ほど間違いのあることに気づき、次のメールで訂正した。

W さん

 3月11日付けのメール、ありがとうございました。その中に、助動詞「れる」「られる」を自発の意味で使う場合が難しいとありましたが、これは確かに難しそうです。私でもすぐに用例を思いつくことが出来ないのですから。一つ思いついたのは「生まれる」です。これは「生む」という動詞の未然形に助動詞「れる」が接続したもので、「赤ちゃんが生まれる」は尊敬、可能、受け身のどれでもなく、自発と分かります(赤ちゃんは自発的に生まれるというよりも、母親の努力もあって始めて誕生すると思いますが、言語表現はそこまで厳密ではありません)。

 あなたの書かれた「感動された」は、普通、尊敬の意味でしか使わないと思います。たとえば、「私の元上司のAさんは、あの映画をご覧になって感動されたそうです」とは言いますが、自分や親しい友人などが主語の場合、「感動された」は使いません。また、「あの映画」を主語にした受け身の文「あの映画は感動された」も、理論的にはあり得ますが、日本語の表現としては、普通使いません。日本語で人が関わることを述べるときには、たいてい人のほうを主語にします。英語でよくあるように物を主語にすることは*、めったにないのです。中国語ではいかがですか。

 「感動する」の、もう一つの使い方として書かれた「感動させられた」には、「た」を別にして、「せ」と「られ」という二つの助動詞が入っています。「せ」は使役の助動詞「せる」の未然形で、「られ」は、この場合、受け身の意味です。そこで、人を「感動させる」ようなよい映画について、「私」を主語にして「(私は)あの映画に感動させられた」(「私は」を丸カッコ内に入れたのは、多くの場合、省略されることを意味します)も理論的に可能ですが、会話では「(私は)あの映画に感動した」というのが一般的です。その理由としては、前者が回りくどい言い方ということもあるでしょうが、さらに、主語が「私」という「人」であっても、「映画」という「物」について使役の助動詞を使うことが、物を主語にしないのと同様な感覚で、日本語になじまないということがあるのでしょう。

 しかし、「あの映画のストーリーには(私たちが)感動させられるものがある」というような、凝った述べ方での受け身の表現は*、書かれた文章の中では使われます。——私はここで、「書かれた」と「使われます」という受け身表現を続けて使ってみました。これは翻訳調といわれる、きざな日本語表現です(学生時代の私は、こういう表現を好んで使っていたようです)。同じことを述べるのに、「書き言葉では使います」というほうが、すっきりした日本語だと思います。——どういう言い方や書き方が日本語として自然かということは*、理論より慣用の問題なので、多くのよい文を読んで慣れることが必要でしょう。

 ここまでの文中の3箇所の「は」に、* 印をつけました。これらの「は」の使い方は、私が先のメールで「残念な思いはします」が変だと述べたことに照らせば、変だということになりそうです。しかし、* 印のある文はどれも、情報的に分解すれば、元の文の主部で述べているようなこと「が」あります、という文と、そのこと「は」、元の文の述部に示す重要な性質を持っています、という意味の文とを合成した形になっています。この、分解して出来る二番目の文の、主部でなく、述部に、文脈上のより新しい情報があります。そこで、二番目の文の「は」を生かすのが自然ということになるのです。

 思いつくままに書き並べた上に、自分で書いた文がふと気になって、ややこしい話まで書き加えました。次回は、ご論文を読んで感じた、論文の望ましい構成ということについて、ご説明したいと思っています。

 T. T.

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