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2013年8月16日金曜日

2013年7月分記事へのエム・ワイ君の感想 1 (M.Y's Comments on My Blog Posts of July 2013 -1-)

[This post is in Japanese only.]

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2013 年 7 月分への感想を 2013 年 8 月 15 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 改憲論に抗して思う
 私が別シリーズで書いているブログ「福泉・鳳地域『憲法9条の会』」は、同会の活動、大元の「九条の会」のメルマガの紹介、憲法9条や平和関連の集会・催しの案内、新聞・雑誌記事の紹介などが中心で、私自身の思いを述べた文は少ない。しかし、このブログ "Ted's Coffeehouse 2" とは読者層がかなり異なる可能性もあるので、最近前者のブログに載せた私自身の思いに関する短文をここに集めておく。
と前置きし、日本国憲法の実施(1947 年 5 月)直後の筆者の高校時代からの思いと平和への願いが、時を経て蓄積され編集されています。以下にこれらを抜書きし、補足しコメントいたします。
(1)「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」(2013 年 6 月 21 日)

 1951年、私が高校 1 年生だったときの親友との交換日記を別のブログに連載している。先日掲載した 1951 年 10 月 11 日付けの私の日記の冒頭に、「『ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重』、何という理知的な解釈、何と整然とした解答だろう」とあった。何についての誰の言葉かを書いてない。しかし、少し前の日記に社会科の宿題として「明治憲法と日本国憲法の比較」という問題が出たことが書いてあったことから、その宿題の優れた解答として先生が紹介したものだと思い出した。その解答を提出したのは、学年のマドンナ的存在で、私が日記中でヴィッキーというニックネームを与えていた女生徒だった。いま、自民党の改憲草案を読むと、それが明治憲法を彷彿させるものであることに気づく。自民党改憲草案と日本国憲法の相違、それもまさに、「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」ではないだろうか。ヒューマニズムの否定につながる憲法改悪は、断じて阻止しなければならない。次に彼女に会う機会があれば、その言葉を当時も感心し、いまも大いに感心していることをぜひ伝えたいと思っている。

(2)『草枕』に見る漱石の反戦思想(2013 年 6 月 23 日)

 高校 1 年生のときに読んだ夏目漱石の『草枕』を、ふと再読したくなり、読んでみた。先に読んだときに興味を持ったのは、誰もがこの作品の主題と認めると思われる、主人公の画家が主張する「非人情」について、それが、本当に芸術を創造するために不可欠な姿勢だろうか、ということだった。今回もその問題に関心がありはしたが、「改憲論」がやかましいいま、もう一つ、大いに興味を引かれたところがあった。
 それは、主人公やヒロインの「那美さん」らが、日露戦争のために応召する彼女の親戚の「久一さん」を駅まで見送る最終章である。送る人たちの一人である「老人」は次のようにいっている。
「めでたく凱旋をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家のためではない。わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。まだ逢える。」
この言葉は、与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」に通じるものである。
 また、次のような記述もある。
 車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝の臭いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑べって、むやみに転ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果はここで切れる。
「赤いもの」とは血を指していて、ここには、若い人を戦場へ送る悲しみや、戦場のむなしくも殺伐な様子が描かれている。
 さらに、末尾近くには、
那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
とある。主人公を那美さんに対して、「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と叫ばせた「憐れ」の表情は、先に彼女が久一さんにいった「死んで御出で」という言葉とは裏腹な、彼女の真情を吐露したものであろう。
 これらの記述に、軍国主義の盛んだった時代にもかかわらず、漱石が抱いていた反戦の精神がはっきり現れていると思う。彼がいま生きていたならば、「九条の会」の心強い味方だったに違いない。

(3)「朝令暮改」の戒め:憲法 96 条改悪案に思う(2013 年 6 月 26 日)

 「朝令暮改」という言葉がある。『広辞苑』には、「朝に政令を下して夕方それを改めかえること。命令や方針がたえず改められてあてにならないこと。朝改暮変」と説明してある。その語源の一つは、『漢書』24 巻「食貨志」第 4 上に記述されているものだということだ。それは、前漢時代に晁錯(ちょうそ)が文帝に出した奏上文中の、「勤苦如此 尚復被水旱之災 急政暴賦 賦斂不時 朝令而暮改」という箇所である。これは、「(農民たちの暮らしは)このように苦しいものであるうえに、水害や干害にも見舞われ、必要以上の租税を臨時に取り立てられ、朝出された法令が、夜には改められているといった有様です」と伝えている文である。
 命令や方針でさえしばしば改められるのは悪政であるとの戒めが古来あるにもかかわらず、国家存立の基本的条件を定めた根本法である憲法を、96 条を変えて、ときの政治勢力の都合によって容易に変更出来るようにするなどとは、もってのほかではないだろうか。

(4) トルストイの作品に見る憲法9条の精神(2013 年 6 月 27 日)

 若い頃に好きだったロシアの小説家、レフ・トルストイの作品を最近また読んでいる。目下読んでいるのは、『五月のセワストーポリ』。1853 年からロシアがオスマン帝国、そして、これと同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスを迎え撃って戦ったクリミア戦争の舞台となったセワストーポリの状況を描き、戦争の無意味さを訴えた 3 部作中の第 2 作で、1855 年、トルストイが 27 歳のときの作品である。
 冒頭近くに次の言葉があった。
外交によって解決されぬ問題が、火薬と血で解決される可能性はさらに少ない。
これはまさに、憲法9条の精神である。先哲の教えを重んじることなく、集団的自衛権の行使を認め、憲法9条を変えて、軍事対抗主義に走ろうとする政治家たちがいることは、実に情けない状況といわなければならない。

(5)「日本国憲法第9条について論ぜよ」にアクセス急増(2013 年 7 月 17 日)

 筆者は個人的なエッセイを書く "Ted's Coffeehouse 2" というサイトを持っている。その中の 2004 年 11 月 22 日付け記事「日本国憲法第9条について論ぜよ」へのアクセスがこのところ急増している。「改憲」論がやかましいいま、この記事が少しでも役立てば嬉しい。まだご覧でない方は一読していただければ幸いである。
 以下が補足およびコメントです。

 トルストイは外交努力の重要性を説いています。「火薬と血で解決」する手段を放棄した日本国憲法の平和の理念は、人類の、たとえ戦争志向の国においても、潜在的な希求であることは想像に難くありません。外交努力によって、国際的に日本国憲法の真意についての世界的な理解と支持を得ることが大切です。拉致問題は、人道的な見地からも、あってはならない罪悪です。家族会の人々の年齢から考えても時間的な余裕はありません。偽りのない、われわれの納得出来る解決に至るよう、最後の外交努力に万全を尽くして貰いたいものです。

 筆者が高校 1 年の 1951 年 9 月 14 日の日記の末尾に、「『草枕』を昨夜読み終えた。芸術の客観性ということが強く出ている。しかし、何もかもが第三者的立場のみから感受され、考察され、判断されたらどうだろう。それは、あくまで芸術の中だけのことであろう。躍動する生命を持っているわれわれは、何事にも直接ぶつかる場合が多い。そこでは自分を一つにして力闘することが必要だ」と高校生らしい的を射た感想を書いています。

 『草枕』は、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」と、ほとんどの人とがどこかで目にしたと思われる文章から始まります。

 そして、筆者の上記の文章に引用されている「那美さんは茫然として、行く汽車を見送る」という文の前には、次の文章があります。
 […]未練の無い鉄車の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、余等の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、三等列車が余の前を通るとき、窓の中から、又一つ顔が出た。[…]髭だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。
この「髭だらけな野武士」は、那美さんを離縁した夫で、貧乏して日本に居られなくなり、その前日に彼女にお金を貰いにきた場面を主人公に目撃されていました。

 前の章に主人公と那美さんの次の場面があります。
「[…]それで、何処へいくんですか」
「何でも満州へ行くそうです」
「何しに行くんですか」
「御金を拾い行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
 此時余は、目をあげて、ちよと女の顔を見た。今結んだ口元には、微かなる笑みの影が消えかかりつつある。意味は解せぬ。
 その翌日、久一を見送りに行く途中、次の会話があります。
「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と那美さんが注文する。[…]
「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、[…。]
「こんな一筆がきではいけません。もっと私の気象の出る様に、丁寧にかいて下さい」
「わたしもかきたいのだが、どうも、あなたの顔は夫れ丈じや画にならない」
 最終の第十三章には簡潔に作家の言わんとすることがまとめられています。その一つである日露戦争への出征見送りという当時の社会描写の中に、漱石の反戦思想を読み取られたのは慧眼だと思いました。(つづく)

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