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2013年9月16日月曜日

漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」5 ("Detachment" Advocated for Arts by the Hero in Soseki's Kusamakura -5-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


ケイトウ。笠池公園で、2013 年 9 月 14 日撮影。
Plumed cockscomb. Taken in Kasaike Park on September 14, 2013.

漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」5

 本シリーズの第 4 回では、漱石の『草枕』の第六章に、「非人情」の語は使われていないものの、「非人情」にかかわる芸術論が展開されているとして、主人公の考察の前半を見た。そこでは、主人公は「非人情」の境地で得た興趣を絵にしたいと思いながらも、それは難しいと考えた。

 次いで主人公は、その興趣を表す手段として音楽が適していると思うが、彼にはその素養がなく、詩にすることを試みる。そのとき、ふと、「振袖姿のすらりとした女」が「暮れんとする春の色」の中で、「粛然として、焦(せ)きもせず、狼狽(うろたえ)もせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊しているらしい」のが目にとまる。

 第七章では、主人公が風呂へ入っていると、「漲(みな)ぎり渡る湯煙りの、やわらかな光線を一分子ごとに含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漾(ただよ)わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈を、すらりと伸(の)した女の姿」が現れ、主人公は絵描きらしい思索をめぐらす。

 「輪廓は次第に白く浮きあが」り、「今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥(じょうが)が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に」、「渦捲く煙りを劈(つんざ)いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く。」——私が高校 1 年生でこの作品を読んだときに、最も印象に残った場面である(日記には、そうとは書いてないが)。

 第八章で、主人公は宿の老人(那美の父)の部屋で、お茶のご馳走になる。相客に、観海寺の和尚(大徹)と、二十四五の若い男、久一(きゅういち。老人の甥で、那美の従弟)がいる。老人は主人公に、久一が「満洲の野(や)に日ならず出征すべき」運命であることをつげる。(つづく)

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