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2016年6月29日水曜日

幼少年時代の絵 12:最近のスケッチを添えて (Drawings in My Childhood. 12: Together with My Recent Sketches)

[The main text of this post is in Japanese only.]


最近のスケッチ、その 1。奈良県の「かんぽの宿・大和平群」で。 2016 年 5 月 24 日。中央の山は葛城山、その右に二上山の雄岳。
My recent sketch 1. At Kampo Hotel Yamato-Heguri, Nara Prefecture, May 24, 2016. The mountain at the center is Mt. Katsuragi, and the one at its right is Odake of Mt. Nijo.


最近のスケッチ、その 2。岐阜県の「かんぽの宿・恵那」から見た恵那峡。 2016 年 6 月 10 日。
My recent sketch 2. At Kampo Hotel Ena, Gifu Prefecture, June 10, 2016. The view of Ena Gorge.


最近のスケッチ、その 3。同上の場所から少し右寄りの風景。 2016 年 6 月 11 日。
My recent sketch 3. At the same place as above, June 11, 2016. The view of Ena Gorge at the right of the above sketch.

 このシリーズの最終回とする今回は、記事を飾るための幼少年時代の絵はもう出尽くしたので、代わりに最近のスケッチを掲載する。F0 サイズ(185 mm × 145 mm)のスケッチブックにステッドラー・ピグメントライナー(耐水性ペン)と色鉛筆で描いている。幼少年時代の絵と比較して進歩したか、あるいは退歩したかの判断は、読者の方々にお任せする。

 前回、「イーゼルペイント画こども美術展」に一緒に入賞した小学校の旧友・樋爪十四夫君に葉書を送って返信を貰ったことを書いた。その返信は以下の通りである(誤字などもそのまま引用する)。
多幡達夫君え
 達夫君、おはがきありがとうございました。僕は君からのお便りに おどろきとよろこびを感じ 早速 筆をとりました。しかし僕は、文も文字も あまり書けないので残念です。
 思えば、君とお別れしたのは、6 年程前になりましょう。以前、金沢に出た折、君とよく似た人にすれちがったこともありましたが、長い間御ぶさたしています上に、僕は、目がねをかけていますのでお互いにわからなかったのです。僕はおしらせをいただいて、もう一度ゆっくりお目にかかりたくてなりません。
 今朝私もあの絵の賞状を頂きました。昔の友達同志が絵画の道で一しょになった事を考えると見えない深い御縁を思わせられます。
 僕の事を申し上げるのは、失礼ですが 久しぶりにおちついて 6 年間をふり返る事を嬉しく思います。
 僕は国民学校時代、体も弱く、よく病気になっておりました。そして、四年生の夏、ジフテリアにかかって、医大の附属病院の窓より B29 の音や勇姿を眺めたものでした。
 それから、ほんのまねごとのように疎開もしました。そこは小さな山のふもとでありました。僕は、そこで病後をすごし、自然に浸透出来ました。
 終戦後、民主々義のえいきょうを受け、だんだん自由な世界となり、現在の生徒会の赤ん坊も出来 大いにかつやくしました。6 年を終えると地区の関係から、袖江中学校に入学し、生徒会を作り、市内はもちろん県下を舞台に、我々の学校の名をとどろかせたものでした。
 僕は、絵についてはまだまだ未熟ですが書いている、書きに行くたのしみをだれよりも知っているつもりです。度々、展らん会などにも出してみました。僕は心のゆとりをもとめ生活の美をたしなむつもりでいるせいかのんびりと、していてあまり上達しませんが、県の美展に入賞のおぼえもあって そのおかげかはからづも僕の古いお友達の一人、達夫君におはがきをいただけたわけです。
 お休みにでも、2、3 日 思い出のいなか七尾えおいでになりませんか。僕の家の人達もかんげいするでしょう。
 又お手紙を下さい。お元気で。
 末筆ながら、お家の方にもよろしく。
  文も文字も乱れました。失礼をおわびいたします。
  1950. 6. 28
   Your loving old friend
    T. Hizume

 この返信から 1 年足らずの後に、彼は金沢大学附属高校へ入学して、私と同じく金沢に住むことになり、私たちは再会を果たした。高校時代の私の日記を見ると、彼は高校 1 年になったばかりの 4 月 4 日に、わが家を訪ねてくれている。手紙にあるように生徒会活動に精を出したからだろう、彼は社交的になっていたが、中学生時代の私は生徒会活動をむしろ避けるようにしていたせいで非社交的だった。それで、彼によい応対ができなかった。そのせいか、金沢での互いの住まいが徒歩十数分の距離にあり、また、その後、大和デパートへ美術展を見に行った折にひょっこり出会ったりしたにもかかわらず、高校時代には特に親しくならないままで終わった。近年になって、再々会したいと思い始めていたが、それが出来ないまま、彼が亡くなったのは残念である。彼が手紙の中で「達夫君」と、私に下の名で呼びかけているのは、文末の英文の挨拶と同様に、欧米式スタイルをとったものとも思われるが、小学生当時、彼の親戚に生まれた赤ちゃんの名として、「隣のクラスに達夫君という、よく出来る子がいる」といって、「達夫」の名を付けさせた — 母が私に話してくれた。母は樋爪君の母君から聞いたのだろうか — ということとも関係しているかも知れない。

 「イーゼルペイント画こども美術展」の入賞に関連して、もう一人のことを書いておかなければならない。同じ金賞を受賞して私の絵の横にあった絵の作者は、金沢市内の別の中学の女生徒だった。彼女は高校が私と同じになり、 1 年 2 学期初めの総合テストの結果発表でも名前を並べ(彼女の方が最高点で、縦書きのリストの私の右に名があった)、卒業式でも席を並べた(彼女は卒業生総代として最前列の右端の席を当てられ、私は県内の化学に優れた生徒に与えられる「高峰賞」を受け取るため、その左にいた)。しかし、私たちは、高校時代はもとより、卒業後も、互いに金賞の絵でも並んでいたことを知らないまま、40 数年を過ごした。私が定年退職したかどうかという頃の同窓会の席上で絵の話が出た折に、彼女、S・T さんが、「絵といえば、私は中学生時代に金賞を貰いました」といったことで、ようやく分かったのである。(S・T さんをモデルにした英文短編小説 "Vicky: A Novella" — "Passage through Spacetime" 所収 — を書いたよりものちのことである。)

 その同窓会の時、彼女の作品名が『雨前』だったと聞いた。そういえば、私の絵の隣にあった絵は、玄関先か軒下にアジサイの花が咲いている、しめやかな雰囲気のものだったような記憶がある。そして、高校 1 年で選択科目の図画の時間でも彼女と一緒だった私は、校庭の写生が課題だった折に彼女の絵を覗き見て、その上手さに舌を巻いたこともあった。

 上記の同窓会後間もなく、私は大連の嶺前小学校同窓生の美術愛好家たちが東京で開催していた「美嶺展」という展覧会に水彩画を出品し始めた。しかし、同展の中心的な人たちが高齢化したため、私が 4 年目の出品をした第10 回展(2006 年)をもって、美嶺展は幕を閉じることになった。その最終展に、私は S・T さんほか数名の東京在住の高校同期生たちを招いた。私の出品作は嶺前小学校のレンガ造りの校舎を描いたものと、イタリアのブラーノ島の街並みの夕立後の風景を描いたものだった。S・T さんが後者の絵を見ているとき、私は彼女に近づいて、ふと、「これは、ブラーノ島の雨後の風景です。あなたの金賞の絵も『雨後』でしたね」といった。彼女は、「『雨前』でした」と、静かに訂正した。私は「あっ、そうでしたね。ハハハ」と、記憶違いのきまり悪さを笑いに紛らした。「雨前」とは、私にとっては珍しいが、趣のある言葉である。俳句の季語ででもあるのだろうかと調べたが、そうでもないようだ。

 S・T さんはその後絵を描いていないということだが、近年、彼女への暑中見舞いのメールに、私は時折、スケッチや水彩画のイメージを添付する。すると、彼女からの返信に、鑑賞眼の高いことがうかがえる助言や感想が記されて来る。

 話は変わるが、中学 3 年生の時に図画の先生から大きな画用紙を支給された機会のもう一つは、石川新聞社主催の「金沢の都会らしい風景を描く」という題名の展覧会への出品のためだった。小林君の家の二階からの眺めを描いてうまくいった私は、今度も高所からの眺めを描こうと思った。当時は金沢に市電が走っていて、小学校 6 年生の時からの友人、数馬紹朗(つぐお)君(壮年期に早くも故人となった)の家が電車通りに面していた。そこで、私は彼の家の屋根の上で写生をさせて貰うことにした。秋も終わりに近い頃で、その絵のデッサンを図画の先生に見て貰うため、風の強い日に、筒状に巻いた画用紙を手に持って登校する途中、風にあおられて絵が裂けてしまい、今回も新しい画用紙を再度支給して貰うことになった。描いた風景には写真館と書店の洋風の建物があり、いくらか都会的ではあったものの、それらの両方の建物を画面に収めるため、画用紙を横長に使い、電車通りが画面下部に真横に走る形となった構図は、平板的で面白味がなかった。また、色彩も全体に藍色がかった薄暗い調子になり、自分でもあまりよい出来ばえとは思わなかった。校内の出品作品が先生のもとに集められたのを見たとき、私は、それまで名前を知らなかった笠森君というのが、当時の金沢でひときわ都会らしい場所だった香林坊の三叉路を、正面にベージュ色のビルが見える高所からのアングルで、大胆なタッチで描いた縦長の作品に惹き付けられ、これは素晴らしいと思った。案の定、彼の絵が石川新聞社長賞に輝いた(私の作品は佳作だったはずだが、その賞状はいま見当たらない)。

 なお、私が高校 2 年の夏休みに国語の宿題として書いた創作『夏空に輝く星』の、絵を描くことを好む主人公・稔のモデルは、主に高校 1 年の頃の私自身である。稔は、数馬君がモデルである殿村文雄の家の、屋根からでなく、窓からの風景を写生させて貰っている。その風景の細かい描写が作中になされているが、これは「金賞」作品に描いた小林君の家の二階からの眺めがモデルになっており、その写生をする時の稔のモデルは中学 3 年生の時の私である。さらに、この創作の冒頭で、稔は公園で写生をしており、そのモデルは小学校 6 年生の時の私ともいえる。「イーゼルペイント」という絵の具の商品名を、私と同じ職場にしばらくいた、私より十数歳も若い低温物理学の教授が知っていたのに驚いたこともある。しかし、彼との間でなぜ「イーゼルペイント」が話題になったかを思い出せない。私のウェブサイトに掲載した『夏空に輝く星』を彼が読んだのかと思い、この創作中を検索したが、「イーゼルペイント」の語は見当たらず、不思議である。—— このシリーズを書いて、私の絵や、絵を描いた経験は、ずいぶんいろいろな思い出につながっていることに、改めて気づいた。(完)

 後日の注記:上記の低温物理学教授は、その後、彼の出身大学へ移った。そしてある年、私に「英語論文を書く技を磨く」という内容の講義をして欲しいと、彼の大学へ招いてくれた。その折に彼は、私のホームページに掲載されていた "Surely You're Joking, Mr. Tabata!"(高校同窓会のことを記したもの。目下リンク切れ)という英文随筆の末尾が印象深かったと話した。その時私は、そこに Vicky のニックネームで登場する女性と私が中学生時代にイーゼルペイントで描く展覧会で共に金賞を貰ったことを話したのだったかも知れない。

2016年6月23日木曜日

幼少年時代の絵 11 (Drawings in My Childhood. 11)

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『果実』(1950 年、15 歳)。
"The fruits" (1950, age 15).


『坂道のある風景』への「イーゼルペイント画こども美術展」(県レベル)の金賞賞状(1950 年、15 歳)。
The gold prize certificate of merit given to "The scenery with the slope" at 'Childrens' Easelpaint Works Exhibition' (a prefecture level exhibition; 'Easelpaint' is an opaque watercolor product of a glossy type) (1950, age 15).


同上の絵への全国学童水絵作品展入選賞状。
Winning certificate of merit of 'National Schoolchildren Watercolor Exhibition' given to the same painting work as above.

 一番上のイメージは、中学 3 年生の時に学校で描いた作品である。リンゴの他にカキやミカンも描かれているので、秋頃の作品だろう。画用紙は 360 mm × 254 mm の厚手のもので、残っている幼少年時代の作品の用紙では最も大きい。半分に折って保存したので、折り目が写っている。他にも何枚かそういう絵があったが、保存用に使った封筒の大きさのせいで折り曲げてしまったのである。

 大きな画用紙といえば、3 年生の 1 学期と 2 学期にコンクール用の絵を描く生徒に選ばれて、もっと大きな用紙を支給された。8 号(455 mm × 380 mm)ぐらいだっただろうか。その初回は、「イーゼルペイント画こども美術展」というコンクールで、入選作品は外国の児童との絵の交換に当てられると聞いた。そこで、日本の少年を描くのがよいかと思い、親友の小林孝雄君(故人)が学校の机に向かって読書している姿のデッサンをして図画の先生に見せに行った。すると、「デッサンが狂っている。人物は難しいから、風景画にしなさい」といわれて、新しい画用紙を貰った。今度も小林君に頼んで、彼の家の二階にあった勉強部屋の窓からの眺めを描かせて貰うことにした。

 その眺めは、彼のところへよく遊びに行って見慣れていたものだった。小林君の家は坂を下ったところにあり、まだ舗装されていなかったその坂道と、左右の家々の屋根、そして家々の植木などが見えた。手前に隣家の一階の屋根が、視野中の右下にやや大きな場所を占めている。北陸の屋根瓦は釉薬がかけられていて、屋根が光り輝いて見える。しかも私は、それより少し前に近眼を矯正する眼鏡をかけ始めたばかりだったので、それ以前に見ていたのと同じ風景が、より輝いて見えるようになり、感動していた。小林君に、「景色が天然色写真のように見える」といったことを覚えている。彼は妙なことをいうと思ったかもしれないが、私はそれまで、風景の中の微細な輝きはカラー写真でしか見たことがなかったのである。

 コンクール用の風景画『坂道のある風景』(正確にはなんという題名を付けたか記憶していない)は、その感動も手伝って、「イーゼルペイント」(当時発売された光沢のある不透明水彩絵の具の商品名)の白を多用した、いかにも明るいものになり、石川県内で二つの金賞作品の一つに選ばれた。上掲の二つ目のイメージがその賞状である。いまのように簡単に写真を撮れる時代でなかったので、絵のイメージが残っていないのは残念である。

 その同じ絵が全国のコンクールに回された。同じ名称のコンクールの全国版とばかり思っていたが、その折の賞状(上掲の三つ目のイメージ)をいま見ると、「朝日新聞社主催の第二回全国学童水絵作品展」とある。この賞状は単なる「入選」のもので、上位にどういう等級があったかを知らない。

 金沢の大和デパートで開催された「イーゼルペイント画こども美術展」を見に行くと、私が 3 年の 1 学期まで在校した七尾の小学校で隣のクラスの級長(現在の学級委員長に相当。ただし、級長は学級担任の先生が選んだ)をしていた樋爪十四夫君の絵が佳作になっているのを見つけた。懐かしく思って、彼が在籍する中学校宛に葉書を送った。間もなく彼から返信が来て、私は学校新聞に載せた金賞受賞の感想文(記憶中にある『坂道のある風景』を鉛筆書きで再生した絵を添えた)に、そのことを紹介したと思う。樋爪君は七尾の財閥といわれた家の坊ちゃんで、大きな屋敷に住んでいた。阪大の物理学科という、私と似た進学をした彼も、すでに故人となったと聞く。追悼の意を込めて、次回、彼の返信を紹介する。(つづく)

2016年6月19日日曜日

幼少年時代の絵 10 (Drawings in My Childhood. 10)

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『グラブ』(1950 年、15 歳)。
"The glove" (1950, age 15).


清掃美化運動ポスター 3 等の賞状(1950 年、15 歳)。
The 3rd class certificate of merit for the beautification campaign poster (1950, age 15).

 一番目のイメージは、中学 3 年生の時に家で描いた作品であるが、学校で細かい短冊状の布切れを張り合わせて絵を作るための原画にしたものである。画用紙のサイズは、 285 mm × 221 mm である。布切れでの絵の製作に使用する原画は、自分で描いたものでなくてもよかったので、見栄えのする絵を手本にした生徒の作品に優れたものが多かった。そしてまた、布切れ細工では、平素の鉛筆や絵筆による絵で必ずしも優れた作品を生み出していない生徒たちが、驚くほど立派な作品を仕上げていて、これは普通の絵画とはかなり異なった能力が発揮される手法だと思った。

 この絵のグラブは従兄のお古で、引揚げ時に持ち帰り、中学生時代まで使用したが、その後、従兄に返した。従兄のお古のボールも一緒に持ち帰った。引揚げ後最初に間借りしていた家の長男さん(会社勤務)と、ある日曜日に近くの緩やかな坂道のところで、そのボールでキャッチボールをした。その時、彼の悪送球に私の手が届かず、ボールはてんてんと転がって溝へ落ち、さらに川へまで転げて行ってしまった。私は大切なボールを失って、長男さんの悪送球を大いに責めた。彼は「弁償すればいいんでしょう」といって、近くの店ですぐに新しいボールを買ってきて、同じ坂道のところでポンと投げてくれた。絵の中のボールは、その新しいボールである。古い絵は思いがけない記憶をよみがえらせてくれる。

 この絵の裏面には、まず「漆」という文字があり、ついで、これに関連する十数個の、主に漢字 2 文字の単語が並んでいる。図画か工作の時間に、そういう講義があり、先生が黒板に書かれた文字だけを写し取ったようである。最後に、「美しい/ 美術品/ 工芸品/芸術品」(縦書き。「/」は改行を示す)とある。「芸術品」が「美術品」「工芸品」よりも一文字上がっているのは、先生が芸術品の美しさを一段上と説明されたのだったか。

 二番目のイメージは、次回掲載予定の、もっと等級が上の賞状を探していたところ、一緒に出てきた、ほとんど忘れていた賞状である。しかし、この賞状を見ると、描いたポスターが思い出される。名案がなかなか思い浮かばなくて、学校への提出締め切り近くになってようやく描き上げたと思う。「まず汚すな!」の文字を入れて、紺色の制服姿の男子中学生が学校の廊下(ほとんど茶色づくめ)で体をかがめて、誰かが落として行った紙くずを拾おうとしている姿を描いた。絵の彩りや出来栄えは、われながらあまりよいとは思わなかったが、「まず汚すな!」の言葉がある程度救ってくれたのかもしれない。(つづく)

2016年6月18日土曜日

幼少年時代の絵 9 (Drawings in My Childhood. 9)

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『校庭からの眺め』(1949 年、14 歳)。
"The view from the schoolyard" (1949, age 14).


『うちわ』(1949 年、14 歳)。
"The fan" (1949, age 14).

 上掲のイメージは、中学 2 年生の時に学校で描いた作品である。使用した画用紙は、 『校庭からの眺め』が 302 mm × 211 mm のやや厚手、『うちわ』が 256 mm × 354 mm の薄手のもので、中学 1 年生の時までに使ったものよりも、いくらか大きめになっている。戦後、年が経つとともに物資の供給状況がよくなってきたせいかと思われる。

 『校庭からの眺め』は、細かいところを大胆に省略して描いたように思われるかもしれないが、私はこの頃、近視がかなり進んで来ていたので、風景はおおよそこのようにしか見えていなかったのだろう。眼鏡をかけるようになったのは、中学 3 年の 1 学期途中からだった。右端の黒っぽい建物と大きな煙突は金沢大学医学部附属病院(当時はまだ金沢医科大学附属病院だったか)のもので、遠方の山並みは医王山(いおうぜん)である。

 『うちわ』は、工作の時間に実際にうちわを作るための案を描いたのだったかも知れない。(つづく)

2016年6月17日金曜日

幼少年時代の絵 8 (Drawings in My Childhood. 8)

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『パレットと絵筆』(1948 年、13 歳)。
"The palette and paintbrushes" (1948, age 13).


『ニチニチソウ』(1948 年、13 歳)。
"The Madagascar periwinkle" (1948, age 13).

 上掲のイメージは、中学校 1 年生の図画の時間に描いた作品である。使用した画用紙は、 『パレットと絵筆』が 180 mm × 264 mm、『ニチニチソウ』が 270 mm × 190 mm の薄手のものである。

 『パレットと絵筆』には、名前の前に「第一学年十組」という所属の他に「5番」とも書いてある。これは、生年月日順に並べられた出席簿上の順番(女子は男子の後に続く)である。私の誕生日は 4 月 17 日で、かなり早い方だが、このクラスでは、金、柳瀬、岡部、数馬の諸君が、この順で私より早い生年月日の持ち主だった。先生が出席を取るたびに読み上げたので、いまなお私より前の名前だけを記憶している。そして、一学期の初めのうちは、座席も左端の一番前から後ろへと、この順に並んでいた。(つづく)

2016年6月14日火曜日

2016 年 4 月 11 日から 6 月 25 日までの記事への M・Y 君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts from April 11 to June 25, 2016)

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八重咲きの花(正確には総苞片が八重状になっている)をつけたドクダミ。恵那市明智町で、2016 年 6 月 11 日撮影。
Double flowers of fish mint; taken in Akechi, Ena, on June 11, 2016.

2016 年 4 月 11 日から 6 月 25 日までの記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" の表記期間の記事への感想を 2016 年 6 月 10 日付けで貰った。文末の注の部分に、消滅した過去の記事が紹介してあるのには驚いた。以下に引用して紹介する(一部訂正を施した)。(文中、「筆者」とあるのは、感想の対象であるブログ記事の筆者、T・T を意味する。)



 筆者は幼少の頃から絵を描くことが大好きだったことが、今回紹介する記事で明らかにされました。「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」に始まり、「幼少時代の絵」(1~7、なお継続中)と題し、大連への転居、敗戦による引き揚げ後、金沢市の小学校に転入し中学校に進学するなど、生活環境の変化にもかかわらず、大切に保存した数々の絵を取り上げ、幼少期を回顧し、語っています。どの絵も描かれた学年を基準に観ると優れた作品です。『鍾馗(しょうき)』(「幼少時代の絵 2」)には闊達な筆使いと鮮やかさで引き付けられます。

 「引揚げ時に持ち帰った物の一つ」は、持ち物が最小限に制限される引揚げ時に絵の手本『明治神宮外苑』(石井柏亭・画)を持ち帰ったいきさつ、その絵の中の建物が TV 番組から「聖徳記念絵画館」と分ったこと、そして、大連小学校同期生の画家から石井画伯の名が懐かしい思い出につながっていると聞いたことを、一つの線上に浮かびあがらせた名作です。

 「幼少時代の絵 1」には、七尾市の国民学校 2 年の時、クラス担任だった若い女性の先生が突然亡くなられ、先生の思い出を告別式で朗読したことが述べられています。「幼少時代の絵 4」では、学校で配布されて使用した用紙の裏の印刷を見て、「学齢児童氏名」「保護者」「就学」などの欄があり、「学齢児童氏名」欄の下には、「本籍」などに続いて「渡満年月」という欄があり、大連や旧満州内で使用された独特の様式であったことに思いを馳せています。また、敗戦後大連の家に同居した Y 子さん(故人、文末の注参照)との出会いの絆を大切にし、生涯の友としたことにも触れてあるのが印象に残りました。日を追ってブログに掲載される構成がよく考えられていて、読みやすく、興味深く拝読しています。

 時間をかけて一枚一枚の絵を精査し、当時の社会も加味し、広い視野に立って追憶した物語を読み、筆者の必要なものの保管のよさや記憶力、推察力と文章力に感心しました。喜寿を記念して開催された『水彩画トキルト 親子展』の後に幼少年時代の絵についてまとめられているのは、時宜を得た意義深いことだと思います。

 この一連のブログ記事を読まれる方の便宜のため、筆者の学齢と在籍学校等を下記にまとめてみました。
  • 1942(昭和 17)年、七尾市の国民学校入学。
  • 1943(昭和 18)年、2年生。
  • 1944(昭和 19)年、3年生。4月、父君逝去。9 月初めに祖父君を頼って大連市へ転居。大連嶺前国民学校に転入。
  • 1945(昭和 20)年、4 年生。8 月 15 日敗戦。
  • 1946(昭和 21)年、5 年生。2 学期の途中で仮終業式をして閉校。
  • 1947(昭和 22)年、大連から引き揚げ、金沢市の国民学校に転入。4月、小学校 6 年生。

 一般的にいって、興味あることについてはよく記憶しており、忘れていたことも、写真や関連した文書など見ると記憶が蘇ってくるものです。私は、絵に関しては何年生の授業でどんな絵を描いたかについて、断片的な記憶があるのみです。1 年生の後半に絵日記を書くことが宿題になっていましたが、手元にないので、内容は憶えていません。工作については、実利的な意味もあり、興味を持っていましたので、造ったものや、その状況をよく憶えています。教科書の記憶については、「幼少年時代の絵 3」の爆弾三勇士の説明に引用してあった『小さな資料室』の、「資料 156」[国民学校国語教科書『初等科國語二』(3 年後期用)]を開いて確かめると、多くの表題とその概容についてぼんやりとではありますが、思い出されて、懐かしく拝見しました。

 爆弾三勇士については、3 年生の 3 学期に習いました。上海にいた時、遠足でその戦場の廟行鎮(びょうこうちん)に行き、攻め落としたトーチカ群やその前に張られていたという鉄条網の位置、かなり近距離の日本軍の攻撃開始位置など観察していましたので、この授業はよく記憶しています。経験豊富な女性の先生だけあって、与謝野鉄幹作詞(作詞者と詩作の動機などは後年知りました)「爆弾三勇士の歌」も教えてくれました。このメロディーは陸軍部隊が行軍する時に歌うに適した軍歌だと思ったものでした。ちなみに、憶えていた歌詞は次の通りです。
1. 廟行鎮の敵の陣/我の友隊すでに攻む/折から凍る如月の/二十二日の午前五時
2. 命令下る正面に/開け歩兵の突撃路/待ちかねたりと工兵の/誰か後をとるべきや
[引用者注:この歌は 10 番まであり、全歌詞はこちらこちらでご覧になれます。後者のウェブページには、爆弾三勇士とされた兵士らの行動の真相も記されています。]

 [注]”Ted’s Coffeehouse" 2008 年 6 月 27 日付けの記事「(続)『大連物語』を読んで」には、Y 子さんの母親 I・A さんの著書『大連物語』への感想文(I・A さん宛)の後半が引用されていて、その中に、A 家と筆者の関係が詳しく述べられていました[引用者注:"Ted’s Coffeehouse" 旧サイトは消滅し、一部の記事を現サイトに復元しましたが、この記事はまだ復元出来ていません]。筆者はその前文で、「A 家にわが家の二階に住んで貰うような事態になったのは、戦後、中国人が支配した大連市役所の「住宅調整」命令によるものだったが、当時の私はそのことを知らなかった。満州の奥地や中国の青島あたりから多くの人々が引き揚げに備えて大連に集まってきて、大連の人口が増えたことだけが原因だと思っていたのである。[…]不確かだった私の認識は、富永孝子著『大連・空白の六百日』(新評論、1986年)と『大連物語』によって修正されたのである」と述べています。

2016年6月5日日曜日

幼少年時代の絵 7 (Drawings in My Childhood. 7)

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『校内一隅』(1947 年、12 歳)。
"The inside corner of the school" (1947, age 12).


『手』(1947 年、12 歳)。
"The hand" (1947, age 12).


『足』(1947 年、12 歳)。
"The foot" (1947, age 12).

 上掲のイメージは、いずれも小学校 6 年生の図画の時間に描いた作品で、『手』と『足』は 1 枚の画用紙の表と裏に描かれている。使用した画用紙は、『校内一隅』と『手・足』ともに 265 mm × 180 mm の大きさで、薄手のものである。

 『校内一隅』は廊下の端か、図画工作室の一隅か。正面に水道栓が並んでいて、その上に掲示板がある。この絵の裏面には四重丸の評価があり、『手』と『足』には何も評価がないが、どちらも上部の両端に画鋲で止めて飾られていた跡がある。

 『手』と『足』は粘土細工のためのデッサンだったかも知れない。粘土を各自が用意して持参する必要があったが、それほど大量の粘土がどこで得られるかが分からなくて困った記憶がある。おもちゃ屋で手に入る幼児の粘土細工遊び用のものでは、とても足りないと思った。しかし、結局どのようにして準備したのかは覚えていない。

 小学生時代の絵で手元にあるのは以上であるが、私は 1 組の N 君、3 組の T 君らとともに、卒業生が記念に学校に残す絵の作者に選ばれ、冬も近いある日、揃って兼六園へ写生に行った。私が選んだ写生の場所は、あつかましくも、兼六園の観光写真によく使われる徽軫(ことじ)灯篭を視野の右端に置いた霞が池の風景だった。描いていると、私より低学年と思われる他校の女児たち数名が寄ってきて、多勢を頼りに冷やかしの言葉をかけたりした。私は小用をたしに行く必要を感じていたので、彼女たちを絵と画材の見張り役に利用した。

 描き上げて学校へ戻ると、図画の先生がちょっと首をかしげてから絵筆をとって、上からベタベタと修正された。私の着彩は弱々しくて、そのままでは惜しいと思われたのだろう。T 君が修正結果を見て 「見違えるようになったね」といってくれたのは、喜んでよいのかどうか、迷うところであった。その絵は講堂へ向かう廊下の上部に飾られた。あれから 70 年近く経ったいま、同じ風景をもう一度描いてみたいと思っている。(つづく)