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2018年10月31日水曜日

戦後間もないプロ野球 3 (Japanese Professional Baseball Soon after the War. -3-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


秋になお咲き続けるわが庭のコエビソウ。2018 年 10 月 28 日撮影。
Shrimp plant which still keeps blooming in autumn; taken in our yard on October 28, 2018.

戦後間もないプロ野球 3

 私は中学生時代に 1948〜49 年頃の阪急ブレーブスの監督や選手たちのブロマイド(スターなどの肖像写真。ブロマイド紙を用いたところからいう。なまって「プロマイド」とも——デジタル大辞泉による)を何枚か持っていた。私自身が店で求めたことはなく、どれも、私が阪急ファンであることを知った級友たちから貰ったものだった。数学が得意だった私が数学の問題の解き方を教えたお礼として貰った、ということもあっただろうか。

 彼らはどういう店でブロマイドを入手したのだろうかと思って、インターネット検索をしてみると、「懐かしのプロ野球選手のプロマイド」というウェブページが見つかった。そこには、私とほぼ同年代の人が「大好きな選手の写真が当たるまで駄菓子屋で籤を引いては集めた」という、主に 1949 年のコレクションが掲載されている。駄菓子屋で籤を引いたのであれば、阪急ファンでない級友たちが阪急の選手たちのブロマイドを持っていて、私にくれたということが納得できる。しかし、元手がかかっているのだから、交換条件なしで私にくれた級友たちは、いかにも寛大だったのである。

 上記のウェブページには、ジャイアンツ、タイガース、ホークス、その他、に分けてブロマイドを掲載してあり、残念ながら阪急ブレーブスの部はない。ただし、前の記事で述べた戸倉勝城選手の、阪急へ来る前に 1 シーズンだけ所属した毎日オリオンズ時代(1950 年)の写真が、その他の部にある。

 私が集めたブロマイドは、いつの間にかなくしてしまった。記憶にあるのは、浜崎真二監督が西村正夫助監督と並んでダグアウト前に立っているもの、投手では今西錬太郎(この名は高校野球 100 回目の今年、朝日新聞が夕刊に連載した記事「白球の世紀」に、何回にも渡って登場した。「巨人キラー」と呼ばれた話が第 75 回にある)、天保義夫(今西と共に「巨人キラー」といわれた)、野口二郎(投げては「鉄腕」といわれ、打撃でも活躍した)、捕手では日比野武、野口明(二郎の兄)、内野手では、中谷順次(本名は準志)、平井三郎、宮崎剛、外野手では玉腰忠義、古川清蔵、といったところである。友人から借りて読んだ野球雑誌に「若いカモシカの魅力」と評されていた記憶のある内野手・川合幸三や、へそ位置での捕球で「ヘソ伝」として知られた外野手・山田伝もいたが、私は彼らのブロマイドは持っていなかった。上記の選手の名前は、すべてウィキペディア「オリックス・バファローズの選手一覧」のページの「退団・移籍した選手」の項に記載されており、各個人のウィキペディア・ページへのリンクも付けられていて、当時をしのぶのになかなか便利である。

 終戦から 4 年目の 1949 年、日米野球が 16 年ぶりに再開した。3A ウエストコースト・リーグのサンフランシスコ・シールズが来日し、日本チームと 7 試合の対戦をした。当時の日本プロ野球には川上哲二、藤村富美男、別当薫、小鶴誠らの強打者や、別所毅彦、藤本英雄、ビクトル・スタルヒンらの好投手がいたが、シールズに全く歯が立たず、全敗している。2014 年に野球日本代表(侍ジャパン)の強化試合として行われた MLB オールスターズとの対戦結果が、日本チーム(侍ジャパンの他に、阪神巨人連合も対戦)の 4 勝 3 敗だったことと比べると、文字通り隔世の感がある(「熱烈歓迎! 戦後初めて来日した米プロ野球チーム、果たして勝負の行方は?」、ウィキペディア「日米野球」参照)。(完)

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2018年10月30日火曜日

戦後間もないプロ野球 2 (Japanese Professional Baseball Soon after the War. -2-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


秋になお咲き続けるわが庭のカンナ。2018 年 10 月 28 日撮影。
Canna lily which still keeps blooming in autumn; taken in our yard on October 28, 2018.

戦後間もないプロ野球 2

 私が自分はいつから阪急ブレーブス・ファンだったのだろうと考えていた折しも、かつて阪急でも活躍した古川清蔵氏が 96 歳で亡くなったとのニュースを知った。訃報記事(こちらなど)には、彼が戦中・戦後のプロ野球で活躍し、2 度の本塁打王(1942、43 年)に輝いた旨が述べられている。彼が本塁打王になったのは、中日ドラゴンズの前身の名古屋軍に所属していた時代で、その本塁打数は 8 本と 4 本だった(ウィキペディア、「古川清蔵」参照)。近年の本塁打王の本数に比べれば、いたって少ないが、試合数が極端に少なかったのではない。これらの年の各チームの試合数は 105 と 84 だった(ウィキペディア、「プロ野球 1 リーグ時代の優勝チーム・試合方式一覧」)。古川選手はこのうち、101、80 試合に出場している。

 上記の「プロ野球 1 リーグ時代の...」には、「1945 年は太平洋戦争戦局悪化のため中止」との記述がある。後述の大連での「実満戦」やその試合の両チームが活躍した都市対抗野球は、もっと早く 1943 年から中断している。このことから私たちは、いまのようにいろいろなスポーツが十分に楽しめるのは、平和だからこそという事実を、しっかりとかみしめなければならない。

 私がプロ野球のことを知ったのは、戦後の 1947 年 2 月に大連から引き揚げて来た後である。この年から約 2 年間、親戚の家の二階に間借りをして暮らしたが(間借り暮らし自体は、その後も移転しながら 10 年ほど続いた)、階下から聞こえるラジオのスポーツ・ニュースで、「ホームラン、大下、○号」というアナウンスをよく耳にした。大連の小学校の級友に尾下君というのがいたので、初めのうち、彼と同名のホームラン打者がいるのかと思った。私が阪急ファンになったのは、この年のうちのことか、翌年ぐらいのことかが、記憶でははっきりしないが、阪急ファンになった理由は、大連でその名を覚えた浜崎真二が阪急の監督になったことを知ったからだった。

 そこで、ウィキペディアの「浜崎真二」のページを見ると、彼は大連から引き揚げた 1947 年に、「45 歳で選手兼総監督としてプロ野球に入団」とあった(「これは今でも日本プロ野球選手史上、入団最年長記録」とも記されている)。私はこの入団を新聞で知り、即座に阪急ファンになることを決めたのだったと思う。そうだとすれば、私が小学校 6 年生の時だったということになる。

 大連には都市対抗で最強だった「大連満洲倶楽部」(略称=満倶)と「大連実業団」(略称=実業)の 2 チームがあり、「実満戦」は「満州の早慶戦」と呼ばれていたという。この実満戦は 1942 年を最後にいったん終了したが、戦後の 1946 年 11 月に復活したそうである(産経ニュース『満州文化物語(9)』による。私は、復活自体は知っていたが、その年月まで、はっきりとは知らなかった)。大連で近所にいた級友の W 君は中断間近の実満戦をよく見に行っていたのか、満倶や実業の選手たちについて詳しかった。1946 年秋に大連市の小学校野球大会が行われ、わが嶺前小学校は準決勝戦まで進んだ。その試合は満倶の球場で開催され、私は W 君と一緒に応援に行った。試合が始まると、彼は球審を指して、「あの人は満倶の名ピッチャー、浜崎さんだ」と教えてくれた。この一事が、私が阪急ファンになる原点となったのである。

 ちなみに、小学校の準決勝戦は延長 12 回 0 対 0 の引き分けで再試合になり、わが校が 1 対 2 で惜敗した。その相手校が決勝戦には比較的楽勝して優勝した。わが校としては、いかにも残念な結果だった。

 上記の実満戦の復活で思い出すのは、その頃、私と同じ家に住んでいた従姉が、「とくら」さんという勤め先の上司に連れられてその一試合の観戦に行ったことだ。従姉は帰宅後、あるバッターがホームランを打った時、「とくら」さんが「彼はよく打つだろう。名前が "とくら" なんだ」と自慢げにいった、と話していた。その強打者、戸倉勝城も 1951 年から 1957 年まで阪急で活躍し、1959 年から 4 年間、同球団の監督も務めた(ウィキペディア、「戸倉勝城」)。(つづく)

 注:この記事の後半の内容の一部は、先に「野球応援の思い出」の題で、大連嶺前小学校同窓会誌に書き、「大連嶺前小での野球応援の思い出」として私のウェブページに転載してある。

 (2018 年 10 月 31 日、一部修正。)

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2018年10月28日日曜日

戦後間もないプロ野球 1 (Japanese Professional Baseball Soon after the War. -1-)

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わが家の庭で季節外れに咲いたテッセンの花。2018 年 10 月 28 日撮影。
A flower of Asian virginsbower which bloomed in our yard off the season; taken on October 28, 2018.

戦後間もないプロ野球 -1-

 私が水彩画を出品した美交会展(堺市東文化会館で開催)を先日見にきてくれた友人 J・M 君は、来る途中で南海ホークスメモリアル施設を見学して来たことを話してくれた。かつてのホークスファンにとっては、ややみすぼらしく感じられるもので、ジャイアンツならばはるかに立派な記念館を作るに違いないと思った、といっていた。そのホークスの施設は、大阪球場跡地を中心に建設された「なんばパークス」にある。かつての球場の同じ位置(2 階の「キャニオンストリート」)に、原寸大のピッチャーズプレートとホームベースが埋め込まれたメモリアルプレートがあり、また、9 階の「南海ホークスメモリアルギャラリー」には、球団の歴史や往年の名選手などを紹介する展示がなされているそうだ(ウェブページ「なんばパークス『南海ホークスメモリアルギャラリー』に秘められた、消えた球団の足跡」にやや詳しい紹介がある)。

 その話のついでに、私がプロ野球はどこのファンだったかと、M 君は聞いた。「阪急ブレーブス」と答えると、彼は前にも聞いたのだったと思い出してくれた。私が高校時代までを過ごした(大学生時代にも休暇には帰省して過ごしていた)金沢では、ブレーブス・ファンには滅多にお目にかかれなかったが、M 君の友人にはもう一人小学生時代からの熱心なブレーブス・ファンがいたという。そこで、私は正確にはいつからブレーブス・ファンだったのだろうかと考えてみた(現在は後続球団のオリックス・バッファローズのファンである)。(つづく)

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2018年10月25日木曜日

「おぼつかない」は一語の形容詞 (About the Japanese word "obotsukanai")

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わが家の庭に咲いたシュウメイギクの花。2018 年 10 月 22 日撮影。
Flowers of Japanese anemone which bloomed in our garden; taken on October 22, 2018.

「おぼつかない」は一語の形容詞

 2018 年 10 月 25 日、NHK BS プレミアムの午前 7 時 10 分から 5 分間の番組、『もういちど、日本』は、兵庫県淡路島において雨の少ない島の暮らしを 1500 年あまり支えてきた「ため池」を取り上げていた。毎年 10 月に、東浦地区で、池の水を抜き、泥をさらう「かいぼり」と呼ばれる作業が行われるという。その放映の中で、男性のアナウンサーが、ため池の中で作業する人の姿を「足元がおぼつきません」と形容していた。「おぼつきません」というのは、文法上の間違いである。同様な間違いをかつて朝日新聞の見出しにも見た。何かが「おぼつかぬ」とあった。NHK のアナウンサーや朝日新聞の記者たるものが、なんという間違いをするものかと思った。

 「おぼつかない」で一つの形容詞なのであって、これは動詞「おぼつく」の未然形に否定の助動詞「ない」がついたものではない。漢字混じりでは「覚束ない」と記されることから分かる。インターネット上の『語源由来辞典』「おぼつかない」の項を見ると、もっと詳しい説明がある。以下に、そこから引用しておく。まさに、上記の間違いが、間違いの例として挙げられている。
 おぼつかないの「おぼ」は、「おぼろげ(朧げ)」の「おぼ」と同じ語幹で「はっきりしないさま」を示す。「つか」は「ふつつか(不束)」の「つか」などと同じ接尾語。「ない」は、形容詞をつくる接尾語。
 漢字は当て字で「覚束無い」と表記されるが、「おぼ」のみで「はっきりしないさま」を表しており、「ない」は「無い」とは別の語。
 動詞「おぼつく」と助動詞「ない」からなる語ではなく、一語の形容詞「おぼつかない」なので、「おぼつかぬ」「おぼつきません」「おぼつくまい」などというのは間違い。
 「おぼつかない」は、物事がはっきりしないさまの意味から、それに対して「気がかりだ」「待ち遠しい」といった、不安や不満などの感情も表すようになった。

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2018年10月20日土曜日

チコちゃんが「鏡の謎」を取り上げる (Chiko picks up the "mirror puzzle")

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吉村浩一著『鏡の中の左利き』。
Left-Handers in Mirrors: The Mirror-Reversal Puzzle written by H. Yoshimura.

 NHK 総合テレビで土曜日午前 8 時 15 分から 45 分間放映されている番組『チコちゃんに叱られる!』が、2018 年 10 月 20 日の放映で、チコちゃんの質問の一つに、人類が悩み続けてきた難問「鏡の謎」を取り上げた。「鏡は左右を逆にするが、上下を逆にしないのはなぜか」という疑問である。答えは「分からない」だった。解説に登場する学者あるいは研究者は誰かと思ったら、この問題について私と共著論文を書いたことのある法政大学の心理学教授・吉村浩一氏で、分からない理由として心理も絡む複雑さを説明した。彼や私は、実はこの問題はほとんど解決できたと思っているのだが、国内に別の論を唱える学者がいることなどに配慮して、「まだ分かっていない」という解説をしたのかと思う。

 この問題に興味を持たれた方には、先のブログ記事「『鏡映反転』に一言」中でも紹介したが、吉村浩一著『鏡の中の左利き』(2004 年、ナカニシヤ出版、税抜き 2200 円)の一読をお勧めする。巻末に「一物理屋のコメント」と題して、不肖私も解説を記している(その解説はこちらでもご覧になれる)。なお、本ブログ・サイトのラベル "mirror puzzle" をクリックすると、本記事と「鏡の謎」についての他の 8 編の記事をまとめてご覧になれる。

 さらに、学問的なレベルで関心のある方は、『認知科学』Vol. 15, No. 3 (2008) pp. 496–558 掲載の『小特集——鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見える」のは何故か?』の各論文を個別にダウンロードしてご覧になることが出来る。各論文には英文で発表された原論文なども引用されている。その中の「第2部:多幡説 鏡像の左右逆転・非逆転:物理的局面からの解明」は、私が Tabata–Okuda 論文(同一専門誌に同時掲載された Corballis 論文と基本的に同じ説を述べている。両論文は当該専門誌の正規論文より短い形式のもので、「報文」と呼ぶ場合もある)とYoshimura–Tabata 論文 を基にして論じたものである。相異なる説としては、小亀説と高野説が展開されていて(小亀氏はその後故人となった)、各説について別の説の主張者たちからの批判が述べられ、それへの回答も付されている。読者の方々はどの説に軍配を挙げられるだろうか。


 (2018 年 10 月 21 日一部加筆・修正)

後日の追記

 吉村氏にメールを送って、このブログを読んで貰った。彼からの返信に、「研究室を訪れたチコちゃん担当ディレクターには、われわれの論文の考え方を最後まで説明しましたが、結局、固有座標系と共有座標系という考え方は理解して貰えなかったようです。今後は、解説にさらなる工夫が必要と、改めて思いました。しかし、定説がないという意味では、番組通りの流れでよかったとも思います。先生のブログでもそのように理解して頂いているようなので、安心しました」という旨のことが記されていた。

 固有座標系は、鏡像では左右がいつも逆になるという見方に対応し、共有座標系は、「鏡は前後を逆にするだけ」という見方や、立っている自分の前の床に置いてある鏡に映った像について「上下が逆」とする見方(この場合でも左右が逆ともいえるのである)に対応している、というだけのことなのだが...。

 吉村氏の著書の題名『鏡の中の左利き』は、右利きの人が利き手に関係のある何かをしている状態の鏡像を見れば、誰だって鏡像は左利きになっていると思うだろうことを意味している。これは、その鏡像を見ている自分の左右ではなく、鏡像自体の体で左右を判断しているからである。これが、鏡像に固有の座標系を使っているということ、つまり固有座標系の適用である。共有座標系の適用では、実物側と鏡像側に、同じ基準(座標系)を当てはめることになる。このように相異なる見方が存在することに気づかないで、「鏡像では左右が逆になる」「いや、鏡像では前後が逆になるだけである」といい合うのはナンセンスなのである。
(2018 年 10 月 22 日)

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