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2005年2月4日金曜日

雪の日

写真は 2 月 1 日朝、大阪・堺の雪景色。

高校時代の交換日記から

(Sam)

1952 年 2 月 4 日(月)雪

 Oh! It is very cold. I got up very late.
 保健体育は乃木式何とか法だといわれて、折から降りしきる雪の中、素足で学校の回りを一周させられた。目に雪が入って、とめどなく涙が流れ落ち、腹側は雪で真っ白になった。一周して校内に入ると、へとへとになったが、上着を着るころからぼつぼつ暑くなってきた。しかし、指がぽんぽんにふくれ上がる。
 ホームルーム時には、単位の登録をした。S、G、L、P、Hの順に人数が少なくなっている。ME 君は、いつでも funny だ [1]。S コースにしたのだが、世界史が選択出来ない、と第六限の時、ぼくにいう。S コースは理科系統なんだとさ、といってやったら、そんなところなら絶対いやだ、おれの希望は違う、という。お前は L コースへ行くのが本望なのだろう、というと、そうだそうだ、大きな望みがあるんだ、という。この時間がすんだら教務課へ行ってくるといっていたが、その見込みはなさそうだ。


(Ted)

 傘が壊れているから、仕方なくオーバーを着て登校した。こう書くからには、いままではもちろん、着て行かなかったのだ [2]。昨日は、まだ所どころに残っている雪のように、屋根が白く日光を射返したりしていて、日陰の空気がわずかにひんやりとしていたのを除けば、他は春と変わらず、南側の窓辺に腰掛けて外に向けた背に当たる赤外線の暖かさを満喫しながら読書しておれば、快適な世界がそこにあった。が、きょうは立春の前日だというのに …。
 放課後 KJ 君が、一度は雪の中へ逃げ出して行くなど、たいそう勿体ぶって渡してくれた紙片に書かれているものを手帳に写す。「東京都北区 ○○ 町 xxx ○○○東京病院附属看護学院寄宿舎 x 号室」[3]、もう一つは、「金沢市 ○○ 町 xx」。〈えっ?こんな名前知らないぞ。こちらは写さなくてもよいのだろう〉と、紙片を受け取った時には思ったのだが、何のことはない、旧姓 Y 先生 [4] じゃないか。頭の課題が一つ増えた。
 国語乙は、相変わらずテキスト外の講義が多い。解析は、土曜日に出された問題を黒板でさせられる。ぼくに当たったのは何でもない問題だったが、HN 君が当たったのは、負の方だけの半円になるものを正の半円だと、ぼくが彼に間違って教えていたものだった。Y・S 先生が直されるのを見ながら、三つ前の席にいる傘の件での一昨日の恩人に聞こえるように「すまん、すまん。」といい、授業が終った時にも頭を下げて謝らなければならなかった。Vicky でさえも、半円を円にして来るから、解析の時間は愉快だ。
 TJ 君が、彼の読んだヘッセの「車輪の下」について話してくれた。要するに、一少年が堕落するという筋で、友の選び方が大切だと教えられた、と彼はいっていた。そして、映画を見る時は、場面の情景・背景がはなはだしく限定されたものとなるが、小説を読む時は、各人の経験や思想、語感の相違などによってそれらを自在に頭に描き得るといわれた S・T 先生の言葉を繰り返して、その通りと思ったといった。
 「人の規模」について考える。…

 引用時の注
  1. ME 君のあだ名が Funny だった。彼も Sam と同様、早く他界した。
  2. この頃住んでいたのは、大連から引揚げ後、次つぎに間借りをさせて貰った 3 軒目の家で、菫台高校へ徒歩数分のところにあった。
  3. 中学 1 年のとき同級だった女生徒 MT さんの住所である。やや男っぽい子だったが、その頃から看護師(当時の言葉で看護婦)志望だった。国語の時間に、興味のあることについて数分間話すという課題を出されたとき、彼女は少女雑誌で読んだといって、宇宙が膨張していることを話した。私も知っている話ではあったが、女の子がそれに興味を持ったということが珍しく、感心したのだった。このとき住所を書き写したが、手紙を出した覚えはない。
  4. 中学 1 年のときの国語の先生。戦争未亡人だったのが、この頃再婚された。そのことを知ったときに KJ 君が私にいった言葉「やっぱり、本能やなぁ」が、面白くて忘れられない。


コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

四方館 02/04/2005 11:39
 仲の良かった友人の早世は哀しいですね。その死がまるでなにか宿命を帯びていたような感懐さえ湧いて、追憶の人として強く心に刻まれることがありますね。

Ted 02/04/2005 16:10
 仲よさで五指に入っていた友人のうち、三人が早く死んでしまいました。折に触れて彼らのことを思い出します。

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