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2005年2月4日金曜日

為政者の言葉に頂門の一針

 2 年前に随筆集『哀愁の音色』を読んで以来、私は竹西寛子の文を好む([1] 参照)。昨日、彼女の一文を新聞紙上で読んだ [2]。

 竹西は、俳人飯田龍太の「自然を見ているつもりが、いつか自然から見られている自分に気づいてしまった」(無数の目)という言葉を引き、自分の見方の公平を保つことが文章の土台として重要であることから書き始める。そして、見方の公平を重んじるための謙虚さは、文筆の者だけに求められることではないだろうとして、話は近年の為政者の発言に及ぶ。

 「職業年齢を問わず、物言いに逃れようもなくあらわれてしまうのがその人の人間観であり、生き方である」という文が、「政治の基本は言葉」という警句につながり、「言葉数は多いのに、絞ってみたら水母(くらげ)のようでは困る」といってのける。

 最終節では、「為政者を選んだ一人一人が、自らの物言いをかえりみながら公平な目を強く育ててゆく、何よりもそれが先か …(略)…」と、謙虚に記す。

 一人一人が公平な目を強く育てることも確かに重要であるが、この随筆の中心部分で示されているような、為政者にとって頂門の一針となる物言いが、もっと多くのペンを持つ人びとによってなされるべきであろう。

  1. 専門家の「読み」, Ted's Coffeehouse(2005 年 1 月 4 日)。
  2. 竹西寛子、「見る」ことと「見られる」こと:公平な目への意志、しんぶん赤旗、学問文化欄(2005 年 2 月 3 日)。

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