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2005年2月3日木曜日

片ぶら

高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952 年 2 月 3 日()晴れ

 夏休みに書いた「『復活』の研究」 [1] を、ところどころ読み返してみる。KJ 君が読んでしまったといっていた「反省点綴」もこれとたいして変わらない書き方だが、前者の方がずっと中庸を行っている。これらは、ほんとうに書きたくて書いたものではないから、どうでもよいが、「書く」のならば、もっと整然として力強いものでなければならない。

 折焚柴記を著した人物や、島根県出身で「舞姫」等を書いた医学博士兼文学博士、など、聞いていて、ぼくたちのホームルームでの行事の方が、NHK に先手を打ったような感じのする「私は誰でしょう」じゃないか。だが、楽に分かっても、全然分からなくても、何となく面白い。——このように、楽しみの供給源であるラジオだが、雑音の入るときは、たまらなく不愉快である。昨夜の 9 時以後の第 1 放送は、セロファンを口に当ててわめいている子どもの声を聞かされているようで、まったく聞いていられなかった。なぜだか、たまにこんなことになる。聞かなければならないほどのものではなかったが、ブアブアビバビバといっているのは、しゃくにさわった。

(Sam)

 祖母から、知人が家を壊したときに出たくず板を貰ったので運んでくれと頼まれ、背中にそれを負って二回ばかり往復した。そのあとで「ユキ」[2] や「マサカリ」などを使って、処理をした。久しぶりで働いたら、何だか朗らかになった。

 国語の宿題をするために県立図書館 [3] へ行ったら、YM 君と一緒になった。目的の本はあったが、ざっと読むとすぐに返して、彼と片ぶら [4] をすることにした。大和 [5] では、模型飛行機、紳士用ズボン、ラジオ、写真機の各販売部や、書き初め展のところで長く足をとめた。


 引用時の注
  1. 高校 1 年の夏休みの国語の宿題として、トルストイの『復活』の感想等を KJ 君と共同で書いたもの。
  2. 工具の一種のようだが、どういうものか不明。
  3. 当時、石川県立図書館は兼六園内にあった。
  4. 金沢の繁華街・片町をぶらつくこと。東京の銀ぶら、大阪の心ぶらに相当。
  5. デパート名。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

四方館 02/03/2005 10:02
 成程、当時のラジオはそんなに雑音に悩まされましたか。この年はまだ高校一年だったのですね。Ted さんの学校は金沢市内のどの辺りだったのでしょう?

Ted 02/03/2005 11:11
 持っていたラジオは、早川電気製の 5 球スーパーヘテロダインとかいう、当時としてはかなり上等のものでした。私の母校は卒業から 5 年後に金沢商業高校に変わり、現在に至っています。場所は市の南東、小立野台の奥、天徳院という寺の近くです。

Ted 02/03/2005 22:01
 すっかり忘れていましたが、この頃、うちのラジオは故障しかけていたのでした。同年 2 月 9 日付けの日記に、修理して貰ったことが書いてありました。

四方館 02/04/2005 14:18
 地図で確認。兼六園から近いですね。1 km もあるかないか。戦後の新制で一旦普通科になり、また商業科に戻ったのでしょうか。ここでも混乱の波を受けているのですね。

Ted 02/04/2005 16:05
 1 km より少し遠いぐらいではないでしょうか。そうです。旧制金沢商業が、菫台高校という新制高校になり(普通科と商業科がありました)、10 年後にまた商業科だけの商業高校に戻りました。

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