2015年3月28日土曜日

2015年1月12日~2月28日記事へのエム・ワイ君の感想 3 (M.Y's Comments on My Blog Posts from January 12 to February 28, 2015 -3-)

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きょう、鈴の宮公園(堺市)を訪れると、ソメイヨシノのほかに、ヤマザクラ(上)とオオシマザクラ(下)の開花も見られた。
Visiting Suzunomiya Park today, I found flowering of trees of hill cherry (top) and Oshima cherry (bottom), in addition to the Yoshino cherry trees.

2015年1月12日~2月28日記事へのエム・ワイ君の感想 3

4. 細かい思考:夏目漱石著『夢十夜』の古書

本文を以下に抜粋します。
 上司の O 氏が「研究所の建て替えに当たって、必要な設備を考えてくれ。図書館や時間…」という。私は、〈図書館はいいが、時間とは…。開館時間を考えることは、設備を考えることにはならないだろう。あっ、O 氏は附置館といったのか。古い装置等がたまってきたから、博物館的な陳列をする付属の建物が必要だ〉と考える。〈しかし、研究所の建て替えは私の在職中に完成するだろうか。私は今、五十…。いや、今は 2015 年だから、1935 年生まれの私は 80 歳!〉
 ——ここで目が覚めた。朝方の夢だった。「80 歳」ということばが、われながらいかにも高齢に響き、驚いて目覚めたのである。現実の満 80 歳までには、あと 2 カ月半余りである。それでも、目覚めているときには、それほど高齢という意識はないのだが…。
 夢といえば、夏目漱石の「夢十夜」は、高校生時代に読んで、好んだ作品の一つである。そして、大学院生になったばかりの時、再び、この作品に出会った。研究室で私に割り当てられた、どっしりとした机の引き出しに、文庫本サイズに近い(文庫本と比べると、縦が 1 cm 長く、横が 1 cm 短いので、一見、新書版のような感じである)古本の『夢十夜』が入っていたのだ。一代あるいは何代か前にその机を使った人が残していったのだろう。
 下宿へ持ち帰って少しずつ読み、私ほど漱石好きの後輩がこの机を使うことはなかろうという理由付けをして、修士課程修了時に、そのまま記念として、ありがたく頂戴してきた。これは、私が持っている最も古い本である。
 私もそこで過ごした、当時の研究室の様子を思い起こしながら、興味深く読みました。筆者はこの文を「細かい思考」と題し、「時間」と聞こえたのが「附置館」だろうとか、年齢の計算をするなど、「夢の中にしては細かい思考をしたものである」と述べています。

 私はこのコメントを書いている時、朝日新聞が再連載している漱石の「三四郎」(朝日紙 3 月 5 日付け)で、「先生は欠(あくび)を一つした。『ああ眠かった。良い心持に寝た。面白い夢を見てね』先生は女の夢だといっている」というくだりを読みました。「三四郎」は「夢十夜」の 4 か月後に発表されていますが、漱石も、筆者のこの夢のように、現実味ある夢について触れていたのに気を引かれました。各夜の夢について解釈している人もいますが、「夢十夜」は漱石にしては珍しい作品だと思います。

 筆者は細かい思考をした夢を見た話の後に、大学の研究室での古書に属する文庫版の『夢十夜』との数奇な出会いと、それを大切に保管した結果、今では持っている最も古い本であることを随筆にまとめ、その本の写真を示し、朝日紙に漱石の小説の再連載中という時宜を得て発表したことに、文筆家としてのセンスがうかがわれます。朝日新聞では漱石の小説の再連載が『こころ』、『三四郎』と続き、4月から『それから』が始まるとのことです。この本の持ち主は誰だったのでしょうか、興味深いことです。

 大切に保存された本への思いをコメントされた Suzu-pon さんの、「引き出しの中の夢十夜、長く大事にしてくれる人と出会えたのは幸いでした。[中略]人も物も入れ替わりが激しい日常にいる中でささくれがちな心もまるくなだらかになったような気がします。私の手持ちで最も古い本[中略]は実家の母が学生時代に使っていた小さいサイズの角川の漢和辞典(昭和39年版)です。日常的に使うものではありませんが、たまに表紙の裏にある母の独身時代の署名を見て、若かりし頃の母を色々と想像してみたりしています」との言葉と、筆者のこれに対する返答も興味深く読みました。(完)

2015年3月25日水曜日

サクラ開花、堺市・草部地区で (Blooming of Cherry Blossoms Begins in Kusakabe District, Sakai)

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上の 2 枚は日部神社のソメイヨシノの古木、3 枚目は中の池公園のソメイヨシノの 1 本。
Upper and middle, a tree of Yoshino cherry in front of Kusabe shrine; bottom, one of Yoshino cherry trees in Nakanoike Park.

 昨日から気候がやや逆戻りして寒くなった。それでも、私が桜の開花の個人的標準木にしている日部神社前のソメイヨシノの古木を、きょうの午前に見に行くと、「開花宣言」を出せる 5〜6 輪以上は十分に咲いた状態だった。昨日はまだ 1 輪が開花し、もう 1 輪が半開花という状態だった。神社の近くにある中の池公園でも、数本のソメイヨシノのうちの 1 本で開花状態だった。

2015年3月24日火曜日

2015年1月12日~2月28日記事へのエム・ワイ君の感想 2 (M.Y's Comments on My Blog Posts from January 12 to February 28, 2015 -2-)

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上から、レンテン・ローズ、ユキヤナギ、レンギョウ、
いずれもわが家の庭で、2015 年 3 月 20 日撮影。
From top to bottom, l, enten rose, Thunberg's meadowsweet and forsythia;
taken in my yard on March 20, 2015.

2015年1月12日~2月28日記事へのエム・ワイ君の感想 2

2.「いきぶ」:幼児期の思い出

 幼児期に使った一人称「わたし」と「いきぶ」について、育った環境に応じて書かれています。習慣となっている一人称を換えるには戸惑いがありますね。「いきぶ」は幼児の発想では知的なものです。父君の愛情ある幼児教育への配慮についても触れられています。幼時に 50 音表の横読みの活用ができたことに感心しました。(引用者注:「活用ができた」というより、「幼児的になまったというべきだろう」と原文に書いておきましたが…。)

3. 高梁、倉敷への1日旅行

 「2 月 4 日、新幹線とバスを使っての、「ようこそミュージアム 倉敷 大原美術館」と名付けられた 1 日旅行に妻と参加した」との記事を読んで、高校時代に、今はなき親友に誘われて 200 km の距離を、汽車を乗り継いで、大原美術館を訪れたことを懐かしく想い起こしました。当時は原画を見る機会は全くなく、セザンヌ、マチス、ピカソ、ルオー、ゴーギャンなど多くの名画を鑑賞し、感激しました。また、これだけ多くの絵画を収集し、日本初の西洋美術中心の私立の西洋美術館を作った大原総一郎の偉大さにも感銘しました。

 大原美術館創設に貢献した画家・児島虎次郎のことは知りませんでした。高梁市成羽美術館で、館長から児島の業績と生涯の話を聞かれたのはよかったですね。2 月 28 日には秋篠宮と次女佳子さまが倉敷を訪れて大原美術館を視察し、高階秀爾館長の説明を受けたことが報道されました。高階秀爾氏が本美術館の発展に活躍されているようです。(つづく)

2015年3月17日火曜日

美作湯郷の朝 (Morning in Mimasaka-yunogō)

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早朝に見られた雲海。
Sea of clouds seen in the early morning.


霧が晴れたあとの眺めのスケッチ。
Sketch of the view after the fog cleared off.

 3 月 15、16 日、妻と岡山県・美作湯郷のかんぽの宿を利用する一泊の旅をした。宿の予約をしてから列車等の時間を調べたところ、公共交通機関で行くにはとても不便な場所と分かり、泊まって帰るだけの旅となった。それでも、泊まった翌朝早くに、窓から雲海を見ることができたのはよかった。1 枚目のイメージで、海か湖のように見えるのは霧で、遠方に島のように見えるのは地続きの山々である。

 宿のレストランに「雲海」と名付けられていたことに、朝食時にあらためて気づいた。夕食時にもその名を見ながら、しゃれた名前として付けたのだろうぐらいに思って、記憶に残らなかったが、雲海を見ることができるのが特色の土地柄に因んだ名だったのである。

 朝食後部屋へ戻ると、霧は一面に濃くなり、宿の境界に立つ針葉樹の並木とその手前の庭しか見えなくなってしまったが、並木だけの光景でもスケッチしておこうと描き始めた。そのうちに霧は晴れて、2 枚目のイメージのような絵になった。

2015年3月13日金曜日

兄の半ズボン (My brother's Short Pants)

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ジンチョウゲ。わが家の庭で、2015 年 3 月 2 日。
Winter daphne; taken in my yard on March 2, 2015.

兄の半ズボン

 明 3 月 14 日から北陸新幹線の長野・金沢間が開業するので、私の郷里・金沢が最近何かと TV で取り上げられている。さる 10 日には、NHK BS プレミアムの番組『世界ふれあい街あるき』が金沢を扱っているのを見た。金沢出身の俳優・鹿賀丈史氏が案内していて、彼の出身校である材木町小学校も訪れていた。私は幼時に、その近くに 2 年ほど住んでいたのである。町名は又五郎町といったが、現在は材木町に編入されている。

 わが家が小立野台地からそこへ引っ越した理由を、今まで知らなかった。考えてみると、私より 6 歳上の兄が、小立野にあった石引小学校から、担任の先生の勧めで女子師範付属小学校へ転校したため、通学に便利なところへ移ったのだったらしい。ところが、兄は転校早々の遠足の際に風邪を引き、それが肺炎になって死亡した。したがって、私が兄の後について、「勝って来るぞと勇ましく…」という軍歌を歌いながら、こたつの周りを行進して遊んでいた記憶(自らの記憶というよりも、母にいわれて、それが記憶の形になったのかもしれない)は、小立野の家の時代のものだっただろう。

 兄についての私の記憶はもう一つある。眠っていた私がふと目をさますと、兄がそばでズボンをはき替えていた。それを見て「大きなズボンだなぁ」と思った記憶である。それは、当時(日中戦争時代から太平洋戦争時代にかけて)の児童・生徒がみな着用していた黄土色[「国防色(こくぼうしょく)」と呼んだ]の半ズボンだった。この記憶は、又五郎町時代のものかもしれない。

 私が小学校 6 年のときまで使っていたのは、多分、その兄の半ズボンだっただろう。3 年生までしか生きていなかった兄のお古の半ズボンは、6 年生の私には短かったのだが、母に勧められて、冬の寒い日々に内側に重ねてはいていたのである。ひょっとすると、5 年生の 3 学期の寒い時期に大連から引き揚げるときにも、そのような使い方をして、帰国したのだったかもしれない。太平洋戦争時代になってから私のために買って貰った半ズボンは、質が悪くて、一枚では寒さをしのげなかったのだろう。

 6 年生の冬の初めに学校で身体検査があった。検査を終えてクラスの一同が席についていた時、担任の男性の先生が、「保健室に誰かがズボンを忘れて行ったようだ」といって、黄土色があせた半ズボンを持ち上げて一同に見せ、「忘れた者はおらんか?」と尋ねられた。私は、自分が内側に重ねてはいていたのを、はき忘れた来たことに気づいた。クラスの一同、とくに女児たちは、「ズボンを忘れた?」といって、不思議がったり、面白がったりしている。ズボンを忘れたならば、普通は、下半身がアンダーパンツ姿で教室へ戻ってきたことになり、あり得ないような光景である。私は、外側用の半ズボンをはいていたものの、忘れ物を受け取りに出るのが恥ずかしくて、素知らぬ顔をしていた。先生は、「忘れた者は、後で持って行け」といって、その半ズボンを教室の後部にあった本棚に置いて、授業を始められた。

 大きな忘れ物だったから、私は家へ帰ってから母には報告したに違いない。しかし、教室の本棚から自分で半ズボンを持ち帰った記憶はない。それが何日間も本棚にあった記憶はある。母が父兄会の折にでも、先生に話して持ち帰ったのだっただろうか。

 軍歌を歌って遊んだ兄であるが、小学校低学年ですでに、兵隊になることを嫌っていたようだ。母から聞いたところによれば、兄自身はダットサン(当時の小型自家用車)を乗り回して大学の先生になるといい、私に兵隊になれといっていたという。それで、私が兄と遊んでいて、自分の名乗りをあげるようなときに、「タイ・タバ・タツ」といっていたが、「タイ」は兵隊のタイだろうと、母はいった。しかし私は、「タバ・タツ」が姓・名の上部からとられているのだから、「タイ」は大将のタイだったに違いないと思っている。それはともかく、私は図らずも、兄自身の望みの半分だけを代わって実現した。そして、兄の嫌った兵隊が、憲法9条改悪によって、この国に再び生まれないことを切に望んでいる。

2015年3月12日木曜日

2015年1月12日~2月28日記事へのエム・ワイ君の感想 1 (M.Y's Comments on My Blog Posts from January 12 to February 28, 2015 -1-)

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ハナモモの花。堺市・鳳公園で、2015 年 2 月 28 日。
Blossoms of hana peach (Prunus persica); taken in Otori Park, Sakai, on February 28, 2015.

2015年1月12日~2月28日記事へのエム・ワイ君の感想 1

 M・Y 君から最近の "Ted's Coffeehouse 2" への感想を 2015 年 3 月 11 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 追悼:播磨良子博士 (1931〜2015)

 播磨さんのこと、懐かしく拝見しました。「木村研究室の修士課程 1 年に在学中の 1958 年秋、同研究室へ研修生として参加された。湯川研究室で理論を学んだ彼女が、大阪府立放射線中央研究所(大放研)へ就職する準備のためだったのである」とあります。このことは、私もこのたび初めて知りました。私は安見先生の指導のもとに、M 助手や 2 名の修士 2 年の方たちのグループでコッククロフト・ウォルトン型加速器を使い、原子核実験の研究をしていました。このグループに播磨さんが加わりました。気を使い、遠慮もあったのでしょうか、手伝いをしながら、実験というものを興味深く観察されている様子でした。実験以外の理論系の若手の方々の話などをして下さいました。

 私が当時英会話を習っていたデンマーク人女性(東山の泉湧寺に下宿し、河井寛治次郎に師事して陶芸を研究していた人)の友人であったスイス人のソフィアーさんを、どういう経緯か憶えていませんが、京都案内をすることになりました。播磨さんに協力をお願いしたところ、快く同意下さり、南禅寺界隈を散策しました。播磨さんはソフィアーさんと気さくに会話し、南禅寺では寺の方の親切で、普段入れない庭園を拝観させて貰いました。記憶に残る楽しいひと時でした。また、ある日、木村研の遠足で右大文字山越えをして、琵琶湖まで行きました。播磨さんは妹さんを連れて参加しました。ここで、泳げる人は泳ぎました。私の泳ぎは我流でしたが、運動と趣味を兼ねてやっていましたので、その仲間に入りました。播磨さんは皆が泳ぐのを浜辺で眺めていて、私のクロールの泳ぎについて、この点がなっていないと一言、親切に指摘してくれました。播磨さんは高校時代水泳部に属していたのです。

 この追悼文に、アメリカ原子力学会賞を受賞されたことも述べられています。私は東工大の播磨さんが所属されていた研究室の清水彰直教授と、仕事の関係でお付き合いしていました。清水教授もビルドアップ・ファクターの研究で世界的な業績を挙げられ、その結果が原子炉の設計に適用されています。播磨さんの受賞を記念して、東京工業大学原子炉工学研究所長の肝いりで、受賞記念祝賀会が開催されました。播磨ご夫妻が主賓で、原研、高エネルギー研、電力、原子力関係の会社の知己が招待され、出席しました。こじんまりとして温かい、心のこもった祝賀会でした。播磨さんの業績への賞賛はもとより、お二人が立派な家庭を築かれたことを所長が強調して讃えられたことが印象に残っています。

 播磨さんは、湯川研究室、木村研究室での研修、大阪府立放射線中央研究所、ご結婚、東工大と道を進み、立派な家庭を築きかれ、研究でも世界的な業績を残されました。政府はいま、女性の活躍する社会の実現を唱導しています。その先駆者の一人というべき、京都育ちの、肩ひじ張らない播磨さんが、学生時代から折にふれてお付き合い下さったことに感謝しています。ご冥福をお祈り申し上げます。

 この追悼文は「アメリカ原子力学会賞を受賞された播磨さんのすばらしい業績は、放射線遮蔽関連分野で末長く役立つことであろう。晩年には、放射線物理教育にも熱心に取り組んでおられたようである。長年のご好誼に深く感謝し、ご冥福を祈る」と結ばれています。なお、3 月 15 日付けの追記に、長年播磨さんと共同研究をして来られた平山英夫氏(高エネルギー加速器研究機構・放射線遮蔽グループ)から筆者が貰った資料をもとに、播磨さんが受けられた賞の内容がまとめられています。