『図書』2005 年 1 月号掲載の竹西寛子著「読みの行方」を読む。著者・竹西は 1929 年生まれの作家、評論家である。私が初めて彼女の作品に触れたのは、随筆集『哀愁の音色』(青土社、2001)であった(拙評 [1] 参照)。
原稿用紙 9.5 枚程度の随筆「読みの行方」は、ほぼ同じ長さの三つの部分に分かれている。最初の部分では、ポリーニのピアノ演奏について、その特徴が、「ひたすら原曲の事実に近づこうとする」楽譜の「読み」から来る正確さであることが述べられる。これは本論への導入部をなす。
第二の部分で本論が始まる。それは、著者が仕事の一つとしている和歌の評論においての「読み」に関するものである。まず大切なことは自分が「直観的に反応できるかどうか」である、という。次いで、「反応に客観性が与えられるかどうか」を問題にする。そして、「テキストへの反復接近」の重要性を述べる。反応の客観性は、評論をする専門家としての「読み」の厳しさに関わるものであり、一般読者には必ずしも求められるものではないであろう。
最後の部分で、歌集の中での歌の位置が、その歌を単独で鑑賞したときには得られない「読み」を与えることに言及する。このことは、与謝野晶子の歌集『草の夢』の巻頭歌「劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」の鑑賞から、著者が最近自ら学んだのである。そして、それは「読み」の新たな領域であり、「読みに限りはない」と述べる。
ピアノ演奏においての「原曲の事実」といい、和歌の評論における「反応の客観性」といい、芸術分野の専門家が対象に取り組む仕方は、科学者の自然への取り組みに共通するものがあることを悟らせてくれる一文である。そしてまた、「直観的に反応できるかどうか」も、科学研究の動機と異なるところはない。
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
Y 01/04/2005 09:47
和歌に対して「直観的に反応」できるかどうか、とありますが、「直感」なのか、哲学用語としての「直観」なのか、どちらだと Ted さんは判断されますか、竹西さんにきくわけにいかないので。私なら和歌という芸術にまずじかに接するなら、「直感的に反応」のほうだと思うんですが。
「テキストへの反復接近の重要性」は、これは「オリジナルなもの(原典、原書)に繰り返し向き合うことの重要性」と言い換えられるでしょうね。もちろん重要なことです。科学研究で、オリジナルなデータに丁寧に向き合う重要性と、共通した部分があるかもしれませんね。たえず新しい発見があり、より真髄の部分があとでみえてくるかもしれませんし。
では、最初の「直感的な反応」と、この「反復接近」の重要性、とは、何もプロセス的に関連づけられていないのですか。だとしたら、随筆としてその点に何か物足りなさを感じるというか、それ自体を読んでいないのでなんともいえませんが。
歌集の中での歌の位置、は、それこそ歌集としての芸術を創るなら、当然重要になってくるわけです。なので、原文を読んでいないですし、Ted さんからご紹介いただくこの機会に、この随筆について再度、Ted さんの思われることを、上記を元に、付記していただければ。
Ted 01/04/2005 16:22
竹西さんの随筆では、「直観的に反応できるかどうか」の言葉が出てくる前のパラグラフに、「先人の鑑賞は出来るだけ多く読んでおきたい。無知のための誤読と独断は出来るだけ避けたい」とあります。したがって、著者は、明言はしていないものの、評論家としての歌の読み方を問題にしており、直感より少し進んだ、哲学的直観に、誤植でなく言及していると思います。
「直観的反応」は、「その歌を読んだときまでの自分の知識と経験、それに想像力のすべてがかかってい」て、「相対的なものでしかない」と著者は述べ、そこへ絶対性を付与する意味で、「客観性」と「反復接近」の重要性へと話を進めています。これが Y さんがお尋ねの「プロセス的関連」になっていると思います。
私は竹西さんの随筆を、相当短くして紹介したので、Y さんがおっしゃるように「歌集の中での歌の位置、は、それこそ歌集としての芸術を創るなら、当然重要」で、なぜそれが「『読み』の新たな領域」か、と疑問に思われて当然です。
紹介を略しましたが、与謝野晶子の歌についての話の前に、「さまざまのかたちで作られている和歌の集の中から、任意の一首を取り出して鑑賞するのは読者の自由である。本来ならば、…(略)…。しかし、…(略)…和歌一首、独立して読めないというものでもないので、読者の自由は大幅に行使される。それに、例外はあるものの、勅撰集、準勅撰集、私撰集、私家集など、基本の単位はおおむね独立した一首である」という記述があります。そして、問題の晶子の歌も「よく単独で引かれる一首」で、「汎く晶子の歌人としての自負と覚悟を詠んだものと見られ」ていたのです。しかし、竹西さんは、歌集の中での位置から、それが「晶子の歌作りの想像以上の苦しみと、詩を仰ぐ志の高さとの、孤独で苛酷なたたかいを具体的に示して切実」であることを知ったそうです。
和歌の独立性が、いままでの多くの評論家から「歌集の中での歌の位置」を見るという基本的鑑賞態度を奪っていたのでしょう。このことに思いを致すならば、竹西さんの随筆は、研究において基本に立ち返ることの重要性を私たちに教えているものともいえましょう。
M☆ 01/04/2005 11:44
「詠む」側と「読む」側の捉え方は必ずしも一致するわけではないだろうけど、やはり問題なのは「読む」側がどう感じ、どう取り組むかなのだろうなぁ…。学生時代国語の先生が、国語の問題に「答え」はないと言っていたのを思い出しました。「テキストへの反復接近」という表現は初めて聞きました。どういう意味なのかな?!
Ted 01/04/2005 16:43
「国語の問題に『答え』はない」とおっしゃったのは、拡大して言えば、芸術はいろいろな鑑賞のされ方がある、ということになるでしょう。しかし、芸術の評論家は、自分に固有の見方をするのではなく、作品の背景や作者の意図を捉えたり、多くの人びとの受けとめ方の拡がりや平均値をも見極めたりする、というような難しい役割を負わされているといえるでしょう。
「テキストへの反復接近」とは、和歌の場合については、「歌を繰り返して読む」ことと、竹西さんは書いています。その「過程で消えてしまうような反応」は客観性のないものであり、評論家としては「追う必要もない」のだそうです。
四方館 01/04/2005 11:55
今日の毎日新聞で、利根川進氏が、「読解力」の大切さについて語っていましたね。昨年末に話題になった、到達度各国比較での低落傾向を受けての発言ですが。
「読み」の問題は基本中の基本だし、基本とは生涯を通じて研鑽を求められることでもありますから、絶えざる問い直しのうちにあるともいえますね。
Y さんの「直感」かそれとも「直観」かについては、著者は敢えて「直観」としていると思います。本質的なものへいかほどに肉薄しえているかでないと、その反応に客観性を担保できるかどうかを問うていくこと自体、どれほど必然的な価値があるかとなりますからね。
「読み」の問題として「テキストへの反復接近」の重要性は、勿論そのとおりだと思いますが、私など門外漢からみれば、それこそ「読みの歴史」とでもいうべきような膨大な知識量、この蓄積の量がそれこそ問題で、いわゆる専門家である学者諸氏は何故にこうまで枝葉末節に拘っていらっしゃるかと、よくため息をつきたくなります。例えば、昨年亡くなった網野善彦さんの史学など、長い間、歴史学の本流からは無視されてきましたよね。学界という世界が魑魅魍魎化してしまいがちなのをなんとかして貰いたいですね。
Ted 01/04/2005 17:11
利根川さんが到達度各国比較での低落傾向を受けて「読解力」をいわれたのは、算数や理科の力があったとしても、問題を正確に理解する国語の力がなければ、問題に正答できないので、国語の教育がたいへん重要、ということなのでしょう。
「直感」か「直観」かについての私の解釈は、Y さんのコメントへの返事として書いておきました。
文科系の学問に私は直接触れた経験がありませんが、枝葉末節への拘泥がありますか。たとえば、文学では、自然科学が素粒子、分子構造、DNAの塩基配列など、基本構成へ遡るのと同様に、作品の基本成分である単語の使い方まで細かく分析することは、ある程度必要であるように思えます。しかし、作品が総体として表出している思想の把握がより重要でしょう。「魑魅魍魎化」があるとすれば、改革されなければなりません。
Y 01/04/2005 18:54
Ted さんのレスの前半部分のみについて述べますね。そもそも、彼女はなんでそんなに「哲学的」になって、短歌に「絶対性」まで生半可に付与するために、「客観性」を重要としているんですか。「その歌を読んだときまでの自分の知識と経験、それに想像力のすべてがかかってい」て、「相対的なものでしかない」、その通りでございます。(でもこうして彼女が言葉にすると大変うそくさいですね。)短歌を味わうって、そういうこと「以上」の何か「絶対性」「客観性」の中に「参入」せねばならないものなのでしょうか。
M☆さんの書かれている、「国語の問題に『答え』はない」、これが広く文学というもののある意味「すべて」ですよ。もちろん相対的で、主観的で、体験的に理解するもので、体験を超えるものは自己内主観性において想像によって感じ、理解し、味わって考えていくものです。
四方館さんはとっくにおわかりの上でのコメントだと思いますが、たとえば、TRちゃんの短歌を私が読む(鑑賞する)とき、「しびれるー」「おお、これは決まってる」、そういう主観的感想、感慨、感動、それを最も尊重しないで、門外漢で(もいいんですけどね)哲学の絶対性や客観性でもって価値を上昇させて安心して、どうするんですか。そんなの芸術論ですか。疑問でたまりません。
先人の鑑賞を多く読むのはいいんですけど、芸術としての短歌に、「無知のための誤読と独断は避けたい」って、その態度、なんですか。誤読とか独断とか、「個人的体験」として(場合によっては普遍性もあたえられつつ)詠まれた短歌を読む際に、起こりうるんですか。読んで感じたもの、正直に思ったこと、それがすべてではないですか。そんなに芸術の「主観性」の「値打ち」に彼女は鑑賞者、批評者として「自信」がないんでしょうか。
文学と文芸評論は全然違うって、だいたい知っていたんですが、短歌の世界でもこうだとは。いや、こういう役割を負わねばならない職種の方が必要かもしれませんが、芸術=芸術…1=1という自己同一性を維持する力のない芸術鑑賞者、批評者というのは、いったいどういう自己認識をもっていらっしゃるのか、まったく、哲学を甘くみるんじゃない! てことです。
★Tedさんに対して言っていることではないんで、一応私、哲学の大学院出てますので、このコメント、信頼してくださいね。
Ted 01/04/2005 20:25
始めに私の返信による誤解を二つ、正させていただきます。
第一に、「哲学的直観に、誤植でなく言及していると思います」は、この中に引用の括弧はありません。つまり、哲学で使われる直観の語を、竹西さんはあえてここで使っている、という私の解釈を、私自身が哲学的直観という言葉を使って述べたのであり、竹西さんが哲学的という言葉を使っているのではありません。
第二に、絶対性という語も引用の括弧なしで書きました。これは、「相対性」と、これの対語ではない「客観性」を結ぶために私が挿入したものなのです。「相対性」を主観性と言い換えて、これを「客観性」に変えるプロセスを竹西さんは述べている、といった方がよかったかと思います。
ということで、Y さんの第1パラグラフの竹西さん批判は、私の文が与えた誤解によるものです。そして、その誤解が、不幸にして、第 3 パラグラフの「哲学の絶対性や客観性でもって価値を上昇させて安心して、どうするんですか」というご意見や、最終パラグラフの「哲学を甘くみるんじゃない!」というご意見にも影響していると思います。
次に、第 6 パラグラフの「芸術の『主観性』の『値打ち』に彼女は『自信』がないんでしょうか」というご意見について一言。この随筆からは、一般読者の主観的な読みの値打ちについて竹西さんは肯定するか否定するかは分かりません。しかし、評論家である彼女自身としては、主観的鑑賞から出発しても、客観性を与えなければ、その鑑賞結果を評論として発表する価値は生じないと考えているといえるでしょう。評論においてのこの態度は、私は少なくとも一つのあり方ではないかと思います。
Y 01/04/2005 21:03
Ted さんが「哲学的」なものだと、竹西さんの文章をそのように解釈されていて、竹西さんご自身はそうは明記されていない、ということはわかっているんです。大切な事はこれです。四方館さんのブログ、あのほとんどは、演劇などの芸術に対して「芸術的な表現」でもって、受け止めた感触や考えを述べておられますよね。一般に評論として発表する際にも、その際こそ、芸術に対して芸術的に答える、その「魂のこもったわざ」が必要です。客観性、というもので一般に発表する価値があると考えるのは、非常に「客観性」を甘くみている、ということで、これは多くの心理学研究などにもいえます。
主観的な世界を客観的に観る(この漢字ですよね)、というのは大事ではないとは言わないのですが、「芸術を味わうこと」を人に語り、伝える際の上位価値には来ない、ということです。
これは、Ted さんの取り組まれている科学にも言えることだと思うのです。「現時点での科学的成果」の客観性、絶対性(哲学用語じゃなくていいですよ)を本当に、真に証明しきることはできない、いずれ次の時代の「科学的成果」にとってかわられる可能性があり、科学は常にその意味で、限界があり、客観性を証明しきれない、けれども「現時点での価値は認められるし社会的貢献もできる」…これ、相対的な世界そのものですよね。
Y 01/04/2005 21:16
別の言い方しますと、芥川賞の審査員にも、パガニーニコンクールの審査員にも、その文学作品や音楽演奏に対して絶対性や客観性を付与して、審査しているわけではないんです。どれだけ多くの一般大衆にその芸術がうけいれられるかをはかっているわけでもない。だけれども審査してるし、評論も立派にしている。そのようなお仕事は私も必要だし、大変ですねと、認めているのです。
客観性、絶対性とは何か、哲学の世界ではこれを究極の次元で考えつめていきますが、もう本当に厳しい思考の世界で、それですら、「真の」客観性、絶対性といったものは語りえないのです。(哲学に科学論というのは大いにあります。)
私たち、人間なのだから、それでいいのです、ゆるされているんです。
Y 01/04/2005 22:16
そもそも芸術のオリジナルな形ではなく、芸術の素晴らしさの紹介や再配布、という役割を担う芸術評論家という職業は、その綴るもの(評論)が元の芸術を味わうのとまた違っていてよいんですが、とにかく「もう一度芸術的に味わわせてもらった」と評論の読者が感じるものを綴らなくてはならない職業だと思うのです。でなければ、元の芸術、たとえば短歌そのものを読者が自分で探し出して読んだほうがよい、と思われませんか。評論家はその「元を味わう機会がなかなかない」一般人のために、評論でその芸術をひろめているんですよね。
人文系の学術研究の、概念の学術解釈の歴史、歴史…と果てしなく拘泥して、がちがちになってしまう世界は、四方館さんのおっしゃるとおり、どうにかしなければならないと思います。
Ted 01/05/2005 08:52
「芸術評論家という職業は、…『もう一度芸術的に味わわせてもらった』と評論の読者が感じるものを綴らなくてはならない」と、Y さんがおっしゃったのに似たことを竹西さんも書いています。斎藤茂吉、折口信夫、窪田空穂ら先人の鑑賞について、「考証どまりならぬ、情緒の生気も瑞々しい鑑賞で、ともに創作への道が開けている」という表現で賞賛しているのです。
そしてまた、客観性について述べる先に、「歌の鑑賞で私が何よりも大事にしたいのは、自分がまずその歌に直観的に反応できるかどうか」(下線は Ted)だと書いています。このことは、彼女は、自分が発表する評論において客観性の付与が必要と考えながらも、それを必ずしも第一義とはしていないことを示しています。
さらに、竹西さんが文末近くで「読みに限りはない」といっていることから、彼女も客観性が「真の」客観性ではありえないことを十分承知していると思われます。
私が元の記事を書いたのは、芸術の鑑賞においても客観性を必要と考える人がいることを面白く思い、そのことを紹介したいと思ったからでした。したがって、竹西さんの和歌評論についての考え方の全貌を正しく伝える文にはなっていなかったことをお許し下さい。
哲也 01/04/2005 23:06
他の方のコメントが、私にとっては、非常に難しく、何度か読み返してみたのですが、
よくわかりません。(陳謝)で、とりあえず、のんきなコメントで
申し訳ないのですが、一言だけ(^^)
>芸術分野の専門家が対象に取り組む仕方は、科学者の自然への取り組みに共通するものがある
というのは、ふむふむと思いました。というか、逆に、科学者の取り組み方に、芸術分野の専門家の方の取り組み方が似ているのが問題なのではないでしょうか。それほどまでに、科学的方法論というのは、蔓延しているのかもしれません。
ぜんぜん検討違いのコメントで、申し訳ありませんでした。
Ted 01/05/2005 09:02
哲也さんこそは、私が元記事の中心としたことにコメントして下さいました。ただ、私は、「似ているのが問題」とは思いません。似た取り組み方が当然あってよい、と思います。芸術も科学も共に、美や真実を追求する人間の営みなのですから。
M☆ 01/05/2005 14:50
色々な意見があり、論じ方もあり、それを捉える十人十色の感じ方があり…。専門家の意見を通じて(私のような)素人がそうした機会に触れられるのありがたいことです(^_^)。わかりやすく説明してくれてありがとうございます! Y さんのコメント、四方館さんのコメント、それぞれにやはり私(素人)なりの感じ方があり、それらに触れられたことをこの場を借りて感謝致します(^_^)
Ted さん、たくさんの返信ありがとうございます。また遊びに来ますね!
Ted 01/05/2005 17:40
できるだけ幅広い方がたに、毎回何かを掴んで貰えるようなブログを書いて行きたいと思っています。コメントを再さい寄せて下さることを期待しています。
原稿用紙 9.5 枚程度の随筆「読みの行方」は、ほぼ同じ長さの三つの部分に分かれている。最初の部分では、ポリーニのピアノ演奏について、その特徴が、「ひたすら原曲の事実に近づこうとする」楽譜の「読み」から来る正確さであることが述べられる。これは本論への導入部をなす。
第二の部分で本論が始まる。それは、著者が仕事の一つとしている和歌の評論においての「読み」に関するものである。まず大切なことは自分が「直観的に反応できるかどうか」である、という。次いで、「反応に客観性が与えられるかどうか」を問題にする。そして、「テキストへの反復接近」の重要性を述べる。反応の客観性は、評論をする専門家としての「読み」の厳しさに関わるものであり、一般読者には必ずしも求められるものではないであろう。
最後の部分で、歌集の中での歌の位置が、その歌を単独で鑑賞したときには得られない「読み」を与えることに言及する。このことは、与謝野晶子の歌集『草の夢』の巻頭歌「劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」の鑑賞から、著者が最近自ら学んだのである。そして、それは「読み」の新たな領域であり、「読みに限りはない」と述べる。
ピアノ演奏においての「原曲の事実」といい、和歌の評論における「反応の客観性」といい、芸術分野の専門家が対象に取り組む仕方は、科学者の自然への取り組みに共通するものがあることを悟らせてくれる一文である。そしてまた、「直観的に反応できるかどうか」も、科学研究の動機と異なるところはない。
- 日本の伝統をふまえた名随筆集:竹西寛子「哀愁の音色」 (2003).
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
Y 01/04/2005 09:47
和歌に対して「直観的に反応」できるかどうか、とありますが、「直感」なのか、哲学用語としての「直観」なのか、どちらだと Ted さんは判断されますか、竹西さんにきくわけにいかないので。私なら和歌という芸術にまずじかに接するなら、「直感的に反応」のほうだと思うんですが。
「テキストへの反復接近の重要性」は、これは「オリジナルなもの(原典、原書)に繰り返し向き合うことの重要性」と言い換えられるでしょうね。もちろん重要なことです。科学研究で、オリジナルなデータに丁寧に向き合う重要性と、共通した部分があるかもしれませんね。たえず新しい発見があり、より真髄の部分があとでみえてくるかもしれませんし。
では、最初の「直感的な反応」と、この「反復接近」の重要性、とは、何もプロセス的に関連づけられていないのですか。だとしたら、随筆としてその点に何か物足りなさを感じるというか、それ自体を読んでいないのでなんともいえませんが。
歌集の中での歌の位置、は、それこそ歌集としての芸術を創るなら、当然重要になってくるわけです。なので、原文を読んでいないですし、Ted さんからご紹介いただくこの機会に、この随筆について再度、Ted さんの思われることを、上記を元に、付記していただければ。
Ted 01/04/2005 16:22
竹西さんの随筆では、「直観的に反応できるかどうか」の言葉が出てくる前のパラグラフに、「先人の鑑賞は出来るだけ多く読んでおきたい。無知のための誤読と独断は出来るだけ避けたい」とあります。したがって、著者は、明言はしていないものの、評論家としての歌の読み方を問題にしており、直感より少し進んだ、哲学的直観に、誤植でなく言及していると思います。
「直観的反応」は、「その歌を読んだときまでの自分の知識と経験、それに想像力のすべてがかかってい」て、「相対的なものでしかない」と著者は述べ、そこへ絶対性を付与する意味で、「客観性」と「反復接近」の重要性へと話を進めています。これが Y さんがお尋ねの「プロセス的関連」になっていると思います。
私は竹西さんの随筆を、相当短くして紹介したので、Y さんがおっしゃるように「歌集の中での歌の位置、は、それこそ歌集としての芸術を創るなら、当然重要」で、なぜそれが「『読み』の新たな領域」か、と疑問に思われて当然です。
紹介を略しましたが、与謝野晶子の歌についての話の前に、「さまざまのかたちで作られている和歌の集の中から、任意の一首を取り出して鑑賞するのは読者の自由である。本来ならば、…(略)…。しかし、…(略)…和歌一首、独立して読めないというものでもないので、読者の自由は大幅に行使される。それに、例外はあるものの、勅撰集、準勅撰集、私撰集、私家集など、基本の単位はおおむね独立した一首である」という記述があります。そして、問題の晶子の歌も「よく単独で引かれる一首」で、「汎く晶子の歌人としての自負と覚悟を詠んだものと見られ」ていたのです。しかし、竹西さんは、歌集の中での位置から、それが「晶子の歌作りの想像以上の苦しみと、詩を仰ぐ志の高さとの、孤独で苛酷なたたかいを具体的に示して切実」であることを知ったそうです。
和歌の独立性が、いままでの多くの評論家から「歌集の中での歌の位置」を見るという基本的鑑賞態度を奪っていたのでしょう。このことに思いを致すならば、竹西さんの随筆は、研究において基本に立ち返ることの重要性を私たちに教えているものともいえましょう。
M☆ 01/04/2005 11:44
「詠む」側と「読む」側の捉え方は必ずしも一致するわけではないだろうけど、やはり問題なのは「読む」側がどう感じ、どう取り組むかなのだろうなぁ…。学生時代国語の先生が、国語の問題に「答え」はないと言っていたのを思い出しました。「テキストへの反復接近」という表現は初めて聞きました。どういう意味なのかな?!
Ted 01/04/2005 16:43
「国語の問題に『答え』はない」とおっしゃったのは、拡大して言えば、芸術はいろいろな鑑賞のされ方がある、ということになるでしょう。しかし、芸術の評論家は、自分に固有の見方をするのではなく、作品の背景や作者の意図を捉えたり、多くの人びとの受けとめ方の拡がりや平均値をも見極めたりする、というような難しい役割を負わされているといえるでしょう。
「テキストへの反復接近」とは、和歌の場合については、「歌を繰り返して読む」ことと、竹西さんは書いています。その「過程で消えてしまうような反応」は客観性のないものであり、評論家としては「追う必要もない」のだそうです。
四方館 01/04/2005 11:55
今日の毎日新聞で、利根川進氏が、「読解力」の大切さについて語っていましたね。昨年末に話題になった、到達度各国比較での低落傾向を受けての発言ですが。
「読み」の問題は基本中の基本だし、基本とは生涯を通じて研鑽を求められることでもありますから、絶えざる問い直しのうちにあるともいえますね。
Y さんの「直感」かそれとも「直観」かについては、著者は敢えて「直観」としていると思います。本質的なものへいかほどに肉薄しえているかでないと、その反応に客観性を担保できるかどうかを問うていくこと自体、どれほど必然的な価値があるかとなりますからね。
「読み」の問題として「テキストへの反復接近」の重要性は、勿論そのとおりだと思いますが、私など門外漢からみれば、それこそ「読みの歴史」とでもいうべきような膨大な知識量、この蓄積の量がそれこそ問題で、いわゆる専門家である学者諸氏は何故にこうまで枝葉末節に拘っていらっしゃるかと、よくため息をつきたくなります。例えば、昨年亡くなった網野善彦さんの史学など、長い間、歴史学の本流からは無視されてきましたよね。学界という世界が魑魅魍魎化してしまいがちなのをなんとかして貰いたいですね。
Ted 01/04/2005 17:11
利根川さんが到達度各国比較での低落傾向を受けて「読解力」をいわれたのは、算数や理科の力があったとしても、問題を正確に理解する国語の力がなければ、問題に正答できないので、国語の教育がたいへん重要、ということなのでしょう。
「直感」か「直観」かについての私の解釈は、Y さんのコメントへの返事として書いておきました。
文科系の学問に私は直接触れた経験がありませんが、枝葉末節への拘泥がありますか。たとえば、文学では、自然科学が素粒子、分子構造、DNAの塩基配列など、基本構成へ遡るのと同様に、作品の基本成分である単語の使い方まで細かく分析することは、ある程度必要であるように思えます。しかし、作品が総体として表出している思想の把握がより重要でしょう。「魑魅魍魎化」があるとすれば、改革されなければなりません。
Y 01/04/2005 18:54
Ted さんのレスの前半部分のみについて述べますね。そもそも、彼女はなんでそんなに「哲学的」になって、短歌に「絶対性」まで生半可に付与するために、「客観性」を重要としているんですか。「その歌を読んだときまでの自分の知識と経験、それに想像力のすべてがかかってい」て、「相対的なものでしかない」、その通りでございます。(でもこうして彼女が言葉にすると大変うそくさいですね。)短歌を味わうって、そういうこと「以上」の何か「絶対性」「客観性」の中に「参入」せねばならないものなのでしょうか。
M☆さんの書かれている、「国語の問題に『答え』はない」、これが広く文学というもののある意味「すべて」ですよ。もちろん相対的で、主観的で、体験的に理解するもので、体験を超えるものは自己内主観性において想像によって感じ、理解し、味わって考えていくものです。
四方館さんはとっくにおわかりの上でのコメントだと思いますが、たとえば、TRちゃんの短歌を私が読む(鑑賞する)とき、「しびれるー」「おお、これは決まってる」、そういう主観的感想、感慨、感動、それを最も尊重しないで、門外漢で(もいいんですけどね)哲学の絶対性や客観性でもって価値を上昇させて安心して、どうするんですか。そんなの芸術論ですか。疑問でたまりません。
先人の鑑賞を多く読むのはいいんですけど、芸術としての短歌に、「無知のための誤読と独断は避けたい」って、その態度、なんですか。誤読とか独断とか、「個人的体験」として(場合によっては普遍性もあたえられつつ)詠まれた短歌を読む際に、起こりうるんですか。読んで感じたもの、正直に思ったこと、それがすべてではないですか。そんなに芸術の「主観性」の「値打ち」に彼女は鑑賞者、批評者として「自信」がないんでしょうか。
文学と文芸評論は全然違うって、だいたい知っていたんですが、短歌の世界でもこうだとは。いや、こういう役割を負わねばならない職種の方が必要かもしれませんが、芸術=芸術…1=1という自己同一性を維持する力のない芸術鑑賞者、批評者というのは、いったいどういう自己認識をもっていらっしゃるのか、まったく、哲学を甘くみるんじゃない! てことです。
★Tedさんに対して言っていることではないんで、一応私、哲学の大学院出てますので、このコメント、信頼してくださいね。
Ted 01/04/2005 20:25
始めに私の返信による誤解を二つ、正させていただきます。
第一に、「哲学的直観に、誤植でなく言及していると思います」は、この中に引用の括弧はありません。つまり、哲学で使われる直観の語を、竹西さんはあえてここで使っている、という私の解釈を、私自身が哲学的直観という言葉を使って述べたのであり、竹西さんが哲学的という言葉を使っているのではありません。
第二に、絶対性という語も引用の括弧なしで書きました。これは、「相対性」と、これの対語ではない「客観性」を結ぶために私が挿入したものなのです。「相対性」を主観性と言い換えて、これを「客観性」に変えるプロセスを竹西さんは述べている、といった方がよかったかと思います。
ということで、Y さんの第1パラグラフの竹西さん批判は、私の文が与えた誤解によるものです。そして、その誤解が、不幸にして、第 3 パラグラフの「哲学の絶対性や客観性でもって価値を上昇させて安心して、どうするんですか」というご意見や、最終パラグラフの「哲学を甘くみるんじゃない!」というご意見にも影響していると思います。
次に、第 6 パラグラフの「芸術の『主観性』の『値打ち』に彼女は『自信』がないんでしょうか」というご意見について一言。この随筆からは、一般読者の主観的な読みの値打ちについて竹西さんは肯定するか否定するかは分かりません。しかし、評論家である彼女自身としては、主観的鑑賞から出発しても、客観性を与えなければ、その鑑賞結果を評論として発表する価値は生じないと考えているといえるでしょう。評論においてのこの態度は、私は少なくとも一つのあり方ではないかと思います。
Y 01/04/2005 21:03
Ted さんが「哲学的」なものだと、竹西さんの文章をそのように解釈されていて、竹西さんご自身はそうは明記されていない、ということはわかっているんです。大切な事はこれです。四方館さんのブログ、あのほとんどは、演劇などの芸術に対して「芸術的な表現」でもって、受け止めた感触や考えを述べておられますよね。一般に評論として発表する際にも、その際こそ、芸術に対して芸術的に答える、その「魂のこもったわざ」が必要です。客観性、というもので一般に発表する価値があると考えるのは、非常に「客観性」を甘くみている、ということで、これは多くの心理学研究などにもいえます。
主観的な世界を客観的に観る(この漢字ですよね)、というのは大事ではないとは言わないのですが、「芸術を味わうこと」を人に語り、伝える際の上位価値には来ない、ということです。
これは、Ted さんの取り組まれている科学にも言えることだと思うのです。「現時点での科学的成果」の客観性、絶対性(哲学用語じゃなくていいですよ)を本当に、真に証明しきることはできない、いずれ次の時代の「科学的成果」にとってかわられる可能性があり、科学は常にその意味で、限界があり、客観性を証明しきれない、けれども「現時点での価値は認められるし社会的貢献もできる」…これ、相対的な世界そのものですよね。
Y 01/04/2005 21:16
別の言い方しますと、芥川賞の審査員にも、パガニーニコンクールの審査員にも、その文学作品や音楽演奏に対して絶対性や客観性を付与して、審査しているわけではないんです。どれだけ多くの一般大衆にその芸術がうけいれられるかをはかっているわけでもない。だけれども審査してるし、評論も立派にしている。そのようなお仕事は私も必要だし、大変ですねと、認めているのです。
客観性、絶対性とは何か、哲学の世界ではこれを究極の次元で考えつめていきますが、もう本当に厳しい思考の世界で、それですら、「真の」客観性、絶対性といったものは語りえないのです。(哲学に科学論というのは大いにあります。)
私たち、人間なのだから、それでいいのです、ゆるされているんです。
Y 01/04/2005 22:16
そもそも芸術のオリジナルな形ではなく、芸術の素晴らしさの紹介や再配布、という役割を担う芸術評論家という職業は、その綴るもの(評論)が元の芸術を味わうのとまた違っていてよいんですが、とにかく「もう一度芸術的に味わわせてもらった」と評論の読者が感じるものを綴らなくてはならない職業だと思うのです。でなければ、元の芸術、たとえば短歌そのものを読者が自分で探し出して読んだほうがよい、と思われませんか。評論家はその「元を味わう機会がなかなかない」一般人のために、評論でその芸術をひろめているんですよね。
人文系の学術研究の、概念の学術解釈の歴史、歴史…と果てしなく拘泥して、がちがちになってしまう世界は、四方館さんのおっしゃるとおり、どうにかしなければならないと思います。
Ted 01/05/2005 08:52
「芸術評論家という職業は、…『もう一度芸術的に味わわせてもらった』と評論の読者が感じるものを綴らなくてはならない」と、Y さんがおっしゃったのに似たことを竹西さんも書いています。斎藤茂吉、折口信夫、窪田空穂ら先人の鑑賞について、「考証どまりならぬ、情緒の生気も瑞々しい鑑賞で、ともに創作への道が開けている」という表現で賞賛しているのです。
そしてまた、客観性について述べる先に、「歌の鑑賞で私が何よりも大事にしたいのは、自分がまずその歌に直観的に反応できるかどうか」(下線は Ted)だと書いています。このことは、彼女は、自分が発表する評論において客観性の付与が必要と考えながらも、それを必ずしも第一義とはしていないことを示しています。
さらに、竹西さんが文末近くで「読みに限りはない」といっていることから、彼女も客観性が「真の」客観性ではありえないことを十分承知していると思われます。
私が元の記事を書いたのは、芸術の鑑賞においても客観性を必要と考える人がいることを面白く思い、そのことを紹介したいと思ったからでした。したがって、竹西さんの和歌評論についての考え方の全貌を正しく伝える文にはなっていなかったことをお許し下さい。
哲也 01/04/2005 23:06
他の方のコメントが、私にとっては、非常に難しく、何度か読み返してみたのですが、
よくわかりません。(陳謝)で、とりあえず、のんきなコメントで
申し訳ないのですが、一言だけ(^^)
>芸術分野の専門家が対象に取り組む仕方は、科学者の自然への取り組みに共通するものがある
というのは、ふむふむと思いました。というか、逆に、科学者の取り組み方に、芸術分野の専門家の方の取り組み方が似ているのが問題なのではないでしょうか。それほどまでに、科学的方法論というのは、蔓延しているのかもしれません。
ぜんぜん検討違いのコメントで、申し訳ありませんでした。
Ted 01/05/2005 09:02
哲也さんこそは、私が元記事の中心としたことにコメントして下さいました。ただ、私は、「似ているのが問題」とは思いません。似た取り組み方が当然あってよい、と思います。芸術も科学も共に、美や真実を追求する人間の営みなのですから。
M☆ 01/05/2005 14:50
色々な意見があり、論じ方もあり、それを捉える十人十色の感じ方があり…。専門家の意見を通じて(私のような)素人がそうした機会に触れられるのありがたいことです(^_^)。わかりやすく説明してくれてありがとうございます! Y さんのコメント、四方館さんのコメント、それぞれにやはり私(素人)なりの感じ方があり、それらに触れられたことをこの場を借りて感謝致します(^_^)
Ted さん、たくさんの返信ありがとうございます。また遊びに来ますね!
Ted 01/05/2005 17:40
できるだけ幅広い方がたに、毎回何かを掴んで貰えるようなブログを書いて行きたいと思っています。コメントを再さい寄せて下さることを期待しています。
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