2005年3月24日木曜日

「Vicky のところへ遊びに行ったことない?」

高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952 年 4 月 6 日(日)快晴

 明日「現代美術展」でも見に行く約束でもしようと思って、先日来てくれた HZ 君を訪れた。家はすぐに分かった。なるほど、白い蔵があって、門も扉のついた立派なものだった。新しい表札には彼の名が上にあり、下には祖母と母と思われる名前が並んでいた。戸を B6 版の横幅ほど開き、呼び鈴の鳴り止むのを待って、「ご免下さい」という。普通の友だちとちょっと違う扱いをしなければならないように家の構えが出来ている。静かだと思っていると、犬が寄って来た。もう一度声をかける。どっしりしたお婆さんが出て来られたから、「T夫君いらっしゃいますか」という。その答として映画に行っていて、5 時頃でなければ帰らない旨を聞かされた。丁寧に謝ってそこを出ると、すぐに HY 君のところへ行った。
 HY 君はネルのシャツが一番上である姿で出て来た。「また、遊びに来たがやけど」というと、「大掃除しとって、ダメや。す…」「すまん」といわれないうちに、こちらも謝った。「HZ ちゅうやつ知っとるけ」と続けると、「友だちか」といって、家を教えてくれようとした。「いま行って来た」と断る暇もなく教えられてしまったので、「ありがとう」と、彼が初めて教えてくれたように思わせて、また謝って別れた。停留所付近で KS 君の一行を見たので、彼の肩を叩いて、「こんにちは」といってやった。

 Sam と別れてから、量は多くないが、これだけきっぱりと口の開閉が出来たのに、Sam に対しては、どうして「しよう!」の一言がいえなかったのだろう。いわなかったことを弁解する一切の理由が成立しないことを知り、それを知っているだけではダメだということも …。

 それよりも 3 時間くらい前には、KZ 君のメモ書きを Jack の家の玄関に見て、Jack に会うことをあきらめ、SNN 君の家へ向かった。数メートルで彼の家という角で立ち止まると、ズックを履いて、青い風呂敷の少し大きな包みを持った彼が、ぼくの進行方向と直角な方から、ちょうど帰って来るところだった。彼は包みを家に置き、ノート 1 冊を手にして、ぼくと並んで歩き始めた。漢文の参考書を何とか、と彼はいった。買ってきたのか、買いに行こうというのか分からなかったが、彼の家を訪ねる誰でもを本屋へ引っ張って行く彼のことだから、たぶん後者だろうと判断した。それが正しかったことは、すぐに確かめられた。出し抜けに、彼は
 「Vicky のところへ遊びに行ったことない?」
と聞いた。ぼくはなぜか少しも驚かなかった。晴れ渡った空は広いが、われわれの思考範囲は狭いなと思いながら、
 「どこ?」
と聞き返した。家の位置を聞いたつもりである。
 「B 町」
と彼は答えた。それは住所録で知っている。彼は、「だが、どの辺か知らない」とつけ加え、「Jack とでも行ったことあるかと思った」といった。昨年の昨日のことをぜんぜん知らない彼が、こんなことをいうとは、彼の眼力もすばらしいものだ。——彼に頼みたいことが出来た。——
 SNN 君とぼくは Jack の家へ寄り、一行は Jack と KZ 君を加えて 4 人になった。しかし、SNN 君を福音館に残し、3 人が Sam のいたところへ行ったのだ。Sam に会って、Jack とKZ 君を振り払ったときはなぜか、せいせいしたのだったが、Sam のあれほどの好意に、ぼくは …。Sam はぼくの根本的な欠点をずばりと指摘した。たしかに、指さない指と衝かないことばで、指摘した。(1)

 "A poet could not but be gay." については、Sam があまりに奇麗に訳を書いていたので、多分合っているだろうと考えて、自分で正確に訳してみようとしなかったのだ。悪かったよ。
 「春の唄」はあの頃のラジオ歌謡だったのか [1]。それで、あの思い出にこの歌が付着しているのだ。
♪ラララ 紅い花束車に積んで
 春が来た来た 丘から町へ
 スミレ買いましょ あの花売りの
 かわい瞳に 春のゆめ
 … ♪
[Samによる後日の欄外注記]

(1) 表現に関するぼくの心遣いはみごとに伝搬された。というより、Ted に看破されてしまった。しかし、Ted がこれだけのことを汲んでくれたのなら、あれだけ長く時間を費やす必要はなかった。Ted が根本的な欠点を指摘されたというのなら、ぼくは自分の根本的な欠点をさらけ出したのかも知れない。

[後日の注記]

[1] 「春の唄」はこの日記より約 1 年前、つまり 1951(昭和 26)年のラジオ歌謡だったと思ったようだが、それは勘違いだった。ラジオ歌謡に使われたのは、1947(昭和 22)年だった。(こちらら参照。)

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 03/26/2005 00:42
 多事情で Ted さんと同じくらい忙しくなってしまったので、今やっときちんと来ました。素晴らしい名日記です。客観性の高い文章はある程度多くの人に見出せるでしょうが、Ted さんの日記の「観察性の高さ」は違います。それは「心」、つまりご性格や体験に対する心情の動きの、「秘」密的性質や痛々しさのない温かさの希少な魅力や、人間的な体験に対してほとんどできない、「1=1」と過大も過小もなく言語表現・記述する丁寧な誠実さなのですよね。
「友だち」と「達」を私も(ヘッセ→全・高橋健二訳のように)ひらがな表記したいのですが、いつもブログ分量を抑えることを考えていますので漢字の多用という妥協は沢山せざるをえません。「指さない指と衝かないことばで、指摘した。」これはどうしてこんなに素晴らしい、上に書いた「観察性」が出るのでしょうね。

Ted 03/26/2005 08:04
 コメントを貰ったお陰で、元記事を読み返し、ミスを 2 カ所見出して、修正しました。また、Sam による後日の欄外注記を書き忘れていたことにも気づき、追加しました。
 拙いながら、一生懸命に書きつづっていた高校生時代の日記を捨てがたく、デジタル化してお目を汚していますが、すてきな言葉で批評して貰えると嬉しいです。ありがとうございました。

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