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2009年12月31日木曜日

ライン河、マイン河の船旅(32) (Cruise on the Rhine and Main 32)

ネコ城。

 旅の9日目、11月25日のライン河古城渓谷クルーズ。ローレライを通過して間もなく、右岸の丘の上にネコ城(Burg Katz、上の写真)が見える。

 この城は現在、日本人が持ち主で、一般公開されておらず、プライベートな高級ホテルとしてオーナーの知人等が宿泊出来るという。ネコ城の名の由来としては、この城を建てた人物が猫のような顔をしていたという説、城の一部がネコに似ていたという説、城を建てたカッツェンエルンボーゲンのヴィルヘルム2世伯爵(カッツはドイツ語でネコの意)の名前にちなんでいるという説があるそうだ [1]。ところで、現在の城の大部分の姿も、左斜めを向いている面を前面とすれば、それは、両端の塔の三角屋根が耳、窓が目、鼻、口になっている頭部をなし、後部の太い円筒形の塔が驚いたり威嚇したりするときの太くなって立ち上がった尻尾になっているネコに見えるではないか。これは後世になって、名前にちなんだ改築をしたためだろうか。

ザンクト・ゴアールの街。

ラインフェルス城。

 船がネコ城の正面を通る頃には反対側の左岸にザンクト・ゴアールの街(Sankt Goar、上の1枚目の写真)、次いでその背後の丘に立つラインフェルス城(Burg Reinfels、上の2枚目の写真)が見えて来る。この城はライン河を見下ろす最大の城で、1245年にカッツェンエルンボーゲンのディーター5世によって建てられ、1797年にフランス革命軍によって部分的に破壊された。現在は、ホテル、ウェルネスセンター、レストラン、博物館として利用されている [2]。

ネズミ城。

 撮影の手を休めることほんのわずかで、今度は右岸、ヴェルミッヒ (Wellmich) の村の上にネズミ城(Burg Maus、上の写真)が現れる。この城の建設はトリアー大司教・先帝侯ボエムント2世 (Erzbischof Boemund II. von Trier) が1356年に開始し、後継の先帝侯たちによって30年間続けられた。ネズミ城という名は、30年に及ぶこの城の建設期間中、ネコ城のカッツェンエルンボーゲンの伯爵たちがネコに食われるネズミとあざ笑ったことに由来するといわれている [3]。

文献

  1. 「ネコ城」, ウィキペディア日本語版 [2009年4月29日 (水) 04:59].

  2. "Burg Rheinfels," Wikipedia, the free encyclopedia (3 April 2009 at 10:51).

  3. "Burg Maus," Wikipedia, the free encyclopedia (22 December 2009 at 04:34).

2009年12月30日水曜日

ライン河、マイン河の船旅(32) (Cruise on the Rhine and Main 32)

ローレライ付近を走る列車とトンネル。

 旅の9日目、11月25日のライン河古城渓谷クルーズ。船で配布された絵地図では、上の写真のような、列車の通るトンネルのある岩のところにローレライと書いてある。そこで、その辺りの岩の写真を撮ったりもしたが、実はローレライはもっと先であった。上の写真を撮ってから約15分後に、ようやく河岸に "Roreley" の標識が見えて来た(下の写真)。

"Roreley" の標識が見え始める。

 ここはライン河流域の町ザンクト・ゴアルスハウゼン近くになり、ローレライとは水面から130mほど突き出た岩山のことである(下の1枚目の写真)。この岩山はスイスと北海をつなぐこの河川で一番狭いところにある。この辺りは、流れが速く、水面下に多くの岩も潜んでいるため、かつては多くの舟がここで事故を起こした。現在は幾度にも渡る工事によって大型船が航行できるまでに川幅が広げられており、過去の危険を思わせるような景観ではなくなっている。

 ここが航行の難所だったことから、金色の櫛を持って岩にたたずむ美しい乙女に船頭が魅せられ、船が河の渦の中に飲み込まれてしまうという伝説が生まれた。ハインリッヒ・ハイネの "Ich weiss nicht was soll es bedeuten ..."(近藤朔風の訳によれば「なじかは知らねど…」)で始まる「ローレライ」は、いまでもドイツ語の詩の中で最も有名なものの一つである(前節からここまで、[1] を参考にした)。"Roreley" の標識から少し下流の河岸に、伝説の乙女を表したローレライ像がある(下の2枚目の写真)。

ローレライ。

ローレライ像。

文献

  1. 「ローレライ」, ウィキペディア日本語版 [2009年11月8日 (日) 22:22].

2009年12月29日火曜日

ライン河、マイン河の船旅(31) (Cruise on the Rhine and Main 31)

プファルツグラーフェンシュタイン城。

 旅の9日目、11月25日のライン河古城渓谷クルーズ。 先の写真のグーテンフェルス城の下には、ファルケナウ (Falkenau) の名で知られる岩盤島に、軍艦のような形をしたプファルツグラーフェンシュタイン城 (Burg Pfalzgrafenstein) がある(上の写真)。この城は1338年に建て始められ、1755年まで追加工事が行われた。現在は14世紀のバロック期色彩様式に復旧され、博物館となっている。ただし、14世紀の条件を保つため、電気や手洗いの設備もないそうだ [1]。

船の後方へ去って行くグーテンフェルス城。

 このあとでグーテンフェルス城をまた撮影している(上の写真)。先には向かって正面やや右寄りの姿を撮ったが、今度は船の右手にあって後方へ去って行く姿なので、向って左斜めからの眺めとなっている。

 このあたりの航行中に、船では香料入りで温めて飲む赤ワイン、グリューヴァインをマグカップに注いでサービスされた。帰国後もその味が忘れられず、デパートで求めたものを楽しんでいる。

シェーンブルク城。

 数分後には、左手にシェーンブルク城 (Burg Schönburg) が見えて来る。この城の一部は現在ホテルとして利用されている。赤い色の部分がそうかと思われる。ライン河の左岸はおおむね西側となる。したがって、そちら側の城は、西に傾きかけた太陽のもとで逆光条件となり、撮影が難しいが、このあとローレライのほか、城の多くも幸い右岸に現れる。

文献

  1. "Burg Pfalzgrafenstein," Wikipedia, the free encyclopedia (16 October 2009 at 01:42).

2009年12月28日月曜日

ライン河、マイン河の船旅(30) (Cruise on the Rhine and Main 30)

シュターレック城。

シュターレック城とバッハラッハの街。

 旅の9日目、11月25日のライン河古城渓谷クルーズ。 シュターレック城とその下のバッハラッハの街の写真を前回掲載したが、それを撮ったあとで、もう一度、城だけを撮影し、城ともう少し下流のバッハラッハの街を合わせても撮影した(上の2枚の写真)。2枚目の写真で、右方に見える三つの大きな建物は、右端から、ポステン塔 (Postenturm)、聖ペーター教会 (Kirche St. Peter) 、いまは廃墟となっているヴェルナー礼拝堂(Wernerkapelle; 城のある丘の右端に、ツインビルのように見えるもの)である。

 ポステン塔の「ポステン」とは、バッハラッハの有名なブドウ畑斜面のことであり、多くの画家がこの斜面からの眺めを描いたため、その名が知られるようになった。ポステン塔の上部はバッハラッハの街の最もよい眺望が得られる場所の一つである。

 ヴェルナー礼拝堂は、この場所に倒れ死んで芳香を放っていたヴェルナーという名の少年を聖人として祀るために、町の人びとがヴァチカンの反対を押し切って、1287年から1430年までかかって建てたものである。1689年にフランス人がスターレック城を破壊したときに、その粗石が降り注いで廃墟化したという [1] 。

 上の写真を撮ってから約5分後には、右岸にカウプ (Kaub) の街と、その上110メートルに立つグーテンフェルス城 (Burg Gutenfels [2]) が見えて来る。

カウプの街とグーテンフェルス城。

グーテンフェルス城。

文献

  1. Bacharach.

  2. "Burg Gutenfels," Wikipedia, Die freie Enzyklopädie (23. November 2009 um 14:55 Uhr).

2009年12月27日日曜日

ライン河、マイン河の船旅(29) (Cruise on the Rhine and Main 29)

フュルステンベルク城址近くの町。

 旅の9日目の11月25日午後のライン河古城渓谷クルーズ。ゾーンエック城が後方へ過ぎ去り、沿岸の町の教会などに見とれていると(上の写真)、間もなくフュルステンベルク城址 (Burg Fürstenberg) が左岸の丘に現れる(下の写真)。この城はエンゲルベルト2世・フォン・ベルク(エンゲルベルト1世・フォン・ケルンとも呼ばれる)が1219年に建てたものである [1] 。

フュルステンベルク城址。

 続いて同じく左岸に、バッハラッハの街 (Bacharach) とその上にそびえるシュターレック城 (Burg Stahleck) が望まれる(下の写真)。とんがり屋根の塔を持つシュターレック城は12世紀に建てられ、ローレライの谷付近のライン河を見下ろす位置にある。17世紀に破壊され、20世紀始めに再建された。現在はユースホステルとして利用されている [2]。リューデスハイムの港を出てからここまで、まだ約40分であり、古城渓谷クルーズの前途はなお2時間半ほどある。

バッハラッハの街とシュターレック城。

文献

  1. "Burg Fürstenberg (Rheindiebach)," Wikipedia, Die freie Enzyklopädie (23. Oktober 2009 um 12:18 Uhr).

  2. "Stahleck Castle," Wikipedia, The Free Encyclopedia (17 December 2009 at 10:25).

2009年12月26日土曜日

ライン河、マイン河の船旅(28) (Cruise on the Rhine and Main 28)

ラインシュタイン城。

 [前回は話を少し前に戻したので、以下は前々回(26)の続きとなる。]

 旅の9日目の11月25日午後のライン河古城渓谷クルーズ。エーレンフェルス城址に続いて、今度は逆の左岸にラインシュタイン城 (Burg Rheinstein) が見える(上の写真)。この城は13世紀に造られ、攻撃で破壊されることはなかったが、17世紀から次第に崩壊し始めた。1975年以降、買い取った Hecher 家の努力によって保存されている [1]。

ライヒェンシュタイン城。

 次いで、同じく左岸にライヒェンシュタイン城 (Burg Reichenstein) が現れる(上の写真)。この城の歴史も13世紀にさかのぼる。19世紀末から20世紀始めにかけて再建され、いまは博物館とレストランつきのホテルとして利用されている [2]。

ゾーンエック城。

 間もなく、同じ左岸にゾーンエック城 (Burg Sooneck, Saneck または Sonneck とも) が見える(上の写真)。この城についての最初の記述は1271年になされていることが最近分かったという [3]。船はさらにブドウ畑の丘を見ながら進む(下の写真)。春に訪れるならば、畑やその向こうの林や森は鮮やかな緑色なのだろうが、それらが褐色がかっているのも、古城鑑賞にふさわしく思われる。

ライン河沿岸のブドウ畑。

文献

  1. "Burg Rheinstein: Location and History," (Burg Rheinstein, 2006).

  2. "Burg Reichenstein (Mittelrhein)," Wikipedia, Die freie Enzyklopädie (23. Oktober 2009 um 12:21 Uhr).

  3. "Burg Sooneck," Wikipedia, Die freie Enzyklopädie (17. Dezember 2009 um 12:24 Uhr).

2009年12月25日金曜日

ライン河、マイン河の船旅(27) (Cruise on the Rhine and Main 27)

 この連載の前々回(25)において、ニーダーヴァルト記念碑を見て、ロープウェイで町へ戻ったあと、すぐに帰船したように書いてしまったが、リューデスハイムのマルクト広場でクリスマス・マルクト(クリスマス・マーケット、クリスマス市)を見たことを書き忘れていた。忘れたせいで、たまたま、クリスマスの日にそれを書くことになった。ただし、ヨーロッパのほとんどのクリスマス市は、12月24日には終わっているそうだ。

 それまでに観光した都市のマルクト広場では、クリスマス市の屋台の準備が進んではいたものの、店はまだ開かれていなかった。リューデスハイムでは、クリスマスの一カ月前となって、店が開かれ、幸いにもこの旅でドイツのクリスマス市の雰囲気を味わうことが出来た(下の3枚の写真)。

リューデスハイムのクリスマス市の様子 1。

リューデスハイムのクリスマス市の様子 2。

クリスマス市の中に作られたキリスト生誕場面の飾り。
2枚目の写真の右端にも一部が見えている。

 屋台といっても屋根のついた立派なものである。クリスマス用の飾りやおもちゃなどを売っている店のほかに、赤ワインと香辛料などを温めて作るホット・カクテルの一種、グリューヴァイン (Glühwein) や、ドイツ名物のソーセージなどの飲食を楽しめるところもある。グリューヴァインの店には心が引かれたが、午後、船でサービスされる予定になっていたので、横目で見ながら遠慮した。

2009年12月24日木曜日

ライン河、マイン河の船旅(26) (Cruise on the Rhine and Main 26)

ネズミ塔。

 旅の9日目の11月25日午後、配布されたライン河流域の絵地図を手に、船内放送の案内を耳にしながら、船の甲板で古城渓谷めぐりを楽しむ。リューデスハイムの港を出てすぐ、左岸寄りの島に立つネズミ塔 (Binger Mäuseturm) が見える。この塔は 14世紀以来のものだが、1855年に再建されている。塔の名の由来にかかわる民話が [1] に記されている。マインツの大司教オットー2世は、飢饉の折、独占していた穀物を高価で売っていた。農民たちがこれに抗議すると、オットーは食物を配るといって彼らを空いている納屋へ集め、火を放って焼き殺した。彼が城へ帰ると、ネズミの大群に襲われ、海上の塔へ逃げたが、ネズミたちに生きながら食われて哀れな最期をとげた、という話である。

エーレンフェルス城址。

 ネズミ塔の写真を撮った7秒後には、右岸の丘の中腹に見え始めたエーレンフェルス城址 [Burg Ehrenfels (Hessen)] を撮っている(上の写真)。ここに残る城砦は厚み4.6メートル、高さ20メートルで、二つの角櫓(すみやぐら)は高さが33メートルある [2]。丘の上に古城が矢継ぎ早に見える合間にも、河辺には美しくたたずむ町の様子があり(下の2枚の写真)、カメラを構える手を休めるいとまがない。

ライン河のほとりの町 1。

ライン河のほとりの町 2。

 古城のありかを示したライン河中流域の地図(ドイツ語版)が [3] にある。いま、地図の右下を出発したばかりで、夕刻に地図の中央やや右寄りにあるコブレンツ (Koblenz) を通過するまで、中世の香りをただよわせる多くの古城を見ることになる。狭い地域に城がこれほど並んでいるのは珍しく、その理由は河を往来する船から通行税を取るために、領主たちがこぞって城を建てたためで、城はいわば税関であったという [4]。

文献

  1. "Mouse Tower", Wikipedia, the free encyclopedia (23 November 2009 at 01:09).

  2. "Burg Ehrenfels (Hessen)", Wikipedia, Die freie Enzyklopädie (4. Dezember 2009 um 19:21 Uhr).

  3. "Karte Mittelrhein", Wikipedia Commons (09:36, 3. Dez. 2009).

  4. 「ライン川」, ウィキペディア日本語版 [2009年11月18日 (水) 06:19].

2009年12月23日水曜日

ライン河、マイン河の船旅(25) (Cruise on the Rhine and Main 25)

ニーダーヴァルトから見下ろしたリューデスハイムの町。
手前に広がる丘の斜面はブドウ畑。

 旅の9日目の11月25日午前、リューデスハイムのオルゴール博物館を出たあと、またしばらくの時間待ちをしてから、ニーダーヴァルト行きのロープウェイに乗る。2人乗りの屋根なしの車体が、一面に広がるブドウ畑を下に見ながら昇って行く。到着地点からリューデスハイムの町を眺めながら(上の写真)少し歩くと、ニーダーヴァルト記念碑(Niederwalddenkmal; 下の写真)がある。この記念碑は、普仏戦争後のドイツ帝国発足を記念して建設されたもので、1883年に竣工した。中央の人物像は、高さ10.5メートルのゲルマニア像で、右手にはドイツ皇帝の王冠を掲げ、左手には皇帝の剣を持っている [1]。

ニーダーヴァルト記念碑。

 ロープウェイで戻る途中、初冬の日差しを受けたブドウ畑で、ブドウの枝を刈って明年の成長に備える仕事をしている人びとを見た(下の写真)。船へ戻って11時30分からの昼食は、カレーライスのバイキング。変化に富んだ材料と味つけの何種類かのカレーを少しずつ楽しんだ。船は午後1時にリューデスハイムを出港し、いよいよこの船旅のハイライト、世界遺産ライン河渓谷クルーズとなる。

ブドウ畑と、そこで作業する人たち(を撮ったつもりだが、畑の中の人たちの姿は、この小さなコピーでははっきりしない)。

文献

  1. 「ニーダーヴァルト記念碑」, ウィキペディア日本語版 [2009年10月16日 (金) 11:11].

2009年12月22日火曜日

ライン河、マイン河の船旅(24) (Cruise on the Rhine and Main 24)

リューデスハイムのオルゴール博物館で。この装置は大音響で交響曲を奏でる。右に少し見えるのは館の案内人。(このとき、私のデジカメは電池交換の必要を生じて撮影出来なかったので、この写真は妻が撮影したものである。)

 旅の9日目の11月25日午前、リューデスハイムでの自由時間にまず訪れたオルゴール博物館 (Siegfrieds Mechanisches Musikkabinett) は、自動演奏式楽器に関するドイツで最初の博物館で、展示面積は400平方メートル以上ある [1]。中折れ帽姿の若い男性が英語で説明してくれた。最初に案内された部屋には、大音響で交響曲を奏でる部屋一杯の大きさのオルゴールがあり、その演奏を聞かされ驚く(上の写真)。そのほかにも、自動演奏オルガン(下の1枚目の写真)、自動演奏する人形管弦楽団の装置(下の2枚目の写真)、古い蓄音機、小さな鳥の模型がクチバシや尾を可愛らしく動かしながらさえずるオルゴールなど、珍しいコレクションが多数あった。

自動演奏オルガン(デジカメの電池交換が終了し、私が撮影)。

自動演奏する人形管弦楽団の装置。

 オルゴール博物館の最後の部屋には、昔大道で演奏された手回しオルガン(あるいは手回しオルゴールといったか)があり、案内人が回してみたい人を募った。しかし、誰も手を挙げない(英語を理解しなかった人が多かったのかも知れない)。そこで案内人は、「ではこちらから指名します」といって、前々日ミルテンベルクで買った小さめの中折れ帽を被って前列中央に立っていた私を指差した。そして、彼は私に帽子をぬぐように告げ、代わりの中折れ帽を差し出し、「これを被って下さい」といった。私が "Better one?" というと、彼は "You can show more dignity (もっと威厳が出ますよ)" といった。確かにそれは、安売りの中折れ帽にくらべて、はるかに上等のものだった。私はそれを着用して手回しオルガンを無事に演奏し(下の写真)、より威厳のある中折れ帽に別れを惜しんで、オルゴール博物館をあとにしたのだった。

指名されて手回しオルガンを演奏する筆者。
帽子はオルゴール博物館に備えつけのもの。
(妻が撮影。)

 このときに妻が撮影したもう一枚の写真を大幅にトリミングして加工したものを、目下、このブログサイトの筆者の自己紹介写真に利用している。

文献

  1. 「リューデスハイム・アム・ライン」, ウィキペディア日本語版 [2009年11月28日 (土) 18:41].

2009年12月21日月曜日

ライン河、マイン河の船旅(23) (Cruise on the Rhine and Main 23)

リューデスハイムの港付近。前方の丘の斜面はブドウ畑。丘の頂上、左のほうに立っているのはニーダーヴァルト記念碑。

 旅の9日目の11月25日朝、9時にリューデスハイムの散策観光に出発するまでの時間に、船室からスケッチをした(上のイメージ)。ここは、ユネスコ世界遺産のライン渓谷中流上部 (das Obere Mittelrheintal) にあるワイン醸造の町である。公式の名称はリューデスハイム・アム・ライン(Rüdesheim am Rhein)。人口は1万人弱。港から少し歩くと、すぐに町の中心地となる。前夜に希望者たちが訪れたワイン居酒屋を含む何軒もの居酒屋が並ぶ「つぐみ横町」を最初に通った(下の1枚目の写真)。店々にはクリスマスに向けての装飾がされている(下の2枚目の写真)。この横町の道幅が狭いのは、酔っぱらってふらふらしながら歩いても、左右の壁面に交互に手をついて、倒れることなく歩くのに都合よく出来ているとか。

リューデスハイムの「つぐみ横町」。

クリスマス向けの飾りつけをした店々。

 添乗員さんからはオルゴール博物館、ニーダーヴァルトの丘へのロープウェイ乗り場、そして名物コーヒー「リューデスハイム・コーヒー」の店の場所を教えて貰ったが、どこもまだ開いていない時刻だった。待ち時間中の散策を含めて、最終乗船時間の12時30分まで自由行動となった。私たちが最初に入ったのはオルゴール博物館(下の写真)である。

リューデスハイムのオルゴール博物館。

2009年12月20日日曜日

ライン河、マイン河の船旅(22) (Cruise on the Rhine and Main 22)

 旅の8日目の11月24日の午前、ハイデルベルクではアルト橋に次いで、かつての学生牢 (Studentenkarzer) や、大学図書館 (Universitätsbibliotek) などの建物の前で説明を聞いた。学生牢は1778年から1914年まで、悪事を働いた学生たちが入れられたところで、窓には鉄格子がついている。現在は学生博物館 (Studentenmuseum) の一部になっている。

ハイデルベルクの学生向け喫茶店、
その名もしゃれた "Coffee & Kiss"。

 市内レストランでの昼食まで、しばらく自由時間があった。学生の多い街なので、学生向けの店がいろいろある。上の写真もその一つである。小雨模様だったため、ハイデルベルクで撮った写真は少ない。下の写真も自由時間に撮ったものだが、場所が同定出来ない。

ハイデルベルクの旧市街で。

 昼食のあとは、約1時間30分の古城街道ドライブということで、バスの中からの観光であった。このときには写真を全く撮っていない。添乗員さんたちによる「旅日記」には、「ネッカーシュタイナハの4つのお城(前の城、中の城、後の城、つばめの巣城)やヒルシュホルン城などを車窓からご覧いただきました」とあるが、どういう姿の城だったか、記憶に残っていない。このことから、少なくともいまの私の場合、写真が大いに記憶の助けになっていることが分かる。ただし、翌日の「ライン河古城クルーズ」で多くの城を見たので、バスの窓越しに見た城については印象が薄くなったということもあるかも知れない。参考までに、ネッカーシュタイナハ (Neckarsteinach) の4つの城については [1] に、ヒルシュホルン城 (Burg Hirschhorn) については [2] に記述があることを記しておく。

マインツに停泊中のセレナーデ II 号。
1階のかなりの部分は水面下にあって、見えない。
写真下部の幾つかの白い斑点は、雨滴によるもの。

 私たちが観光している間に、船はフランクフルトからマインツへ移動していた。マイン河はここでライン河に注いでおり、このあとはライン河を下ることになる。ここまでは船が低い橋桁の下をくぐる必要があって、最上階「サンデッキ」の周囲の柵などはすべて倒すか取り外すかしてあったが、ここでそれらが立ち上げられ、最上階へ登ることが可能になる。そこで、その姿の船を撮影したのが、上の写真である。

 船は、私たちの帰船後の17時30分にマインツを出港し、リューデスハイムへ向かった。同時に船内の3階ラウンジで、リューデスハイムのワインの宣伝を兼ねて、「ドイツワイン講座」が開催された。私たちも参加して、極甘口の貴腐ワインなどを一口ずつ試飲した。夕食中の19時に船はリューデスハイムへ入港し、希望者は20時からワイン居酒屋へ実費で案内して貰えるということだったが、それほどのアルコール好きでもない私たちは遠慮した。

文献

  1. 「ネッカーシュタイナハ」, ウィキペディア日本語版 [2009年10月18日 (日) 15:00].

  2. 「ヒルシュホルン (ネッカー)」, ウィキペディア日本語版 [2009年10月18日 (日) 14:54].

2009年12月19日土曜日

09年11月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M. Y.'s Comments on November-2009 Articles)

 M.Y. 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2009年11月分への感想を12月18日づけで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。

×     ×     ×

1. 映画『沈まぬ太陽』

 ——山崎豊子の "事実を小説的に再構築したフィクション小説"『沈まぬ太陽』(1999年)をもとにした同名の映画を見た。…(中略)…この映画に対して日本航空は、社内報の中で「『フィクション』と断っているが、日航や役員・社員を連想させ、日航と個人のイメージを傷つける」「作り話で商業的利益を得ようとする行為は遺族への配慮が欠けている」と批判し、法的な訴えも辞さない姿勢を見せているという——と記されています。そして、「この作品から謙虚に学んで、安全重視、人命尊重の経営へ転換することこそが重要であろう」と筆者は指摘しています。全くその通りだと思います。

 山崎豊子は事実を丹念に掘り下げて、社会正義を問うフィクションを多く書き、私はこれらを読んで感銘を受けています。この2月に完結した文芸春秋の連載小説「運命の人」は、12月2日の朝日新聞に報道された「沖縄密約と外務省機密漏洩事件」と沖縄大学職員が解禁された米国公開公文書を発見し真実を追究する努力や、西山元毎日新聞記者の苦悩の人生をもとに書かれたフィクションです。

 同紙は、「1972年、国会で社会党議員らが外務省の機密電文をもとに密約の存在を追及した。電文には、沖縄の土地の現状回復補償費を日本が肩代わりすることを前提としたやりとりが記されていた。電文は外務省の女性事務官から西山氏に渡されたもので、その後社会党に流れたことが分かり、西山氏と事務官は有罪になった」と事件を解説しています。そして、「返還交渉の責任者だった元外務省アメリカ局長の吉野文六氏(91)が1日、東京地裁に証人として出廷し、外務省の局長室で密約文に署名したと証言した。証言後の記者会見に臨んだ吉野氏は『25年か30年たてば、公文書を公開して、だれでもそれを研究できるそういう制度を日本の外交にも採用することがいいことだと思います』と述べた」と報道しています。

2. エム・ジュニア

 ——大親友の一人だった M 君は、1997年に他界した。クラスが隣同士だった中学3年生のときに親しくなり、高校は別になったが、高校の3年間には日記の交換を続けた。彼がしっかりした文字で書き、文学的香りも漂っていた文章からは、学ぶところが多かった。私が最近まとめた自費出版書 "Passage through Spacetime" …(中略)…を M 夫人へ送ったところ、アメリカ在住の息子さんが来月帰国する折に読んで貰う旨を記した礼状が届いた。さる4日、その息子さん、 M Junior との面会が実現した。彼は在米すでに約10年、目下、南西部のある大学でナノテクノロジー関係の研究をしている学者である。…(中略)… M Junior と食事をしながらの1時間20分間には、主に M Senior の思い出を話しあった——とあり、いまは亡き大親友への思いがしみじみと伝わってきます。

 交換日記には、楽観的な M 君のユーモアのある日常・高校生活の節々や、お互いに切磋琢磨するようすが描かれています。M 君は「一時の恥じを忍んでも致し方がない。このノートのために、一つでも多くを知り、そして、書き記さなければならない。なぜならば、それが大きな進歩を約束してくれるからである」と書いていました。交換日記は稀にみる貴重な作品だと思います。「御影大橋の渡り初め」や同級生 Green への思慕を率直に表現した「海水浴」や、映画感想「根拠のない噂」「わが谷は緑なりき」などが印象に残っています。

3. ピアノ・リサタル

 ——プログラムはショパンの「幻想即興曲」「バラード第1番」「英雄ポロネーズ」という名曲を中心に、…(中略)…小佳品が散りばめられ、聞きやすく組み立てられていた。「幻想即興曲」は大学生時代の初めまでピアノを習っていた長女がよく練習していた曲で、彼女自身の結婚式でも演奏したものである。そういう曲を聞いていると、当時のわが家の様子などがいろいろ思い出されたりするのは、不思議でもあり面白いことでもある——と、演奏に特別な関心を抱いて楽しまれました。

 それに加えて、「雨の中、…(中略)…ぬれて傷んでもよいようにと、…(中略)…古い革靴を引っ張り出して履いて行った。…(中略)…ところが、会場へ着いて足もとを見て驚いた。…」との裏話があり、笑いも誘うユーモアたっぷりの物語でした。

ライン河、マイン河の船旅(21) (Cruise on the Rhine and Main 21)

ハイデルベルク城から見たハイデルベルク旧市街。左端にそびえているのは聖霊教会。右手に見える橋はネッカー川(der Neckar; ライン河の支流)にかかるアルテ橋 (Alte Brücke)。橋の手前に一対の門塔が立っている。

アルテ橋のたもとから見たハイデルベルク城。
中央右寄りの大きな建物はフリードリヒ館。

 旅の8日目、11月24日の午前に見学したハイデルベルク城からは、ハイデルベルク旧市街の素晴らしい景色が見下ろされる(上の1枚目の写真)。逆に旧市街からはハイデルベルク城のよい眺望が得られる(上の2枚目の写真)。ハイデルベルク城では大樽棟 (Fassbau) の内部も見学した(下の2枚の写真)。

ハイデルベルク城の大樽棟にある大樽の一部。

大樽棟内の大樽に相対する壁面。上からコンパス、かんな、古時計の飾りがあり、古時計はびっくり箱になっている。

 上の写真の左に見える人形は、選帝侯カール・フィリップが樽の監視を命じたワイン好き享楽家のシンボル、ペルケオで、大樽を見張っている格好をしている。ペルケオは、カール・フィリップが選帝侯に就任する前、皇帝のチロル代官として赴任していたインスブルックから宮廷道化師として連れてきた人物であった。伝説によれば、選帝侯が大樽の酒を飲み干すことができるかどうか尋ねた時、「Perché no?」(イタリア語で「なぜ、できないことがあるでしょうか?」)と答えたことから、ペルケオ (Perkeo) と呼ばれるようになったという。(この説明は現地ガイドさんからも聞いたが、忘れていた部分が多く、文献 [1] を参照して記した。)

文献

  1. 「ハイデルベルク城」, ウィキペディア日本語版 [2009年11月21日 (土) 10:22].

2009年12月18日金曜日

ライン河、マイン河の船旅(20) (Cruise on the Rhine and Main 20)

朝のフランクフルト港近辺。

 旅の8日目の11月24日、船は午前6時にフランクフルト (Frankfurt) へ入港した。8時30分にハイデルベルク市内観光に出かけるまでに上掲のスケッチをした。

エリーザベト門。背景の建物はイギリス館。

 ハイデルベルク (Heidelberg) では、まず、ドイツで最も有名な城趾の一つであるハイデルベルク城 (Heidelberger Schloss) を訪れる。城の西のテラスにあたるシュトュックガルテン (Stückgarten) には、イギリス王女のエリザベス・ステュアートに由来するエリーザベト門 (Elisabethentor) がある(上の写真)。シュトュックガルテン (Stückgarten) のシュトュックとは、かつてここに設置されていた大砲のことである。また、エリーザベト門の建立は、フリードリヒ5世が妻エリザベス・ステュアートの栄誉のために行ったもので、1615年、彼女の20歳の誕生日に若い妻を驚かすために一夜にして建設したとされるが、これを裏付ける文献上の証拠はない。

城門塔。

 城へは城門塔(Torturm; 上の写真)から入る。この塔は防衛施設の要で、時計がはめ込まれていることから、時計塔 (Uhrenturm) とも呼ばれる。塔の正面には高さ 3.40 m の「門の巨人」と、盾を掲げる獅子が飾られている(下の写真)。銀の盾を掲げていたといわれるが、その盾は行方不明になっていて、鋳つぶされたと考えられている。

 城の各部の詳細は、現地ガイドさんの説明でも聞いたが、忘れていたところが多く、文献 [1] を参照して記した。

城門塔正面の「門の巨人」と盾を掲げる獅子のレリーフ。

文献

  1. 「ハイデルベルク城」, ウィキペディア日本語版 [2009年11月21日 (土) 10:22].