写真は指導を受ける少年野球チーム(堺市大仙公園で、2005年5月7日)。
高校時代の交換日記から
(Sam)
1952年7月27日(日)晴れ
クラブのメンバーで海水浴に行くことになっていた日がきょうである。SW 君と北鉄バスターミナルへ行ったら、Green が友だちと二人で来ていたのには驚いた。女生徒はもう一人、Rush が妹を連れて来ていた。やがて先輩のNK君が来られ、「打木行きのバスは八時三十分発だ」と聞かされて、七時前から来ていたと思われるRushを始め、一時間も早起きしたぼくをゲッソリさせた。カメラを持ってSM先生が来られ、Jintan と Bamboo が来て、メンバーは揃った。
むし暑いバスにゆられること一時間余りで石川郡旭村字打木へ来る。そこから六、七分歩いて八田というところで止まる。NK君の親類の家で休ませて貰い、そこから支度をして海まで200 m ばかりのところを歩いて行く。砂防林に囲まれて、カボチャ畑が多く目に付く。たいへんのんびりとした、そして金沢から遠く来た感じに包まれる。海は浅いが、波は激しかった。けれども、深さが肩の辺りのところまで出ると、白く砕ける波はなくて、そんなに泳ぎにくいことはなかった。女生徒たちは浜の海辺に近い浜茶屋を借りた。彼女らは、浅くて白波の砕けるところで、嬉々としていた。だから、午前中はいつも彼女らとはかなりの距離があった。
NK 君が海水浴場の標識の上に乗り、海を背景にしてみんなで写真を撮った。SW 君が篭に一杯リンゴを買って来て、みんなで好きなだけ食べた。それでも余った。女生徒たちがそのリンゴを海へ持って行き、投げて遊んでいた。しまいには全員で、四つばかりのリンゴを投げ合った遊んだ。男生徒たちは沖の方に、女生徒たちは海辺の近くにいた。リンゴは山の側から、大海原に向かって投げられ、その反対方向に投げ返されていた。そのうち、だんだん球の飛び方が乱れ、一人ひとりの距離もばらばらになって行った。思わぬところからリンゴが飛んで来て、面食らったり、二人で取り合いを演じ、水のかけ合いになったりした。二人ばかりの顔にも当たった。それでも、だいたい最初の原則は変わらなかった。
Green の投げたリンゴがよくぼくのそばへ飛んできた。そして、次第にまともに飛んできた。飛んで来る割合もだいぶん多くなって来た。そして、Green はぼくの投げ返したリンゴを追って、白波を浴びながら、手と脚を懸命に動かしていた。それを拾うと、にっこり笑って投げて来た。そして投げ返した。Green の投げたのが、ぼくの上を越して、かなり深いところへ落ちたとき、Greenは「ごめん!」といった。Green とぼくだけでみんなのリンゴを持ってしまったこともあったが、Greenにもぼくにも投げるべきリンゴがなかったときは、さみしいような気がした。水から上がって、ゴムの大きなボールで円陣パスをしたときも、これと同じ気がした。
帰りのバスは混み合っていたので、Green の後ろ髪と肩だけしか、ぼくは見ることができなかった。温かくて柔らかな、そんな感じを受けた。それは、Greenの肩に見える服自体から受ける感じとは、はなはだ異なるものだった。六枚町で降りて、みんなで氷イチゴを口に入れてから別れた。Green と彼女の友だちと SW 君とぼくは、長土塀通りを2/3ほどまで一緒に歩いて帰った。話し始めると何だかつじつまの合わないことをいいそうな気がした。しかし、短くて十分に意志の通じることばも見当たらなかった。別れるとき、「サヨナラ」といったが、これで、よほどの偶然がないかぎり、一カ月ばかり Green とは会えないのである。
夕方歯ブラシを買いに行って来た。帰りに老朽した柱材が積んである上に腰をかけて、脚をぶらぶらさせながらお里の子と話をしていた Kid [1] の下駄を下駄で蹴ったら、右手を振り上げて追っかけて来た。街路樹を利用して、さんざん、やかしてやったが、とうとうぼくの痛い背中を二回叩いて逃げて行った。
一時間ほど前には、ぼくが海水着を洗っている横で、ぞうきんを洗っていた Tarko [2] が、ナイロンのエプロンを掛けて、両手に力をこめて、胸と腰を突出させながら井戸の水をくんでいる。流し場には、茶わん篭やおひつや鍋が置かれている。
さて、Ted よ、きょうは昨日の続きだよ。昨日は書き出そうとして止めたが、きょうのこんなことを書こうかと思ったのだ。GreenもKidもTarkoも、ぼくの関心のないとはいえない女性である。
しまった! 電話、電話。電話を忘れた。しかし、明日はこれをたずさえて Ted の家まで行こう。
引用時の注
近所の女の子か。
Sam は祖母と2人暮らしで、引揚げ者であった私たち3人家族と同様、2階に間借りをしていた。Tarko とは階下の女の子か。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
Y 05/14/2005
Ted さんの日記かと思って読んでいましたら、登場人物が違うし、Sam さんの文章でしたか。「これで、よほどの偶然がないかぎり、一カ月ばかり Green とは会えないのである。」そうですね、高校時代だからこそ、こういう、こんなに滅多に会えない、話せない間柄であるのに心惹かれる恋をするのかもしれませんね。それは、おとなになった私でも、ほかにも好きな人はいるのかもしれない、と思いますが、生活などを背負っている以上、なかなかもって連絡もできませんしね。
Ted 05/14/2005
最近引用している辺りでは、Sam はインクで書いていましたので、ブログ上でも彼の日記の文字を青色にしています。私は消しゴムを使って文章をよく修正しないと満足できない癖があり、日記はずっと鉛筆書きでした。
Y 05/14/2005 19:51
推敲なしで、Sam さんはこの一連の日記を書かれるのだろうと思ってはいましたが(その辺りは Sam さんのご性格を想像しているのです)、非の打ち所のない、素晴らしい文章を、高校生の年齢でインクで書かれるのですね。私も、子ども時代から、消しゴムや修正液がないと文章を書く自信がないんです。ところが、…なぜか勉学研究のこの間までの「長い空白期間」を経ると、恩師の方への郵送での文章などでも、ボールペンで一気に文章が書けるようになったので、不思議ですよね。と、書いていて思い出しましたが、パソコン(以前はワープロ)での推敲に推敲を重ねた文章というのは、「基本的には」私の恩師の先生がたぐらいに「一流の物書き」になられると、だめだ、と見破られます。なので、私の大学時代は、かえって手書きでよろしい、といった表現も先生はされました。学術論文でありながら、個々の個性でもって綴る芸術的な文章書きのプロにならなければならないので、指導は厳しくて、私に唯一、丁寧に論文指導をしてくださった教育人間学の恩師は、岩波書店に先生が出される論文を、「印刷して声を出して(文章を)読むと、また違うんだよ。(その文章の良い点悪い点が新たに発見できるんだよ。)」という指導をされていました。
Ted 05/14/2005
「印刷して声を出して読むと、また違うんだよ」に似て非なるような話:ノーベル賞物理学者の P・A・M・ディラックは、友人によって、「1ディラック」という雄弁さの単位は one word per year だ、と冷やかされたほど無口な人でしたが、その講義は、印刷すればそのまま本になるような話し方だったとか。
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