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2005年8月31日水曜日

歩道橋で(写真)/ にぎにぎしい選挙運動


歩道橋で

 写真は八田西町の歩道橋の上から北向きに泉北2号線を撮ったもの(2005年8月29日)。わが家からここまでで、3000歩余りになる。左手の団地の前の並木は、この春に何度か紹介したサクラの木々を含む。

にぎにぎしい選挙運動

 高校時代の交換日記から

(Sam)

(続)1952年11月3日

 校内の各所にポスターが張られ、校内放送は幾回となく候補者の名を叫んでいた。幾枚かのガリバン刷りの名刺も貰った。にぎにぎしい選挙運動が行われ、土曜日の第四限はアセンブリーとなって、各候補の立会演説会が行われた。拍手や笑声やヤジや怒声が盛大で、活発な演説会だった。立候補者と推薦者の言葉は真に迫るものがあった。――笑顔などみせたことのない校長の顔が笑っていた。――
 柔道場のあとの図書館の一隅に新聞部室があった頃
[1] の紅一点だった女生徒 [2] の応援演説には、彼女の所属している15Hの代表ばかりでなく、新聞部の UE 君も、前期生徒会長のトンチ君も、彼女を支持する演説を行った。
 うちのホームの代表のときは、その選出の際に彼を指名した YS 嬢や馬術部員やその他七人もが応援演説を行った。編成としては最多数のものだった。壇上に立った彼らの動作その他も、なかなかおつなのが沢山あった。
 今度の選挙には、三年生は全然立候補者を出していない。だから、三年生のいわゆる浮動票如何では、誰が会長にならないとも限らないのである。が、やはり三年生は賢明だったらしい。聞くところによると、会長には GD 君、副会長には前期もそうであった NG 君が決まったらしい。GD 君は金石(かないわ)中の出身で、そこでは生徒会長として大いに活躍して来たのだそうである。一時野球部に属していたこともあったらしいが、体をこわして、今ではやめているそうである。彼ならば心配は要らない。しかし、ぼくが彼と同調していけるかどうか問題である。まだ一度も親しく会って話をしたことがないのだから――。

 ここ二、三日、祖母がちよっと患っていて、ぼくは思わぬいろいろな仕事をしなければならない。
 金ちゃんと二人で Neg のところへ行ったのだが、べつに新しいことはなかった。Neg が闘病生活のつれづれを如何にして暮らしていたかがよく分かった。それは、Neg からの手紙で知り得たことを、はるかに超えたものだった。
[3]

 引用時の注

  1. Samと私が中学3年生だった頃を指す。
  2. この女生徒は、私の日記に Tom の名で登場する友人が中学生時代からたいへん親しくしていたので、私は、彼らは将来結婚するものと思っていたが、そうはならなかった。その後 Tom に聞いたところでは、彼女は若くして死亡したとのことだった。佳人薄命。
  3. Neg はこの頃病気のため高校を中退したのだった。私は彼とホームルームが同じだったにもかかわらず、あまり親しくはしていなかったので、そのことに気づかず、見舞いにも行かなかった。ところが、近年、新盆に合わせて金沢へ墓参に行くと、野田山墓地の入口の墓守さんの家へ手伝いに来ている彼に会い、親しく語り合うのである。彼の奥さんが墓守さんの奥さんの妹だそうだ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/01/2005 01:15
 校内選挙で手作りの名刺までが飛び出しましたか。わが校の場合、中学も高校も、そういった賑やかさや派手さとはとんと無縁でした。

Ted 09/01/2005 07:44
 先に記載したこの日の前編のSamの記述によれば、「立候補届出期間が三回も延期され、…しびれを切らした選挙管理委員会が、各ホームから一名ずつ強制的に候補者を選出」させるという事態だったとのことですが、それにしては、候補者が出た後は、ずいぶん盛り上がったものです。

2005年8月30日火曜日

わが町の水田(写真)/ 最高得票者が会長


わが町の水田

 さる8月27日午前、ウォーキングで鈴の宮公園へ行くと、草むらにコオロギらしい虫の音を今年始めて聞いた。写真はその帰途、わが町の中にある水田の傍らを通りかかって撮ったもの。田植えが終って間もない頃の写真を撮ったのが、つい先日のように思われるが、いまは一部にスズメよけの網が張られ、黄金色になるのも近い風情である。

 昨29日のウォーキングでは、八田北町の公園のクスノキでツクツクボウシが鳴いているのを聞いた。長らく耳にしななかった声である。昨年までほとんどそうしていたように、わが家を出て商店街のある北方面を歩くより、途中に日陰がほとんどなくても、南へ行く道をとる方が季節の移ろいをより多く感じられてよい。

最高得票者が会長

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年11月3日 [1]

 うちの会社(という言葉が流行している)でも、ようやく後期生徒会役員が決定したとのことだ。「とのことだ」といわなければならないのは、先週の土曜日に投票があって、午後三時から開票されたはずであるが、その結果の全部を知らないからである。今度の選挙は、結果的にみて成功だったかも知れないが、変則的で、初めのうちは、はなはだ不活発だった。前期役員の任期は九月三十日をもって終ってしまっていたのだから、ちょうど一カ月のブランクがあったわけである。
 立候補届出期間が三回も延期され、ようやく立候補者が二十名ばかり現れたのである。二十名? 何のことはない。とうとうしびれを切らした選挙管理委員会が、各ホームから一名ずつ強制的に候補者を選出しなければならないという処置をとったからである。「生徒会役員候補者」ということにし、全校生徒の投票により、最高得票者が会長、次最高得票者が副会長、第三位の得票者が書記、第四位以下十名までが執行委員ということにした。会計については、前期会計が再度立候補届を行っており、特別の知識と才能がいるという理由で、選挙管理委員会では無競争で立候補者を正式会計として承認する旨発表した。二、三の反対があったが、了解したらしい。
 会計の立候補者というのは、いうまでもなく、ぼくである。誰か後任者があればさっさと辞してしまいたいと思っていたが、バトンをゆずるべき立候補者は現れず、ぼくとしても安心して渡せる誰をも見つけられなかった。仕事の内容からいっても、責任からいっても、このまま行けば、結局、自分でやるより他はないと思ったから、また、YM 君が熱心にぼくの推薦人を集めてまわってくれていたから、やむなく立候補することにしたのである。
[2]

 引用時の注

  1. 原文には日付けがなく、これは推定である。
  2. この日の日記は次回掲載分へ続く。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ポー 08/31/2005 00:00
 私の通っていた高校では、立候補するような生徒もいなくて、毎年先生や前年の役員などが声をかけて、会長以下セットでそろえ、そのセットを「信任」か「不信任」かという投票が行われていました。

Ted 08/31/2005 07:44
 私の最初の職場だった公立研究機関の労働組合(大阪府職労の1支部)の役員選挙も、セットにしてではありませんが、ほとんど「信任」か「不信任」かの投票でした。何度も支部長を務めた組合活動のベテランの I 君が、1票差で支部長不信任になるという劇的な事態もありました。私は組合活動の活発であることを願うものでしたが、I 君は私の共同研究者であり、彼が組合活動をしなければ、私たちの研究がはかどるということもあり、この不信任には複雑な気持を抱きました。

2005年8月29日月曜日

トンボとり(写真)/ 最多アクセス記事(05.07.31~08.27)


トンボとり

 写真右のおさな子は、タモを振り回してトンボをとろうとしていたが、うまくいかなくて、このタモがよくないといい始めた。左のベンチにいた祖父らしい人が、いまトンボは虫を捕まえるのに忙しいから、夕方になってトンボが疲れた頃ならとれるかも知れないよ、といってなだめていた(堺市・鈴の宮公園で、2005年8月20日)。

 追記:タモという言葉を捕虫網の意味で使うのは、私の郷里、石川県方面の方言的な用法かも知れない。

最多アクセス記事(05.07.31~08.27)

 先に7月10日から30日までの3週間の "Ted's Coffeehouse"[後日の注:2009年4月まで使っていて消滅した別のプロバイダーでのブログ。目下、そのブログの記事をパソコン上の控えから "Ted's Coffeehouse 2" のアーカイブへ復元中]最多アクセス記事について記した [1]。引き続き、その後の4週間の各週について調べてみた。結果は次の通り。()内は期間内の総アクセス数、[ ] 内は記事掲載の年月日。

7.31~8.06(4358)
アインシュタインの原爆に関することば (Einstein on Atomic Bombs) [05.05.22]: 56

8.07~8.13(4685)
ドレスデン国立美術館展 [05.05.05]: 80

8.14~20(4521)
靖国問題とは [05.05.21]: 133

8.21~27(4802)
『こころ』再読 [05.08.11]: 126


 1位は毎週入れ替わっているが、「靖国問題とは」や「ドレスデン国立美術館展」は大抵上位にある。四つの最多アクセス記事のうち三つまでが、5月に執筆したものであることが面白い。アクセスが結構あっても、読んで共感して貰っているか、何かの役に立っているか、は分からないところが歯がゆい。

 なお、前回は、最多アクセスのカテゴリについても週毎に記載したが、相変わらず「Water Color (水彩画)」が最上位を占める謎めいた現象が続いている。上記4週のこのカテゴリへのアクセス数は、112、103、109、143となっている。


  1. カメ(写真)/ アクセス解析 (Ted's Coffeehouse, 2005年8月5日).

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 08/29/2005 09:14
 ちなみに、Google で "Watercolor" を検索してみると、日本語のページでは2番目に、ウェブ全体では22番目に、この "Ted's Coffeehouse" がヒットしました。水彩画愛好家は世界中に結構多いのかもしれませんね。

Ted 08/29/2005 11:29
 わざわざお調べいただき、ありがとうございます。ところが、最近エコー!に追加された検索ワードによるアクセス解析では、たとえば8.21~8.27の1週間に「watercolor」という語の入った検索は「watercolor paintings ted」という、先に訪問してくれたことのあるらしい人の1件しか見当たりませんでした。奇妙でしょう?

ポー 08/29/2005 10:09
 トンボとりのおじいさんのなだめ方がいいですね。さすが年の功です。何が悪いのでもないというのはすばらしい考えです。追い回されたトンボはかわいそうでしょうが~

Ted 08/29/2005 11:32
Thanks for your kind comment. The old man seems to be of about the same age as me, but I cannot think of such good words for a grandchild.

ヨハン 08/29/2005 21:35
 捕虫網をタモと言うのは知りませんでした。関東では虫取り網とよぶのが一般的(?)でしたから。常々記事を拝見させていただき、Ted さんの考えや表現力には若きを凌ぐ素晴しいものを感じています。

Ted 08/29/2005 22:07:11
 お褒め、恐縮です。捕虫網の語を使おうかとも思ったのですが、郷里の石川県でタモといいならわしていましたので、これでも通じるかと思って使いました。いま『広辞苑』を見ると、「たも」は「たもあみ」の略とあり、後者の説明には「水中の魚類をすくいあげるのに用いる」とありますね。捕虫網をタモというのは方言的な使い方のようです。

2005年8月28日日曜日

ラッセル・アインシュタイン宣言50周年

 さる1月にラッセル・アインシュタイン宣言に触れたブログ [1] を書きながら、今年がその50周年にあたることに気づかなかった。一昨日、宗川吉汪(そうかわ・よしひろ)京都工芸繊維大名誉教授の「ラッセル・アインシュタイン宣言の精神と日本国憲法第9条」という論文 [2] を読んで、それを知った次第である。ラッセル・アインシュタイン宣言は1995年7月9日付けとなっている。1ヵ月と20日ばかり遅れたが、宗川論文をここに紹介することによって、私も同宣言を讚えたい。

 哲学者バートランド・ラッセルは物理学者アルバート・アインシュタインとともに、水爆戦争による人類の危機を訴えるこの宣言を起草し、湯川秀樹を含む世界の著名な科学者11名(うち10名がノーベル賞受賞者)の署名を添えて発表したのである。宗川名誉教授は英語の原文 [3; 本ブログ末尾の資料 (1, 2) にも一部をコピーした] と自らの和訳を論文末尾に添付している。

 宣言は8節から構成され、最後の第8節は決議となっている。その決議は、各国政府は戦争を放棄し、紛争の解決には平和的手段を見出すべきである、というもので、宗川論文は、「日本国憲法が危機に陥っている現在、これは日本人に重く響く。9条を守ることは、まさに、宣言の精神に則っている人間的かつ人類史的闘争である」と述べている。

 論文はさらに、宣言の指摘した世界規模の東西対立は、1991年のソ連の崩壊で表面上解消したが、それで人類の危機は去ったのではなく、現在、とくに2001年の9.11以来、危機はさらに深刻になったと見るべきだと指摘する。そして、アメリカが、9.11テロ誘発の原因も考えずに、むしろそれを利用し、アフガニスタンとイラクで多くの市民を虐殺する攻撃を行い、その鉾先を他の国ぐににも向けようとしているいま、もしもわれわれが憲法9条を放棄すれば、日本人の、「人」としての使命も放棄することになる、と結論づけている。[米国や日本を含む世界の軍事費の最近の傾向については、資料 (3) を参照されたい。]

 著名科学者たちが50年前に賛同した宣言の精神をかえりみて、憲法9条との一致を知るとき、来る衆議院議員選挙には、憲法を守る政治家をこそ選ばなければならないという思いを強くするのである。


  1. アインシュタインの社会的業績と坂東昌子教授 (Ted's Coffeehouse 2005年1月13日).
  2. 宗川吉汪, 日本の科学者 Vol. 40, p. 498 (2005).
  3. ラッセル・アインシュタイン宣言(The Russell-Einstein Manifesto, 1955)の原文は、例えば、The Russell-Einstein Manifesto, Web page of Pugwash Conferences にも掲載されている。

【資料】

(1) ラッセル・アインシュタイン宣言:決議部分の原文
"In view of the fact that in any future world war nuclear weapons will certainly be employed, and that such weapons threaten the continued existence of mankind, we urge the governments of the world to realize, and to acknowledge publicly, that their purpose cannot be furthered by a world war, and we urge them, consequently, to find peaceful means for the settlement of all matters of dispute between them."

(2) 同宣言の署名人
Max Born, Percy W. Bridgman, Albert Einstein, Leopold Infeld, Frederic Joliot-Curie, Herman J. Muller, Linus Pauling, Cecil F. Powell, Joseph Rotblat, Bertrand Russell, Hideki Yukawa.

(3) 世界の軍事費
 世界の軍事費の最近の傾向については、「軍事費の急増:貧困救済や教育に回したい」に、数値を挙げて述べられている。

 追記:新着記事「小泉・自公政治 このムダ遣い」の後半には、米国防総省「共同防衛にたいする同盟国の貢献度報告」2002年版による米国、日本、英国、ドイツ、フランスの1990年と2001年の軍事費がグラフで示されている。他国の軍事費が減少している中で、日本だけがこの間に増大を示し、英国などを抜いて、米国に次ぐ値になっているのは、異常な「軍拡」というべきであろう。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ルーシー 05/20/2006
 Ted さん、コメントありがとうございました。お願いがあるのですが~、英文ではなく和文にてコメントお願い致します、お手数ですがまたコメントお待ちしています。

Ted 05/20/2006
 私の使っているマックでルーシーさんのコメント欄に日本語を入力したところ、文字化けしましたので、英文にした次第です。書きましたのは次のようなことです:トラックバックありがとうございます。ルーシーさんのブログでは、アインシュタインへのノーベル賞授賞理由が、特殊相対性理論の発見のように取れますが、実際の授賞理由は、「理論物理学の諸研究とくに光電効果の法則の発見」でした。

ルーシー 05/21/2006 00:51
 Ted さん、お手数おかけしました。だいたいは英文で把握出来て訂正をしました。確かに誤解を受ける表現でしたね。しばらく気が付きませんでした(笑)。お恥ずかしい次第です! ありがとうございました。ではまた!

2005年8月27日土曜日

北信越高校野球決勝で菫台が惜敗


 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月3日(月)快晴

 "A Place in the Sun" の解釈は間違っていた。北国新聞夕刊の映画評に上流の社会を指すと書いてある。*

 これだけの歓声の中で、あれだけのプレーをするのは、さぞ愉快なことだろうと思いながら、菫台対桜丘の北信越高校野球大会決勝戦を見た。内野スタンドがすでに満員だったので、三塁ベンチの左端がちょうど一塁ベースの真向こうに見える位置の土手に腰を下ろした。7、8回に1点ずつ奪われて、試合は逆転し、そのまま2対1で敗れてしまった。[1]

 *[Tedの欄外注記]ぼくは社会問題に対する考察に慣れていなくて、何でも心理的な問題にしてしまいがちなので、こういう間違いをしたのだろう。

 引用時の注

  1. 上のイメージは、この日の日記の終りに「録音を聞いて記す」として書き込んであった、北信越高校野球決勝戦8回裏1死から試合終了までの攻防の、スコアブック式記録である。さる6月の小学校同級会で、このとき菫台チームの三塁手だった KW 君が、この試合で3失策をしたことを大いに残念がっていた。なるほど、この記録を見れば、8回裏1死から桜丘の3番打者能口が三塁ゴロエラーで出塁、投手の暴投で二進、6番打者林の左翼左への安打で生還し、これが決勝点となっている。[後日の注:KW 君が話していたのは、翌年夏の甲子園大会北陸予選で優勝した泉丘高校との対戦だったかもしれない。]

     優勝した桜丘高校は翌年春の選抜大会出場校に選ばれた。わが菫台高校は惜敗といっても、9回表に3~5番打者が相手の大根投手に完全に牛耳られている様子を見れば、負けても仕方がないともいえよう。わが校の4番打者・一塁手の上井(うわい)は私と同期である。彼は小学校時代には大根と好投手ぶりを競い合い、対戦成績は2勝2敗だったのだから、このときその大根を擁するチームと最後まで甲子園行きの切符を争って敗れたのは、さぞ悔しかったことだろう。(「非運のU君」参照)。

     なお、この1952年度の北信越高校野球(新潟、富山、石川、福井、長野の5県の代表による)では、準決勝に残った4校がすべて、この大会の地元石川県の代表である金沢市内の普通高校という稀な現象が生じた。大根や上井は、ともに生粋の金沢っ子ではなく、戦時中に神戸方面から疎開して来て、金沢に住み着いた児童だったと聞く。他にもそのような「野球先進地」から来た選手たちがいたことだろう。それに加え、戦災を免れた金沢で、戦後いち早く小学校の野球大会が復活したという事情もあって、いわば、戦争の事後効果として、この珍現象が起こったといえるかも知れない。

     桜丘の大根・能口のバッテリーは、小学校以来の名コンビで、翌春甲子園出場を果たしたものの、1回戦でいきなり大阪の当時の強豪、浪商(後の巨人の外野手・坂崎がいた)と対戦し、4対1か4対0で敗退したのだったと思う。——この日の私の日記は意外に短いが、振り返れば、いろいろな関連事項が思い出される。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/27/2005 21:50
 浪商-巨人の坂崎とは懐かしい名前ですネ。巨人の五番打者でしたか。

Ted 08/28/2005 07:20
 坂崎選手を覚えておられましたか。私の記憶している巨人のバッティングオーダーは、千葉、白石、青田、川上、…という古いもので、坂崎が五番打者だったかどうかは、覚えていません。しかし、巨人ファンでもない私が名前を覚えているところを見れば、クリーンナップトリオに入っていたのでしょう。

四方館 08/29/2005 20:50
 王、長島がクリーンアップに定着した頃の初期は坂崎が五番だったように記憶しますが…。

Ted 08/29/2005 21:54
 ああ、そうでしたか。「坂崎 外野手 巨人」でグーグル検索をしたところ、ここにプロ在籍中の成績等が掲載されていました。検索結果の2ページ目トップに私のこのブログ記事[注:最初に投稿した Echoo! サイトのもの]が出ていて、びっくりしました。

2005年8月26日金曜日

成功のためのアインシュタイン方程式 (Einstein's Equation for Success)

Read in English.

【概要】質量とエネルギーの等価関係を表すアインシュタインの方程式 E=mc2 はよく知られているが、アインシュタインは、人生において成功するための方程式も提唱している。

A = x + y + z

ここで、A は成功を意味する。xyz はそれぞれ何だろうか。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ゆっぴー☆ 09/02/2005 11:20
 ゆっぴーなら、A = 実力 + コネ + 運 としたいですね。沈黙することは、本人のためには良いことかもしれませんが世の中のため(後世の人々のため)には良いこととは言えませんよね? 今はネットの世界で、ガンガン言っていかないといけないと思います。時間的制約がありますけどね。(≧ヘ≦)最近、ちょっと忙しくて…。

Ted 09/02/2005 13:24
 私もどんどん発言することは重要だと思います。ただ、世の中には自分でじっくり考えてみることをしない人たちが多いので、アインシュタインはそういう人たちを戒めるために、沈黙の大切さを述べたのではないかと思います。

サンピエトロ大聖堂:遠景(写真)/『陽のあたる場所』


サンピエトロ大聖堂:遠景

 写真はヴァチカンのサンピエトロ大聖堂を、前の広場の中央に立つオベリスクと合わせて遠方から撮ったもの(2003年5月15日)。

 オベリスクはカリグラ帝が37年にエジプトから運ばせ、彼の競技場に立てたもので、16世紀末に44基の巻き上げ機、140頭の馬、800人の人夫の手でここに移された[『ワールドガイド街物語イタリア』(JTB, 2001) による]。




『陽のあたる場所』

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月2日()快晴

 新潟工高は毎回走者を出したが、わが百万ドル内野陣の攻守に阻まれ通しで、気の毒だった。しかし、外野があれだけお粗末では、負けるのが当然だ。吉田投手のコントロールが乱れなかったら、もっと大差で勝てる相手だった。[1]

 "A Place in the Sun" [2] とは、主人公の行動が、その人生において、責任をもってなされる部分を指しているはずである。そして、この六つのアカデミー賞を得たフィルムが写し出すものは、家族的あるいは社会的関係の網をくぐり抜け、彼の感情を引き寄せる綱にたぐられて行くジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)が、陽の当たらない場所とでもいうべきものを自分の中に作り上げてしまい、その処置に窮するところを頂点とした物語である。
 それにもかかわらず、題名が "A Place in the Sun" でぴったりであるのは、転覆する寸前のボートの中でこれからの生活について語るアリス(シェリー・ウィンタース)のジョージに対する愛の、そしてまた、牢獄へ面会に来るアンジェラ(エリザベス・テイラー)の彼に対する愛の性格が、彼を苦悩に陥らせた事件の暗さにちょうど正反対のものであり、そこから、死刑場へ引かれていくジョージ自身も何か陽光のようなものを感じ、かつ、それがどうあるべきであったかに気づいているように描かれているからであろう。

 けさ、伯母のところへご飯の鍋を取りに行ったときは、爽快さと晴朗さとを一緒に感じて、「すべてが、ぼくのために上々だ」と頭の中で繰り返していたのだったが、いまは、はなみずが出て仕方がない。早く寝なければならない。

 引用時の注

  1. 金沢兼六園球場で行われた北信越高校野球大会に出場したわが校を応援に行ったのである。
  2. 映画『陽のあたる場所』。ジョージ・スチーブンス監督、セオドア・ドライザー原作(1951年)。たとえば、A Place in the Sun (film), Wikipedia 参照。題名の意味の解釈については、翌日の日記で、この映画に対する新聞紙上の批評を見て間違っていたことに気づかされた旨を書いている。

2005年8月25日木曜日

「有権者に迫る総選挙の選択肢」:日本語中の休止

 四方館さんのブログ記事「しぐるるや石をきざんで仏となす」に次のところがあった。

<菅谷規矩雄の「詩的リズム――音数律に関するノート」からのメモ-2> 以下は前掲載につづく菅谷規矩雄の作業仮説ともいうべき本書の第一章「詩的リズム」より要約の後半部分である。…中略…
14、休止とはなにか <休止が群団化の標識>であることを、時枝は指摘したが、詩的リズムの構成にあっては、この休止が長短=二様のあらわれかたをすること ハマノ(-)マサゴト(-)ゴエモンガ(-) この十二の音節は、次の3・4・5音パターンとのあいだに、無音の拍=休止(-)を含むことを必須としている。…後略…

 ここに引用した四方館さんの要約中「14、休止とはなにか」に関連して、私は NHK アナウンサーのニュース朗読などにおいて、休止がしばしば間違った場所へ挿入されているように感じることを思い浮かべる。具体的な実例は、いま思い出さないが、8月24日付け朝日新聞夕刊のトップ記事にある文を例に使って、説明してみよう。

 「郵政民営化に賛成か反対か」。小泉首相が有権者に迫る総選挙の選択肢は二者択一だ。

 「小泉首相」以下を、次のような休止(-)の挿入で読んだとしよう。
 (1) 小泉首相が(-)有権者に迫る総選挙の(-)選択肢は二者択一だ。
これでは、リズムがよいようであっても、意味としては、小泉首相が迫るのは総選挙のように聞こえる。もっとも、小泉さんは参院での郵政民営化法案否決を受けて、衆院を解散し、有権者に総選挙を迫ったが、この文で「迫っている」といいたいのは、「二者択一」である。そこで、このニュアンスをはっきりさせるには、次のように休止をとるべきだろう。
 (2) 小泉首相が有権者に迫る(-)総選挙の選択肢は(-)二者択一だ。

 例 (1) 中の2番目の休止のような、修飾語と被修飾語を無残にぶっちぎる朗読が多いように思えてならない。そういう朗読を聞くたびに、私は頭の中で、自分に納得の行く朗読をしてみる。

 なお、この文は、次のように書き換えれば、休止をどこへ入れるかの問題は、大幅に緩和される。文を作るときの語順にも注意したいものだ。
 (3) 総選挙で小泉首相が有権者に迫る選択肢は二者択一だ。

 さて、朝日新聞の上記記事の見出しに「郵政だけが争点じゃない」とあるのは、正論であろう。しかし、小見出しには「年金」「外交」「イラク」とあるのみである。「憲法」「福祉」「教育」などに対する各党の態度もよく見定めて、投票したい。

四方館 08/26/2005 14:24
 短歌や俳句の句切れの問題と同じように、日本語の文章をどこで区切り休止-息つぎとするかは、意味の伝達において生命線であるのは当然のことですネ。(1) の読み方では、主語-述語関係が乱れてしまい、訳がわからなくなってしまいますネ。(2) ならば、前段に小さい主語-術語関係があり、その前段全体が、後段の本来の主部=総選挙の選択肢を修飾するという文の構造が明瞭になって、意味が通じることになりますネ。

Ted 08/26/2005 15:39
 私の記事中、(1) の下の文の末尾に「聞こえまる」というミスがあり、失礼しました。大阪弁のなり損ねのようで、いま訂正しながら、しばらく自分で笑いが止まりませんでした。
 英語は、長いセンテンスでも、関係代名詞の存在や、人称・数による動詞の変化などから、主語-術語関係の理解が比較的容易で、息つぎにそれほど頼る必要がないようです。分かりやすい朗読には、やはり正しい息つぎをしなければならないのでしょうけれども。

稲荷社(写真)/ 未開人のすること


稲荷社

 堺市・蜂田神社内の三ツ峰稲荷社。2005年8月20日写す。

未開人のすること

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月1日(土)降ったり晴れたり

 僧陰律如令、僧陰律如令…。馬鹿げている。未開人のすることである。しかし、墨をすって、祖父の望む通りに書いた。「幅二寸縦五寸の白紙に僧陰律如令と書きて清水にて呑むべし。」それがどんな科学的効果をもたらすのだ。「聾をなおす法」[1] だって! いまの祖父に対してすべきことは、どこかへ隠れてしまった祖父の科学的観念を引っ張り出して上げることと、いわれる通りにおまじないの文句を書いて上げることのどちらだろうと考えながら、安易な後者を選んだのだった。

 アセンブリーは同志社大学 O 総長と同大学 H 教授の講演。せっかくこれだけ重大で深遠な話をするのなら、もっと聞きよい調子で話して欲しいと思ってばかりいたので、要点が掴めなかった。H 教授は大学教育の使命について、O 総長は日本人の性格と民主社会ということについて述べておられたようだった。総長は高くて細い声で、「であります」というところに力を入れて、また、何でもないところに「ですね」という句を多く挿入しながら話された。

 出席を取って、近ぢか来沢される名士の紹介があっただけで終った物理の時間、その前の休み時間のコウモリ事件など、愉快なことがいろいろあった。

 MY 君の「国体感想記」は、何とも丁寧な調子で書かれている。「感激致しました」というような具合である。Jack の創作と同じく、「実力の差が有ります」と「有る」を漢字で書いているのも面白い。

 拍車をかけて活動しなければならないところへ、2日間の休みか! 母が粟津へ1泊旅行 [2]。

 引用時の注

  1. 祖父は大連にいたとき、ちょっとした事故にあい、耳が大分遠くなっていた。
  2. 職場の旅行だったか。

2005年8月24日水曜日

検索ワード解析

 エコログ(注:本記事を最初に掲載したブログ・サイト)のアクセス解析に「検索ワード」機能が追加になった。これを使って、早速私のブログ・サイトの「検索ワード解析」を試みた。

解析対象期間:2005.8.18~2005.8.24(期間内総アクセス数:3,601)
下記の表では第20項以下を省略

検索ワード アクセス数 アクセス率 (%)
1 靖国問題とは 33 3.82
2 エルンスト・フェルディナント・エーメ 12 1.39
3 原爆に関する本 9 1.04
4 クマゼミ 8 0.93
5 御影大橋 8 0.93
6 ケイトウ 7 0.81
7 三島由紀夫 写真 7 0.81
8 人間失格 6 0.70
9 三島由紀夫 6 0.70
10 広島(原爆に関すること) 6 0.70
11 福知山城 5 0.58
12 アインシュタイン 原爆 5 0.58
13 ベルリンの至宝展 5 0.58
14 水彩画 5 0.58
15 改憲は必要か 5 0.58
16 アブラゼミ 5 0.58
17 夏目漱石 こころ 5 0.58
18 クマゼミ アブラゼミ 5 0.58
19 三島由紀夫 自殺 5 0.58
20 軍人勅語 5 0.58

 3、10、12を原爆関係としてまとめれば、20件となって、「靖国問題とは」に次いで、2位に躍り出る。8月だからだろう。三島由紀夫に関心をもつ人も多いようである。三島由紀夫関連の検索、7、9、19を合わせれば18件、また、4、16、18をセミ関係としてまとめれば、これも18件となって3位を分け合う。セミについては、夏休みの宿題の参考にしたいという検索だろうか。多少なりとも参考になれば、嬉しいのだが。

 2のエルンスト・フェルディナント・エーメについては、「ドレスデン国立美術館展」という記事の中で、彼の「サレルノ湾の月夜」という絵を、私の気に入ったものの一つとして書き並べてあるだけである。

 上記の表は、私が興味をもって書いたことと、インターネット読者が読みたいと思ったこととの重なり具合を示す一種の地図というべきものであろう。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

RIN 08/25/2005 00:19
 いつの間にかこのような機能があったんですね。私の場合はこの一週間の第一位は「えのすぱ」でした。「江ノ島アイランドスパ」の愛称ですが、世間が何を調べたがっているかが何となく分かって面白いですね。

Ted 08/25/2005 08:12
 これはすでに書いた記事にヒットした数のリストですから、新たに書こうとする話題がどれくらい読まれるだろうかということは、これをもとに極めておおまかに類推するしかありません。それでも、そういう類推が可能になったことは、ありがたいです。

元従軍看護婦さんの話 (Former Army Nurse's Story)


【Read in English.】

 さる8月21日、サンスクエア堺において、「堺・九条を守りいかす会(仮称)」を作る準備のための会が開かれ、私も参加した。ほかに10数名の参加者があり、各人の日本国憲法九条に関する思いや、私たちの今後の活動についての意見を話し合った。

 参加者の一人の M さんは、元従軍看護婦で、第2次世界大戦の末期に南京で勤務していたという。彼女は南京病院で細菌培養の仕事をしたことや、その他の辛い経験について語った。細菌培養は、何か基礎的な実験のためだろうと思っていたが、もっと多く培養するように要求された。それでも、自分の技術を向上させるために必要なのだろうと考え、その仕事に懸命に励んだ。しかし、さらに沢山の培養をするように命令された。彼女はその後、自分が培養した細菌は細菌兵器のためだったのだろうと思い至り、なんと恐ろしい仕事に従事させられたことかと振り返っている。

 ある休日、M さんと友人の看護婦たちは兵隊たちの長い行列を見た。何かの配給を貰うためだろうと思って、彼女たちも列に加わった。一人の兵隊が、「行きなさい。君たちがここにいたら笑われるよ。」といった。彼女たちは「配給の行列じゃないのですか」尋ねた。兵隊は「豆の配給だ」といった。それは、実は従軍慰安婦を求める行列だったのである。

 敗戦後、日本兵たちは動物になり、看護婦たちは彼らを恐がった。捕虜になるよりはと、何人もの看護婦が自殺した。1946年1月、M さんは、他の看護婦や兵隊たちと一緒に日本へ帰るため、南京から上海へ貨物列車で運ばれた。一同は一杯に詰め込まれた車両の中に立っていたが、隣の兵隊が彼女の方へ寄りかかってきた。彼女は「重いから押して来んといて」といって押し返した。よく見るとその兵隊が死んでいることに気づいた。間もなく、彼女も高熱に襲われた。マラリアを発症したのだ。しかし、冷たい死体に触れることによって、高熱に耐えることができた。――死人が彼女を助けたのだ。――

 以上は、多くの人びとが持つ戦争にまつわる悲しい話のごく一部に過ぎない。あなたは、日本が集団自衛の名のもとに再び戦争をすることを許してよいと思いますか。



 写真は8月20日、堺市の鈴の宮公園で。7月28日にこの公園でみかけたのはクマゼミばかりで、8月5日には約1:2の割合でアブラゼミが加わっていたが、このとき目にしたセミは、数も少なくなり、ほとんどがアブラゼミだった。公園の池を隔てた蜂田神社の森では、クマゼミの声が以前より静かに聞こえてはいたが。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/24/2005 11:50
 こうした体験としての事実の前に立たされたとき、言葉を失ったままひたすら打擲されるしかないものです。どうしてもネガティブにならざるをえない、みずからの現実の体験としての事実をもって、憲法9条問題へと駆り立てていかねばならない精神のうちに潜む不条理や非情さに病まずにいられない心の闇というか、無辺にひろがる寂寥や絶望が痛烈にひびきます。9条を守るべき責めを負うのは、私なども含めた戦争を知らない子どもたちの世代以降のすべての人たちであるべきだと、私は思うのです。

Ted 08/24/2005 13:44
 戦争の体験者が、自らへの不快感を忍んで、なまなましい不条理の絶望感を伝えて下さることも重要かと思います。臨場感のない説明では、戦争の本当の恐ろしさは、伝わりにくいのではないでしょうか。

Y 08/24/2005 19:21
 Ted さんは、これまででもずっと、九条を守りいかす会、の前身などの、いわば積極的な活動をなさってきたことと思いますが、私はこの問題について、まだまだ活動者にはなれないのです。ずっと先の課題になるかもしれない、と思っています。
 人間は必ず「善いと思われること」ができる性向を実はもっていません。人間は状況の厳しさのなかで、罪悪に手を染め、そのようなことを生涯したくなかった他の人にも、同じことをさせる結果になることもあります。もちろん戦争がその最たる特異な現実ですが、しかし、いつの時代でも、現代でも私たちの社会には、生命と尊厳をもつ人に対して不条理さをあたえる無神経な言動をする人がいないではないですよね。子どもを自殺にさえ追いやる強烈ないじめの世界でも。
 従軍慰安婦を求める人間に根源的な欲求と罪悪との同居だとか、ひとつの命の尊厳と多くの命の尊厳とが、おなじ前提のうえに実はあるべきだということだとか、狭義の政治では考え尽くせない重要な問題がここに凝縮されている。そういった視野で、私は考えています。

Y 08/24/2005 19:28
 ええ、四方館さんの考えられるとおりだと思います。戦争のオリジナルの現実に触れえない子どもたちの世代が、ではどんな精神で九条を継承し続けるのか、この世代の自分たちは戦争責任から免れられるわけではない、といった、「守るべき責め」の表現でまさしく的確であるような、自己に「責め」を見出す意識が大事だと思います。

Ted 08/24/2005 19:32
 Y さんが、「狭義の政治では考え尽くせない重要な問題」について考えられるとき、それは、平和のための運動をすることに劣らない大切なことをしておられることになると思います。

ヨハン 08/25/2005 02:39
 民間人ですら「祖国のため」という言葉の呪縛から逃れられず、善悪の区別する事すら認められなかった時代、悲劇を2度と繰り返さないためにも、指導者にこそ九条の本質をきちんと理解させる必要があるのかも知れません。

Ted 08/25/2005 08:28
 そうですね、改憲を考える人たちは、9条のよさが分かっていないのです。
 この話をして下さった元従軍看護婦さんは、1924年生まれ、和歌山県の田辺高女を出て、和歌山日赤を1943年に卒業(19歳)。それと同時に陸軍省から「召集令状」(赤紙)が来て、「女性の出征は珍しく名誉だ」と村をあげて日の丸の小旗で見送られ、南京第一陸軍病院の伝染病棟勤務となったのでした。

2005年8月23日火曜日

セミの抜け殻(写真)/ M・Y 君からの感想(2005年7月分)


セミの抜け殻

 写真は、去り行く夏を憂い気に木の葉にとりついているセミの抜け殻(堺市・鈴の宮公園で、2005年8月20日)。

M.Y.君からの感想(2005年7月分)

 さる8月18日付けで、M・Y 君から "Ted's Coffeehouse" 7月分への感想文を貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。




1. 随筆

(1) 「ゴッホ展」

 「糸杉と星の見える道」の模写は、よく感じがでていますね。この絵では、二人の農夫と後ろの二人乗りの馬車が夜のくつろぎを感じさせます。私は、「黄色い家」をモームの『月と6ペンス』にも書かれているゴーギャンとの協同生活や、それに破綻があったことなどを想いながら眺め、よい絵だと思いました。

(2) 「高校時代の写真」「科学・技術者を目指す女子高校生のための夏の学校」

 2名の女生徒と日記に登場する人びとを興味深く拝見しました。女子高校生のための夏の学校の募集は全くタイミングよく届いたものです。

(3) 「科学における25の大きな疑問」

 サイエンス誌125周年特集の25の大きな疑問の中には、タイトルを見ただけでは何のことか分からないものもありますが、これらが4半世紀に直面する大きな疑問であるということは大いに参考になります。「5. 物理学の法則は統一されるか」は、先月の元上司の物理的世界観云々と関連しているようです。物理学はどこまで進展するでしょうか。

(4) 「私の持っている最も古い写真」

 これだけ鮮明によく転写できたことに驚きました。写真に写った人物・服装にも興味を惹かれます。1900年初頭には白黒写真技術の基本は完成していたのですね。1990年代後半に急速に普及したデジタル・カメラは写真技術のブレークスルー、さらなる発展はどのようなものでしょうか。

(5) 「第55回パグウォシュ会議(広島)へのメッセージに賛同」

 パグウォシュ会議についての新聞報道は、例えば7月23日の朝日新聞夕刊で「本日から広島国際会議場で開催され、科学者集団が5日間、知恵を出し合う」など、当日のハイライトと関連事項の簡単な報道のみだったので、本記事に「憲法九条がラッセル・アインシュタイン宣言とともに、核兵器廃絶後の、人類の未来への布石として先見的、人類史的意義をもつことを確信する」という関西平和研究グループ有志のメッセージが引用されていることは意義深いと思います。九条がかつてない存続の危機に瀕しているなか、共産党と社民党が来る衆議院選挙でも九条を守る態度を示しているのは救いでありましょう。

(6) 「セミとり」「日本最古の噴水」

 セミとりにまつわる思い出とウォーキング中に撮ったセミの写真、9歳で亡くなられた兄上を偲び近年兼六園を訪れるたびに見に行く日本最古の噴水の話は、筆者の現在と関連させて少年時代の思い出を語る爽やかな読み物です。噴水の写真もよく、セミの3連写真も面白いです。

(7) 「死後に親しむ」

 作家・水村美苗が寅さん俳優・渥見清を彼の生前になぜ知らなかったかは別にしても、小林信彦の『おかしな男』を読んで関心を寄せ、『男はつらいよ』の初編ビデオを見て「歓喜」が体中にあふれた、と知り、その経緯を興味深く思いました。

 私は水村美苗の『本格小説』についての貴君の書評にひかれてこの本を読み、彼女のすばらしい創作構想力に圧倒され、この深みのある和製『嵐が丘』を読みふけりました。続いて『続明暗』を読み、大いに感銘をうけるとともに、漱石の未完の『明暗』をいかに読み解くかについ教えられました。貴君の名書評に感謝します。

2. 写真

 貴家の庭の花は一度に三つ咲いたハイビスカスサフランモドキキキョウオクラモミジアオイと種類多く、また、40年前に伯母様の家から貰われた思い出のアガパンサスの花もあるそうで、生活に潤いを添えていることでしょう。

 イタリアの美しい風景、歴史的建造物、街並みは構図がよく素敵です。宿泊されたホテルの部屋の窓から撮ったローマの街角の写真に果物売り屋台のトラックらしい車の前を二人乗りの黄色の超小型車(ベンツ社の SMART)が走っているのはユーモラスです。また、ナポリ湾越しに見たヴェスヴィオ山は天候に恵まれてよいチャンスを捉えた巧みな写真です。

3. 交換日記

(1) 先生方のお話

 Ted の9月20日の日記に、金城高校の加藤校長の講演について記されており、音楽のメロディー・リズム・ハーモニーが会話においても必要な発声上の注意点であるという話があったことが紹介されています。他方、Sam の9月23日の日記には、友人と二人で訪問した先生宅で、兄弟がいないということについての話を聴き、人格の形成と人生観の確立のための真の学問をした、と感銘したことが簡潔に面白く書かれています。どちらもよい話だと思います。

(2) 事実は小説よりも奇(9月23日の Ted の日記

 Sam が「海水浴」)で想いを述べた Green の父君が Y・T 氏なら、彼女が「中学生時代にぼくに対して最近の君に与えたよりも少ない好感を与えた女生徒だったことを思い出す」とのこと。仮定が正しければ、Green にまつわる話は小説よりも奇といえるでしょう。

(3) 「高校新聞の私的採点」

 コンクール参加の県下各高校の新聞15紙(各校2~4号)の大量を読んで私的採点をされたこと、しかも1、2位を的中させたのはさすが編集長だと感心しました。「終わり。まずい。」に「非能率的に、目を広い範囲に向けないで活動したからだ」と編集長自身の反省がありますが、『菫台時報』が入賞を逸したのはさぞ残念だったことと思います。

 また、10月10日の日記第2節に過去の編集室の様子を記し、「こんなのが2月ころの編集室だったが、いまはどうだろう。しばらくするとどうなるだろう」との想いをいたす編集長の苦労を察します。

 私的採点では中程度以下だった「羽松ヶ丘」(県立羽咋高校の新聞)が佳作になるなど、金沢市以外の文化的辺境地にある高校の努力をたたえる意味もあると引用時の注にあります。羽咋市については、近くに北陸電力の志賀原子力発電所があり、そこへ仕事ででかけたことがありました。金沢から七尾線で羽咋まで行き、ここからタクシーで発電所まで行きました。近くに広びろとした砂浜の美しい千里浜海岸があり、紙名の「羽松ヶ丘」はその光景を思い出させます。

(4) 菫台高校校歌(前記10月10日の日記第2節の後)

 菫台高校校歌と紫錦台中学校歌でこれだけ多くの単語が共通に用いられているのは、なにか因果関係があるかと思われます。両校の名前の響きも似ています。私の高等学校は、旧制中学と女学校が一つになった県立高校で、男女半々の共学校でした。校歌は新制度で生まれ変わり、そのことを賛えるかのような内容の美しいメロディーの歌で、新鮮さを感じたものです。歌詞は、はっきりとは憶えていませんが、下記のようなものでした。

    明ゆく空に 打吹の輝く峰を仰ぎつゝ
    若き理想の学び舎に 伸びて育ちて美しく
    光を受けて競い咲く 花なり若き友我ら

 1年生は全員が美しい環境にある旧女学校のこじんまりした清潔な校舎で学び、2、3年生は旧制中学の広い野球グランドのある古びた校舎で学ぶことになっていましたが、2年生の終わりに2校舎分離の不便さなどの見直しがあり、3年生から二つの校舎を拠点にした東西二つの高校に分離しました。理想の学び舎も今は昔のことです。

2005年8月22日月曜日

『通販生活』特別付録:憲法九条改変の賛否を問う企画


 妻が購読している『通販生活』の2005年秋号に、上のイメージのような冊子が付いてきた。特別付録である。大きな文字の「憲法を変えて戦争へ行こう」だけを読むと、「これはなんだ?!」と思うが、小さな文字の「という世の中にしないための18人の発言」まで読んで、私は安心した。

 これは、岩波ブックレット No. 657。これを付録として添付することを、通信販売のカタログハウス社が、憲法九条改変の賛否両論を読者から求める企画として実施したものである。挿入されている挨拶文の中には、次の一文が太字で記されている。

 私たちは「九条を守る」よりもっと大切なことは、九条は変えないほうがいい、いや、変えたほうがいいよと、お互いにのびのびと持論を表明し合える「言論の自由を守る」ことだと考えています。

 時宜を得たよい企画だと思う。このブックレットで発言しているのは、広い分野にわたる次の人びとである。[活躍分野が複数の人たちについては、()内の説明を代表的なもののみにとどめた。]

 中村哲(医師)/美輪明宏(歌手)/香山リカ(精神科医)/吉永小百合(俳優)/姜尚中(東大大学院教授)/松本侑子(作家)/井筒和幸(映画監督)/辛酸なめ子(漫画家)/ピーコ(衣装デザイナー)/猿谷要(東京女子大名誉教授)/井上ひさし(作家)/半藤一利(作家)/森永卓郎(独協大特任教授)/渡辺えり子(劇作家・演出家)/黒柳徹子(俳優)/品川正治(経済同友会終身幹事)

 このブックレットには、木村裕一(詩)・田島征三(絵)による「子どもたちのだれかが」と題する2ページもある。

世界の国々を、子どもたちにたとえてみた。/…/4百万年の歴史を経た 人類の知恵も/ふと気がつけば/愚かな子どもたちのケンカに、実によく似ている。

 「愚かな子どもたちのケンカ」に似た「人類の知恵」とは、戦争のこと。まったく、その通りではないか。憲法とは理想をこそ追求すべきもの。それを、戦争を可能にする形に変えるならば、まことに愚かな退行でしかない。

今、この子どもたちのだれかが/「もうやめようよ」と 発言しなければ、/この先どういう未来が 待っているのだろうか。

2005年8月21日日曜日

団地の庭園:その2(写真)/ 内向きの掲示


団地の庭園:その2

 写真1枚目は、先日撮影した団地の庭園を前方へ出はずれたところから、逆向きに写したもの。2枚目は、この写真に、また Adobe Photoshop による加工を試みたもの。今回の加工条件は、メニュー Filter > Brush strokes > Dark strokes で、 Balance 10, Black intensity 0, White intensity 3 に設定。(後日の追記:加工したイメージは、見ていると目が疲れる気がするが、斜めの筆致風のところと、眼鏡の乱視の度が合わなくなっていることとの相乗作用だろうか。ところで、この斜め筆致は左利きのものであり、右利きの人間はそのまま真似が出来ない。)

内向きの掲示

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月30日(木)晴れ

 与えられたすべてのものを、もっと十分に利用したい。

1952年10月31日(金)晴れのち曇り

 門あるいは玄関に黒板を立て掛け、それに文字が書いてあるというのは普通に見かける光景だ。先日も、崎浦小へ結核健康診断に行ったときに、「結核健康診断の方は、校舎右の運動場から直接講堂へお入り下さい」と、黒板に書いてあった。しかし、黒板が内側へ向いているのは、珍現象の一つだ。下校する生徒の足を一旦踏みとどまらせ、そして、その生徒が生徒会議員であった場合には、19番教室へ送り返すという役割を担った黒板が、そういう状態で立っていたのである。後期に入って、生徒議会は猛烈に活発になってきたようだ。

 22ホームの SM 議員リコール問題、これに関する NKY 企画委員長の22ホーム一同宛の書簡など、劇的事件もみられる。「この時勢に鑑みて、われわれ新聞部員は…」と叫んで奮い立つような情熱がぼく自身に欲しい。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/21/2005 22:29
 生徒会活動でリコール事件など起こるなんてなかなかの騒動ですね。私の高1の時は、ちょうど60年安保でしたから、6.15や6.19に向け高校生の政治的活動参加について、何度も全校集会が開かれ、熱い議論が闘わされていました。

Ted 08/22/2005 07:56
 この少し後だったかと思いますが、ある1年生議員が生徒会則にない「生徒議会解散(再選挙)」の発議をして、それが可決されるという事件もありました。その1年生議員は、後に NHK の研究所に所属し、いくつかの著書(私には反動的と思われる)も出した角間隆君でした。60年は私が就職した年。職場の周囲はほとんど田圃で、実験棟などの建設がまだ進行中。夢のある別世界へ来た感を抱いたものです。

2005年8月20日土曜日

P・ガリソンがファインマンとアインシュタインを比較 (Comparison between Feynman and Einstein by Peter Galison)


【Read in English.】

 【概要 (Abstract in Japanese)】ノーベル賞物理学者 R・ファインマンの書簡集が発行された。P・ガリソンは Nature 誌にその書評を書き、その中でファインマンと A・アインシュタインを比較し、いくつかの相違点を挙げながらも、2人とも自らの独自性を保ち続けた点では同じだとしている。ガリソンが引用しているファインマンの最初の妻・アーリンへの最後の手紙は、彼女の死後に書かれたもので、平明な中にファインマンの悲しみを強く訴えるものとなっている。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

2005年8月19日金曜日

国際紙が日本に警告 (An International Newspaper's Warning to Japan)

【Read in English.】

 【概要 (Abstract in Japanese)】8月15日付けインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙は、日本の大衆の意見は近年右傾化していると指摘し、また、第2次世界大戦についての日本と他のアジア諸国との意見の相違は、日本をそれらの国ぐにから孤立させる恐れがあると警告する記事を掲載した。国際紙のこのような客観的な言葉には、日本の政治家だけでなく、国民の皆が耳を傾けるべきだろう。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/19/2005 10:35
 グローバリズムの世界となってしまって、その反作用というか、ナショナリズムが強まり表面化してきていると思われます。日本の社会状況では80年代にすでにソフトな(?)ファシズムが蔓延しつつあると警鐘する声がありましたが、戦後三世代に至りつつある現在、右傾化の潮流はさらに強まっていくのでしょう。

Ted 08/19/2005 16:48
 グローバリズムの反作用としてのナショナリズムの台頭ということもあるかも知れませんが、私には、アメリカに頼り過ぎる政府の政策と、これを容認する国民の姿勢が右傾化を進めているように思われます。

四方館 08/21/2005 18:41
 小泉首相は見栄も外聞もなく露骨にアメリカ追随をしますね。中曽根時代のロン・ヤス同衾ぶりに比べても、小泉とブッシュのそれは矜持の乏しいものに感じますが、その小泉流の空疎なスローガンに踊らされる国民性は、仰るように右傾化を加速したと思います。

Ted 08/21/2005 22:03
 私は微力ながら、右傾化を押しとどめるための発言をして行きたいと思っています。

Y 08/24/2005 10:51
 私もそのように思います。今、日本で保存され公開されている歴史的文化財の一般の観光客・来訪者への案内・紹介の仕方も、歴史の中の失敗や罪の如何を、今も繰りかえし問い直すだけの判断力を、たとえば私のように歴史教養のうすい市民に提供してくれるには足りないように思います。では、文化財の美しさを味わったらよいのかといえば、文化財のつくられた意味を知らずに美しい、立派だと感じるのは表層的なように思えますし。
 私なりの視点から言いますと、現代でもいつでも、教科書、小説、ゲーム、なんであれ文化を新しく作り出す際には、人や社会に対する理解の倫理性、また、大衆に広めるものである限り、そのかくれた政治性さえ自覚されるべきだと思います。アジアの人たちも、日本文化をみるときに、そういった面のどこかに敏感に反応したくなるときがあって当然でしょう。

Ted 08/24/2005 13:27
 私のブログに先日大阪の四天王寺の写真を掲載しました。その際、その建物の歴史が分かるかと思って、四天王寺のウエブサイトを見ましたが、建物はいつ建てられたのか、現在までの間に何度か再建されているのかということが、さっぱり分からないサイトだったので、リンクすることを止めました。
 歴史をきちんと伝えないことで最たるものは靖国神社です。侵略戦争を美化さえしているのですから。

2005年8月18日木曜日

夏雲のある風景(写真)/ Ivory tower のみを求める


夏雲のある風景

 昨朝は一昨夜の雨のため少し涼しかったが、日が高くなり始めると、すぐに蒸し暑くなった。写真は、午前のウォーキングの途中で、きょうも夕立があるだろうか、と空を見上げて撮った一枚である。(午後2時過ぎに、激しい夕立が来た。)正面の建物は泉北下水処理場。手前の階段状の部分には、下水処理で出た汚泥をリサイクルして作ったレンガが利用されている。

Ivory tower のみを求める

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月27日(月)雨

 人間とはいろいろなことを思わなければならない動物だ。「なで肩」という言葉をここへ書くことを躊躇する。「オフィリアに扮するに相応しいような」というのも…。「究理的な態度を何か深遠なものにして、こなしている」というのも…。それらのものを、ぼくはほとんど見くびっている。しかも、ほとんど尊敬している。――尊敬という言葉は不適当で、また、それを使わなければならないのは残念なことだ。しかし、それらを考えるときの愚かしさは、この言葉を使わなければならないという罰を負わされてよいほどのものだ。――Ivory tower のみを理性は求める。

1952年10月28日(火)雨

 臨時生徒議会を傍聴。TKG 君らが提案の応援団設置案可決。

1952年10月29日(水)曇り一時雨

 そんなことで、ちっぽけな名誉を得ようとして震えていたとは、浅薄な考えだった。[1]

 引用時の注

  1. 何のことだったか、記憶にない。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/18/2005 19:47
 密かな恋というのは、躊躇や相手を思うときのみくびりに近い心とともに、自分にとっての尊敬がどうしようもなく混じる…。そういう在り方は、あるでしょうね。またそれらの躊躇なく、恋の相手を絶賛してやまない場合も、あると思います。私などは一貫して(?)後者のほうなんですけれどね。

Ted 08/18/2005 20:47
 さすがは Y さん、異性に対するみくびりや尊敬の混在を理解していただけましたか。

2005年8月17日水曜日

天王寺界隈(写真)/ 時どき急に明るくなる日光が…


天王寺界隈

 写真は、さる14日午後、四天王寺からの帰路、近鉄ビル2階テラスから撮影した天王寺界隈の風景。盆休みで大阪市内は車が少ないかと思ったが、そうでもない様子だった。

時どき急に明るくなる日光が…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月26日()晴れ

 東の空には、沢山の藍黒色の雲が浮遊して、その大部分を覆っている。街路を歩いていると、手の甲を乾燥させる冷たい空気が、絶え間なく木々の梢や電線やその他のあらゆる揺れたりなびいたり吹き飛ばされたりすることの可能なものを動かしているのが、いかにも寒ざむとした感じを与えて目に映る。しかし、家で読書をしていると、時どき急に明るくなる日光が、自分の周囲以外のどこかで非常に楽しい幸福な場所を作り出しているのではないかという僻んだ幻想を起こさせる。――そんなきょうの午後を、君はどこへ行って過ごしたのかね。* [1]

 母という字をずっとママンと読みながら、ようやく第6巻まで読んだ [2]。「二項式の平方は、その各項の平方と両項の相乗の二倍から成り立つといふことを、始めて計算に依って知った時には、その運算が正しかったにも拘らず、図形を作ってみるまでは全く信ずることが出来なかった」ということが書いてある。シャルメットで知識の獲得に毎日を捧げていたルソオの24歳のときのことだ。

(Sam の欄外注記)* 親友の YM 君のところへ行っていた。彼の家は能美郡山上村字岩本。白山さんに詣で、天狗壁を巡っていた。秋の風物を満喫した。この辺はすばらしい名勝だ。

 引用時の注

  1. Sam の家を訪れたが不在だったのだろう。
  2. ルソオ著・石川戯庵訳『懺悔録』 (岩波文庫、第1刷発行1930、第20刷発行1952) を読んでいたのである。現在の岩波文庫版は、ルソー著・桑原武夫訳『告白』となっている。

2005年8月16日火曜日

四天王寺(写真)/ 揺らいでいる


四天王寺

 さる14日、盆だからではなく、曇っていて、五重の塔の写真が綺麗に撮れそうだったので、大阪の四天王寺を訪れた。地下鉄の夕陽ケ丘で降りたとき、小雨が降り出したが、4枚目の写真を撮る頃には止んだ。これは2枚目。

揺らいでいる

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月24日(金)晴れ

 昨日は1字も読むことなく、また1字も書かなかったが、Jack と SN 君の顔だけは見た。昼食後の休憩時間に見舞いに来てくれたのだ。全身に汗し、身体のやり場に困り、目を閉じ、時の移りを遅く感じ、無益な考察を、それも考察とはいえないほど不完全に行った1日だった。

1952年10月25日(土)曇り一時雨

 アセンブリーの時間は、前期生徒会の経過報告と新役員の挨拶と校歌の練習。会長と副会長の挨拶は至極短いもの。2年生からの分科委員長は財政の SM 君と情報の Jack だけ。新進議員の Jack が委員長に起用されたとは愉快だ。

 不安定になって来た。揺らいでいる。

 何か新規な運営方法はないものだろうか。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

RIN 08/16/2005 23:42
 「揺らいでいる」というタイトルが今日11:46の地震を予言しているようです。記事を投稿されてから約4時間後に地震が発生したことになりますでしょうか。

Ted 08/17/2005 07:38
 ご指摘を受けるまで、自分では気づきませんでした。タイトルは、高校生時代の日記中の心理状態を表現した言葉を抜き出したものでしたので。偶然の一致ですね。

2005年8月15日月曜日

サン・ピエトロ大聖堂:外観(写真)/ 全校一斉の国語テスト


サン・ピエトロ大聖堂:外観

 写真はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂。カトリック教会の総本山。315年から120年の歳月を費やして完成し、規模、装飾ともにイタリア随一の宗教建築を誇る。(2003年5月15日撮影。説明は旅行者に配付された JTB の案内書による。)

全校一斉の国語テスト

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月22日(水)雨

 HRH に全校一斉同一問題での国語のテストがある。問題は半紙1枚半あって、初めの2題が文と詩を読んで後の設問に答えるもので、その他は、漢字に仮名を振って意味を書くもの、漢字の書き取り、品詞・活用形の見分け、仮名遣いの訂正だった。「…でも」の品詞には助詞か副詞かと迷い、英語で even は副詞だということを考えて副詞にしたが、とんでもない誤りだった。英語的に考えれば、連体詞「あらゆる」が形容詞になったりもする。
 芥川竜之介の文の題を選ぶ最初の問題では、「山間の町で」に○をつけた。昼食時の編集室では、SN 君とTKS 君の「微笑」派と、Jackと HN 君の「ある日の追憶」派との激論が見られたが、「山間の町で」を支持するものは他にいなかった。「微笑」は、主題の表現を引き立てる役割こそしているが、題には出来ないと思う。「ある日の追憶」は、最後の文の中に、いまでもその少女の容姿が頭によみがえって来ることがある、ということが書かれているところから、一応考えられる題ではあるが、全体を「追憶」としてしまうには文の調子が懐旧的でなさ過ぎるような気がした。しかし、残念なことに、確固とした自信はない。――Sam は「背水の陣」の由来と意味を知っているかい。――

 KW 君と比べて、より多くのユーモアと、より少しの豪傑ぶりを持っている NS 君は、きょうから生徒会室に泰然とおさまっている。放課後、『菫台時報』次号の「論説」を書いて貰うための原稿用紙を渡して来た。原稿用紙印刷代を印刷屋へ払って貰うために、財政委員長も早く決まってくれないと困る。SM 君がなりそうだという情報がある。そして、Jack が情報委員長に?

2005年8月14日日曜日

サン・ピエトロ大聖堂:その2(写真)/ スポーツ色の生徒議会


サン・ピエトロ大聖堂:その2

 写真はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂内部。7月20日に掲載の写真よりも入口近くから撮ったものである(2003年5月15日)。

スポーツ色の生徒議会

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月20日(月)晴れ

 第1回臨時生徒議会は流会になった。SM 君は会長の席を占めようと懸命に運動していた。生徒会活動に対する熱心さで彼の右に出るものはいないから、彼は楽らくと当選するかも知れない。しかし、3年生は運動クラブに属する大量の議員を送っているから、彼らが、何かこれに対抗する動きをすることも考えられる。

1952年10月21日(火)晴れ

 昼食時に臨時議会。NS 君が会長になる。副会長は野球部で右翼手だった3年生の SG 君。完全にスポーツ色の生徒議会だ。

 3回にわたった英文法の試験が終った。英作の問題では、教科書にあった英文 "He ruined his health." を和文にして問題としたのが1題あった。Ruin という動詞を使ってあったことに気づかなくて、ちょっと困ったが、G & C にあった to lose one's health を思い出して使った。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/15/2005 12:21
 システィナ礼拝堂の壁画の修復が成ったのは94年でしたか。私が行ったのは2000年でしたが、明るい色あざやかさにかえって違和をおぼえるほどでした。

Ted 08/15/2005 16:14
 ヴァチカン美術館、システィナ礼拝堂も半ば駆け足で観なければならなかったのは、グループ旅行の残念なところです。

2005年8月13日土曜日

ケイトウ(写真)/ なまじ訪問し合う間柄ゆえ…


ケイトウ

 甲子園では球児らの熱闘が続くが、近隣の公園にはケイトウの花が咲き、秋の気配が忍び寄る(写真は堺市・笠池公園で、2005年8月9日)。

なまじ訪問し合う間柄ゆえ…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月19日()晴れ

 26ホームでは選挙管理委員の NS 君をリコールでやめさせ、生徒会議員にしてしまったということを Jack から聞いた。2年生から会長が出るとすれば、授業中に先生の質問に答えるときでも「これはー、ですね」などと、妙にもったいぶったいい方をする SM 君よりも、明朗で意気の強い NS 君の方が望ましい。

 3校の野球リーグ戦は、見ていて少しも熱の入らないものだった。対二水戦は4回辺りから見たが、菫台は毎回走者を出しながら、得点できないで破れた。吉田投手は加賀谷投手をリリーフして登板していた頃より、ずっと安定感が出て来ている。けれども、甲子園のマウンドを踏む投手として期待するには、まだまだ球威が足りない。対桜丘戦は1回の表裏がヤマだった。そして得点も、両校ともその回にのみしか上げ得なかった。何回だったかに、上井君を二塁において、捕手の中井君が左前安打したが、そのとき三塁までしか走れなかった上井君が還っていれば面白かっただろうと、惜しまれる。

 また HZ 君に会った。(彼の名を書くたびに「また」と書かなければならない。)彼は「学校は?」と聞いたようだった。質問としては、あまりにも漠然としていたので、何とも答えられなかった。黙ったまま相手の顔を見つめているわけにもいかないので、視線を全然意味のない方向へ向けた。なまじ家を訪問し合うほどの間柄ゆえに、道で会う毎に一礼しただけで行き過ぎられないのは面倒なことだ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/15/2005 12:26
 ケイトウの花、いいですね。幼い頃の家の二軒隣の角が小さな医院でしたが、そこの庭に並んで咲いていた光景が想い出されました。

Ted 08/15/2005 16:32
 この写真のケイトウは大小いろいろですが、紅い房状の花の丈が揃っていると、私はロンドンやオタワで見た衛兵交替の儀式を思い出します。

2005年8月12日金曜日

アヒルの身づくろい(写真)/ 母校創立105周年の集い


アヒルの身づくろい

 中の池公園のアヒルたちが、水浴びをした後であろうか、狭い岸辺に並んで身づくろいをしていた(2005年8月1日撮影)。

母校創立105周年の集い

 先日、金沢商業高校(私の在学前後の計10年間は金沢菫台高校、それ以前は金沢商業学校)創立105周年「友情の集い」の案内が、同窓会長と「集い」実行委員長の名で届いた(同窓会の名は、金商菫台同窓会という)。「集い」は2005年10月8日午後4時から、金沢全日空ホテルで行われ、松井さえ子氏(金商高9回卒)の記念講演があることになっている。

 松井さえ子氏とはニューヨーク・ヤンキース松井秀喜選手の母堂である。彼女がわれわれの14年後輩だったことを、この「集い」の案内状で始めて知った。何年か前の夏、星稜高校の一塁手・四番打者として甲子園へ出場し、敬遠の四球ぜめにあいながら、淡々として一塁へ歩き続けた松井選手をテレビで見た。彼は当時から大物になりそうな風貌を備えていた。その彼の母堂の講演は興味深いと思われる。

 しかし、10月17、18日には、菫台高校新聞部の同窓会があり、そちらへは、すでに5月に出席予定の返事を出した。その9日前にも金沢へ行くのは忙し過ぎるので、創立105周年の方は残念ながら不参加の返信を出すことにした。

 後日の追記:8月16日付け朝日新聞の全国高校野球選手権大会関連インタービュー記事「あのときアルプスにいた」によれば、松井秀喜選手が5連続敬遠を受け、星稜が明徳義塾(高知)に3対2で惜敗したのは、13年前の1992年8月16日、第74回大会2回戦であった。この記事で松井選手の後輩・山本英一氏は「あの試合についてこのごろ、むしろ、明徳の選手たちは嫌な思いをしなかったかな、と気になるようになってきました」と語っている。

団地の庭園(写真)/ Jack が生徒会議員に



団地の庭園

 1枚目の写真は、団地内の庭園を半ば逆光の条件で撮ったもの(堺市の津久野南団地で、2005年8月9日)。絵になりそうな風景なので、画像処理ソフト Adobe Photoshop (Ver. 5.0) で加工して、絵を模した2枚目のイメージを作成してみた。加工法と条件は、メニュー Filter > Brush strokes > Accented edges で、 Edge width 1, Edge brightness 35, Smoothness 3 に設定。

Jackが生徒会議員に

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月18日(土)晴れ

 人気者の Jack が生徒会議員に当選した! わずか数名の者が彼の名を書くか書かないかで決まることだが、今度の彼の当選は、何ものをも恐れなくなった(英語の試験だけは例外かも知れないが)彼にとって十分に相応なものだった。彼が荘重な空気の19番教室 [1] で、大きな口で何かを発言する図はピンと来ないが…。

 SN 君のホームでは、前期に議員だった YMG 君がホーム委員になり、陸上の KN、サッカーの KB と、スポーツクラブの2君が議会に進出することになったそうだ。

 数学の試験で始めて歯の立たない問題に出くわした、と思ったら、何のことはない、lim (x➝1) [1−(n+1)xn+nxn+1]/(1−x)2 とは、すなわち 1+2+3+...+n ではないか。3年生の1人が出来たそうだ。* [2]

*(欄外注記)後で聞いたところでは、彼は自然数1からnまでの和と気づきながら、それを n(n−1)/2 としてしまったそうだ。

 引用時の注

  1. 化学のための階段教室で、生徒議会はそこで行われていた。
  2.   1+2x+3x2+ ... +nx(n−1) = (d/dx)(x+x2+x3+ ... +xn)
                 = (d/dx)[x(1−xn)/(1−x)]
    を思い浮かべて、2行目の式の微分が問題の分数式に一致することを確かめれば、1行目左辺から n(n+1)/2 という答が出せるが、ヒントなしにこれに気づくことは難しい。「何のことはない」と書いたのは、先生の解説を聞いてのことだったか。分母が極限値で0になるとき、分子分母を微分して極限値を求められることを使うならば易しいが、当時は、それをまだ習っていなかったはずである。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/12/2005 10:34
 写真は印象派マネの「草上の昼食」のようですね。真夏の陽光で、目にする風景も溶けそうに暑い毎日ですよね。水彩画も自由度が高いですから、この風景もいろいろな表現方法があるでしょうね。
 私も今、高校『数学1+A』から復習し始めています。特別なニーズの家庭教師をするためですが。

Ted 08/12/2005 11:56
 絵の題材は、本当はどこにでもあるのですが、腕が伴わないので、つい題材選びに苦労します。大連嶺前小学校「美嶺展」出品の題材が、まだ決まりません。
 私たちの頃の高校数学の課目は、解析 I、解析 II、幾何という呼び方でした。

Y 08/13/2005 02:31
 今の高校数学は、「数学1+A」「数学2+B」「数学3+C」に分かれていて、「数学3」が理系数学のようですね。
 私の時代は、「数学1」「代数・幾何」「微分・積分」、そして理系数学の微分・積分でした。今は6分野(科目)に分かれているようです。この年齢になると、数学以外についても、各教科の面白さや意義が一段とわかってきます。

Ted 08/13/2005 08:26
 私たちの頃は上記3課目の他に、文系へ進学する、あるいは進学しない、生徒たちが履修する一般数学とかいう課目もありました。
 私も時折、高校で習ったことを復習する必要を感じますが、当時の教科書や参考書は処分してしまったので、近年、世界史や日本文学史の高校生向け参考書を買ったりしました。村田喜代子著『名文を書かない文章講座』(葦書房)に推奨してあった『高校生のための文章読本』と『高校生のための小説案内』(筑摩書房)(どちらかが推奨してあり、他方はアマゾンで注文する際に見つけて合わせて買ったのかも知れません)も、教科書のようなアンソロジーですが、面白いです。

2005年8月11日木曜日

『こころ』再読

 漱石の『こころ』を再読した。最初に読んだのは高校 2 年のときだったから、実に 53 年ぶりである。再読のきっかけは、次のようなことだった。ブログに連載中の高校時代の交換日記に、私が
 もしも、『夏空に輝く星』のテーマが君の思ったようなものだったら、…(略)…稔や敏夫はどのような考察をしただろうか。彼らの生みの親は、その解答にちょっと迷う。それは、身をもってする芸術であるとするか、『こころ』(まだ、読み終わっていない)の中で「先生」がいった言葉は真実であるとするか。

と書いたところがあった [1]。それに対して、ブログの友人 Y さんから

 『こころ』の先生の台詞とはどんなものを指しているでしょうか。「恋とは罪悪でございますよ」ではないですよね…。
というコメントを貰った。そこで、私は「先生」の台詞を確認する必要にせまられたという次第である。

 その台詞は、すぐに分かった。第十二章の終りで「先生」は「私」に、こういっている。「然し……然し君、恋は罪悪ですよ。解ってゐますか。」まさに、Y さんの想像通りだった。

 『こころ』は 56 の章からなっているので、第十二章は、まだ、ごく始めの部分である。しかし、私は必要な答を見出して、そこで止めることをしなかった。途中で、竹西寛子の短編集 [2] を読んだりもしたが、きょう、『こころ』を読み終えた。読み終えて、巻末の小宮豊隆による解説を見ると、この作品は 1914(大正 3)年 4 月 20 日から 8 月 11 日まで、110 回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された、とある。奇しくも、91 年前のきょう、連載が終ったのである。

 漱石がこれを書いたのは 47 歳のときだそうだ。改めて、その構成と表現の巧みさに感じ入る。欲をいえば、「先生」とその親友 K が競って好きになった「お嬢さん」の描写がいくらか弱い。同じ人物の、「先生」の夫人としての「奥さん」時代はよく描かれているのだが、「お嬢さん」と「奥さん」の間にはギャップが感じられる。そして、「お嬢さん」の母である「奥さん」と「先生」の夫人の「奥さん」が、母と娘であるにしても、似すぎているように思われる。

 なお、この作品は、2003 年の岩波書店創業90年記念「読者が選んだ〈私の好きな岩波文庫 100〉」で、圧倒的な投票を得て第 1 位だったという。『こころ』が誕生から約 90 年を経たいま、なお好まれるのは、その中に見られる愛の形式によってではなく、「先生」の目を通した形で示される K における自己の信念と感情との葛藤や、「先生」における良心の呵責の、鋭い描写によってであろう。

 ちなみに、私は『こころ』よりも、上記の読者投票で 15 位だった『三四郎』(漱石 41 歳の作品)の方を好む。その理由は、よりモダンで明るいというところにあるだろう。上記の投票で、『三四郎』は漱石の作品としては、『こころ』『坊っちゃん』『吾輩は猫である』に次いで、4 位だった。(『こころ』は [3] などで読めるが、私が今回読んだのは [4] である。)

文 献
  1. ハイビスカス / 漆黒の瞳…、"Ted's Coffeehouse" (2005 年 6 月 26 日).
  2. 竹西寛子編、蘭:竹西寛子自選短編集 (集英社文庫、2005).
  3. 夏目漱石、こころ (岩波文庫、1989).
  4. 夏目漱石、心、漱石全集(新書サイズ版)第 12 巻 (岩波書店、1956).

[最初の掲載サイトでのコメント欄からの転記]

Y 08/12/2005 01:14
 しばらくブログを休んでいましたが、『こころ』が記事タイトルにあがっていましたので楽しみに来ました。漱石作品は、私の今の状況でも本当なら日々、読みたいです。
 『こころ』の隠された焦点は、「私」が自発的に、同性の年上の人を「先生」と呼び続けて、その「先生」が倫理的な死を遂げたことの愛情関係ではないかと思います。というのは、私にとっての「先生」の論文でそのような内容のものがあったからですが。けれども同時に、「私」が直接には会いえなかった「K」に限って、その人格的な強靭さは鮮烈で、「先生」が「私」に語るべき唯一の事柄として「K」を「先生」の人生で生かしてきた…、といった構成が巧みだと思います。
 『三四郎』でも『こころ』でも、女性像はそれほど複雑ではないですね。ですが作家であっても、彼は男性か女性かどちらかである、という制約を外れないところが、かえって面白いかもしれません。すべて均斉の取れた芸術は、かえって貧弱になってしまいますからね。

Ted 08/12/2005 08:00
 Y さんのコメントを予めお断りすることなく引用して、失礼しました。ブログ執筆をお休みだったので、メールをお送りすることを遠慮した次第です。また、「8 月 11 日読了」に意味があったので、掲載を急ぎました。
 「私」が「先生」を尊敬し慕う、そして、「先生」が隠された過去を遺書の形で「私」にのみ打ち明ける、――これは確かに、同性の愛情関係という、一つのテーマをなしていますね。
 『三四郎』を高校生時代に読んだときは、美祢子に惹かれたものですが、数年前に再読して、彼女の発している言葉が意外に少ないのに驚きました。

ぱんだ 08/18/2005 15:55
 面白いですね。今年は「吾輩は猫である」発刊 100 年目だそうです。夏目漱石には心に残る名言が多いので好きです。私のブログでも記事にしたので、よかったらお越しください。コメントなんぞいただけると倍うれしいです♪

Ted 08/18/2005 16:25
 ぱんださん、コメント、ありがとうございます。「吾輩は猫」君が 100 歳になりましたか。ぱんださんの記事も読みに行かせていただきます。

後日の追記:最初の掲載サイトの記事が、ぱんださんからのトラックバックを受け、同サイトのトラックバック掲載欄にぱんださんの記事のタイトルと文頭が自動引用されていた。それをここに手入力しておく。
 呑気(のんき)と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする(夏目漱石) 親鸞会講師のブログ
 夏目漱石のデビュー作「吾輩は猫である」、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」ではじまるユニークなこの小説には鋭いメッセージがたくさん散りばめられています。… (2005/08/18 16:14)
追記への注:ぱんださんのブログは、著者名を 2010 年 5 月 2 日付けで「親鸞会講師の筬島」に変更されたようであり、タイトルの後の「親鸞会講師のブログ」という記述は、現行のもので置き換えた。

団地の夏(写真)/ 国体選手の壮行会


団地の夏

 写真は団地の夏景色。春には、この辺りへサクラを見によく来たが、いまはサルスベリが咲いている(堺市の津久野南団地で、2005年8月9日撮影。Photoshop で修飾)。

国体選手の壮行会

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月16日(木)晴れ、17日(金)曇り

 先生の言っておられることが違うと知りながら、先生の考え方からすれば正しいことになる答を書いてしまった。とにかく、明日は先生の間違いを正して来なければならない。

 MY 君を始め5名の国体出場選手の壮行会が昼食時にある。3年生の猛者連が贈った激励の言葉は、言葉というより、馬鹿力のこもった肩の振動と口の開閉とそれが揺すぶる空気の発する音響であった。昨日で生徒会の前期は終ったのだから、厳密に言えば前生徒会会長ということになる OK 君が小声で朗読した激励の辞は、よくこれだけの文を作れたと思うほど長くて、中腰に座っていたわれわれの脚を痛くするものだったが、内容が聞き取れたのは選手たちだけだっただろう。しかし、意気のこもった、選手たちを感激させるに足る会だったといえる。

 体操の時間、準備体操を班毎にした後で、トラックを2周した。Jack の後について走ったら、自分の足が身体を速く運び過ぎた結果となって、胃から少量の食物が逆流した。

 登校の途中、IT 先生と一緒になった。前を歩いておられた先生から「お早う」と声をかけられたのだ。歩きながら、学校までが長く感じられた。「新聞部やめますか」と聞かれた [1]。それに答えようと考えたが、学校へ入るまで、ついに答は出なかった。もちろん、それだけの時間で出るとも思わなかったし、考えていることも、先生に聞いて貰うには少し突飛な、そして複雑なことだったので、話そうとはしなかった。

 引用時の注

  1. この日すでに2年生の後期に入っていたので、3年生になってからの予定を聞かれたのだったか。それにしては、早過ぎる質問のようでもある。いずれにしても、私は2年生の後期には引き続き新聞部に在籍して編集長を勤め、3年生の前期から化学部に移ったのだった。

2005年8月10日水曜日

アサガオ(写真)/ ロボットになりたい



アサガオ

 左は、わが家で育てたアサガオ。右は、中の池公園でツツジの茂みに咲いていたアサガオ(2005年8月9日写す)。(後日の注:後者はコヒルガオかも知れない。)

ロボットになりたい

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月15日(水)曇り

 書物を読み、文字を記し、計算をするだけの働きが出来るロボットがあれば、それになってしまいたくなるほどに、いろいろな煩わしい感情が湧いてくる。かつ、それを自ら求めもする。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/10/2005 12:19
 簡潔なだけにいろいろと想像がふくらみます。

Ted 08/10/2005 14:58
 自分でも、いかにも青春時代らしい日記だと思いました。

2005年8月9日火曜日

アヒルたち(写真)/ 「独立した日本の地で…」


アヒルたち

 写真は中の池公園のアヒルたち。全部で、この3羽である。両親とその子なのだろうか。このとき、そろって元気よく水浴びをしていたので、周囲に飛沫がたくさん写っている(2005年8月8日写す)。

「独立した日本の地で…」

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年10月14日(火)晴れ

 「天高く馬肥ゆる秋! ここに絶好の運動会日和を迎えて、若き次の世代をになうわれわれ若人は、ここに集い、独立した日本の地で、この場所で、活気に満ちた運動会をおこなわんとしている」とわれらの生徒会長が開会の言葉を述べた。その言葉はまだ続いた。弁論大会のような口調で、とうとうと、終るかと思うと続け、やめるかと思うと思い出したように始めて、そのたびに聞くものを笑わせて、型破りの開会の言葉だった。


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 08/10/2005 12:17
 昔は、体育祭も文化祭も秋に集中していたのですが、近頃の高校ではいつの頃からか、運動会は一学期に、文化祭は二学期の早いうちにとなっているようですネ。受験体制にとってこのほうがよいということでしょうが…。

Ted 08/10/2005 14:52
 春の運動会は、昔人間にはなじめません。いろいろなことが受験シフトというのも、味気なく思われます。

2005年8月8日月曜日

ミケランジェロの「ピエタ」(Michelangelo's "Pieta")


 写真はヴァチカン・サンピエトロ大聖堂内のミケランジェロの「ピエタ」(2003年5月15日撮影)。左寄り中央から下へかけての白い部分は、他の観光客のフラッシュによる。このような場所で、強すぎるフラッシュの使用はご遠慮願いたいものだ。

The photo shows Michelangelo's "Pieta" located at St. Peter's in Vatican (taken on May 15, 2003). White portions lying downward a little left to the middle of the photo was caused by another visitor's flashing. One should restrain from using an intense flash in such a place.

2005年8月7日日曜日

アブラゼミ対クマゼミ

 前回、鈴の宮公園を訪れてセミの写真を撮ってきたのは、7月28日だった。そのとき見かけたのは、すべてクマゼミだった [1]。それから8日後の8月5日、たまたま、カメラを持ってウォーキングに出て、鈴の宮公園まで行って驚いた。アブラゼミが、かなり目立つ割合で目にとまったからだ。

 鳴き声と先日の観察から、大阪・堺にはアブラゼミはほとんどいなくなったのかと思っていたのは間違いだった。アブラゼミの単調な鳴き声は発せられていても、クマゼミの一応のリズムを備えた騒がしい鳴き声と合わさると、ほとんど聞き分けられないだけのようだ。

 そして、この辺りでは、アブラゼミは、クマゼミより遅く出てくると知った。一本のサクラの木の低いところにとまっていた6匹のセミ(写真)のアブラゼミ対クマゼミの比1:2が、ちょうど、この辺りのこの時点での存在比を代表しているように思われた。

文 献

  1. セミとり (Ted's Coffeehouse, 2005年7月31日).

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

かわせみ 08/07/2005 11:20
 せみはクワガタやカブトムシのように喧嘩はしないんですかね。

Ted 08/07/2005 14:54
 私が見た限りでは、どの木でも、近距離に仲よさそうにとまっていました。

四方館 08/07/2005 12:14
 わずかな季節の移ろいのなかでの変化を読み取られていいですね。

Ted 08/07/2005 14:57
 ブログ用の写真を絶やさないようにしようとの思いから、この歳でようやく、自然をよく見つめるようになっています。

2005年8月6日土曜日

ベルリンの至宝展 (Masterpieces of the Museum Island, Berlin)


【Read in English.】

 イメージは「温室にて」(エドゥワール・マネ)の絵はがきと展覧会ちらし中の写真からの、私の模写(「マネの真似」というダジャレが成り立つ)である。模写の婦人の顔は、原画よりも若く見え、私は下手でも自分の描いた方を好む。

 先週の金曜日、わが家の前で下水工事のあとの最終的道路補修工事が行われ、妻と私は騒音とコールタールの匂いに耐えられなかった。ちょうど、神戸市立博物館で開催中の「ベルリンの至宝展」の券が2枚あったので、それを見に出かけた。

 この展覧会は「日本におけるドイツ年 2005/2006」を祝って行われる主な文化的行事の一つである。出品している「博物館島」とは、ベルリンの中心に位置する建物の複合体で、1999年に世界遺産に登録されている [1]。複合体を構成する建物は、旧博物館、新博物館、旧国立美術館、ボーデ博物館、ベルガモン博物館の五つであり、復興計画が進行中で、2015年に完成の予定となっている。

 展覧会では、多くのドイツ国外初出品のものを含む、約150点の選ばれた美術作品が展示され、世界的文化遺産の場所の将来像の精髄を伝えている。先史時代・古代から近代にいたるまでの作品を一度に見ることができる。私が特に好んだものを少しだけ挙げれば、「祭壇の浮彫:太陽神アテンとアクエンアテン王の家族(新王国時代、前1345年頃)」「クレオパトラ7世頭部(前40年頃)」「ヴィーナス(サンドロ・ボッティチェリ、1485年頃)」「温室にて(エドゥワール・マネ、1878~1879年)」である。

 「クレオパトラ7世頭部」の前では、大学のフランス語文法コースで習ったブレーズ・パスカルの言葉を思い出した:"Si le nez de Cléopâtre avait été plus court, toute la face de la terre eût été changée. (クレオパトラの鼻がもっと低かったなら、地球の全表面は変わっていたであろう)"

文 献

  1. Museumsinsel (Museum Island), Berlin (UNESCO World Heritage Web site).

2005年8月5日金曜日

カメ(写真) / アクセス解析


カメ

 写真は中の池公園の一住人のカメ君。2005年8月1日撮影。

アクセス解析

 このブログのプロバイダー "Echoo!" (後日の注:この記事の最初の投稿場所)では8月2日から、プレミアム会員向けにアクセス解析のサービスを始めた。中でも「参照記事別」のリストは、記事を書く立場として、かなり参考になる。リストは2005年7月5日以降の任意の日から最大1週間の集計を示してくれる。試しに私の "Ted's Coffeehouse" サイトでの、記事別とカテゴリー別の最大アクセスのものを、7月10日(日)から1週間区切りで3週間分について調べてみた。結果は次の通り。()内は期間内の総アクセス数。

7.10~16(3730)
 記事別:U.S. Newspaper Articles on Yasukuni (靖国についての米国新聞記事)、     71
 カテゴリー別:Watercolor、 67

7.17~23(3601)
 記事別:靖国問題とは、78
 カテゴリー別:Watercolor、 62

7.24~30(4208)
 記事別:「日本国憲法第9条について論ぜよ」、75
 カテゴリー別:Watercolor、 88

 「U.S. Newspaper Articles …」は 2005年6月29日、「靖国問題とは」は 2005年5月21日、『「日本国憲法第9条…」』は 2004年11月22日の記事である。

 意外なのは、カテゴリー別で「Watercolor」がつねにトップであることである。このカテゴリーには、他と比べて著しく少ない二つの記事しかなく、そのうちの一つの本文は英文だけである。ただし、その題名が「The Canal of Venice (ベニスの運河:水彩画)」であることが、国内外の検索エンジン使用者たちの目に止まるのだろうか。いや、そうならば、この記事自体へのアクセスも多いはずだが、そうはなっていない。"Watercolor" で検索して、同好の士を探す人たちが国外には多いのだろうか。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

かわせみ 08/05/2005 17:55
 プレミアムサービスのようで、私は残念ながら使えませんね。Ted さんのブログは外部へオープンにされてるのですね。

Ted 08/05/2005 19:42
 はい。外部へオープンしていまして、外部からのアクセスは全体の92%と、圧倒的に多いのですが、コメントは内部からのほうが多いです。

RIN 08/06/2005 08:58
 私も最近このアクセス解析機能があることに気付きました。私の場合はカテゴリ別では「ラーメン」が圧倒的に多かったです。やはり世間一般の方が興味のあるネタがたくさん閲覧されているような気がします。

Ted 08/06/2005 11:28
 RIN さんの「ラーメン」カテゴリへのアクセスが圧倒的に多いのは、記事の数も多いので納得出来ますが…。私の「Watercolor」へアクセスした人たちは、せっかく見ようと思った水彩画が2点しかなくてガッカリするのではないかと、心配です。もっと水彩画を掲載しなければいけません。

シラサギ(写真)/ 外形の、ある力


シラサギ

 ウォーキングの途中、川の対岸の木々の間に2羽のシラサギを見つけて撮影した。堺市の石津川のほとりで、2005年8月1日。

外形の、ある力

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月14日(火)晴れ

 目をそちらへ向けることに、どんな利益があるのだ! 視線をその上に射続けておれば、それがどうなるというのだ! そして、そこにあるものには、どんな価値があるというのだ! 外形の、ある力に対する自分の感情と、こうして闘いながら、同時に、あるものに対する、計り知らない内に沈潜する興味を「もしも、こうして一緒に座っているのが彼でなくて…」というような考えで、もてあそんだ。英語の答案を早く出して、沢山の赤とんぼが飛行する下の、暖かさの中で居眠りしているかと思われるクローバーの上に、TKR 君と腰を下ろしていた時のことだ。

2005年8月4日木曜日

木陰(写真)/ 運動会の準備


木陰

 写真は、堺市・八田荘公園で、2005年8月1日撮影。

運動会の準備

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年10月13日(月)晴れ

 明日の準備のための準備委員は丸公
[1] となる。各ホームから二名ずつ会場準備のため奉仕者を出すよう伝達したら、たちまち集まって来た。丸公に魅力を感じて来たものらしかったが、大方は真面目に働いてくれた。
 アーチ作りも、運動場と一体
[2] の会場も九分通り出来た。アーチ作りでは、最初、卯辰山か尾山神社へ行って、杉葉を持って来るつもりだったが、どちらも許可がいるにもかかわらず、事前にそれをしてなかったので、アドバイザーから「君たちは泥棒をするつもりか! 仕方ない。学校の杉の木のを取ってやれ」といわれる結果となった。拳闘部や山岳部に属している連中が仕事にかかったので、うまく行った。運動場のくい打ちとライン引きはラグビー部がやってくれた。一体のステージ作りと幕張りは、過去二年間の経験を有するシミキン、アンチ、ゴンボの諸兄がやってくれた。適材適所の配置で、何もかもうまく行った。
 運動会に必要なもろもろの用具や品物を買い集めるのがぼくの仕事だったが、大体予算の90%くらいで出来そうである。魚釣り競争の魚は、5月に使う紙の鯉のぼりで間に合わせることにした。「東海道膝栗毛」では、昨年はもっこを使ったのだが、今年は叺(かます)で作ることにした。


 引用時の注

  1. 「丸公」は、原文では○の中に公が書いてある。公務による出席扱いのこと。
  2. 「一体」は第一体育館のこと

2005年8月3日水曜日

サルスベリ(写真)/ 日本はそうなってよいのだろうか:自民党の改憲案


サルスベリ

 写真はサルスベリ。堺市内の小公園で、2005年8月1日撮影。

日本はそうなってよいのだろうか:自民党の改憲案

 自民党の新憲法起草委員会が8月1日、新憲法草案の条文を公表した。それによれば、現行憲法で「戦争の放棄」となっている第2章は「安全保障」と名を変え、その中身も自衛軍の保持を主体としたものになっている。そして、自衛軍は、「国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に強調して行われる活動…を行うことができる」としている。これでは、アメリカのイラク攻撃のような正当性のない戦争にも、自衛軍がかりだされることになる。皆さんはそういう戦争に喜んで行くだろうか。皆さんの子どもたちをそういう戦争に喜んで送り出すだろうか。

 この改憲案は、わが国の誇りであり世界が手本にしようとしている([1-3] 参照)現行憲法の第9条を、大幅に後退させ、わが国を人間同士の殺し合いを辞さない野蛮な国におとしめるものである。日本は、そういう国になってよいのだろうか。2日付け朝日新聞の改憲案に対する解説記事でさえ、愚かにも「穏健」という見出し文字を使っているが、国民はだまされてはいけない。改憲案はあくまでも、日本を戦争をする国に仕向けようとしているのである。

文 献

  1. "Article 9 Society": C. Overby の主導によって1991年、アメリカのオハイオ州に創設された、すべての国の憲法に、日本国憲法の9条に盛られた諸原則を採択させるという長期的目標の達成を目指す組織。

  2. "The Hague Appeal for Peace Conference"(NGO主催による「ハーグ平和アピール会議」1999年5月11日~15日)は、"Ten Fundamental Principles for a Just World Order"(「公正な世界秩序のための10の基本原則」)の第1に "Every Parliament should adopt a resolution prohibiting their government from going to war, like the Japanese article number nine."(「各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」)を挙げている。

  3. "Final Report from the Millennium Forum Peace, Security and Disarmament Thematic Group, June 12, 2000"(「NGO ミレニアム・フォーラム平和、安全保障及び軍縮テーマグループ最終報告書、2000年6月12日」)中に "topics and suggestions, other than those contained in the Forum Declaration itself or already described here, that were most frequently raised"(「最も頻繁にとり上げられた議題及び提案」)の一つとして、"a proposal for all countries to adopt in their own constitutions the war-renouncing principles expressed in Article 9 of the Japanese constitution"(「すべての国が、日本国憲法第9条に表現されている戦争放棄の原則を時刻の憲法において採択する」)を記している。(2011年12月29日の注:このリンクは、現在切れている。)

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/03/2005 16:54
 確かに、冷静に判断を試みても、改憲案が日本を「安全保障」「安全の確保」という表現を用いて、自衛軍が諸外国に出向く可能性を前向きなほどに認めているようにうけとれますね。「戦争の放棄」が「安全保障」と名をかえるのはあまりに残念ですね。過去に極端な戦争一色に突っ走った国が、「戦争の放棄」という徹底した態度を貫きづづけることに転じてこそ、平和とは何かの根源を感じさせる憲法になるのに、と思います。

Ted 08/03/2005 20:42
 このような改憲には大いに反対の声を上げましょう。

片桐 08/03/2005 21:01
 私も朝日新聞で読みました。集団的自衛権まで認められるんですよね(条文にはないけれど)。戦争に参加できるようになる憲法案ですね。反対!

Ted 08/03/2005 22:04
 「集団的自衛権」については、2日付け朝日新聞1面記事が、『起草委の舛添要一事務局長は1日、「自衛には個別も集団も含まれる。その議論は終った」と述べ、憲法解釈で行使も認められるとの立場を明確にした』と報じています。第6章司法には「軍事裁判所の設置」も入れており、まさに、軍事国家を目指しています。

ゆっぴー☆ 08/04/2005 08:12
なんか、なしくずしにどんどん勝手に決められて腹が立ちますよね。ゆっぴーは、ムッキー! やっぱりマスコミは、権力側のための広告機関なんでしょうかね? 英語版で9条についてちょっと書いてみますね。本当は改憲論争を詳しく英文で説明したいんですけど、スラスラ書ける内容じゃないので、ゆっぴーには無理っぽいです。ウー、もっと英語ができればなぁ…。

Ted 08/04/2005 08:21
 まだ、自民党内の草案ということで、決まったわけではありません。ゆっぴー☆さんは、気性から考えて、外国暮らしの長い、英語もぺらぺらの方かと思っていました。Ha-ha! 英語版ブログでの9条論、読みに行きますよ。

キジバト(写真)/ 疑いと自信を交互に持つ


キジバト

 わが家の門の脇のカイヅカイブキの木に、何年か前から時どき、キジバトのつがいが来て巣を作っていた。今年は巣を作っていないのだが、先日、2羽が訪ねてきていた。以前のつがいの子どもたちが、生まれ故郷を見物に来たのだろうか(2005年7月28日撮影)。

疑いと自信を交互に持つ

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月13日(月)晴れ

 土曜日に尾山荘とかで行われた新聞コンクール審査会に出席された IT 先生から Jack が聞いて来たところによると、ぼくの採点でも1位になった、第28号に KW 君の「真摯な態度で」という生徒会会計就任の言葉が掲載されていた「いずみの原」が1位だったそうだ。2位以下もぼくの採点通りだったかどうか知りたいと思ったが、自分が最も力を入れてもっと立派なものにすべきだった新聞が選外佳作以下であっては、ちょっと聞きに行きかねた。いずれ北国新聞で分かるだろう。

 たとえば、自分自身のひらめきの強さと洗練性に対する感覚の感度について、疑いと自信を交互に持つこと――それは、皮相的に考えれば、矛盾であり、無意味のようである。しかし、疑いと自信の両者は、ともに必要なのだ。なぜならば、自信を失えば、それ以上積み重ねては行けないし、また、疑いがなければ、どれだけ曲がっていても、直してまっすぐにする機会を作り出すことが出来ない。
 ところで、疑いと自信を交互に持つというような行為の意義は何だろうか。それは、その行為の生みだす結果にあるだろう。好結果が容易に見通せる場合には、行為の有意義性が直ちに決定出来るが、そうでない場合には、行為という掛け橋をとったり掛けたりした場合を考えて、見極めなければならない。

2005年8月2日火曜日

原爆に関する新しい本 (New Books on Atomic Bombs)


【Read in English.】

 【概要 (Abstract in Japanese)】私は英国で発行されている "The Good Book Guide (GBG)" を購読している。今月は広島と長崎に原爆が投下されて60年になるので、同誌の8月号には、最近発行または再発行された原爆に関する本が紹介されている。各紹介文の一部をここに引用し、これらの本が、世界中のいっそう多くの人びとを、核兵器廃絶について真剣に考えさせるようになることを望む。(本文は上記リンク先の英文のみ。)

2005年8月1日月曜日

金沢ふるさと偉人館 (Great People of Kanazawa Memorial Museum)

Read in English.


ふるさと偉人館のパンフレットから。

 7月22日に金沢21世紀美術館で二つの展覧会を観て昼食をとった後、妻と私は、その近くにある金沢ふるさと偉人館 [1] を訪れた。そこには、金沢で生まれあるいは育った次の人びとの資料が展示されている。(イメージ中の写真上段左から右へ)谷口吉郎、建築家 (1904-1979);高峰譲吉、化学者 (1854-1922);三宅雪嶺、評論家 (1860-1945);(中段)中西悟堂、自然保護者・詩人 (1895-1984);藤岡東圃、国文学者 (1870-1910);(下段)八田與一、土木技師 (1886-1942);鈴木大拙、仏教学者 (1870-1966);木村栄、天文学者 (1870-1943)。

 偉人館の建物は3階からなり、1階には谷口吉郎、中西悟堂、八田與一の、そして、2階には他の5名の資料が展示されており、3階にはホールと講座室がある。私は中学・高校生に対する第3回高峰賞 [2] 受賞者の一人だったので、高峰譲吉の資料にとくに興味を抱いた(現在、高峰賞は中学生を対象にした個人賞と、中学校を対象とした団体賞とになっている)。

 夏休み中であるにもかかわらず、私たちが偉人館を見学している間、他の見学者は一人も見かけなかった。館の案内書に書いてあるように、このような場所を子どもたちが見学して、先人たちの偉業と生き方を知り、夢と大志をもつことは大いに望ましいのであるが…。

 なお、金沢生まれの3人の作家、泉鏡花 (1873-1939)、徳田秋声 (1871-1943)、室生犀星 (1889-1962) の記念館は、それぞれ別の場所ある [3-5]。

文 献

  1. ウェブサイト 金沢ふるさと偉人館.
  2. ウェブサイト 高峰譲吉博士顕彰会.
  3. ウェブサイト 泉鏡花記念館.
  4. ウェブサイト 徳田秋声記念館.
  5. ウェブサイト 室生犀星記念館.

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 08/01/2005 16:45
 私も同じように願いますが、現代っ子たちが歴史上の偉人の生き方を自分のために知りたいと、素直に思えるような学習への動機を、いまの社会はことごとく失わせているようにも思います。(~することが)"highly desirable " であるとの正当な大人の願いで、子どもたちを惹きつけるのがかえって難しい時代なので、まずは大人が子どもたちを取り巻く世界や、彼らの「かなり現実への失望の多い」未来観を、彼らのことばで知ることが重要な仕事だと思います。(私もそれに取り組みたいのですが。)
 高校までの私にも、過ぎ去った「歴史」に対して真剣に関心を抱くことは難しいことで、私が在籍した京大教育学部の教官たちも、学生の歴史的センスの不足に、ちょうど私の時代から問題意識を持ち始めていました。
 作家たちをはじめ、金沢の豊かな文化的財産が、そのままの形でなくとも生かされる道はきっとあるだろうと思います。

Ted 08/01/2005 20:09
 いまの子どもたちとそれを取り巻く世界の問題、おっしゃる通りです。
 私たちが育った環境と、いまの子どもたちのそれとの、この問題に関する相違としては、次のようなことが考えられるのではないでしょうか。
 (1) 敗戦までの歴史や道徳の教育が教えた「偉人たち」の中には、武将や軍人が多かったため、アメリカの占領統治下でそのような教育が禁止された影響で、文化的・科学的な偉人たちについても、教えたり、子ども向けの本や雑誌に書いたりすることが少なくなったということ。
 (2)「民主主義教育」が、偉人たちだけが偉いのではなく、皆がそれぞれのあり方で偉いということに力点をおき過ぎて、偉人について教えなくなったということ。

Y 08/01/2005 20:49
 なるほど、教育において、確かに「偉人たち」が語られるスペースが少なくなったと思います。一番の主たる教材である教科書の時代による変遷は、注目されなければなりません。私も高校の教師だった母も、「いまの教科書は(わかりやすいが)ひどく(内容が)薄い」と言っています。(2) のように、価値観・生き方の多様化・個別化が、「尊敬する個人」を挙げづらくなっている、という関連性は考えられるでしょうね。
 私は教育学で基礎を作ったことと(今でも私が書く福祉の論文は、教育学(人の可能性の伸ばし方)の論文のような中身になっています)、2年前まで、長く子どもの家庭教師をしていたことから、この問題について考えていました。その観点で言いますと、いまの子どもたちは、学校や塾で多大なる課題をセッティングされて、学ぶことや学習内容を素直に面白く思う感性が犠牲にされ、「イヤイヤやる」というのが仲間の間でも通じ合う感性となっています。将来に対しても、非常に打算的な(たとえば経済的・物質的豊かさをまず達成するのが価値だ、といった)見通し、希望をもつ傾向にあるのです。教育における競争志向が、競争に勝っても負けても、自由で豊かな人生を切り拓く力があるのだという自信を子どもたちがもてなくさせている、という問題も大きいと感じます。またこの競争志向が、偉人の業績のように崇高なものをめざしたいという志向を、辺縁に追いやってしまうことも明らかです。
 ちょうど私のブログのほうで、これに関連する記事を書こうと考えたところですので、「文化的・科学的偉人」からは内容は離れるのですが、トラックバックさせていただきます。

Ted08/02/2005 08:13
 「多大な課題セッティング」や「打算的な競争志向」は、確かに、子どもたちから興味深く学ぶ意欲を奪っているでしょうね。
 トラックバック記事に期待しています。