2004年10月29日金曜日

非運の U 君

Y 君

 秋は同窓会シーズン、私も先週土曜日、引揚げ後1年余在籍・卒業した金沢石引町小学校の 1948 年卒業生同窓会に参加してきました。

 同小学校で同級だったU君は、ポパイのあだ名通り、太い上腕の持ち主で、当時、名投手でした。後に阪神タイガースに入団した金沢松が枝町小学校の O 投手との投げ合いは、練習試合、金沢市小学校野球大会と石川県大会の両決勝戦、石川国体でのエキジビション・ゲームを通じて、2 勝 2 敗という好勝負でした。

 エキジビション・ゲームには、大阪の小学校代表チームも来ていましたが、戦禍に合わなかった金沢の 2 校の練習ぶりを見ただけで、とても及ばないと判断し、試合を辞退したのでした。疎開児童の残留組がいたことも、その頃の金沢の小学校の野球チームを強くしていたようです。

 小学校卒業の頃、U 君は身体をこわし、投手を断念。中学、高校では一塁手として活躍しました。しかし、O 投手を擁する金沢桜丘高校の方が実力が上となり、O 君が甲子園出場を果たしたのに反し、U 君を四番打者とするわが菫台高校は、北信越大会準優勝が最高の戦果でした。

 その U 君をはじめ、同じクラスからは、当時の野球部員4名ほか、まとまりのよい女子の大半、そして、学年全体では、約 70 名の参加があり、同窓会は盛会でした。司会の N 君は、遠路参加の私に乾杯の音頭をとるようにといってきましたが、私は在籍期間が短かったし、同じ遠路からの U 君の方が適任だといって、彼にその役をゆずりました。

 同窓会の翌朝、兼六園を散歩しました。その際に撮った写真を添付しますので、ご笑覧下さい。

 イタリアからお帰りになるまでに、私のイタリア旅行の写真を IDEA & ISAAC 第 2 サイトに復活させておきたいと思っています。

 Ted


後日の追記:

 私たちが中学生になった頃から、小学生の対校試合は、教育上の見地から禁止されることになりました。

 O 君は阪神へ入ったものの、そこで活躍したという話は聞きませんでした。他方、U 君は金沢大学工学部を出て、海上自衛隊に入り、高位の職まで進みました。甲子園出場に関しては運のなかった U 君ですが、人生全体としては、O 君とどちらが幸せだったでしょうか。

 なお、私のイタリア旅行の写真は、ここをクリックするとご覧になれます。

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