2010年2月28日日曜日

「ふと思いあたった」の謎:改訂版(英文) (The Mystery of Yukawa's "New Insight")

 [概要]湯川秀樹の半生の自伝『旅人』中、中間子論を仕上げる際の決定的な思いつきについて述べているところは、前年春の学会発表の要旨と一見矛盾する。これを説明する理由が二通り考えられるが、どちらが真だともいいがたい。本文(英文)へ

2010年2月27日土曜日

科学と文芸:湯川秀樹の場合 (Science and Literature in H. Yukawa)

 さる2月18日、姫路京友会で行なった講演の要旨を以下に記す。なお、より短い英語版を先に掲載した。




 湯川秀樹は幼少の頃から中国古典に親しんでいた。彼の半生の自伝『旅人』[1] には、5、6歳の頃、祖父から『大学』『論語』『孟子』などを習ったことが記されている。そして、『湯川秀樹自選集』第5巻 の「まえがき」[2] に概略次のような記述がある。

 ——私は若いころ、 芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭の文、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」に共感していたが、この文の前半は、私が同じく好んでいた中国唐時代の詩人・李白の言葉、「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」からの引用である。逆旅とは宿屋の意味で、李白の文の前半からは「この世界は万物のために、ある種の受け入れ態勢を整えている」という含意を汲みとれる。1964年頃に、このことに気づき、物理学者の集りで、「いれもの」としての時間・空間と、「中味」としての素粒子の間の相互規定を考える手がかりになりそうだとして、この言葉を何度も引き合いにだした。——

 1964年といえば、湯川が素領域理論を発表した1966年の2年前である。ここまで読んだ限りでは、湯川は素領域の概念を説明する例えに李白の言葉を利用したようにもとれるが、さらに先を読むと、前者と後者の関係はもっと密接なものだったことが分かる。すなわち、次の通り記されている。

 『これが二年ほど後に「素領域」という概念を結晶させるための核ともなったのである。こんなことを言うと、人は奇妙に感じるかも知れない。しかし私にとって、学問と文芸とは全く別なものではない。』

 湯川の素粒子モデル作成において、李白の言葉はきっかけの役割を果たしたのである。このことは、専門書 [3] の中にも記されている。そこには、素領域の概念についての導入文として、素粒子論の専門書にしては珍しく、式も記号もない三つのパラグラフが2ページほども続いているところがあり、その中ほどに次の文がありる。

 『…広い意味の原子論的視点をさらに拡げて、時間・空間についても分割不可能な最小領域を想定してみたらどうであろうか。後になって思い返すと、こういう考えが漠然とした形で相当期間、意識下に潜在していたらしい。しかし、それを顕在化させる、もうひとつの動機となったのは、ある時 "天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり" という唐代の詩人、李白の言葉が念頭に浮んだことであった。』

このあと、李白の言葉の説明と解釈があって、次の文が続く。

 『そこで、もしも天地という代りに3次元の空間全体、万物という代りに素粒子という言葉を使ったとすると、空間は分割不可能な最小領域から成り、そのどれかを占めるのが素粒子ということになる。この最小領域を素領域と名づけることにしよう。』

上記の文では空間の最小領域だけについて述べてあるが、これに続いて、時間を含めた4次元素領域の考察が展開されている。このあたりの文は、専門書中の素領域概念の導入文としては長すぎる感がなくもないが、李白の言葉が、意識下に潜在していた考えを顕在化させる一つの動機になったという、湯川の思考過程が記録されている点では、貴重なものといえよう。

 ところで、湯川のノーベル賞受賞対象となった中間子論の場合も、何か中国古典の言葉が発想の一つのきっかけになったということがあっただろうか。湯川の大学での同期生で、原子核実験を専門にした木村毅一は、京大での「原子核物理学実験」という講義の中で、『老子』と並び称される『荘子』の一節を引用して、『湯川君は中国古典に造詣が深いから、彼の中間子論はこの言葉がヒントになったのではないかと思う』という話をした。その『荘子』の一節を記憶している人はいまのところ見当たらないが、『荘子』にはそれらしい言葉がある。例えば、「陰陽相い照らして、相いそこない相い治む」[4] である。湯川はこの言葉から、陽子と中性子が電荷を帯びた中間子を交換して互いに引き合う力を生じるときに、相互転換する、すなわち、陽子と中性子が入れ替わる、というアイディアを得たのではないか、と木村が考たように思われる。

 しかし、陰陽の陽のほうが陽子を連想さるとしても、陰を電気的に中性である中性子に結びつけるのはしっくりしない。また、陽子・中性子の相互転換については、湯川よりも先にドイツのハイゼンベルクが、核力の初歩的理論を提唱したときに、すでに述べているので、木村が注目した『荘子』の一節は、これとは別の、中間子自体を直接連想させるようなものだったかも知れない。いずれにしても、『荘子』の言葉と中間子論の直接的な関係はなかったということが、湯川の随筆から分かる。これについては後で述べる。

 上記の木村の講義がなされたのは、1957年頃である。他方、湯川が李白の「天地は万物の逆旅」を契機の一つとして素領域理論に取り組み始めたのは、それよりも後の1964年頃である。湯川は『荘子』の一節を中間子論のヒントにしたのではなかったが、木村がその可能性について湯川に質問していたとすれば、そのことが、湯川の心に中国古典の言葉を素粒子論のアイディアに役立てようという気持ちを誘起したと想像できなくもない。

 中間子論発想の契機については、朝日新聞の記事 [5] に、柔道家の芦田幸男が大学院生時代に湯川博士から電車の中で聞いたという話がある。湯川は夫人が産気づいて産院へ駆けつける途中、「赤ちゃんが求心力となって夫婦を密着させる。そんな存在が原子核にあるのではないか」と考えたという話である。これは実際のいきさつというより、湯川が中間子の概念を専門外の人にわかりやすく、また、面白く伝えた例え話ではないだろうか。

 物理学史の上では、中間子論発見のいきさつは、先行して発表されたハイゼンベルクやフェルミの理論を参考にして、さらにまた、すでに分かっていた電磁気的な力が、光の粒子である光子を媒介にして生じているということからの類推(アナロジー)によって、電磁場の方程式に手を加えた式から出発するという、巧みな方法でなされたということになっている。ただ、アナロジーというものは、文芸でよく使われる「例え」に似たものであり、湯川博士の中国古典の知識が、アナロジーの巧みな発揮に役立った、という間接的な影響は大いに考えられる。

 湯川博士と中国古典の『荘子』の関係としては、その中の「渾沌」という寓話にふれた随筆 [6] が、中学校の国語の教科書に載っていたようで、湯川といえば渾沌を思いだす人もある。湯川は、その随筆の初めに、中学生時代には『老子』や『荘子』をよく読んだが、それ以後長らく老荘の哲学を忘れていたと書いている。この随筆は1961年に書かれたものであり、1935年の中間子論の発表は、老荘哲学を忘れていた期間のことになりる。したがって、先述のように、中間子論の着想に中国古典の直接的な影響はなかったことになる。

 その随筆には、続いて、「四、五年前、素粒子のことを考えている最中に、ふと『荘子』のことを思い出した」として、渾沌の寓話が紹介されている。その寓話は次のようなものである。

 ――南海の帝王・シュクと北海の帝王・コツが中央の帝王・渾沌の領土へ来て会い、渾沌から歓待された。そこで、シュクとコツの二人はお礼として、渾沌が持っていない人間の七つの穴、目、耳、口、鼻を試しにあけてみることにした。毎日一つずつ穴を作っていったところ、七日目に渾沌は死んでしまった。――

この寓話の紹介の後に、湯川はこれを思い出した理由を概略次のように述べている。

 ――この随筆が書かれた当時、基本的な素粒子と考えられていた陽子や中性子に加えて、それらの仲間が多数発見されて、素粒子が30数種にもなっており、素粒子よりも、もう一つ進んだ先のものを考えなければならない状況であった。素粒子よりも先のものとは、さまざまな素粒子に分化する可能性を持った、しかしまだ未分化のもののことで、それを、私がそれまでに知っていた言葉でいうならば、渾沌というようなものになる。――

 さらに続いて、渾沌の話に登場するシュクもコツも素粒子のようなものと考えて、それらが、南と北からやってきて、渾沌の領土で一緒になったことを、素粒子の衝突が起こったのだと思えば、渾沌というのは、素粒子を受け入れる時間・空間のようなものといえる、という意味の記述がある。これも、素領域概念のほうの一つの端緒と考えられるような言葉である。

 なお、湯川と『荘子』の関係としては、別の話題もある。湯川は『荘子』の「 天地の美にもとづきて、万物の理に達す」という言葉を好んでおり、中間子論発表30年を記念して1965年に京都で開かれた素粒子国際会議の準備中、彼の「この言葉はぼくの気持をよく表わしているのだが…」という発言で、その会議の招待状に、「原天地美 達萬物理」と漢文でスカシにして入れることになったということである [7] 。

 以上、湯川の素領域理論の発想には李白の言葉が重要なヒントになっていたということと、中間子論と中国古典の直接的な影響はなかったものの、木村が影響を想像した『荘子』の中には、確かに湯川の好んだ寓話や言葉があったということを見て来た。

 素粒子物理学の分野で新しい理論を生み出すには、まず物理的な模型を考えて、さらに、それを数式化することが必要である。このうち、新しい模型を考え出すという第一段階では、想像力が重要な役割を果たす。したがって、想像力と数学的能力は、理論物理学者にとって車の両輪のようなものといえる。湯川の場合、想像力を培った一つの主な源泉が中国の古典だったということは確かだと思われる。そして、中国古典の影響は、中間子論の場合には、アナロジーの巧みな利用という間接的な形だったと思われるが、晩年の素領域理論では、もっと直接的な、発想のヒントという形だったということは、物理学史上でも珍しい例ではないだろうか。

文献

  1. 湯川秀樹, 旅人,『湯川秀樹自選集』 第5巻, p. 5 (朝日新聞社, 1971).

  2. ibid, p. iii.

  3. 湯川秀樹, 片山泰久・編,『岩波講座 現代物理学の基礎11 素粒子論』(岩波, 1974).

  4. 金谷治・訳注『荘子』 (岩波, 1971) 第三冊, p. 313.

  5. 「ニッポン人脈記:柔道のこころ(8)」,『朝日新聞夕刊』 (2006年5月25日).

  6. 湯川秀樹,「『荘子』」, 『湯川秀樹自選集』第3巻, p. 363 (朝日新聞社, 1971).

  7. 中間子30年 (上), 『朝日新聞』 (1965年9月20日).

2010年2月26日金曜日

2010年1月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y.'s Comments on January-2010 Articles)

 M.Y. 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2010年1月分への感想を2月24日づけで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。




1. 「利休鼠」

 一日小雨の降り続いた日、「利休鼠」色について調べ、その色を画面に示しでいます。♪雨がふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふふる …♪ という歌詞の「城ヶ島の雨」(作詞・北原白秋、作曲・梁田貞)。利休鼠とはどんな色か、『広辞苑』(第三版)を引き、その説明の中の「利休色」と「灰色」をさらに引くと、利休鼠とは、「わずかに緑青色がかった灰色」となりました。城ヶ島の雨が利休鼠であるのは、雨や雨雲自体がその色をしているのではなく、雨滴を透して磯が見える情景の色だろうとして、雨雲のかかっている空を写真に撮り、緑と青の中間の色をわずかに施す加工をしたものを示しています。

 そこまで書いて、インターネットの辞書「goo 辞書」を見ることを思いつき、調べると、『広辞苑』とほぼ同じだったということです。ウィキペディア日本語版の「色名一覧」によれば、利休鼠の RGB 値(HTML の color 属性)は "#54745C" となっており、「利休鼠」では、HTML の color 属性は "#888E7E" 、その英語版ページでは"Hex triplet" の名で "#656255" としてありました。最初の例については #数字が、後2者についてはパラグラフの文字が、その色で書かれています。「同じ『利休鼠』でも見立てはいろいろであり、互いにかなり異なる。私が想像して写真に表した色は "#54745C" に近い」と結んでいます。詩の情緒を鑑賞するのに重要な色を、手際よくコンピュータ上に可視化し実証する過程に興味を引かれました。

2. 「サザンカ」

 話は次のように展開します。——サザンカを見ると、「たきび」の二番をふと思い出す。ふと思い出す歌の一部といえば、「勝って来るぞと 勇ましく 誓つて故郷(くに)を 出たからは」というのがある。私がごく幼い頃、小学校2年生くらいだった6歳上の兄がこの歌を歌いながら炬燵の周りを歩くと、私はそれにつき従って行進していたと、母から聞いたことがある。この歌の五番の最後は「東洋平和の ためならば なんの命が惜しからう」となっている。——そして、「侵略戦争を『東洋平和のため』といいくるめた軍国思想、恐るべし」と結んでいます。

 私も子どものころよく知っていた歌ですが、五番の「東洋平和、云々」は覚えていません。その頃は、命も惜しまず戦うという、「軍歌」が歌われ、大東亜共栄圏を賛える文章や歌が学校の教材になっていました。ジャナーリストも先生も、治安維持法にふれない人びとは、大東亜共栄圏の建設を大義名文とした戦争遂行に、好むと好まざると、協力せざるをえませんでした。開戦の当初は蘭印のパレンバンを落下傘部隊が奇襲攻撃した「空の神兵」(梅本三郎・作詞、高木東六・作曲)や、題名は覚えていませんが、姉が歌っていた「椰子の葉に鳴る海の風 人の心はみな一つ 盟主日本の旗の下 連ねて広き大東亜」など耳に心地よいメロディーの歌もあり、心が浮き立った人もいたでしょう。二度とこのようなことを繰り返さないためには、なんと言っても、憲法9条を守ることでしょう。

3.「湯川とファインマンの裏返しイメージ」

 次のようなことが英文で述べられています。

 ファインマンに関する随筆シリーズの最初の話は、湯川とファインマンらが並んでいる裏返しに印刷された写真に関するものである。これを自費出版書に入れるにあたって、AIP エミリオ・セグレ視覚資料収集所にある、件の写真を調べた。P・リーが Physics Today 誌の編集者に裏返しイメージであることを指摘したにもかかわらず、幸いにも、写真は裏返しのまま保管されていた。このため、使用許可はインターネットでの申し込みで容易に得られた。もしも、正しいイメージで保管されていたら、私の随筆にその写真を裏返して使用する理由を説明する、特別な手続きが必要だったであろう。

自費出版書には、 ’Puzzles of the Photo’ と題して裏返し写真にまつわるエピソードがユーモラスに書かれています。

2010年2月25日木曜日

「残念な思いはします」 ('Wa' and 'ga' in Japanese)

W さん

 「天声人語」欄に関連して助詞の難しさについて書いたブログ [1] が分かりやすかったとのメールをいただき、ありがとうございます。

 助詞の難しさですぐに思いつくのは、「は」と「が」の使い分けです。どちらも主部を述部へ導くときに使われますが、意味に微妙な違いがあります。あなたの論文のいままでに読んだページの中で、気になった表現に鉛筆で印をつけて来ましたが、「は」と「が」の使い分けに関する箇所は意外に少なく、あなたの使い分けはなかなかよく出来ていると思います。

 あえて、この使い分けで気になった箇所の例を挙げるならば、p. 131の本文下から7行目「結論から先取りして言えば」で始まる文の終わり近くにある「〜を目したものであったことは」の、「は」があります。これは「が」に変えてもしっくりしません。その理由は、これに続く「本論では主張したいのである」の「主張したい」がこの文の実質的な述部であり(形式的には最後の「である」が述部ですが、これは意味上はなくてもよい、あるいはむしろ省いたほうがよい言葉です)、「ものであったこと」は意味の上で、その述部の重要な目的語なのです。したがって、「は」を「を」に変えるとしっくりします。ただし、そのように変えると、この文の主語がなくなりますが、その点については、日本語でよく行なわれる主部「私は」の省略と見なすか、「本論では」という副詞句を「本論は」と変えて主部にする手があります。

 いま問題にした文で、「本論では主張したいのである」を「本論の主要な主張点である」とでも変えれば、「ものであったことは」のあとへ、「を」でなく、「は」か「が」を持って来ることが必要になります。その場合、「〜を目したものであったこと」は、ここで始めて述べられた「新しい情報」なので、「は」でなく「が」がふさわしいのです。したがって、日本語の使い方に敏感な人ならば、「ものであったことは」まで読んだだけで、これは変だと思ってしまいます。このような「は」と「が」の相違については、大野 晋著『日本語練習帳』(岩波新書 新赤版 596, 1999) の第 II 章に詳しく述べられています。この本をまだ読んでいらっしゃらないならば、日本語の他の点でも大いに参考になると思いますので、一読をお勧めします。

 最近、テレビのニュースなどで、何かの感想を尋ねられた人たちが、「残念な思いはします」などと答えている場面をしばしば見かけます。インタビュアーが「残念に思いますか」と尋ねたのでなく、答える側で新しい情報「残念な思い」を持ち出しておきながら、それに「は」をつける言い方には、ひっかかるものがあります。しかし、これは、思いを強調する一種の流行的表現になっているようです。

 つい長いメールになりました。ご参考になるところが少しでもあれば幸いです。ご論文への感想は、また時折お知らせします。

 T. T.

  1. 江戸の敵 (Edo's Enemy), Ted's Coffeehouse 2 (2010年2月23日).

2010年2月24日水曜日

ワイトモ鍾乳洞 (Waitomo Caves)

  旅の12日目、午前7時45分にホテルを出発して、9時45分、ワイトモ鍾乳洞に到着。洞窟内をボートで進みながらツチボタルを見学した。写真は洞窟の出口。[ニュージーランド旅行の写真 147; 2004年1月15日]

 なお、ツチボタルは、ヒカリキノコバエ(光茸蝿)[ハエ目(双翅目)キノコバエ科ヒカリキノコバエ属に分類される昆虫の総称]の幼虫で、青白い光を発するため、この名で知られ、オーストラリア、ニュージーランドなどで洞窟観光資源の一つとなっている [1]。

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

文献

  1. 「ヒカリキノコバエ」, ウィキペディア日本語版 [2010年1月9日 (土) 04:24].

2010年2月23日火曜日

江戸の敵 (Edo's Enemy)

 けさの朝日紙「天声人語」欄 [1] は、「与党が敵(かたき)を討たれた長崎知事選」を扱っている。その初めにある「『江戸の敵を長崎で討つ』 の例え」の説明中、気になるところがあったので、ツィッターで指摘した [2]。ここにその詳細な説明を記す。まず、冒頭から問題の部分までを引用する。

 「江戸の敵(かたき)を長崎で討つ」の例えは、本来は「長崎が討つ」だという説がある。江戸での見せ物興行で大阪の竹細工が大評判を呼び、地元勢は面目をつぶされる。ところが長崎からのガラス細工がさらなる人気を博し、江戸の職人たちも留飲を下げた、との由来である▼外国に開かれた長崎は先取の地でもあった。「長崎で討つ」となるとその意味は消え、意外な場所や筋違いのことで恨みを晴らす例えとなる。

 「天声人語」が引用している「本来の意味の一説」を表すには、確かに「長崎が討つ」が分かりやすいかも知れない。しかし、「長崎で討つ」の表現でも、助詞「で」を、長崎からのガラス細工がさらなる人気を博した「ことによって」という、手段を表す意味に取れば、「その説の意味が消える」ことにはならない。

 ただ、「長崎」が地名であるだけに、「長崎で討つ」という簡略化された表現では、「で」を手段を示す助詞と取ることが困難で、場所を示すものと思いがちであることは否めない。

 他方、紹介されている説を意味させる場合でも、「長崎が討つ」といえば、「が」が主語を導く助詞であるだけに、「長崎」が、主語になりやすい「長崎の人」を思わせてしまい、重要なのは「長崎からのガラス細工」という「物」であることが分かりにくくなる欠点がある。

 このように、日本語の助詞の使い方や解釈は、なかなかむずかしい。

文献

  1. 天声人語, 朝日新聞 (2010年2月23日).

  2. http://twitter.com/tttabata/status/9499016958

2010年2月22日月曜日

クリスマスローズ (Christmas Rose)

 『ウィキペディア』で「クリスマスローズ」を検索すると、「ヘレボルス」[1] へ転送された。以下は、その記述である。

 ヘレボルス (Helleborus) はキンポウゲ科のクリスマスローズ属に分類される植物の総称で、ヘレボラスともいう。「クリスマスローズ」という呼称はクリスマスのころに開花する「ヘレボルス・ニゲル (Helleborus niger)」だけを指した呼称であるが、日本の園芸市場では「レンテン・ローズ」と呼ばれる「ヘレボルス・オリエンタリス」なども「クリスマス・ローズ」の名前で出回る。

 なお、『ウィキペディア 英語版』には "Helleborus niger" (ヘレボルス・ニゲル)のページ [2] がある。そこには、「普通 Christmas rose または black hellebore と呼ばれる」とあり、その写真は白色の花をつけている。以前わが家の庭にあったものは、それと思われる。

 わが家のクリスマスローズは、数年前に消えてしまい、その後、新たに苗を買って植えて、今年始めて花咲いたのが 、きょう撮影した上の写真である。花に見える部分は、植物学上は「花」ではなく、「がく片」という部分 [1] だということである。そこで、正確には、「写真の花」ではなく、「写真の植物のがく片」といわなければならないが、その裏側はピンクがかっており、交配種かも知れない。

 わが家の庭には、もう一種、赤い花を咲かせるものが長年あって、大きな株になり、いまも花を沢山つけ始めている。ただし、茎がまだ短く、花が葉におおむね隠れているので、写真は後日撮る予定である。そちらは「レンテン・ローズ」(Lenten rose または Lenten hellebore、学名 Helleborus orientalis) であろう。

 クリスマスローズの花言葉は「不安を取り除いて下さい」「スキャンダル」「追憶」「中傷」「慰め」[3]。

文献

  1. 「ヘレボルス」, フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [2010年2月16日 (火) 23:09].

  2. "Helleborus niger," Wikipedia, the free encyclopedia (30 January 2010 at 15:39).

  3. 「クリスマスローズ」ウェブサイト『花言葉事典』.

2010年2月21日日曜日

姫路城 (Himeji Castle)

  姫路京友会での講演に出かけた翌日の2月19日に撮影。この辺りは、春にはサクラが咲いて、もっと華やかになる。

2010年2月20日土曜日

姫路で (In Himeji)

 さる18日(木)、姫路で18時30分から開かれた同市とその周辺在住の京大同窓生の会「姫路京友会」総会で、25分間の講演をするために出かけた。現在、同会副会長の一人を務める、学生時代からの親友 A 氏に頼まれたものである。演題は「科学と文芸:湯川博士の場合」とした(その概要は、[1] に英文で記してある)。参加者77名で、最後に「琵琶湖周航の歌」[2] と「逍遥の歌(紅萌ゆる丘の花)」[3] [4] を一同で歌い、21時に解散という、賑やかで盛大な会合だった。

 なお、[3] と [4] で歌われている曲は、最初の部分にわずかの相違があるが、私の着席したテーブルで、まさにこの相違が話題になっていた。年配の方々によれば、前者が正調とのことだった。

 その夜、A 氏の世話で姫路駅南のホテルに宿泊し、翌朝、窓から姫路城の見える風景をスケッチした(上のイメージ)。午前11時に A 氏夫妻とホテルを出発し、 A 氏宅に寄ったあと、別のホテルで、A 氏夫妻が親しくしている中国の W さん(二児をかかえて神戸外大・博士課程在学中)を交えて昼食。続いて姫路文学館の喫茶室で、A 氏長女夫妻も加わって団らんした。さらに、二階から姫路城が正面に見える抹茶ソフトクリームの店でもご馳走になるなど、大歓待にあずかり、家にたどり着いたのは午後6時半だった。

文献

  1. "Effects of Chinese Classic Literature on H. Yukawa's Work", Femto-Essays (January 24, 2010).

  2. 琵琶湖周航の歌, 歌・倍賞千恵子.

  3. 紅萠ゆる岡の花, 歌・森繁久彌.

  4. 紅もゆる, 歌・加藤登紀子.

2010年2月19日金曜日

2010年2月18日木曜日

近隣の梅 (Plum Blossoms near Here)

Plum blossoms Plum blossoms (white)

 昨日、近くの笠池公園で撮影した枝垂れ梅の紅白。Twitter にリンクしている Twitpic にアップロードして、そこからの引用を試みた。イメージをクリックすると、 Twitpic のページに移動して、原寸大のイメージが出る。こちらの引用ページには、長方形のイメージが正方形に切り取られてしか出ないのは気にいらない。

2010年2月17日水曜日

2010年2月16日火曜日

2010年2月15日月曜日

映画『おとうと』 (The Film "Otōto")

 さる2月4日、山田洋次監督の映画『おとうと』を見た。1月30日に東京都内の映画館で行なわれたこの映画の初日舞台あいさつで、同監督の第60回ベルリン映画祭の功労賞「ベルリナーレ・カメラ」受賞が明らかになったとの、めでたいニュースを聞いたばかりのときだった。以前は邦画をほとんど見なかった私だが、「寅さん」シリーズを TV で見てから、山田ファンになっている。

 ユーモアたっぷりの場面と、しんみりとさせられる場面のどちらにも、観客を力強くとらえるものがあると思った。笑福亭鶴瓶の演じる弟は、寅さんの再来を思わせ、吉永小百合の演じる姉は、いかにも理想的に描かれている。幸田文・原作、市川崑・監督の『おとうと』を、たまたま昨年10月にテレビで見たが、それにオマージュを捧げる形で作られたということで、終盤に類似の場面が設けられている。

 映画を見ながら、私と時間を共有することなく幼時に逝った姉が生きていたならば、私とどういう関係だっただろうかと思わないではいられなかった。残っている姉の唯一の写真は当然、幼時のものだが、その姿をいかにも姉という気持ちで思い浮かべることが出来るのは妙なものである。

 なお、『おとうと』という絵本が出版されている [1]。画家いわさきちひろの孫、松本春野のデビュー作で、山田洋次監督の監修のもと、映画『おとうと』の主人公たちの子ども時代の「ちょっぴりおかしくも、心あたたまる物語」を描いているという。

  1. 松本春野・著・イラスト, 山田洋次・監修, 絵本 おとうと (新日本出版社, 2009).

2010年2月14日日曜日

2010年2月13日土曜日

ガバンメント・ガーデンズ (Government Gardens)

  旅の11日目、ロトルアのガバンメント・ガーデンズ (Government Gardens) で。前方の建物は、ロトルア博物館 (Rotorua Museum of Art and History)。[ニュージーランド旅行の写真 142; 2004年1月14日]

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

2010年2月12日金曜日

カシミアの著書の極微な間違い (Extremely Small Errors in Casimir's Book)

 [概要]かつて、H・B・G・カシミア(カシミールとも表記される)宛に、彼の自伝的著書にあった第2次世界大戦での日本の降伏の日付の間違いを指摘する手紙を送った。彼からの返信には、彼自身が見つけたきわめて細かな間違いの例が三つ記してあった。それらを、書中での文脈の説明と感想をつけ加えて紹介する。本文(英文)へ

2010年2月11日木曜日

ポフツ間欠泉 4 (Pohutu Geyser 4)

  旅の11日目、ファカレワレワ・マオリ文化村の中にあるポフツ間欠泉で。[ニュージーランド旅行の写真 141; 2004年1月14日]

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

2010年2月10日水曜日

ポフツ間欠泉 3 (Pohutu Geyser 3)

  旅の11日目、ファカレワレワ・マオリ文化村の中にあるポフツ間欠泉で。この間欠泉は1時間に2、3回、1日に20回程度まで噴出し、噴き上がる高さは100メートルにも達する [1]。[ニュージーランド旅行の写真 140; 2004年1月14日]

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

文献

  1. "Pohutu Geyser", Wikipedia, the free encyclopedia (21 January 2010 at 18:48).

2010年2月9日火曜日

ポフツ間欠泉 2 (Pohutu Geyser 2)

  旅の11日目、ファカレワレワ・マオリ文化村の中にあるポフツ間欠泉で。[ニュージーランド旅行の写真 139; 2004年1月14日]

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

2010年2月8日月曜日

ポフツ間欠泉 1 (Pohutu Geyser 1)

  旅の11日目、ファカレワレワ・マオリ文化村の中にあるポフツ間欠泉へ向う途中で撮影。[ニュージーランド旅行の写真 138; 2004年1月14日]

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

2010年2月7日日曜日

ファカレワレワ・マオリ文化村 2 (Whakarewarewa 2)

  旅の11日目、ファカレワレワ・マオリ文化村で。マオリの人々の昔の住居。[ニュージーランド旅行の写真 137; 2004年1月14日]

 最近掲載したニュージーランド旅行の写真

2010年2月6日土曜日

ファカレワレワ・マオリ文化村 (Whakarewarewa)

  旅の11日目、レインボー・ファームに続いてファカレワレワ・マオリ文化村へ。ここにはマオリ族の生活、文化、風習などが伝えられていて、マオリの工芸学校 (New Zealand Māori Arts and Crafts Institute) もあり、木彫りの作業を見学できる。写真は同学校で。マオリの伝統的な木彫りはファカイロ (whakairo) と呼ばれ、マオリの書き言葉ともいわれている [1]。[ニュージーランド旅行の写真 135, 136; 2004年1月14日]

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文献

  1. "New Zealand Māori Arts and Crafts Institute", Wikipedia, the free encyclopedia (30 January 2010 at 18:11).

2010年2月5日金曜日

牛の乳搾りショー (Milking a Cow)

  旅の11日目、レインボー・ファームで羊の毛刈りに続いて、牛の乳搾りショーを見学。[ニュージーランド旅行の写真 134; 2004年1月14日]

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2010年2月4日木曜日

羊の毛刈り 2 (Cutting Wool of Sheep 2)

  旅の11日目、羊の毛刈りショーで再度の撮影。この写真のあったことを覚えておれば、先の写真は掲載しなかったのだが。先の写真が暗かったのは、壁の上部に横長にあった明るい開口部が、カメラの視野に入っていたためのようだ。[ニュージーランド旅行の写真 133; 2004年1月14日]

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2010年2月3日水曜日

これは和美君ではないのでは? (That Isn't Kazumi, Is That?)

 私は昨年、すぐれた超伝導物理学者だった故・真木和美君についてウィキペディア日本語版のページを作ったので、真木夫人に修正・追加すべきことがないか尋ねた。夫人からは Physica B 誌に掲載された追悼文を参照して欲しいとの返事があった。その追悼文の前に載っている国際学会の集合写真を見ると、その中の日本人学者は真木君に似てはいるが、彼ではないような気がした。…本文(英文)へ

2010年2月2日火曜日

羊の毛刈り (Cutting Wool of Sheep)

  旅の11日目、14時20分からレインボー・ファームで牧羊犬による羊の追い込み、そして、羊の毛刈りショーなどを見学。写真は羊の毛刈り。[ニュージーランド旅行の写真 132; 2004年1月14日]

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2010年2月1日月曜日

スイセン (Narcissus)

 スイセン属、学名 Narcissus、ヒガンバナ科(クロンキスト体系ではユリ科)の属のひとつ。この属にはラッパスイセンやニホンズイセンなど色や形の異なる種や品種が多くあるが、この属に含まれるものを総称してスイセンと呼んでいる。多年草で、冬から春にかけて白や黄の花を咲かせるものが多い。原産地は主にスペイン、ポルトガルから地中海沿岸地域、アフリカ北部で、原種は30種類ほど知られている。また、園芸用に品種改良されたものが広く栽培されている。日本においては、ニホンズイセンが古くに中国を経由して渡来したといわれている。(以上 [1] から抜粋。)花言葉は「うぬぼれ」「自己愛」「エゴイズム」、(日本水仙)「自己愛」、(白)「神秘」「尊重」、(黄)「私のもとへ帰って」「愛に応えて」、(ラッパズイセン)「尊敬」「心づかい」[2]。

 写真は近隣の幼稚園の前で、2010年1月23日に撮影。

文献

  1. 「スイセン属」, フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [2010年2月1日 (月) 00:16].

  2. 「スイセン」ウェブサイト『花言葉事典』.