2007年12月8日土曜日

世界各国の湯川切手

 [これは、昨年準備しながら、ブログには掲載洩れとなっていた記事である。その間に、リンク予定のサイトがなくなってしまったので、関連箇所に「リンク先消滅」と記し、代わりに、新しく見出した切手商のサイトへのリンクを文末に設けた。]

 次のウエブサイトに物理学者の肖像を使った切手が沢山集められている。
  (リンク先消滅)
その中に、湯川博士のものは、日本の2種類の他に、5種類の外国のものが見られる。

 それらの5種類を発行しているのは、ギアナ、ガンビア、セント・ヴィンセントおよびグレナディーン諸島、アンゴラ、モルジヴと、小国ばかりである。ギアナとモルジヴの切手には「ノーベル各賞100年」の意味の英文字が入っているので、特に湯川博士だけを顕彰したものではなく、博士を1例としてノーベル賞自体を讚えているのである。他の外国切手も趣旨は同様かも知れないが、それにしても、多くのノーベル賞受賞者たちの中から何人かだけを選び、その中に湯川博士が入ったものと想像される。

 「湯川秀樹を研究する市民の会」のメンバーへのグループメールで、「これらの国々で湯川博士の人気が高いのはどうしてでしょうか」と尋ねてみたところ、「小国が外国人の肖像を使った切手を出す大きな理由は、外貨獲得です。日本の皇室の方々なども無断で切手になっているそうです」との返信があり、なるほどと思った。

 全7種の切手は下記の通り。記載事項は、発行国、発行年、(発行理由)、URLの順。(不明の項目があれば、その箇所が抜けている。リンク先消滅のため、準備してあったURLは記載しない。)

  Japan, 1985 (中間子論50年)
  Japan, 2000
  Guyana, 1995, (100th Anniversary of Nobel Prizes)
  Gambia, 1995
  St. Vincent & The Grenadines
  Angola, 2001
  Maledives, 2001, (100th Anniversary of Nobel Prizes)

 追記:外国の5種の切手は次のURLで見ることができる。上記リストのアンゴラのものがない代わりに、ウガンダのものがある。切手商のサイトなので、商品がなくなればページが消滅するかも知れない。

  ウガンダ
  ガンビア
  ギアナ
  セント・ヴィンセントおよびグレナディーン諸島
  モルジヴ

 後日の再追記:消滅したと思っていたサイトが再度アクセス可能になっている。Physics-Related Stamps である。

2007年11月26日月曜日

湯川博士の核廃絶運動の根源

 新着の『日本の科学者』誌に「原水爆禁止2007年世界大会・科学者集会の記録」という記事がある [1]。その中に、愛知大・日本物理学会会長(集会当時)坂東昌子さんの報告要旨があり、湯川博士の核廃絶運動について次のように述べている。

 湯川博士の核廃絶への運動は、アインシュタインとの出会いと、水爆実験の脅威に起源があると言われるが、彼の研究と同じ「湯川精神」に根源があるように思える。近代物理学の台頭期に、彼は、権威も立場も年齢も超えて、世界中の科学者と連帯している。彼は学問分野でも、コスモポリタンで、ノーベル賞受賞記念で設立した基礎物理学研究所では、物理学に限らず当時の新しい学問分野を積極的に後押ししている。(…中略…)彼は、研究対象を生物、天体、情報へと広げ、さらに戦争の科学に広げようとしたのだろう。(…以下略…)。

 私は、湯川博士の平和運動の構想は彼の物理学理論の構想と共通性があると思い、「湯川秀樹を研究する市民の会」の例会でそういうふうに述べたことがある。博士のノーベル賞受賞対象となった中間子論第1論文には、当時知られていた素粒子の間に働く相互作用について全面的に考察するという徹底した態度が現れており、博士の平和運動も核兵器を全面的に廃止しようというものであった。坂東さんの見方は私の考えに似ているが、彼女はもう一歩突っ込んで、博士の平和運動と研究の「根源が同一」、すなわち、平和運動もある意味では「研究の一環」であったと見ているのである。

文献

  1. 深尾正之, 日本の科学者, Vol. 42, p. 674 (2007).

2007年11月25日日曜日

憲法学者・鈴木安蔵

 昨11月24日の午後、なかもず じばしんホールで、映画「日本の青空」堺上映実行委員会が開催した上映会に参加した。同映画は、監督=大澤豊、企画・製作=「日本の青空」政策委員会・有限会社インディーズの作品である。雑誌編集部の派遣社員・沙也可(田丸麻紀)が、特集企画「日本国憲法誕生の原点を問う!」のため、憲法学者・鈴木安蔵(高橋和也)の取材を行うという形で映画は展開する。

 鈴木安蔵(1904~83)は、さまざまな国の憲法や明治の自由民権憲法案に精通していた憲法学者で、民間の「憲法研究会」案を通して、日本人の心にかなった日本国憲法の基礎を作り上げた中心人物である。憲法公布直後に、憲法普及会の理事を務め、のちに大学で憲法学の教鞭をとり、日本国憲法の普及に尽力している。

 敗戦の年である1945年の10月25日、政府は憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置したが、民間では、いち早く、鈴木安蔵、高野岩三郎、岩淵辰雄、室伏高信、森戸辰男、杉本幸次郎らによる「憲法研究会」が11月5日に発足し、12月26日までに6回の会合をもった。そして、12月26日に同会は「憲法草案要綱」を GHQ と政府に提出し、28日に各新聞が一面で草稿内容を報道した。1946年1月11日、GHQ 民政局法規課長ラウレル陸軍中佐が「憲法研究会」案を「民主主義的で賛成できる」と高く評価する所見を民政局局長と連名で総司令部に提出し、同案が GHQ 案に反映されることになったのである。(以上、上映会のちらしを参考にした。)

 このような、日本国憲法誕生の真相を知れば、改憲論者たちの「アメリカから押しつけられた憲法」との見方が無根拠であることがはっきりする。憲法問題を考える上で、多くの日本国民に見て貰いたい映画である。

 追記:同じ11月24日、東京・日本教育会館で「九条の会第2回全国交流集会」が開かれ、北海道から沖縄まで47都道府県、520の「九条の会」から1020人の参加があったそうである。なお、全国の「九条の会」は24日現在で、6801を数えているということである。(九条の会オフィシャルサイトによる。)

2007年11月23日金曜日

発言はいつも会議の終りの方

 先にもいくつかの湯川関連随筆を物理学会誌などに書かれた法橋登氏から、『大学の物理教育』 Vol. 13 p. 160 (2007) に新しい随筆「サラムの湯川観」を発表したとのメールがあり、その原稿のPDFファイルを貰った。以下にその概略を紹介する。




 法橋氏が1976年に早川幸男先生の紹介で、トリエステにある国際理論物理学センターの所長をしていたアブダス・サラム(1926-1996;パキスタンの理論物理学者。弱い相互作用と電磁相互作用を統一的にあつかうワインバーグ-サラム理論をワインバーグと独立に提唱し、1979年ノーベル物理学賞受賞)を訪れたとき、サラムから、「西洋の科学者の発言は会議の前半に多いが、湯川の発言はいつも会議の終りの方だ。どうしてか」と尋ねられた。

 氏は「前半の議論は分析的、後半は総合的」「湯川は会議の流れの中で理想を話す機会を待っていたのだと思う」「自我が対決する討論によって歴史を進めてきた西洋と、脳全体の共感が得られる機会を待つ東洋の文化の違いもあるのではないか」などと答えた。サラムはこれに対して、「文化伝統が違うのにハイゼンベルクは湯川と同じタイプで、西洋では例外だ。東洋でも中国の物理学者は現実的であり、湯川は別だ」と語ったそうである。

 法橋氏はさらに、フリーマン・ダイソンが米国物理教育誌 [Am. J. Phys. Vol. 58,p. 209, (1990)] において、湯川とハイゼンベルクを「理論の成功より深さを求める思索者」と呼んだことを引き合いに出し、「イスラム教徒であるサラムにとっても、湯川とハイゼンベルクは文化伝統や専門分野を超えた、特別な全人的存在として印象に残ったのだろう」と述べている。

 氏の答えに「自我」と「脳」が出てくるのは、そのとき国際理論物理学センターで、科学哲学者ポパーと大脳神経生理学者エクルスの討論録 "Self and Its Brain" (Springer, 1976: 和訳 = 大村裕, 西脇与作, 沢田充共訳『自我と脳』新思索社)が話題になっていたことによる。




 法橋氏の文の紹介は以上であるが、私には、湯川博士がいつも会議の終りの方で発言した理由の中にはもうひとつ、博士の控え目な性格もあったのではないかと思われる。不肖私にも、他の人もいいそうなことは自分ではいわないで聞いていて、誰もいわなかった重要なことがあれば、初めて発言するという傾向がある。

 湯川博士の控え目な性格については、アブラハム・パイスもその著書 [1] 中でふれている。そこには、博士の自伝『旅人』にある、博士自身の講義についての「声もやさしく子守歌のようで、とくにどこを強調するでもなく、すらすらと進み、眠りを誘うにもってこいであった」(武谷三男による)とか、「[声が小さかったうえに、]黒板の方を向いてしゃべるので、よけいに聞きとりにくかった」(小林稔による)という印象が引用されていて、「これらの記述は私自身の見たところとも一致し、これは湯川の内気さよりも控え目であることによるものと思う」と記されている。また、パイスは、『旅人』の終り近くにある「私は孤独な人間である。そして我執の強い人間である」という湯川博士の自己批評は、実に正確だと思うとも書いている。

  1. A. Pais, "Inward Bound" (Clarendon Press, 1986) p. 429.

2007年11月15日木曜日

クラシック・ギター・コンサート

 昨11月14日、松田晃演(まつだ あきのぶ)氏によるクラシック・ギター・コンサートの招待状を貰っていたので、妻と聞きに出かけた。招待状を貰ったのは、姫路市に住む親友A氏が近年、同じく同市に住む松田氏と親しくなっていた関係によるが、つい先日、私も松田氏と SNS "mixi" で友人関係を結ぶに至ったところである。

 A氏夫妻と、その夜ともに宿泊する予定の三宮ターミナルホテルで午後4時に落ち合い、同ホテルの11階で、A氏得意の聖書の話などに耳を傾けながら(A氏の「聖書が描く無限の命を含む宇宙とは、物理学的にはどういうものだろうか」という意味の質問に応えて、私は多世界仮説などについて簡単に述べた)、早めの夕食をすませ、6時頃に会場へ向かった。会場はJR神戸駅近くの、神戸市産業振興センター・リサイタルホールである。

 コンサートは「アンドレス・セゴビア没後20周年記念」となっていた。セゴビア(Andrés Segovia, 1893-1987)は、現代クラシック・ギター奏法の父といわれるスペインのギタリストである。松田氏は、セゴビアの遺産を引き継ぎ発展させるために尽力している多くの門人たちの中でも、有名な一人に数えられている。コンサートのプログラムは「古典派」「『献呈』をテーマに」「スペインの曲集」の三部構成になっていた。

 第一部のあと、一つ前の最前列中央に陣取っていたA氏の知人で姫路でコーヒー店を営むY氏夫妻が、親切にもA氏と私に席を譲ってくれたので、第二部と第三部は最上等席で演奏を堪能することになった。会場の舞台は低めでもあった。そこで、アントニオ・デ・トーレスが1894年に製作したという松田氏愛用の名器が、すぐ近くの、私の目や耳とほとんど同じ高さのところで巧みに奏でられるのを聞くという、まさに至福の時間を味わうことができた。

 第二部には、特にセゴビア没後20周年を記念する曲が集められたのであろう。マリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコ作曲の「先生への捧げもの」、セゴビアの「祈り(ポンセの魂の為に)」、そして再びテデスコの「ボッケリーニ讃歌より」の三曲が演奏された。テデスコ(Mario Castelnuovo-Tedesco, 1895-1968)はイタリアの作曲家で、1932年にセゴビアと出会ったことをきっかけとして、20世紀のギター音楽作曲の大家という名声を得るに至ったそうである。「先生への捧げもの」の曲は、ゴヤの版画集『ロス・カプリッチョス』中の同題名の作品をテデスコが見た印象を音楽にしたものだという。

 美しい絵が音楽を生みだすのに似て、美しい音楽とその優れた演奏は、物理学上の美しい方程式を連想させもする。私は松田氏の演奏を聞きながら、湯川博士のノーベル賞受賞論文に登場する次の方程式を、何度も頭に浮かべさせられた。

   (□-λ) U = 0

「□」はダランベルシャンといって、時空を記述する四つの座標 x、y、z、ict のそれぞれによる2階微分を足しあわせた演算子を表わしている。

 この「□」をサウンドホールとして、( ) の部分がボディに、=がネックに、0 がヘッドに相当し、式の視覚的な形がクラシック・ギターに似ているという事実だけに、私の連想はとどまるのではない(この類似は、むしろコンサートのあとで気づいたものである)。この方程式は、電磁場を表わす方程式の相対論的表現の第4成分にλの項を入れたに過ぎないにもかかわらず、核力の働き具合を表わす、いわゆるユカワ・ポテンシャルという関数を導くもとになり、さらに、未知であった中間子の質量が電子の質量の約200倍という予想をも可能にし、素粒子物理学の始まりを画したという、深い意義と美しさを持っている。

 松田氏によるクラシック・ギターの名演奏と、管弦楽団による交響曲の演奏との関係は、湯川博士の方程式と、最近の100名を超える共著者たちによる素粒子実験の論文との関係にも似ている。二つの関係においての、それぞれの後者にも、もちろん特有の美や意義はあるのだが、それぞれの前者には、比較的単純な中に無限に奥深い美や意義が秘められているという共通性を、私はこのコンサートから感じ取ったのである。

 コンサート後、ホテルオークラにおいて、A氏から松田氏夫妻に引き合わせて貰い、コーヒーを飲みながら歓談するという、楽しいひとときを思いがけなく持つこともできた。松田氏は、コンサートのちらしの写真で想像していたよりも優しい感じの方であった。氏の座右の銘は「尽善尽美」だそうである。

2007年10月27日土曜日

中性子・原子核衝突断面積:ボナー以後

 以下は、「湯川秀樹を研究する市民の会」2007年10月例会で私がした話の概要である。

フェッシュバッハ-ヴァイスコップ理論

 湯川博士が中間子論第一論文の中で議論に使用した中性子と原子核の衝突断面積に対するボナーの実験結果は、その後の研究に照らして、どの程度の信頼性があるかを簡単な方法で考えてみたい(ボナーの実験については、先に解説した [1])。

 ボナーの実験に使われた中性子の平均速度は 1.3×109、2×109、 3×109 cm/s の3通りであった。これらの速度は、中性子の運動のエネルギーに直すと、0.88、2.1、4.7 MeV になる。エネルギーが 0.5 ~10 MeV の中性子は速中性子と呼ばれるので、ボナーの実験領域は、速中性子領域内に該当する。

 速中性子の原子核との衝突断面積については、1949年にフェッシュバッハとヴァイスコップが理論を発表している [2]。それによれば、λ/(2π) << R (λはドブロイ波長、R は標的原子核の半径)のとき、中性子に対する吸収断面積σabs と散乱断面積σsc は、どちらも次の値に近づく。

  σabs = σsc = π[R + λ/(2π)]2       (1)

したがって、高エネルギー中性子に対する全断面積σt は、漸近近似として次のようになる([3], p. 283; [4], p. 456)。

  σt = σabs + σsc = 2π[R + λ/(2π)]2   (2)

フェッシュバッハ-ヴァイスコップ理論は、Fe、Ni、Ag、Pb についてバーシャルらが1948年に発表した実験 [5] とかなりよく一致している([3], pp. 284, 285; [4], p. 455)。したがって、 (2) 式が示す断面積とボナーの実験結果を比較すれば、ボナーの実験が、より新しい知見と比較してどうであるかが、おおよそ分かる。

 λ/(2π) は中性子エネルギー E を使って、また、原子核の半径は原子核の質量数 A を使って、それぞれ (3)、(4) 式ように表わされる ([4], pp. 456, 457)。

  λ/(2π) = 4.55 × 10-13/[E (MeV)]1/2 cm (3)

  R = 1.4 × 10-13A1/3 cm         (4)

これらの式を (2) 式に代入して、ボナーの実験したエネルギー範囲で、彼が使用した標的原子核 H、C、Pb に対する断面積の漸近理論値を求めた結果を Figure 1 に示す。正確な理論値はこの図の低エネルギー側で漸近理論値よりもやや小さくなる([3], p. 282)が、大体の傾向を見るには、この近似で十分であろう。Figure 2 は同じスケールでボナーの実験結果をプロットしたものである。

結 論

 二つの図を比較すると、ボナーの実験結果は、 H についてはその後の知見とかなりよく一致しているが、C と Pb については絶対値が小さ過ぎ、さらに Pb についてはエネルギー依存性の傾向も異なっている。

 この比較から、ボナーの実験で見出された断面積の傾向、したがってまた、湯川博士のそれについての議論は、真剣に受けとめる必要はないと考えられる。

 ボナーの実験は、1932年に中性子が発見されて間もなくの1934年に行われた先駆的なものだったが、それだけに、実験方法が不備だったと思われる。さらに、湯川博士の議論は、原子核と衝突した中性子が中間子を媒介として陽子に変わり、それが再度中間子を媒介として中性子に変わるという2段階過程を中性子散乱の主要過程と考えたものであるが、実験で測定される全断面積は、必ずしもこのような過程のみが寄与しているものではない。そのようなことが分かってきたのは、中間子論が発表されてからいくらか後のことだったのであろう。

付:影散乱

 (2) 式は、全断面積が、原子核と波動性によって広がった中性子を合わせた幾何学的断面積の2倍であることを示している。全断面積が幾何学的断面積より大きくなる理由は、幾何学的断面積内に入射する以外の中性子が干渉効果によって散乱することにある。この散乱は、原子核の後方で入射中性子波が R2/[λ/(2π)] 程度あるいはそれ以上の長さの影を作ることに対応しており、影散乱と呼ばれる([4], p. 458; [6], p. 324)。

 中性子・原子核衝突においての影散乱は、大阪大学の菊池正士と若槻哲雄が実験によって発見した。その実験は中性子の波動性を示す最初のものとして注目され、ベーテらによって解析された。また、後に原子核の光学模型として展開する重要な概念の原点でもあった [7]。

文 献

  1. 中間子第1論文が論じたボナーの実験, Ted's Coffeehouse 2 (2007年10月5日).
  2. H. Feshbach and V. F. Weisskopf, Phys. Rev. 76, 1550 (1949).
  3. E. Segrè, ed., Experimenatal Nuclear Physics Vol. 2 (John Wiley & Sons, 1953).
  4. R. D. Evans, The Atomic Nucleus (McGraw-Hill, 1955; reprint edition, Tata McGraw-Hill, 1976).
  5. H. H. Barshall, C. K. Bockelman and L. W. Seagondollar, Phys. Rev. 73, 659 (1948)
  6. J. M. Blatt and V. F. Weisskopf, Theoretical Nuclear Physics (John Wiley & Sons, 1952; Dover edition, 1991).
  7. 中井浩二, 原子核科学の半世紀:廃虚の日本から繁栄の日まで (1999).

2007年10月15日月曜日

あやかり名前

 昨年、「湯川秀樹を研究する市民の会」の I さんが子どもの名前を湯川博士にあやかって「秀樹」とつけた例が博士のノーベル賞受賞後に多かったかどうかを調べていた。しかし、生まれた子どもにつけられた名前の年毎のベストテンでは、よく分からないという結論だった。

 東野圭吾の推理小説には、「物理学者湯川」が活躍するシリーズがある。きょう(2007年10月15日)から毎週月曜日にフジ系で放映されるテレビドラマ「ガリレオ」は、そのシリーズ中の『探偵ガリレオ』[1] と『予知夢』[2] の2編をもとにしたものだそうだ。

 私は先に、同じシリーズ中の直木賞受賞作品『容疑者Xの献身』[3] を読んだ。この「湯川」の名は秀樹ではなく「学(まなぶ)」で、さらに、「湯川学」は理論物理学者ではなく、「天才的な応用物理学者」となっていたが、湯川博士を念頭においてつけた、一種のあやかり姓かと思われる。(『容疑者Xの献身』に対する私の書評は [4] を参照されたい。)

  1. 東野圭吾, 探偵ガリレオ (文春文庫, 2002).
  2. 同上, 予知夢 (文春文庫, 2003).
  3. 同上, 容疑者Xの献身 (文芸春秋, 2005).
  4. 「好敵手」Ted's Coffeehouse (2007年3月20日).

2007年10月5日金曜日

中間子第1論文が論じたボナーの実験

図はボナーの実験結果

 湯川博士は中間子論第1論文の第3章に、中性子衝突断面積についてのボナーの実験を引用し、その実験で見出された断面積のエネルギーと標的核原子番号に対する依存性が自説と矛盾しないことを述べている。そこで、ボナーの実験とはどういうものだったのかが気になるので、原論文をひもといて簡単に紹介する。

 ボナーの論文は "Collisions of Neutrons with Atomic Nuclei" の題名で、Physical Review Vol. 45, pp. 601-607 (1934) に掲載された。著者 T. W. Bonner は アメリカ・テキサス州ヒューストンの Rice Institute 所属となっている。

 実験は中性子断面積の速度依存性を調べる目的で行われたもので、ポロニウムからのアルファ粒子でベリリウム、ホウ素、フッ素を衝撃して得られる中性子が使用されている。断面積という述語は現在、英語では "cross section" であり、湯川博士もこれを使っているが、この論文では "target area" となっているところが面白い。

 まず、断面積の説明をしておこう。粒子 a を原子核 X にぶつけて、粒子 b が放出され、原子核が Y に変化したとする。この反応は

   a + X → b + Y

と書き表される。単位時間の入射粒子数が i 個、単位時間の放出粒子数が j 個、単位面積当たりの原子核 X の数がN だったとすれば、

   σ = j / (i N)

は、原子核1個当たりについての反応の起こりやすさの目安を与える。σは面積の元をもつので、この反応に対する X の断面積と呼ばれるのである。

 ボナーの実験では、a は中性子 n であり、標的としての固体物質の有無あるいは気体物質の圧力変化による中性子数の変化を観測しているので、二つの反応

   n + X → n + X   (1)
   n + X → X'     (2)

を合わせた断面積が測定されていると思われる。反応 (1) は入射中性子の向きが変えられる「散乱」であり、反応 (2) は入射中性子が原子核 X に取り込まれる「吸収」である。

 論文のアブストラクトは、実験の結果、次のことが分かったと報じている。水素の断面積は中性子速度の減少とともに、速やかに増大する。炭素と窒素の断面積も同様の傾向を示すが、水素ほど速い増大ではない。他方、鉛による中性子の吸収は速度の増大とともに増大する。この異常な吸収は、速い中性子ほど、原子核と多くの非弾性散乱をすると仮定することによって説明でき、宇宙線バーストもこの仮定をもとに説明できる。また、フッ素からの中性子はホウ素からのものより遅く、それによる反跳陽子の平均飛程は空気中で約2cmと推定される。この遅い中性子はベリリウムやホウ素からのものより、鉛に対して透過性が大きいことも分かった。(最後の文は、先に述べられている「鉛による中性子の吸収は速度の増大とともに増大する」と内容が重複している。)

 実験方法は、中性子がいろいろな気体中で陽子の反跳を経て作るイオン電流を測定するもので、その結果から、計算によって断面積を求めている。前年に発表したベリリウムからの中性子を使った実験 [T. W. Bonner, Phys. Rev. 43, 871 (1933)] では、ベリリウムからのガンマ線の影響が残っていたので、今回の実験では、それを完全に除いた、としている。

 中性子の発見者であるチャドウィックも、前年に水素の断面積を測定し [J. Chadwick, Proc. Roy. Soc. A142, 1 (1933)]、ホウ素からの中性子に対する値が、ベリリウムからのより速い中性子に対する値の約2倍であることを見出しており、ボナーの実験はこれを再確認したものでもある。

 実験方法を少し詳しく見れば、次の通りである。イオンチェンバーは長さ24cm、直径14cmの円筒形で、壁は厚み1cmの鉄からなる。イオン電流の測定には、補償用コンデンサーとリンデマン電位計を使用している。中性子は、スライド上のベリリウム、ホウ素またはフッ化カルシウム層を約7mCiのポロニウムからのアルファ粒子で衝撃して得ている。イオン電流はスライドを置いたときと、はずしたときに測定し、両者の差を中性子による電流としている。スライドから生じるガンマ線は、ベリリウム・スライドの場合には6cmの鉛でほとんど完全に吸収することができ、中性子はこれによって約40%減少するのみであった。ホウ素とフッ化カルシウムのスライドからのガンマ線を吸収するには、3cmの鉛で十分であった。

 ベリリウムからの中性子の速度は、チャドウィックによれば、2.8x109cm/sと 4x109cm/sの二つの主なグループ(前者の方が強度がより大)がある。この実験で使用したような厚いベリリウム層の場合には、多分、平均3x109cm/sであろう、としている。ホウ素からの中性子の平均速度は、チャドウィックが「2x109cm/s以下」としており、この上限値を使っている。フッ素からの中性子の平均速度は、この実験で1.3x109cm/sと推定している。

 湯川博士の議論に使われているこの実験の主要な結果は、表3として数値的に示されている。それを図示したのがページトップのイメージである。

 なお、これよりものちに発表された実験や理論を見ると、ボナーの実験の示す中性子断面積の傾向は必ずしも正しくはなく、したがって、これについての湯川博士の議論も有意義なものではなかったことになる(詳細は別に述べる予定)。

 (この記事は、湯川会2007年9月例会で話した内容に手を加えたものである。)

2007年10月2日火曜日

ポアンカレ予想

 昨夜午後8時から10時近くまでNHKハイビジョンで放映された「世紀の難問に挑んだ天才たち:宇宙の形のなぞに迫る」を見た。「単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3に同相である」というポアンカレ予想(Poincaré conjecture、1904年に提出)を解こうとして、この難問に取り憑かれてきた数学者たちの苦闘が興味深く描かれていた。

 ポアンカレ予想はのちにn次元に拡張され、n≧5 の場合がスティーヴン・スメールによって(1960年)、n=4 の場合がマイケル・フリードマンによって(1981年)証明されたこと、さらに、3次元ポアンカレ予想について、ウィリアム・サーストンが幾何化予想(3次元多様体の分類に関するもので、3次元ポアンカレ予想を含む)を出したこと、2002年から2003年にかけてロシアの数学者グリゴリー・ペレルマンが リッチ・フロー (Ricci flow) の理論を利用して、サーストンの幾何化予想を解決し、その結果としてポアンカレ予想を解決したことなどの専門的な内容も分かりやすく紹介されていた。

 世紀の難問を解き、2006年のフィールズ賞を受賞しながら辞退したペレルマンは、目下隠遁していて、何か新しい目標を見つけたとのみ、最近アメリカの数学者にもらしたとか。趣味はキノコ狩りだそうだ。

 (この記事を書くに当たっては、『ウィキペディア』の「ポアンカレ予想」の項によって、記憶の確認・追補を行った。)

 追記:上記テレビ番組の副題「宇宙の形のなぞに迫る」と同様な副題は、ポアンカレ予想について書かれた英書 [1] にも使われている。

  1. Donal O'Shea, The Poincare Conjecture: In Search of the Shape of the Universe (Walker & Company, 2007).

2007年9月19日水曜日

「ふと思いあたった」の謎

 湯川秀樹博士は1933年4月、東北大学で開催された日本数学物理学会年会において、「核内電子の問題に対する一考察」という、「生まれて初めての研究発表」(湯川著『旅人』の表現による)を行った。その要旨 [1] 中には、次のようなところがある。

…輻射との類推により(輻射が電子、陽子間の相互作用の仲介者であつたと同様な意味で)電子が陽子と中性子との間の相互作用の仲介者であって、核内に於ては電子は一種の場の如く作用すると考へられる。
而して上に述べた様な形の電子に関する方程式を解けば、中性子と陽子との間の相互作用がわかる筈である。電子には静止質量のあることからして中性子と陽子との間の距離が h/(2πmc) に比して大きくなれば相互作用の勢力は急激に減少することが想像される。…

 これによれば、湯川博士はこの要旨を書いた時点において、すでに、核力の到達距離と、核力を媒介する粒子の質量が逆比例の関係にあることに気づいていたことになる。

 他方、湯川博士の自伝『旅人』には、次のように述べられている。

十月初めのある晩、私はふと思いあたった。核力は、非常に短い到達距離しか持っていない。それは十兆分の二センチ程度である。このことは前からわかっていた。私の気づいたことは、この到達距離と、核力に付随する新粒子の質量とは、たがいに逆比例するだろうということである。こんなことに、私は今までどうして気がつかなかったのだろう。

 「十月」とは1934年10月のことであり、この記述は、1933年春の学会講演要旨と矛盾するように思われる。湯川博士は『旅人』を書く際に、講演要旨のことを忘れていたのだろうか。または、中間子論の着想をドラマティックに表現するため、ここでは創作を行ったのだろうか。あるいは、『旅人』を連載していた朝日紙の担当記者の入れ知恵によって、このように書いたのだろうか。――この謎に対する答えは、日本物理学会誌・湯川追悼特集号中の、河辺・小沼両氏による記事 [2] に見出すことができるようだ。

 その記事には、湯川博士が1933年春の学会講演要旨を書いたすぐあとで、要旨に記した核力の到達距離と媒介粒子の質量の関係を、いったん否定していたことが記されている。すなわち、湯川博士は講演原稿中では「実際計算すると出てこない」と訂正し、また、その頃書かれた「ボーズ電子論」という草稿(「談話会及び Colloquium 原稿, 1934-1935」というファイルに保存されていたもの)に「…電子のコンプトン波長を含む項は一種の位相因子として入り、…距離と共に急激に減少するとは言えないという結論に導かれる」と記していたのである。このように一度はほうむり去られた関係だったので、再発見の必要があったと見るべきだろう。

  1. 『数物学会誌』第7巻第2号; 日本物理学会編『日本の物理学史』下 資料編 (東海大学出版会, 1978) p. 319 に再録; 朝永振一郎「量子力学と私」[『朝永振一郎著作集11』(みすず書房) と『物理学と私』(岩波文庫) に所収] にも解説とともに引用されている.

  2. 河辺六男, 小沼通二, 日本物理学会誌 37, 265 (1982); 九後汰一郎, 数理科学 No. 522, 19 (2006) に、関連箇所が引用されている.

2007年8月5日日曜日

被引用の多い湯川論文は?

 湯川博士のノーベル賞論文(中間子論第1論文)は、偉大であるといっても、発表から72年を経過した古典であり、要点は教科書などで読める。最近の論文がその原論文をわざわざ引用することは滅多になさそうである。その後に発表された博士の非局所場の理論や、素領域の理論などの論文は、これと比べて、どの程度引用されているのだろうか。――このような疑問を解くため、Google Scholar で、"H Yukawa" と入力して検索したところ、66編の論文が出て来た。各論文の書誌データのあとに被引用数が記されている。ただし、現在 Google Scholar に出るのは、ある年以降の論文で、被引用数も主要な専門誌に引用されたものに限られているようだ [1]。

 被引用のベスト3は、次の通りである(2007年8月4日調べ)。

  1. 1950年の Physical Review に掲載の非局所場理論の第1論文 "Quantum Theory of Non-Local Fields. Part I. Free Fields" 101件

  2. 1953年の同誌に掲載の素粒子の構造と質量スペクトルに関する第1論文 "Structure and Mass Spectrum of Elementary Particles. I. General Considerations" 85件

  3. 1955年に Supplement of the Progress of Theoretical Physics に再録されたノーベル賞論文 "On the Interaction of Elementary Particles. I " 39件

 [1] 私の共同研究者たちと私による論文は、67編が Google Scholar の検索にかかり、最も被引用が多いのは、1972年に Nuclear Instruments and Methods 誌に掲載の、電子の外挿飛程の経験式に関する論文で、34件である。しかし、引用データ収集の専門誌 Science Citation Index による1999年までの調査で、同論文の被引用は89件に達していた。昨年、Google Scholar で同じ検索をしたときには、被引用数がもっと少なかったということもあり、Google Scholar のデータべースは、なお充足中の段階と思われる。さらに、さる2007年7月2日の検索では、湯川博士のノーベル賞論文(再録)の被引用数が200件あったのが、今回の検索では、39件に「減っている」という、不思議な不安定さもある。

2007年7月23日月曜日

アテネ会議湯川講演

 先に日本物理学会誌7月号掲載の湯川関連記事の一つを紹介した [1] のに続き、もう一つの関連記事「アテネ会議湯川講演と科学の理想」[2] を紹介する。

 著者はまず、朝永が随筆「鏡の中の世界」に記した「過剰ならざる哲学」や、パウリが真に革新的な理論に必要としたクレージネス(狂気、そしてまた、群れを抜く素晴らしさをも意味する)は、湯川にとってはどんなものだったか、と問いかける。

 次いで、湯川が1964年6月5日に開かれたギリシャ王立協会主催アテネ会議で行った講演「科学的思索における直感と抽象」[3] での問題提起、「なぜ科学は古代ギリシャだけから生まれたか」と、その答えとして抽象と直観の釣り合いの重要性を述べた部分を引用し、そこに湯川の「群れを抜く素晴らしさ」についての考えも出ていることを示す。

 さらに、直観と抽象についての湯川の考えを裏付けるような C・N・ヤンやバートランド・ラッセルの言葉を引用している。また、物理学者が示した「過剰ならざる哲学」の例として、ファインマン、サラム、T・D・リーらの著作の末尾の言葉を挙げている。最後に、湯川の問いである「科学はなぜ東洋から生まれなかったか」に対するコロンビア大・ドゥブレの指摘や、関連したことがらについてのサラムの見解を述べている。

 ――著者自身の問題提起に続いて、湯川の問題提起とそれへの答えが紹介され、その問題と答えが、後の章で、著者自身が出したものと並列の問題として扱われている、という複雑な構造の一文である。また、引用の多いこともあって、このエッセイには、一読しただけではその趣旨をとらえがたい面がある。しかし、関連の記述をよく収集していることは、称賛に値すると思われる。私にとっては、湯川のアテネ会議講演を通読してみたいという気持ちを起こさせて貰った点で、ありがたい文であった。――

  1. 日下、オッペンハイマー、湯川の関係, Ted's Coffeehouse 2 (2007年7月20日).
  2. 法橋登:日本物理学会誌 Vol. 62 p. 555 (2007).
  3. もとは英文で、河辺六男訳が『湯川秀樹自選集4』p. 244 に収められている。法橋氏は『科学』誌掲載の「川辺」訳を参考文献に引いているが「河辺」の誤りだろう。

2007年7月22日日曜日

湯川の想いを引き継いで

 今年の原水爆禁止世界大会・科学者集会は「北東アジアに非核兵器地帯を―核兵器廃絶への湯川の想いを引き継いで―」と題して、8月2日(木)10時から16時30分まで、ひと・まち交流館京都(京都市下京区河原町通り六条東側)で開催される。

 京都は湯川博士のゆかりの地であり、また今年は博士の生誕100年に当たるとして、この集会では、博士の想いを引き継ぎ、核兵器廃絶を実現するための具体的道筋の一つとして、北東アジアに非核兵器地帯を設けることを提案し、その実効性ならびに実現可能性について議論したい、としている。

 愛知大学教授、日本物理学会会長の坂東昌子さんによる「湯川博士の想い」と題する講演もある。集会の詳細について興味のある方は、「原水爆禁止2007年世界大会・科学者集会 サーキュラー」[1] を参照されたい。

 没後20数年を経て、このように、その想いを引き継ぐ動きがあることは、湯川博士の核兵器廃絶にかけた熱意の大きさと、方向の正しさを裏付けるものであろう。

  1. 北東アジアに非核兵器地帯を―核兵器廃絶への湯川の想いを引き継いで―, 原水爆禁止2007年世界大会・科学者集会サーキュラー (2007年6月).

2007年7月20日金曜日

日下、オッペンハイマー、湯川の関係

 日本物理学会誌2007年7月号に湯川博士関連記事が2編掲載されていた。ここではその一編、「日下周一(1915-1947)―もう一人の中間子研究者―」[1] を簡単に紹介する。著者の加藤賢一氏は大阪市立科学館勤務で、この文は同館の斎藤吉彦氏(「湯川秀樹を研究する市民の会」顧問)との共同調査に基づいて書かれ、「歴史の小径」欄に投稿されたものである。

 日下は大阪生まれで、4歳で両親や姉とカナダに渡り、MITで修士課程を終え、カリフォルニア大でオッペンハイマーの指導を受け、博士号を得た(1942)。1939年から1945年の間に、中間子関連のものを中心として10編ほどの論文を発表し、パウリ、セグレ、ウィグナー、ウー、アインシュタイン、湯川らと交流もしたが、1947年夏、遠泳中に溺死し、彗星のように学問の舞台から消えた。31歳だった。その頃、プリンストン高等研究所長に就任したオッペンハイマーは、翌年に湯川を、翌々年に朝永をプリンストンに招いたのである。

 加藤氏は

オッペンハイマーは愛弟子の日下を通し、日本にある種の親しみを感じ、それゆえに[原爆の開発と日本への投下に関して]悔恨の情にとらわれることがあったのではなかろうか。そうした気持ちが湯川や朝永への支援となり、ノーベル賞の推薦へと結びついたと想像される。

と記している([]内は引用者の注)。プリンストン大学には日下奨学金が設けられ、現在でも物理の優秀な学生の表彰を行っているそうである。日下の年譜と業績の詳しい紹介については著者と斎藤氏のウエブページ [2, 3] を参照されたい、とのことである。

  1. 加藤賢一, 日本物理学会誌 Vol. 62, p. 555 (2007).
  2. http://www.sci-museum.jp/~kato
  3. http://www.sci-museum.jp/~saito

2007年6月10日日曜日

ドラマ「ユカワ・ポテンシャル符号事件の裁判」

 [以下は Wiki Yukawa に書いたものの転載。裁判・法律用語の使用に誤りなどがあれば、ご寛容のほど。誤りなどについてご教示いただければ幸甚である。]

 事件の内容:湯川秀樹はノーベル賞論文(中間子論第1論文)において、中性子・陽子間の相互作用ポテンシャルを正符号にとっているが、これは誤りである、と検察が告訴した。

   公判第一日

 裁判長「検察官は訴えを述べるように。」

 検察官(益川敏英)「被告のノーベル賞論文第1ページをちらっと見て驚きました。原子核を強く結合させる引力ではなく、どう見ても反発し合う斥力で、相対論的にも不整合であります。」

 裁判長「被告は検察官の陳述に間違いがないと認めますか。」

 被告(湯川秀樹)「ポテンシャルを正符号にしたという意味では、その通りです。ただし、第1論文では中間子はベクトルなんです。4次元的な意味でのベクトルなんです。ベクトルのスカラー成分だけ取るというつもりでやっている。だから力の符号が普通のスカラーと逆になるわけです。negative energy と positive energy の逆転です。第2論文ではスカラー中間子をとりあつかっています。」

 弁護人(湯川会所属・T)「発言を求めます。」

 裁判長「よろしい。」

 弁護人「論文 "On the Interaction of Elementary Particles. I." を証拠物件として提出することを認めて下さい。」

 裁判長「弁護人の申し出を認めます。」

 弁護人「検察官は『第1ページを見て驚いた』と述べましたが、いわゆる第1論文である証拠物件を見ていただけば分かる通り、第1ページには式は一切出て来ていません。したがって、検察は実にずさんな調査に基づいて告訴をしていると考えざるを得ません。」

 検察官「アブラハム・パイス氏を証人として申請します。」

 裁判長「申請を認めます。証人は証言台へ。」

 検察官「証人の仕事は何ですか。」

 証人アブラハム・パイス「素粒子論を長らく研究して来ました。その後、素粒子論の歴史を詳しく紹介する本を著しています。」

 検察官「証人の著書中では、本件の符号にかかわる問題をどのように解説していますか。」

 パイス「ユカワは、g^2 を -g^2 と置き換える自由がある、と誤って信じていた旨を書いています。」  裁判長「弁護人に意見はありますか。」

 弁護人「証人は被告の信じていたことが誤りである根拠に言及しておらず、その証言は検察陳述を証拠づけることにはなりません。これとは対照的に、被告は証拠物件の51ないし52ページにおいて『ハイゼンベルクは J(r) に対して正の符号をとったので、重陽子の最低エネルギー状態のスピンは0となった。これに対して、われわれの場合は、g^2 に負号をとるので、最低エネルギー状態は、実験で要請される通り、スピン1をもつことになる』と、確固とした裏付けを述べて、正符号を選んでいます。g^2 に負号をとるということが、ポテンシャルに正符号を選ぶことになります。」

 検察官「次いで、ローリー・ブラウン氏を証人とすることを申請します。」

 裁判長「申請を認めます。」

 検察官「証人はどういう仕事をしていますか。」

 証人ローリー・ブラウン「私もパイス氏と同じく、以前は素粒子論を研究していましたが、その後、素粒子論の物理学史的研究をしてきました。とくに被告を始めとする日本の素粒子論グループによる中間子論の発展を詳しく調べました。」

 検察官「その知見に基づいて、被告の符号の扱いをどう思いますか。」

 ブラウン「符号の選択は、のちに中間子論の原型と矛盾すると分かり、被告らは続いて別の型の中間子を考察するようになりました。」

 裁判長「弁護人に言い分はありますか。」

 弁護人「証人の陳述は、筋が通りません。符号の選択は、証人が『中間子論の原型』という第1論文の中で行われたもので、それ自体『中間子論の原型』の一部をなしています。仮に証人がその表現によって第1論文の自己矛盾を意味したとしても、『矛盾すると分かった』ということは、間違いを犯したということにはなりません。学問上の矛盾は、研究の発展段階において、しばしば自然に生じるものでありましょう。」

 検察官「裁判長、証人にもう一度質問したいと思います。」

 裁判長「よろしい。」

 検察官「証人の先の証言は簡潔過ぎました。もう少し詳しく説明出来ませんか。」

 ブラウン「はい。中間子の交換によって相互作用する一対の核子に対するユカワのエネルギー関数は、ハイゼンベルクのものと似ていましたが、次のような相違がありました。すなわち、ハイゼンベルクは彼が『交換積分』と呼んだ距離に関する未定の関数を使い、実際には経験的に決められるべきものとしました。これに対して、ユカワは-(g^2/r) exp (-λr) という、いまやユカワ・ポテンシャルとして有名な関数を使用しました。ハイゼンベルクは最初、交換積分の符号を彼が用いた分子のアナロジーのものにしましたが、これでは重陽子に対して違うスピンを生じると分かりました。そこで、ユカワは彼のポテンシャルに『逆の』符号を与えました。しかし、ここで彼は間違いをしたのです。基本的な場の理論は符号を自由に選ぶことを許しません。――理論は符号を予想します。ユカワの重陽子もまた間違ったスピンをもつことになります。そして、のちに他のバージョンの中間子論、たとえば、別のスピンをもつもの、を研究する必要が生じるのです。」

 裁判長「弁護人に意見はありますか。」

 弁護人「ハイゼンベルクと被告が互いに異なる符号を採用しながら、どちらも重陽子のスピンを正しく記述できないというのは、納得がいきません。」

 検察官「裁判長、3人目の証人としてリチャード・ファインマン氏を申請します。」

 裁判長「申請を認めます。」

 検察官「証人の職業は?」

 証人リチャード・ファインマン「カリフォルニア工科大学において、物理学を広く研究指導してきました。学部学生向けの物理学講義で、被告の中間子論を分かりやすく取り上げました。」

 検察官「その講義では、第1論文の符号に関わるところをどのように説明していますか。」

 ファインマン「φ= K exp(-μr)/r という関数はユカワ・ポテンシャルと呼ばれています。引力に対しては、K は、その大きさを実験で観測された力の強さに合わせるべき負の数であります――というものです。」

 弁護人「発言を求めます。」

 裁判長「よろしい。」

 弁護人「証人が『Kは負の数である』というのは、被告陳述に照らせば、被告が第1論文で、ベクトル中間子のスカラー成分でなく、スカラー中間子をあつかったと、同証人が誤認しているためと考えられます。」

 裁判長「検察官に意見はありますか。」

 検察官「後日、さらなる証人を用意し、証拠固めをします。」

 裁判長「本日はこれで閉廷とします。」

 ここで第一回公判は終了となった。第二回公判ではどういう議論が展開されるだろうか、そして、裁判長は名判決を下すことが出来るだろうか?

 【検察官の冒頭陳述、被告の陳述、弁護人の証拠物件からの引用、パイスの証言、ブラウンの第一、第二証言、ファインマンの証言はそれぞれ文献 [1] ~ [7] を参考にした。】

 [1] 2006年6月30日付け朝日新聞夕刊.
 [2] 湯川秀樹, ベータ崩壊の古代史 (1974年の講演);『湯川秀樹著作集2』所収; 初出『自然』1975年7月号;『自然』1981年11月増刊「追悼特集:湯川秀樹博士 [人と学問]」に再録.
 [3] 湯川秀樹を研究する市民の会, 湯川秀樹ノーベル賞物理学賞受賞論文和訳, 市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム配付資料 (2007年3月4日).
 [4] A. Pais, "Inward Bound" (Oxford Univ. Press, 1986) p. 431の脚注.
 [5] Brown, L. M. and . Rechenberg, H., "The Origin of the Concept of Nuclear Forces" (IOP, 1996) p. 108.
 [6] Brown, L., "Introduction: Hideki Yukawa and the Meson", [8] 所収, pp. 23-24.
 [7] Feynman, R. P., Leighton, R. B. and Sands, M., "The Feynman Lectures on Physics" Vol. II (Addison-Wesley, 1964) p. 28-13.
 [8] H. Yukawa, "TABIBITO (The Traveler)" transl. L. Brown and R. Yoshida (World Scientific, 1982).

2007年6月7日木曜日

湯川博士関連の随筆を読む

 『日本物理学会誌』2007年5月号「談話室」欄に、法橋登氏の「世界でもっとも美しい科学実験とメソトロン実験」という投稿があった。私は著者宛に、「湯川秀樹を研究する市民の会」で湯川博士についていろいろ勉強したり調べたりしている関係で、特に興味深く思った旨の感想をメールで送った(ついでに、文中のちょっとした間違いを指摘して)。氏からは返信メールに添えて、『大学の物理教育』誌に最近書かれた湯川博士関連の随筆2編のPDFが届いた。法橋氏は私の出身大学物理学科の5年先輩にあたり、湯川博士に関する記憶をできるだけ書き残して置こうとしておられるそうだ。以下に法橋氏の3編の随筆を簡単に紹介する。

「世界でもっとも美しい科学実験とメソトロン実験」
 法橋登, 日本物理学会誌 Vol. 62, p. 371 (2007)

 "Physics World" 誌の読者投票で、世界でもっとも美しい科学実験の1位に外村(とのむら)彰さんの一電子干渉実験が選ばれ、また、1943年にローマ大学で行われたメソトロンの寿命測定実験が次点の一つになったことを、ロバート・P・クリース著、青木薫訳『世界でもっとも美しい10の科学実験』(日経BP、2006)で知った、と記している。そして、外村実験の25年も前の1964年に、湯川博士がギリシャ王立協会アテネ会議での招待講演において、一電子量子干渉実験の科学史的意義を説明したことを述べている。また、1938年4月12日付けの朝永博士の滞欧(ライプチッヒ)日記が、ハイゼンベルクによる湯川理論の講義にふれていることも紹介している。

 紹介されている朝永博士の日記文には多少省略がある。私は省略された文、「ハイゼンベルクはおそろしく湯川の理論に興味を持っている」(『朝永振一郎著作集』別巻2、p. 8)にむしろ興味をひかれる。(次に紹介する随筆を読んで分かったのだが、省略は法橋氏によるものでなく、朝永博士自身のもののようだ。)

「ハイゼンベルグゼミでの朝永と湯川中間子論」
 法橋登, 大学の物理教育 Vol. 12, p. 148 (2006)

 題名に「湯川中間子論」の言葉があるが、この随筆は朝永博士の仕事と彼の滞欧日記を紹介したものである。上記「世界でもっとも…」に引用されているのと同じ1938年4月12日の日記が(同じ省略をされて)含まれている。そのため、題名に「湯川中間子論」が入ったまでのことで、法橋氏が湯川博士についても書いているのではない。法橋氏が滞欧日記を引いた元は、朝永博士の著書『量子力学I、II 』(学芸社、1951)の差し込み付録だとある。

 日記文の前には
「まつい(松井巻之助)くんがなにか軽いものを書いてくれと言うが、一向うまくいかないので、古い日記帳から、いいかげんに引っぱり出してお茶をにごす。」 という朝永博士の文がついている(私はこの文をどこかで読んだような気がする)。この随筆と、引かれた朝永博士の文から判断すると、日記文の省略をしたのは、法橋氏でなく、朝永博士自身ということになる。

 (題名中の「ハイゼンベルグ」は、普通ドイツ語読みで「ハイゼンベルク」と記すが、ここでは原著のまま記した。)

「湯川先生のラジオ放送と宗教対談」
 法橋登, 大学の物理教育 Vol. 13, p. 63 (2007)

 法橋氏は、小学生だった1940年代に、たまたま京都放送のラジオから聞こえた連続講話「目に見えないもの」で、湯川博士を初めて知ったそうだ。それから10年後、月の裏側の写真がテレビに映った年の翌年の正月番組で、湯川博士とSF作家・小松左京の対談があり、「宇宙旅行が自由にできるようになったら、ブラックホールを覗けるのではないか」という小松の質問に対して、湯川博士は「そこまで行かんでも、ここにいても分かるのが学問だ」と答えたという。宗教学者・久松真一との対談においては、悟りについての久松の説明をきいたあとの湯川博士の答えが、「私は悟らんでもよろしい」というものだったことも述べられている。湯川博士の鋭くまた達観した言葉が面白い。

2007年4月22日日曜日

50余年前に読んだ湯川博士の文

 昨年の私のブログに

 湯川博士が昔、新年の新聞に、原爆が発明されたのちの物理学者としての心を「あひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」の歌を引いて書いていたことを思い出した。

と書いたのがある [1]。

 湯川会のMさんは、湯川秀樹選集全5巻、湯川秀樹自選集全5巻、湯川秀樹著作集全10巻別巻1を全部揃えて持っていて、最近、これらに入っている著作を比較し、それぞれに単独で現れている作品の整理を行ない、さらに年別の作品数の推移を表わすグラフも作成した。彼ならば、冒頭に引用された短歌と1950年代初め頃に書かれたもの、というわずかのヒントで、湯川博士の上記の文をこれらの著作集の中から見つけられるのではないかと思い、同会のグループメールで尋ねてみた。すると、すぐに返事があり、『湯川秀樹選集 第3巻 論説篇 原子と人間』pp.11~15(甲鳥書林、1955)に「原子と人間 II」(1955年1月筆)として掲載されていることを教えて貰った。

 その文の書き出しは次のようになっているそうである。

 あひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり とは原子を知つた今日の人間の心境であるともいえよう。人間がこの世にあらわれるよりもずっと前から原子はもちろん存在していた。…

以下、人間は原子の力を知って、原爆、水爆を作り出してしまったことを述べ、「科学の進歩がかならず人間をより幸福にすると単純に信じてよい時代はすぎてしまつた」が、「原子力の悪用を禁止しようとする努力がよりよい世界へ向かつての第一歩であることも明白である」と結んでいるという。

 1955年1月といえば、私が大学1回生のときの正月ということになり、新聞は郷里の自宅で読んだはずで、初出の掲載紙は北国新聞の可能性が大きいのだが、出典の記載はないそうだ。湯川博士が核兵器廃絶の運動の重要性に思いをいたしたきっかけは、1954年3月1日のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験だそうだから、この随筆を書いたのは、そのすぐあとになる。私の心にそれが長年記憶されていたということは、おだやかな文章の中にも、博士の強い主張がにじみ出ていたことを示すものであろう。

 なお、湯川会のIさんが、「あひみての…」の短歌は、藤原敦忠の作 で『拾遺和歌集』と『小倉百人一首』に収められていることを調べて、会のウエブサイト [2] の「湯川と古典」のページに、他の湯川博士と関連の深い古典のことばとともに載せている。

  1. カイコウズの大木, Ted's Coffeehouse (2006年7月22日).
  2. 湯川秀樹研究Wiki

2007年4月4日水曜日

ノーベル賞論文原稿

 さる3月4日に湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)・大阪市立科学館・大阪市立科学館友の会主催で行われた「市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム」の記事が、4月2日付けの読売新聞に掲載されたと、湯川会顧問のSさんから連絡があった。

 その記事は「湯川理論 市民が挑む:生誕100年シンポ ノーベル賞論文など解説」の見出しで、科学欄に載っている。湯川論文の解釈の発表は会員5人が担当したこと、論文が発表された1935年当時、阪大の専任講師だった湯川博士の研究室が大阪・中之島の、いまの国際国立美術館入口付近にあったこともメンバーが文献調査で明らかにしたことなどが紹介されている。

 私はこの記事がオンラインで読めないかと検索したが、見つからなかった。代わりに、読売紙に連載された「京大附置研究所・センター」紹介記事の第1回分として、基礎物理学研究所に保存されている湯川博士のノーベル賞論文原稿について書かれた次のような記事(2007年2月16日付け)を見つけた(全文は [1] に)。

連載[知のかたち]京大附置研究所・センターから (1)
  基礎物理学「湯川秀樹博士の論文」
    ノーベル賞原稿、長年放置
 赤茶けたリポート用紙14枚に、筆記体の英文が裏面まで続く。…(中略)…「世紀の論文」は長年、行方不明だった。79年、司書の記憶を頼りに、理学部図書室の片隅に無造作に積み上げられた段ボール箱から発見されたのだという。…(以下略)…

 この記事について湯川会メーリングリスト宛メールを送ったところ、会員のMさんから、ノーベル賞論文原稿を含む湯川博士の資料が発見された経緯を記した文 [2] のコピーが折り返し送られて来た。それを読むと、私が1985年に中間子論50年京都国際シンポジウムに参加した際に配付を受け、昨年、大阪市立科学館へ寄贈した薄手の冊子 [3] が、その資料の一部を整理したリストだったと分かる。[1] から [3] までが一つの線でつながったのである。

  1. http://osaka.yomiuri.co.jp/kyoto/ky70222a.htm(後日の注:リンク切れとなった).
  2. 小沼通二, 『自然』1980年10月号, p. 69 (1980).
  3. R. Kawabe and M. Konuma, ed., Source Materials of Hideki Yukawa on Meson Theory (Organizing Committee for Kyoto International symposium: The Jubilee of the Meson Theory, 1985).

2007年4月3日火曜日

メソトン

 湯川博士は1935年に、原子核の中で陽子と中性子を結びつけている核力は、重さが電子と陽子の中間の粒子によって媒介されているという中間子論を発表したが、その理論は、しばらくの間、学界から注目されることもなかった。それが、突然世界的に注目されるようになったのは、1937年、カール・アンダーソンらが宇宙線中に、現在ミューオンと呼ばれている粒子を発見し、それが湯川博士が存在を予想した粒子と思われたことによる。発見当初、この粒子はユーコン(この命名については [1] の末尾を参照されたい)、メソトロンなどと呼ばれた。メソトロンの命名についてはアンダーソンと彼の師であるロバート・ミリカンの間で言い争いがあったという話を、私は遅まきながら昨日、湯川会顧問のSさんが以前に書いた文 [2] で初めて知った。

 アンダーソンらはミリカンの留守中に短報を Nature 誌に投稿し、「メソトン」という名を提案した。帰ってきたミリカンが、それを聞くやいなや、「エレクトロンとかニュートロンとかいうのだから、メソトロンにすべきだ」といって反対した。アンダーソンは「プロトンというのもある」と反論したが、結局 r の追加文字を Nature 誌に電報で送ることになった、というのである。

 Sさんはこの話をローリー・ブラウンら編集の本 [3] から引用している。実は、私はその本の原書 [4] を以前から持っていながら、アンダーソンの文 [5] のところを読んでいなかった。そこを開いてみると、この本のもとになったシンポジウム(1980年フェルミ研究所で開催)には、カール・アンダーソンが出席出来なくて、ハーバート・アンダーソンが彼の原稿を代読した、とある。そして、代読者による緒言がついていて、その中にも、上記のようなミリカンとカール・アンダーソンの仲のよくなかった関係が、「300ページほどのミリカンの自伝の中で、カール・アンダーソンについては、若い共同研究者たちとの宇宙線の研究として、ひとこと書いてあるだけ」と、暗にミリカンを批判する形で述べられている。

 その後、「メソトロン」という名には問題ありとして、「メソン」に変わった話と、さらに現在パイオンと呼ばれている、湯川博士の予想した粒子に実際に対応するものの発見(1947年)に伴って、「メソン」が「ミューメソン」に変わった話については、先のブログ記事 [6, 7] を参照されたい。

 なお、アブラハム・パイスの本 [8] によれば、1939年に開催された宇宙線シンポジウムに提出された論文には、現在のミューオンが、ユーコンを含む6通り以上の名前で呼ばれていたが、編集者たち [9] は「メソトロン」に統一したそうだ。6通りとは、重い電子、軽い陽子、ユーコン、メソトロン、メソトン、メソンあたりか。他にどういうのがあったのだろうか。

  1. 「湯川ポテンシャルへのヒント」Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月27日).
  2. 「新粒子の命名『メソトロン』」月刊うちゅう, Vol. 22, No. 10 (2005).
  3. L・M・ブラウン, L・ホヂソン=編, 早川幸男=訳, 『素粒子物理学の誕生』(講談社, 1986).
  4. L. M. Brown and L. Hoddeson, ed. "The Birth of Particle Physics" (Cambridge Univ. Press, 1983).
  5. C. D. Anderson with H. L. Anderson, "Unraveling the particle content of cosmic rays", ibid. P. 131 (1983).
  6. 「中間子命名にハイゼンベルクの父が関与」Ted's Coffeehouse 2 (2007年1月13日).
  7. 「パイオンの名の由来」Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月24日).
  8. A. Pais, "Inward Bound", p. 431 (Clarendon Press, 1986).
  9. Rev. Mod. Phys. Vol. 11, p. 122 (1939).
(2007年4月3日

2007年3月30日金曜日

核力の到達距離

 湯川会のMさんにアメリカの古書店を教えて貰い、そこで注文した本が、1週間目の一昨日届いた。湯川博士の中間子論の一部分を別の方法で導けることを述べた Wick の論文 [1] を含む "Nuclear Forces" [2] という本である。

 この本は、その第1部において、1932年から1960年代前半までの原子核理論を大学生向きのレベルで解説し、第2部に14編の基礎的な論文のリプリント(複写でなく、活字を組み直してある)を掲載している。湯川博士が中間子論を導く参考にしたハイゼンベルクの原子核構造に関するシリーズ論文3編中の I と III の英訳や、湯川博士のノーベル賞受賞論文も入っている。Wick の論文は、核力の到達距離と中間子質量の関係式を不確定性原理から導出することのみを扱っていて、B6版程度の大きさのこの本でわずか2ページのものである。

 Wick の論文の記述は、同じことを書いた朝永 [3] やセグレ [4] の記述よりも分かりにくい感じがする。不確定性原理を仮想粒子のエネルギーと存在時間に直接適用しないで、観測装置(some device which could "see" the heavy electron;"heavy electron" とは中間子のこと)を仮定して、話を進めているからだ。不確定性原理がもともと観測の精度についてのものだったことを思えば、この原理の応用がまだあまり広まっていなかった当時の書き方としては、これが自然だったのだろう。

 また、Wick の導出は、ガモフの公式(トンネル効果によるα崩壊の式か)や他の関連問題に対するボーアの議論(これらについても調べてみたいところである)のアナロジーとして得たように書いてある。湯川の中間子場の理論が電磁場のアナロジーから生まれ、その一部についての簡単化した説明もアナロジーから生まれたというのは面白い。

  1. G. C. Wick, "Range of Nuclear Forces in Yukawa's Theory", Nature, Vol. 142, p. 994 (1938).
  2. D. M. Brink, Nuclear Forces (Pergamon, Oxford, 1965).
  3. 朝永振一郎, 原子核の理論 (初出 1941);『量子力学的世界像』(弘文堂, 東京, 1965) p. 1;『朝永振一郎著作集』(みすず書房, 東京, 1982) p. 41所収.
  4. E. Segrè, From X-Rays to Quarks (W. H. Freeman, 1980; original edition by Mondadori, Milan, 1976).

2007年3月27日火曜日

湯川ポテンシャルへのヒント

 先に「湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)」のグループメールでπ中間子の名の由来 [1] を話題にしたことに関係して、同会のIさんから質問が出た。湯川博士のノーベル賞受賞論文で、中間子の場を「U場」と名づけたことについて、博士自身がその由来を語っている文章があるのだろうか、というものである。

 そのような文を私は見たことがない。原子の散乱の理論では、ポテンシャル(位置のエネルギー)V に 2m/(h/2π)2 を乗じた量を U で表わすことがある [2]。しかし、湯川論文中の式を見ると、U場の U はこういう量ではなく、ポテンシャルそのものである。そこで、U場の名の由来については、次のように想像するのみである。湯川博士は特別な場を提案するにあたり、アルファベットの順位としても文字の形としても、ポテンシャルに普通用いられる V に近く、また、湯川の「ユ*」も連想される U を使ったのだろうか、と。

 ところで、これに関連する情報を探すために、文献 [3] を見ていたところ、その中の高林の文 [4] の脚注に、のちにユカワ・ポテンシャルと呼ばれることになった関数形の先駆的使用例が三つ記されていた。

 (1) ゼーリガー (1885) がニュートン・ポテンシャルの修正として提案。
 (2) 量子力学で遮へいクーロン場として使用。
 (3) 朝永らが中性子・陽子散乱の計算をする際に、一つの可能なポテンシャルとして使用。

 ニュートン・ポテンシャルの修正として湯川型ポテンシャルが研究された [5, 6] ことは、私もパウリの本 [7] で知り、昨2006年4月18日付けの湯川会メーリングリスト宛メールで述べた。そのメール中に「湯川博士はこれからヒントを得たのだろうか。あるいはこれを知らず、独立に思いついたのだろうか」と書いたが、実は、もっと身近で朝永らが使っていたという事情があったのである。

 朝永らの計算については、同じく文献 [3] 中の小沼の文 [8] に詳しく述べられている。その要点は次の通り。

 「1933年に朝永博士(理化学研究所)が湯川博士(京都大学)に宛てた手紙の中に、『小生の方の計算もやっと少し結論らしいものが出ましたから一寸お知らせします』とある。この計算とは、仁科・朝永の1936年の論文の脚注に、『1932年に仁科・梅田(魁)・朝永はポテンシャルをいろいろ変えて、中性子・陽子散乱の計算を行なった』と書かれているものである。このとき、のちにユカワ・ポテンシャルとして知られるようになった関数を使っていたことが、上記の手紙に『Ae-λr/r としたのは仙台でやりました』と明記してある。同手紙の裏面には湯川博士によるλの値などについての書き込みが残っている。朝永博士らのポテンシャルが、湯川理論を生み出す上で役立ったのではないだろうか。」

 なお、高林の (2) の記述にある使用は、誰がいつ最初に行なったかを知りたいと思い、私の蔵書の範囲や Google の検索で調べたが、いまのところ分からない(たとえば、[9-12] には、遮へいクーロン場についての記述はあるが、文献引用まではしてない)。ご存知の方があれば、教えいただきたい。

 * 現在ミューオンと呼ばれている粒子が宇宙線中に発見されたとき、これが湯川博士の予想した粒子かと思われ、ワルソーで開かれた世界物理学会の席上、ボーア、ド・ブロイらによって、ユーコンと命名されたという [13]。ただし、これは U-kon と記したのではなく、Yukawa-electron を略して、Yukon と書かれた。その後、この粒子は陽子・中性子との相互作用が弱く、湯川博士の予想した粒子とは異なることが分かり、それとともにこの名も消滅したようである。

  1. パイオンの名の由来, Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月24日).
  2. たとえば、N. F. Mott and H.S.W. Massey, The Theory of Atomic Collisions, reprinted 3rd edition, p. 20 (Oxford University Press, Oxford, 1971).
  3. 『自然』増刊号「追悼特集 湯川秀樹博士 [人と学問]」(1981).
  4. 高林武彦, 知的ジャイアントを偲ぶ, ibid. p. 38 (1981).
  5. C. Neumann, Allgemeine Untersuchungen uber das Newtonsche Prinzip der Fernwirkungen (Leipzig, 1896).
  6. H. v. Seeliger and S. B. Bayer. Akad. Wiss. Vol. 26, p. 373 (1896).(高林の引用とは年が異なる。別の論文であろうか。)
  7. W. Pauli, Theory of Relativity, p. 180 (Dover, 1981; originally published by Pergamon, 1958).
  8. 小沼通二, 湯川史料からみた中間子論の周辺, 文献 [3], p. 70 (1981).
  9. L.I. Schiff, Quantum Mechanics, p. 325 (McGraw-Hill International, Auckland, 1981; original publication by McGraw-Hill in 1949).
  10. D. Bohm, Quantum Theory, p. 552 (Prentice-Hall, Englewood Cliffs, 1960, Maruzen Asian edition; originally published in 1951).
  11. R. D. Evans, The Atomic Nucleus, p. 888 (Tata McGraw-Hill, New Delhi, 1976; original publication by McGraw-Hill in 1955).
  12. H. Frauenfelder and E.M. Henley, Subatomic Physics, p. 111 (Prentice-Hall, Englewood Cliffs, 1974).
  13. 「宇宙線に日本名」大阪朝日新聞 (1939) (「湯川秀樹・朝永振一郎生誕百年記念展」パンフレットに紙面の写真がある。発行年は、湯川博士が「三十二歳の少壮学者」とあるところから推定。)

2007年3月24日土曜日

パイオンの名の由来

 ちょうど10日遅れの話題だが、3月14日はその数字から「πの日」となっている。また、アインシュタインの誕生日でもある。このことから、ふと、その日は「π中間子(パイオン)の日」でもあるとして、この粒子の存在を理論的に予測した湯川博士と、宇宙線中にそれを見つけた実験グループの指導者セシル・パウエル(湯川博士の翌年にノーベル賞受賞)も祝われるべきだ、などと思った。

 ところで、パイオンは発見当初 "heavy meson" と呼ばれていた、とジョージ・ガモフの本 [1] にある。「重い」と「中間 (meso)」が一緒になっていることから、ガモフは「"heavy middle-weight boxer" のように」と()内につけ加えているが、少なくともいまは、そういう名称のボクシングの階級はないようだ。重い方から、heavy weight、cruise weight、light heavy weight、super middle weight などとなっている。

 π-meson という名は、パウエルがヨーロッパ式の命名法に従って、μ-meson の名と合わせてつけた、とマイケル・リョーダンの本 [2] にある。しかし、なぜπとμにしたかは書いてない。私は、πは Powell の頭文字から、μはアンダーソンらの見つけた粒子が最初に呼ばれた mesotron の頭文字(meson の m とダブるが)から、あるいはπより先に来るギリシャ文字アルファベット中の使いやすいもの(例えばνはニュートリノという粒子とまぎらわしくて使いにくい)から、とったかと想像する。

 パイオンの名の由来についてウエブサイトを探したところ、粒子や高エネルギー物理学用語の由来が集めてあるサイト [3] が見つかった。しかし、そこには [2] の記述を引用してあるだけだった。πとμが選ばれた本当の事情をご存知の方があれば教えていただきたい。

 追記:アブラハム・パイスの本 [4] によれば、パウエルのグループの論文 [5] に次のような文で、π、μ両中間子が命名されているという。

 There is . . . good evidence for the production of secondary mesons constant in mass and kinetic energy . . . . It is convenient to refer to this process . . . as the μ-decay. We represent the primary meson by the symbol π, and the secondary by μ.

これでもなお、πとμを選んだ理由が分からない。

文献

  1. G. Gamow, "The Great Physicists from Galileo to Einstein" p. 320 (Dover, New York, 1988; originally published by Harper & Brothers, 1961).
  2. M. Riordan, "The Hunting of the Quark" p. 52 (Simon & Schuster, New York, 1987).
  3. Lynne Zielinski, Physics Folklore (http://ed.fnal.gov/samplers/hsphys/folklore.html).
  4. A. Pais, "Inward Bound" p. 454 (Clarendon Press, New York, 1986).
  5. C. M. G. Lattes, G. P. S. Occhialini and C. F. Powell, Nature Vol. 160, 453 (1947).

2007年3月5日月曜日

市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム

 表記シンポジウムで湯川博士のノーベル賞論文第1章を解説するE氏。氏は論文解説グループの「隊長」と呼ばれている。

 昨3月4日(日)午前11時から午後5時まで、中之島の大阪市立科学館において、湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)・大阪市立科学館・大阪市立科学館友の会主催の「市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム」が開催され、約80名が参加した。シンポジウムのキャッチコピーは「よっしゃ!! わかった!? 中間子論!!」。

 湯川会は、2005年12月から4回の準備会を重ねて、2006年4月に正式に発足し、11回の例会と1回の特別勉強会を経てシンポジウム開催にこぎつけた。私は第3回準備会から参加し、K氏とともにアドバイザー役を勤めた。

 午前の部「湯川理論の生まれた時代、湯川の業績」では5つ、午後の部前半「湯川理論の理解のために」では6つ、午後の部後半「湯川理論を理解する」では同じく6つの発表が行われ、参加者の方がたからの鋭い質問も多くあった。半ば自画自賛になるが、素人たちによるものとは思えないほど立派なシンポジウムが出来たといえよう。

 湯川会では、このシンポジウムの成果に磨きをかけて出版を行なうための作業を続けることになる模様である。

2007年3月2日金曜日

ビキニデー

 3月1日は太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が行った水爆実験によって、マグロ漁船第五福竜丸が被曝したビキニデーである。関連行事が2月27日から始まり、3月1日には日本原水協と原水禁国民会議が静岡市と焼津市で、それぞれ集会や墓前祭を開き、核兵器廃絶を訴えた [1]。このニュースがあまり報道されていないのは、まことに遺憾な状況である。

 第五福竜丸が被曝したのは1954年のこと、今年は53回目のビキニデーだった。被曝から約半年後の9月23日、第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが急性放射能症で死亡した。

 最近、毎日新聞のインタビュー記事「今、平和を語る」で、物理学者・小沼通二博士が核兵器問題について語り、湯川博士の核兵器廃絶運動に触れている [2]。それによれば、湯川博士は指導的な物理学者として日本での原爆研究に手を貸した(これについては [3] を参照されたい)という反省と自責の念があったところへ、アメリカが1954年3月に上記の水爆実験を行なったことで大きな衝撃を受けたそうだ。湯川博士は、それからは毅然として核廃絶を訴え、核兵器は「必要悪」ではなく「絶対悪」との立場を取り、核兵器を戦争や、どうかつ(恫喝)の手段にするのは、人類に対する最大の犯罪だと決めつけたのである。

 小沼博士はまた、湯川博士を含むメンバーによって1955年に結成された「世界平和アピール7人委員会」が1967年に出した「核アレルギー・核の傘論を排除するアピール」は、博士が自ら読み上げたものだと述べ、そのアピールを次のように紹介している。

 「最近、核の傘に覆われた世界という表現がしばしば使われるようになったが、そこには今後の人類は核の傘の下で暮らさねばならない、という宿命論的なあきらめさえ感じられる」とした上で、「傘は雨を防ぐためのものであるが、核の傘といわれるものは、それとは全く反対に人類の頭に火の雨を降らす源となるものである。それどころか核の傘自身がどんどん巨大化しつつある怪物で、このまま成長してゆけば結局人類を呑みつくしてしまうであろう」と断じている。明快ではないか、と。

  1. 27日からビキニデー関連集会, goo ニュース (中国新聞) (2007年2月26日).
  2. 今、平和を語る:物理学者・小沼通二さん/上 核兵器は「絶対悪」, 毎日新聞 (2007年1月31日).
  3. 湯川博士と源氏物語, Ted's Coffeehouse (2007年2月8日).

2007年2月13日火曜日

三高生・小川秀樹の愛読書

 「湯川秀樹を研究する会」のメンバーの一人であるMさんは、湯川博士の自伝『旅人』に書かれている記述を参考に、博士が学生時代(結婚前の姓は小川)に学んだ本を収集する趣味を持っている。最近、一冊だけ未収集だったフリッツ・ライヘの『量子論』の英訳をも入手したそうである。そして、この本がいまや、ウエブサイト [1, 2] から無料でPDFとしてダウンロードできることを、メンバー宛グループメールで教えてくれた。

 この本について、『旅人』には次のように書かれている。

 「高等学校の物理の学力では、『量子論』を完全に理解することは困難であった。それにもかかわらず――というよりも、むしろわからないところがあればこそ――ライヘの書物は面白かった。それまでに読んだ、どの小説よりも面白かった。」

 「私の今日までの五十年を通じて、一冊の書物からこれほど大きな刺激、大きな激励を受けたことはなかった。」

 ウエブサイトからはイギリス・アメリカ両版をダウンロードできるが、アメリカ版の方が綺麗にスキャンされている(イギリス版には、ページを抑えている指までも写っていたりする)。全200ページ弱の細長い形の本である(上掲のイメージはアメリカ版PDFに含まれている表紙)。とりあえず、緒言のページなどを読んで、若い日の湯川博士に思いを馳せた。緒言は1ページだけの短いものだが、次のような興味深い文章で始まっている。

 "The old saying that small causes give rise to great effects has been confirmed more than once in the history of physics. For, very frequently, inconspicuous differences between theory and experiment (which did not, however, escape the vigilant eye of the investigator) have become starting- points of new and important researches."

そして、アインシュタインの相対性理論やプランクの量子論にふれる。

 湯川博士はこの本の巻末の一節を和訳して引用しているが、その原文は次の通りである。

 "Over all these problems there hovers at the present time a mysterious obscurity. In spite of the enormous empirical and theoretical material which lies before us, the flame of thought which shall illumine the obscurity is still wanting. Let us hope that the day is not far distant when the mighty labours of our generation will be brought to a successful conclusion."

湯川博士は、別の本を買うために、この本を売ってしまったそうだから、この一節は書き写してあったのだろう(コピー機のない時代である)。この文に感銘を受けた湯川博士自身が、"the mighty labours of our generation"(著者らの世代の大きな努力)の一つに挑み、成功したのである。

 なお上記の巻末の文は第126ページにあり、127ページ以後、この本の約1/3は "Mathematical Notes and References" に当てられている。読み方次第では、前期量子論の概略を知ることも、理論的に深く学ぶこともできるようになっているのである。

 [1] イギリス版: http://www.archive.org/details/quantumtheory004289mbp.
 [2] アメリカ版: http://www.archive.org/details/quantumtheory00reiciala.

2007年2月10日土曜日

湯川著『旅人』の外国語版

 以下は昨2月9日、私が「湯川秀樹を研究する市民の会」のメンバーへ送ったグループメールから(若干修正)。

*     *     *

皆さん

 私がかつて『旅人』の英・独語版 [1, 2] に多くの誤訳を見つけて訳者たちに知らせたという話を、定例会で時間があれば紹介したいと思っていましたが、定例会はいつも時間が足りないくらいで、その機会がありませんでした。私が訳者たちに送った手紙(英文、独訳者へも!)と正誤表のごく一部(誤りであることの説明を要するものだけ)が私のウエブサイト [3] にありますので、興味のある方はご覧下さい。

 英訳は日本からの留学生 R. Yoshida 氏が L. Brown 氏(もと素粒子論、その後物理学史、特に湯川・朝永あたりの研究者)個人のために訳してあったものに、小沼通二氏の勧めで Brown 氏が手を入れて出版したということですが、日本の地名や人名の誤読(ローマ字書きの間違い)がかなりありました。

 私が Brown 氏に手紙を送った時に、ちょうど彼のもとへ行っていた小沼氏を通じて、氏の帰国後に Brown 氏のお礼を伝える電話がありました(その件については和文でウエブページ [4] に、いくつかの誤読例とともに書いてあります)。しかし、その後も、私の指摘を参考にした英訳の改訂版が出ていないのは残念です。Brown 氏が物理学史の研究者であるにしては、物理学史用語の間違いと思われるものもあったのが不思議です。Yoshida 氏の下訳に十分注意深くは手を入れなかったということでしょうか。

 独語版の訳者からは何の音沙汰もなく、初版から13年後の1998年にペーパーバック版が出ていますが、アマゾンのデータで見たところ、こちらも改定されている様子はありません。記憶している滑稽な誤訳は、湯川博士が小学生の頃親友と肩を組んで雨天体操場(いまの言葉でいえば体育館)を駆け回ったというところの「雨天体操場を」が「雨の日に運動場を」となっていたことや、日露海戦の殊勲者とされる東郷元帥が陸軍の高官だったようになっていたことです。

 なお、私は京都国際会議場で開かれた中間子論50年国際シンポジウム(1985)の場で Brown 氏に会い、少しばかり話をしました。彼は『旅人』の仏訳が英訳から無断で再訳したものだといって、不興げな面持ちでした。

 T.T.

 後日の追記:英語版、独語版双方の正誤表全体をPDFとしてダウンロード出来るようにした(http://www.geocities.jp/tttabata/yfiles.html)。

  1. Hideki Yukawa "Tabibito", L. Brown and R. Yoshida, transl. (World Scientific, 1982).
  2. Hideki Yukawa: Tabibito - Ein Wanderer, E. Müller-Hartmann, ed; C. M. Fischer, transl. (Wissenschaftliche Verlagsgesellschaft, 1985).
  3. The English Edition of Yukawa's "Tabibito", 続いて The German Edition of Yukawa's "Tabibito" が掲載されている. "Surely I'm Joking!: A Physicist's Personal Essays" 所収 (IDEA Web site).
  4. 再び湯川さんを媒介に, 「ファインマンさんと私の無関係な関係」所収 (IDEA Web site).

2007年2月8日木曜日

湯川博士と源氏物語

 昨年4月に正式発足して勉強を続けてきた「湯川秀樹を研究する市民の会」の成果を発表する3月4日のシンポジウムまで、あと1カ月を切った。以前 Scientific American 誌に掲載された Laurie M. Brown、南部陽一郎両氏による「戦時中の日本の物理学」という記事を未読のまま、どこかに残してあった。同シンポジウムでの発表に参考になるようなことが書いてないか、読んでみたいと、一昨晩それを探した。

 ところが、どこを探しても、その記事は出て来ない。幸いオンラインで pdf の形で購入した Scientific American 誌の特集号の中に、その記事 [1] が再録されていて、読むことが出来、次のような記述を見つけた。

"Yukawa was doing war work one day a week; he never said what this entailed. (He did say that he would read The Tale of Genji while commuting to the military lab.)"
[湯川は一週間に一度戦争の仕事をしていた。彼はそれが何に関わるものだったかを決していわなかった。(彼は陸軍の研究所へ通いながら『源氏物語』を読んでいるといっていた。)—筆者和訳—]

湯川博士が陸軍の研究所で『源氏物語』を読んでいたというのは、原爆開発の参考になりそうな文献(「原子物語」)を講釈させられていたという意味と思われる(Scientific American 誌の英語圏の読者にはこの陰喩が分からないだろう)。

 私の恩師で湯川博士の京大同期生だった木村毅一博士の随筆集にも、「荒勝研究室の残留組は、戦争中、研究資材の不足する中で、ウランの核分裂に関する研究にたずさわっていた。その頃、湯川教授や坂田氏、谷川氏などの理論家と、荒勝研究室の実験グループが一緒に核分裂に関する文献を読み、ウラン235の濃縮法についての検討をしばしば行なった」[2] 旨の記述がある。湯川博士が核兵器廃絶に熱心だった背後には、戦時中のこのような事情への反省もあったかも知れないと思わされる。

文献

  1. L. M. Brown and Y. Nambu, "Physicists in Wartime Japan" Sci. Amer. (December 1998); also included in "The Science of War: Nuclear History" Sci. Amer. Special Online Issue (2002).
  2. 木村毅一, 原子力関係研究の思い出,『アトムのひとりごと』p. 37 所収 (丸善, 1982).

2007年2月1日木曜日

○×式採点

 以下は、私がけさ「湯川秀樹を研究する市民の会」のメンバーへ送ったグループメール(一部修正)。

*     *     *

 皆さん、お早うございます。

 昨1月31日付け朝日新聞夕刊にも湯川博士関連の記事がありました。「窓:論説委員室から」欄です。題名は「湯川さんは50点?」というもので、前半の文で、湯川博士のノーベル賞論文は、「強い力を説明する未知の新粒子によって、弱い力まで説明しようとしていた。見立ての半分は○、半分は×だった」旨を述べています。

 これは決して湯川博士をおとしめようとする文ではなく、「物理学者は、多彩な自然界をできるだけ単純な理論で描こうと試みる」と説明し、あの論文がいろいろな点で不完全だったにもかかわらず、世界中の学者がとびついて、その理論を完全なものに整えようとした理由は、「湯川構想の大きさにある。文字通り開拓型の論文だった」との、佐藤文隆さんの言葉を引いています。そして、「科学は、大胆な構想と絶えざる試行錯誤で進んでいく。湯川さんの『50点』は、そのことを物語る」と結んでいます。

 湯川博士は中性子と陽子が引き合う力の場として、U場のポテンシャル(湯川ポテンシャル)を導入しました。その符号が斥力に対応するものだった [1] ことを問題にすれば、中間子論文は、「○×式採点」では零点とさえいえます。○×式採点が科学論文の評価に不適当なことは勿論のこと、筆者の論説委員は述べていませんが、児童・生徒の能力評価においても大いに問題があることを、湯川論文は物語っているのではないでしょうか。

 T.T.

  1. 益川敏英, 中間子論:独自の素粒子像追う, 朝日新聞夕刊「波」欄 (2006年6月30日).

(2007年2月1日)

2007年1月28日日曜日

精神一到

 「湯川秀樹を研究する市民の会」の顧問の一人のOさんから先般、『サライ』誌に長岡半太郎、湯川秀樹両博士の声も入っているCDが付録になっていると、グループメールで知らせて貰った。その日から少し遅れてスーパーマーケットの書店へいってみると、ちょうど『サライ』は3月号に置き換えられたばかりで、くだんのCDがついている2月号はもうなかった。

 たまたま、友人がメールで『サライ』2月号本誌にあった三島由紀夫のエピソードを書いてきていたことを思い出し、その友人に『サライ』2月号を買い損ねたことをいってみたら、付録のCDを親切に送ってくれた。NHKが放送を開始してからの歴史的録音をつづったもので、「大正14年放送開始―82年の軌跡―:ラジオが語った『時代の記録』」という題になっている。

 長岡博士は、NHK第2放送で1935年から始まった学校放送全国放送の「朝礼訓話」として、電磁気の理論を大成した19世紀イギリスの物理学者マクスウエルの話をしている(録音は途中からしか入っていないようだ)。そして、日本が外国の真似ばかりしているのは情けないという趣旨のことを述べ、「精神一到何事か成らざらん」という言葉で結んでいる。

 1935年といえば湯川博士の中間子論文の出た年でもある。この論文は、湯川博士があたかも長岡博士のこの訓話に応えたかのように、日本の理論物理学の優秀さを世界にとどろかせることになった。CDに収められている湯川博士の声は、敗戦後間もない時期の明るいニュースとして、1949年ノーベル賞受賞時の言葉を取り上げたもので、「日本の理論物理学は、こういうことがなくても、世界で認められて来ている。日本の再建の勇気づけになれば喜ばしい」という内容である。

2007年1月27日土曜日

湯川博士日記

 以下は、けさ私が「湯川秀樹を研究する市民の会」メンバーへ送ったグループメールからの引用(若干修正)。

*     *     *

 皆さん、お早うございます。

 昨1月26日の朝日新聞夕刊科学欄に「公開の湯川博士日記 記載なし:質量いつひらめいた 中間子理論 残る謎」というタイトルの記事が掲載されていました。

 「湯川博士は新粒子の理論を1934年10月前半の4日間で集中的に練っていたこと が、このほど公開された日記の記述で分かった。だが、この粒子の質量を計算した様子は、日記から直接には読み取れない。博士はいつ質量にたどりついたのだろうか」という趣旨の前書きで、本文にはもう少し詳しい考察が述べられています。ここで「いつ」とは、10月中の正確な日付けを意味しています。結びの文は「質量計算の謎の解明は、新しい史料の発掘に期待するしかないようだ」となっています。

 湯川博士自身の日記に明らかでなければ、新しい史料とは、当時同じ研究室にいた人たちの日記ということになるでしょうか。詳しい日記をつけていた人がいて、それを家族が保存しておればよいのですが。

 上記の記事に続いて、23日に京大で行われた記念式典と講演会の記事も載っています。題名は「湯川氏・朝永氏 生誕100年:記念式典『京大の誇り』」。大阪府下に住む私たちは、阪大で生まれた湯川博士の中間子論は大阪の誇り、とも思っていることを主張したいものです。

 T.T.

2007年1月26日金曜日

場と量子のどちらが主か

 湯川博士の中間子第1論文 [1] の第3章は "Nature of the quanta accompanying the field" と題されている。「湯川秀樹を研究する市民の会」の勉強会で、これを「場に伴う量子の性質」と訳していることに、私は疑問を持たなかったが、さる21日の定例会の後で、Eさんが「場を伴う量子の性質」がよいのではないか、とグループメールで提案した。「場に伴う量子」といえば、場が主で量子は従だが、「場を伴う量子」といえば、量子が主で場は従となる。Eさんの提案理由は、量子あっての場であり、湯川博士も量子に重点をおいていただろう、ということである。

 確かに、湯川論文は電子の約200倍の質量を持つ、当時未発見の量子(中間子)が核力を媒介しているだろうという画期的な提唱をしたのである。また、場は古典物理学以来の概念であるのに対し、素粒子の運動を支配する量子力学の、「量子化」という操作をすれば、場に粒子像が現れる。したがって、極微の世界では量子が主役ともいえる。念のため、片山泰久訳 [2] の中間子第1論文を見ると、Eさんの提案のように「場を伴う量子」となっている。

 しかし、"A accompanying B" という英語の句では、Bが主でAは従の役割を持つ。つまり、これは「Bに付随するA」を意味する。Bは accompany という動詞の目的語であるが、英語の目的語を日本語にするとき、「~を」という表現になるとは限らない。

 湯川論文は量子力学が誕生してまだ年数の浅い時期に書かれたものであり、「場に付随する量子」といういい方に抵抗はなかったであろう。というよりも、核力の場に未知の量子が関係しているだろうということ自体、他の誰もが考えおよばなかった時代だったのだから、場が主であって不思議はない。

 さらに、湯川論文は、まず、第2章において「相互作用を記述する場」を論じ、いわゆる湯川ポテンシャルを半古典的に導き出している。そして、「その場を量子化したときに出てくる粒子」を議論するための第3章が続くのである。この流れを見ても、「場に伴う量子」と見るのが自然であろう。したがって、原文に忠実な訳は「場に伴う量子」でなければならない。

 このような私の考えをメールで書き送ったところ、Eさんは湯川論文を再度読み直して、賛同してくれた。

 私はその後、湯川博士の半生の自伝『旅人』の中に、「核力の場に付随する粒子を、既知の素粒子――新しく登場した中性微子をも含めた既知の粒子の中に、さがし求めることはやめよう」という文があることに気づいた。これは、「に」と「を」の選択上の、決定的な材料であろう。「場を伴う量子」という片山訳は、ちょっとした誤訳ということになる。

 なお、場とその量子の密接な関連が明らかとなった現在においては、「場に伴う量子」でも「場を伴う量子」でもなく、単に「場の量子」と書くのが普通であろう。

  1. H. Yukawa, On the interaction of elementary particles. I. Proc. Phys.-Math. Soc. Japan, Vol. 17, pp. 48-57 (1935).
  2. 片山泰久訳, 素粒子の相互作用について I,『湯川秀樹自選集 第二巻』p. 261-276 所収 (朝日新聞社, 1971).

2007年1月25日木曜日

受教簿

 京都大学総合博物館で開催中の「素粒子の世界を拓く:湯川秀樹・朝永振一郎生誕百年記念展」が来たる28日で終りと最近気づき、昨日、急に思い立って見に行った。私にとって、内容はおおむね知っていることだったが、展示はよく出来ていて、湯川博士の学生時代のノートなどの展示品からは、博士の学問への情熱がひしひしと伝わってきた。

 他方、私の学生時代はといえば、湯川博士の量子力学の講義が、『岩波講座・現代物理学』中の量子力学の巻に博士が書かれた通りだったので、ノートもとらないで聞いていた。友人のY君は、日付け入りでノートしていたそうで、12月第2週からは、湯川教授が海外出張のため、井上助教授が講義と単位認定を引き継いだと、メールで教えてくれた。そうならば、私は大学3・4回生のときの単位取得認定を記した「受教簿」をなくして残念に思っていたが、「湯川秀樹」の署名は井上助教授のものだった可能性が大である。(なくしても惜しくない、といっては井上博士に失礼だが。)

2007年1月23日火曜日

湯川博士生誕100年記念日

 以下は、私がけさ「湯川秀樹を研究する市民の会」メンバー宛に送ったグループメールである(字句を少し修正した)。




湯川の会の皆さん

 きょうは、いよいよ湯川博士生誕100年記念日。朝日新聞第1面が、博士の中間子発想の少し前の日々の日記に、「γ' rayについて考へる」と書かれていたという記事を載せています*。博士が、電磁場の光子の類推として核力の場の中間子を考えていたことが、「γ' ray」の語に現れていますね。

 * 中間子着想4日間、湯川博士の日記に ノーベル賞の原点


 Sさんからお知らせいただいた昨夕のNHKテレビ「かんさいニュース1番」の終りの部分での、私たちの会の活動についてのニュースを、私も見ました。「10代から70代の市民が…」といっていましたね。

 さて、このやや長いメールでは、原子核の束縛エネルギーと湯川論文のλの値について、それぞれ、少しばかりの説明と考察をします。

 まず、束縛エネルギーですが、一昨日の定例会でHさんが発表のリハーサルをされたとき、ボナーの実験に関するところで、核子1個当たりの束縛エネルギーの原子核の質量数Aに対する依存性の話が出ました。その関係を表わしたグラフを、例えば次のウエブサイトで見ることが出来ます。

   原子核の質量,結合エネルギー


 核子1個当たりの束縛エネルギーは、質量数Aの非常に小さいところでは、Aの増大とともに急激に増加し、鉄の原子核(質量数約56)付近で最大になり、あとは緩やかに減少します。Aの非常に小さい原子核はくっついてAの大きいものになった方がより安定、Aの非常に大きい原子核はバラバラになってAの小さいものになった方がより安定、ということです(これらのより安定になる変化の際に、結合エネルギーの差が外部へ放出されます)。前者の場合は核融合反応、後者の場合は核分裂反応の起こる理由となります。

 次にλの値ですが、λは核力の有効距離の逆数になりますので、その値は原子核の大きさ、特に陽子と中性子各1個からなる重陽子の半径から推定できます。湯川論文の第2章の終りでは、λを1012 cm−1 と 1013 cm−1 の間と仮定し、第3章の mU の推定に当たっては、5×1012 cm−1 という値を使っています。この値は、粗っぽく先の二つの値の中間を取ったもののようです。しかし、これは核力の有効距離でいえば 2 fm [1 fm は 10−13 cm] であり、次に記すように、現在知られている重陽子の半径とかなりよく一致するようです。当時、1桁に及ぶ不確かさの幅があったのだとすれば、うまい中間値の取り方をしたものです。

 次のウエブサイトに、原子核の大きさの測定方法の説明に続いて、原子核半径の近似的な一般式が書かれています。

   原子核の大きさ

その式は

   R=1.2A1/3 fm

というものです。重陽子の場合(質量数 A=2)にこの近似式を当てはめてみると、R=1.5 fm となり、その逆数のλは 6.7×1012 cm−1 となります。

 ちなみに、原子核半径の最初の測定結果は、ラザフォードが原子構造を明らかにしたときの、α粒子の金箔による散乱実験から求めたものです。

 [余談]1月11日付け高エネルギー研ニュースに「湯川博士生誕100周年~ 原子核をつなぎとめる中間子 ~」という記事があることを、たまたま見つけました。陽子と中性子が中間子をキャッチボールする動画が挿入されていますが、陽子と中性子が上方へ飛行しているのは奇妙です。時間経過のつもりでしょうか。動画では空間的に時間を示す必要はないと思います。

 T. T.

2007年1月17日水曜日

パイ中間子の質量推定

 湯川博士が存在を予言したパイ中間子の質量は、ハイゼンベルクが見出した不確定性原理を使って推定できるという話がいろいろな本(例えば [1])に書かれている。私は長年、湯川博士はそういう考え方でパイ中間子の質量を予想したものと思い込んでいた*。

 ところが、このたび「湯川秀樹を研究する市民の会」で、湯川博士の中間子論第1論文を勉強して初めて、その論文の中では、運動量とエネルギーに対する量子力学的演算子の関係をクライン-ゴルドン方程式に代入したものと、エネルギーと運動量の間の相対論的関係式の比較から推定していることを知った。そもそも、クライン-ゴルドン方程式は、この相対論的関係式から湯川博士が行なったのと逆の代入で導くことができ、前者の中の定数λは、その導出から 2πmc/h (m は粒子の質量、c は光速、h はプランクの定数)と決まるので、わざわざ比較する必要もなさそうである。しかし、当時はこのことが明らかでなかったので、こういう手続きを踏んだのであろう。

 そこで、不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定は、湯川博士自身がのちに考えたのか、誰か他の人が考えたのか、という疑問が生じ、いくつかの本をあたってみた。ボルンの原子物理学の本 [2] には、中間子論がかなり詳しく紹介してあるが、パイ中間子の質量については、湯川博士の論文に近い記述になっている。セグレの原子核と素粒子に関する本 [3] を見たところ、「Wick (1938) による」として、不確定性原理による質量の導き方を記してあった。

 これで疑問は解けたが、Wick の文献は引用されていない。私信の類いだったのかも知れない**。ただし、セグレの本の中に G. C. Wick という名は、中性子・陽子散乱から交換力の存在を指摘したこと(1933年という意外に早い年である)や、「原子核物理学における不変原理」という総説論文 [4] によっても登場している。

 また、同じセグレによる物理学の歴史に関する本 [5] の第12.1図(湯川博士が1948年にバークレーを訪ねたときの写真)には、フェルミ、セグレ、湯川、そして Wick が並んで写っていて、その付近のページに、やはり不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定が「湯川の議論を簡単化した説明」として記されている。

 後日の追記:「湯川秀樹を研究する市民の会」のMさんから、朝永博士の著書 [6] にも不確定性原理を使ったパイ中間子質量の推定が説明してあると教えて貰った。私は朝永博士のノーベル賞受賞の年に発行されたその本の新装版をすぐに買って読み、いまも持っているが、同書の最初の文「原子核の理論」(初出の出版物は未詳、1941年。[7] にも収められている) の中への[追加]として、その説明が記されていたことは、全く覚えていなかった。1941年といえば、セグレが引用している Wick の説明より後であり、説明文もよく似た流れになっている(より丁寧で教育的な感じはするが)ので、朝永博士は Wick の説明を知って、それを紹介したのかと思われる。

 さらに後日の注記:
 * たとえば [8] にも、"In formulating his theory, Yukawa used Heisenberg's Uncertainty Principle ..." と誤って記されている。
 ** 文献 [9] であることが分かった(詳しくは [10] を参照されたい)。

  1. 原康夫著, 素粒子物理学 (裳華房, 2003).
  2. M. Born, Atomic Physics, 8th edition (Dover, 1989; first edition published by Blackie & Son in 1935).
  3. E. Segrè, Nuclei and Particles, 2nd edition (W. A. Benjamin, 1977).
  4. G. C. Wick, Ann. Rev. Nucl. Sci. Vol. 8, p. 1 (1958).
  5. E. Segrè, From X-Rays to Quarks: Modern Physicists and Their Discoveries (Freeman, 1980).
  6. 朝永振一郎, 量子力学的世界像 (弘文堂, 1965).
  7. 朝永振一郎著作集 8 量子力学的世界像 (みすず書房, 1982; 新装版 2001).
  8. M. Riordan, The Hunting of the Quarks, p. 45 (Simon & Schuster, 1987).
  9. G. C. Wick, Nature, Vol. 142, p. 994 (1938).
  10. 核力の到達距離, Ted's Coffeehouse 2 (2007年3月30日).

2007年1月15日月曜日

湯川博士関連の問題に挑む日本のグループ

 新着のネイチュア誌に、2004年ノーベル物理学賞受賞のフランク・ウィルチェック博士が、私たち「湯川秀樹を研究する市民の会」が学んでいる湯川論文を引用して、最近の研究を紹介している("News & Views" 欄)。その研究は日本のIshiiら筑波大と東大のグループによるもの**である。ウィルチェック博士は来たる23日の湯川生誕100年記念日に京大で講演する予定になっており、その中でも、この話が出るのではないかと思われる。

 * F. Wilczeck, "Hard-core revelations." Nature, Vol. 445, p. 156 (2007).
 ** N. Ishii, S. Aoki and T. Hatsuda, preprint available at http://arxiv.org/abs/nucl-th/0611096 (2006).

 ウィルチェック博士が書いている記事のアブストラクトには、「原子核がどのようにして結びついているかについてのわれわれの理解は、いままでのところ、全く経験的なものである。強い核力の理論[訳注:量子色力学(QCD)]から出発する困難な計算が、物質の固い芯への道を与えるであろう」とある。

 記事の第1図(同様の図は、Ishiiらの論文中にも第1図として掲載されている)として、核子間ポテンシャルのグラフが載っていて、その説明が、この記事の概要をもう少し詳しく分からせてくれる。核子間ポテンシャルのグラフとは、二つの核子(中性子と陽子の総称)の間の距離を横軸にとり、縦軸に位置エネルギーをとって、両者の関係の曲線を示したものである。これを距離の大きい方から見ていくと、数フェルミ(1フェルミは10のマイナス13乗cm)の距離では、位置エネルギーは0付近から次第に勾配を大きくしながらマイナスの大きな値に変化する。位置エネルギーが低いほど、安定な状態なので、これは二つの核子の間に引力が働き、二つを近づける傾向があることを意味する。

 湯川博士の1935年の理論によれば、この力は、中間子として知られる粒子の交換によって生じる。この理論の誕生後、最も軽い中間子であるπ中間子(パイオン)は、最も遠距離での引力を説明するものであり、より近距離では、もっと重い中間子(ρ、ω、σ)がこれに取って代わることが分かって来た。しかし、ちょうど1フェルミ以下の距離では、様相が突然一変する。ここでは、曲線が近距離になるほど激しく上昇し、力は強い斥力となる。この斥力は、核子同士が溶け合うことを防いでいるのである。

 このようなポテンシャル曲線の形は、いままで経験的に知られていただけであるが、これを第1原理から計算する基礎は、1970年代に作り上げられた量子色力学によって備わっている。ただ、その計算はとても複雑で、容易にはできない。筑波大・東大のグループは、巧妙な計算法と目下利用できる最大最速のパラレルコンピュータを駆使して、このポテンシャルの経験的な形を再現する最初の計算を行なったのである。

 ウィルチェック博士は、「原子核を保っている力を理解しようとするわれわれの努力は、はなばなしい冒険となったが、その道程において最初の目的がむしろ路傍に置き去りにされていた。画期的な仕事とみなされることになると思われる Ishii らの論文は、この状況を変えるものである」というようなことばで、筑波大・東大のグループの計算を讚えている。

 なお、ウィルチェック博士は記事の冒頭において、核力の理解への努力が「われわれに、クォークと、強い核力を媒介する色つきグルーオンと、量子色力学というすばらしい理論を発見させた。この理論は、高エネルギーの最前線における実験的研究を主導し、"統一場の理論" の夢を鼓舞し、理論物理学を初期宇宙の研究にまで浸透させた」と記している。これらはすべて、湯川博士の中間子論と素粒子の理論的研究方法の確立という偉大な業績の影響といってもよさそうである。

×     ×     ×

 私は、中性子や陽子が素粒子でなく、実はそれぞれ三つのクォークからなるという内部構造を持ち、クォーク同士によるグルーオンという粒子の交換が核力の真の源だということになったのに、湯川博士の理論がなぜ中間子の存在をうまく予言し得たのか不思議に思っていた。しかし、クォークと反クォークからなるいろいろな中間子が現実に核子間を飛び交っているのであれば、中間子論はある程度よい近似だったことになるのであろう。

2007年1月13日土曜日

中間子命名にハイゼンベルクの父が関与

 先に中間子を媒介として中性子と陽子が引き合う核力が生じるという湯川博士の中間子論を、ガモフが、二匹のイヌが一本の骨というエサを取りあって、両側からかみついて離れないという例えで説明している [1] ことを紹介した [2]。昨日、18年も前に買って「積ん読」になっていたガモフの別の本 [3] を何気なく開いてみたところ、同じ例えが、ガモフ自身の描いた漫画入りで述べられていた。そのほかに、次のような、中間子の命名にかかわるエピソードも記されている。

 湯川博士が存在を予言した、重さが電子と陽子の中間の粒子に対して、初めのうち「ユーコン(yukon)」や「重い電子」「軽い陽子」という名前が用いられていた("yukon" の "yu" は、"Yukawa" の "yu" であると同時に、湯川博士が論文中に、この粒子が作る場を "U" という記号で表わしたことにもよるだろう)。そのうち、ギリシャ語で「中間」を意味する "mesos" にちなんだ「メソトロン(mesotron)」が提唱されたが、古典言語の教授だったハイゼンベルクの父親が "tr" が入るのはおかしいと反対した。

 ギリシャ語で「琥珀(こはく)」を意味する "electra" には、もともと "tr" が入っているので、これにちなんだ "electron"(電子)はよいが、"mesos" には "tr" が入っていないので、この語から "mesotron" は作れないというわけである。そこで、フランスの物理学者が、フランス語で「家」を意味する「メゾン(maison)」とまぎらわしいとして反対したものの、最終的に "meson"(メソンあるいはメゾンと読む)に落ち着いたという。――ハイゼンベルクの父親が物理学史の片隅に登場するのが面白い。――

文献

  1. G. Gamow, "Mr. Tompkins Gets Serious: The Essential George Gamow, The Masterpiece Science Edition" (Pi Press, 2005).

  2. 素粒子間の力の例え, Ted's Coffeehouse (Nov. 30, 2006).

  3. G. Gamow, "The Great Physicists from Galileo to Einstein" (Dover, 1988; first published by Harper & Brothers in 1961 with the title "Biography of Physics").

2007年1月8日月曜日

「補習」会

 「湯川秀樹を研究する市民の会」が昨1月7日に持った「補習」会の熱心さは、私がけさ同会のメーリングリスト・メンバー宛に送った下記のメールで想像して貰えるだろう。



 皆さん、お早うございます。

 昨日は「補習」お疲れさまでした。

 「補習」の中で、(12) 式*中のm_U(_U は、U が下付きという意味)は、m_U の2乗でなければならないとの鋭いご指摘がありました。私は (14) 式の後に書かれている説明が、いまだに腑に落ちないので、その辺りについて何か分からないかと思って、いま Brown & Rechenberg 著 "The Origin of the Concept of Nuclear Forces" を見ていました。すると、(12) 式とその後の数行が原文のまま引用されていて、ちょっと驚きましたが、その前後の湯川の手書き原稿も掲載されていて、そこでは m_U にちゃんと2乗がついていました。したがって、2乗が抜けたのは出版社の誤植と分かります。**

 (14) 式の後に書かれている説明で私が腑に落ちないのは、昨日、C^12(^ は上付きの意味)の束縛エネルギーに相当するエネルギーが、1個の陽子の核内での運動エネルギーに変わっているという話になった点です。C^12 が他の原子核から何らかの反応で生成されるとき、束縛エネルギーにかかわる反応前後の原子核の静止エネルギーの差(質量差)は、C^12 を含む反応生成物の運動エネルギーとして放出されてしまっているはずです。そうだとすると、昨日の議論は成り立たず、湯川の書いている「原子核における陽子の束縛エネルギーが m_U c^2 と同程度ならば…」という説明が、依然として理解できないことになります。

 なお、昨日、(7) 式から (8) 式への移行の際に、p^2 のかかるDの1次の項が無視され、τ_3 のかかるDの1次の項が残されているのは不思議、ということになりました。これは、p^2 のかかる項同士の比較では、Dの1次の項は0次の項より明らかに小さいが、τ_3 のかかるDの1次の項が他の項と比べてどうかは必ずしも明瞭でない、ということで理解出来るのではないでしょうか。

 T.T.

 * いわゆる中間子論第1論文[H. Yukawa, "On the interaction of elementary particles. I." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan Vol. 17, pp. 48-57 (1935) ]中の式。
 **『湯川秀樹自選集2 素粒子の謎』に掲載の片山泰久訳「素粒子の相互作用について I」では、この式は正しい形で示されている。

2007年1月1日月曜日

2007年の初めに

 以下はこの正月に際して、私からの賀状に印刷したり、メールでの新年の挨拶に書いたりした文である。


新年おめでとうございます

  今よりは世界ひとつにとことはに平和を守るほかに道なし
               ――湯川秀樹『歌集 深山木』

 今年生誕百年にあたる湯川博士が、未知の広野に挑んだ探求心と核兵器廃絶にかけた情熱を学びたいものです。

 皆様のご多幸をお祈り申し上げます。