2005年4月30日土曜日

「おゝ、いとしの君よ!」と叫んで


 写真は兵庫県立赤穂海浜公園の大型遊具「難破船」
 (2005年4月22日写す)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年5月31日(土)晴れ

 2年生と3年生を通じて三つしかレッスン・クラスのない課目である物理の第1回テストの成績分布状態がグラフにされ、貼りだされていた。われわれのクラス員の成績は、おおむね70点あたりから下にかたまってだいだい色の丸印で表されている。その中からぽつんと仲間外れにされたように高いところに一つついている印がある。それでも、その印の保有者であるぼくには、3年生の一方のクラスの上位2人――皆は、HS 君とST 君だろうとうわさしていた――より劣っていたことによって、少しも満足感がもたらされなかった。得点の印は、回を追うに従って折れ線を描いて行くのだが、われわれの「低空飛行」や「成層圏飛行」(どちらも O・Y 先生の表現による)は、面白いグラフを作り上げるだろう。
 昨日欠席した SNN 君が、けさは元気で、1限の彼の座席である机の中に置き忘れてあった女生徒のノートにいたずら書きをしていた。教室に入ったとき、少し顔を赤らめたSNN 君が、「おゝ、いとしの君よ!」と叫んで、周囲から喝采を浴びていた。映画「明日では遅すぎる」の中にあった吟遊詩人の劇の練習を男生徒のクラスでやっていた場面にも似て、愉快なやつらだなと思いながら近づいて行った。見ると、SNN 君と Twelve の間に広げられたノートに、書いてあること、書いてあること! Sweet だの heart だのということばをふんだんに使った巧みな、女生徒をからかうための英作文が…。
 (C活に関すること取り消し)[1]
 HZ 君はまたも不在だった。金大理学部へ何かの展覧会を見に行ったそうである。開校記念とかで学校が休みだったそうだ。「済みませんね。こりずにまた来て下さいね」と、愛子おばさんにいわれた。

 引用時の注

  1. 6行にわたり、紙を貼って消してある。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/30/2005 11:12
 難破船の遊具ですか、アイデアとしては面白いですが、これだけがポツンとある感がしますが…。

Ted 04/30/2005 15:07
 難破船の向かって左にレールのようなものが2本見えますが、これに沿って小舟のような乗り物で難破船へ往復できるようにもなっていたようです。しかし、これ以外には遊具らしいものはなく、手前に「じゃぶじゃぶ池」、右手に「赤穂砂丘」、左手奥に「わんぱく広場」などがあり、自然の中での動きを楽しむことを主体にした遊び場のようです。

Y 05/01/2005 19:38
 「おゝ、いとしの君よ!」と、本当に Ted さんの高校時代は、こういう言葉をいって拍手喝さいということがクラスであったんですね…? つまり、彼はその後も学校に来ることができた、当時だとそんなに大変な言動ではなかった(ということは、ないですか…)…?!
 しかし、私の出身、滋賀県立膳所高校(京大に滋賀出身で来たといえば、9割5分は膳所高校からしか行けません)=超進学校で、東大へは行きません。現役・浪人計50名、京大へ-でも、女子生徒への恋心やいたずらで、そのような英作文を巧みに書く力量(余裕?)のある人はいなかったですね。実に「裕福な予備校・家庭教師・塾のお勉強」で精一杯な方々ばかりで…。私はスーパーの食品レジばかり…もちろんアルバイト禁止ですから先生が来たら懸命に隠れさせてもらいました…それより、私、重い病気持ちでしたのにね…何重のハンディキャップ。食品レジは計6回ほどはやっていますが、大変なプロ職で究められません、バーコードになってからも(話がそれましたか)。

T 05/01/2005 19:55
 このときのいたずらは教師には知られなかったようですが、知られても問題はなかったと思います。まもなく掲載する分に書いてありますが、私が弁当の空き箱を誰かのとすり替えられ、帰宅後気づいたという、いたずらもありました。しかし、そういういたずらをされたのも一回きりだったと思います。

Y 05/02/2005 11:25
 久しぶりに、本当によく眠りました…まだ熱は1ヵ月、下がらないと思いますが。
 お弁当の空き箱をすり替えて、何か、意味があるんですか…すごい「遊びに過ぎないいたずら」ですね。爆笑しました…。真面目でいらっしゃる Ted さんは、ショックで立ち直れない…ということもなかったのですね、鍛えられていたのですね、皆さんに。金沢の高校は、本当に面白いのですね。同じ公立高校でも、京大へは、私の出身の高校ほどにはたくさんは来られないのでしょうかね…。でも、金沢は本当に素晴らしい「小京都」ですから、京都在住でも金沢在住でも、どちらでもよく似ていますよね…。金沢の方が、もちろん人も少なくかえって「上品」だと、私は思っています。クラシックコンサート会場や、演奏会の充実をはじめとして、大変文化性の高い都市でもありますね。

Ted 05/02/2005 14:55
 私のいた菫台高校から同時に京大へ入ったのは、他に1浪の人が1人いただけです。東大は0。同期で1浪して東大へ入ったのが1人いましたが。京大や東大の志望者はほとんど金沢大附属高校へ行くのです。
 熱がそんなに長く続きますか。どうぞ、お大事に。

世界平和アピール7人委員会の核廃絶に関するアピール

 科学者の一人ひとりが「核兵器およびその他の大量破壊兵器の研究、開発、製造、取得、利用に一切参加しないこと」を誓う運動を進めているピース・プレッジ・ジャパンが、世界平和アピール7人委員会によってこのほど発表された核廃絶に関する二つのアピールを、上記運動の賛同者宛に昨4月29日、メールで送付してきた。有識者7人で構成するこの委員会は、日本の良識を示す、歴史もある委員会として知られており、同アピールをぜひ広めて欲しいということである。私はこれに賛同し、送付された全文を以下に紹介する。なお、これらのアピールは、世界平和アピール7人委員会:アピールページで表題をクリックして読むこともできる。

 核兵器使用60周年にあたり、改めてその実態、非人道性を直視するよう日本国民と日本政府に訴える

2005年4月20日
世界平和アピール七人委員会

 2004年末にインド洋沿岸諸国をおそった津波は、多くの生命、財産を奪いました。被害はそれだけにとどまらず、医学的、物理・化学的、さらには社会的、心理的な面にも及んでいます。この惨害は、多くの人びとが年末休暇を過ごしていた国際的リゾート地を被災地に含んでいたこと、発生が週末の午前中だったことにより、かつてない量の痛ましい映像記録を残し、全世界は、テレビ、インターネットを通して自然の脅威を目の当たりにしました。

 振り返れば、60年前に広島・長崎を壊滅させた核兵器の惨害は、規模においてこの津波の被害を超えるものでした。放射線の影響は、60年たった今日もなお消えておりません。しかも、核兵器による被害は、津波のような天災ではなく、人間が生み出した災害です。

 今や日本国内でも、この時代を経験しない人が3分の2を超えました。一般に、残忍なものは見たくも聞きたくもないとの心理がはたらくため、核兵器の残忍性は、忘れられかけています。ところが21世紀の今日の世界でも、核弾頭を搭載した数千発のミサイルが直ちに発射できる態勢に置かれています。核保有国は核兵器を使用可能にする戦略を立て、新型核兵器の研究も行うに至りました。核兵器を持つ国も増加し、核不拡散体制は危機に瀕しています。このような風潮の中で、日本の核武装についての議論が、わずかずつにせよ増加しています。

 核兵器の非人道性、特にそのむごたらしい被害についての情報は、日本に集中しています。核兵器を廃絶させるため、日本の市民には、これを直視し、世界にむかって発信する責務があります。

 私たちは、日本の心ある市民一人一人が、将来の世代と、全世界の人たちに、最も残虐な原爆被害の姿を大胆に展示することを含め、「人類は核兵器と共存できない」という信念をもっと広める努力をするよう訴えます。

 これと同時に日本政府が、新アジェンダ連合(1)などとの連携を一層強めるとともに、“核の傘”(2)に依存した政策を改め、日本を含めた東北アジアの非核兵器地帯(3)を実現させるための努力を速やかに開始し、多国間の平和的協議を積極的に推進するよう求めます。

伏見 康治
武者小路公秀
土山 秀夫
大石 芳野
井上ひさし
池田香代子
小柴 昌俊
事務局長 小沼 通二

注:
(1)新アジェンダ連合とは、核兵器廃絶を目指し、推進する中堅クラスの7つの国家、アイルランド、スウェーデン、エジプト、南アフリカ、ニュージーランド、メキシコ、ブラジルの連合をいう。2000年5月の核不拡散条約(NPT)再検討会議では、世界のNGOの強い支持を受けて、核保有国から「保有核兵器の完全廃棄を達成することを明確に約束する」との合意を取り付ける成果を上げた。

(2)核の傘とは、非核兵器国が核兵器保有国の核抑止力に依存する状態のことである。日本は、最近では「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン、1997年)の中で、「日本は自衛のために必要な範囲内で防衛力を保持し、米国は核の抑止力によってそのコミットメントを達成する」として米国の核の傘の下にあることを明白にしている。日本のほか、NATOの非核兵器国や韓国なども同じ政策を取っている。

(3)東北アジア非核兵器地帯については幾つかの提案がある。その一つ「スリー・プラス・スリー」案についていえば、韓国と北朝鮮による「朝鮮半島非核化宣言」(91年12月)に日本の非核三原則を組み合わせ、これら3カ国からなる非核兵器地帯を設置し、核保有国である中国、ロシア、米国の3カ国は、これら3カ国に対しては核攻撃をおこなわない(消極的安全保障)という法的約束をおこなうのが骨子となっている。
 実際に、非核兵器地帯は世界各地に拡がっている。第1は、1968年に発効したラテンアメリカ核兵器禁止条約であり、今日ではラテンアメリカの全ての国が参加し、核兵器保有5か国すべてがこの地域で核兵器を使用しないことを約束している。1986年には、南太平洋非核地帯条約が発効し、核兵器だけでなく、核廃棄物投棄も禁止している。東南アジア非核兵器地帯条約も1997年に発効した。アフリカでは、まだ発効していないが、1996年に、非核兵器条約調印が行われた。モンゴルは1991年に、非核兵器国であることを宣言し、1998年には国連によってこの地位が承認された。南極地域では、1961年以来あらゆる軍事的措置が禁止されている。

     ____________________

ジョージ ブッシュ アメリカ合衆国大統領殿
ウラジーミル プーチン ロシア連邦大統領殿
アンソニー ブレア 英国総理大臣殿
ジャック シラク フランス共和国大統領殿
胡錦濤 中華人民共和国国家主席殿

コピー:核不拡散条約再検討会議議長
セルジオ・ドゥアルテ大使殿

2005年4月20日
世界平和アピール七人委員会 
伏見  康治
武者小路公秀
土山  秀夫
大石   芳野
井上 ひさし
池田 香代子
小柴  昌俊
事務局長  小沼  通二

 核不拡散条約再検討会議に際し、核軍縮への具体的努力を求めるアピール

 核不拡散条約(NPT)が発効して今年で35年になります。本条約には、核兵器保有5カ国の核保有を認める一方で、その他の加盟国の核兵器保有を禁止するという不平等性を持っているとの批判が根強くあります。しかし、現在すでに約190カ国が批准書を寄託している、核軍縮をめざす唯一の重要な国際条約であります。

 2005年5月の再検討会議を目前にして、この条約における「核廃絶の約束」が、死文化させられかねない状況に陥っていることに、私たち世界平和アピール七人委員会は深い危惧を感じております。

 私たちの世界平和アピール七人委員会は、50年前の1955年に、核兵器開発競争が深刻に進む中で、ラッセル・アインシュタイン宣言に呼応して結成され、60年前の被爆国・日本から、世界に向かって平和を訴え続けてきました。

 私たちは、今年5月のNPT再検討会議に際し、核兵器廃絶に向けての実質的な成果を生み出すために、核兵器保有5カ国が真摯な努力をされるよう、次の通り要請します。

1  条約交渉における国際的約束の履行を
 1995年5月に核兵器保有5カ国は、核不拡散条約再検討会議において全会一致で採択された文書「核不拡散と核軍縮に関する原則と目標」に述べられているように「第6条に書かれている核軍縮の交渉を誠実に行う」ことを再確認しました。また2000年5月の再検討会議では「保有する核兵器の完全廃棄を明確に約束する」との最終文書にも合意しました。 これら一連の約束は、政権が代わっても、国際的、道義的に順守されるべき性格のものです。私たちは、その忠実な履行をあくまで求め、核兵器完全廃棄の確認を求めます。
 
2  核不拡散のためにも核軍縮を
 最近、「対テロ戦争」の名の下に、核兵器保有国の中に核拡散防止の重要性のみを強調し、核軍縮への努力を軽視する風潮があることに、私たちは強い憂慮の念を抱きます。
 核保有国自体が核兵器依存の政策を改めない限り、一部の非核兵器保有国がこれを見倣い、あるいは対抗することによって、核兵器の拡散はむしろ増大すると考えるからです。核兵器保有国が率先して核廃絶への具体的な道筋を示すことこそ、何よりの核拡散防止策なのです。私たちは、核兵器保有国が時期を明示した核兵器廃絶への道筋を明らかにするよう求めます。

3  「後戻りしない」核軍縮政策の確認を
 私たちは冷戦終結後の現在でも、核兵器保有国が戦略核兵器を使用可能な状態におき続けると共に、「使える兵器」としての小型核兵器の研究と開発を進めていることに抗議し、直ちに中止するよう求めます。
 核不拡散条約には、重要な原則として、核軍縮の不可逆性を守ることが謳われています。米国やロシアによる新たな小型核兵器の研究や米国での地下核実験再開に向けた動きは、明らかにこの趣旨に逆行するものです。私たちはそうした計画を永久に破棄することを求めます。

 以上、核兵器保有5カ国が、NPT再検討会議において、平和を願う世界の人々のこころをこころとし、真摯に課題に取り組み、歴史的な成果を上げられるよう要請します。

 以上

連絡先:小沼 通二(こぬま・みちじ)(物理学、慶應義塾大学名誉教授)
      〒247-0014横浜市栄区公田町200-9
      電話・ファクス:045-891-8386
      携帯:080-5463-3454
      メール: mkonuma254@m4.dion.ne.jp

2005年4月29日金曜日

へたくそだぁ!


 写真は赤穂の東御崎から見た瀬戸内海。前方に横たわるのは小豆島(2005年4月22日撮影)。

 高校時代の交換日記から
 
(Ted)

1952年5月30日(金)曇りときどき晴れたり降ったり

 体操は腰が痛くなり口がからからになるまで、ハードルの並んでいる100米の間を往復した。1、2班がハードル走で、3、4班が砲丸投げだったので、IN 先生が向こうへ行っている間、両側の縦の木が赤くて、その間に挟まれている矩形の枠状の、われわれが飛び越さなければならない高さを作りだす木が白い運動用具を、われわれは、ただぽかんと眺めて立っていた。そのことが、はなはだよくないことだったので(理由を表すこの従属節を書くまでもないほど、よくないのだが)「お前たちは羊飼いに追われなければ動かぬ羊なのか」と、聖書的表現で先生に注意された。
 何往復かの後、われわれは木陰で息をついたが、それまでにぼくは二度も転んでしまった。先生はもっぱら砲丸投げの指導をしていた。われわれは、かなりの疲れも手伝って、とうとう座り込んで雑談する羊にならざるを得なかった。体操の先生ほどにどんな運動も出来たらよいなという話から、先月あった校内東西対抗野球の話を始めた者があった。そして、でっぷりとした身体の最上部に野球帽をちょこんとのせて、とても走れそうもないような格好で二塁に立っていた T・Y 先生の話が出た。T・Y 先生は上手だったかという誰かの質問に対して、金沢放送局長であり本校 PTA 会長でもある T・W 氏の息子の WJ 君が、「へたくそだぁ!」と叫んだ。そのときは、ぼくもつい笑ってしまった。しかし、体操の時間が終って、大いに身体を動かした後の心地よさを味わいながらズボンをはき替えているとき、WJ 君が「おれ、しまったこと、いったよ」といったので、ようやく、われわれのそばに T・Y 先生の弟の YMG 君がいたことを思い出した。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/29/2005 14:51
 今日は初夏の日差しが強いですね。少年時の汗の臭いたつような一齣、懐かしい光景が蘇ります。

Ted 04/29/2005 17:19
 「羊飼いに追われなければ動かぬ羊」を演じた日から遠く隔たった、初夏のような日差しの今日、妻と一緒に JR 天王寺駅で長女と待ちあわせ、妻の買い物に付きあったのち、孫の近況など聞きながら、3人で昼食を共にしました。隔たったようで、隔たらない日々をも感じるこの頃です。

2005年4月28日木曜日

ハンス・ベーテはいわば私の恩師の一人



Read in English in more details

 さる3月6日に98歳で死去したノーベル賞物理学者ハンス・ベーテは、原爆の開発に深くかかわったが、戦後は一貫して核軍縮を提唱した。エミリオ・セグレの編集した実験原子核物理学の大部の教科書中にベーテが J・アシュキンと共同で書いた放射線の物質透過に関する一章を、放射線物理学分野で研究をした私は繰り返し学んだのであり、彼は、いわば、私の恩師の一人である。ベーテは90歳を過ぎてなお重要な学術論文を発表し続けたが、これは多くの科学者が手本にしたいと考えることであろう。

 ベーテについては、彼のノーベル賞の対象となった論文が、エドワード・テラーの要請で、ごく短期間にまとめられたものだとか、彼と共著者たちが冗談で書いた論文が専門誌に採用され掲載されたとか、アルファーとガモフの共著論文にアルファー、ベータ、ガンマに似せるためだけに彼が共著者にされたとかの逸話もある。NPT(核不拡散条約)の再検討会議が来る5月2日から国連で開催されるが、ベーテの意志を尊重して、核廃絶への道の強化されることが望まれる。(上のイメージはベーテの論文選集 [1]。)


  1. H. A. Bethe, Selected Works of Hans A Bethe with Commentary (World Scientific, Singapore, 1997).

 後日の注:最初の掲載サイトでは、本記事の英語版は和文に続いて記載されていたが、再現に当たって別サイトに分離した。したがって、以下の Y さんのコメントは英語版を合わせて読んだ結果のものである。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y (Nomura, Atsuko) 04/29/2005 13:14
 Ted さんのお立場と人生から流れ出る、最も大切なブログの一つだと思います。素晴らしいブログをありがとうございます。
 ①本ブログを開いてから、コメントが書けるまでに大変に時間がかかった理由の「第一」は、さすが Ted さんのお人柄そのものですね、ものすごく平易な読みやすい英語、英文です。それで私は何をしていたのかと言いますと、8年程は英語を全く読んでいなかったのですが、Ted さんが「最も基本的な単語ばかり」を選んで使っていらっしゃって、多くの読者さんが読みやすいだろうという意味でも、素晴らしいブログだと思い、私はその個々の単語の多くを、「英単語の美しさ」の一つ一つを眺めていたんですね。昔、語彙を増やすのに非常に役立った、語源分解していけばどんどん語彙が増える、覚えやすく初めての単語でも意味が推測できる、…こういったことでは今日はなくて、「単語一つ一つ」を普通に「まとまり」として見まして、英語は世界標準語だ、というのとはまた別の価値・意味を感じてもよいような、なんというのか、やはり美しい言語だなあと思っていたのです。
 私の博士論文は当面、少なくとも執筆は多少延期して他の多くの仕事を先にしようかと計画している所なのですが、これから書く本格的な論文の中で、必ずしようと思っている必然的な研究が、「言語の探究」です。私の手持ちの言語は、日本語・ドイツ語・英語ですね、これをそれぞれ探究したいと思っています。理由は詳説に過ぎるのでここでは省略しますが、たとえば「直観」と「直感」の相違と深い関連性の研究、これが私の第一にくるテーマには、不可欠なのです。簡略に言いますと、統合失調症(論)の現場(患者さんとのなまの出逢い)に根ざした研究に欠かせないと考えているのです。言語学はソシュールなどは読んでいました。けれど、それとは全く違う探究の仕方になると思います。それから、京大入試の難解英作文が私は最も得意だったのですが、本当に世界標準語である英語で物書きをしなければならないことが解っていますので、地の底に落ちた…英文執筆能力をつけることも、重要課題のひとつです。
 ②私は物理学者さんでいらっしゃる Ted さんが、ずっと平和活動も大いにしていらっしゃる、「個人主義に立脚して」の方針のみ、の私の志望する平和活動と Ted さんの平和活動は対照的ではあっても、だからこそ関心深く思っていました。それで、物理学の中でも、ハンス・ベーテ氏と同じく、 Ted さんも原子核、放射線物理学の方面をずっとなさってこられたと思うのですが、その長いご研究の日々が Ted さんの平和への思いと、葛藤を起こさないのだろうかと、それが一番ご質問申し上げたい点でした。でも、本ブログでそのお答えはすべて頂けましたね。「原爆の開発に深くかかわったが、戦後は一貫して核軍縮を提唱した」ハンス・ベーテ氏と同様ですものね。ダイナマイトの開発、原爆の開発、人生の多くを科学研究に捧げる科学者の方々は、その後、その研究開発が時代によって活用される方向のために、大変不条理な人生体験をしなければならないのだろうな、と思ってはいました。ですから、もちろん、Much remains to be done before the world can feel safe from a nuclear holocaust. なのですよね。non-proliferation, disarmament, and peaceful uses of nuclear technology ですね。
 ③今日は、名前欄の通り、私の実名でコメントさせて頂いていますが、確かに最年少発症の complex PTSD で日本初(学問界でももちろん初)だと思われる、精神障害国民2級として認定され、最近までの事情展開によってもうこの障害の重さは不治ではないかと自分では判断しています。けれど、そんなことを悲観してはいないのです、この人生を生き抜いて、今初めて最も学問研究をする人間力がついたことが、「学者に対して限りない憧れと反発を抱き続けた」私にとっては、これほど嬉しいことはないのです。未だ全くの同志には出逢っていませんが、知る限り日本で初めての、現象学的精神病理学・哲学・精神分析学という道を通っての、社会福祉学を堂々と本格的な学問にしたい志の一研究者として、頑張っていきたいと思います。Ted さんに学問のお話など、いろいろお付き合い頂きながら。事情・病状・仕事の余りの多さ、深刻さで、病気はとうに「犠牲にしている」のですが、とにかく理性・感性を最大活用して、もう精神の限界も超えてしまっていますが、不断の選択としてこの生を選び取っていきたいと思います。

Y (Nomura, Atsuko) 04/29/2005 13:28
 語源分解、という言葉があっているか、失念しましたが、たとえば、「パースペクティヴ」= per-spect-ive=perspective という風に、分解すれば個々の per などの意味から、単語の意味がしっかり解る、ということですね。

Ted04/29/2005 18:03
Thanks for your kind and long comment. I also have a model person among famous physicists for writing essays in simple words. That person is Victor Weisskopf. He is a theoretical nuclear and particle physicist born in Austria and worked in America, and was a friend of Hans Bethe. I studied the thick textbook "Theoretical Nuclear Physics" written by him and Blatt in my young days, and read three or four books of collected essays written by Weisskopf in later years. So Weisskopf is also one of my teachers.
It is nice that you consider it one of your themes to make research in languages. So we have another common interest besides "time" and "space."

三分の一難去ってまた一難


 写真は赤穂城跡公園入口にある隅櫓、昭和期に復元されたもの(2005年4月21日撮影)。

 高校時代の交換日記から
 
(Ted)

1952年5月27日(火)雨

 「一難去ってまた一難」ということばがあるが、「三分の一難去ってまた一難」というのが、いまのぼくだ。その難は、けっして絶対的困難ではないにもかかわらず、ぼくが苦しめられるのは、この間からずっと書き続けているように、ぼくの弱さのためにほかならない。Sam がぼくに与えた宿題の究極の問題が、いよいよ具体的に、ぼくがいやでもそれと知らなければならなくなりつつあるのだ。「三分の一難去ってまた一難」を級数で表せば、1 - 1/3 + 1 - 1/3 + 1 - 1/3 + ... であり、無限にこれが続くなら、発散してしまう。

1952年5月29日(木)晴れ

 重要な自然の法則を犯しているような気がする。懺悔――それは、われわれのような、まだ社会に対する何の働きも出来ない年齢にある者にとっても、しなければならないことのあるものだろうか。
 一面においての強い自尊心を神がかり的なまでに保持していて、しかも、それを表現するに当たっては、いくらまずくてもそれ以下にはならないような方法をとることしか知らなかったのが、いままでのぼくだったことを発見した。しかし、この発見は、Sam が昨年の夏休みに読んだ本から抜粋して書いてくれた二つの自我自覚の型のうち、「自分を内面的に深く細かく観察する型」に属する考え方から出されたものであって、もう一つの型に属する考え方からも一つの結論が導き出され、それらが合成されなければ、確定的なことは掴めない。

2005年4月27日水曜日

一人深い山奥へ入り込み…


 写真は赤穂の花岳寺。墓所には浅野、永井、森の歴代藩主や、大石内蔵助ら四十七士の墓がある(2005年4月21日写す)。正面の松は「大石名残の松」と呼ばれ、元禄14年(1701)赤穂を離れる大石内蔵助が移植したとされる[JR西日本「駅からはじまるハイキング MAP (9) 播州赤穂コース」による]。

 高校時代の交換日記から
 
(Ted)

1952年5月26日(月)曇り

 やろうとしないで、やってみないで、胸に重荷をしばりつけている。一切の義務を振り切って、一人深い山奥へ入り込み…、と想像する。――これがぼくなのか。じつに見下げられるべき、蔑まれるべき、打擲されるべき精神だ。いま、ぼくの当面しているのは昨年の「事件」のような、いわば内的な問題ではないのだ。やらなければならないだけのことを、もしも実行に移さなかったならば、外部の目がこぞって、ぼくを無能者と認めてしまうだろう。
 ――――――――――――――――(そうしている間中、このように線を引き続けたら、このノートの終りまで、Sam が読まないでめくらなければならないページを作っただろうと思われるほどの時間、考えた。)ユダヤ人はバビロンの幽囚となったが、ぼくは苦悩の幽囚になりかけている。1週間ばかり前の北国新聞夕刊に出ていた七尾の定時制高校生の、悪魔にささやかれながら記した日記が妙に気になる(ぼくの書くことと共通したところがあったからだ、などという物騒な理由があるのじゃないけれども)。

 MY 先生の背を丸くして語られる講義は、紙芝居屋の語りにそっくりだ。「この三人の女神は、わたしこそ世界一の美人、でない、美しい神だ、いや、わたしだ、いやいや、わたしこそそうだ、ちゅうて、喧嘩した。いくらそういうとっても決まらんから、Ilion の王子 Paris に聞いてみることにした。そして、Paris にリンゴを渡して、一番美しいと思う神のところへそれを持って行かせることになったがや。すると、こんどは、女神たちは彼に、どうかわたしに下さい、と頼む。Hera は、もしもわたしにくれたら富と権勢とをあなたに上げましょう、という。Athena は…(略)…。はたして、Paris は、どの女神にリンゴを渡すでしょう。それは、この次ぃ。」

2005年4月26日火曜日

多重の安全対策を:JR福知山線の大惨事に思う


 昨4月25日午前、兵庫県尼崎市の JR 福知山線尼崎・塚口間で7両編成の快速電車が脱線し、1、2両目が線路脇のマンション1階に激突・大破、乗客約580人のうち死者が73人、負傷者が441人に上るという大惨事となった。

 日常、安心して身を任せている列車が、自然災害等の不可抗力もなく、突然このような大事故を起こすとは、まことに恐ろしい。犠牲になった方がたのご家族やケガをされた方がたの心中は、察するにあまりある。

 国と JR には、尊い犠牲を無駄にしないよう、スピードの自動制御装置の改善、急カーブの改善、軽車両化の見直し、線路とビルの距離の制限等々、多重の安全対策を施すことを即刻検討し、実施して貰いたい。

 私はなぜか、このように多くの死者が出たニュースを見聞きするとき、地球最後の日をかいま見る思いがする。地上にすでに生命はなく、巨大化した太陽のみが空に君臨する…。人間のいのちの連帯感がもたらすイメージだろうか。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/26/2005 15:08
 この沿線、大阪市内にほど近く、もしや不幸にも知人がおりはせぬかと報道に釘付けとなってしまいました。幸いにも現在のところ居ないようなのでほっと一息ついているのですが‥‥。それにしても凄惨な事故となったものです。高度な安全性を誇ってきた日本の鉄道の大規模な脱線事故に、世界のマスコミが取り上げています。仰るように幾重にも安全対策の徹底が望まれますね。否応もなく不条理な死に見舞われた方々のご冥福を祈りましょう。

Ted 04/26/2005 16:22
 まことに、「不条理な死に見舞われた方々」といわなければなりません。ご冥福を祈る意味で、けさ近くで撮った白いツツジの写真を掲げました。わが国の大惨事が世界のマコミのトップ・ニュースになるとは、恥ずかしいことです。

porco 04/26/2005 22:38
 「地球最後の日をかいま見る思いがする。」…私もそのような気持ちになります。無力感、虚無感と申しましょうかなすすべもなく人間は「何か」に向かっているのではないか、とか。

Ted 04/27/2005 07:53:02
Yes, the human is a small being in a big flow of the time of the universe. But we have to do our best to live a good and meaningful life in that flow.

RIN 04/27/2005 00:33
 先程、新聞社に勤める私の高校時代からの友人から、つい最近まで事故のあった路線の電車で通勤していたが、今は転勤していて無事だよ、という連絡がありました。やはり「人と人」はどこかで必ずつながっていて、このような事故が決して他人事ではないことを実感してしまいました…。

Ted 07:56
 ご友人が無事でよかったですね。『「人と人」はどこかで必ずつながっていて』――確かにそうです。そういう人間同士が殺し合う戦争は、決して起こしてはなりません。

い、あ、わ、そ、で、お、そ、え、い、そ、あ、い?

 高校時代の交換日記から
 
(Sam)

1952年5月18日()晴れ

 やっと多忙でみじめという状態から脱却した。しかし、問題はこれからで、現在まで進展らしい進展はしていないのである。今回の刺激に対して、いくらかの新しい免疫体が製造されたのであろう。だが、困難という病原体が根強く抵抗している。そして、これに対抗するために、絶え間なく勇気と努力を養わなければならない。


(Ted)

1952年5月25日()快晴

 1週間書くことをサボってしまった。何だか物憂く(この形容詞は Sam が「懶」という字で一度使っただけだったね)、不安だ。努力、実行などということば――Thorndike が英語の単語について調査して行ったように、重要性の順を示す符号をつけるならば、1aになることが確実と思われることば――は、ただ使うだけで、少しもぼく自身のものになっていないのだ。このことが、最近ぼくの身辺に起こるいろいろな問題からあばかれつつある。
 「い、あ、わ、そ、で、お、そ、え、い、そ、あ、い?」これで通じるなんて愉快だ。"1/11 + 1/9 + 1/13 + 1/9 + 1/14 + 1/15 + 1/13 + 1/15 + 1/20 + 1/20 + 1/15 + 1/13 + 1/15 + ... ?" を解読してぼくを驚かせた Sam 以上の驚異的読解力を持つキティじゃないか。これは小説だが、トルストイ自身も、このような暗号でソフィヤと話したと伝記に書いてあった。Sam はこの小説を全部読んだのかい? 一カ月半もかかって、ぼくはまだ半分ほどしか読めない。

2005年4月25日月曜日

健康は第一の財産なり


 連載中の高校時代の交換日記は、以下に掲載する分でノート No. 13 の終りとなる[イメージは、その表紙。"It may be a hard nut to crack. (それは難問題かも知れない)" という題をつけてある]。このあと、すでに使用している No. 14 と、新しいノート No. 15 を交替で使用したのだが、No. 15 は紛失しており、当分は No. 14 と No. 16 の前半から、Sam と私がリレー式に書いたような引用となる。
 
(Ted)

1952年5月3日(土)晴れ

  紅  1 2 1  0 0 2  1 0 1  |  8
  白  0 1 2  1 1 1  0 1 0  |  7
 聞いていて示唆とインスピレーションの妙味に感心するラジオ番組の得点表が、ちょうど野球のそれのようになった。女性軍の3勝に対して、男性軍が1勝しかしていないとは、しゃくにさわる。

 驚異と、恐怖と、神秘と、生命の強敵の存在と、それに挑戦する医学の尊さを教えられた展覧会だった。エマーソンのことばの一つである「健康は第一の財産なり」を具体的に不幸な実例、不気味な図解、好ましくない数字を示す統計グラフなどが、如実に裏づけしているようで、ひしひしと胸にせまった。「健全でないこと」は、何と醜く、恐ろしく、不幸ではないか。[1]

 無意識の淵に毒草が深く根をはっているような自分に思われてならない。その毒草はガンのようなもので、早いうちに徹底的に取り去ってしまわなければ、手のつけられないものになるだろう。そうなれば、第4会場で見た患者の手記と変わらないものをSamに読んで貰うことにだってなりかねない。

 Sam が4月15日にわれわれのノート交換の影響としての感化・合流について書いた数行は、まったくその通りだと思う。Octo の文字がぼくのに似ていることについては、双方が真似し合ったのだ。[2]

1952年5月4日()晴れ

 右するか左するか迷ったが、とうとう雨の中を飛び出した。傘の内側と足下の土や小石と折り目が雨でぼかされて行くズボンの裾のほかは、ほとんど何も見ることなく、また何も考えることもなく Twelve の家へ達し、彼をも雨中へ誘い出した。いつか KW 君の家へ寄ったとき、彼が和服姿で出て来たのには驚いたが、Jack のそれには慣れてしまった。悪天候の休日の Jack は――昨日、外出する前の彼 [3]

 引用時の注

  1. Sam と金沢大学医学部の展覧会を見に行った感想である。

  2. いま思えば、私の方が多く真似ていたようである。

  3. この続きは次のノート(No. 15)に記されたのだが、そのノートは紛失している。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/25/2005 13:05
 もちろん私が注目するのは、Ted さんの第二段落、「生命の強敵の存在と、それに挑戦する医学の尊さを教えられた」という部分ですね。私の生涯の研究テーマそのものでもありますから。医学が扱う疾患の中で、精神科疾患は大変多い(京大精神医学講座は、助手が8名もいて、その上が講師2名(私の主治医)、助教授、教授という、日本で最も責任の重い京大医学部内でも大講座として占めていますし、精神科の患者数、クリニック、病院の数など、本当に多くの割合を占め医学や福祉の課題だと思われますので、以下…。
 圧倒的多数を占め、また最も重要な問題性・課題が認められている統合失調症に関してですが、100名以上の友人や治療者・職員としての私が関わった統合失調症患者さんについて、私は関わってきた際に、「驚異、恐怖、神秘」は感じません。大変な恐ろしい精神症状に日々苦しむ方々も多いのですが、学者であれ現場職であれ、フィールドワーカーであれ、「彼らのために何かをしようと志す」者が、その病気の「事実」に対して恐怖していたら、彼らが精神の死の間際まで追い詰められているその恐怖や苦しみの事実に対して、まったく冷静に対応、貢献できませんよね。私は、どんな症例を論文で読んでも、どんな患者さんと出逢っても、びくともしません。そこにおいて自分の病気と数%でも関わらせるような甘い人間ではありませんし。
 統合失調症も、まだブロイラーの「4つのA」の統合失調症定義のうちの一つしか、お話していないのは、訳があります。アンビヴァレンツ=両義性・両価性を生き抜くことができない、大変苦手であるのが彼らだと、ブログでお話しましたね。この4つのAは、すべて、動物ではなく、人間が人間であること、人間として生きることの条件に深く根ざした重要な問題であり、ですからどの分野の人間学からみても、いくら真剣な関心を向けても足りないほどの豊富な、ある意味「生命理論」が統合失調症について論じられてきたのです。ですから、統合失調症についても、何をおいても「生命の強敵の存在」としてこの病気を考え、そしてこの病気に罹患した方々の welfare = 幸福、福祉を、人生という幅広い視野で、より豊かにしていけるように、学者として考えるのが私の役目です。社会的事情により、大変な長期入院を世界最悪の状況で余儀なくされている「社会的入院」(福祉用語)の方々の、もちろん人権尊重の問題でもあります。
 論文博士は、話をする免許になりますので、文科系医学博士でめざすことになりました。

Ted 04/25/2005 17:53
 確かに、医学・医療に関わる人たちが「驚異、恐怖、神秘」を感じていたのでは仕事になりませんね。
 第3パラグラフに書いてある「第4会場で見た患者の手記」というのは、内容は覚えていませんし、詳しくはどういう疾患か分かりませんが、精神科の患者さんのものでした。
 「文科系医学博士」というものがありますか。よい目標を選ばれましたね。

2005年4月24日日曜日

戦没者の冥福を祈り黙とう


 写真は赤穂の東御崎展望台付近の八重桜(2005年4月23日)。

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年5月2日(金)晴れ

 黙とうは M・K 先生の時間にすることになった。十時にサイレンの合図でという伝達だったのに、サイレンは十時四分前に鳴った。先生が「戦没者の冥福を祈り、黙とうを捧げて下さい」と宣言して、静かにまなこを閉じた。約二分ばかり、ほんとうに静かな時が流れた。窓際にいた一匹のハエのブーンという羽音が、とてもくっきりと響いていた。どこか遠くで発しているらしい人の声が、かん高く聞こえてきた。音はただそれだけである。黙とうは五分ばかり続いた。あまり感想はわかなかった。続いて M・K 先生が「永遠」について短く話した。それから、教科書に入ったが、先生の名誉ある指名を受けて読んだ生徒たちは、仏籬祖室、萬法流転、時雨れて、緞子の夜着、草の枕、象潟など、いたるところで時間の空白を作った。
 体操は、まず握力を計り、ついで背筋力を測った。握力は、左右のそれの和に1を加えて得られる数が、今夜に一致する。左右のそれの差は9である。これを二元一次連立方程式で書けば、
 R + L + 1 = 88
 R - L = 9
となる。背筋力は一月一日から起算して明後々々日までの日数と同じである。そのあと、鉄棒へ行き、「逆上がり」と「脚かけ上がり」が二回ずつ出来たものは、すぐ解散が許された。どちらも出来ないもの十四、五名は時間が終るまで説教を受けていたようだ。
 放課後は、文芸、庭球、美術、独語、化学の各クラブと生徒会予算分配の交渉に入った。うまくまとまったのは文芸だけ。庭球とはとくにもめた。なにしろ最初なので、不慣れだったが、きょうで十分自信は持てた。


(Ted)

 まさに、打ちひしがれようとしている。これでは、もうすでに打ちのめされ、踏みにじられ、あらゆる醜さをさらしてしまったといってもよいかも知れない。しかし、こう感じているのが、ぼく自身と他の少数の人びとのみならば、そして、それを撤回することができるならば――そうしなければならないのだ――望みは消えなくてすむのだ。
 予算のための生徒議会が開かれていた。JOMR から録音にも来ていたので、ぜひ傍聴しようと思ったが、機会を失して、議員たちが頭をしぼり舌戦を戦わせている時間を、クラブの運動用具で興じた。
 例年の憲法テストが、講和発効に因んで条約関係の問題を付加して、延長された SH に行われた。「講和条約が発効したのは昭和 年 月 日 時 分である」というのが最初の問題だ。戦争状態の終結した国には○、そうでない国には×をつける問題には、たくさんの国名があったが、確実にできた。
 体育館に以前から貼ってあった陸上競技クラブとボートクラブの宣伝文の始めに大きく「檄」とあるのが、何のことか分からなかったが、漢和辞典を使って、ようやく納得し得た。
 校長先生に習う教科書『代表英文選』が来た。"Alice in Wonderland"、"Adventures of Robinson Crusoe"、"Hamlet, Prince of Denmark" などが含まれている。
 10円札偽造横行! 商業新聞の3面にあった見出しを書いたのではない。先日は HN 君が、わけの分からないことをいうので定評のある HR 先生の時間にこつこつと描き上げたといって、皆に見せて自慢していたが、きょうは、KS 君がいっそう精巧なものを作って見せびらかしていた。

2005年4月23日土曜日

赤穂の春景色 (The Spring Scenery of Ako)


 4月21、22日、妻と兵庫県赤穂市を訪れた。両日とも好天候に恵まれ、JR西日本から入手できる*「駅からはじまるハイキング・マップ」を頼りに、初日はJR播州赤穂駅から東御崎の「かんぽの宿赤穂」まで、2日目は宿から駅まで少し別の道をたどって、往復約12 km あまりを歩いた。スケッチは宿のバルコニーで、ペンと色鉛筆で描いたもの。右に瀬戸内海が見える。

*(後日の注記)入手方法は次の通り。JR西日本の駅にある「駅からはじまるハイキング」のチラシの裏面に「駅からはじまるハイキングスターターキット申し込み用紙」がついており、そこへ住所・氏名等を記入し、一人580円分の切手を同封して応募するようになっている。[キャンペーン期間、2006(平成18)年3月31日まで。]

On April 21 and 22, my wife and I visited Ako, Hyogo Prefecture. It was fine both the days, and we walked from the JR Banshu Ako Station to the Kampo Ako Hotel in Higashi-Misaki on the first day, and from the hotel to the station along different roads on the second day. Our guide was "Map for Hiking to Start from Stations" distributed available from JR West. The total length of our walking course was more than 12 km. The sketch shown here was drawn by a pen and color pencils at the balcony of the hotel room. The Setonai Sea is seen on the right.

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/24/2005 08:06
 春のほのぼのする幻想的な自然が、丸みをおびた淡々とした、赤みさえある色づけとともに、Ted さんの奥様との小旅行の浮き立つ心のように、描かれていますね。今まで見せていただいている Ted さんの絵と、また違ったスケッチで、さすが誠実描写の Ted さんでいらっしゃるなあと、お描きになる絵の幅広さにこれからも期待いたします。
 私は絵は描く方はかなりもって下手ですので(夫・TM は本当に絵が上手いです、医師・同僚の年上の教官より技術が上の器用な実験科学者ですから。「実験的」料理も上手いです)、早く、少しでもまたヴァイオリンが弾けるようになりたいですね。弓を数ヶ月、緩めてでも放っておくともう馬の毛ですから駄目になって張替えになるので、心配しています。

Ted 04/24/2005 08:25
 スケッチのコピーは、ペンの線が原画よりもぼやけてしまっています。色も原画の方が、もう少し鮮やかです。
 ヴァイオリンをたしなまれるのはいいですね。アインシュタインや私の父もヴァイオリンを弾きましたが、私はダメです。

抱き合わせ主義

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年5月1日(木)晴れ

 新委員会室と教室がかなり離れているので不便だ。幾何と商業は遅刻になりそうな状態だった。
 試験という名目ではなかったが、用紙に適当な答を書いて提出するというものの第一号が世界史で行われた。一番早い者は、十五分で提出してしまった。ぼくは十六分で出来たのだが、ちょっとした言葉の使い方に気を取られていたら、みんながばたばたと出してしまった。ぼくは二十五分でビリから二番目に出した。しかし、全部正解かどうか分からない。もし一つでも誤答があれば、ぼくは評価1または2にしか価しないものとみなされるであろう。


(Ted)

 徹頭徹尾、FJ 君の支援を得なければならないとは、なんという恥辱であり、無能力さであり、消極性なのだろう。新聞クラブのバットも購入したので、きょうの帰宅は5時わずか前だった。
 体操は、このところ3週間の予定のものだが、多くの者が嫌い始めている「草取りをやって貰う。その代わり、半分の時間はソフトボールをさせてやる」というものだった。交換主義 (1) と呼びたくなるものが、じつに徹底している IN 先生である。

(Samの欄外書き込み)(1)「抱き合わせ主義」という。

2005年4月22日金曜日

八重桜の多い赤穂


 関東在住の大連市嶺前小学校同期生の会を、八重桜が美しくなる4月14日、新宿御苑で開催するので、上京のついででもあれば、参加して下さい、との案内を先般貰ったが、あいにく、ついでもないので、行かなかった。また、さる週末が見頃だったらしい大阪の造幣局の通り抜けも、人ごみが大変だろうと思って行かなかった。ということで、今年は、八重桜のみごとな咲きぶりをみる機会はないものと、あきらめていた。

 ところが、昨21日から妻と1泊2日で出かけた赤穂で、八重桜をよく見かけた。まず、赤穂城跡公園近くの武家屋敷公園で(写真)、次は道路脇の並木として、さらに赤穂高校校庭や東御崎展望台、その他。ずいぶん八重桜の多い街という感じがした。

くるっとして輝く目と…

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月30日(水)晴れ

 各クラブからの予算見積申請書が集まってきた。きょうから大いに忙しくなるであろう。これまでの委員会室が、事務室を拡張し応接室をも作るために、シャワー室あとへ引越さなければならなくなった。何から何まで、明るくて新鮮な感じだ。室内の調度を考えるのも、なかなか面白い。床はコンクリート、プールが横にある。廊下の向かいが物置、その隣が水泳部の部室、そこからさらに卓球室へと廊下が続いている。その反対側は、ソフト、ハンドボール、陸上競技、野球などの部室があり、ちょうど、多くの部室のど真ん中にあたるところである。


(Ted)

 困難を感じる。それをいやでも乗り切ってまとめ上げ、作り上げなければならないという立場に立たされているのだ。[1]

 くるっとして輝く目と、いつも美しい歯を現して微笑していて、曖昧さを十分にたたえて、のびのびしている口元と、しっかりと、しかも優しく、それより上の部分をしめくくる役割をしている顎を有する、生き生きしたやや長めの顔…。
 それといい、40日足らず前までは毎時間見なければならなかったのに、いまでは完全にそうでなくなった人物 [2] の、存在する場所や触れるもののすべてを合理化し明るくしてしまうかと思われる緑色の躍動的なセーター姿といい、次の時代に対する力強い希望を象徴するもののようである。少なくとも何かそのようなものを感受してよいように思う。だが、それ以上には受け取らなくてもよいだろう。それより先に、自分自身のしなければならないことがある。[3]

 引用時の注

  1. 新聞部の活動のこと。

  2. 1年生の間の日記に Vicky のあだ名でよく登場した女生徒。

  3. 女生徒たちの顔や姿に魅せられながら、勉強への気持を散らされまいと、心の中で闘っていた日々だったようである。

2005年4月21日木曜日

光のリレー参加証 / 0と100の中庸


光のリレー参加証

 さる4月19日(米国時間4月18日)、アインシュタイン没後50周年を記念して行われた「光のリレー」プロジェクトへの参加証が、世界物理年日本委員会から昨夕送られてきた(イメージ;私の名前は、このコピーでは頭文字以外を消してある)。

0と100の中庸
 
 高校時代の交換日記から。

(Sam)

1952年4月29日(火)雨

 "When Worlds Collide" を金劇へ A と見に行く。『月世界征服』よりは凄みは少なかった。というのは、地球最後の場面と新世界ザリラの場面があまりにも簡単すぎて、あっけなかったからだろう。ほとんどの実業家や政治家に嘲笑されるところなど、ロケット製作までのストーリーは、だいたい『月世界征服』に似ていた。しかし、人道主義が強調されていたことは、大いに異なる点であった。ロケットの発射装置や構造などにもかなり進歩したところが認められた。
 A のところから2時頃帰宅した。その途端に、ある親切な人から一昨日の落とし物がぼくの留守中に封書で届けられていたのを祖母が知っていて、ひどく小言をいわれた。すぐお礼に行って来いといわれたが、雨が降っている上に、住所がぼくの知らないところだったので、最上級の文言で礼を書いて、封書で出した。彼の年齢も職業も分からないから、学生らしい用語を使っておいた。


(Ted)

 あることを理性が完全に否定し、感情はそれを100%望んだとする。両者の意を取り入れるため、相加平均すると50%となり、理性がどれだけ確実な論拠に基づいて否定していようとも、感情の欲望を半ば達成させなければならないことになる。相乗平均をすれば0%となり、理性が一歩も譲らないことになる。調和平均によれば…、と木曽坂を下りながら考えた。そして、一方が0であれば、調和平均をとることが不能であることばかりか、解析 I の教科書には a と b の相加平均も相乗平均も「正数 a、b に対して」定義されていたことに気がついた。そうすると、一方が0という、いまの場合、中庸を選ぶにはどうしたらよいのだろう。そういう平均があり得ないといっても、それが必要なのだ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/21/2005 22:29
 私の参加証は No. 4667でした。おそらく一時間余りの間に535名が加入したことになりますが、世界規模で行われていることを思えば少ないと見るべきなのでしょうね。

Ted 04/22/2005 16:52
 イベントのホームページには「有効参加登録数4818でした」とありますね。世界規模にしては参加者が少ないことも意外ですが、無効がかなりあったことも意外です。

M☆ 04/22/2005 09:42
 光のリレーなんて面白そうなイベントですね! 世界一速いスピードを競う競技になるのかな?!

M☆ 04/23/2005 12:36
 うわー、素敵な企画ですね(^▽^)。最近のニュースは暗いものばかり、本当に平和を祈願せずにはいられません

Ted 04/22/2005 16:57
 アインシュタインが最後に住み働いたプリンストンから始まって、地域ごとに平和を祈念して2分間消灯するという行為をつないで、いわば光と闇のウエーブを世界一周させるというもので、競争という形のものではありません。

Y 04/22/2005 11:07
 Sam さんの日記は(普通…)、Ted さんの日記は(ばればれのような気がするのですが…=若者言葉です)。さすが理系の方は、このように理論的に心を考えようと一生懸命されるのですね。この理性的にみえる営みが、実は十分感性・心に誠実な営みである方に膨らんでいます…。空手の S の基本は「中庸」だそうで、これは彼は知らずとですがアリストテレスの基本思想ですね。ところが私の生き方の基本は、ひたすら「自然(な、に)」です。私と基本が何年経っても同じでいらしたと私が気づいている精神病理学者の木村先生は、実はこの交換日記の通り「ぼくは」と書かれます。今はご多忙すぎてお話ができませんが…。
 冒頭ですが、私たち研究者は、歴代の素晴らしい研究者に心を捧げる人生でもありますね。木村先生・根本大批判、ブランケンブルク氏・根本大批判も、すでに今では容易に考察し終えております。私の修士論文は、真面目ないい子として論じながら、「大変政治的な」論文に徹していました、自分でも評価しております。そして、今ではそんな「いい子」では私はありませんよね、この人生を生き抜いた人間力がほんものなら。
 先日の私の英文誤訳ですが、cotemporary=同時代の、という非常に現代の私たちを想起させる単語に基づいて、temporary を訳してしまったんですね。私の分野は常に社会派・社会的でなければなりませんから、Ted さんの物理学のお話も、ついその癖で受け取ってしまったのですね。長くなりましたが、以上で。

2005年4月20日水曜日

インドから結婚式招待状 (Wedding Invitation from India)


Read in English

 昨日、インドからメールで結婚式案内が届いた。メールには、招待状の英語版とインド語版のPDFファイルが添付されていた(イメージはインド語版の一部;一番下に部分的に見えている赤い文字が花嫁の名前である)。インドの人びとは、すべての友人・知人に招待状を送る習慣があるようだ。このような招待状をインドから受け取ったのは2度目で、今回の送り主はインターネットで知りあった若い科学者である。彼に会ったことはまだない。メールで祝いのことばと咲き始めのサクラの写真を送った。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

T. T. 04/20/2005 17:24
 インドからって凄いですね!行って結婚式に参列してみたいです~。

Ted 04/20/2005 17:31
 亡くなったイギリスの友人の追悼会の案内状を、その友人の夫人から貰ったこともありますが、海外となれば、ちょっと出かけるには遠すぎます。

ハナミズキ咲く / 講和条約発効


ハナミズキ咲く

 わが家の近くの笠池公園では、サクラの花の終った傍らで、ハナミズキが白い花をつけていた(写真は2005年4月19日)。

講和条約発効

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月28日(月)晴れ

 対日講和発効がきょうであるために、国旗が掲げられているのだが、Emperor's Birthday と勘違いしそうになった。
 昨日大失策をしたので、意気消沈だ。ほかでもない、昨日のいつのことだか知らないが、身分証明書とともに定期券入れを落としたのだ。高価なものは入っていないが、ないとたいへん不便だ。毎時間「次は何だい?」と聞かなければならない。
 H は所属クラブの調査があったあと、生徒会費の問題について意見を聞く仕事がホーム代表にあったのだが、うちのホーム代表は気の弱い者ばかりなので、ぼくが頼まれて司会をした。五、六人の男生徒が意見をいってくれたが、みな、昨年通り毎月五百円がよいという。値上げの提唱をしたものは誰もいなかったが、菫台高校に右へならえをする者もいなかった。
 幾何は、「これが平行であることを説明するのは閉口するが」、「この二つの角が錯角であるというと、錯覚を起こすかも知れないが」、「公理、公理というと、夏なら涼しくてよいかも知れないが、この頃ではちと寒すぎる」などの洒落がたくさんあった。時間の終りに「あすもあさっても休講にします。」といって、われわれを喜ばせてくれたが、よく考えてみたら、あすは休日、あさっては四番号の時間のない日だった。


(Ted)

 発効するね(これだけでは、あまりに簡単すぎるようだ)。――トルストイの3大作中の一番あとに書かれた小説が4月28日から始まっている。ぼくの父の死もこの日だった。5月7日に発効しても、ぼくにとっては、意味があったのだが。――SHにスピーカーを通して校長先生の訓話があった。演説口調で、けさの新聞にも多く見出されたようなことばを片っ端から駆使して、今後必要とされる勇気と努力をわれわれに鼓舞しようとする訓話であったには違いないのだが、独創的な感銘因子はなかった。
 国語甲は「言語」と「文学」に別れている教科書の「言語」の方をやっているが、「II. 新聞とラジオ」の「学校新聞の作り方」を終って、「ラジオを聞く」へ入った。その「二、実況放送について」の朗読が、整理番号順でちょうど、すばらしいバスの声とアナウンサー的発音で読む YMG 君に当たった。「いよいよ千四百にかゝります。古橋・橋爪千四百にかゝります。第三位からすでに五十メートル開きました。第三位の川口、けんめいに追っております。…」という、昭和23年8月6日、神宮プールでの日本選手権千五百メートル競泳の録音によったものだ。アクセント正しくすらすらと読んだ彼に、欲をいえば、もっと実況放送らしく力を入れて読んで貰いたかった。[1]

 ああいう型を好ましく思う [2]。しかし、人間である限りなくし得ないで残している欠点もあるに違いない。それを発見し得るまで、十分観察しないで、好ましいと決め込んでしまうのは動物的だ。それを発見することが、幻滅を感じさせるかも知れないことを理由として、こう書くのではない。われわれは、対象を観察し批判できるだけの理性を持たなければならない。(少し陳腐な記述になったようだ。)

 引用時の注

  1. YMG 君は大学卒業後、北陸文化放送に勤めた。一時期、私たちにおなじみの声でニュースを放送していた。

  2. 漢文の時間に一緒になる、温和・明朗で、かなり聡明な一女生徒のことを書いたのだったか。


Y 04/20/2005 15:29
 私は今では論文では、大変男性的、と自分で思える文章で論ずるのですが、それでもやはり、Ted さんの高校時代の日記文のほうが「ほんものの男性的な」文章だなぁといつも感じています。女性の男気質ではかないません。
 Sam さんと Ted さん、日記文に大変よく似ている部分が多いのは、当時の学校での国語指導などを一緒に受けておられるからなのか、やっぱり似ているご性格が多いからか、それとも交換日記をしているうちに、お互いに影響をあたえあっていた部分がかなりあったのか、どうなのでしょうね。
 私の愛読書の作家としていつも出すヘルマン・ヘッセも、男性の親友・友達の物語ばかりを描くのが得意でした。『車輪の下』のハイルナーのように、片方が年長だったりしてとにかく圧倒的な魅力で主人公を鼓舞する組み合わせがほとんどですね。でも、Sam さんと Ted さんの交換日記は、互いを意識しつつもまさに並行して進んでいますから、ヘッセが描いた男友達のあり方とまた違って、興味深く読み続けられますね。

Ted 04/20/2005 17:18
 Sam と私は、中学2・3年が同じ学校で、高校は別々でしたが、文の類似性には、当時の国語教育と日記交換の両方が影響しているのでしょう。『車輪の下』は、うちにある『新潮世界文学』に入っていますので、そのうちに読んでみたいと思います。

2005年4月19日火曜日

また会う日まで


 4月19日、快晴。16日から18日までウォーキングをしなかったので、午後、しばらくぶりに近隣の桜を見に行く。桜前線はすでに、ずっと北上し、ここ堺市では、ソメイヨシノの樹は、もうたくさんの葉をつけている。それでも樹によっては、また、一つの樹でも枝によっては、いくらか花を残している。笠池公園の樹々は、まだ葉の緑よりも蕚のピンクが勝っている様子だが、津久野南団地前の並木では、緑が優勢の感があった(写真)。今年よく楽しませてもらった桜の花さんたちに、また会う日まで、の挨拶を送る。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/19/2005 22:55
 いろろいろな桜を見せて頂きました。ありがとうございました。

Ted 04/20/2005 07:38
 どういたしまして。

トラの行列と花火と

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月27日()快晴

 Tedよ、ぼくを待ったりすることなく街へ出て、何か得たかい。ぼくは大勢の小学生と一緒に無料電車に押し込められて、北鉄本社前まで行き、そこで強制的に降ろされて、仕方なく、フラワー・ガーデンの花々や、それらを写生する子どもたちを見て、公園の中を通って香林坊に戻り、大和へ行って新エレベーターに乗り、商業美術写真展を見、題材の掴み方に感心し、ラムネ祭りの宣伝にたまらない欲求を感じ、1階に降りてはガラス掃き器の宣伝販売員のしぐさに見とれ、雀躍する金魚に初夏の涼を憩う心を想って午前を過ごした。午後は、物見高い群衆の中にあって、辛抱強く待つこと長く、広告行列をようやく眺め、子どもカーニバルや祇園囃子の遅々たる行進のあとを追い、幾人かの友人と会う。一人の友人は数年ぶりに会ったものだが、「あの時分は、ようお前と学校ごっこをしとったがやに、はや白線の帽子を被って…」といってくれた。
 アドバルーンが、まぶしく光って、風にゆれている。湿り気の少ない風だ。やっとのことで来たトラの行列は、「トコトン節」や「ヤットン節」でスピーカーが騒がしい。トラの形をうまく利用したものや、動く作り物など、気の利いたもののある代わりに、ゴテゴテと皮膚に絵の具を塗った下卑たものもある。先頭からしんがりまで見るのに十数分を要する延々としたものでありながら、たいして銘記すべきもののないのはどうしたことか。
 おゝ寒い。こんな日に花火なんて、何だい。十数発だけ見た。まだボンボンやっているが、勝手にしやがれ! 閃光を見てから三秒ほどたたないと音が聞こえて来ないから、消えてしまったあと、音がとどいて来る。大きな音だから、どんなにきれいだろうと思っても、もう遅い。Ted のところからもよく見えるだろうが、窓の向きは不適当だろうね。


(Ted)

 苦悩と、もがき。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/19/2005 11:53
これも百万石祭りの一環なのでしょうか? それにしても、なぜトラの行列なのか、加藤清正ならともかく、前田候の加賀藩で…。

Ted 04/19/2005 15:47
 百万石祭りの一環らしいですが、私は金沢在住の頃の、Sam のように祭り見物が好きではなかったので、残念ながら、なぜトラの行列なのかを知りません。この日、私が Sam を待たずに街へ出た、と Sam は書いていますが、私はどこへ行っていたのか、記憶にありません。

2005年4月18日月曜日

「時間」について

 先日、Y さんから、これから書く論文が時間論に関係したものになりそうなので、物理学での時間の解釈について少しずつでも教えて欲しい、という主旨のメールを貰った。それに対する返信に手を加えて、「ニュートンの時間とアインシュタインの時間」として、下に紹介する。

 たまたま時を同じくして、SNS エコーの「おとな科学相談室」グループ掲示板で「時間とは何か?」という投稿を見かけ、私も返信を投稿した。2番目に紹介する「時間は基本的概念か」は、その投稿を少し修正したものである。

 浅学のため間違いを書いているところがあれば、お教えを乞う。

ニュートンの時間とアインシュタインの時間

Y さん

 私も「時間」については興味があり、イギリスの G. J. Whitrow が著した2冊の本 [1, 2] をかなり以前に買って読みかけましたが、まだどちらも読了してはいません。他にも時間に関する本を何冊か持っていますが、いずれまた紹介します。

 きょうは、物理を学んだ者がごく普通に知っていることだけを書いてみましょう。

 ニュートン力学での時間の概念は、時間は宇宙のあらゆる場所で一様に経過している、というものでした。この概念は、アインシュタインが1905年に特殊相対性理論を発表してから、大きく変わり、時間はいわば個別的なものになりました。系の運動状態によって、時間の進み具合は変わるのです。これは、特殊相対性理論の基本原理である光速不変(光源に近づく観測者にも、光源から遠ざかる観測者にも、光速は同じと観測される)ということから導き出されるものですが、加速器で作りだされて高速で運動する不安定粒子の寿命の変化によって、実験的に確認されています。

 物体が光速に近い速さで運動するほど、時間の経過が遅くなるのです。このことから、「双子のパラドックス」というものが出て来ました。双子の一方が高速のロケットに乗って宇宙旅行をして帰還すると、地上に残っていた他方より若いということになりますが、等速運動は相対的なもので、ロケットに乗った方から見れば、地上に残っている方が高速で動いていると見えます。そうすると二人が再び出会ったときには、どちらがより若いともいえないのではないかとの疑問(パラドックス)が生じるわけです。これは、ロケットは途中で向きを変えるとき、減速・再加速という「非慣性系」の状態(宇宙全体の質量分布に対して加速度をもつ)になります。このことを考慮すると、ロケットに乗った方が再会時に若いというのは正しいのです(Max Born の本 [3] に分かりやすく説明してあります)。

 相対性理論では、もう一つ、時間と空間が座標変換によって互いに転化する、ということがあります。3次元空間を記述する空間の座標系を、原点を固定して回転すると、原点から離れたある点の x、y、z 座標の値は変わりますが、各座標値の二乗和で表されるその点までの距離は変わりません。相対性理論で運動を記述するには、x、y、z に ct(c は光速、t は時間)を合わせた4次元の「時空」直行座標系を使います。この座標系の回転で不変の距離に相当するものは x、y、z の二乗和から ct の二乗を引いたもの(i を虚数単位とすれば、ict の二乗を加えたもの)であり、空間座標の回転で x、y、z の座標値が転化し合ったように、時空座標の回転では x、y、z、ct が転化し合うのです。相対的に光速に近い運動をしている場合にしかいえませんが、ある人の時間は他の人の空間であり得る、というようなことです。

 きょうはこれくらいで。

 Ted


  1. G. J. Whitrow, The Natural Philosophy of Time (Clarendon Press, 1980).

  2. G. J. Whitrow, Time in History (Oxford University Press, 1988).

  3. Max Born, Einstein's Theory of Relativity (Dover, New York, 1962).



時間は基本的概念か

 以前、ロンドン大学名誉教授 G. J. Whitrow の書いた400ページほどの本 [1] を買い、約1/5だけ読んで投げ出してあったのを思い出し、その最終章「時間の性質」の最終節「結論」を走り読みしてみました。この著者の考えは次の文に要約されているかと思います。

 哲学者は時間の現実性を否定し、物理学者は時間の方向性は、たとえばエントロピーのような、より基本的な概念で説明できる誘導概念であることを証明しようとしている。しかし、時間の本質はその遷移性にあり、それは、より基本的な概念によっては説明できない基本概念であろう。時間は活動の様式であり、活動なくしては時間は存在し得ない。したがって、時間は出来事から独立しては存在しないのであり、宇宙とそれを形成するすべてのものの性質の一つである。(和訳は引用者)

これは時間についての一人の専門家の考えであって、時間とは何かについては、まだ定説がないというのが現状のようです。皆さん、新説を発表されてはいかがですか。

  1. 前節の文献 [1] に同じ.

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/19/2005 09:12
 哲学にはドイツ・フランス語圏、イギリス圏、アメリカ圏とありまして、私たち、日本の大学で哲学を伝統から本格的にやる者は、まずもってアメリカ圏の哲学を目にする機会はありません。伝統と新しい興隆を形成してきたドイツ・フランスの哲学が日本の哲学研究者にとってほとんどすべてな訳ですが、「哲学者は時間の現実性を否定し」、という表現は、まったく哲学専攻者は言わないことだと思います。もちろん哲学でも、現実の時間そのものについて思考するのですね。「時間の本質はその遷移性にあり」これは、哲学でも立派に通る、ひとつの時間論です。哲学や人間学の立場からかみくだいて言いますと、時間とはここに「在る」なんらかの対象物ではありえないし、なんらかの事象として「存在」することが第一次的な目的・意義をもつもつものではない。時間とは、遷移するものだというこの性質、それこそが時間の最重要な本質なのであって、「遷移としての時間」があってこそ、過ぎ去った、まとまった時間を事物対象的に見たり考えたりすることも可能であるし、将来の時間を遷移そのものである時間が移り行く先の地点として、これまた対象化することも可能である。
 自己、私という存在はたえず移り行く、物質的・外形的にも心理的にも変化する私であり、もし遷移性を「自己」の本質とした場合、私たちは自身でわかりきっている自己より常にすでに自己の底辺を流れている、「私という時間」の純粋な流れそのものに気づき、それをみることができるだろう。
 ベルグソン(フランス哲学者)が純粋持続という概念で言っているのは、確かにこの意味での意識底層における純粋な自己の時間性のことであろう。

Ted 04/19/2005 10:47
 「哲学者は時間の現実性を否定し」、という表現は、哲学専攻者はまったくしないと思う、とのご感想を貰いましたので、Whitrow がこの表現をした根拠を彼の著書中で探してみました。Subsection 7.5. の始めにおいて、確かに彼も、"it has seldom been denied that time is 'real' in the sense that it is a phenomenon of our experience—and indeed, in Leibniz's phrase, a 'phenomenon bene fundatum—' " と書いています。しかし、この文(実は従属節)の前には "Even though" がついていて、この従属節のあとには次のような主節と、さらなる説明が続くのです。"thinkers as diverse in their general outlook as, for example, Plato and Kant, and Bradley and Weyl have repeatedly argued that the temporal mode of our perception has no ultimate significance. Although this point of view is primarily associated with the long line of idealist philosophers going back to Parmenides, it has also been accepted by so empirically minded a thinker as Bertrand Russell. [. . .]" これが Whitrow に「哲学者は時間の現実性を否定している」といわせた根拠と思われます。

Y 04/19/2005 12:06
 ものすごく沢山の、時代も流派も地域も多岐にわたる歴代哲学者の名前が出ていて、ちょっとこれを一気にまとめて論じるというのは、「私たち、哲学を専攻のひとつとする研究者ならまずできない流れで」文が綴られていますので、…それはともかく、Leibnizは数学者でもあります。彼の、phenomenon bene fundatum は、ちょっと難しい言葉ですね。ライプニッツの紹介として、ネットから取ってきますと、「ライプニッツが無限の概念を媒介にして、同一性を差異の、静止を運動の一種であると考えるのは、現象の多様なあらわれを理論の箍にはめて殺すためではなく、現象の多様さを多様なままに捉えるためであった。(以上、http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/books/SasakiYoshiaki001.htm より)」
 先へ進んで、Plato and Kant, and Bradley and Weyl このあたりはまったく、専門的に言うとまとめて論ずることはできないんですね。とりあえず、Ted さんが引用してくださったこの文の多くを占めている「ドイツ観念論」…カント、フィヒテ、シェリングなどの近代哲学ですが、私がいくばくかでも彼らを読んできた経験から言いますと、「観念論」とそれこそ「観念的に」、現実性や実体験としての時間そのものに対して生(なま)の(←時間に関しても、現実性の高い)哲学的考察をあたえていない、といった風には感じられませんでした。彼ら哲学者の現実(の時間)に向き合う意志がよく感じられる論ばかりですから。
 temporal mode of our perception has no ultimate significance. …「われわれの現代の知覚様式には最終的な重要性があたえられていない。」確かに、私も詳しくないのですが、ドイツ観念論の時代には、たとえば「時間体験をしているわれわれ」に対して、より純粋性、絶対性を有した時間が在る、といったような、やはり神(超越者)が審級となって彼ら思想家たちの意識にたえずあらわれていたので、…つまり、われわれは本当にわれわれの時間というものを認識することができるのか、といえば、われわれになしうる認識を超えた認識(超越論的認識)があり、人間の認識能力はそれに比して限界があるのではないか…といったことを突きつめていった哲学者たちであるとは思いますね。カントだと、「物自体」は認識しえない、という結論に至った点こそが、哲学探究の素晴らしい結論として語り継がれているのですね。「哲学者は時間の現実性を否定している」とは、上記の意味で書かれているのかなぁと、引用いただいた文からは考えたのですが。
 最後の、バートランド・ラッセルは大変数学に強い哲学者で、数学の原理や原子論を書いてもいます。そう、実は哲学者には数学者など科学者でもありえた人物が多いのですね。その辺り、Ted さんのご関心が向かれればと思います。

Ted 04/19/2005 16:09
 "the temporal mode of our perception has no ultimate significance." を、私は「われわれの知覚における時間の様態は、究極的意義を持たない」と訳します。観念論者たちは時間を認識できるとはしているけれども、究極的な意義を持つ概念とは考えていない、と Whitrow は理解しているようです。
 そうですね。バートランド・ラッセルやハンス・ライヘンバッハあたりが、私には取っつきやすい哲学者です。

やはり不安である

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月26日(土)雨

I love to peep into the room between the curtain and the window frame, when they are not thinking of me. It gives me happiness to watch them dressing and undressing. First a little round shoulder comes peeping out of the frock, then the arm; or a sock comes peeling off, and a little fat leg shows, with a dear little white foot for kissing, and I do kiss it, too!

 リーダーは、この部分だけ読めば、まるで赤本の文章のように思われる。でも、その speaker とその対象物を知れば安心できる。[1]
 二限と三限の休み時間は、てんてこ舞いを演じたため、清書なのに心が落ち着かなくて困った。一つ忘れ物をしたのが、相当に大きく影響したのである。不注意! それは、わずかの水漏れの余地しか作らなかったとしても、重大な影響をもたらすことがある。
 何か映画を観に行きたいのだが、懐には2 cm ばかりの頭髪を刈り取ってもらったら風呂賃しか残っていないから、どこへも行けない。「何もなくてもよい、口笛吹いて行こう」という歌もあるが、なかなかそんな気持にはなれない。そうだ。きょう配付のあった国語選択のオモダカタダタカ著のテキスト代三十五円也も月曜日には持って行かなければならないのだ。


(Ted)

 活発でなく、覇気に乏しく、まずかった。やはり不安である。[2]

 SNN 君は、筆入れに輪ゴムを3箇所に巻いた厚紙を敷き、きれいに削った鉛筆をその輪ゴムで固定するように並べて入れなければ、鞄を持って歩くときにがたがたいうので、気がすまないようである。その筆入れは、国民学校時代からのものだと、きょうぼくに話してくれた。彼は、また、猛烈に細いペンの文字で紙片に写し取った参考書からの少し難しい問題を「教えて下さい」「教えて下さい」と持って来るのである。

 引用時の注

  1. アンデルセン童話の一つで、窓から部屋をのぞいた月が、着替えをしている子どもたちを見かけた情景を述べているところ。教科書から引用の英文は、別紙にタイプライターで打って挟んであった。ちなみに、さる4月2日はアンデルセンの生誕200年であった。なお、私は大学院生のとき、研究室での論文輪講の時間に原子核の stripping reaction(粒子剥奪反応)についての論文を紹介するに際して、同じ文を岩波文庫の和訳から英訳して、紹介する論文要旨の前にプリントして配布した。描写されている場面に stripping(服を脱ぐ)の情景があるからである。その英訳文は次の通り。"I often peep into a bedroom from between the curtain and the window frame when they are not thinking of me at all. It is very pleasant to watch them struggling to unclothe themselves. At first, their little round shoulders appear out of the clothes. Then, their arms come out smoothly. . . . Soon, I can see their legs I would like to kiss, and I really do so."

  2. 新聞部編集長の役のこと。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/18/2005 08:49
 歴史に弱い人間なもので、Ted さんの通われていた時代は、国民学校というのですか。
鞄だとか、筆記用具だとか、そうした学校での用具のそれぞれの持ちようがやけに重要にみえたのが、学校時代の生徒たちですね。私は中学2年まで転校ばかりでしたが、小学校の転校先で珍しく私が流行の先を行って色ペンを持っていたので、使わせてくれ使わせてくれと皆から言われて、短い色ペンが減るけれど仕方ない…転校生がなじむためにも…と思って見ていました。私たちの時代は「筆箱みせて」といいあう習慣が女子生徒のかなり年長までありました。皆それぞれ思いを凝らして筆箱とその中身をそろえたのを、みせあうのです。あまりにみせあう回数が多いのでヴァージョン替えもしなければならなかったでしょう。子どもは不思議な文化を作りますね。

Ted 04/18/2005 15:37
 1941年4月1日、それまで70年間続いた小学校の名称が廃止され、ドイツ流の国民学校にあらためられ、「皇国の道にのっとり、皇国民の基礎的錬成をなすこと」がその目的とされたのです[加藤文三ほか『日本の歴史』下(新日本新書、1978)]。私は、6歳年長で小学校3年で死んだ兄のお下がりの黒いセルロイドの筆箱を、長く使っていました。フタが割れたのを針金でつなぎあわせて。いまもどこかにあるかも知れません。

2005年4月17日日曜日

桃源台


 私が1944年9月から敗戦の年を挟んで約2年半住んでいた中国・遼東半島(敗戦までは日本の租借地で、関東州と呼ばれた)の大連市内の町名は桃源台といったが、同じ名前の場所が、堺市・大仙公園内の日本庭園に入って左の奥にある。堺市が姉妹関係を結んでいる中国の都市との交流記念のものだろう。最近、毎年のようにそこのボタンの花盛りの頃に来ていたが、モモが満開のときに来合わせたのは、さる14日が初めての経験だった(写真)。

 3月3日の雛祭りを「桃の節句」ともいうから、モモは3月に咲くものと思いがちだが、旧暦の3月3日は新暦の4月初旬なのだ。日本庭園内の桃源台には赤と、1本の木に紅白混じって咲くもの(源平という名だそうだ)があったが、どちらもハナモモの一品種らしい。きょうは私の誕生日なので、この紅白の花の写真を掲載して自ら祝うことにする。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/17/2005 13:06
 お誕生日おめでとうございます。鮮やかなモモの花ですね。堺市の中だけでも、散歩していらして見所が沢山あるようですね、毎回紹介していただいて。私はまだ、夫と連れ立ってしか、散歩の外出をすることが障害上、できませんが(気軽な外出ほど不得手なのです)、鴨川では桜が乱れ散って、川端通りに舞っており、きれいでした。こちら京都では葉桜の季節になりましたね。

Ted 04/17/2005 13:34
 誕生日のご祝詞、ありがとうございます。私も学生時代に鴨川のほとりをよく散歩したものです。一番記憶に残っているのは、修士課程2回生のとき、研究室の Y 助教授が奥さんとまだ幼いお嬢さんを連れて歩いておられるのにひょっこり出合った散歩です。奥さんが撮って下さった写真もあるため、記憶もはっきりしているのかも知れません。5月の連休の頃だったでしょうか。そのとき初めて、修士課程修了後、就職したいと考えていることを Y 先生に話したのでした。

百万石祭りの日


 写真はハナモモの一品種「源平」。一株に白花と赤花がつくのでこの名がある。堺市・大仙公園で、2005年4月14日撮影。

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月25日(金)曇りのち雨

 百万石祭りの大名行列があるのだから、雨は降るはずがないだろう、なんて、主客転倒の考えをしていたら、右肩をぬらして帰らなければならないことになってしまった。午後は女子が各検査を受けることになっていたので、男子の方は弁当を持たないで来る生徒が多かった。
 新入生のために生徒会予算の総務費、図書費、特別会計などの内容を説明するプリントを刷った。Wit と二人で原稿を作り、ぼくが原紙を切った。


(Ted)

 昨日の草取りを熱心にやったというので、体操の時間は班毎に希望通りのことをすればよかった。「君たちが、あー、いうことを聞いて、することをちゃんとしたときには、こっちも君たちのいうことを聞き入れる。」これが IN 先生の方針である。
 ——不安を超越すること。——

2005年4月16日土曜日

ある式典

 私の元職場から式典の案内状が届いた。名称は同じだが、OP 大学、OW 大学、OPN 大学が再編統合し、公立大学法人としてさる4月1日開学したことを記念・祝賀するというものだ。新大学は大学院を重視した「高度研究型大学」として、自立性・機動性あふれる大学の実現を目指すという。

 さる4月6日には第1回の入学式を行い、学部、大学院を合わせて2169名の新入生を迎え入れたそうだ。その式がフェスティバル・ホールで行われたとかのニュースをテレビで見た。

 統合によって切り捨てられたものも多い。めでたくもあり、めでたくもなし。5月11日に N キャンパスで開催される記念祝賀会(会費1万円)に、私は出席しない。困難な状況の下で、教職員が何とか大学を発展させていくことを、自宅から願うのみである。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/16/2005 17:06
 ああ、今年度からスタートだったのですね。いつからだったか失念しておりました。国公立の大学運営も特定一部を除いてこれから大変ですね。地方の個性的、特色ある大学が少なくなっていきます。

Ted 04/16/2005 20:41
 国公立大学の法人化により、大学は次第に国・公からの予算を削られ、独立採算制に向かうことになります。各国立大学では予算削減に備えて、選任教員の講義数増加(研究保証の廃止)、課目の統合や少人数講義の合併による大教室授業の増加、非常勤講師の賃下げまたは解雇、等々の「改革」に取り組み出しているということです。大学の荒廃が危惧されます。

Y 04/16/2005 18:45
 独立行政法人化は確かに平成17年度からで、私の夫も正式助手という、努力による大変な地位を得ても任期5年という、先の暮らしの見通しも立たない扱いになっていますが(私は福祉ですので関西だけでも沢山、教える場があります。専門学校から…)、大学と大学院を機関・別にして、大学院(研究・教育)を重視しようという制度は、私が大学を卒業した平成10年にはすでに成立していたと聞いていたのですが、公立大学はまた違ったのでしょうか…?
 時代の流れの要請もあって、京大・阪大の辺りだけでも毎年制度改変だらけで、理系と文系を本当に同じ講座に押し込めてしまった京大の新大学院が果たして今もうまくいっているといえるかどうか…制度改変の前には慎重な議論を重ねておいて欲しいと思いますし、学生が振り回されることに…。また、「なんとなく学生を親の扶養と勧めで延長」という自立回避の目的意思の希薄な大学院生を増やす制度ともなりかねません。門戸は狭く、試験するべきだと私は考えます、経済の循環という観点からも、人間学的にも。

Ted 04/16/2005 20:59
 公立大学でも、いくつかのところでは大学と大学院を別ける方向で進めていました。OP 大学もそうでしたが、新 OP 大学もその形で行くということだと思います。
 「制度改変の前には慎重な議論を」は、おっしゃる通りです。国立大学では法人化の混乱の中で、教授会の機能が麻痺し、学長と事務当局の権限が肥大化したところが多いとも聞きます。

2005年4月15日金曜日

これから咲くサトザクラ


 4月15日、晴れのち曇り。曇っていても春の陽光はかなりの紫外線を含むようだ。連日の桜見物で、帽子を被っていても鼻の頭が日焼けしたし、昨日は2日分ぐらい歩いたので、きょうはウォーキング兼桜見物を休む。ただし、堺市の大仙公園で昨日見たサトザクラを写真とともに紹介したい。(上はクローズ・アップ、下は木全体の眺め。まだほとんどがツボミである。)

 わが家に『週刊 朝日百科 植物の世界』全巻を揃えていたのを忘れて、先日は、むかし子どものために買った『植物図鑑』を眺めていた。昨日、大仙公園脇の緑化センターへ寄ったとき、そこで『植物の世界』を見かけ、ようやく思い出した次第である。

 『植物の世界』によれば、サトザクラとは、オオシマザクラを中心として他の種との間に複雑な交配が行われた結果生じたと考えられる多くの品種の総称だそうだ。したがって、写真のサトザクラは、その中の1品種に過ぎない。撮影したのは大仙公園の中の日本庭園内のものだが、同庭園外にも同種のサトザクラが何本かあった。オオシマザクラは白っぽい花をつけるが、それとの交配の結果、このように濃いピンクの種類ができるとは不思議だ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

mieko 04/15/2005 18:18
 説明なされているように、濃いピンク色で蕾が沢山ありますね~。とても綺麗です♪

Ted 04/15/2005 20:24
 ありがとうございます。

砂が J を横にしたような形に

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月24日(木)晴れ

 授業は午前中で打ち切り。午後は男子の口腔、目、鼻、耳、内蔵の各器官の検診がある。長ながと列について待つのはもどかしい。生徒の態度はこの前にくらべればよくなっていたが、それは、ただ回数を重ねたからよくなっただけであって、深い反省がなされたためではない。
 それがすんでから、Wit に頼まれて、本来ならば書記のすべき仕事をした。シリコ [1] からきていた生徒会活動についての問い合わせに返信を書いたのである。「商業通信」なんていう課目を選択していないから、書く要領が分からなかったが、礼を失しない程度で適当に書いておいた。先方からのは、「新緑の候 貴校生徒会におかれましても…」というものだったが、「新緑の候」に対する慣用句が浮かばないから「新学期を迎え貴校生徒会に…」としておいた。予算額は昨年度のものをのせておいた。今年度のそれについては、まだぜんぜん手がつけられていないのだから、困ったものだ。


(Ted)

 第1課の後にある Activities を、配付された紙に制限時間内に書いて出さなければならなかったが、... unless he doesn't work と、とんでもない重複をさせたまま提出したような気がする。もう一つ、a man of character と sense of duty を混合したような a man of sense を人格者の意味で書いたが、辞書にはこの通りの表現は見当たらない。どうだろうか。
 白い顔で額の広い物理の O・Y 先生が講義中にとばされる小粒の冗談は、品があり、しかも、はなはだ愉快なものばかりだ。進み方が速いので、考えれば分かることなのだが、すぐには分からず、休み時間に理解しておくためノートを見直さなければならないのも、かえって楽しみである。cosθとsinθの二乗和が1になる、などもその一例だ。

 雪辱は急がなくてもよい。それらに心を奪われることも不要だ。
 砂が J を横にしたような形に、風によって運動場を走らされ巻き上げられていた。一昨日購入した新聞クラブのボールで、昨日と同じく5時頃までの時間を忘れる。6名の1年生のうち、名前を完全に覚えたのはまだ2人にしかならない。
 367恒星日前の日には……。その日われわれの通信帳に、ぼくが文字を初めて記した。そして、そして…。国語乙の HR 先生が教壇上でひょろひょろと自分の足を遊ばせながら何度もいわれた「軋轢」というものを、感じたり、疑ったりの1年間だった。いや、いま一番それを感じ、また疑っているのかも知れない。いやいや、どれも違う、そして違わない。
 題名になっている女主人公を始め、レーヴィン、キティ、オブロンスキィ、ウロンスキィ、その他まだ大勢の主要人物が登場する小説を読みかけたまま、いまだに読み進める暇がない。

 引用時の注

  1. 金沢市立工業高校のことだろう。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/17/2005 08:31
 A man of sense の of は人格を担う意味が確かあったと思うのですが…。英語から7年以上(いや、もっと、9年近くです)離れているので、たいした者ではないのですが。ただ、人格者、というよりは、常識人(common sense を身に着けた人)、と受け取られる表現かもしれませんね。
 素朴な感想として、日記の中の出来事それ自体が、長く年数を経て今に至って、Ted さんや私たちにとって重要事であるかどうか、という問いはナンセンスであって、「懸命に高校生の文字で書き残されたもの」に不朽の価値があると思いますね。
 入院前に、博士論文など大きな論文で全文引用させていただきたいと、許可をいただいた日記をまた、あとで探してみます。日付をメモしておけば、一応ブログは永久保存されるのですよね?

Ted 04/17/2005 10:20
 全文引用したいといわれたのは、4月3日の記事です。論文への引用時には私の本名を書いていただいて結構です。

Y 04/17/2005 11:12
 ありがとうございます。そうさせていただきます。取り組みがいがあって、楽しみです。

何? 何だって?

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月23日(水)曇り

 何? 何だって? と問い返したくなる。ぼくに生徒会会計をとは一体全体何事だ。それでも、ぼくは断ることが下手だから、そんなことに決まってしまった。何をしてよいかさっぱり分からないが、何とかなるだろう。これだ! いつも何とかなるだろう、何とかなるだろう、という気持が心の中に働いている。そして、たいていの場合は、わずかばかりの成果に、何とかなったんじゃないかと満足して、それに安んじているのだろう。
 体操は立幅跳びと懸垂のテストだった。ぼくは跳躍力にだけは自信があるつもりだ。2.3 m 以上のものは三人だけいたが、その中の一人に入ることができた。Log の値で0.3010に達しないものは見込みがないとのことだったが、五、六人いたようだ。
 五限後、地区 PTA があったが、それは五分ほどですんだ。そのあと、第一回臨時生徒議会が開かれた。議長と議事運営委員の選出にかなりの時間を費やしたので、その他の議題の半分しか審議できないうちに六時になってしまった。書記、会計の承認と、正課クラブ活動時の廃止に伴う各クラブの存廃問題は、後者は委員会を設けることにして、どちらも簡単にすまされた。「生徒会費の件」に入って、がぜん混乱し、生徒会そのもののあり方についてまでもさかのぼって論議された。意見としては、従来通りとするもの、一年間千円案、毎月五十円としてクラブ所属者にはそのクラブ費として五十円を納めるという、菫台高校に右へならえ式のもの、などに別れたが、結論は得られなかった。

2005年4月14日木曜日

まだ楽しめる桜


 4月14日、快晴。11時前、最寄りの JR 鳳駅から電車に乗り、二つ目の上野芝で下車し、少し歩く。仁徳陵に向き合う大仙公園の正面へ行くには百舌鳥駅で下車するのが近いが、私のように南からアクセスして、南側の公園入口から入り、園内を南北にわたって広く見物するには、この方が好都合である。

 有終の美を誇っているソメイヨシノと、輝きを増し始めた新緑の取りあわせの遠望も悪くない。公園に入って少し進むと大きなシダレザクラがあったので、早速カメラを向けた(写真)。

 木に下げられている名札で、オオシマザクラやサトザクラというものを知る。オオシマザクラは、昨日『植物図鑑』で見たセイヨウミザクラに似ているが、白い花の中心部分が少し赤いようだ。花が咲くと同時に葉が出る、と説明してある。サトザクラは、オオシマザクラを親として作られた品種だそうだ。赤に近いピンクのツボミをつけていて、開いている花はまだ少ない。大阪の造幣局通り抜けの八重桜同様、これから楽しめる桜である。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/15/2005 11:56
 造幣局の通り抜けくらいしかダメかと思っていましたが、まだ、一両日は各所あるようですね。

Ted 04/15/2005 17:52
 サトザクラは、まだほとんどツボミでしたから、これなどは、もう1週間後ぐらいに見ごろになるのでしょうか。

「そんでんしゅんかい」

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月22日(火)晴れ

 時事問題は先生がぺらぺらしゃべるのを一生懸命にノートしなければならないから、一番忙しい。それでも、時どき、「こんなことはノートに書いて貰っては困りますが…」といって話される。それが大変面白い。ワンマン首相が大工になったり、たすきがけで洗濯したりのマンガを、見る代わりに聞くような内容だ。
 今年度最初の簿記の授業があった。毎週火曜だけはとくべつに簿記の時間ということになっていたのだが、先週は身体検査でできなかったのだ。一時間で第一章を終え、二つの宿題が出た。小遣帳や家計簿のようなものから始まったが、きょうこれだけ習っただけでも、ぼくのこれまで書いてきたそれらの帳簿がいかに不完全だったかを知った。
 昨日の相談通り、わがクラブの会を開いた。総数38名。クラブとしては、かなり大きい方だろう。器械取扱いの注意や練習日割について伝達をした。生徒会へ提出する名簿も作成した。


(Ted)

 解析 II の入れ子になった三角形の数の総和を求める問題について、学校へ行ってから帰るまでの休み時間ごとに教えてくれ教えてくれといわれていたような気がする。実際はそんなに教えてばかりはいなかったのだが、昨日 K・B 先生――黒板に y = f(x) と書いて、それを半ば怒っているようなきっぱりとした調子で読み、そこでちょっと区切ってから、頭の軸をやや後方に傾けて黒板をにらむ、という独特な所作をされる――が飛ばして行かれたこの問題を解くことのできた者は、目の届くところでは一人もいなくて、「どうするんだろう」という声ばかりを聞かされたから、そう感じたのだ。しかし、SNN 君には、これで何度示唆を与えただろうか。
 きょうの K・B 先生の時間には、1/(1x2) + 1/(2x3) + 1/(3x4) + ... + 1/[n(n+1)] = n/(n+1) となることを考えるのに、10名足らずいる3年生を出し抜いて、ぼくが「はい! できました」といった。2項の差についての和に変形する途中までを黒板に一気に書いたが(そこまで分かったので「しめた」と思って手を挙げることを急いだのだ)、それからどうすればよいか分からなかった。1/k についての k が1から n までの和は、k についての k が1から n までの和の逆数かと思って、その部分を 2/n(n+1) としてみたが、どうもおかしい。K・B 先生は「それで(2項の差についての和に変形したところまで、の意)できているんだ。k に1、2、3、…を与えるとどうなるか」と助けて下さったが、あとを先生にまかせて下がってきた。分解した表現に数字を入れて書いてみれば、次々に消し合って、最初と最後の項だけが残って、1 - 1/(n+1)、すなわち n/(n+1) となるのである。「できました」といって最後までできなかったのは残念だが、途中までの考えにも及ばなかった連中よりはましだろう。
 物理の時間に途中で無断座席移動をした SM 君は、先生に「Sensibilityがない!」と叱られた。続いて、相対誤差についての質問にもうまく答えられなかった彼は、再び、「だから、そんなことも平気でするのだ。Sensibility がない」といわれていた。[1]
 漢文の先生は、あだ名がエノケンの SG 先生だ。「村田春海、和文ヲ結構スルニ、法ヲ漢文ニ取ル」を読まされた Twelve が、自分と同姓の漢学者名を「そんでんしゅんかい」と読んだのには笑わされた。

 引用時の注

  1. 天秤などの感度を "sensibility" という、と教えられたばかりだったか。

2005年4月13日水曜日

なお美しい桜


 4月13日、晴れたり曇ったりの天気。昨日の雨で桜はもうあまり見栄えがしなくなったかと思いながらも、午後、わが家から東の、桜の木の多い方面へウォーキングに出かける。桜は散り始めて、赤い蕚が多く混じって見えるため、遠目には満開のときよりも濃いピンク色をしている。これもまた、よい眺めである。

 私の最も古い桜の記憶は、小学校(当時は国民学校といった)1年生になって間もなく(と覚えていたが、よく考えれば、2年生の始めだったかも知れない)学校から近くの公園へ写生に行ったときに見た桜である。脳裏にあるそのときの光景は、周囲一面、濃いピンク色の桜で一杯というものだが、最近その記憶と比較しながら、実際の満開の桜を見ると、ずいぶん白っぽいと思う。記憶の桜は、自分が「桜色」に描いた絵だったのか、散り始めて濃いピンク色に見えた実際の桜だったのか、謎である。場所は石川県七尾市の小丸山公園だった。

 さて、ウォーキングは、方々の桜を一瞥しながら、泉北下水処理場の南側を東端まで行って北上し、八田寺(はんだいじ)町の鈴の宮公園という小さな公園を目指すことにする。そこへは冬の間に二、三回訪れたが、春になってからは、まだ行っていなかった。到着すると、公園の池の周囲には、桜がまだなお美しい上に、ハナズオウの並木も濃いピンク色の花をいっぱいに咲かせ、冬とは打って変わった華やかさを呈しているのに驚いた。

 写真は鈴の宮公園入口付近からの眺めである。桜を主役にしたので、ハナズオウは、あずまやの屋根右側の下にちょっと見えているだけである。右上手前に垂れるように見えるのは、ほとんど葉ばかりになったヤマザクラ、左手前がソメイヨシノ。それぞれ名前を書いた札がつけられている。右前方の白っぽいのは何という種類だろうか。もっと前方の同種の木には、単に「サクラ」と書いた札が下がっていた。[後日の注:その後、オオシマザクラと知った。]

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

とら 04/14/2005 07:25
桜にもいろんな種類があるんですね。
大分の桜はもうずいぶん散って、緑が見え始めました。季節が流れるのは早いですね。

Ted 04/14/2005 07:57
 最近の住宅建設では、庭のない家をびっしりと詰め込むように造っています。これでは、人びとが身近に季節感を味わえなくて、気持ちも殺伐としてくるのではと、空恐ろしく思います。

たいへんなことだ

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月21日(月)晴れ

 教務室へ見に行ったら「忌引」となっていて、M・K 先生の時間が休講になったので、遊んだ。
 部分麻痺を起こした二つの機械を北陸新聞社の向かいの病院である日本タイプへ運んだ。行く道みちわがクラブの運営方針についてあれこれと相談しあった。問題はたくさんある。


(Ted)

 放課後、今年度最初の新聞クラブ会合がある。土曜日に新しく入ってきた6名の1年生は、みな同じような背格好で、みな同じようにきちんとした黒い学生服を着て、みな同じように可愛らしいところがある。全員、兼六中出身だそうだ。――重大なことだ。たいへんなことだ。どうしても、しっかりやらなければならない [1]。ローカル番組の「学生の時間」の「学生新聞のあり方」を聞かなかったかい。わが校のIT 先生と FJ 君 [2] が参加して録音してきたものだが。
 英語の時間が始まる前に、松葉杖をついていて昨年1年間休学した KT さんが「物理とっていらっしゃるんでしょう」と、ていねいなことばで話しかけてきた。「はぁ」といって、困った顔もして見せてから、鞄から物理のノートを出して突き出した。土曜日に休んだのでそこを写したいのだろうが、彼女のほかに2年生で物理をとっている女生徒が1人しかおらず、それも何かの都合で借りられないとすれば、ホームが同じであるぼくのところへ来るのも不思議ではない。
 「友だちに会ったときには、僕の家が変わったことを伝えてくれないか」とのことだから、書いておこう。「南広岡町xのxx」これが KW 君の新しい住所だ。Tom に持って行って貰った英文手紙に yet としなければならないところを already としていたが、KW 君だって「君のご健康を礼って」などと書いているから、そう心配することはない。
 祖父の具合はまだ悪い。母は学校から早く帰ってそばにつきっきりである。朦朧々々。

 引用時の注

  1. 私がクラブ代表・編集長に選ばれたのだ。

  2. 新聞クラブの顧問の先生と前同クラブ代表・編集長の先輩。

2005年4月12日火曜日

2005年2、3月分記事への M・Y 君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse" 2、3月分への感想を2005年4月6日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する[後日の注:ブログ復元時の記事・写真の省略に伴い、一部割愛]。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。




1. 高校生時代の交換日記

 Sam と Ted の日常・学校生活、家族のこと、自己の向上を目指しての思索などが息の合った率直な文で書かれていて、感心しながら興味深く読ませて貰っています。お互いが尊敬し合い、批評に対しても相手が何を考えてのことかと愛情をもって考え合う交友関係が、交換日記を継続させたのでしょう。

 日記帳の表紙に書かれた表題 "Which will it grow into, the mud of regret or the pond of joy?" は、よく考えられていると思います。高校の活発なホームルームの様子がよく書かれていますが、私の場合、記憶には残っておらず、クラスで男女別れてスポーツをしたりという、のんびりした時間だったようです。

◎Sam の日記
 Sam は、複雑な家庭事情があったにもかかわらず、快活で、クラブ活動、読書、映画鑑賞、近所の子供との遊びと、とても活動的です。とくに面白かったのは「三つの歌くらべ」に出場したとき、なんと、母に習って憶えたばかりの「ヤットン節」が出て、得意中の得意という表情でジェスチュアたっぷりで歌うと、観衆が愉快そうに笑い、ますます油がのった、これで教科書代を稼いだ、ただ家にいては、このような報酬にはありつけないだろう、「求めよ、さらば与えられん」、と書くなど、勇気と度胸があります。

 上記のくだりを書いた日記(Samの「三つの歌くらべ」出場記)と、「ヤットン節」を離れて住んでいる母に習いに行くくだりを書いた日記(Sam が「三つの歌くらべ」出場に決定)、また、春休みに「快晴!誰だってこんな日には、おおらかな気持ちで散歩したいと思うだろう」と、散歩に出かけた日記(自転車紀行)は、彼の勇気と優しさと大らかさがうかがわれる名文だと思いました。

◎Ted の日記
 小学校時代の小学校時代の隣クラスの級長の来訪、尊敬していた勤勉科学少年の話などに見られる広い交友は、Ted の人柄と努力によるものでしょう。Sam に一緒に訪問することを提案しようと思いながら出来なかった中学時代同期生・Minnieさんと街角でばたり出会ったときの Ted の感動と追憶の日記(奇跡)や、中学時代に習った女の先生を男女の級友と訪問したとき、新しくて小さい生命を先生の腕と胸の間に見たという印象と「先生から聞いた話は童話的であり、小刀が足に刺さる不幸の物語であり、教える楽しみの吐露であった」ことが書かれている日記(春休みに入る)も印象的でした。
 
 「時の有効度」に書かれた「生命の実質的使用量を上げるためには『時の有効度』を増加させるよう努めなければならない」と、「脱皮するには」に書かれた「煩わしくて無用なことを超越するには、そして動揺しない堅実な自己を打ち立てるには、沈黙が方便であり、必要かもしれない」は、以後の人生で貴君が実行してきたものと思います。独自の学習的野球ゲームで、遊びながら英単語を憶える(英単語集で野球ゲーム)とは、よく工夫したものです。

2. 写真

 荒山公園のサンシュユの花は大きな木に咲いていますね。私は昨年のこの時期に、大原三千院の近くで3~4mくらいの根元から枝が四方に出た全枝花盛りの見事なサンシュユを見て、これがサンシュユというものかと感心しました。その帰り道に多くの家の狭い庭先にもサンシュユの木が美しく花をつけており、わが家の庭のサンシュも将来このように美しく成長すればと思いました。

 八田寺町梅園の写真をみて、八田寺は読み方が変わっていることを思い出しました。私はこの付近の団地に2年ほど住んでいて「はったじ」といっていたのを、地元の人に「はんだいじ」というんだと教えられました。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/13/2005 00:00
 いいご友人に恵まれていらっしゃいますね。なかなか羨ましいことです。

Ted 04/13/2005 08:02
 M・Y 君とは大学・大学院の同期で専攻も同じでありながら、学生時代にはそれほど親しくはしていませんでした。50歳台後半ぐらいからでしょうか、私が東京へ行った折に逗子市に住む彼を電話で呼びだして話し合うなどしているうちに、親友の間柄となりました。

四方館 04/13/2005 09:31
若い頃に出逢っていた者同士が、長い空白を経て再会の縁に恵まれると、とてもいい関係ができやすいかもしれません。ずっと心にかかっていたということが、無意識なりにあるのでしょうね。

Ted 04/13/2005 10:32
 若い時には性格が合わないように思っていても、後に再会して意外に合うことを見出したり、年齢とともに互いに変化して合うようになってきたり、ということもあるかも知れません。

『わが谷は緑なりき』

 高校時代の交換日記から。
 
(Ted)

1952年4月18日(金)晴れ、19日(土)晴れ、20日()雨

 三つ重なった日付けの始めの二つは忙しさで、最後の一つは自分に対する叱咤の必要を感じて、何も書けない。
 一昨日からの祖父の風邪は、少しはよい方である。

(Sam)

1952年4月20日()雨

 弟・A と "How Green Was My Valley" [1] の鑑賞に出かけた。細かい雨が強い風で斜めに降ってくるから、上着もズボンもしっとりしてしまった。フィルム未着のため、十時五十五分から「モホークの太鼓」、十二時三十五分から「わが…」だったので、けっきょく二本立て三十円の特別サービス料金ということになったようなものだ。「モホーク…」は一度観たものだったが、インディアンとの数度の戦いの場面がアドヴェンチュアに富んでいて面白かった。
 「わが…」は何とかいう子どもが主人公になって展開される映画なのだろうが、どうもストーリーがはっきりしなかった。彼の脚がふとした事故で歩けなくなったのを牧師の何とかさん(名前は一人も覚えていない。「鹿…花」のウォルター・ピジョンが扮していた)に信仰をもてと教えられて、ついに歩けるようになった話とか、その牧師と彼の姉との恋が鉱山会社の社長の息子のために壊されてしまうのや、労組の結成やスト、あるいは鉱山の落盤などといった事件が中に折り込まれてあった。全編を通じて笑わせられたところは、彼が初めて小学校に通ったときのところその他二場面だけぐらいのものであろう。とにかく、いろいろな社会問題を含んでいた中に、「信仰とはよく考えて行うことである」「金とは貯めるばかりのものではなく、有効に使われなければならないものである」などのことばも伺い知ることができた。
 ニュースも四、五巻あった。もく星号遭難現場の痛いたしい有り様や全米都市対抗アマチュア・ボクシング大会の様子などなどがあった。こんなにたくさん観られたので、帰ったら三時半になっていた。


 引用時の注

  1. 『わが谷は緑なりき』。ジョン・フォード監督による1941年のアメリカ映画。

2005年4月11日月曜日

名残を惜しむ


 つぼみの頃から約2週間、今年はブログ・プロバイダー「エコー」事務局の桜記事募集というイベントのお陰で、いつになく丁寧に桜を見物し、写真もたくさん撮った。昨夜からの雨がけさは止み、きょう4月11日は天気予報では曇りとなっていたにもかかわらず、しばしば陽射しがみられた。いとしい桜たちはどうなっているだろうかと、昼食後、またまた堺のわが町近辺の様子を見に行く。

 最近何度も訪れた津久野南団地の前から歩道橋で泉北2号線を渡り、さらに東へ足を延ばしてみる。八田(はんだ)西町の団地の桜も、なおたくさん咲いている花の中に、花を散らしたあとの蕚の赤色や、出始めたばかりの葉の緑色が混じり合って、微妙な美しさをかもし出していた。

 そこから少し北上すると、毛穴(けな)町というのがあり、そこの八田荘西小学校の校庭にも大きな桜の樹が何本もある。低いところにも多くの花をつけた枝々があり、それらが道路近くまで張り出している。薄日の当たり方も枝を撮影するのに好都合な具合だったので、きょうの桜の代表的な様子をクローズ・アップでとらえたのが上の写真である。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/12/2005 12:34
 私も10年ばかり泉北のニュータウンに居たので、Ted さんお住まいの周辺情報には、懐かしい風景が甦ることしばしばです。

Ted 04/12/2005 14:50
 泉北ニュータウンには、元上司や何人もの元同僚たちも住んでいますが、そちらまで出向くことは滅多にありません。同じ堺市内でも別地帯といった感じです。

『地球の静止する日』

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月19日(土)曇りときどき雨

 書道は五ヵ条の注意を与えられた後、「澄心對聖賢」という五字の練習をした。書道というのを二年間やっていなかったのだから、まったく要領を忘れてしまっていた。筆の持ち方から、コテンコテンに直された。

 惜しいかな、M・K 先生の時間がつぶれて A になり、例のように無競争で決定した生徒会会長、副会長、執行委員の就任挨拶があった。会長には紫中で吉尾先生の教室の一部を新聞部で獲得した頃、眼鏡をかけた三年生がいたが、その彼が就任した。トンチと呼ばれていたが、本名をご存知かな
(1)。現在は卓球部のマネージャをやっている。街頭宣伝をやっている××党々員のような口調でおごそかに威厳ある声で叫んだ。帰るとき Keti と一緒になり、聞いたら、「始めはえらいシケタやつがなったもんやと思うて、手もたたかんとゲラゲラ笑うとったが、半ば頃から感心して聞いとった」ということだった。
 ぼくは今年度も執行委員にまつりあげられてしまった。挨拶にはへんちくりんな副詞ばかり並べておいてやった。一度笑いがやまなくて、次の言葉が出なくなってしまったりした。べつに、あがるということはなかった。


 『地球の静止する日』を鑑賞に行く。ロボットの目から発する閃光が鋼鉄製の武器を焼き払ったり、巨大な宇宙船があったり、驚嘆すべき威力が示されていた。それに、現情勢下における思想の冷たい対立を風刺していた。
 われわれの地球から離れて、地球を広大な宇宙の中の一点として眺めれば、わが国土である日本は何と小さいことよ。そして、その中に水の分子のようにある一人ひとりの人間! あゝ何と微々たる存在よ。われわれが毎日あくせくしている日常のトラブルも、いかに微細なことだろう。しかし、われわれよりまだまだ小さな動物があり植物があり、バクテリア、ヴィルス等々、極小を考えるにも際限はなかろう。
 このようなことは日頃しばしば考えることであり、Ted も幾度か書き記しているのだが、この映画を観て、とくに現実的な対象として考えざるを得なかった。(こんなとき例の熟語を使って、"I could not but think." といってもよいのだろうね。)


 (1)[Ted の欄外注記]これより13日前に「肩を叩いて…」と書いたばかりじゃないか。会長になるとは思わないで、ごく気軽に(会長だからといって気がねをする必要はないが)やったものだ。

2005年4月10日日曜日

葉が出て散り始め


 4月10日、天気予報は晴れのち曇りだったが、午後になっても日が射していた。ただ、風が強い。昔見た映画「シベリア物語」の中の吹雪の場面を思い出すような音さえ立てて吹いている。その風の中を、さる5日づけ桜記事中に、その日訪れた桜並木の一つとして名前だけ挙げておいた浜寺元町・浜寺中池の縁の桜を見に行く。並木の両端の、早く咲き始めていた木々は、もう葉が出て、花びらを散らし始めている。

 並木が池の南側にあり、道の南側は家が建ち並んでいる(先日、一軒の大きな家が取り壊されていたことを記したが、そのすぐ南にも家がある)ので、並木を視野に平行に近い形で見るには、池の西側の道路沿いに少し北へ行くしかない。しかし、そちらから写真を撮れば逆光になり、さえない。しかたなく、並木の西端から並木全体をねらって撮った(上の写真)。手前の路上に見えるピンクの斑点が、散った花びらである。

 山中渓浜寺公園のような桜の名所でも、意外に気に入った写真になる場所が少ないと思った。それでも、たくさんの木々があれば、ここほど限定されてしまうことはない。――しかし、わが家の近辺の桜たちも、これでなんとか無事に紹介できた。――

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/11/2005 11:13
 うちのマンションはちょうど小学校の正門と面接しています。正門横に、樹齢はまだそれほどでもないようですが、桜の樹があり、表へ出ていく際には必ず眼に入ります。昨日の朝は、いまが盛りとばかり咲き誇っていたのに、今朝はもう、昨日からの時折吹いた強い風のせいでしょうか、散り初めどころか、きっぱり半分ほどに…。今年の見頃は短時日だろうとはいわれていましたが、あまりにもあっけなく潔すぎます。無常や儚さを感じつつもの想いに耽るいとまもないではありませんか。

Ted 04/11/2005 16:28
 そんなに早く散りましたか。わが家の近辺の桜は、きょう、まだそれほど散っていませんでした。

男子だけのための話

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月18日(金)晴れ

 国語乙は女生徒がツ反応検査でいなかったので、予期した通り男子だけのための話がなされた。ぼくの右隣の、左と右で1.0もの差のある視力をもった生徒が「宗教学校みたい!」と、感想をもらしていた。自己反省と青年期における信仰についての話だった。『奥の細道』のテキストがまだ来ていないことから始まり、北鉄のストのため先生がいつになく早起きをして、鞄を肩からかけ、遠路を一種のファイトを感じながら登校したこと、そして、このような試練は文明が進めば進むほど人間の肉体にとって必要であることをいわれた。次に、黒板に「リーダーズ・ダイジェスト」の何月号かに載っていた「自己修養と向上のためのプランの一例」を、一つ一つに説明を加えながら書かれた。
 日 教会へ行く、ラヴリーな手紙を友人に送る
 月 昼食を抜く
 火 乗物に一切乗らない
 水 愉快な話をする、苦手と思うことをする
 木 下着の洗濯
 金 ……
 土 ……
日曜日の説明は、とくに詳しかった。「信仰の自由」ということは、マッカーサー元帥の考えでは、何びとも何らかの信仰を持っているという前提の下に、信仰するについては如何なる信仰であっても自由であるとしていたのに対し、日本人の考え方としては、信仰をするのもしないのも自由である、といったふうに、とくにインテリ階級といわれる人びとの間に、このような「一段低い考え方」の人が多いと、非難された。「ラヴリー」についても、これは性的な意味を含んだものではけっしてないはずであって、万人に及ぼす類いの、深いものでなければならない、と説明された。火曜日のところでは、フォードの私立小学校での教育方針にまで話が及んだ。金、土曜日の「……」は、先生もこう書かれたのであって、残念にも忘れてしまわれたそうである。
 さらに、青年の宗教に対する不安について「一度宗教を信じるようになれば、恋愛も!(数秒おいて、気の抜けたように)焼き芋を食うことも、一切ができなくなるのではないかぁ? この青年期のあふれ出る若さの泉が涸れてしまうのではないかぁ? と諸君は思うだろう。しかし、諸君」ここで女生徒がどやどやと入ってきたので、話の腰が折られて、もとのテキストの話へ戻ってしまった。

 "I kissed my hand to her again and again." という文がリーダーの第二課にある。どんなふうに説明して貰えるかなと期待していたが、「誰か知らないかね。キスにもいろいろ種類があるそうだけれど、先生にはこんな真似はできっこないが、投げキスのことだね。お月様とキスするということ自体から考えても、だいたい見当はつくだろうがね」ぐらいのことで済んでしまった。
 58 cmで、ぼくはサージャント・ジャンプの最高記録を作った。たいていの生徒は40 cm 台だった。予想外によい記録なので、何だかよい気持ちがしない。アンフェアなことをしたように思われそうな気もするし、自分でもそれを真っ向から否定できない。しかし、ほとんどの生徒は手を斜めに上げたり、十分に伸ばさないで印をつけていたし、一度バウンドをつけてから跳び上がっているのもほとんどだった。ぼくの跳び上がってつけた印はレッスン・クラスで一番背の高いチョーロ君(どこへ行ってもあるあだ名だ)より2 cm くらいしか違っていないのだから、ぼくの能力はそれだけあったのだろう。
 六限後、正面玄関でホームの写真を撮った。他のホームの生徒たちが笑わせるのと、ぼくたちのホームは人数が多くて窮屈だったのとで、なかなかうまく撮れなかった。

2005年4月9日土曜日

堺の桜名所、浜寺公園賑わう


 4月9日、好天気と桜の満開と週末と3拍子が揃った。わが家からは、JR 鳳駅から一駅で終点となる東羽衣線に乗って東羽衣で下車し、少し歩けば、大阪府堺市の桜名所の一つ、浜寺公園へ行ける。昼食後に出かけたのだが、花見の人びとで一杯の公園には、バーベキューの匂いもただよっていて、食欲が刺激される。

 南側入口付近から中央入口付近まで、浜寺水路に近い園内の道に沿って松並木と桜並木が幾重にもなって続く。その間、約750メートル。水路脇の道を少し戻ってバラ園へ裏口から入り正面から出て、もう一度中央入口付近へ行く。少し南へ下がると、松の木も見える浜寺公園らしさと人の多さと桜の満開の様子とを、まとめてカメラに収められそうな場所があり、シャッターを切った。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 04/09/2005 20:04
 浜寺公園は松の木だけではなく、桜の名所でもあったのですね。しかし最近は花見というと必ずバーベキューしてる人たちがいますが、桜の花の華麗な「はかなさ」とバーベキューの「濃さ」とは何かアンバランスなような…。いや、私もバーベキュー自体は好きなのですがね…。

Ted 04/10/2005 09:03
 私の元職場にも立派な桜の木々があり、春には決まって研究室毎に花見をしたものです。準備は助手や学生任せで、バーベキューやキムチ入りの鍋物とか…。

T・T 04/09/2005 20:09
 私は大泉緑地まで5分くらいの所に住んでいて、「浜寺公園」て聞いた事ありますが、行き方も分っていませんでした~。今度、機会があれば行ってみます。

Ted 04/10/2005 09:12
 私は数年前に大泉緑地まで徒歩で30分くらいのところに数ヵ月仮住まいをしたことがあり、その間何度か、そこをウォーキングの目的地として訪れました。仁徳陵・大仙公園へも20分程度、地下鉄なかもず駅も近く、便利でした。

とら 04/10/2005 02:18
 私が住んでいる近所の公園も桜が満開です。お花見をしたいのですが、一人なのでつまらないです。ひとつのものを一緒に見て「きれいだね」って言える家族ってありがたいですね。

Ted 04/10/2005 09:18
 先日、山中渓へ行ったときは妻と一緒でしたが、浜寺公園へは一人で行きました。写真をたくさん撮ったりするときは、一人の方が気楽です。とらさんも、一人でもそれなりの楽しみ方ができると思いますよ。

なんぼ春だといっても

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月17日(木)晴れ

 二限は二年男子のツ反応検査で休講になり、三限は三年男子がそれをすることになっていたので、三年男子が半ばを占める時事問題も休講、五限はまた、先生が欠勤されたので休講となり、一日の時間割の1/2は授業がなかった。
 なんぼ春だといっても…。もはやプールで泳いでいる連中がいた。きょうのように、砂ぼこりで鼻も口もカスカス、カラカラの状態になる日には、その生理現象を調整するのに好適かも知れない。微生物の繁殖がほとんど肉眼で認められないプールの水面を泳いでいる肉体は、透視できるのではないかとさえ見えた。さざ波がきらきらと輝いて、わずかばかりの水気を含んだ涼しい風が吹いて来るのが感じられた。ホームが授業に使われていなかったので、そこで低俗な雑談が行われていた。内容はホームの旅行か何かだった。「くじ引き」とか「割り勘」とか「一対一」とか「美男子」とか、そんな名詞が使われ、その間あいだに、何とも形容しがたい笑声がまき起こっていた。
 きょうは風の吹き方も変わっているらしく、珍しく卒業生の NK 君が、卒業するときには見なかった装飾品を鼻の上にかけて、自転車でやって来た。ちょうど、ぼくが休講でぶらぶらしているときに来たとは、双方にとってありがたい存在物を見つけたわけだ。新品の革靴を買ったら、何々代もないとか、このバックルはゴットン品だとかの話や、クラブの今年の予算獲得の問題など、話の材料はたくさんあった。

2005年4月8日金曜日

いま満開、堺市のわが町近辺


 4月8日、天気予報では朝のうち曇っていても、次第に晴れるようにいっていたが、曇り空の方が写真が撮りやすいかも知れないと、午前10時半頃、近辺の桜を撮影に出かけた。歩いているうちに、空は次第に明るくなってきたが、まだ、晴れとまでは行かない。

 笠池公園、堺上高校の桜並木をまず撮影する。どちらもほぼ満開である。開花を待ち焦がれていたのがいつのことかと思われるくらい、咲きだしてから満開までは早い。満開の様子をそれらしく伝える写真を撮るのは、咲き始めを知らせる写真を撮るより難しい。

 さらに足をのばして、津久野南団地脇の桜並木へ行く。並木の大部分が見えるところまで南下して振り返り、北を向いて撮ったのが上の写真である。

 写真の右手に川が、さらにその右に泉北2号線という道路がある。道路の東側へ行けば、並木全体が画面の左右に拡がる形に撮影できるが、団地の建物や川の石垣が大きく入って、桜の迫力が出せない。並木のところどころに大きな間隙のあるのも、そのまま写ってしまう。採用した写真は苦心作である。

 団地から泉北2号線を隔ててやや北に、泉北下水処理場がある。その構内には木が多く植えられており、桜も何本かあるが、桜並木の形にはなっておらず、わが町近辺の満開を知らせるような写真にはなりにくかった。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

poroko 04/08/2005 23:07
 見事です。薄いピンクがずーっと向こうまで続いてます!! この季節が来ると桜は格別な花だと思いますね。最近読んだエッセーでは、日本人の花見に対する気持ちを誉めていました。気温や天候で花の時期が短くなったり予定よりずれてしまっても文句をいうどころか限られた中でせいいっぱい楽しもうとする「心」がいいそうです。

Ted 04/09/2005 08:07
 桜には太平洋戦争の思い出もあります。「予科練(海軍飛行予科練習生)の歌」というのがあり、その中に「七つボタンは桜に錨」という言葉がありました。日本の兵隊が桜のようにいさぎよく散る(戦死する)ことを求められた象徴です。私が小学校3年生か4年生(4年生の夏に終戦)のとき、大連で同居していた従兄(大連実業学校の最上級生だったでしょうか、いまの高校1年生か2年生です)が予科練に招集され、そのまま帰らないかと悲しい思いをしました。従兄は幸い戦場へ行くことはなく、戦後再会できましたが。

テディ 04/09/2005 16:03
 私の親父も鳥取の美保航空隊に予科練で行っていましたが、結局実機に一度も乗ることも無く終戦を迎えたそうです。しかしいさぎよく散る桜が日本人の心情によくなじむことはわかるのですが、生還することを前提とした欧米の軍隊と比べ、戦死することを最高の美学としたわが国の軍隊は、最初から敗北するための軍隊であるように思えてなりません。

Ted 04/09/2005 20:29
 テディさんのお父さんも予科練に行かれましたか。先日、太平洋戦争中に作られたアメリカの映画をテレビで見ました(ちょっと題名を思い出しません)が、その中で日本を軽く揶揄しているような場面がありました。その頃日本では「鬼畜米英」とかいって、必死に戦っていたのですから、ずいぶん力に差があったわけです。

天から暖かく注ぐものがあまりにも


 上のイメージについては引用の高校時代の日記中にも記してあるが、私がたまたま会合で見かけて記憶していた Sam の世界史の先生、M・K 氏の面影を描いたもの。日記帳にしていたノートの1行の罫線内に小さく描いてあったものを拡大してある。

 高校時代の交換日記から。
 
(Ted)

1952年4月17日(木)晴れ

 天から暖かく注いでくるものがあまりにも豊富なために、それを直接受けたり、その乱反射を受けたりしたものは、その働きによって伸ばされ、屈曲し、歪んだ姿のままで固定されてしまいそうでああう。じっさいに、そうなっているものもある。鞄から出した教科書やノートがそうである。全ページが表裏の両表紙とともにペコンペコンと凸面や凹面を作る。まだある。われわれの心がそうである。こう書いているうちに少し治ってきたが、下校直後のぼくの身体もそうだった。ガラス戸越しに見える前の道路で、砂じんが舞い上がっている。桜の散る様子がここからは少しも見えないことが、心を屈曲させたままに放置して忘我の域にあるぼくに、借り間の縁からの眺めが殺風景だという、ぜいたくな考えを起こさせる。

 M・A 校長の講義は分かりやすいものだったが、"A Legend of Izumo" の最初の一文章で1時間のほとんどを使って教えられた文法事項は、よく知っていることばかりだった。体操は使い込まれたバットのような感じの IN 先生になった。解析 II の時間は、SNN 君との間で二、三日来問題になっていた1、2、3、...、n の各4乗の和を求める式を作るのに不可思議な違いが生じたことの原因――ぼくが5を10としていたのを SNN 君がその通りに写し、それ以後を銘々がやり、「それ以後」のところで違ったのだろうと思っていたのだった――を追求する内職と、「あるいは」を「あるひは」と発音される K・B 先生の講義に耳を貸すのと、半々にした。物理は、隣の席にいた SNN 君が「Vernier の原理の説明、分かった?」と小声で聞いたほど、誰にとっても難しい講義だったが、理解は完全にできているから大丈夫だ。
 母が適切な表現をしていたが、なんというのだったろうか――話すときは少しおどけて見える小さめの頭で、眼鏡の奥の小粒な目もくるっとしていた、顔色は――そうそう、「勝ち栗」だった――こんな容貌の MY 先生は、自分の名前を黒板に書くときに「めちゃくちゃ」と、あだ名を自ら讚えながら添えられたり、"THE FIRRRST GLACIAL TIME" と、坂東亀三さんのようにr の音を大いに響かせて話されたりと、英語の I・S 先生と違いながらも似ているところがある。また、ことばがよどみなく流れ出すあたりは、Sam の M・K 先生もこんな調子かと思わせられた。M・K 先生は高文連新聞研究会の時に来ておられたのを見たけれども、上の絵のような、いや、これよりももっと落ち着いた感じの先生じゃないかい?
 SH が長くなり(これじゃ SH といえないが)、その時間に議員とホームルーム委員を選んだ。選挙管理員(選挙規則第4条違反があったので、昨日選び直されたが、またまた、ぼくがなってしまった。野田中の生徒会会長だった NS 君や紫錦台中後輩でやはり会長をしていた EG 君も、このつまらない役に当選している。NS 君は昨年度に引き続いてである)の仕事ぶりは、言葉遣いと態度が自分でもやや不愉快なものになったが、両隣のホームより数分早く済ませるという手際でやってのけた。Neg が7票で議員に当選した。2人目は UE 君と HT 君の6票だったので、選挙規則第14条を行使した結果、UE 君が多数を獲得した。
 "How to Write Good English" の Book 1は KT 先生の英文法の時間に、G&C に先立って習うのだが、Book 1とはいえ、G&C の Vol.1にはなかったいろいろなことが書いてある("The longer the day is, the shorter the night is." が訳せるかい?)(1)。だが、89ページのうち、50ページまでもうやってしまった。学校では Exercise をすっ飛ばして説明だけするのだが、先日1時間で6ページ進んだ。

[Samの欄外記入](1)「昼はだんだん長くなり、夜はだんだん短くなる」ではいけないかい?
[Ted]「昼が長ければ長いほど、夜は短い」だ。

2005年4月7日木曜日

ひらひらひらひら花びらが

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月16日(水)晴れ

 ある生徒たちにとっては一学期に一度あるかどうかと思われる大福音の日だった。風こそ強いが、桜を始め春の花ばなが匂いうるわしく咲いていることであろう。午前中だけ学校にいて、タイプをした。リーダーや G&C のコピーを何回も打った。それらの本を持たないもののためにである。

 ひらひらひらひら
   ひらひらひらひら
  花びらが 花びらが
 あれあのようにあのように
  舞いおちる 舞いおちる
 あゝ あれあれ あのように
  ひばりが ひばりが
   ひばりが舞いあがる 舞いあがる
 あの丘も あの山も ――
  そうだわ そうだわ
 わたし わたし わたし
  あゝ わたし幸福だわ!

 なぁーんだ。先々週まで足かけ四年にわたって続いた連続放送劇のヒロインのようなセリフだ。といえば、この頃妙に短編小説のようなものを書きたいという要求が起こっている。一昨夜と昨夜見た夢なども、そのよい材料になるものだ。しかし、それだけでは、まだまだだめだ。さらに深く、緻密に、あらゆる角度から調べ上げなければならない。それでも、まだまだ何か足りないだろう。

 いつもとはコースを変えて消防署の向かいの坂を昇り、石川門のところに立ち止まってみる。咲き揃った花ばなの美しいこと、美しいこと――。
 一群の人びとが何かを囲んで立っていた。哀調に満ちたギターのメロディーが流れている。義足をつけた白衣の人びとのかき鳴らすものだ。「聖心会」という腕章をつけた若い女性がハンケチをかぶせてあるマイクに向かって「異国の丘」や「湯の町悲歌」などを素人くさい歌い方で歌っていた。
 紫錦台中学の前で AR 君に会い、NW 君が弘文堂で働いているということを聞いたので、自転車を返そうとしたとき、Ted と KZ 君が一緒に歩いて来るのを視野に認めたわけだ。KZ 君の間近で、当分別れることについての挨拶か何かしようかと思ったが、すばらしいことばも浮かんで来なかったから、出しゃばってかえって悪い印象を与えるよりもと、きわめて消極的な態度を取ってしまった。でも、いまから考えると、恥ずかしいような済まないような気もする。

2005年4月6日水曜日

阪南の桜名所・山中渓


 4月6日、晴れてはいるが、霞がかかったようにやや白っぽい空だ。花曇りというのだろうか。昨日から暖かくなっていることでもあり、一昨日ラジオで三分咲きといっていた山中渓の桜はもうかなり開いているだろうと思って出かける。わが家からは JR 阪和線で30分あまり南へ行けばよい。

 和歌山県に入る手前の山中渓駅で下車する。ここは阪南市に属する。約千本の桜があるという名所で、まだ五分咲き程度だったが、かなりの人びとが見物に来ていた。観光バスも2台あった。

 桜並木は JR の駅の両側からすぐに始まる。線路の東側に沿って北上し、並木の切れたところで橋を渡り、線路の反対側へ出る。そして南下しながら、今度は川の両岸の並木を楽しむ。ちょうど昼時にかかったので、土手で弁当を開いている人びとを多く見かける。JR の駅よりもいくらか南まで来て撮ったのが、上の写真である。

 さらに南下して橋を渡り、再び線路の東側へ出る。駅の近くまで戻ったところの右、山手に「わんぱく王国」という、子どものための遊び場があり、小高い山の頂上への登山道の入口にもなっている。きょうは、そこで桜祭りの一環として、筝と尺八の演奏が午前と午後に1回ずつ行われることになっていたが、残念ながら時間が合わなくて、聴かないまま帰路についた。

石器時代の政府研究機関

 先日、朝日新聞の「私の視点」欄に名古屋大・太陽地球環境研・上出洋介所長の投稿 [1] が掲載されていた。政府の科学技術政策の骨格である第2期科学技術基本計画が2005年度に最終年を迎えるにあたり、第3期計画策定作業に向けてなされた貴重な提言である。「科学技術とは、科学と技術であり、両者は車の両輪であって、そのバランスをとることが大切だが、現代の科学技術には科学の視点が軽視されている。重点分野を選ぶ戦略は有効だが、基礎科学という土台の存在を忘れてはいけない」という主旨である。

 基礎科学の重要性は自然科学分野のノーベル賞を受賞した日本の学者・研究者たちが受賞のつど強調してきているが、政府や行政機関の人びとはそれをすぐに忘れてしまうようである。研究者の側からの間断のない発言が必要である。

 自然科学にまつわるいろいろな挿話を集めた本 [2] の中に、J・J・トムソン(1856–1940)が基礎研究を擁護した短いスピーチが紹介されている。J・J・トムソンは、1987年に陰極線が高速で移動する粒子(電子)であることを明らかにし、1906年にノーベル物理学賞を受賞した人である。そのスピーチでトムソンは、第1次世界大戦中に体内の弾丸を見出すなど、医療に威力を発揮したX線の発見(1895年、レントゲンによる)が、電気の性質を知ろうとする純粋科学によってなされたという例を挙げて説明している。また、彼自身が、もっと「有益な」研究をするように勧められたにもかかわらず、レントゲンが行ったのと同様な研究に、ほとんど一生を費やしたことをも述べている。

 このスピーチよりもっと短く、しかも、もっと印象深く基礎研究の重要性を説いたトムソンの言葉も、上記の話の下にカッコ書きで紹介されている。「石器時代に政府の研究機関が存在しておれば、すばらしい石斧が作りだされただろうが、誰も金属を発見しなかっただろう」というものである。技術の新しい発展には基礎科学が不可欠であることと、行政の目が技術偏重に陥りがちであることが、このユーモラスな一言に要約されている。

 なお、昨日の朝日新聞夕刊に梶原拓・前岐阜県知事の言葉が「基礎研究の支援も自治体の役割」という題名で記事になったいた [3] が、ロボットの研究機関を誘致したという話であり、普通にいう基礎研究とは中身が異なる。すぐには実用的に役立たないロボットもあるだろうが、それも応用研究の部類と見るのが普通である(応用基礎研究という呼び方もある)。


  1. 上出洋介「科学技術政策:基礎研究重視した予算に」朝日新聞 (2005年3月25日).

  2. J. J. Tomson, "In defense of pure research" in A random Walk in Science, ed. R. L. Weber (Institute of Physics, London, 1973).

  3. 「基礎研究の支援も自治体の役割」朝日新聞夕刊 (2005年4月5日).

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 04/09/2005 12:01
 昨日読んだ司馬遼太郎「『昭和』という国家」(1999年日本放送出版協会、NHK の番組「雑談『昭和』への道」での司馬氏の発言をまとめたもの)の中にアメリカのジャーナリスト、フランク・ギブニー氏(ドナルド・キーン氏やサイデン・スッテッカー氏と同じように前大戦中、米海軍の日本語学校に入っていたということです)の著作の中に「日本は職人を崇拝する社会だ」という言葉があったそうです。大陸から渡ってきた仏像、社寺を作る技術。農耕の技術。ポルトガルから来た鉄砲もすぐに自分たちで作った。そういう「技術崇拝信仰」というものが日本人には根強くあるのでしょうね。反面基礎科学の研究は立ち遅れていたように思います。日本における基礎科学研究の歴史については、私は勉強不足なのでよくわかりませんが。基礎科学の優れた研究者がどんどん出現する社会になってほしいですね、これからの日本は。

Ted 04/09/2005 20:22
 日本における基礎科学研究は、歴史に残るような事項が少ないようです。江戸中期の本草学者・平賀源内がエレキテル(摩擦起電機)を自製して治療に応用したとか。江戸後期の儒医・三浦梅園が自然と宇宙を支配する物理法則「条理」の存在を提唱したとか。同じ時期の蘭学者・志筑忠雄が「暦象新書」を著したのが、わが国における物理学関係の最初の系統的な本だとか。そのあたりが最も古いところですが、いずれも西洋から学んで紹介した程度です。

別れ

 高校時代の交換日記から。
 
(Ted)

1952年4月16日(水)晴れ

 国語甲の時間の作文の題の広い限定条件として HR 先生が選んだ気候による年区分の一つは、ぼくの上に何といくつもの事件を持ってやって来ることだろう。

 Twelve(MRR君)や Jack と次のように語り合ったことがあった。
「また、ウソだろう。」
「その日になって、ノコノコ学校へ来たら、お前どうしたがや、といってやればいい。」
「明星学苑たらて、少年小説に出てくる名前んないかい。」
しかし、本当に KZ 君は去る。いまや彼は去る。
 KZ 君の家の前で二度彼を呼んだときも、半信半疑だった。ぼくには直接知らされなかったのだから。彼の母でない女の人が取り次いで、便所へ入っていますから待っていて下さい、といった。彼との間にどういう場面を出現させなければならないかを考えながら、一歩玄関へ入った。待っていると、寿司をつくる酢の香りが鼻と一緒に涙腺を刺激しそうな勢いで、ぼくを取り巻き始めた。これは確かだ、そして、いますぐにも去るのかも知れない、と思った。だが、先に来ているはずの Jack と TKR 君のいる様子がない。また、いぶかってみた。そうするうちに KZ 君の頭が、次に胴が、そして脚が見え、近づいて来た。彼は「家は汚くしているから」といって、階段のところにあった帽子を手にした。
 歩いた。立ち止まった。大学病院前のスズカケ並木の通りの角までしか来ていない。そこへ来るまでに、彼は「君、東京へ来ることないか」のほか、大学、金、実力、君のお母さん、誤解、などの単語を、例の神経質な糸で、もの悲しくつなぎ合わせていっただけだった。ぼくは「え?」と「さぁ」を一度ずついっただけだった。立ち止まったところで、彼は「何もいうことないわ」ともいった。われわれが知り合ってから何年になるとか、Twelve によろしくいってくれとか(中学1年のとき、KZ 君と Twelve の間に感情的対立のあったことがあった)、「こんなことをいってあさましいようだが、」と断って「手紙を下さい」とか、…。そのほか、無言の中にも多くのことを、ぼくは聞いた。電車の音も、人びとの足音も遠いものに感じながら。
 この場面のあらゆる詳細を――KZ 君が思い出したように上着のボタンを下から二つかけたが、まだ一番上のがかかっていなかったことを始めとして、彼の顔や手の動きから、われわれ二人のぽつんと立っている様子を眺め下ろしている空の様子や、われわれが別れのための会見をしているのだとは一向に気づかないで傍らを流れて行く通行人たちの姿や、電車の架線の揺れ方まで、――すべて記憶しようとしたが、まったくダメだった。

 ほかにも昨日からきょうにかけて、有益なことがたくさんあり、それらについても書きたいのだが、忙しくて書けない。

2005年4月5日火曜日

なるほど、こういうふうに書けば

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月15日(注)(火)雨

 Ted の日記を読んでいると、「なるほど、こういうふうに書けば」「うん、ぼくの方もこんな状態だ」と思うのだが(これだけ書けば、先週水曜日に Ted の書いたことは、ぴったりとしていることになる)、Ted のような表現が出来ない。

 Octo が Ted とよく似た字を書くのは、Octo が筆ぐせを真似たからだろうという者がいる。Octo にしてみれば、Ted の筆体の中に優れたものを認め、同化に努力したのであろう [2]。ぼくにはそんな芸当はできない。いくらかの感化は受けたかも知れないが、合流することは個性の存する限りないであろう。また、完全に合流すれば、われわれはまったく意志の交換を行う必要はなくなる。このようなことについての思索は Ted に任せた方がよい。ぼくは、その原因と経過のあらましと結果を聞いて同意するであろう。

 授業は二限まで。二限後、男子は第一体育館に集合し、身体検査を受ける。KN 先生の支持通りに行かなくて、何もかもたいへんな混雑ぶりだった。いわゆる「要領のいい者勝ち」で、あちらでもこちらでも never-ending line を形成していた。とくにひどかったのは、eye examination と X-rays だった。きょうの結果に基づいて計算すれば、

 比体重三二・九、比胸囲四七・二、比座高五四・八となる。
 なお、身長はアカキ・ウである。

もしも Ted が優れた心理学的思索力をもっているならば、この二行によってぼくの大部分が分かるだろう。もう一つ、書き加えなくてもよいものを書き加えておくが、ぼくの視力は昨年と何ら変わっていなかったよ。

 (注)
(欄外に記入してあったもの)十五日に交換したことにしておこうや。[1]

 引用時の注

  1. 4月16日に日記帳を交換したので、こちらのノートには、本来4月15日付けがないはずのところ、さかのぼって書いたということだろう。

  2. 事実は逆で、私が中学1年で Octo と同級だったときから、彼のかなり右上がりで整った筆跡を真似ていたのであった。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/06/2005 09:22
 私も筆跡に対して意識がいくようになったのは小6から中1の頃でした。身近なところで長兄や次兄の筆跡の模倣からでしたね。長兄は極端な四角字タイプ、次兄はかなりの右肩上がりの字形。いろいろ試してみたものです。そういえば、中学の頃は、特徴のある綺麗な筆跡は非常に伝播力がありましたね、特に女生徒たちの間では。この頃に、その人の筆跡はほぼ定まってくるのでしょうね。

Ted 04/06/2005 15:13
 私は大学1、2回生のとき、法学部にいた字の上手な親友からも、なお影響を受けました。私の母は、くせのない奇麗な字を書きましたが、くせがなさ過ぎて真似しにくかったのか、私はあまり見習いませんでした。

小公園の若い桜の木


 4月4日、空を仰いで見渡しても、雲はごく小さいものが数個、ふわりという感じで浮かんでいるだけの快晴となった。しかし、風はまだ少し冷たい。しばらくご無沙汰していた北行きのウォーキング・コースをたどってみる。わが家から北へ JR 阪和線の鳳駅まで約2 km、さらに約1 km北北西へ行くと浜寺元町になる。そこに二つの池が隣接して存在する。北側を門之池、南側を浜寺中池という。後者の南端に沿って十数本の桜が並木を作っている。

 驚いたことには、並木から道路を隔てて南側にあった黄土色の大きな鉄筋コンクリートの家が、いつの間にかすっかり取り壊されて、そこは空き地になっていた。人の出入りもほとんどなさそうで、いくらか不気味な家だった。並木の両端の桜は一、二分咲きになっていたが、間の木々はまだ咲き始めていない。これでは、面白い写真にならないと思って引き返す。

 浜寺元町の南は鳳中町。その北のはずれに第1鳳中町公園というのがあり、そこへ寄る。公園といっても遊園地程度のものだが、桜の木は2本の大きなものと、3本のまだ若くてごく小さいものとがある。小さい木々の小枝が私の背丈程度のところに花を咲かせ始めているのは、いかにも可憐であり、抜けるような青空をバックに、その風情をカメラに収めた。

2005年4月4日月曜日

いまも頭に浮かぶ侵略戦争賛美の歌

 先日、何かの拍子に次の歌が頭に浮かんだ。

行け行け軍艦
日本の
国の周りは
みんな海
海の大波
越えて行け

太平洋戦争当時の小学校(国民学校と呼ばれた)の音楽の教科書にあって習ったものだろう。

 次のようなのも習った。

軍旗、軍旗
天皇陛下の
御手ずから
お授け下さる
尊い軍旗

現東京都知事や都教育委員会の喜びそうな、旭日旗を讚える歌である。私が3年生で大連市嶺前国民学校へ転校して間もない1944年の秋頃、同じクラスの S 君の朗読と、担任の M 先生のピアノ伴奏による何名かの出場者の斉唱によって、大連放送局から放送された記憶がある。

 さらに次の歌も思い出す。

海行かば
水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば
草むす屍
大君の
辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

この歌の作詞は大伴家持というから、古い。作曲は信時潔によって1937年になされたそうだ。

 このような侵略戦争賛美の歌が、敗戦後60年のいまでも私の脳の記憶場所を占めていることは、子どもに対して歪んだ教育をすることの恐ろしさの証しというべきであろう。幸い私にあっては、これらの歌は記憶の深淵に沈んで、滅多に浮かび上がっては来ない。しかし、抹消はできない記憶である。

 注:四方館さんのブログ記事「ふりかへるふるさとの山は野は暮るゝ」(本文は、「<戦後60年、語り継がれるべきことひとつ> 4月3日付、毎日新聞の読者投書欄「みんなの広場」に、『戦後60年…今も自責の日々』と題する一文があった。…」と始まる)を読んだことを契機に記した。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/05/2005 14:31
 そうですね、「海ゆかば」は家持でしたね。家持は、国司として各地を転々としているし、詞からは、望郷の想いを感じるのですが、私などは…。
 作詞の信時潔は、母校の大先輩になります。戦前の母校は自彊精神を謳い、軍事と野球とがセットになった、いわゆる文武両道の伝統校のひとつだったようです。

Ted 04/05/2005 15:22
 「海ゆかば」は、本来は望郷の歌でしょうが、陸・海軍の軍人は死をもいとわず天皇に忠誠を尽くして戦うべきである、との教えに悪用されていました。
 四方館さんの母校は、そのような伝統校でしたか。

ぽち 07/24/2005 02:35
 大和ミュージアムが軍国主義賛美の軍事博物館らしく、海ゆかばとか館内に流している。こういうミュージアムは、反核運動で結集した世界の人々の手で展示内容を変更させるべきでしょうね。

Ted 07/24/2005 13:17
 そうですね。そして、軍国主義賛美の極めつきは、靖国神社の遊就館です。

学位論文のこと

Yさん

 メール拝見。何人もの先生方に気に入られたとは、ご立派です。博士論文作成もすらすらと進むことと信じています。

 ご専門の分野では、350枚が基本ですか。私が学位論文を提出した物理学分野では、専門誌に単独名で掲載された主論文一つと、ほかに何編かの副論文があればよいということでした。

 私は修士課程を終了して就職後6年目に、就職先の大型実験装置を使っての研究によって学位論文をまとめたのです。相前後して就職した同僚たちも何年か後れて同じ装置による研究で学位を取りましたが、私がその装置で学位を取った第1号でした。

 私が6年もかかったのは、次のような事情によります。その大型装置で精密測定をするには、その装置で加速された電子線の中から、エネルギーの揃った電子を電磁石で選び出し、分厚い放射線遮蔽壁中の穴を通して隣室へ導き、そこにさらに散乱槽という大きな真空の装置を設けて導き込む必要がありました。それらの付属装置の製造だけでなく、装置を収める隣室の建設までも待たなければならなかったのです。

 初めはあせる気持ちがありましたが、次第に心を落ち着けて、ゆっくりと構えることが出来るようになりました。主論文はアメリカ物理学会の Physical Review 誌に投稿しました。刷り上がり12ページの、同誌としては長い方の論文です。当時は日本の研究者で同誌に発表する人はまだ少ないという状況でした。たまたま、アメリカの一教授が同誌に少し先に発表した同様の研究の結果が、測定値に大きな誤りを含んでいることを指摘する結果ともなりました。

 その教授の論文を見つけたときは、先を越されたかと、一瞬どきりとしましたが、よく読んでみると、かえって私の論文をよいタイミングのものにしてくれていることが分かりました。人生において、何が幸いするか分かりません。

 専門の異なる古い話ですが、何かご参考になるところがあれば幸いです。

 ではまた。

 Ted

古来の知恵 / 社会的連帯とは


古来の知恵

 写真は安土城址内の總見寺跡(總は正しくは手偏である)の三重の塔。先日、ハイキングをした折に撮影したもの。最近の研究によれば、寺の塔の心柱は、地震の際に塔をくの字型に揺らせながら、揺れへの抵抗を各層に与え、倒壊を防いでいるという。古来の建築技術はすばらしかったのである。

社会的連帯とは

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月14日(月)雨

 「社会的連帯」ということに一時間を使ってしまった。「個人と個人の有機的結合関係を意味するものであって、社会を離れて個人なく、個人なくして社会は形成されるものではない」と答えようとしたが、かえって難しくしているように思ったから止めた。先生は、最も簡単なことばでいえば、「助けられたり助けたり」である、とされた。
 リーダーの時間は、Easter に関連して colour egg や carnival についての楽しい話を聞いた。
 家庭調査書の交友関係のところに、Ted の名を書いておいた。趣味のところには、将棋、五目並べ、卓球としておいたが、歌謡曲もいれておけばよかった。「だがね」、麻雀、パチンコと書くわけには行くまい。


(Ted)

 どの時間も、「2421」「氏名」「普通」を書かされる。中には「男」と書かなければならない場合もあった。解析 II のK・B 先生は、「講義は明日から」と、早く打ち切る。20名中18名が男生徒である物理は、物理的考察の概念といったような話と、1年間に10回テストをするという予告と、ギリシャ文字の説明がある。MY 先生の世界史では、自らに相づちをうつ「えゝ」と、自らを景気づけるような笑い「はっは」と、歴史という字の話(史という字を、交差した2本の足に巻物が支えられているように黒板に描かれた)、その他を聞いた。
 HR 先生が昨年度よりはいくらか荘重な感じに見えた国語甲の時間には、世界史と英語を除いては全部一緒になる SNN 君のほか、YMG 君、SM 君、SS 君らも集まって来るから、最も優秀なレッスン・クラスといっても悪くあるまい。I・S 先生の英語は、物理や国語甲とは反対に「姦」という字を十何個か並べたようなありさま(音ではなく、存在として)で、われわれ男生徒は隅に押しやられたような具合になる。月曜日の体操の1時間分は AS 先生の講義である。

大阪開花の日、堺のわが町では


 4月3日、大阪方面は朝のうち小雨模様だったが、気温が高かった。大阪城公園に標準木を持つ大阪気象台が桜の開花を発表した、と昼のテレビ・ニュースで知る。午後、わが町・堺市上の桜並木そのほかを観察に行く。その頃には青空が見えて来た。

 堺市上の桜並木とは、笠池という溜め池を何年か前に埋め立てて出来た笠池公園に、それを半周あまりする形で植えられているものである。咲き始めの木々を遠望すれば、まだ圧倒的に多いツボミの濃いピンク色が枝々やその空隙と混じりあって、茶色がかったピンクの霞と見える。少し近寄れば、開いた花々が白い斑点として見えてくる。

 枝を大写しに撮ろうとすれば、どの枝を選ぶかによって、開花状況をいろいろ異なる様子に報告できそうである。朝日新聞対NHKの報道問題ではないが、報道側の責任やそれを受け取る読者・視聴者の判断力の重要さを、桜の木々から学ぶ。公平を期して、前パラグラフの「少し近寄れば、…」の位置で撮ったのが上掲の写真である。

 草部という隣町に属する津久野南団地や堺上高校の桜も、もっと開けば見事だろうと思われる。毎年見に行く浜寺元町の池のほとりの桜は、今年まだ見に行っていないが、いずれそれらも紹介したい。

2005年4月3日日曜日

田園風景 / われわれに必要なことは何なのだ?


田園風景

 写真はさる3月31日、安土へハイキングした際に撮った、JR 琵琶湖線・安土駅から近江風土記の丘(写真向かって右に青い屋根の見える辺り)へ向かう田園風景を楽しめる道。写真中央右寄りに琵琶湖線の列車が走っているのが小さく見える。

われわれに必要なことは何なのだ?

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月13日()雨

 見事にカムバックした。実に足かけ三年である。というと、贔屓の選手か何かのことと思われるかも知れないが、これはぼくの所持品の一つだ。これまで未完成のまま、手の施しようがなくて、放置されていたのだが、思わぬ機会に完成をみたのである。

―――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――
(引張った線の分だけぐらいは何かもっと書きたいのだが、簡単に考えがまとまらない。)


(Ted)

 それについて考えられるあらゆる意義を理性では否定しながらも、ついどうかすると、それが頭へ昇って来る。感情とはこのようにも意義の有無に無関心で、たんに享楽的に、あることを望み続けるものなのだろうか。――「春の唄」のメロディが頭に繰り返し現れる。――

 「…用がないのに話していて肝胆あい照らすのが、意味の深いほんとの話というものだと思っております。…用がないのに訪れて、いやに思わず、いやに思われないのが、意味の深いほんとの訪問というものだと思っております。…用がないのに問いかわしてお互いの愉悦幸福に加えるところのあるのが、意味の深い本当の手紙というものだと考えております。」(五十嵐 力)――この方面のことで、ぼくの考えていたことは、ここに文字として具現されている!

 万年筆を握ったまま、歩みを止めている。自分がどこに立っているのかと考えてみる。わずかばかりの、しかし浄化されて澄んでいる過去が後ろにある。前に延びているのは、模糊とした、どこまで続いているのか知れない、けれども、大望を抱くものにとってはそれだけでも十分ではない、誰もが一人で勝手にそこへ飛び出して行けない、未来という未知の道である。われわれは腹ばってその道を形づくっている「時」をむしばんだり、そのむしばまれた穴を行動の器として、細い手足を動かして、いろいろなことをしてみたり、ちっぽけな頭を斜めにしながら、その打ち出の小づちのような重宝な働きを思う存分発揮させて、さまざまなものをそこから飛び出させ、展開させ、考察したり、推理したり、想像したりしながら進む。――つまんでいる万年筆を半回転させる。指先はしっとりとしていて、脂と水分による指紋が回転したあとから現れる。雨が降っている。「灰色の空はもういやだ」といいたげな、窓から見える家の焦げ茶色の壁板が、間断なく落下する細かな水滴を映しだしているので、そうと分かる。――
 …? いつの間にかここに文字が並んでいる! だが、がっかりすることには、いままでに何度も使ったような単語、ぐにゃぐにゃした字体。ヴォキャブラリーの貧弱さもさることながら、かなり広く跋渉して来たと思う心の旅が、一向にその広汎さを紙にとどめていないのに気がつく。こうして、自分の表現の微力さの前に、書くことへのたじろぎをたびたび感じる。内に潜むものと、外に現れるものとの――非形而下的現象と形而下的現象と、…


 ME 君への手紙を書き始めたのだが、こんなところへ迷い込んで挫折した。いや、挫折したことにしようと思うのだ。内の尺度が外のそれよりあまいから、そういう矛盾にぶつかるのだろう、との結論を得た。
 過去とか未来とかばかり書くようだが、そのほかにわれわれの踏んできた、また踏んで行こうとする道を表すことばはあるまいし、ここでは、どうしても、それに関する意識を最初に掲げる必要があるだろうと思ったのだ。しかし、われわれに必要なことは、いったい何なのだ? 時の操作はいうまでもなく自然が行う。その操作ぶりに見とれていても、われわれは何も得るところがない。――これは分かり切ったことだ。

 どうして出場者も答えも女性ばかりの「私は誰でしょう」なのかと思ったら、婦人週間だった。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/04/2005 08:30
 これも大変な名日記です。Ted さん、というハンドルで、許可を頂いて、改変せず博士論文のどこかに全文引用させていただいてよろしいでしょうか。CD-RWを使っている暇がないので、もう今はネットの架空空間に永久保存するのです(笑)。細部を改変するのはもったいなさすぎます。
 私の立場から感想を申し上げますね。「それについて考えられるあらゆる…」で、「それ」が続いているのは、私たちの分野の論文では、大変魅力的な文体の表現です。「それ」とは何か、先に言わないので、読みたい動機が進むのです。この辺りからして、この日記は物理学者の Ted さんもご自身お気づきだと思いますが、ほぼ時間論で占められていますね。
 ですが、「…用がないのに話していて肝胆あい照らすのが、意味の深いほんとの話というものだと思っております。…用がないのに訪れて…」の部分は、私の研究テーマそのものなのです。このおしゃべりの時間、用がないのに訪れて、の時間そのものにおける、より基底的な生命活動、もう少し高次な「場所」(西田幾多郎)では心的活動、精神活動、たとえ身動きしていなくても身体活動をお考えいただくと、生きている人間性、というものがどういうものか、それへのご研究が一番進みます。主治医ともお話していたのですが、実は歴代科学者への批評論紹介は、書かれたものが非常に筋が悪いです。Ted さんご自身が一番の人間芸術なのですよ。ですから Ted さんご自身について双文化研究をなさったら、あるいは Ted さん「ご自身を原点として」、必ずご自分のお立場からなさったほうが。先生は科学者としてのみ生きてはこられなかったはずです。今後も…。
 未来という時間に、なかなか飛び出してはいけない、それはそうなのです。しかし、哲学の立場では、とっくにそれを先駆的発想で捉えております。我々は自己より常に先駆的な、前へと進む時間性としての自己を持っている(ドイツ語 haben)のです。これは、西田哲学のノエマ的自己、ノエシス的自己(後者は限りなくひろがる感性の世界です)の関係性で語られております。Ted さんがご自身、意識されるより「つねにすでに、もう」自己は「在ります」(存在論)。これが「自覚」(西田用語)できるようにお出来になると、精一杯の苦しさで生きている精神の病気の人たちも、実ははるかに楽になり、多少の大事な余裕が出来るのです。
 私は高校時代の Ted さんほどの豊富な語彙を全く持っておりません。もともと、語彙を増やさない主義になってしまった人間で…。それでも論文は手持ちの言葉で、十分書けます。
 「書くことへのたじろぎをたびたび感じる」、この辺りの表現性を、より拡げられるとよいと思います。さらに内省的意識を深めるのではなく、「自己に誠実に拡げる」のです。これでご研究の幅が広がることは、保証できると思います。とにかく、「自己」というものを皮膚境界や、意識しえた部分のみでお考えにならない幅の広さが、まず第一に重要だと考えている立場が、私です。「時の操作はいうまでもなく自然が行う。」はい、ここで哲学用語でもある「行う」をお使いください。「自然が行う」=主語が代わっていますね、Ted さんではないですね。このように自己「外」との関係性が考えられるようになると、自己-他者関係についても非常に容易に考えることができます。
 あるいは… Ted さんの個人的な政治活動(平和活動など)と、日本の大次元での政治性との関係性など、…ずっとこれ一本で考察することが可能です。「これは分かり切ったことだ。」、確かに自然な自明性(ドイツ語 Selbstverstverständlichkeit)ですね。けれども、これを部分的にでも失うと、病気の人はまさに生きてはいけないのです。
 とりあえず、自己という時間の先駆性(先見性よりはるかにずっと「先の時間」について、上記、ご理解頂けましたでしょうか?

Ted 04/04/2005 10:08:13
 全文を博士論文に引用していただいて結構です。
 あとに指すものが出て来る「それ」は、英文直訳調のような気がして、最近の私は使わなくなっていますが、魅力的な文体になりますか。引用の日記の先頭の「それ」は、あとにも指すものが出て来ていない隠匿の「それ」です。次の文の「感情」に関係はありますが、特別な感情、「恋を恋する心」といったものを意味しています。
 手紙の下書きのつもりで書いた部分は、実際にそこだけ万年筆で書いていましたので、いま青色に変えました。
 相対性理論では時間と空間を合わせて「時空(spacetime)」という一つの多次元空間として扱います。その考え方では、未来も空間と同様に「存在している」ことになります。そこに哲学での「自己という時間の先駆性」と相通じるものがあるようです。
 「ご自身について双文化研究をなさったら…」というご提言ですが、私も自分の双文化との関わりを研究の中に入れて行きたいと思っていたところです。
 示唆されるところの多いコメント、ありがとうございました。

2005年4月2日土曜日

待ち焦がされる

 4月2日、堺市の空はきょうも薄曇りだが、昨日より暖かく感じられる。昨日に続いて近くの笠池公園(堺市・上 [1])と津久野南団地前の桜並木を見に行く。ツボミのふくらみは大きくなり、開いている花の数も少しは増えているが、ツボミだけの木の方が多く、平均すると、まだ開花とはいえない。ただし、津久野南団地に隣り合う堺市住宅供給公社の団地の敷地にある1本の大きな木では、1分咲き程度になっていた。

 私がブログ用に最初に桜のツボミの写真を撮ったのは、3月29日。その日から毎日のように、主にツボミばかりを観賞している。待ち焦がされる心を静めるため、上記2ヵ所の並木の本数を数えて帰ることにした。どちらも約20数本とにらんだのは、よく当たっており、津久野南団地前が25本、笠池公園が24本だった。

  1. 「堺市上」は、市の名前も町名も一字という、全国一短い住所として、かつて子ども向けの本にも紹介されていた。

これが安土城址、であるか


 3月31日、天気予報では関西一帯が晴れだったので、JR 西日本から何年か前に入手 [1] していた「駅からはじまるハイキング MAP」の一つ、「安土コース」へ妻と行ってみることにした。MAP には、所要時間約4時間15分の健脚コースと、約2時間のらくらくコースが紹介してある。JR 琵琶湖線安土駅で下車し、後者のコースをたどることにする。

 昼食時間の関係で MAP の矢印を逆に進む。まず、田園風景を楽しみながら、安土山と観音寺山に囲まれた「近江風土記の丘」へ。その中の「文芸の郷(さと)レストラン」で「戦国焼定食」を昼食にとる。食後、文芸の郷内の「信長の館」へ寄る。スペイン・セビリア万博の展示物として原寸大に再現されたという安土城天守が納められている。各室の壁面の絵は凝ったものであり、外部もきらびやかに出来ている。最上部に城主の座所らしいものがあるが、屋内展示のせいか、照明はあっても薄暗く、あまり坐っていたくもない場所に見える。

 文芸の郷を出て、少し逆戻りし、安土城址へ向かう。天気予報から期待したほどの晴天ではなく、うす雲が拡がっている。城址の看板のあるふもとには桜並木があり、ちょうちんを吊るすなどして桜祭りの準備がなされていたが、桜はまだ咲き初めてもいない(写真)。城跡へ行くには、写真左前方から大きなステップの石段450段を登るのである。山歩きによく行っている妻には何ということのない石段のようだが、私には少し苦しい。

 あと190段で城跡というところから、左へ折れて總見寺跡 [2] へ行く道をとる。こちらにも少し登りの石段があるが、すぐに西の湖や干拓地が一望できる寺跡に着く。寺跡より少し低い土地に三重の塔が残っている。大手門までの下りは速い。旧武家屋敷もある城下町をジグザグに歩き、駅の近くまで来て左へ折れ、北川湧水、音頭川の湧水、梅の川――その水でたてたお茶を信長が気に入ったという――を眺めてから、駅へ戻る。帰宅時に万歩計は1万8千弱を示す。

  1. JR 西日本の駅にある「駅からはじまるハイキング」のチラシの裏面に「駅からはじまるハイキングスターターキット申し込み用紙」がついており、そこへ住所・氏名等を記入し、一人580円分の切手を同封して応募するした。[キャンペーン期間、2006(平成18)年3月31日まで。]

  2. 正しくは「總」の代わりに、この字の糸偏を手偏でおきかえた字を書くのだが、コンピュータの辞書にない。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 04/02/2005 19:19
 以前に安土城址を歩いたことがあります。たしか石段途上に信長に仕えた秀吉など家臣たちの住居群が建ち並んでいた痕跡が窺えたのではなかったかと記憶しますが…。天守閣の復元模型もありましたね。

Ted 04/02/2005 19:43
 はい、秀吉ほか家臣たちの住居跡も見ました。天守閣の復元模型は、近江風土記の丘という、少し離れた場所にありました。

テディ 04/03/2005 12:18
 私は20年くらい前に JR 安土駅から近江風土記の丘を越えて五個荘に抜けるルートで写真を撮りながらの日帰り一人旅を行なったことがあります。そのころはまだ安土城考古博物館は出来ていませんでした。夏の暑い日で、その「丘」を越えると汗だくになってしまいましたが、琵琶湖から吹く風がとても気持ちよく、まさに天然のクーラーのようだったことを思い出します。五個荘は古い町並みが素晴らしく、観光客の姿など一人として見かけませんでしたが、いまはどうなっているか気になります。

Ted 04/03/2005 16:04
 いい旅をされましたね。五個荘のウェブサイトによれば、町並みなどの保存に努めているようです。

空間の春 / 「うれしいこと来る!と毎朝毎晩唱える」

空間の春

 団地の建物と建物の間の空間も春めいて見えるこの頃である。(写真は3月29日、堺市内で。)

「うれしいこと来る!と毎朝毎晩唱える」

 高校時代の交換日記から。
 
(Sam)

1952年4月12日(土)雨

 「『うれしい、うれしい、うれしいこと来る!』『いいこと、いいこと、いいこと来る!』と、毎朝毎晩唱える。さすれば、たちまちにして効力は現れ…。」M・K 先生の講義はこんな調子だ。
 「二十の扉」で聞いたかい。それが、ぼくの三番目に歌った歌だ。あれで、だいたい半分ほどだ。「扉」にまで「お酒を飲むなとご意見された人」となって出題されるくらいだから、かなり有名、というよりは、流行しているんだね。学校ででもよく聞くが、けっして聞きよい歌ではない。


(Ted)

 アセンブリーがあり、吹奏楽、生徒会功労賞授与、教科指導・調査研究・保健体育・図書館・管理の各部の先生の話、N・O 生徒会会長による後期生徒会経過報告と、何もかもとりまとめて行われた。そのあと、1年生に対しては、クラブ紹介があったのだろう。
 Tom(SK君)の学校のリーダーはスタンダードとかいうのだそうだ。英文法は "How to Write Good English" だそうだが、われわれはこれの1を英語乙でするのだから、ばからしい。そのほか、Tom は副読本 "Kwaidan" をする時間もあるそうだ。午前は100分授業だといっていた。KW 君に渡して貰う短い英文手紙を書きなぐって、ことづけた。「もう家を引っ越したかい」を、"I had my hair cut." の構文を思い出して、"Had you your house moved already?" としたが、こんな書き方をしなくてもよいようだ。

2005年4月1日金曜日

超高速査読

 科学の研究において新しい結果を論文として専門誌に発表するとき、その論文原稿は、1名または複数名の査読者(1人の査読者が掲載拒否を示唆したときにのみ、2人目に依頼する専門誌もある)による審査を通過しなければならない。査読者は、論文内容と同じ専門分野の研究者の中から、専門誌の編集長または編集委員会によって選ばれる。論文査読の仕事には、報酬はおろか、必要経費も支給されない。研究者がボランティアとして行うのである。経費といってもプリント代、郵便代などで、大したものではないが。

 N 誌の編集長から3月8日付けのメールで、同誌への一投稿論文の査読を引き受けるかどうかについて私に打診があった。論文原稿は PDF ファイルとして添付されており、その原稿中の二つ目の引用論文として、私たちが1996年に同誌に発表したものが載っている。編集長または編集委員会は、そのことから私を査読者に選んだと思われる。

 引き受けるに当たっては、PDF ファイルの代わりとして使うため、投稿論文のハードコピーを請求できることになっている。私は引き受けることにして、「経費節減」のため、ハードコピーの送付を依頼したが、自宅住所をその返信に書き込むことを忘れた。編集長から折り返し住所の問い合わせがあり、それに返事を出したのが3月9日。ところが、2週間後の3月23日になってもハードコピーが届かない。

 編集長に問い合わせると、編集長不在のためか、代理の人から、私の旧職場宛に3月9日に送ったが、自宅宛にすぐ再送する、という返事があった。翌日、旧職場に問い合わせたが、私宛の郵便物は見当たらないという。仕方なく、再送便の到着を待った。

 原稿のハードコピーは、3月28日の午後も遅くなってから到着した。N 誌では、査読は普通2週間以内に済ませることになっている。N 誌側の手落ちとはいえ、2週間以上のロスが出ているので、私は1週間ぐらいで査読報告を送る、と知らせておいた。

 しかし、私の査読はいつも超高速である。以前、友人にもなっている R 誌の前編集長・H 氏から頼まれた査読の結果を報告したとき、記録的な速さだとほめられたこともある。今回も論文原稿入手の翌々日、30日午前には査読報告書を完成し、メールで N 誌編集長へ送付した。査読は多くの場合、自分が最も得意とするテーマについて行うのだから、勘所を押さえて見ていくことに慣れれば、短時間でできて不思議はない。専門誌が査読者に与える審査期間はもっと短くてよいと思う。

 今回私が査読した論文原稿は、西アジアのある国の大学の研究者たちによる理論計算の論文で、図表を含めて20ページの比較的短いものであった。簡易計算のためのアイディアは悪くはない。しかし、使用している近似式の中の二つにおそらく問題があり、結果の数値が私たちの高精度の結果から大きくずれている。私たちの論文にはない低エネルギー領域まで結果を出しているのだが、ずれの傾向を外挿すると、その領域では、精度がますます悪くなっていると推定される。これでは有用な結果とはいえない。

 それだけならばまだ救えなくもないのだが、英語や論述の進め方もまことに稚拙であり、総合して N 誌の標準を充たさないと判断し、編集長には掲載拒否を勧めた。問題点を具体的に示し、改善案も記したので、投稿者たちの今後の研究向上に役立てば嬉しいと思う。ただし、英語や論述の稚拙さについては、修正すべき箇所があまりにも多く、数例を挙げるにとどめた。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 04/03/2005 12:40
 N 誌というのは、さすがに私にも、ひとつぐらい見当はつくのですが…。査読は主人も、教授に時間がないため、いつも代わりに任されています。海外との文書通信のやりとりですが、木村敏先生の時代は、ドイツのブランケンブルク氏に、何度木村先生が、ファクシミリという便利なものがあるとご説明されても、氏はおわかりにならないのです。これは木村先生のご著書に出てくるお話です。木村先生は、哲学者のような風格のあるお方です。ちなみに、私の11年の本当の育ての親、フロイト・ラカンの新宮一成先生・京大教授は木村先生と7年以上前から青土社の最高哲学雑誌で、トップに写真付きで対談しておられます。この時の中心話題が、木村氏「タイミングと自己」論文で、これはお贈りする本の一冊に所収されています。
 英語や論述の稚拙さ、それは「数例をあげて」執筆者の方にご自分で気づいていただくので十分だと思います。確かに、学者は、このような副業(?)にもかなりの時間をさかなければなりませんね。
 「勘所を押さえて見ていくことに慣れれば、短時間でできて不思議はない。」そうだと思います。私の最初の手習いの恩師の基本思想は、生命の次元で教育を考える、ところが、これが西ドイツ留学時に西田幾多郎全集「のみ」を持っていって、ただそれだけを読んでおられた木村敏先生の世界と、通底してやまないものがあるのです。ですから博論は西田哲学を実は源流といたします。河合俊雄先生がこられたら…ハイデガーと西田の関係も、木村先生のご論文集を調べれば、すぐにわかります。そうして、最初の恩師に審査していただいたほうが、恩師の生命思想を受け継いでいるのですから、恩師は審査しやすいのです。それは考えてお願いしてあります。
 『自覚の精神病理』『異常の構造』といった新書レベルの木村先生のご著書が今でも検索上位に出てくるのですが、これはいけません。Ted さんは外部公開 HP ですから、いつかこの点を読者の皆様にお伝えいただければ。科学もそうでしょうね、精神病理学も、その時代時代の、一番苦しんでいる患者さんたちを護るためにやらなければならない活動=社会精神医学が世界中であったのです。また、治療薬の到底開発されていなかった時代など…。そのような、木村先生のあまりの真面目さゆえの新書や処女作を、今でもどの大型書店にも並ぶようにしてあり、読者の方が現代の精神の病気の方について勘違いされるのは、私は非常に問題だと思っております。Ted さんも、取り消された科学理論は、やはりもう引用されませんよね? ですが私たちは一般書店に並ぶ業界ですから、より社会的責任が大きいのです。以上、Y名で公開していただいて結構です。弟子が継承しなければなりませんから。

Ted 04/03/2005 15:50
 いろいろな話の出て来る興味深いコメント、ありがとうございます。西田幾多郎の『善の研究』(岩波文庫)を何年も前に買ったのですが、数ページ読んだところで止まっています。
 取り消された科学論文は引用しません。関連していいますと、新しい結果を調べないで、古い知識だけで書かれた専門家向けの教科書はよくみかけます。以前、Adam Hilger というイギリスの一流出版社から出た Physics of Electron Beam Therapy というA5版200余ページの教科書に、当然引用されてもよい私たちの研究結果が載っていなかったので、著者に手紙と私たちの論文別刷りを送ったことがあります。ロンドン病院の放射線部長で、後にロンドン大学教授にもなったその著者とは友人になり、ロンドンを訪れたときには親切にして貰ったり、後に書かれた著書には私たちの論文を何編も引用して貰いもしましたが、先年脳腫瘍で亡くなりました。

Y 04/03/2005 17:11
 その、引用されていなかった Ted さんのご論文を、お送りして、ご多忙なその先生に面識がなくても、科学系の研究者の方は、封書をあけていただけるのでしょうか?
 私たちの分野ですと、本屋の世界ですから、見ず知らずの方の最新著書が山ほど贈られてくる、あける暇もない、という状態なので、博士論文でさえ、私の最大恩師の方がたはまずあけてはくださいません。必ず、正式身分の方の印鑑付きの紹介状などが必要です。(私の主人でいいのですが…笑)。私でも、学者に復帰するとき、大学院4名教官に4年以上ぶりにどうしても封書をあけていただくために、最大限のことをA4封筒の裏に書きました。おひとりの親しい先生には同じものをご自宅FAXにお送りすると、読んでくださいました。それで、これほど現場経験のたくさんある研究者が誰一人いなかったんですね。早くそれを言ったらよかったんですが、本当に学者になるのが嫌だったんです…。社会で役に立つ仕事をすることだけを考えていたので、学者は役に立たない上層階級だと思っていました。…ところが、「日本で誰もやらないため」、今、初めて障害者福祉へと流れ行く道を作っていますね。新宮先生の新著は、精神障害者福祉の本やその家族療法、複雑性 PTSD の本などが満載なのです。どうしてもこれは研究せねばなりません…。

Ted 04/03/2005 20:11
 Y さんはよい道を見つけられたようで、喜ばしく思っています。
 私が手紙と論文を送ったロンドン病院の Dr. K は私より少し年長でしたが、医用放射線物理の論文を出し始めたのが、私が放射線物理の論文を出し始めたより遅かったので、私より若いのかと思ったのでした。それで、彼が最初の著書を出した当時は、幸い手紙を開ける暇もないというほどには、まだ忙しくなかったのかも知れません。ただ、物理系の外国の研究者はだいたい親切で、遅くなっても、たいてい返事を貰えるようです。
 ヨーロッパの放射線物理関係者が口をそろえて応答が不親切だという学者が一人いましたが、それが何と、私が留学先候補として考えていたゲッチンゲン大の教授で、お陰で私は留学の機会を失したのでした(一応 OK の返事があったのに、それ以後フォローしてくれませんでした)。私は場所が変わると慣れるのに時間がかかる方ですから、留学できなくてかえって幸いだったのかも知れません。

Y 04/03/2005 21:23
 そうですね、Ted さんは無理に慣れない海外に、たまたま行かれなくて、恩師の先生方からきちんとお仕事をする方だと信頼されて、日本でやっていけた方なのだと思います。
 私は、何か海外でかっこいい哲学博士とかを取ってこられるどうしようもないお金持ち先生と、大変な常にドクターストップに反対して働いても働いてもお金が足りない貧乏人生、けれども唯一の愛する故郷・京都の、哲学の道、西田幾多郎がいるではありませんか。世界に通用する唯一の哲学者。この方、第一巻『善の研究』は私には面白そうでたまらず、これはまだよくは読んでいません。実は大変相性が良いのです、もちろんそうでなければ敏先生の(と、弟子はお呼びします)弟子にはしていただけません。私は山手線のどこにあるかわからない官僚養成機関(はっはっは)には、呼ばれても行きません、旅行以外、あと上野千鶴子先生とお話する以外では。「京都へいらっしゃいませ」。精神医学は過去、現在、すべて京都学派第一権威です。歴代、すべてです。次は、名古屋市立大学です。これは、最初に敏先生が大学教授に呼ばれてしまった大学だからです。一生京都から離れない、日本にいいものがいっぱいあるではありませんか。