2013年7月30日火曜日

戦争だけはやっちゃダメ:いまよく読まれているブログ記事「96 歳の遺言」("It's Just Bad to Do War," Blog Post The Last Will of the 96-Year-Old Appeals)

[Abstract] A 96-year-old woman, Okei-san, is now almost blind and deaf and lives alone in an apartment. At a hospital, she happened to meet Hisako-baaba-san, the author of the blog, Hurrah, My Eightieth! and became friends with the latter. The former talked to the latter about herself, especially about her hardest life time during the World War II, and the latter wrote it down in detail. Thus, a blog post entitled "The last will of the 96-year-old" was made. The post (written in Japanese; see here) movingly conveys the appeal, "It's just bad to do war." (Main text is given in Japanese only; originally posted here.)

 この記事は、2013 年 7 月 27 日付けで、ブログサイト『平和の浜辺:福泉・鳳地域「憲法9条の会」』に掲載したものだが、できるだけ多くの人たちに読んで貰いたいので、ここに転載する。



 大正 6(1917)年生まれで、いま満 96 歳、目は見えないし、耳もひどく遠いけれど、アパートで一人暮らしをしている女性「おけいさん」が、たまたま病院で「八十歳代万歳!」というブログの著者「hisako-baaba さん」と友だちになった。そして、おけいさんは hisako-baaba さんに、戦争で苦しんだ時期を中心に身の上話を語り、hisako-baaba さんはそれをていねいに記録して、「96 歳の遺言——おけいさんから聞き書きした話」というブログ記事が出来上がった。

 「語り部」をしている hisako-baaba さんは、「目で読む文章でなく、声に出して読む文章になっており、朗読に活用して感想を寄せられたら、いちいち、おけいさんに報告します」と、「96 歳の遺言の解説」で述べている。掲載直後からたいへん多くのアクセスがあり、「96 歳の遺言」あとがきによれば、3 日の間に 5000 人ほどの人が読みに来たそうだ。また、電子絵本にするという話も持ち上がっている。

 「96歳の遺言」
私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」という遺言です。
たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっとひどくなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。
という前置きで始まっている。戦争を記憶する人たちが減って行く中で、戦争体験のない人たちにぜひ知ってもらいたい貴重な話である。上記のリンクをクリックして、多くの方々が読み、活用されることを期待している。

 転載にあたっての付記:私が hisako-baaba さんこと中谷久子さんと知り合ったきっかけは、お互いに母親から「五色の子守歌」を聞いて育った、ということで、その話はこちらに記した。

2013年7月28日日曜日

7月後半の自然 (Nature in the Latter Half of July)


 写真は上から、クマゼミ(7 月 17 日、堺市・鈴の宮公園で)、ピンクの花のサルスベリ、カンナ(わが家の庭で)、アサガオ、紅花のサルスベリ、アブラゼミ。アブラゼミは例年、鈴の宮公園で 8 月初めに撮影している。今年、7 月 28 日に見つけたのは、少し早く出たのかもしれない。

Photos show from top to bottom: Cryptotympana facialis (in Suzunomiya Park, Sakai, on July 17), crape-myrtle with pink blossoms, canna (in my yard), morning glory, crape-myrtle with red blossoms and large brown cicada. These years, I saw large brown cicadas in Suzunomiya Park for the first time in early August. This year, I found one on July 28, and it may be that they came out a little earlier than usual.

2013年7月26日金曜日

『ベストカー』誌からの電話インタビュー (Telephone interview from the "Best Car" Magazine)


 車を運転しないので、車には興味もない私だが、先般、講談社ビーシー発行の『ベストカー』誌の記者から、電話でのインタビュー依頼があり、それを受けた。「徹底研究 限界はどこにある!?」と題する記事の一部分とするために、100 m 走記録の限界について聞かせて欲しいということだった。私の英文ブログサイトの一つ IDEA & ISAAC: Femto-Essays"World Records for Men's 100 m Defy Simple Curve Fitting" という記事(2008 年 8 月 20 日付け)を書き、それが "Wired Science" のブログ記事に引用されて以来、諸メディアから同様な取材を何度も受ける羽目になった。

 電話インタビューでは、おおよそ次のような説明をした。私の使った経験式作成(曲線当てはめ)の方法は、ボルト選手が 2008 年に 9.69 秒の記録を出す以前の歴代世界記録データセット、それに 9.69 秒を加えたデータセット、さらに、彼の 2009 年の記録 9.58 秒を加えたデータセットへの当てはめでは、限界値がそれぞれ大幅に異なった(詳細はこちら参照)ので、むしろ、信頼出来ないということになる。無理に限界値をいって欲しいというのであれば、(9.09±0.49) 秒と、大きな誤差がつく。すなわち、予測限界値は 8.60 秒〜9.58 秒で、今後記録が伸びない可能性も含んでいる。

 しかし、刷り上がった記事「身体能力の限界」(8 月 10 日号、pp. 52–62 の、車の燃費、乗り心地、ほか 14 項目についての限界特集最終ページ下の囲み記事)を見ると、見出しに「100 m 走 8 秒台は?」の行がある。そして、私の誤差についての発言を取り上げてはいるものの、「ということはマイナス方向の誤差だった場合、夢の 8 秒台に突入する 8.6 秒なんて驚異的なタイムが生まれるということだ」などと書いてある。このことは、メディアの記事を読むには、記者の興味や主観で力点が大きく変えられてしまっている場合が多いことをぜひ念頭におく必要がある、という教訓になる。


Because I do not drive a car, I am not interested in cars. However, I recently got a request of a telephone interview from a reporter of the "Best Car" magazine published by Kodansha BC Ltd. and accepted it. The purpose of the interview was to hear my opinion about the limit to the record of men's 100 m dash in order to include it in a featured article entitled "What are limitations?" I have been asked a similar question many times from various media after my blog post, "World records for men's 100 m defy simple curve fitting" ("IDEA & ISAAC Femto-Essays," 20 August 2008), was quoted by a blog post of "Wired Science."

In the telephone interview, I spoke roughly as follows: The method I used in evaluating the trend of records of 100 m dash was that of formulating empirical equations (curve fitting). The limiting values I got by using the data set of world records before Usain Bolt's 9.69 seconds in 2008, the data set including the 9.69-second record and the data set including also the 9.58-second record in 2009 were much different from each other (see here for details). This means that the method I used is quite unreliable in predicting the limiting value. If you want to hear the limiting value in spite of this, I have to say that it is 9.09 seconds with a large error of ±0.49 seconds. Namely, the predicted limiting value lies between 8.60 seconds to 9.58 seconds and includes a possibility that the record would not be improved in the future.

However, the small report of the title "The limit of man's physical ability" at the end of the featured article, which spans pages from 52 to 62 in the August-10 issue of "Best Car" and treats about the limits of 14 items of fuel economy of the car etc.) has a title line, "Is the record of 8 seconds region possible for 100 m?" It includes my remark about the error but, to my surprise, writes, "When we take the error in the minus side, it means that a wonderful record of 8.6 seconds in the dreamy region of 8 seconds would be reached." This teaches us that we should read media articles with the following fact in mind: the emphasis is often changed considerably by the reporter's interests and subjective thoughts.

2013年7月23日火曜日

7月前半の花々 (Flowers in the First Half of July)


 7 月 1 日から 14 日にかけて撮影した花々の写真(* 印はわが家の庭で)。上から、白花のサルスベリ、ハマユウ*、ネムノキ、キキョウ*、モミジアオイ*。

Photos of flowers taken from July 1 to 14 (the symbol * indicates that the photo was taken in my yard). From top to bottom, crape-myrtle with white blossoms, crinum*, mimosa, balloon flower* and scarlet rose mallow*.

2013年7月20日土曜日

改憲論に抗して思う (Thoughts against Proposals to Change Constitution)


わが家の植木鉢に咲いたユリの花。2013 年 7 月 17 日撮影。
(記事とは無関係)
A lily flower blooming on a pot in our yard. Taken July 17, 2013.
(Not related to the text of the post.)
[Abstract] Five short essays on my thoughts against proposals to change Japanese Constitution, originally posted at the blog site of Article 9 Association of Fukuizumi–Ōtori Area from June 21 to July 17, 2013, are collected here. (Main text is given in Japanese only.)

 私が別シリーズで書いているブログ「福泉・鳳地域『憲法9条の会』」は、同会の活動、大元の「九条の会」のメルマガの紹介、憲法9条や平和関連の集会・催しの案内、新聞・雑誌記事の紹介などが中心で、私自身の思いを述べた文は少ない。しかし、このブログ "Ted's Coffeehouse 2" とは読者層がかなり異なる可能性もあるので、最近前者のブログに載せた私自身の思いに関する短文をここに集めておく。(前者のブログでは対話体を使っているが、本ブログへの転載に当たっては、ここでの例に習って非対話体に変える。)


「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」(2013 年 6 月 21 日)

 私事ながら、1951年、私が高校1年生だったときの親友(中学が同じで、高校が別になった M 君、いまは故人)との交換日記を別のブログに連載している。先日掲載した 1951 年 10 月 11 日付けの私の日記の冒頭に、「『ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重』、何という理知的な解釈、何と整然とした解答だろう」とあった。何についての誰の言葉かを書いてない。
 しかし、少し前の日記に社会科の宿題として「明治憲法と日本国憲法の比較」という問題が出たことが書いてあったことから、その宿題の優れた解答(あるいはその要点)として先生が紹介したものだと思い出した。その解答を提出したのは、学年のマドンナ的存在で、私が日記中でヴィッキーというニックネームを与えていた女生徒だった(試験でいつも最高点をとることから、勝利の女神ヴィクトリーに因んで、また、美人でもあることから、美の女神ヴィーナスにも因んでつけたニックネームである)。
 何年か前の高校同期会の折に、私が近況報告として、「湯川秀樹を研究する市民の会」や、地域の「9条の会」に関わっていることを話した。「9条の会」といったとき、私の経歴から想像出来なかったという意味で、驚きの声を発した一人または複数の男性がいた。それに対して、すかさず、「湯川博士も憲法9条を大切と思ったでしょう」と助太刀してくれたのも、ヴィッキーだった。確かに、湯川秀樹は 1965 年に「日本国憲法と世界平和」というエッセイを書いて、憲法前文の平和に関わる文と第9条を讃えている。
 いま、自民党の改憲草案を読むと、それが明治憲法を彷彿させるものであることに気づく。自民党改憲草案と日本国憲法の相違、それもまさに、「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」ではないだろうか。ヒューマニズムの否定につながる憲法改悪は、断じて阻止しなければならない。
 上記の同期会のときには、ヴィッキーの「ヒューマニズムの否定、ヒューマニズムの尊重」を全く覚えていなかったが、次に彼女に会う機会があれば、その言葉を当時も感心し、いまも大いに感心していることをぜひ伝えたいと思っている。


『草枕』に見る漱石の反戦思想(2013 年 6 月 23 日)

 高校 1 年生のときに読んだ夏目漱石の『草枕』を、ふと再読したくなり、読んでみた。先に読んだときに興味を持ったのは、誰もがこの作品の主題と認めると思われる、主人公の画家が主張する「非人情」について、それが、本当に芸術を創造するために不可欠な姿勢だろうか、ということだった。今回もその問題に関心がありはしたが、「改憲論」がやかましいいま、もう一つ、大いに興味を引かれたところがあった。
 それは、主人公やヒロインの「那美さん」らが、日露戦争のために応召する彼女の親戚の「久一(きゅういち)さん」を駅まで見送る最終章である。送る人たちの一人である「老人」は次のようにいっている。
「めでたく凱旋(がいせん)をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家のためではない。わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。まだ逢(あ)える。」
この言葉は、与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」に通じるものである。
 また、次のような記述もある。
 車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝(えんしょう)の臭(にお)いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑(す)べって、むやみに転(ころ)ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺(なが)めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果(いんが)はここで切れる。
「赤いもの」とは血を指していて、ここには、若い人を戦場へ送る悲しみや、戦場のむなしくも殺伐な様子が描かれている。
 さらに、末尾近くには、
那美さんは茫然(ぼうぜん)として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐(あわ)れ」が一面に浮いている。
とある。主人公を那美さんに対して、「それだ! それだ! それが出れば画(え)になりますよ」と叫ばせた「憐れ」の表情は、先に彼女が久一さんにいった「死んで御出(おい)で」という言葉とは裏腹な、彼女の真情を吐露したものであろう。
 これらの記述に、軍国主義の盛んだった時代にもかかわらず、漱石が抱いていた反戦の精神がはっきり現れていると思う。彼がいま生きていたならば、「九条の会」の心強い味方だったに違いない。
 (『草枕』からの引用は「青空文庫」版によった。)


「朝令暮改」の戒め:憲法 96 条改悪案に思う(2013 年 6 月 26 日)

 「朝令暮改」という言葉がある。『広辞苑』には、「朝に政令を下して夕方それを改めかえること。命令や方針がたえず改められてあてにならないこと。朝改暮変」と説明してある。この言葉の源はいくつかあるようだが、一つは、『漢書』24 巻「食貨志」第 4 上に記述されているものだということだ。
 それは、前漢時代に晁錯(ちょうそ)が文帝に出した奏上文中の、「勤苦如此 尚復被水旱之災 急政暴賦 賦斂不時 朝令而暮改」という箇所である。これは、「(農民たちは春夏秋冬、一年中休みなく働かなければならないほか、弔問や病気の見舞いでの行き来などもあり)このように苦しいものであるうえに、水害や干害にも見舞われ、必要以上の租税を臨時に取り立てられ、朝出された法令が、夜には改められているといった有様です」と伝えている文である。
 上奏文はさらに続いていて、役人や商人が思いのままに搾取するのを制限し、農民が零落するのを防ぐべきだとの意見が述べられているということだ。晁錯は、政策が変更し続け、一定せずにあてにならないような事態を戒めたのである(文献1、2)。
 命令や方針でさえしばしば改められるのは悪政であるとの戒めが古来あるにもかかわらず、国家存立の基本的条件を定めた根本法である憲法を、96 条を変えて、ときの政治勢力の都合によって容易に変更出来るようにするなどとは、もってのほかではないだろうか。

文 献
  1. 朝令暮改、『ウィキペディア:フリー百科事典』[2013年3月17日(日)10:42]。
  2. 朝令暮改、ウェブサイト『故事成語で見る中国史』。


トルストイの作品に見る憲法9条の精神(2013 年 6 月 27 日)

 若い頃に好きだったロシアの小説家、レフ・トルストイの作品を最近また読んでいる。目下読んでいるのは、『五月のセワストーポリ』。1853 年からロシアがオスマン帝国、そして、これと同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスを迎え撃って戦ったクリミア戦争の舞台となったセワストーポリの状況を描き、戦争の無意味さを訴えた 3 部作中の第 2 作で、1855 年、トルストイが 27 歳のときの作品である。
 冒頭近くに次の言葉があった
外交によって解決されぬ問題が、火薬と血で解決される可能性はさらに少ない。
これはまさに、憲法9条の精神である。先哲の教えを重んじることなく、集団的自衛権の行使を認め、憲法9条を変えて、軍事対抗主義に走ろうとする政治家たちがいることは、実に情けない状況といわなければならない。


「日本国憲法第9条について論ぜよ」にアクセス急増(2013 年 7 月 17 日)

 本ブログ[福泉・鳳地域「憲法9条の会」]と同じプロバイダーのところに、筆者は個人的なエッセイを書く "Ted's Coffeehouse 2" というサイトを持っている。その中の 2004 年 11 月 22 日付け記事「日本国憲法第9条について論ぜよ」へのアクセスがこのところ急増している。
 急増といっても、それほど厖大な数字ではなく、この 30 日間で 118 のアクセスがあり、プロバイダーが 2008 年 5 月に統計を提供し始めてから 30 日前までの 59 を加えて 177 となり、"Ted's Coffeehouse 2" の記事への全期間アクセス数第 6 位に顔を出したというだけのことである。それにしても、「改憲」論がやかましいいま、この記事が少しでも役立てば嬉しい。
 まだご覧でない方は、上記のリンクをクリックして一読していただければ幸いである。


2013年7月19日金曜日

2013年6月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of June 2013)

[This post is in Japanese only.]

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2013 年 6 月分への感想を 2013 年 7 月 15 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. スーパームーン

 梅雨空を照らすスーパムーンも一つの風物詩としての趣があります。インターネットの The Big Picture サイトの "Supermoon 2013" と題する記事を見ますと、14 月毎に月が地球に最接近する現象で、標準的な月に比べ 30 % 明るく、14 % 大きくなる、という説明があります。そして、「世界の人々がスーパームーンを捕えようと空を見上げた」として、昇る大きな明るい月を見て歓喜する人々、ギリシャのポセイドン神殿から昇る月、自由の女神を前景としたもの、インドで祈る老婆、イスラム教会で祈る人、椰子の葉の上を照らす貴写真に似た月、沙漠の中を走る戦車を照らす月など、24 枚の写真がスーパームーンの情景を美しく捕えていました。

2. バス旅行「プーシキン美術館展とバラの花園」(全 5 回)、宇治・京都への小旅行(全 3 回)、和歌山へのバス旅行(全 4 回)

 ご夫妻でお元気に小旅行に出かけて楽しまれたことを、お喜び申し上げます。興味深く拝見しました。

(1) 日本版 ターシャ・テューダーの世界/ターシャの庭(バス旅行「プーシキン美術館展とバラの花園」4
 花フェスタ記念公園内の「世界のバラ園」の奥に「ターシャの庭」と名づけた一画がある。最初の写真は、その入り口付近の看板を中心に撮った。看板には、「日本版 ターシャ・テューダーの世界/ターシャの庭」とあり、右奥に木造の家屋が見える。そして、門のところに「ターシャ・テューダー/〜花そして自然を愛する絵本作家〜」の札がある(2 枚目の写真)。ターシャ・テューダーが 92 歳で亡くなったのは 2008 年だから、「花フェスタ 2005 ぎふ」が開催されたときには、彼女はまだ生存していたのである。庭はその後あまり整備されていないようだが(3〜5 枚目の写真)、野性的な趣きがある。この日も賑わっていた。
このように記されたいます。私も妻もターシャ・テューダーの庭には関心があり、木や草花の育て方に共感するところが多いです。NHK が 2005 年、ターシャが 90 歳の時、輝きの季節 6 月に初めて取材し、その後 1 年を追って記録した『喜びは創りだすもの ターシャ・テューダー四季の庭』の再放送を見ました(BS プレミアム、2011 年 12 月 9 日)。絵本作家時代の 1971 年にバーモント州のこの地に移り住んで、30 年間にわたり 30 万坪の広大なこの庭をつくりだした話と、その四季折々の美しさが 1 時間 50 分に詳しくまとめられていました。人気番組らしいので、NHK のプログラム相談に電話で再放送の可能性について聞きましたら、7 月 22 日 BS プレミアムのアーカイブズで 12 時から 1 時間の再放送をするとのことでした。

 ターシャが庭つくりを決心したとき、家具職人をしていた息子のセスが一人で営々と手作りで、母屋や温室、ニワトリ小屋、ヤギ舎、ハト小屋などを森に囲まれるように配置した、ターシャのコーギコテッジを造りました。セスは、母は「決心の人」で一度決心したらそれを実行する人、といい、スープのさめない距離に本人も住み、毎朝 10 時に訪れ、庭つくりを支援してきました。孫のウィンズローと若き妻も。殊に若い妻は熱心にターシャと共に庭つくりに励んでいました。

 ——思う存分庭つくりをしてみたいと、土を耕し木を植えることから始めた 30 年。庭を見て回り目で確かめていく。種から育てたのが自慢、設計はしない、ただ、好きな花を植えていく、一番美しく咲く花を選びぬいている。季節で一番適した花を植えていく。花に適した場所を探すため 3 カ所に植えて、適地を探すのに 12 年はかかる。同じ種類の花でも、土の成分によって色が異なる。pH など計って花の色調を考えて土質を変化させた。時間をかけてということは、それだけ愛情を注ぐこと。爆弾という紫紺の色鮮やかな花が雑草と呼ばれる花と共存して美しい色調をだしている。年 2 回、絵本の愛読者を招き歓談し共に楽しんでいる。自然と育った庭、だんだん年を取って来て、これからは庭を自然に返していこうと思っている、それも私らしいでしょう。「皆が助けてくれるので、絵を描き庭仕事ができた。今が一番幸せ」——と、家族の皆に感謝しているところで結んでいます。

 ターシャはシャクヤクの花が好きで、バラについては、大変よく勉強し、力を注いでいました。この放送は、最晩年のこの美しい庭とターシャの信条をまとめた傑作だと思いました。庭つくりの原点は、彼女の幼少時に接したグラハム・ベルにあったというエピソードは、ベルの知られざる一面を知り得る興味深いものでした。

 国連の人口統計では、2050 年には人口が 96 億人を超えると予測しています。このような未来に、エネルギー・資源の持続性のある世界を築かねばならないという難題が立ちふさがっています。この解決のためには、暮らし方や文化を原点から考え直すことが必要だといわれています。19 世紀の入植時代の生活に憧れ、農村のライフスタイルの生活をし、一人でこつこつと広大な庭つくりをしてきたこの生き方は、一つの回答を提示するものでしょう。

(2) プーシキン美術館展(バス旅行「プーシキン美術館展とバラの花園」5
 モスクワのプーシキン美術館が世界に誇るフランス絵画は、女帝エカテリーナ 2 世を初めとする歴代皇帝や貴族、大商人らによる情熱的な収集によって形成された一大コレクションである。その中の、プッサン、アングルから、ドラクロワ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホ、そしてピカソ、マティスまで、300 年にわたるフランス美術の変遷をたどれる 66 点が展示されていた。
という興味深い展覧会で、現在、横浜美術館で 7 月 6 日から 9 月 16 日まで展示されています。私も妻とゆっくり鑑賞したいと思っています。

(3) 宇治・京都への小旅行

 宇治(黄檗)は大学 1 回生の時 1 年間通ったところでもあり、その後時々出かけていますので、興味深く読ませていただきました。
 宇治では、JR 西日本が 10 年余り前に発行した『駅からはじまるハイキング MAP』の「4. 宇治コース:源氏物語・宇治十帖を歩く」を参考にして歩く予定だった。しかし、当日は「真夏日」の気温になる予想だったので、コースを大幅にはしょり、一部だけを歩いた。
とありました。宇治十帖は宇治周辺を中心に展開されていますね。難コースでなければ一度訪ねてみたいものです。

 また、
 京都市学校歴史博物館で見学した企画展『挿絵と表紙からみる教科書の世界』[...]。終戦直後に部分的に墨塗りして使われた戦前の教科書(同じ教科書の墨塗りされていないものとともに展示)が、軍国主義の愚かさの歴史を示していた。明治から昭和にいたる学校の歴史を資料や写真で示した常設展示も見応えがあった。
ともありました。私たちの小学校(国民学校)時代の国語、修身、唱歌については、3 歳年上の姉が朗読したり歌ったりしたのを聞いたものを合わせると、1 年生から 6 年生までの部分をうろ覚えに記憶しています。はっきりと記憶している例の一部として、「君が代少年」、「軍犬利根」、「スレンバンの少女」、「不沈艦(英国の戦艦プリンス・オブ・ウエルズ)の最後」、題名は憶えていませんが修身の教科書にあった、佐久間艇長の遺書など。これらは今読んでも当時の世相が分り、参考になると思います。もちろん、軍国主義に関係のない、「乗合自動車」、「川をくだる」、「潮干狩り」、「振子時計」などもありました。いつか京都市学校歴史博物館を訪れて、当時の記憶をたどりたいと思っています。

2013年7月18日木曜日

墓参途中の観光 3 (Sightseeing On Our Way of Visiting Graves -3-)


 越前市でのささやかな観光のあと、われわれは「かんぽの宿福井」に宿泊した。たいていの「かんぽの宿」はそうだが、この宿も小高い山の上にある。山の名は兎越(おさごえ)山という。標高 82 mで足羽(あすわ)山、八幡(はちまん)山に並ぶ足羽三山の一つをなしている。近くに「おさごえ民家園」があるということだが、訪れる時間がなかった。宿の窓からの風景を翌朝スケッチした(上掲のイメージ)。

 福井駅への宿の送迎車や金沢への列車に乗っている間には雨が降ったりしていたが、金沢到着後は雨に会うこともなく墓参が出来た。ただ、今年は新盆の時期が三連休と重なったため、野田山墓地近くの墓参用品の店では花の売り切れが相次ぎ、三軒目でようやく入手出来たという珍しい事態に遭遇した。同じ旅について長女が記したブログ記事を、こちらでご覧になれる。(完)。


After a modest tourism in Echizen City, we stayed at the hotel "Kampo no Yado Fukui." Most of "Kampo no Yado" are located on a small mountain, and this hotel was also on the mountain of the name Mt. Osagoe (82 m above sea level). This mountain is one of three Asuwa Mountains together with Mts. Asuwa and Hachiman. There is Osagoe Minka En (Osagoe Old House Garden) near the hotel, but we did not have time to visit there. Next morning, I sketched the landscape from the window of the hotel (the above image).

While we were riding the courtesy car of the hotel to Fukui Station and a train to Kanazawa, it often rained, but luckily we were not caught in the rain after arriving at Kanazawa. Because the days of bon in the solar calendar coincided with three consecutive holidays this year, flowers were sold out one after another at the shops near Nodayama Cemetery. So, we had a rare experience of getting flowers only at the third shop we entered. You can read our daughter's blog post on the same trip here (in Japanese). (End)

2013年7月16日火曜日

墓参途中の観光 2 (Sightseeing On Our Way of Visiting Graves -2-)


 「蔵の辻」の木陰で一休みしたあと、われわれは紫式部公園へ向かった。1 枚目の写真は、同公園の西門。ここは、紫式部が父藤原為時に従ってこの地に滞在していたことに因んで造られた寝殿造庭園で、文化勲章受章者の圓鍔勝三(えんつば かつぞう、1905–2003)が制作した金色に輝く紫式部像(2 枚目の写真)や、 4 基の紫式部歌碑、釣殿、泉池、自由広場、藤棚などがある。

 式部像の傍らに、美術評論家・河北倫明 (1914–1995) による「紫式部像によせて」の碑文(1986 年筆。3 枚目の写真)があり、式部像は武生市が市制 35 年を記念して建立したものと記されている(武生市は 2005 年に今立町と合併し、越前市に生まれ変わった)。また、背景の庭園は、庭園研究家・森蘊(もり おさむ、1905–1988)の設計によるものであることも記されている。

 紫式部歌碑は 4 基とも、各々の説明板と合わせて撮影したが、ここには、谷崎潤一郎揮毫の碑を掲載する(4 枚目の写真)。「ここにかく 日野の 杉村 埋む雪 小塩の松に けふや まがへる」と記されている。「越前国府では、日野岳に群立する杉をこんなに埋める雪が降っている。都でも今日は小塩山の松に雪が降っているのだろうが、そんな景色が思い出される」の意である。

 5 枚目の写真は泉池。一番下の写真は、紫式部公園から越前市の「まちなか」近くまで続く遊歩道。娘は、この道を出はずれたところのコンビにで接着剤を購入し、公園に向かったときから底がはがれかけていたサンダル式の靴を無事に修理した。(つづく)


After having a rest in the shade of "Kura no Tsuji", we went to Murasaki Shikibu Park. The first photo shows the west gate of the park. The park is actually a garden of Shinden-zukuri, which was built in honor of the fact that Murasaki Shikibu stayed in this area together with her father, Fujiwara no Tametoki. The garden includes a golden statue of Murasaki Shikibu (the second photo) produced by Katsuzo Entsuba (1905–2003), four monuments inscribed with Murasaki Shikibu's tanka, a fishing hall, a pond, a free field and a wisteria trellis.

Beside the statue of Murasaki Shikibu, there is a monument inscribed with "About the statue of Murasaki Shikibu" (1986; the third photo) by the art critic, Michiaki Kawakita (1914–1995). According to the inscription, the statue was made to commemorate the 35th anniversary of Takefu City (the city absorbed Imadate Town in 2005 to become Echizen City), and the garden was designed by the researcher of gardens, Osamu Mori (1905–1988).

I took photos of all the four tanka monuments together with description plates of them. The fourth photo is the one chosen among those. The inscription is based on Junichiro Tanizaki's calligraphy. The meaning of the tanka, "Koko ni kaku Hino no sugimura uzumu yuki Oshio no matsu ni kyo ya magaeru" is as follows: "In Echizen Kokufu, snow is falling so much as to hide a pine forest on Mt. Hino, making me think of snow falling today on pines of Mt. Oshio, Kyoto."

The fifth photo is a shot of the pond in the garden. The bottom photo shows the promenade that goes from Murasaki Shikibu Park to the vicinity of the downtown of Echizen City. At a convenience store just outside the promenade, our daughter bought an adhesive, successfully repairing her shoes, the bottoms of which had been pulling away from the time we had headed to the park. (To be continued)

2013年7月14日日曜日

墓参途中の観光 1 (Sightseeing on Our Way of Visiting Graves -1-)


 7 月 13 日、妻と私は長女を伴って、郷里・金沢に祖先の墓を訪れた。その前日、武生で途中下車して、少しばかりの観光を楽しんだ。まず、JR 武生駅から徒歩約 10 分の「ちひろの生まれた家」記念館を訪れた。これは、絵本画家いわさきちひろの生家を復元した資料館で、2004年10月にオープンしたものだが、当日(金曜日)はあいにく休館日で、館の前面を見て写真に撮っただけとなった(1枚目の写真。記念館のホームページでは、開館日が「金・土・日・祝日」となっていたが、最近、金曜日も休館に変ったのである)。

 この記念館から数分歩くと、白壁の蔵が建ち並ぶ「蔵の辻」がある(2 枚目以下の写真)。この地区は江戸時代以降、関西から北陸方面への物資の中継地区として栄え、商人たちの蔵が並んでいた。その蔵の外観をそのままに、店舗や住宅として再生し、観光スポットとしたものである。平成13(2001)年度都市景観大賞「美しいまちなみ大賞(国土交通大臣賞)」を受賞している。(つづく)


On July 13, my wife and I visited the graves of our ancestors in my hometown Kanazawa, together with our elder daughter. On our way there the previous day, we got off the train at Takefu to enjoy a little bit of sightseeing. First, we visited "Chihiro's Birthplace" Memorium Museum located at about 10-minute's walk from the JR Takefu station. This is the museum opened in October 2004 at the birthplace of Chihiro Iwasaki, an artist and illustrator known for her water-colored illustrations of flowers and children, in order to display her materials used by her and her works. Unfortunately, it was closed on the day of our visit, i.e. on Friday (on its Web page, it was written that the museum was open on Friday, Saturday, Sunday and holidays, but Friday was excluded from those days quite recently). So, we saw only the front side of the museum and took a photo of it (the top picture above).

Walking a few minutes from the museum, we got to "Kura no Tsuji," where storehouses with white walls lined (see the second to the bottom pictures). Since the Edo period, this area flourished as the place of transit of goods from Kansai to Hokuriku, and merchants' storehouses were built. By restoring the appearance of those storehouses, shops and houses were made here as a sightseeing spot. This area was chosen for "Beautiful Cityscape Award (Minister of Land, Infrastructure, Transport and Tourism Award)" of the 2001 fiscal year. (To be continued)

2013年7月11日木曜日

6月後半の花々 (Flowers in the Latter Half of June)


 掲載が遅れたが、6 月 18 日から 25 日にかけて撮影した花々の写真である(* 印はわが家の庭で)。上から、ユリ*、白花のキョウチクトウ、サフランモドキ*、セイロンベンケイ*(二度咲き)、クチナシ、ノウゼンカズラ。

Belatedly posted below are the photos of flowers taken from June 18 to 25 (the symbol * indicates that the photo was taken in my yard). From top to bottom, lily*, oleander with white blossoms*, rain lily pink, air plant* (reblooming), common gardenia and Chinese trumpet vine.

2013年7月9日火曜日

近畿地方梅雨明け (End of the Rainy Season in Kinki)


 『ウィキペディア』の「タチアオイ」の説明に、「ちょうど梅雨入りの頃に咲き始め、梅雨明けと共に花期が終わる(花茎の頭頂部まで開花が進む)ことになぞらえて、「ツユアオイ(梅雨葵)」という別名も冠されている」とある。わが家のタチアオイが一昨日、上の写真のように頭頂部付近まで開花していたので、梅雨明け間近と思っていた矢先、昨日午前 11 時に、九州、四国、中国、近畿、東海は梅雨明けしたとみられると、各気象台からの発表があった。統計開始以来、近畿では3番目に早い梅雨明けだという。

In the explanation of "tachi-aoi (hollyhock)" in "Wikipedia" (Japanese edition), it is written, 'The flower season of this plant starts around the beginning of the rainy season and comes to an end (flowering progresses to the top of the stalk) around the end of the rainy season. Thus, this plant has another name, "Tsuyu-aoi (mallow in the rainy season)".' The day before yesterday, I saw a hollyhock in my yard blooming almost to the top as seen in the photo above. So, I thought the end of the rainy season is very close. At eleven o'clock, yesterday morning, the end of the rainy season in Kyushu, Shikoku, Chugoku, Kinki and Tokai was announced from the weather station in each district. It was also reported that, since the weather statistics were started, this is the third earliest end of the rainy season in Kinki district.

2013年7月8日月曜日

和歌山へのバス旅行 4 (Bus Trip to Wakayama -4-)

 以下は、あじさい曼荼羅園で撮った写真の続き。

Some more photos taken in Mandala Hydrangea Garden are shown below.

「ラブユーキッス」というアジサイの品種。
A variety of hydrangea called Love-you-kiss.

斜面一杯に咲くアジサイは、日陰と日向が交互にあって、美しく撮ることが難しい。
The hydrangeas blooming on the full surface of slopes are difficult to shot beautifully
because sunny and shaded places alternate there.

ハンゲショウ(半夏生)。花期に、葉の表面が先端近くまで白くなり、花期が過ぎると、緑色に戻る。地味な花に昆虫を引き寄せる自然の工夫だと、先日テレビで聞いた。
Chinese lizard's tail. In its flowering season, the upper surface of the leaves of this plant turns white except near the tip and goes back to green after the season. The other day, I learned on television
that this is an ingenious design of nature to attract insects to the sober flower.

「墨田の花火」というアジサイの品種。
A variety of hydrangea called Fireworks of Sumida.

デイリリー(ヘメロカリス)。
Daylily (Hemerocallis).

 梅雨の合間の、晴れてあまり暑くもない日に恵まれ、よいバス旅行だった。帰途に交通渋滞に会うこともなく、予定の午後 7 時半より 30 分ほど早く大阪へ帰着した。

It was luckily a day sunny but not too hot in the rainy season, and we had a good bus trip. Without encountering a traffic jam on the way back, we returned to Osaka about 30 minutes earlier than the scheduled time of 7:30 pm.

(完)
(End)

2013年7月6日土曜日

和歌山へのバス旅行 3 (Bus Trip to Wakayama -3-)

 午後は、園内面積約 2000 坪に約 120 種、約 1 万株のあじさいが咲くというあじさい曼荼羅園(まんだらえん)へ。同園は、和歌山県西牟婁郡の山岳寺院、救馬渓観音(すくまだにかんのん)の山頂付近にあり、正式に開園したのは 2002 年 6 月である。

In the afternoon, we visited Mandala Hydrangea Garden, which have about 120 species and ten thousand roots of hydrangea planted in about 6600 square meters area. The garden, located near the top of the mountain temple, Sukumadani-kan'non, Nishimuro District, Wakayama, was officially opened in June 2002.

林の間に沢山のアジサイが咲いている。
Many hydrangeas are blooming in the forest.

山頂からの眺め。
View from the top of the mountain temple.

ウズアジサイという品種。
A variety of hydrangea called Uzu-ajisai.

パリという品種。
A variety of hydrangea called Paris.

斜面に一杯のアジサイ。
Hydrangeas full on slopes.

(つづく)
(To be continued)

2013年7月4日木曜日

和歌山へのバス旅行 2 (Bus Trip to Wakayama -2-)

 昼食は、庭園の美しい和歌山の「あおい茶寮」で紀州料理を楽しむ。

For lunch, we had the cuisine of Kishu Wakayama at the restaurant Aoi Saryo with a beautiful garden.

「あおい茶寮」の門。
Gate of Aoi Saryo.

門の脇にある「父母状の碑」。若い男が父親殺しの大罪にも悔いない様子を聞いて、藩主・徳川頼宣が藩民のために、「父母に孝行に法度(はっと)を守り奢(おご)らずして面々家職を勤(つとめ)、正直を本とする…」という「訓論」を記し、漢文学者・李梅渓に
浄書させたもの。
Monument of the teaching on parents at the side of the gate. Hearing that the young man who killed his father does not regret the gross sin, the feudal lord, Tokugawa Yorinobu, prepared the document of teaching, Kun-ron, for the people in his district. It reads, "People should be dutiful to their parents, obey the laws, diligently do their own work, be honest, ..." He had the scholar of Chinese literature, Ri Baikei, make a clear copy of this document. The letters of this monument
were made from that copy.

江戸時代には、和歌山城の一角に位置した、400年以上前に造られた名庭園。
Garden of Aoi Saryo. During the Edo period, this garden, built over 400 years ago,
was located at a corner of Wakayama Castle.

料理の一部。
Part of the cuisine.

「あおい茶寮」近くの道路から見た和歌山城の天守閣。
Tower of Wakayama Castle as seen from the road near Aoi Saryo.

(つづく)
(To be continued)

2013年7月1日月曜日

五色の子守歌

[This post is in Japanese only.]


きょう撮影したムクゲの花(記事に無関係)。

 13 年前に私が朝日紙への投稿で関わり、 2008 年に旧 Ted's Coffeehouse ブログサイトの記事にもしていた子守歌の題名が、このほど「五色の子守歌」と判明した。その経緯はあとで述べることにして、まず、ウェブ上では消滅してしまった上記の記事を引用する。(角ガッコ内は引用に当たっての追加。)
ある子守歌
2008年3月12日

 以前朝日新聞に、子守歌のルーツを知りたいという、ある婦人[尾道市在住、当時54歳]の投稿があり、それに対して私が、その歌は私の母もよく歌ってくれたという投稿をした。先日、それらの記事の切り抜きを見つけた(1990年5月9、18日、6月1日づけ)。子守歌の歌詞は次の通り。

  ねんねころころ浜の石
  ころころころんでどこへゆく
  波にもまれて淡路島
  かよう千鳥の浜へゆく
  わたしもゆきたい夢の島
  夢の島には五色浜
  花よりきれいな白い石
  星よりきれいな青い石
  なけば千鳥がとんでゆく
  なかずにゆきましょ夢の島

 投稿者の婦人がこれを歌って、知人に採譜して貰ったという譜面も印刷されていて、母が歌ってくれたのもその通りだったと思った。曲には、歌詞の下4、3両行のところで急に早いテンポになるハイカラさがある。

 私自身は歌詞はうろ覚えだったが、兄が小学校3年生で死亡したあとの、私が3、4歳の頃にも、寝床で聞かされたと記憶している。その頃の私は、風邪などでよく寝込んでいたので、夜の就寝前だけでなく、昼間でも、お話の本(国内外の童話を集めた読み聞かせ用の分厚い本が家にあった。小学校へ入る前には、それを自分で読んで楽しんでいた)を読んで貰うとか、歌を歌って貰うことをせがんだのだろう。

 この子守歌と一緒によく聞かされたのは、「わたしが女王様になったなら」で始まるオペラ風の歌だった。その歌には台詞も入っていて、何人かの女性がどのように優雅な暮らしをしたいかを歌ったあと、最後の一人が、周囲の人びとに幸せを与えながら、つましい暮らしをしたいと歌う趣向になっていたように覚えている。

 私の投稿は、記憶の中で子守歌とこの歌とが不可分のものになっていることを、ルーツ探しの参考になればと思って記したもので、「ルーツが早く明らかになることを祈ります」と結んでいる。

 私の投稿と同時に他の2編が掲載されていた。その一つは、母上の生年が私の母と同じ明治35年である婦人からのもので、母上より3歳年下の叔母が亡くなる前に、病院で付き添っていた夜中に歌って聞かせたところ、叔母がそれは『婦人の友』の懸賞歌だったと話してくれたと記している。もう一つは、当時80歳(明治40年生まれ、[海南市在住])の男性の投稿で、小学校で習い、忘れることのできない歌の一つ、と述べている。

 最初の投稿者からの礼状が、2週間後に掲載された。その中で、私の書いた「わたしが女王様になったなら」の歌を、子守歌の替え歌と誤解されているのが気になった。

 この記事を掲載した年の 7 月になって、私は同じ子守歌について『七十代万歳!』(現『八十代万歳!』)というブログサイトに、同じ歌についての記事「私だけの子守唄」(2006 年 2 月 15 日付け)を見つけ、コメントを記した。そのブログの著者・中谷久子さんが、私の一昨日のブログ記事のコメント欄に、「古い記事に、コメントを頂いていましたのに、昨日まで気付かなかったことを、記事に書きましたら、お仲間がこちらのブログを教えてくださいました。遅まきながら、5 年前のコメントにお礼申し上げます」と書いて下さった。

 中谷さんのブログサイトを訪れてみると、「5 年前に見落としたコメントが——五色の子守唄」という記事があった。中谷さんは、この記事の中で、2006 年の記事への c ちゃんさんという方からのコメントで子守歌の題名が分ったと書いておられた次第である。

 c ちゃんさんのコメンによれば、彼女は淡路島の生まれで、以前所属していたコーラスグループで五色の子守歌を歌っていたということである。コメントを書いた前日にも淡路島の五色浜へ行って来て、ブログにこの子守歌の歌詞を書いた縁で、中谷さんの「私だけの子守唄」の記事に気づいたそうだ。

 そういえば、歌詞には「淡路島」と「五色浜」の地名がちゃんと詠み込まれている。歌詞をうろ覚えだった私には、「夢の島」という言葉の印象が強くて、架空の海岸が詠まれているように思っていた。

 なお、淡路島テレビジョンの「菜の花コンサート」というウェブページ(2010 年 3 月 30 日付け。後日の注:その後リンク切れ)に、五色地域の人たちが所属するコーラスグループ「五色サルビアエコー」が、結成のきっかけとして 1990 年に 90 年ぶりに復活した子守唄、「五色浜の子守唄」を、この「菜の花コンサート」でも歌ったということが書いてあるのを見つけた。


 後日の追記:上記「菜の花コンサート」ページの日付け中、年を「2000 年」と誤記していたので訂正した。