2004年11月30日火曜日

Google Scholar Beta (グーグル学術論文検索テスト版)

 さる11月18日にグーグル学術論文検索エンジンのテスト版がウエブに登場したことを、Nature 誌11月25日号で知った。試しに自分のフルネームで検索してみると15件、ファーストネームの頭文字と姓に、元所属の名称の一部を加えての検索では、70件余のヒットがあった。しかし、後者には他の類似の著者名のものがいくらか、まぎれ込んでいる。"Hideki Yukawa" で試すと85件。通常のグーグル検索エンジンにあるような advanced search(検索オプション)のページがまだ用意されていないので、検索の絞り込みなどを行うのに不便であるが、いずれ備えられるのであろう[後日の注記:その後用意された]。

 アブストラクトを公開している機関が調査した当該論文の被引用件数が、論文題名のあとに表示され、そこをクリックすると、引用している論文のリストが現れる。私の学位論文(Physical Review 誌掲載)の被引用件数は4とある。その引用論文を見ると、Physical Review 誌掲載のもののみが集められている。各種雑誌中での引用を合わせれば、数十件あるはずである。この検索エンジンがそこまでの情報を与え得るようになるためには、Science Citation Index 誌の協力が必要であろう。

 私自身のウエブサイトにおいてある元所属研究機関・大学の論文誌中の論文や報告書のPDFファイルまでも出てくるので、かなり膨大なデータベースが構築されていることがうかがえる。退職者が大学等の図書館へ出かけて行かなくても、自宅で文献をある程度知ることができるようになったことは喜ばしい。各出版社が近い将来、アブストラクトだけでなく、論文本体の大幅な無料公開をして、インターネットによるデータ利用に協力することが望まれる。

[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

S 12/01/2004 12:53
 Googleは世界に冠たる検索エンジンで、学術論文も多数掲載されていることは知っていました。引用回数や重要性を考慮してデータベースの構築を行っているようですね。しかし、まだβ版ですから、これからも進化を続けるものと期待しています。Tedさんが言及されたニュースは、米Google、学術論文サーチエンジン「Google Scholar」ベータ版発表 にも載っています。
 学術論文を広く開放することは、学生、教育者、研究者、企業、一般人にも有益なことであり、「各出版社が近い将来、アブストラクトだけでなく、論文本体の大幅な無料公開をして、インターネットによるデータ利用に協力することが望まれる」というご意見に賛同するものです。「無料開放」に関する問題は、コンピュータの世界にもあり、個人向けコンピュータの世界ではマイクロソフトが圧倒敵なシェアを確保しています。ただし、ソースは公開されていません。ベンダー側もマイクロソフトの要求する性能を飲まざるを得ない状況が起きています。
 そこで、登場するのが、Linux です。Linux は Operation System のソースを無料で開放していますので、世界中のエンジニアが寄ってたかって、よりよいものにしようと開発が続けられており、どんどん進化しています。アメリカのコンピュータ会社 DELL は Linux をプリインストールした PC を用意しています。企業が運用する大型サーバについても、OS の軽さと、その堅牢性から、Linux を採用するところが増えており、この分野でのマイクロソフトのシェアは落ち続けています。マイクロソフトが OS の公開をすれば、最初はシェアが落ち込んでも、長い目で見れば結果的にはマイクロソフトのためにもなると考える人は多いです。
 マイクロソフトの統合ソフト Office についても、Open.Office.Org がそれに対応して同等の機能を搭載した統合ソフトをフリーでダウンロードできるようにしており、これも日々進化を遂げています。

Ted 12/01/2004 13:47
Thanks a lot for writing much about related information.

2004年11月29日月曜日

鏡の世界:解答編

T.M 様

 「一物理屋のコメント」が「難しい用語が並んでいて、言いたいことがよく分からない」とのこと、おっしゃる通りかと思います。『鏡の中の左利き』の本論がかなり学問的に書かれていて、それに調子を合わせました。また、鏡像の問題については、いろいろ反論をする人も多いので、それを防御するための予防線をたくさん張った書き方をしたことが、あの文を分かりにくくしている、もう一つの原因かと思います。そして、なによりも、「鏡像の謎」自体が多くの人たちに正解を拒んできた厄介ものである、ということがあります。

 ご参考までに、共著者と私が心理学専門誌で展開した説明を、ここにもう少し分かりやすく書いてみます。

 まず、「鏡像の謎」でいう上下と左右は、実物と鏡像のそれぞれについての上下、左右と見なします(そうしないと、問い自体にいろいろな反論がでます)。普通、「上」といえば、重力場の上方に位置する側という意味ですが、「鏡像の謎」では、人体での「上」は頭、「下」は足というように、外観から判断されるものになります(由来としては M さんがお考えのように、重力に関係しています)。そして、「前」と「後」は、腹と背です。

 ところが、左右方向には、普通の人体では外観での区別がなく、上下、前後の場合のように、「左」は何なに、といえる人体の部位はありません。それで、左右は、上下と前後が先に決まって、それらとの関係で初めて決まる向き、という概念に定着したのです(その結果として、直円すい体や矢のように、上下または前後がはっきりしていても、上下と前後の両方の区別がそろっていない物体には、そのもの自体の左右は決められません)。

 ところで、鏡映では、鏡面に垂直な向きが逆転され、非対称な物体の鏡像は、その対掌体(左手に対する右手のような関係の物体)と呼ばれるものになりますが、非対称な物体はどんな一方向について逆転させても、対掌体に変わります。したがって、鏡像についても、実物同様に、上下と前後が外観からの判断でまず決められ、その結果、最後に決まる左右の向きに逆転が押しつけられてしまうのです(そして、これは対掌体のでき方との矛盾はないのです)。

 要は、「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」ということです。

 ご理解いただけましたら幸いです。

 Ted

翌日の追記

 1999年9月14日付け朝日新聞の大岡信「折々のうた」に次の短歌が取り上げられていた。ちょうど、共著者と私の鏡の謎についての反論が心理学専門誌に掲載されることが決まった頃だったのが面白い。いつか鏡の謎について和文で書くときに利用しようと思って切り抜いておきながら、忘れていたのが、いま、ひょっこり出てきた。大岡信の解説にも「鏡に映ると顔の上下はそのままなのに、左右は入れ替わって見える。鏡の不思議である。」とある。

左右非対称のわが顔鏡に見てゐしが人の見る顔と左右がちがふ ――尾崎左永子『夕霧峠』


 
[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

yt 04/29/2006 02:31
 「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」ということですが、どのようにして決まるのでしょうか? 関数的に決まるのでないことはたしかですが、すると上下と前後が決まったからといって、そのことから自動的にあるいは必然的に決まるわけではないと思いますが。

Ted 04/29/2006 08:18
 「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」といえる根拠は、それ自体の上下・前後の二つの向きを揃えて持たない物体には左右もないということです。たとえば、本文にも書きましたように、直円錐には上下だけ、また、矢には前後だけがあるといえますが、それぞれ上下軸、前後軸の回りに任意角度の回転対称性を持っていて、前後または上下がなく、左右もありません。
 上下と前後が決まっているものについて、実際に左右を決めるには、重力の向きと東西南北というような別の系を借用する必要があります。すなわち、北を向いて立っているとき、東にある方が右、というように。
 時計回りと普通のネジの進む向きという対も利用できますが、時計回りは「右回り」、普通のネジは「右ネジ」ともいわれるので、左右を決めるのに左右の概念自体に頼るようなことになり、こちらの方は避けたい説明です。

yt 04/29/2006 09:52
 ありがとうございました。続いておたずねいたします。「北を向いて立っているとき、東にある方が右」ということですが、北を向いて立つとき、どちらが東かをどのようにして知るのでしょうか?『広辞苑』「北」や「東」をみていくと循環していることに気づきましたので、このようなことを質問しました。

Ted 04/29/2006 10:44
 いろいろとよいご質問をいただき、ありがとうございます。
 確かに『広辞苑』の「北」の説明には「日の出る方に向かって左の方向」とありますが、これは、科学的でなく、便宜的なものと思います。
 たとえば、"Compact Oxford English Dictionary" の "north" の説明には、"the direction in which a compass needle normally points, towards the horizon on the left-hand side of a person facing east" とあります。後半にはやはり「左」が出て来ますが、前半の「磁針の指す方」だけで十分な説明になっており、東は「日の出る方」と考えれば、循環は起こりません。
 なお、厳密にいえば、磁針の指す北、つまり地磁気の北は、北極(地球の自転軸と地球表面との交点の一つ)からは少しずれていて、経年変動もしていますし、日の出る方も一年を通じて若干移動しますが、それらの差は左右を決めるのに問題にはならないでしょう。左右方向自体が厳密な一直線ではなく、いくらか幅のあるものでよいのですから。

yt 04/29/2006 11:57
 ありがとうございました。最初の説明では、「それ自体の上下・前後の二つの向きを揃えて持たない物体には左右もない」ので、これは「左右は、上下前後が決まらなければ決まらない」ということだと思います。このことは「左右は上下前後が決まれば決まる」ということとはちがうと思います。つまり質問の趣旨は、上下前後が決まることは、左右が決まることの必要条件であるが、さらにまた十分条件でもあるのだろうかということでした。そして、十分条件でもあるとすれば、そのくわしい内容はどのようなものかをおたずねした次第です。そこで「北に向かって立つとき、日の出る方」が右であるとされました。そこで二つの質問が出てきました。一つは、これによる「右」の決め方は日の出の時でないと有効ではありませんが、わたしたちはじっさいに一度でもこのような決め方を(教える場合であれ、教わる場合であれ)使ったことがあるのでしょうか? 磁石をもって日の出を待つというこの決め方をもし使っていないなら、他の決め方があるにちがいありません。二つには、わたしたちは一度教わった右をどのようにして保持しているのでしょうか? つまり、自分自身のうちに何らかの非対称性が成立していなければ、一度教わった左右の区別を保持することはできなく、そのつど外部のなにかを参照しなければなりません。しかし、これは事実に反しているように思われますので、第二の質問を付け加えました。

Ted 04/29/2006 14:38
 「十分条件でもあるのだろうか」と書いていただき、最初のご質問の意味がはっきりしました。記事中の「左右は、上下と前後が決まってはじめて決まる」という文は、「左右は上下前後が決まれば決まる」という十分条件の記述とはニュアンスが異なる、つまり、むしろ必要条件の記述のつもりで書きました。したがって、最初のご質問への答えとしても、他に必要な、比較ということについて述べました。
 「日の出の時でないと有効ではありません」との件ですが、居住している場所であれば、日の出の方角がどちらか、あるいは東自体がどちらかが、日の出を待つまでもなく分かっていて、常時有効です。しかし、「北を向いて…」というのは原理的な説明で、通常左右をどうやって判断するかといえば、自分の利き手や心臓の位置(いみじくも書かれている「自分自身のうちの何らかの非対称性」)を補助として記憶(ご質問の「一度教わった左右の区別の保持」)をしているのです。ただし、利き手や心臓の位置は、個々人の左右の記憶には有効でも、一般的な説明としては有効ではありません。心臓はごくまれに右にある人もいるのです。そういう意味で、決定の基本としては「北を向いて…」というようなことが必要になりますので、最初のご質問に対し、これを持ち出した次第です。
 私は幼いときに一時左利きだったことがあり、また、いまでも平素あまりしないことをする、たとえばドライバーでネジをまわすようなときには、つい左手が出たりします。そのせいか、左右の判断が遅いほうです。心理学の専門家の調査でも、左利きや両手利きの人たちの左右判断力は、右手利きの人たちより弱いという結果が出ていたように思います。

yt 04/29/2006 19:26
 ありがとうございました。要点が二つあるように思います。まず、上下と前後が決まることは左右が決まるために必要な条件であるという点です。これについてはまったく同感です。また、上下と前後が決まれば、そのことから左右の区別が関数的あるいは自動的あるいは必然的に決まるわけではないというように理解して差し支えないと推察します。
 そのさきの話が分明でないのですが、以下のように整理してみました。左右の区別の決まり方の説明として、原理的一般的な説明と通常のやり方の説明とある。前者は決定の基本を述べるものであり、後者は個々人による補助的な決定にかかわるものである。
 前者によれば、右は「北に正対して日の出る方」となります。そして居住している場所にかぎっては日の出をじっさいに目撃しなくてもよい。それは、おそらく見慣れた風景その他が参照されているからだと思います。しかし、風景の中の何がじっさいに参照されているかは、まさしく個人的なことがらのように思います。また、極地付近でも「北に正対して日の出る方」でよいのかどうか判然としません。なによりも、この原理的一般的な説明は、それによってわたしたちがじっさいに左右の区別をするためのものではなく、すでに知られている左右の区別を外部の非対称性に関係づけていうとすれば、どのようになるかをいうものではないかと思います。ですから、必ずしも厳密に規定しなくてもすむのではないでしょうか。
 後者についていえば、話は分かりやすく、そしてこちらのほうがむしろ重要な点ではないかと思います。左右の区別が歴史的にどのように決まったのかは難問ですが、どのように教えればよいかは分かっています。それは、教わる側の上下部と教える側の上下部を、そして教わる側の前後部と教える側の前後部を、じっさいにまたは想像上において、一緒にそろえて、それから自分の右部と同じ側の手を「こっちが右手だよ」というふうに教えます。教わった方はその右手を自分の備えている非対称性に結びつけます。それはなんであってもよいのですが、最も多くは利き手の非対称性だと思います。
 大事な点は、このようにしてして教わったとき、教える者と教わる者との上下前後左右がそれぞれ同じ側にそろうことができるという点が必然的であるということで、そのために左右は非対称性から自由になっており、またそのために人によっては利き手が右、人によっては利き手が左ということになるのではないでしょうか。ここには原理的一般的な記述はすこしも用いられていません。北も日の出も見慣れた風景も必要でなく、いつでもどこでも、ある人が他の人に左右の区別を教えることができます。決定の基本はまさしくこの教え教わるしかたのなかにあるのではないでしょうか。

Ted 04/29/2006 20:02
 「そのさきの話が分明でない」以下に書いていただいたことは、全くおっしゃる通りだと思います。鏡像が左右逆転したと認識する理由を考えるには、「上下と前後の決まることが、左右が決まるために必要な条件」というところまで分かれば、ほぼ十分でしたので、そのさきについての考察をいままで注意深く行っていなかったところから、ボロが出ました。ご質問にお答えしていたつもりが、かえって重要なご教示をいただくことになりました。ありがとうございます。ytさんは教育関係のお仕事をされているのでしょうか。

Ted 04/29/2006 20:20
 追伸:上の返信を書いてから、ytさんの最後のパラグラフにもう一度目を向けましたところ、「教える者と教わる者との上下前後左右がそれぞれ同じ側にそろうことができるという点が必然的であるということで、そのために左右は非対称性から自由になっており」のところが、ちょっと気になりました。「そのために左右は非対称性から自由になっており」というより、逆に、もともと人体は外見的にはほぼ左右対称であり、このことから、「上下と前後が決まることが、左右が決まるために必要」という左右の性質ないしいは定義方法が生じたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

yt 04/29/2006 22:02
 ありがとうございました。わたしは大学を退職した者でまさしく教育関係の仕事をしておりました。専攻は哲学です。関連した論文も書いてはおりますが、それよりも対話をとおして一歩一歩進むことが大切だと思っています。
 さて、追伸に述べられた件ですが、人体はたしかに外見的にほぼ左右対称です。このことは、左右は上下と前後が先に決まらないと決まらない組、その意味で最後の一組になる根拠となり得ると思います。厳密には、左右が対称に近いからではなく、他の組より非対称性が弱いからだというべきかもしれません。つまり非対称性の強い順から方位の区別が決まると考えるほうが合理的だと思うからです。
 そこで、いま仮にカニのはさみのように左右に関しても外見上の明らかな非対称性が観察されたとします。そしてその非対称性のゆえに、「腕-手」の名称が使われているとします。すると、ここに「頭-足」「腹-背」「腕-手」の名称体系が考えられます。これに対して、上下前後左右というそれ自体は身体の特徴を表していない方位名があります。そして、わたしたちは「頭-足」「腹-背」「右手-左手」の名称体系をもっています。可能な名称体系として、特徴と方位のいろいろな組み合わせが考えられます。
 1.「頭-足」「腹-背」「腕-手」
 2.「頭-足」「腹-背」「右手-左手」
 3.「頭-足」「前面-後面」「腕-手」
 4.「上端-下端」「腹-背」「腕-手」
 5.「頭-足」「前面-後面」「右手-左手」
 6.「上端-下端」「腹-背」「右手-左手」
 7.「上端-下端」「前面-後面」「腕-手」
 8.「上端-下端」「前面-後面」「右手-左手」
このうち2、3、4は同じ仲間であり、そしていうまでもなく2の名称体系ががわたしたちのものです。2の場合は左右の逆転、3の場合は前後の逆転、4.の場合は上下の逆転が鏡像において生じると考えられます。つまり、非対称性の弱い組が最後の組となり、この組に方位名がついて特徴名にとって代わります。そして、方位名がついた場合、二人の間で、ということは万人の間で上下前後左右が必ずそろうように、この組の方位が定まっていると考えたらどうでしょうか。
 その場合、その組の方位(たとえば左右)は方位関係をつねに同一に保つようにできているので(つまり上下前後左右を必ずそろえることができるようになっているので)、その意味で特徴から独立です。そうだとしたら、左右は鏡に映りません。上下や前後は非対称性にむしろ縛り付けられていますから、腹や頭が映ればとりもなおさず前部や上部も鏡に映ります。左右については、わたしの腕(いつもは右)が映っても右が映っていることにはなりません。この場合、右は鏡像の腕ではなく手のほうになります。なぜなら、左右の役割は方位関係を同一に保つ点にあるからです。舌足らずの説明ですが、大体こんなふうに考えています。どうでしょうか?

Ted 04/30/2006 09:03
 yt先生は哲学の教育・研究をされ、関連の論文も書いていらっしゃったのですか。道理で、筋道をたてた手ごわい議論をなさいます。私は放射線物理学をやっていて、ご同様に退職したものでございます。
 いろいろな面白い名称体系の例を挙げてご説明いただきましたが、昨日最後のコメントの最後のパラグラフから、おおよそ推定していました通りのお考えです。ただ、左右のはさみの大きさが異るカニの場合は、腹ばいになっている状態を基準にして、もっとカニになりきれば、「頭-足、腹-背、腕-手」でなく、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」というようなことにならないでしょうか。
 もう一つ私の感じました問題は、先生が「左右の役割は方位関係を同一に保つ点にある」とおっしゃるのは、方位関係についての要請があってそうなっているように聞こえますが、そうではなく、たまたまそうなっているということではないか、ということです。もしも上記の種類のカニが、いまの人間の立場にあれば、彼らの身体に基づいて決めたどれかの方位について「方位関係を同一に保つ」ことなど考えないでしょう。つまり、鏡映で右手座標系がその反転である左手座標系に変わるのと同じく、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の方位関係が鏡の中の世界では反転していると認識するでしょう。人間の場合、たまたま左右には外見上の区別がほとんどないので、鏡の中の世界にも、反転した方位関係でなく、実物の世界と同じ方位関係を適用する習慣になっているのだと思います。

yt 125.1.76.16804/30/2006 11:54
 ありがとうございます。この問題は、分野のちがいを越えて誰もが自分で考え議論することのできるものであり、また分野に特有の知識をふりかざすと失敗しがちな面白い問題だと思います。「左右の役割は方位関係を同一に保つ点にある」というのは、わたしたちの間で左右の区別を教え教わるしかたのなかにふくまれていることを述べたつもりです。交通規則はそれを前提にしているように思われます。古代社会でも左右の区別はあったと思いますが、それは交通その他、わたしたちの間での行動の必要からでてきたものではないでしょうか。
 ところで、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の方位関係が鏡の中の世界では反転しているとありますが、非対称性の関係と上下前後左右の関係とは異なると思います。方位関係というのは後者をさしています。前者についていえば、「背-腹」と「頭-尻」と「大はさみ-小はさみ」相互の間には何の関係もありません。したがって、その鏡像をとりあげた場合、一つの軸について逆転が起きても、他の組には何の影響もありません。それで、「背-腹、頭-尻、大はさみ-小はさみ」の三組の非対称な特徴相互の関係は鏡の中の世界では反転しています。
 しかし、方位関係はそれとは別です。方位関係はもしそれが同一に保たれないならば、そもそも何のために上下前後左右の言葉を非対称な特徴を表す言葉とは別に作ったのか、その意味を失ってしまうように思われます。そこで、鏡に正対した場合、その鏡像においては前後の方位が逆転し同時に左右の方位も逆転します。前後の方位が逆転するのは前後の特徴が逆転するからですが、左右の方位が逆転するのは左右の特徴が逆転するからではなく、方位関係を同一に保つからだと考えます。このとき、左右の特徴と左右の方位とはいつもとは逆の結合になります。しかし、前後の特徴と前後の方位とはいつもどおりの結合です。それで、左右の逆転だけが目立つのではないでしょうか?要するに、非対称な特徴については一つの軸の特徴の逆転が起き、方位については二つの軸の方位の逆転が起きることになります。どうしても舌足らずになりますが、こんなふうに考えています。
 話はそれますが、以前『数学セミナー』で朝永振一郎の「鏡の中の世界」を読んだことがあります。その中で、天井や床に鏡があるときは上下逆転が起きるとありました。これはこれでまた一つの問題になると考えています。たとえば、「天井に鏡があるときは上下の逆転に誰もが気づくのに、前に鏡があるときは前後逆転をまっさきにいわずに左右逆転をいうのはなぜか?」前後の逆転を誰もがすぐに気づいてよいはずなのに、あろうことか左右の逆転をいうわけですから、ここにも説明が必要かと考えます。すると、問題は二つあって、ひとつは「人体の鏡像はなぜ左右逆転に見えるのか?」であり、もうひとつは「上下逆転は誰もが気づくのに、前後逆転に気づかないのはなぜか?」というものであります。いかがでしょうか?

Ted 04/30/2006 14:16
 いまコメントをいただいている私の元記事に対する前編「鏡の世界」の末尾に文献 [5] としてリンクしてあります私の文「一物理屋のコメント」にも、朝永振一郎の「鏡の中の世界」のことや、鏡の問題を考えるにはどういう座標系でものをいっているかが、まず大切だというような話を書いております。まだお読みでなければ、それをご覧いただければ幸いです。

yt 04/30/2006 20:59
ありがとうございます。これからゆっくり読ませていただき、きちんと整理した上で後日またコメントさせていただきたいと思っております。

yt 05/06/2006 09:43
 お説拝読しました。要点が明確になり感謝します。
 まず大筋で共感できるものでありながら、その経路で違和感があるのはなぜなのか考えてみました。それで、これはおなじ山をちがう場所から描いたものだといえば適切な表現になると思います。全体としての趣旨はまったく異論のないものであり、しかし細部ではちがいが目立つのは、おなじことをちがう経路をたどって見ているためだと気づきました。

1. まず、「おなじ」ということから述べます。固有の方位を有する対象とその鏡像にかんするかぎり、たがいの前後と上下を先にそろえようとするから、生じうる不一致は左右においてより以外にはない。これが1.4の「固有座標系を採用する限りでは、つねに左右が逆転している」ということだと思います。そう考えてよければ、これこそ鏡像問題の核心ですから、最も肝要な点について考えていることは「おなじ」であることになります。
 さらにもうひとつ「おなじ」点があります。それは平らにおいた鏡では上と下が逆になる事実について、このように上下が逆になるのはさきの左右逆転とは異なる基準がはたらいている。つまり、上下は不動の軸としてわたしたちに共有されていて、左右のようにそれぞれの対象に応じて異なるのではないということだと思います。もしそうなら、この第二に重要な点についても考えは「おなじ」です。
 「おなじ山」といったのは以上のような内容をさしています。したがって、これ以上もう何も言うことはないといえばないのですが、ちがう場所から見るのもまたなにがしかの興味をひくのではないかと希望しています。ただしこれは細部のちがいを勢い強調することになりますから、おそらく違和感を招き、場合によっては蜂の巣をつついたような騒ぎになるかもしれません。しかし、より完成度の高いものをめざすにはそれもまた必要な作業と考えます。

2. 最初に問題を限定して狭義の鏡像問題にしぼっていますが、じつに適切です。わたしもこの点では同感です。またこの問題が心理的なことがらとは無関係であるという点でも同意見です。ただし、「なぜ上下は逆にならないのか」の部分を当初から解決済みとして扱うのは早すぎるように感じました。
 1.1の最後の箇所で、固有の上下をいう言葉として top-bottom を使い、重力の向きとまぎらわしい表現 up-down をさけたとありますが、これはもっと重視すべきことがらではないでしょうか。前に述べた「第二に重要な点」はこの表現のちがいに関連していると思います。わたしは、身体の範囲内に限定された上下部、前後部、左右部をまとめて「方位部」と呼び、身体をこえて外の空間へ延びていく上方や前方や左方といった方位を「方位線」と呼んでいます。ただし、上下の方位線だけは不動で、わたしが逆立ちしても上方は頭の延長ではなく足(下部)の延長になります。仰向けになっていれば、上方は腹(前部)の延長になります。
 そこで、ふつう上下の逆転は、上下の不動の方位線に沿った対象の上下の方位部の逆転とみることができます。左右や前後については、直立の場合、左方や前方は左部や前部と一緒に動き、方位線は不動でないためおなじいいかたはできません。方位線が関係してくるのは上下逆転の場合のみですから、ふだんは方位部と区別する必要のない成分ですが、理論的には別にしておくべきものと考えます。
2.1 さて、先生の説の中心に位置しているのは「従属軸仮説」です。わたしは以前(1984)、上下と前後を「単独で定まる組」、左右を「依存的な組」と述べたことがあります。また、ひとりの研究者(Don Locke,1977)は前者を「非寄生的な方位」あるいは「構造的方位」、後者を「寄生的な方位」あるいは「非構造的方位」と呼んでいました。他にも、命名はしていませんが、上下前後を先に決まるペアと考えている人たち(J. Bennett,1970, N. J. Block,1974)がいます。
 しかし、わたしはいまでは「依存的」「寄生的」「従属」という同工異曲の表現を捨てています。その理由は、これらの表現は、間違ってはいないが、左右の組の持つ消極的な側面「他の組をさきに決めないと決まらない」ことしかみておらず、方位の方位たるゆえんを発揮する積極的な側面を無視していると考えたからです。わたしはそれを「方位関係を同一に保つように決まる」ことと捉えます。つまり、左右の組は「どのようでないと決まらないのか」という消極的側面と「どのように決まるのか」という積極的側面をもっています。
 見方を変えれば、上下や前後は頭足や腹背にのり付けされた、その意味で非対称性に「従属」する組であり、左右は逆に非対称性に依存しない「独立」の組です。左右の持つこの積極的側面に注目すると従属軸仮説とは似て非なるものになり、鏡像問題の解明の仕方にもちがいがでてきます。「ちがう場所」といったのはこのことをさします。
2.2 従属軸仮説に戻りますが、あらかじめ確認しておきたい点があります。吉村説では鏡像は前後のみが逆転し、上下と左右は逆転しません。そこで、実物が右手を挙げるとき、鏡像は「それ自身の」右手を挙げたことになります。つぎに、実物の方が垂直軸の周りを半回転して回り込んで鏡像に重なります。このとき、実物の前後と鏡像の前後がそろいます。そして、実物の「挙げていない左手」と鏡像の「挙げている右手」が同じ側になります。この理解でよろしいでしょうか?
 先生の仮説では、鏡像は「それ自身の」左手を挙げていることになります。したがって回り込みをした場合、実物の「挙げてない左手」と鏡像の「挙げている左手」が同じ側になります。これで間違いないでしょうか?
 そして古来の疑問文の解釈では「私が右手を上げた姿を鏡に映すとき、鏡の中の私は左手を上げている」わけですから、これは先生の仮説と一致しています。なお、ここ(2.2)で使われた上下前後左右の語は対象に固有の方位をさしています。わたしの言い方では対象の方位部をさしています。

Ted 05/06/2006 13:23
 議論が長くなるようですので、以後はメールで意見交換をさせていただきたいと存じます。私のメールアドレスは xxxxxxxxxxxxx です。迷惑メール防止のため、先生がアドレスをコピーされ次第上記アドレスを消去したいと思いますので、すぐにご一報いただければ幸いです。

yt 05/06/2006 14:59
了解しました。

2004年11月28日日曜日

Maple Leaves Backlighted (逆光の紅葉)


I posted photos taken at Takao, Kyoto, on my blog posts of November 16 and 18 [1, 2]. There are more I want to show to the visitors of this site. I have chosen one of those photos to put here, and another, at the index page of my website [3].

Wolfgang told me that pictures of maple leaves would show good colors when we took them against the light. The photo shown here is one of the backlighted shots I made in the precincts of Jingo Temple, Takao, following his advice. He knew well about how to take pictures of autumn leaves!


  1. "Autumn leaves" (November 16, 2004).

  2. "What little I observed" (November 18, 2004).

  3. IDEA & ISAAC Home; Japanese index page of IDEA & ISAAC; The photo on these pages are changed nearly once per month. After some day in December 2004, therefore, you will see not a photo taken at Takao, but a different picture.


[The following lines have been copied from the Web site where the above blog post originally appeared.]

P 11/28/2004 10:54
The season of autumn leaves in Hokkaido already finished. I didn't go out to see those leaves this year. Seeing your photo, I felt as if I watched them. It's so beautiful. Thanks, Ted!

Ted 11/28/2004 20:33
P-san, thanks for your kind comment. It's already very cold in Hokkaido, isn't it?

2004年11月27日土曜日

鏡の世界

 M☆さんのブログ[1]に執筆者本人が鏡に向かって撮った写真があり、詩のような文の中に「左右対称の私」ということばがあった。これを見て、私は近年自分が取り組んできたことにふれなければならないという気になった。

 「鏡はなぜ左右を逆にし、上下を逆にしないか」という謎が、古くはプラトンによって論じられ、最近にいたるまでも、哲学や心理学の専門誌において議論されてきた。1997年に心理学者、高野陽太郎氏(東大)が、アメリカの心理学専門誌に翌年印刷されることになった論文に記したものと同じ説明を、一般読者向けの本[2]にして出版した。私は以前、ノーベル賞物理学者、朝永さんの随筆集[3]で、この鏡の謎を知って以来、これに興味を持ち続けていたので、さっそく高野氏の本を買って読んだ。しかし、氏の説明は、とてもややこしいもので、納得できなかった。

 私は高野氏から論文の別刷りや、それが掲載された専門誌の投稿規定を送ってもらった。そして、元同僚の一人を共著者に引っぱり込んで、勤務時間後にビールを飲みながら議論し、高野論文への反論を書き上げて投稿した。ニュージーランドの心理学者マイケル・コーバリスが、同様の趣旨の反論を少し先に投稿していたので、本来ならば、私たちの投稿はボツになるところだった。幸い、物理学を専門とする私たちの、心理学者から見れば一風変わった書きぶりを、編集者が気に入ってくれたようで、私たちの原稿は、コーバリスのものと並んで、めでたく掲載された。

 しかし、肝心の高野氏は、鏡の謎に対するコーバリスや私たちの答えに納得しない。昨年6月、日本認知心理学会大会で、「鏡像反転の問題」をテーマに、シンポジウムが開催され、私も聞きに行った。シンポジウムを高野氏とともに企画した吉村浩一氏(法政大)の解説に続いて、高野氏がその後の研究について講演した。その講演で、吉村氏と私は、高野氏が実際には、「鏡像が左右を逆にしていない」と認知する場合も含めた、鏡の謎よりも広い問題を扱っていることに気づいたのだった。

 そこで、吉村氏は拡張された鏡像問題をすっきりと説明する一つの仮説を考え、これを著書[4]にまとめた。私はその巻末に、補足と解説のような文[5]を書かせてもらった。――以上が、私と鏡の世界とのかかわりの、現時点で公表できる部分である。鏡の謎に対する答えは、この文の読者の方がご自分で思いつかれたら、コメントに記してみて下さい。また、私たちの答えを知りたい方は、[5]をご覧下さい。――

 ところで、鏡の謎でいう左右逆転が起こるには、鏡にうつされる物体は左右非対称でなければならない。したがって、最初に引用した、M☆さんの左右対称な顔は、鏡の謎の対象にならない。M☆さんは対掌体へ反転することなく、現実世界と鏡の世界を往復できる、まれな存在である。

 なお、M☆さんから、「ちょっと高価だけれど、最近ではそのままの自分を映す鏡も売っている」と教えてもらった。そのような鏡として、原理的には、直角合わせ鏡[4, 6](三面鏡のうちの2面を使って実験できる)や曲面鏡[6]が知られているが、これらでは奥行きの深いものになって不便である。ホログラフィの技術でも応用して薄型にしたのであろうか。

文 献

  1. M☆「素顔の自分・・・」ブログ(2004)

    鏡に向かって写真を撮ってみる
    左右対称の私
    これも私

  2. 高野陽太郎『鏡の中のミステリー』(岩波、東京、1997)

  3. 朝永振一郎『鏡のなかの世界』(みすず書房、1965)

  4. 吉村浩一『鏡の中の左利き』(ナカニシヤ、2004)

  5. 「一物理屋のコメント」([4]から転載)

  6. マルチン・ガードナー『新版 自然界における左と右』(紀伊国屋、1992)

 
[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

Y 11/27/2004 09:43
 やっぱり今日はこの話題で、こられましたか。鏡の謎については、私には解明する能力がないと始めから気づいていて、プラトンがこれを最初に問題にしたというのも不思議なくらいで、
 たとえばですね。鏡で左右が逆になるのは、やっぱり不便だ。それで、よく考えてみると、自分は生涯、この左右反転した自分しか、「動く自分」としては見られないことになる。…いや、写真じゃそうならないし、今はビデオだとかあるじゃないか。安心した。生涯、自分が見られないのかと思った。——という感想になるわけです。上下が逆転しないのは、もちろん重力問題とか関係してないのだろうと思いますし、もう絶対に、心理学や哲学の領域で解明できることではないと思うんですけどね。
 私は「不思議だ、と思う」精神をあまり持っていないのだ、と今気づきました。科学者にてんで向いてないですね。むしろ不思議なものをそのままに受け取ってしまう感性や対応力はあるんだと思います。「これが不思議でわからなくて」で本を読んだことがないものなあ。その分、「解明してくれた」科学にも、その時点(時代)における当面の価値・絶対性以上の権威を感じていないのですね。精神科・精神医学領域では、とっくに(自然)科学が猛威をふるっている昨今ですので、もちろんそれは治療にとっては、よい道なのですが…これも書くと長くなりますね。
 それで、私が研究したり本を読むときがあるとすると、ただ「面白い」という動機、それと「生きることと全く同じだと考えている」意識がありますね。そこではほとんど「生きることへの答え」も見つけません。生きることや人生は、結果論でなく、答えもみつけなくてよいと思っているからです。

T 11/27/2004 10:27
 『ただ「面白い」という動機』、それは科学をする動機とも同じです。
 上下が逆転しないのは、外見によって優先的に上下を決めているという、単純な理由によります。人の身体で上は頭、下は足。顔だけならば、頭頂部が上、あごが下と。しかし、左右は…。鏡の謎の答えを自分で考えてみようと思う方のため、ここでやめておきます。

J 11/27/2004 10:57
 わたしは、目が横(水平方向)に並んでいるからだと単純に考えてました。
 立位で、鏡に自分の姿を写しているAさん。左右が逆になって写ります。床に横になって、左手側を地面に付けているBさん。
・現実の自分は左手を地面に付けてますが、鏡の中の自分は右手を地面に付けています。
・Bさんが、Aさん及び鏡の中のAさんを見ると(Bさんにとっての)上下が反転して見えます。Bさん座標での上下は、Aさん座標の水平のことです。
 要するに、鏡は被写体の各部分を平行移動して鏡の表面に、写し取っているだけで、後はその鏡像を認識する側の問題ということです。
 でも…、プラトン以来、論じられていると言うことなので、こんなに簡単ではないのでしょう。
 上に書いた私の話は、見ている人が変れば上下反転になっているということに過ぎないですね…(恥)。でも、目が鉛直方向に並んでいる生物ならば、上下反転と認識するのでしょうね。目が5つもあったといわれているオパビニアなどは、鏡をどんな風に認識するのでしょう。

Ted 11/27/2004 14:24
 片目で見ても左右逆転していることから、「目が横(水平方向)に並んでいる」説は成り立たないのでは?

J 11/27/2004 17:48
 そうですね (^^; われながら、安直でした。でも、考えてみたら、何が問題点なのか、わからなくなってしまいました(爆

S 11/27/2004 11:29
 鏡の写り方については、次のURLを見つけました。
http://www.page.sannet.ne.jp/matukawa/sayuuzenngo.htm
水面を鏡に見立てた場合、上下が逆になりますね。逆さ富士がよい例です。上記から引用しました。で、鏡の働きは、実は、鏡面に垂直に立てた軸(前後軸と名付ける)を逆転させているだけのようです。

Ted 11/27/2004 15:12
 書いて下さった例や、ご説明は事実です。しかし、鏡の謎が問うている、左右が逆転して上下が逆転しないのも事実なのです。たとえば、あなたが右手を上げてその姿を鏡にうつすと、あなたの鏡像は、それを一個の人間のようにみなすならば、左手を上げた姿をしています。これは、鏡があなたの前、横、上、下、どこにあろうと、いえることです。これをどう説明するか、が問われているのです。
 教えていただいたURLのページを見ましたが、左右の概念が上下や前後の概念とは異なる、という意味のことを述べているだけで、異なる根本原因への言及が不足していると思いました。

J 11/27/2004 18:01:13
 わたしも見ました。観察者の概念で決まることのようですね。もうちょっと考えてみます。

T 11/27/2004 20:34
 Jさん、観察者がどういう座標系を選ぶかは、鏡像の左右逆転を認知するかどうかに関わりますが、ある座標系を選べば、上下、前後、左右の3軸うち、逆転したのは性質のやや異なる左右軸方向であると必ずみなされてしまうのです。
 問題は、そのような座標系とはどういうものであるか、そして、上下、前後の2軸と左右軸の性質はどう異なるのか、また、実物と鏡の位置関係に依存しないで左右が逆になることをどう説明するか、ということです。
 ヒントを与えたつもりが、かえって問題を難しくしましたか。

M☆ 11/28/2004 22:50
 読みに来ました~、コメントの「外見によって優先的に上下を決めているという、単純な理由によります」という一文を読んでまた「なるほど!」と…。
 いつも新しい方向から様々な考え方ができることに、少なからず驚きと喜びを感じます(^_^)。とても興味深く拝見させていただきました。
 機会をみつけて、この問題について、私なりにまた違った角度から色々と掘り下げて考えてみたいと思いました♪

Ted 11/29/2004 08:20
 M☆, you have a good character to feel surprise and pleasure in learning different methods of thinking. One of your children might become a scientist.

M☆ 11/29/2004 09:36
 I hope so!(^__^);;; そうだったらいいのになァ~(´▽`)/♪ 仮定法が苦手だった私…英語で書けず(滅)I wish one of them was 〇×▽※?!

T 11/29/2004 15:17
 I wish that your hope may come true.

M☆ 11/30/2004 09:40
 Thank you!
 It's cloudy and cold today. Xmas will come soon. It makes me feel so happy. I love beautiful illumination!

2004年11月26日金曜日

格言と箴言

 岩波書店の宣伝誌『図書』に、多摩美術大学の平出隆氏が「遊歩のグラフィスム」というエッセイを連載している。11月号の「一冊きり 一通きり」と題する文では、プリニウスのことば「一行なしに一日なし」から始めて、氏の「毎日、必ず、唯一通の便りを書かなければならない」あるいは「毎日、必ず、唯一通の便りしか書いてはいけない」計画を紹介している。この計画は、氏が今年から年賀状を廃して取り組むことにしたものだそうであり、この季節にふさわしい話題である。

 平出氏は、その取り組みについて、

方々に散っていくだろう私の便りは、一通ずつを拾いなおしていけば私の生きた時間の連続的な形象となる。

と記している。賀状に代えてこのような便りをしたためるのは、魅力あることではあるが、デジタル人間になった私には、到底真似ができそうにない。

 それはよいとして、平出氏がその文の初めの方において、

現代の日本語でいう「格言」と「箴言」とでは、微妙な、そして決定的なニュアンスのちがいがあるように思える。

として述べている両者のちがいについて、私は納得できない思いがした。氏は、格言には「メッセージの性質が濃く保たれており、明快な意味は流通に耐える」のに対して、箴言は「飛躍をふくんでいて、説明不能の言切りにこそ、その本質的な魅力がひそむ」とする。

 私はこれまで、格言はより一般的内容のものであり、箴言は禁止的内容を主とするもののように思っていた。そこで、『広辞苑』と『新明解国語辞典』にあたってみる。

 広辞苑:

【格言】深い経験を踏まえ、簡潔に表現したいましめの言葉。金言。箴言。
【箴言】(1)いましめとなる短い句。格言。(2)旧約聖書中の一書。格言・教訓・道徳訓を多く含む。ソロモンの箴言。

 新明解国語辞典:

【格言】人間の生き方を端的に言い表した個人の言葉。「時は金なり」など。
【箴言】(1)いましめの言葉。「ソロモンの——」(2)「格言・金言」の意の漢語的表現。

 これらの説明からは、「ソロモンの」につくのは箴言であり、格言ではないこと、また、単に箴言といって「ソロモンの箴言」を意味することがある、ということは分かる。しかし、「広辞苑」では、格言と箴言にニュアンスのちがいがあるとは受け取れない。

 「いましめ」の一つの意味は、「禁止すること。禁制」(広辞苑)であるから、箴言のみに「いましめ」の語を出している『新明解国語辞典』の説明は、私の理解に一致する。他方、『広辞苑』の説明では、「ソロモンの箴言」の方に「格言・教訓・道徳訓を含む」という幅広さがあり、これは私の理解の逆を行くものである。

 格言には日常よくお目にかかるが、これが箴言だ、というものには、あまりお目にかからない。『新明解国語辞典』の(2)で述べられている、箴言が格言の漢語的表現ということからすれば、現代において箴言ということばの登場機会が減っていて不思議ではない。しかし、同辞典の【箴言】(1)と【格言】のニュアンスの違いが実在しながら、なお箴言にあまりお目にかからないとすれば、平出氏のいう「流通に耐える」ものと、そうでないものという相違が、あたっているのかも知れない。

[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

J 11/26/2004 10:30
 わたしも、旧約聖書の箴言をイメージしていました。確かに、口をついて出る言葉は、一般的には少ないですね。
 話は、それますが「目には目を歯には歯を」は、よく使われていますね。しかも間違った意味で。

Y 11/26/2004 11:37
 こんにちは。一日一通の手紙はよいし、私もそういう形で人を大切にしているつもりですが、「格言」というものには興味がないんですね。そういうのにとびついて自分の道にするほど、甘い人生を生きていないというか、私は今はずっと、本が読めない状態(病状)ですが、今まで読んできた本は、学術書も大いに含めて参考にしていて、人にわかりやすく伝えもしますが、一番頼っている、信頼しているのは自分自身の人間性、自分の体験から得てきた言葉(経験知)ですから。
 ですから、「格言」が「流通に耐える」というのも、ひどく一般的な話で、私には当てはまらないなー、と傍観しますね。なんとなく、この「格言」という、到底到達できていないココに飛びつきなさい的な言葉に引っかかるんですね、率直に言って。私なら、重要な言葉、文章は、どの文献のどこからでも、自分の力で見つけてきます、流通なんか待っていないで。「箴言」は、旧約聖書等でのいましめの言葉のことを言っているのでしょうから、それはいいんじゃないでしょうか。
 本当の生きる指針になる言葉は、もっと地味に誠実に、人間が人間に対して書く言葉として、この世界のいろんなところで綴られていると思いますよ。短いからいいってものではないです。

Ted 11/26/2004 16:41
Jさん、Yさん、
 コメントありがとう。皆さん、旧約聖書をよくご存知ですね。私は「創世記」ぐらいしか読んでいない、この方面の不勉強者で、「箴言」の語を見ても、旧約聖書を思い浮かべられませんでした。
 格言についても、常識として知っておこうか、という程度の関心で、自分の好きな格言があるわけではありません。Yさんのいわれる「重要な言葉、文章は、どの文献のどこからでも、自分の力で見つけてきます」に同感です。岩波書店から2002年に、岩波文庫に出典を持つ『世界名言集』が出版され、何かのときにあれば便利かと思って買いはしましたが、自分に本当に役立つ名言集は、自分が読んだ本の中で共感したことばをノートに書き留めて作るべきだと思っています。若いときにはそのようなノートを作っていました。最近は科学に関する英書を多く読むので、人生にかかわる名言には、あまり出会いません。

2004年11月25日木曜日

米国新型核予算削除

 科学者の一人ひとりが「核兵器およびその他の大量破壊兵器の研究、開発、製造、取得、利用に一切参加しないこと」を誓う運動を進めているピース・プレッジ・ジャパンから、誓約者の一人である M.T 氏が寄せたニュース「米国新型核予算削除:詳報」がメールで配付されてきた。暗い政治的ニュースの多い昨今、これはささやかな朗報であり、ここに概略を紹介する。なお、M.T 氏は、さる22日にこのニュースを報道したのを見かけたのは「赤旗」紙だけだった、としている。一般紙は、核兵器問題に関心が薄いのであろうか。

 11月20日に米国議会を通過した2005年度予算で新型核関連予算が削除された。エドワード・マーキー下院議員(民主党:マサチューセッツ州)は、21日に発表した声明の中で、これらの予算の削除は、「議会の核管理・軍縮提唱者にとって、核実験を制限するのに成功した1992年以来の最大の勝利だ」とし、「他国に核兵器を持たないように説得しようとするなら、ここ米国でまったく新しい世代の核兵器を作る準備をすることはできない」と述べている。

 2005年度の新型核予算要求・最終結果はつぎの通り。

(1)先端概念イニシアチブ――削除
(2)堅固な地中貫通型(RNEP)――削除
(3)核実験準備態勢維持・改善――2250万ドル:ただし24カ月の準備態勢とする。要求は3000万ドル。
(4)「最新型ピット生産施設(MPF)」設計作業――700万ドル。要求は2980万ドル。ピットは、プルトニウムからなる原爆装置(水爆の引き金となる)の芯の部分。

 これらの勝利をもたらした要素として「生きられる世界のための協議会(CLW)」のジョン・アイザックスは次の事項を挙げている。

(1)デイビッド・ホブソン委員長の努力
(2)膨大な米国予算の赤字
(3)イラク戦争による予算の圧迫
(4)ネバダ州のヤッカ・マウンテン核廃棄物最終処分場用の予算の必要性
(5)新しい核軍拡競争を防ごうとする核軍備管理・軍縮諸団体・市民の努力

参考:
原水禁ホームページの背景説明
マーキー議員声明

 
[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

S 11/25/2004 17:43
Oh , that's a good news. Public opinion may be for it.

T 11/26/2004 06:35
「地中貫通型」は「対テロリスト」兵器として現実に使用される可能性が高かっただけに、ひとまずは喜ばしいことですね。

Ted 11/26/2004 07:54
Hi S and T,
Thanks for your kind comments. The Asahi reported shortly on page 7 about this news only today (November 26).

2004年11月24日水曜日

The Geometrical Shape of a Kiss(キスの幾何学的形)

Last year I read the following joke somewhere.

The question is, "How would a mathematician analyze the geometrical shape of a kiss?" And the answer is, "Elliptical."

Do you understand why this is funny? "Elliptical" includes "lip". This cannot be a joke in a Japanese translation.

[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

S 11/24/2004 21:48
I think your joke is good. It is funny and mysterious.

Ted 11/25/2004 08:02
This is not my joke. I now remember that I learned it from a commercial free e-mail service, "Today's Joke." The distributor now stopped that service.

J 11/24/2004 22:51
Uh . . . mmm . . . I don't feel it funny. How about this?
Q: Everybody has this flower. What is this flower?
A: Tulip (Two Lips)
This is a question for a child!

Ted 11/25/2004 08:05
It's nice you know that joke. I know it, too.

2004年11月23日火曜日

好きなひとへのメールにご注意

 昨日、同じプロバイダーを利用している友人からのメールが、別プロバイダーの、知らない第3者のアドレスを経由して、受取人秘匿の形でまず届き、その後で、正常なルートでまた届いた。初めのものは、先頭に意味不明の長い文字列がついていたためか、メールソフトがスパムに分類してくれていた。私はメール・プロバイダーに、なぜこのようなことが起こるのかと、質問のメールを送ったが、回答は的外れであった。そのことを伝えると、再度返信が来たが、それも納得できる回答ではなかった。

 その返信の末尾に24時間対応のトラブル相談フリーダイヤルの番号が書いてあったので、けさ電話した。電話でもなかなか納得できる返答が聞き出せない。私は思わず声をあらげて、「メールが丸ごと盗まれるということは、お宅のセキュリティに問題があるということだ。そうじゃないですか!」と、迫った。しかし、相談担当の女性は、落ち着いていて、十分時間をかけて応答してくれた。

 彼女の説明によれば、「当社のセキュリティは十分堅固」で、考えられるのは、発信者のPCにウィルスが入り込んでいて、それが、たまに作動する——発信メールをとらえて、それをウィルス作成者関連のメールアドレスに送り込み、そこから本来の受信者へ自動的に再発送する、といういたずらをする——ということだそうである。

 友人は知らない発信者からのメールは一切開かない慎重な対応をしており、ウエブサイトの閲覧も滅多にしない人物なので、ウィルスが入り込んでいるとは考えにくい。しかし、思えば、先にも同じ友人からのメールが、同様の届き方をしたことがあった。幸い、その友人の友人にPCのインストラクタがいて、ときどき世話になっているらしいので、機会があれば、PC 内のウィルス・チェックをして貰うよう勧めておいた。

 メールを中身ごと盗まれ、不特定多数にばらまかれたのでは、関係を内緒にしておきたい間柄の相手に、うっかり "I love you" とは書けない。物騒な世の中である。

[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

T 11/23/2004 23:01
 差出人を詐称する Netsky-D などのワームによるメールは、今年ずいぶん受け取りましたが、そのメールは内容もそっくりそのままコピーしているのですか。そういうのはまだ聞いたことないですが…。

Ted 11/24/2004 08:07
 プロバイダーのトラブル相談担当者は、可能性として述べたことなので、どういう名称のウィルスが実際にそういうことをやっているという、確かな話ではありません。しかし、私のところへ来たコピー・メールは、現象的には担当者の説明に合致します。コピー・メールの宛先は "undisclosed-recipients" となっており、本来の受取人だけに対して、いたずらしてみせるものか、多数の受取人へばらまく悪質なものか、どちらかは分かりません。

2004年11月22日月曜日

Mi amas vin(愛してる)

 物理学者米沢富美子さんの半生記『二人で紡いだ物語』が文庫本になった。彼女は私の出身大学の同じ科の後輩に当たる。しかし、学年が3年離れていて、専門分野も大きく異なったので、話したことはない。彼女は女性最初の日本物理学会会長も勤め、すっかり有名になった。学会会場になっていたある大学のキャンパスで一度、私がたまたま一緒にいたN女子大のSさんと、少し離れたところから身振りか大声かで挨拶を交わすのを見たことがある程度だ。

 米沢さんは、大学入学式の日、エスペラント部室で将来夫となる人と出会ったそうだ。私は2回生か3回生の初め頃、そのエスペラント部の展示会を見た。見たついでに、そこへ入部しておけば、米沢さんと親しくなれたのだった!

 私は、その展示会で "Mi amas vin" という言葉を覚えた。そして、待望の夏休み…。

 その頃、私は休暇のたびごとに、中学時代の同期生K子と会って話し合うことを楽しみにしていた。彼女は郷里の大学の文科系の学生だった。その年の夏休み最初の彼女とのデートのとき、私はエスペラント部の展示会を見たことを話した。

 展示会には、芥川竜之介の『河童』のエスペラント訳本もあった。その題名は "La Kappo" だった。エスペラントは、いろいろなヨーロッパ語をもとにしているので、覚えやすそうだ。たとえば、"Mi amas vin" といえば?——というようなことをいい、そこで、彼女の返事を待った。この言葉はフランス語に近い。彼女は第2外国語としてフランス語を習っていた。

 K子は、ちゅうちょ気味に「"I love you"?」と答えて、微笑んだ。——青春時代のたわむれのひとこまである。——

 私が中学生のころ、エスペラントの創始者ザメンホフの話が国語の教科書に載っていた。しかし、最近の若い人たちは、学校でザメンホフやエスペラントのことを習わないらしい。昨年イタリア旅行をしたとき、有能な美人添乗員さんにイタリア語の "I love you" である「ティ・アーモ」を習った。お返しに「エスペラントでは…」といったら、「エスペラントってなに?」といわれた。

 『広辞苑』によれば、

[Esperanto](「希望ある人」の意)ザメンホフの創案になる人工の国際語。…

説明は8行にも及んでいるので、以下略す。公表は1887年とのこと。


[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

Y 11/21/2004 19:09
 こんにちは。小さな言葉で交わす愛や恋、ですね。私は、性格のためか、体当たりの愛や恋ばかりやってきたようなので、Ted さんのような小さく美しい、心の素敵なときめきとして残るような愛の言葉のやりとりよりも、なんだか、若かった時代を駆け抜けた、いろんな愛や恋の体験が、ただ駆け抜けてくれなければもう耐えられないような…そんな感じで残っていることが多いかもしれません。
 好きな人との、心からの言葉のやりとりもたくさんしたのですが、何か、長年の心の病気体験にも近いような、重い思い出としてばかり残っているような気がしました、Ted さんのブログを読んで。それでも、異性との愛や恋で、心からの言葉のやりとりだけでも本当にたくさんの幸せを経験してきましたし、それは、満足ですが。いつも、「心から」であって、「駆け引き」とか「戯れ」とか一切なかったんですね(笑)。
 本当に Ted さんは繊細でいらっしゃるばかりでなく、私とのやりとりでもお心が広くていらっしゃるので、大切にお付き合いいただきたいなと思います。長くなりましたね。

Ted11/21/2004 21:42
 恋や愛も十人十色。由名さんは、まっすぐな激しい恋を重ねて来られたご様子、打算的な生き方をする人の多い現代において、貴重な存在です。

M☆ 11/21/2004 20:48
 エスペラント…私も知らなかった…。自分の年が幾つになってもこの世には様ざまな知識、知らない世界が溢れてるんですよね。死ぬまで勉強したい…時どきそんな衝動にかられます。
 ちなみに私が中学生の頃に読んで感銘を受けた本、それは『孫子の兵法』でした(笑)。

Ted 11/21/2004 21:50
 『孫子の兵法』を詳しくは知らなかったので、「岩波文庫解説総目録」を開いて見ました。「戦略・戦術の論議において示されているその深遠な洞察は、単に戦争だけでなく広く人生全般の問題に適用できる知恵を含んでいる」とあります。ほほう。それで、M☆さんは、すてきなお母さんぶりを発揮していらっしゃる…。

M☆ 11/21/2004 22:10
 『孫子の兵法』はサラリーマンにも人気のある読み物だと聞いたことがあります(^_^)。十人十色の世の中に、様ざまな生き方、人との接し方があり、自分の身をどうおいて生きていこうか、まだ中学生でしたが(中学生だったからこそ?!)そうした自分の行き方を真っ直ぐに見つめるきっかけとなった本でした。あれから15年以上…。育児には兵法も何もありませんな(え;)。日々、策略と謀の渦に飲まれて、その場限りの直球勝負(おい;)。ふふふ(^m^)また読んどこうかな…(呟)。

Ted 11/22/2004 09:45
I've learned from you, and I like your sunshiny character.

日本国憲法第9条について

 先年必要があって、日本国憲法第9条について論文風のものをメモした。政府・自民党が憲法の「改正」を行おうとしているいま、多くの国民が現憲法、特にその第9条について、よく知っておくことが重要である。そのための一助になれば幸いと思い、ここにそのメモを掲載する。




    日本国憲法第9条について

1. はじめに

 日本国憲法の中で、第9条は「戦争の放棄」に関する条項として、多くの日本人のみならず、諸外国の人々にも広く知られているものである。本レポートでは、同条項の内容、日本国憲法の中での意義、同条項をめぐる歴史、国内的問題点、国際的意義と問題点および今後の課題について、諸文献を参考にして考察する。

2. 第9条の内容

 第9条は、補則を含めて11章103条からなる日本国憲法(1946年11月3日交布、1947年5月3日施行)の「第2章 戦争の放棄」を単独で構成する条項であり、次の条文からなる。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第1項は、他国との紛争の解決に戦争や武力という手段を使用しないこと(戦争の放棄)、第2項は、戦力を保持しないこと(戦力の放棄)を明言している。

3. 日本国憲法の中での意義

 日本国憲法は、その前文において三つの基本的な考え方を述べている。それは、「民主主義」、「国際平和主義」および「主権在民主義」である(文献1)。このうち、国際平和主義については、前文第1項に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」とあるほか、第2、第3の2項にわたって、次の通りに述べられている。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと勤めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 第9条は前文のこれらの項を受け、永く続いた戦争の後で、平和、民主、自由を尊ぶ国際世論に支えられて出来上がった日本国憲法の中で、重要な3本柱の一つという役割を担っているのである。

4. 第9条をめぐる歴史

 (一部割愛。文献2、3をここで引用)

 1947年に文部省によって発行され、全国の中学生が1年生の教科書として学んだ文献1は、戦争放棄の説明の導入部分で、次のように記している。

戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。

 また、戦力の放棄に関し、同文献は、次のような説明を加えている。

しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

 このような説明の盛り込まれた教科書は、当時の中学生だけでなく、教え子やわが子をふたたび戦場に送らないようにしようと誓い合い、新しい平和と民主主義の教育への熱意に燃えていた教師、父母に深い感動と明るい希望を呼び起こすものであった。しかし、この教科書は、2、3年使われただけだった。日本が1950年に始まった朝鮮戦争の基地にされ、日米安保条約が結ばれ、「警察予備隊」が「自衛隊」に変わって行くという時代の流れの中で、教室から姿を消していったのである(文献4)。このことが、国際的に誇るべき内容を持つ第9条への、日本人自身の理解をいささか乏しくさせる一因になっている。

5. 国内的問題点

 (割愛。文献5を本章で引用)。

6. 国際的意義と問題点

 第9条で日本が戦争を放棄したことは、第2次世界大戦でわが国の侵略を受けたアジア諸国に対して、今後同様な侵略はないという安心感を与えてきた。

 しかしながら、わが国の政府が第9条の解釈を次第に変えながら、自衛力の増強を進め、さらに、米国の始める戦争に日本が協力・参加するための「新ガイドライン」関係法を制定したり、日本への武力攻撃を想定した「有事」関連法案を持ちだしたりしているわが国の動きは、その安心感を覆し、これらの国々に大きな不安を抱かせつつある。

7. 今後の課題

 2000年に衆参両院に「憲法調査会」が設置され、憲法改正を視野に入れた動きが始まっている。私たち国民はこれに対してどのように考えればよいのだろうか。評論家加藤周一は、「憲法問題」について、

「第9条をできるだけ都合のいいように解釈することでできる軍備の規模が限界にきたので、今度はいよいよ第9条を変えることによって、もっと自由に行動できる軍隊を備えたいということになる

と推定する。そして、

世界の大勢は、いまはそうではないが、将来は次第に普通の国が軍備を放棄する方向へ、少なくとも軍縮を経て軍備放棄に動く可能性があり、世界がそういうふうに動くのであれば、日本は世界の大勢を先取りしているのであり、第9条は国としての誇りの中心になり得る、したがって第9条の放棄をしないほうがいい

と論じている(文献6)。第9条にかかわる「憲法問題」は、このような遠大な視野に立って検討すべきものであろう。

8. まとめ

 以上の各章で見てきたように、日本国憲法第9条は国際平和主義にのっとって作られた理想主義的な条文である。過去の戦争への反省の欠如や、自衛力との関係での解釈等に問題がないことはなく、現実との間にも矛盾をはらんだ経過をたどってきたが、将来の世界の動きを先取りした誇るべき条項として、存続が切望される。

文献

  1. 文部省「あたらしい憲法のはなし」(1947、実業教科書株式会社)
  2. 長谷川正安「憲法を生んだ力、育てる力」(文献1復刻版の解説)(1972、日本平和委員会)
  3. 加藤文三他「日本歴史 下 改訂版」(1978、新日本新書)
  4. 日本平和委員会、文献1復刻版の「あとがき」(1972、日本平和委員会)
  5. 長谷川正安「日本の憲法 第3版」(1994、岩波新書)
  6. 加藤周一「私にとっての20世紀」(2000、岩波書店)

後日の注記
  • 2015年6月13日、本記事の題名を変更し、前書きを簡略化した。また、文中の誤記などを修正した。

[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

S 11/22/2004 15:35
 法学部出身者として、一言申し上げます。憲法弟9条は、たぐい希な平和憲法であると、日本人として誇りに思います。
 しかし、米国におけるネオ・コンの台頭や、小泉政権の右傾化に憂慮するものですが、わが国は自衛権までも放棄したわけではありません。日本共産党でさえそう言っています。同党によれば、日本の安全が危うくなった時は、対外的には海上保安庁を活用し、対内的には警察を活用するという考えのようです。
 本当にそれだけで良いのでしょうか。自衛権を保持するということ、すなわち国民には国を守る義務があるという考え方は不自然でしょうか?ここらあたりをないがしろにしたままでは、いつまでたってもわが国の安全を自ら守るという概念が沸いてこないのではないか、そんな気がしてなりません。
 自衛。わがくにはこの問題に対してきちんとした、憲法までをも含めた範囲で考え直す必要があるように思います。具体的な自衛権の行使は法律ないしは憲法によって明文化されるべきだという立場に私は立ちます。

Ted 11/22/2004 17:02
 コメントありがとうございます。実は私も、割愛した第5章に「前文第1項後段の『国際紛争を解決する手段としては』という表現には自衛戦争は含まれない、というのが現代国際法の通説である」旨を記し、「戦争放棄」は「自衛」の放棄ではないことに注意を喚起する論旨としていました。この点を改正で明文化するのはよいのですが、外国への出兵に歯止めがかからないような「改正」をすべきではなく、いまは、そのことに国民の皆さんが、より大きな注意を向けて欲しいと思います。

S 11/22/2004 17:32
 日本の主権が侵されたわけでもないのに、今回の自衛隊派遣は理解に苦しみます。対米追従と言われても仕方がないし、実際そのとおりですから。こういった部分の歯止めをかける意味で、何らかの規定・尺度が明文化される必要があると考えます。憲法9条をめぐる解釈は、もう限界が近づいていると思っています。なんとかしたいですね。平和が一番ですから。

Ted 11/22/2004 19:34
 明文化の必要な部分は確かにありますが、「理解に苦しむ自衛隊派遣」を今後は、はっきりと合憲化しようという方向での明文化では、平和指向とは逆の「改正」になるのではないかと危惧します。

S 11/22/2004 19:51
 はい、その危惧が静かに進行しているという認識を持っています。平和憲法改悪はNOだと国民がはっきりと意思表示しないといけませんね。

Ted 11/23/2004 09:22
 「はっきりと意思表示しないと…」その通りと思います。再三のコメント、ありがとうございました。

2004年11月20日土曜日

女子学生アルバイターたち

 未月さんのブログ「N教授について」を読んだ(注)。そこに描写されている近代文学史の教授は、漱石の小説にでも出てきそうなタイプである。いまでもそんな大学教授がいることを面白く思うと同時に、もしも、私が教室で講義をしていたら、女子学生からどのように見られていただろうか、と思った。私は公職の最後の9年間大学に勤めていたが、理系の付属研究所で大学院生の教育のみを担当していたので、教室で講義をすることはなかったのだ。

 女子学生といえば、夏休み期間に学生1人ずつを、参考文献リスト、数値データ、英文報告書の修正などを入力するアルバイターに雇ったことが何年かあった。その頃、私の職場は公立の研究所で、隣に公立大学があった。(のちに両者が統合され、私は同じ職場にいながら、大学の教員になったのである。)したがって、多くの学生は隣の大学から来て貰ったもので、大半は女子学生であったが、男子学生もいた。

 アルバイターが最初に必要になった1980年には、隣の大学の図書室に勤務していた人のつてで、その大学の経済学部生に来て貰った。女優の三田寛子(当時まだ若かった)に似た雰囲気の、明るいお嬢さんだった。そのときは、まだパソコンがなかった。丸善の文献検索サービスで打ち出して貰ったか、あるいは名古屋大学の共同研究者から貰った関連文献の一覧表から、一文献毎に、枠を刷り込んだA4用紙一枚の中へ、文献題名、著者名、扱われている反応の粒子名や物質名等をタイプライターで打ち込んで貰った。

 その学生は、高校時代にアメリカでホームステイをしたことがあるそうで、英語がうまく、タイピングも速く、大いに役立った。私はまだ「先生」ではなかったが、彼女から、歌うような口調で「T先生」(私の本名の姓の頭文字もTである)と呼ばれるのは快かった。「先生」だけでなく、名前をつけて呼ぶところが、アメリカ的であった。彼女はアルバイト終了後、渡米して以前ホームステイした家その他を訪れるということだったので、私が前年カナダとアメリカへ1カ月間出張した折のスライドを見せたり、共同研究者のI君と私とで職場近くの焼き肉店で彼女の歓送会を持ったり、というサービスさえしたのだった。彼女は卒業後、大手の自動車販売会社に就職したと聞いた。

 翌年はO女子大学の事務部に電話して、アルバイト希望者を回して貰った。その学生は、あまりにも多くのミスをするので、かわいそうだったが、早々と首にして、別の学生と交替して貰った。いや、急きょ、OY大へ行っていた私の長女をピンチヒッターとして雇ったのだった。その年には、パソコンが入り、入力する大部分は数値だったので、タイピングが必ずしもうまくない長女にも十分勤まった。数字が正確でさえあれば、よかったのである。

 3年目には、S女子大へ行っていた次女を雇った。次女はおとなしい性格なので、他のおとなしかったアルバイター同様、私のもとでアルバイトをしたことがあったという印象が薄い。順を追って書いてきたいま、ようやくそのことを思い出した次第だ。しかし、決しておとなしくはない長女が私の雇ったアルバイターの一人だったことも、ほとんど忘れていた。家族は、妻に限らず、空気のような存在なのだ。(続く)


(注)「N教授について」(2004) の冒頭の一節:

 近代文学史のN教授は、とても不思議な人だ。私自身が文学部の教授という人種を知らないせいか、彼はいかにも “そんな感じの人” にみえる。なんというか、浮世離れしているような、掴みどころのないタイプ。これまで、私の周りには決して存在しなかった種類の人間─。…


[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

未月 11/20/2004 10:32
 1980年代、まだタイプライターの時代なんですね。教授のアルバイトという響きは、なぜか読み手の想像を膨らませます(笑)。若く美しい女性が、文献から抜き出した粒子名や物質名をタイプライターで打ちこむ。会計報告書なんかではなくて、この粒子という無機質さがまた雰囲気があって…。小説や映画のワンシーンみたいで、素敵です。女子学生アルバイターの話はまだまだ続くのでしょうか? 楽しみに読ませていただきます。

Ted 11/20/2004 15:48
 早速のコメントありがとう。当時、私はまだ教授ではなく、主任研究員という職名でした。研究者にとっては、粒子は無機質でなく、会計報告の方がずっと無機質に感じられます。映画のワンシーンのようだとは、恐縮です。続編に、もう一人の印象的だったアルバイターについて書いて、終りとなる予定です。ご期待下さい。

未月 11/20/2004 16:58
 確かに、粒子は無機質ではありませんね。科学者にとっては、会計報告の方がはるかに無機質。私は数字が並んでいるのを見ると、すぐに眠くなってしまいます(^_^;)。映画のワンシーンみたい…というのは、実は、私の妄想が勝手に膨らんでいて(爆)。
また、読みに寄せていただきます(^-^)。

Ted 11/20/2004 20:54:43
 続編の方がもっと妄想を抱いていただけるかも。

2004年11月19日金曜日

恐るべき改憲大綱原案

 さる17日、自民党憲法調査会がまとめた改憲案大綱の原案が明らかにされた。

 「平和主義および国際協調」の項では、「戦争放棄」の言葉を残しながらも、「自衛または国際貢献のための武力の行使であっても、行使は究極かつ最終の手段」と述べ、事実上、武力行使を可能にすることを狙っている。「国際貢献のため」や「究極かつ最終」という言葉は、まことにあいまいであり、これでは、いかなる武力行使も行われかねない。恐ろしいことである。

 さらに、強力な武力行使を可能にするため、「自衛軍を創設」し、その任務に「国際貢献のための活動(武力の行使を伴う活動を含む)を行うこと」を入れている。これは、「戦争放棄」の言葉を形骸化するものである。このような原案にそった「改正」の動きが進められることに対し、国民は、あの暗い第2次世界大戦の日々を思い起こし、また、現在イラクで続いている泥沼化した戦争に注目し、注意深い目をそそぎ続けなければならない。

関連サイト

  1. 「軍」明記、海外で武力行使 自民が改憲大綱原案

  2. あたらしい憲法のはなし / 憲法9条 戦争と平和


[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

C 11/19/2004 16:59
 Tedさんの「戦争や紛争をなくすため、力を合わせて行きましょう」という言葉、その通りだとおもいます。力を合わせて行きましょう!

2004年11月18日木曜日

What Little I Observed(私のささやかな感想)


Dear Y-kun,

 先日ご連絡いただいたM氏の訳本の一冊の和訳題名「何と少ししか覚えていないことだろう」が、ちょっと気になっていました。原題は "What little I remember" (注)です。和訳題名のような意味であるためには、原題は "How little I remember!" となっているはずです。しかし、私が従来思い込んでいた意味が間違いということもあろうかと、いま "Longman Dictionary of Contemporary English" の little の項を念のため引いてみました。そこには、

what little the small amount that there is, that is possible etc: We did what little we could to help. | The firemen recovered what little remained of the bodies.

とあります。little はふつう「ほとんどない」の意味になりますが、what little という成句のときは、「わずかながらある」のです。What は先行詞を兼ねた関係代名詞であり、little はそれを後ろから修飾している形容詞です。したがって、原題は、私がいままで思っていた通り、謙遜も込めて「私のささやかな思い出」を意味していると考えられます。

 M氏訳は、これとくらべて、意味上の大差はありませんが、厳密に言えば誤訳です。英語をよく知っている人がこの題名を見れば、原題名を推定し、これが誤訳であることにすぐ気づき、中身の翻訳の正確さを疑うことにもなりかねません。M氏に "what Ilittle I observed(私のささやかな感想)" としてお伝えいただければ幸いです。すでに出版されているので、訂正はできないでしょうが。なお、この本は、物理学者の自伝中では私の最も好きなものの1冊なので、日本語訳が出たことを、大いに歓迎している旨も、合わせてお伝え下さい。

 先日、京都の高雄山と嵐山へ紅葉見物に行きました。その時の写真(高雄山神護寺)を1枚添付しますので、ご笑覧下さい。

Best wishes,

 P.S. 私はファインマンに関する随筆をホームページに掲載していますが、その一つの英語版の題名を "What little I can talk about Feynman" としています(日本語版は「ファインマンさんと私の無関係な関係」)。これは、もちろん、"What little I remember" を基にしたものです。(T)


 注:Otto R. Frish, What Little I remember (Cambridge University Press, 1979).
 オットー・フリッシュ(1904–1979)はオーストリア生まれの物理学者。1939年、伯母のリーゼ・マイトナーとともに、核分裂の発見に関わり、のちに英国で研究を続けた。


効き過ぎたインパクト

 上記のメールで、Y君からM氏へ私の考えを伝えてもらうことを頼んだが、それに対してM氏からY君当てに送られた返信のコピーが、直接私へも届いた。そこで、M氏宛に次のメールを送った。

M様

 Y君へのメールのコピーをお送りいただき、ありがとうございました。

 「私の覚えている少しのこと」では題名としてインパクトがないので、「何と少ししか…」にされたとのこと、たしかにインパクトのある題名でした。ありすぎて、失礼を申し上げる結果となりました。 翻訳書の題名は正確な訳でなくてよいでしょうが、誤訳とまぎらわしいのは避けていただいた方がよいかと存じます。

 Y君は、私がご翻訳二書の原書をどちらも読んだようにお知らせしていましたが、パイエルスの方は買ってあるだけで、まだ読んでおりません。英語の好きな私でも、原書を読むのは、和書を読むのに比べればスピードがずっと遅く、理解も不十分なところがあったりします。翻訳のご苦労は並大抵ではないとお察しし、二つの良書のご翻訳を出されたことに敬意を表します。

 Ted

2004年11月17日水曜日

「憲法9条を世界に輝かせる」

 一昨日、元同僚のK君が堺市教職員組合役員のY氏を連れて、私を訪ねてきた。K君は「自由と自治・進歩と革新をめざす堺市民懇話会」の事務局長をしている。訪問の目的は、日本国憲法9条の「改正」を阻み同条を守り生かすために、創意をこらして行動に立ち上がることを堺市民に訴え、とりあえずは、2005年1月11日に「九条の会」メンバーの一人・小田実氏の堺での講演会を成功させるための、呼びかけ人の一人になって欲しいということであった。

 私はホームページに「九条の会」へのリンクを設けていることでもあり、二つ返事で承諾した。

 「九条の会」は、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子の各氏が呼びかけ人となって、2004年6月10日に発足したもので、そのアピールには、「平和を求める世界の市民と手をつなぐため、あらためて憲法9条を世界に輝かせたい」という言葉がある。私はいまアピールを読み返して、ここに引用した部分に最も魅力を感じたのだが、「九条の会」ホームページのトップへ戻ってみると、そこに、この言葉が抜き書きされていた。英語版では次のようになっている。

The "Article 9 Association" strives to shine the light of Article 9 upon this turbulent world, in order to join hands with the peace-seeking citizens of the world.

[この記事を最初に掲載したサイトで貰ったコメントを以下に引用する。]

S 11/17/2004 18:25
 世界の平和を求める人たちが手を携えて、平和憲法、特に、九条を守り抜くことは大変意義深いことと思っています。私は仕事柄、政治色は表に出せないので、陰ながら応援したいと思います。

Ted 11/17/2004 19:52
 ありがとうございます。

2004年11月16日火曜日

Autumn Leaves


Wolfgang is a physicist who retired from Max Planck Institute, Garching, Germany. He is a common friend of my former colleague, Kenji, and me; and he is now working at National Institute of Fusion Study in Toki, Gifu, as a visiting scientist. Kenji and I wanted to show Wolfgang the beautiful scenery of autumn leaves in Kyoto.

So, the three of us met at JR Kyoto station at 10:00 a.m., and went to Takao and Arashiyama. Luckily it was rather fine today. It was a little early to see the full red color of maple leaves. However, it was also good to see the mixture of red, yellow and green colors. In spite of weekday, there were many people at both the places we visited. The photo shown here was taken at Jingo Temple, Takao.

Wolfgang brought me a gift from Germany. It was a small book written in English, "Pinakothek der Moderne, Munich: Guide to the Collections" (Prestel, Munich, 2003). Pinakothek is the name of the art muesums in Munich. There are Alte (Old) Pinakothek and Neue (New) Pinakothek. I visited the former when I went to Munich in 1989. They seem to have built a new building, Pinakothek der Moderne, as part of Neue Pinakothek.

[This article was originally posted on an SNS site now disappeared. Messages of the comment column there are copied below.]

J 11/17/2004 00:27
Hi, Ted,
The photograph is very beautiful. Red and yellow and green leaves are mixed. If you visit there next time, you may see the full red color of maples.

S 11/17/2004 07:42
紅葉狩りに行かれたのですね。きれいな写真です。Ted さんの水彩画も見てみたいものです。

Ted 11/17/2004 08:36
Hi J and S,
Thanks for your kind comments. I've added a new paragraph after you had read this story.

M☆ 11/17/2004 17:56
Wow! That's good situation! I went to the Lake Kawaguchi last week. There was also beautiful scenery with red leaves. This photo makes me feel relaxed. I felt happy. Thanks, Ted!

Ted 11/17/2004 19:51
Do you live near the Lake Kawaguchi? Or did you make a trip of a few days there?

M☆ 11/18/2004 10:35
I live in Chiba Prefecture. It was nice trip to go to the Lake Kawaghcuhi.

Ted11/18/2004 11:05
I see. Thanks.

2004年11月13日土曜日

京都議定書

 京都議定書とは、1997年12月に京都において採択された、地球温暖化を防止するための国際条約である。さる11月4日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が批准法案に署名したことから、来年2月にその発効が決まったことは喜ばしい。日本は2002年に批准したが、アメリカはブッシュ政権下で2001年に脱退を表明している。最大の温室効果ガス排出国であるアメリカの協力が得られないのは、きわめて困ったことである。

 京都議定書で日本に課せられた義務は、二酸化炭素を中心とした温室効果ガスの総排出量を、2008–2012年の間に、基準年(1990)比で6%削減するというものである。しかし、2002年度の総排出量は1990年比7.6%増、2003年度の速報値は8%増となっており、これから数年のうちに約14%削減しなければならない、と報じられている [1]。たいへん厳しい状況だが、国民の生活にしわよせするのではなく、大企業等、大口の排出をこそ、大幅に減らすべきだと思う。

[後日の注記:以下のリンクはどちらもリンク切れとなった。]

文 献

  1. 東京新聞ウエブサイト11月8日付け「核心」記事


関連サイト

2004年11月12日金曜日

宇宙の不思議

 最近、SNS エコーの「おとな科学相談室」グループ掲示板で、「宇宙の始まり」「宇宙はどんな運命をたどるのか」そして「宇宙の膨張」という話題について話し合われた。これらについて、より多くの方々の興味をかきたててみたいと思い、私がそこへ投稿した文をここに転載する。転載に当たり、若干の修正を施している。私は宇宙物理学が専門ではないので、多少の誤りがあっても、ご容赦願いたい。

宇宙の始まり

 宇宙は120ないし140億年前のビッグバンという現象によって誕生し、そのとき、時間と空間が一緒に生じたと考えられている。時間もそれによって生まれたのだから、「それ以前」というものはない、ということになる。たとえば、地球表面を南へ南へと旅して、南極へ行き着くと、それ以上南へは行けないように、時間をビッグバンまでさかのぼれば、それ以上、昔へは行けない状態になるのである。

 ビッグバンは時空の特異点ともいわれ、時間のゼロ点はそこにある、といえよう。ただ、宇宙の方程式の基である相対性理論は、特異点付近の著しく小さな空間領域では、量子力学と融合されなければ、そのままでは使用できない。したがって、融合された理論がまだでき上がっていない現在、特異点付近のことはほとんど分かっていない。特異点という形にならない可能性さえもある。それでも、10のマイナス43乗秒程度まで、ビッグバンに近づいた時間における様子は、推定ができているようだ。それ以前の期間は、プランク時代という名前がつけられているが、何が起こっていたかは論じられない未知の時代、ということになっている。

 宇宙は無の「ゆらぎ」である、と考える説があるようだ。たとえば、真空は全くの無ではなく、エネルギーさえ貰えば、粒子・反粒子対を発生する可能性を秘めている。必要なエネルギー E と、対発生が起こっている時間 t の積が、ハイゼンベルクの不確定性原理の許す範囲内におさまるならば、そのような無の「ゆらぎ」は起こり得る。そして、そうした「ゆらぎ」がビッグバンを起こした、ということのようだ。真空の「ゆらぎ」では、エネルギー E は偶発的に生じ(これが「ゆらぎ」ということである)それを得て発生した粒子対は、h/Eh はプランクの定数)という時間内に消滅する。ところが、宇宙が無の「ゆらぎ」で生じたと考える場合、長時間にわたって消滅しないことはどう説明するのか、私も理解できていない。どなたかご存じの方が教えて下されば幸いである。

宇宙の膨張と将来

 宇宙はビッグバン以来、膨張を続けている。従来、その膨張は次第に減速しているものと考えられていた。しかし、1998年に行われた超新星の観測結果から、宇宙の膨張は目下加速していることが分かった。そして、このような形で宇宙を押し広げる力に対して、「暗黒エネルギー」という名前が与えられている。その正体は不明で、それを明かすことは、これからの宇宙物理学の大きな課題である。

 宇宙の将来としては、膨張しっぱなし、膨張が止んで一定の大きさにとどまる、膨張のあと収縮に向かい、膨張と収縮を繰り返す、などの可能性がある。現在なお膨張が加速しているという様子からは、収縮に向かうことが困難なように見える。他方、宇宙の全質量は、ちょうど膨張が停止して、収縮に向かうのに必要な量にかなり近い(99%とかではなく、10のマイナス10乗などといった数に比べれば、0.01がオーダーとして1にかなり近いというような意味で、近い)ので、実はちょうど必要十分な量なのではないか、という推測もあるようだ。

宇宙の成分

 宇宙の加速膨張を発見した一人、R. P. Kirshner の著書 The Extravagant Universe (Princeton University Press, Princeton, 2002) に、「宇宙の成分割合」が円グラフで次のように示されている。

  可視バリオン < 1%
  暗黒バリオン <10%
  暗黒物質    30%
  暗黒エネルギー 60%

 「バリオン」は、陽子、中性子などの重い素粒子であり、「可視バリオン」は、星など、見える天体を構成している物質。「暗黒バリオン」は、光を出さない形で散在しているバリオン由来の物質を指す。

 「暗黒物質」の存在は、1933年に Fritz Zwicky が、星雲クラスターの運動速度を観測して、そのクラスターを飛散させないで保つ重力が働いているためには、その質量が「見える物質」だけからなるよりも10倍程度大きくなければならないことを見出したことにより、推定された。(当時は "missing matter" と呼ばれた。)その後もこの推定を支持する多くの観測結果が、星雲だけでなく、星についても見つかっている。

 暗黒物質の正体の候補としては、褐色矮星、黒色矮性、それに、フォチーノ、グラビチーノ、グルイーノ、ウインプなどといった、目下は理論的に推定されているだけの素粒子などが考えられている。実際に何であるかを突き止めることは、これからの課題である。

 「暗黒エネルギー」は先にも述べたように、加速膨張の原因をなすものとして考えられている存在である。その正体としては、宇宙項、負の圧力、クィンテッセンスなどが候補に挙げられているが、これら自体どういうものか、よく分かっていないようだ。想像をたくましくして、いろいろなアイデアを語り合ってみるのも、面白いだろう。

 前記 Kirshner の著書によれば、宇宙の膨張の歴史をもっとさかのぼって正確に観測し、暗黒エネルギーの正体にせまるため、ローレンス・バークレー研究所では、巨大な CCD 検出器を人工衛星に積み込んで、数千の超新星について測定をする長期的計画を立てているということである。Kirshner 自身は、もっと小規模な地上からの観測で、数百の超新星を短期間に調べる観測を行い、同じく暗黒エネルギーの正体にせまることを考えている、と述べている(目下進行中か)。

 暗黒物質と暗黒エネルギーについて、その正体が分かっていないのだから、私たちは、まだ宇宙の実に約90%の成分について、何も知らないということになる。ひととき大空を仰いで、地上の憂さを忘れ、宇宙の不思議に思いを馳せたい。

追記:宇宙の年齢の新観測結果

 「天文徒然草」というホームページを作っている私の元同僚から、「宇宙の年齢は、最近の WMAP 衛星による背景放射の揺らぎの観測から、137億年ということになっています」というコメントを貰った。

 WMAP(Wilkinson Microwave Anisotropy Probe の略)は、プリンストン大学と NASA のゴダード宇宙飛行センターの共同で作られ、2001年6月に打ち上げられた。当初は MAP の名だったが、プリンストン大学の天体物理学者で、1964年以来、宇宙マイクロ波背景放射の先駆者であった David Wilkinson を記念して、Wilkinson の名が後にかぶせられた[1]。

 WMAP の最初の1年間の観測結果をまとめた報告が、2003年2月に発表された [2]。それによれば、宇宙の年齢は(137±2)億年となっている。

  1. B. Schwartzscild, Physics Today Vol. 56, No. 4, p. 21 (2003).

  2. WMAP Collaboration, http://arXiv.org/abs/astro-ph/0302207-09 (2003).


[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

T 11/12/2004 23:37
 直接に観測して解析する手段を持たないわれわれ個人としては、その観測結果を注目するだけですが、夜空を仰ぎ見ていろいろ思索することは楽しいですね。地上のいやなことを忘れて…。

Ted 11/13/2004 07:40
 宇宙のことを考えれば、地球上の争いなど、いかにも矮小です。

2004年11月9日火曜日

『ジェーン・エア』と私

 SNS エコーの「小説好きの方、来てね」というグループの掲示板に、Y さんの「私の一番好きな恋愛小説(近代文学だよ)」という投稿があった。私は、そこへ返信投稿をしたが、同じ内容の文に大幅な捕捉をしたものを以下に掲載する。




 Y さんの一番好きな恋愛小説がシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』と知って、嬉しい。これは私が中学1年生のときに読んだ最初の本格的な文学作品である。それまでに、子ども向けに翻案された文学作品はいくつか読んでいたかも知れないが。

 富山県の宇波という漁村(いまは氷見市の一部となっている)に住んでいた伯母の家へ夏休みに遊びに行き、そこにしばらく滞在した折に、従姉が持っていたのを借りて読んだのだった。今年の夏、それ以来初めて、その従姉に会い、この思い出についても話したばかりである。

 ロチェスター家に謎の人物が隠れ住んでいるらしいところを不気味に思いながらも、ぐいぐい引き込まれるようにして一気に読んだ。読後すぐに題名も著者名も忘れてしまっていたが、比較的すぐに、それがシャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」だったことを知ったと思う。

 また、『ジェーン・エア』は、郷里の大学の英文科の学生だった、中学同期の女性の友人が、卒論の対象とした作品でもあった。彼女は当然原書で読んだのだろうが、私は、その機会に岩波文庫版で再読した。ジェーンを彼女に、ロチェスター氏を私自身にみたてながらだっただろうか。冬休みに彼女に会い、「『ジェーン・エア』を読んだよ」といったのだが、なぜか、とくに感想を話し合うことはしなかった。

 今年の春頃、NHK ラジオ第2放送の「原書で読む世界の名作」で、『ジェーン・エア』が取り上げられていた。テキストのペンギン短縮版を買って、ときどき聞いていたが、いまそのテキストをどこへしまい込んだか思い出せない。思えば『ジェーン・エア』とは、長いつき合いである。

 ここで、上記の従姉のことを、少し述べておきたい。彼女、S子は私より4歳年長で、当時、旧制富山女子師範から富山大学教育学部に編入学したばかりの、体操の部活動などもしている、すてきなお姉さんだった。夏休みの滞在を終えて帰途のバスに乗るとき、次はいつ会えるだろうかと思い、ふっと寂しさを感じたのだった。

 S子は何年か前に小学校の先生を定年退職した。この夏訪問したとき、彼女は、退職後、富山新聞の「ときどきの日記」欄(朝日新聞の「ひととき」欄に相当)にしばしば投稿しているといって、掲載された随筆の切り抜き集を見せてくれた。そこに彼女の、昔通り文学好きの、すてきなお姉さんぶりを再び見ることが出来たのも嬉しかった。

[最初の掲載サイトでのコメント欄の記載を以下に転載する。]

Y 11/10/2004 21:32

 転載・加筆、ありがとうございます。なんだか、どきどきしながら、読みました。タイトルを見て、もちろんすぐに読みに来たかったのですが、とにかく生活もままならない悪体調なもので…。

 私の一番好きな恋愛小説『ジェーン・エア』に、Ted さんの人生の大切な人との関係が組み込まれているのですね。それは、私としても嬉しいことです。

 『ジェーン・エア』は長い小説ですが、絶対に素晴らしいと思える恋愛小説ですよね。
これまでの人生で、私にとってのロチェスター氏は現れませんでしたし、私自身も何人の人とお付き合いしても、ジェーンがロチェスター氏としたような恋愛には恵まれませんでした。Ted さんは、あのジェーンとロチェスター氏を感じさせるような大切な人との関係があったのですから、それはとてもうらやましい、素敵なことですね。

 けれど、私は、『ジェーン・エア』が最愛の恋愛小説であるままで、だけどもそこからすっかり遠いところで、思いがけない恋愛…恋愛とも思ってないのですけど…愛の体験ばかりしているこの人生なので、もうきっと、小説とつながりさえもてないのだと思います。その実体験の端々は、私のブログにも出てきますよね。

 Ted さんがこのエコログで書かれているように、長い年数たって、また大切な人とのすてきな再会があり、人生を改めて懐かしく振り返ることができるなら、本当に、しみじみと人生の「まわりまわる」ような不思議な性質を実感できますよね。よいお話を、ありがとう。

Ted 11/11/2004 08:48

 Yさん、長文のコメントをありがとう。

2004年11月8日月曜日

テッド・ウィリアムズ

 私の先般の記事のコメント欄(後日の注:この記事を最初に掲載したブログサイトのもの)で、私と類似のニックネームの「てっど」さんから、「テッドはテディーべアーの由来のセオドア・ルーズベルト大統領のニックネーム」と教えて貰った。実は私の頭には、少年時代にスポーツ選手の伝記集の中で読んだテッド・ウィリアムズしかなかったのである。

 セオドア(テッド)・サミュエル・ウィリアムズは、野球の殿堂入りをした大リーグの強打者で、1939年から1960年まで、アメリカン・リーグのボストン・レッドソックスで活躍した。1941年に打率 0.406 を記録、首位打者6度、長打率王9度、打点王6度、全安打数 2654、うち本塁打 521、生涯打率 0.344、生涯長打率 0.634、アメリカン・リーグ最高殊勲選手2度、オールスターゲーム出場18試合などの記録を残している。この中には、イチローがひそかに次の目標としている数字も含まれているだろう。

 上記の記録は、The Official Ted Williams Website から取った。

 後日の追記:

 私が少年時代に伝記集で読んだのは、テッド・ウィリアムズでなく、ルー・ゲーリックだったと思い出した。では、私はテッド・ウィリアムズを何で知ったのだろう。雑誌「少年クラブ」か、あるいは新聞記事か。

 この記事を最初に掲載したブログサイトのコメント欄に、「てっど」さんから「セオドアのニックネームが全般的に Ted なんですね。文法チックというか、山田君とか山形君が、"ヤマサン" と呼ばれやすいのとは、ちょっと感覚が違いますね」との書き込みを貰った。私は、「そうです。William が Bill、Robert が Bob か Rob、Richard が Dick などと、愛称が決まっています。愛称は必ずしも名前よりも短くはなく、John の 愛称が Johnny というのもあります」と答えた。

2004年11月7日日曜日

飼い犬マリー

 私が高校2年の冬休みに、祖父と母と私の3人家族は、大連から引揚げ後6年近く続いた2階間借り生活と別れて、家主の長男が2階に住むやや広い家へ引越した。そして、母の勤務先の同僚から雑種の子犬を貰った。母は私がこれから受験勉強で運動不足になるのを気づかい、毎日、犬を散歩に連れ出したらよいと思ったらしかった。また、少し大きくなれば、番犬代わりになるとも考えたようだ。

 貰ったのは雄犬だった。コペルニクスに因んで、コペルと名づけた。中学生時代に愛読した吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』の主人公のあだ名もコペル君だった。しかし、コペルはまもなく逃走して、行方不明となった。母の同僚は、同じような子犬をまた連れてきた。こんどは雌だった。キュリー夫人に因んでマリーと名づけた。

 私はマリーを連れて、よく散歩した。しかし、大学生になった私は、郷里を離れることになった。祖父は80歳台も後半になり、半ば寝たきりであった。その祖父を介護しながら勤務していた母は、マリーの面倒は見切れないという。かわいそうだったが、マリーをK大学医学部の実験用に提供したのは、私が大学1回生の夏休みだっただろうか。散歩に連れ出すときに、嬉しそうに、勢いよく駆け回った姿がいまでも目に浮かぶ。

 隣家の小学生のお嬢さんの名が「まり」だったことを、のちに知った。高校時代、私は無口だったので、大きな声で「マリー」と呼ぶことはなかったが、母はよく「マリー、マリー」と呼んでいた。お嬢さんにしてみれば、似た名前を犬につけられて、迷惑だったことだろう。また、隣家では、私の母が盲ろう学校へ勤めていることを知り、さらに、私の声を聞くことがほとんどなかったので、私にも聴覚障害か何かあるのだろうと思っていた、と後日聞いたのも、いまでは懐かしい思い出である。

 後日の追記

 この記事を最初に掲載したブログサイトで、マリーを実験動物にしたことについて、「どうして、病院で安楽死させてやって貰えなかったんでしょう。あなたや、あなたのご家族を信じてただろうに…。どうせ、殺すなら楽に死なせてあげて欲しかった」とのコメントを貰った。「わが国の敗戦から間もない時期であり、ペットを安楽死させるという風習はまだ広まっていませんでした。実験動物は必ずしもすぐに殺されるのではなく、身体に電極を挿入されて、いろいろな反応を調べられたりします。少しでも人類の役に立ってから死ねば、マリーも本望かと考えた次第です。実験中と最期に苦しみがないように祈ったことをもって、お許しいただきたいと思います」と回答した。

 また、「Ted さんは高校生の頃から科学者志望だったのですね!」とのコメントも貰った。これには「京都にいた伯父が、大連から引揚げて間もない、小学生の頃の私の家を訪ねて来たとき、私の性格を見抜いたのでしょう、『Ted 君は学者になれ!』と言って帰って行きました。また、中学生時代に湯川さんのノーベル賞受賞がありました。これらのことが、進路の選択に影響したと思います」と答えた。

 関連サイト

  1. 土井英司によるビジネス書評『君たちはどう生きるか』(2005)

2004年11月5日金曜日

コンピュータと感情

 Sさんのブログ「コンピュータはどこまで賢くなれるか?」が、一昨年読んだ Richard Pwers の "Galatea 2.2" という小説を私に思い出させた。神経ネットワークと称するコンピュータ・システムに著者と同名の主人公が文学を教え、大学の修士試験で、人間を相手に得点を競わせる話である。これは、あくまでも創作であるが、その程度のコンピュータ・システム(人工知能)になると、ある程度の感情を持つことが、巧みに描写されていた。

 注:私の個人的体験をもふまえた、"Galatea 2.2" に対する英文書評もご一読いただければありがたい。なお、同書の和訳「ガラテイア2.2」が、みすず書房から出ている。