2006年12月11日月曜日

交換力の本質

 「湯川秀樹を研究する市民の会」では、湯川博士が中性子と陽子を結びつける媒介として中間子を思いついたことを、素人にも分かりやすく説明する方法がないかという話が出ている。しかし、大学で実験原子核物理学を専攻した私でさえ、そもそも「粒子を交換するとなぜ引力が生じるか」という理由を知らないで、そういうものと丸呑みにしていた。

 さる12月8日、梅田へ出たついでに本屋へ寄り、益川敏英博士の著書 [1] を立ち読みしたところ、その理由を説明したところがあった。キャッチボールによる説明( [2] 参照)に代えられるほどの素人向きの説明ではないが、感激してその本を買ってしまった。

 まず、この本の初めの方に、「2つの量子力学的な状態に、混合の効果が加わると、低いエネルギー準位はより低く、高いエネルギー準位はより高くなる」ことが簡単な波動方程式とその解(行列の積の求め方と2次方程式の解を知っていれば導き出せる)を使って説明してある。そして、粒子の交換で生じる交換力の本質は、この「準位の混合」にあるというのである。

 ここでは、上記のような混合の効果が生じることについては理解できたものと仮定して、陽子と中性子が中間子を交換して引き合っていることを、益川博士の本よりも少しばかり丁寧に説明してみよう。

 陽子と中性子の系Aと、この系の陽子が正電荷のパイ中間子(π+)を放出して中性子になった状態、すなわち、中性子2つとπ+の系Bとを考える。どちらの系のエネルギーも静止質量エネルギーが主要な成分であり、陽子と中性子の質量はほぼ等しいので、系Aのエネルギーは系Bのエネルギーより低い(系Bの余分のエネルギーは、ハイゼンベルクの不確定性原理の許す短時間内でいわば借金しているのである)。また、中性子の1つがπ+を吸収して陽子になるとき、系Bが系Aに変わる。このごく短時間のA→B→Aの過程は、AとBの2つの状態の混合と見ることができる。

 そこで、系Aのエネルギーは、混合による上記の効果によって、混合前よりも低くなる。つまり、陽子と中性子がπ+を交換しやすい近距離にあって、π+が放出されている状態と混在すれば、その交換が困難な遠距離にあるときよりもエネルギーが下がる。エネルギーの低い、より安定な状態が可能であれば、陽子と中性子の系はその状態へ移行するので、2つの粒子は互いに近づくことになる。これは、陽子と中性子の間に引力が働いて結びつくことにほかならない。

 追記:上記「2つの状態の混合効果」についての、益川博士の著書よりほんの少し詳しい説明をPDFにして、下記のウエブページからダウンロードできるようにした。

 http://www.geocities.jp/tttabata/yfiles.html

文献

  1. 益川敏英, いま、もう一つの素粒子論入門 (丸善, 1998).

  2. 素粒子間の力の例え, Ted's Coffeehouse (2006年11月30日).

(2006年12月11日)

2006年11月30日木曜日

素粒子間の力の例え

 「湯川秀樹を研究する市民の会」では、中間子を媒介として中性子と陽子が引き合う核力が生じるという湯川博士の中間子論の真髄を、分かりやすい例えで説明する方法を考えようとしている。

 媒介となる粒子をボールとして、キャッチボールに例える方法は、湯川博士自身、自伝『旅人』の中でしばしば使っている。他方、キャッチボールでは、ボールの運動量により、受けた人が後方への力を受けるとして、これを斥力の説明に使い、引力にはブーメランの投げ合いを使う説明も、かなり以前からある。ブーメランは後方から回り込んで相手に到達し、投げた人の方への力を及ぼすというのである。最近では、文献 [1] にこの説明が紹介されていて、「実際にこの通りではありません」と断ってある。

 たしかに、素粒子同士の基本的な相互作用の説明に、マクロな物体の形態や運動量が関係している例えを使うのはいささか具合が悪い。そこで、これを越える説明がないだろうか、というわけである。

 最近、"Mr. Tompkins Gets Serious" [2] という本のあることをアマゾンUSAからの宣伝メールで知った。先日、上京したついでに本屋へ寄ったところ、この本があり、少し立ち読みした。湯川博士の中間子論にふれたところがあり、粒子同士が第三の粒子を媒介にして引き合うことを、二匹のイヌが一本の骨というエサを取りあって、両側からかみついて離れないという例えで説明してあった。湯川博士が「赤ちゃんが求心力となって夫婦を密着させる」と考えた話 [3] に似ている。しかし、この手法で斥力はどう説明できるだろうか。

文献

  1. 米沢富美子, 『人物で語る物理入門(下)』, p. 220 (岩波新書, 2006).

  2. George Gamow, "Mr. Tompkins Gets Serious: The Essential George Gamow, The Masterpiece Science Edition" (Pi Press, 2005).

  3. 朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記」欄 (2006年5月25日).

2006年11月29日水曜日

湯川博士のこと

 昨日の H さん経由の湯川スミさんの思い出話に続いて、「湯川秀樹を研究する市民の会」(略称「湯川会」)のメンバーに紹介した、H さんの同期生たちや彼女自身による湯川博士の思い出話を転載する。(湯川会メンバー宛メールとしては、こちらの方を先に出している。)

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湯川会の皆さん

 私より数年早く、195X年に京大の物理学科を卒業し、一時私と同じ職場にいた H さんに、湯川さんの印象を尋ねていたところ、先々週、彼女たちの物理学科同期会があり、他の方がたにも聞いて知らせて下さいました。以下にそれをご紹介します(H さんのご希望により、実名は伏せています)。

 I 氏:一番印象に残っているのは、実験後、あまった液体窒素を水溜りに流して、沸騰する中で氷が出来る様子を見ながら遊んでいたときのことです。後ろで「面白いねえ」と声がして、湯川先生も楽しそうに眺めていました。何にでも、生き生きした好奇心を持つ人だな、と思いました。

 K 氏:コロキユウムで D 君が論文紹介をしたときに、湯川先生が質問され、その答に対して先生が「自分は頭が悪いからなー」といわれたことが印象に残っています。

 H さん:私は母と湯川先生にお会いしたことがあります。そのとき湯川先生が母にいわれたことば、「親にとって、いい子は自分の思っているようになってくれる子で、自分の思うようになってくれない子はいい子でない」が印象に残っています。私が大学院に進むことに対しておっしゃったのですが、先生のお子様のことにも通じることばではなかったかと考えています。また、クリスマスに A さんの発案で風船割りをしたこと、ソフトボールの試合に参加されたことなど、いろいろ楽しんでおられた様子が目に残っています。

 後日、H さんへのメールで資料を届けられた方もあり、それは別途紹介します。(2006年11月20日)

2006年11月28日火曜日

湯川スミさんのこと

 湯川研究室の修士課程を修了して一時私と同じ職場にいた H さんに、「湯川秀樹を研究する市民の会」(略称「湯川会」)で紹介するための湯川博士の思い出を尋ねていたところ、彼女自身の思い出の他に、同期生の思い出などもメールで問い合わせたりして、送って下さった。その中に、湯川博士の秘書をしておられたSさんがスミ夫人についての思い出を書かれたものもあった。上記の会のメンバーにそれを紹介した私からのグループ・メールをここに転載する。

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湯川会の皆さん

 湯川さんの秘書をしておられたSさんがスミ夫人についての思い出を書かれたメールを、このたび H さんが転送して下さいました。H さんは京大物理学科同期会で先般京都へ来られた折に、S さんにも会われ、H さんの学生時代に学生たちの間でスミ夫人が「京都の三大悪女の一人」といわれていたことを思い出して話されたようです。以下に S さんのメールから、思い出の部分をご紹介します。

 スミ夫人のことは、悪妻といわれていらっしゃった時がありましたが、私はそんなふうには思いませんでした。その頃の「妻」のあり方の感覚が古風だっただけです。スミ夫人は「秀樹さん」のことだけを純粋に一番に考えていらしたと思います。だからスミ夫人の口から出ることばの中にどれだけ「秀樹さん」が出てきたことでしょう。そして尊敬していらしたから、湯川先生の亡き後も、核廃絶への取り組みに最後まで努力なさったのだと思います。

 この後、もう少し率直なご感想が続きます。ただ、「あなた(H さん)だからいいますが」ということばがありますので、決してよくない話ではないのですが、引用は差し控えます。(2006年11月25日)

2006年10月25日水曜日

湯川博士とアキレス腱

 湯川博士の誕生間もない1907年から、京大で活躍中の1958年までの写真を集めたウエブページがある [1]。大阪科学館の斎藤さんが、同館に展示するパネルを作成するために、基礎物理学研究所からコピーを貰って、それを紹介しているものである。

 その中に「アキレス腱切断 ソフトボール大会で、湯川はヒットを打ったものの、一塁まで走ったところでアキレス腱切断。2カ月ほど研究所を休むことになる。京大農学部グラウンドにて、1956年ごろ」という説明のついた写真がある。

 1956年ならば、私が京大3回生のときのことで、私はその年度の後期に湯川博士の「量子力学 I」という講義を聞いている。そう思ってよく見ると、その写真の湯川博士は、まさに私が記憶している博士そのものである。『湯川秀樹著作集 月報8』中の「湯川先生の思い出」と題する荒木不二洋氏の文によれば、このソフトボール試合は1956年5月18日に行われた湯川研究室内の東西対抗戦で、湯川博士はボールを外野を越えてかっ飛ばされたが、一塁を回って二塁へ走る途中で足をくじかれたそうだ。

 似たような記述は、室田和香さん(理論物理刊行会元職員)の「湯川博士の思い出」というウエブページ [2] にもある。ただ、一塁への途中で転倒されたようになっていて、荒木氏の記述との間に、細かい点ではあるが、食い違いが見られる。

 アキレス腱といえば、湯川研究室の修士課程を修了した MS さん(私がこのブログに引用した母への手紙にときどき登場している)が1958年の秋から私のいた木村研究室へ原子核実験の勉強に来ていた。彼女も、研究室仲間とバドミントンをしていたときだったかにアキレス腱を切った。「湯川研は師弟ともにアキレス腱が弱い」と話題になっていたような気がするが、その辺の記憶は不確かだ。

 ところで、湯川博士は核兵器廃絶の運動に熱心だった。最近わが国の核兵器保有を論じたがる政治家たちは、「日本のアキレス腱」ではないだろうか。「アキレス腱」には「致命的なものとなる弱点」の意味がある(『広辞苑』)。念のため。

  1. http://www.geocities.jp/sci_museum_saito/album.htm

  2. http://www.jinden.com/sys/public/group/?sys_gid=7&sys_page=130003&session_id=f9c9836f4401d3d9c9affd3a4bffd99c

(2006年10月25日)

2006年8月10日木曜日

日本の原爆研究と科学者誓約運動

 湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)の S さんが、さる8月8日の深夜テレビ番組で日本でも原爆を作る試みのあったことが放映されていたと、グループメールで紹介し、湯川博士の名前も数回出たと述べた(番組については、テレビ局のウエブサイト [1] 参照)。これに関連して、私を含め何人かの会員が、同じくグループメールによって関連事項や感想を寄せた。戦争がもっと長引いたとしても日本で原爆を完成できた可能性はきわめて薄かったとはいえ、大勢の一般市民の命を奪うような兵器の開発を目指す動きが、わが国においてもあったということは、戦争の狂気を改めて思い知らせるものである。

 折しも、被爆61年目を迎えた長崎で出された平和宣言に、「核兵器は科学者の協力なしには開発できません。科学者は、自分の国のためだけではなく、人類全体の運命と自らの責任を自覚して、核兵器の開発を拒むべきです」とのことばが入れられた [2]。科学者・技術者の平和への責任も重い。

 ピースプレッジ・ジャパン [3] では、科学者が「自分の知識の及ぶ限り、核兵器およびその他の大量破壊兵器の研究、開発、製造、取得、利用に一切参加しないこと」を誓う誓約運動を2004年8月9日から展開していて、私も誓約に参加したが、誓約者はまだ182人(うち海外63人)である。これからの日本の平和に責任のある若い科学者たちが、この誓約にこぞって参加するよう望みたい。

 私が S さんのメールに応えて湯川会会員宛に書いたグループメール(8月9日付け)は、京大での原爆研究に関するものである。以下にそれを引用する。

*     *     *

 湯川会の皆さん

 S さんのメール「深夜の番組で」以来、日本での原爆研究が話題になっていますが、『週刊ポスト』1985年8月9日号に、ジャーナリスト・佐野真一が京大での原爆研究についての記事を書いていました(職場の同僚からゼロックスコピーを貰って保存していました)。京大原子炉教授・石田正弘と同初代所長・京大名誉教授・木村毅一(肩書きはいずれも当時)から取材したもので、『陸軍(理研)ばかりか海軍(京大)でも魔の殺戮兵器が… 幻の「日の丸原爆」を追う』というセンセーショナルな題名になっています。しかし、内容はおおむね皆さんのメールにも書かれていた通りで、原爆の実現にはほど遠い状況だったことを示しています。

 木村毅一先生は湯川博士の同級生、私の恩師で、私の最初の職場・大阪府立放射線中央研究所(大放研)の初代所長でもありました。木村先生の随筆集『アトムのひとりごと』(丸善, 1982; 自費出版) 中の「原子力関係研究の思い出」という文(1965年大放研研究発表会講演記録)にも、戦中・戦後の原子核研究に関連して、ウランの核分裂にふれたところがあります。湯川博士の名も出てきますので、その部分を以下に引用します。

 荒勝研究室の残留組は、戦争中、研究資材の不足する中で、ウランの核分裂に関する研究にたずさわっていたのです。その頃、湯川教授や坂田氏、谷川氏などの理論家と、荒勝研究室の実験グループが一緒に核分裂に関する文献を読み、ウラン235の濃縮法についての検討をしばしば行ないました。その結果、われわれの採用しようとした方法は、超遠心分離法でありましたので、超遠心分離器の研究に着手しました。この研究は戦後まで継続され、真空中で毎分250万回転に到達することができました。この研究者が後にサイクロトロンの建設に協力しなければならなくなりましたので、この研究はここで中断することになりました。一方、仁科研究室では、ウラン235を濃縮するため熱拡散方式にいどんでおられたようでした。
 しかし、日本でこの種の研究は十分実を結ぶことなく終戦となり、アメリカでは1942年12月2日、シカゴ大学で世界最初の原子炉が臨界に達し、1945年には原子爆弾が完成し、広島、長崎がその洗礼を受けたのであります。

 T.T.

  1. 終戦61年目の真実~昭和史の"タブー"に迫る~
  2. 長崎平和宣言
  3. Peace Pledge

2006年5月26日金曜日

湯川ポテンシャル

 5月の「湯川秀樹を研究する市民の会」例会で、世話人の HM 氏から、湯川ポテンシャルが修正クライン・ゴードン方程式の解であることを xyz 座標でチェックする計算の紹介があった。湯川ポテンシャルとは、湯川博士が中間子の存在を予測してノーベル賞受賞の対象となった論文に出てくる、中性子と陽子の間に働く力の場を表す関数で、exp(-λr)/r という形のものである。私は極座標ならば簡単にチェックできることをコメントし、フェルミの教科書にあった解の導出方法の概略も紹介した。その方法について後日 PDF ファイルにまとめたものをこちらでご覧になれる。

2006年5月13日土曜日

湯川博士が日系フランス人? (Was Hideki Yukawa a Japanese-French?)

 以前 "Macmillan Dictionary of the History of Science" [W. F. Bynum, E. J. Brown, Roy Porter, ed. (Macmillan, 1981)] という辞典のペーパーバック版 (1988) を買い、巻末の人名索引を見て驚いた。

  Yukawa, H. (1907–    )
  Japanese-French physicist

となっているのだ。湯川秀樹博士が日系フランス人などという話は聞いたことがない。せっかく買ったこの辞典が信用できなくなった。ノーベル賞物理学者のマレー・ゲルマンも、「1カ所でも間違いがあれば、私はその本全体を信用できない」というようなことをどこかに書いていた。

 ちなみに、この辞典では、湯川博士の名前が Cosmic rays、Elementary particles、Nucleus の3項目に登場し、Elementary particles の項には中間子に関係して、20行ほど(この項目の1/4近く)の最も長い記述がある。

2006年2月19日日曜日

湯川さんの講義 (Yukawa's Lectures)

 私が学生時代に下宿から母宛に送った手紙の一部を母が保存してくれていた。湯川さんの講義などの印象を書いたものがあれば、既報「湯川秀樹博士を研究する市民の会」[1] に提供する話題として役立つと思って取り出してみたが、ほとんどは修士課程の間のもので、湯川さんの講義を聴いた学部3回生のときのものは見当たらない。ただ1通、ちょうど湯川さんの講義のごく始め頃のものがあった。講義の印象は記してないが、大学生協で炭の共同購入をしたことなどが書いてあり、すっかり忘れていた50年近く前の学生生活がよみがえる。以下に、1956年秋(便せんに日付けは記してなく、封筒は保存されていないが、内容からそう推定される)に母へ送ったその手紙を引用する。




 昨日は強い風を伴った雨で、きょうも雨が降っています。冬に備えて大学の協同組合の炭の共同購入で一俵買っておきましたが、まだセーターを着ると暖かすぎるような気温。夏休みの終り頃にTKさんから借りたのを毎日着ていたのが不思議な現象として思い出されます。

 今週は物理学の学会があって、また休講が沢山。それでも昨日は、湯川さんの二度目の講義がありました。『岩波講座 現代物理学』[2] の中の湯川さんの書かれた量子力学編に大体そって講義されるので、少し前にそうとも知らず読んでみていたのが、予習した結果となり、楽しく聞けました [3]。

 本とノートが沢山になったので、近くの道具屋で、組み立て式三段の本立てを買ったところ、九五〇円で、またまた仰天でした。

 四回生で理論系と実験系のそれぞれ四つずつの研究室のどれかに属することになるのですが、去年、物理、化学、数学等の学科に別れるために行ったような各研究室の教授や大学院生との懇談会がいま順々に行われています [4]。

 歯はもう全然痛みません。また、親知らずの生え出たところが痛かったのかも知れません。

引用時の注

  1. 湯川・朝永両博士生誕100年へ向けて, Ted's Coffeehouse 2 (2006年2月5日).

  2. 湯川秀樹, 井上健, 岩波講座 現代物理学 量子力学 上 (岩波書店, 1955).

  3. 湯川さんの講義ぶりについての印象は記していないが、湯川さんは当時はまだ日本で唯一のノーベル賞受賞者で、私たち物理学科の学生にとっては神様のような存在だったので、印象を書くなど恐れ多いという気持もあったようである。ただ、私自身も話をするときの声は小さいほうだが、湯川さんの講義は小声だったことが記憶に残っている。本の中では脚注にするような話や、余談などのときには、声を一段と落とされたので、いつも前から3列目ぐらいの座席にいた私でも、そのあたりは聞き取りにくかったものである。長い数式でも、ノートなどを参照することもなく、黒板にすらすらと書かれたことも印象深い。
     湯川さんの小声については、湯川さんと相前後して京大物理教室で学んだ田村松平、小林稔両先生も、桑原武夫他編『湯川秀樹』(日本放送出版協会, 1984) の中に書いておられる。特に小林先生は、湯川さんの数物学会例会での中間子論の発表の後、講義室の後ろの人が、何も聞こえなかったからもう一度はじめからやり直して欲しいと発言して皆失笑した、というエピソードを書いておられる。

  4. 当時は、学科への分属では物理学科が、物理学科の中の研究室への分属では湯川研究室が、圧倒的に希望者が多かったので、私たち学生は自主調整の目的で懇談会を行ったのである。湯川研の大学院生からは就職の厳しい状況を聞かされ、その結果、湯川研希望者数は適当な数にまで減少し、私も所属することになった原子核実験の木村研究室に最大数の学生が集まった。原子力ブームの始まりの時期だったのである。最初湯川研希望者の一人だったA君は、湯川研との懇談会の後、「おれは、湯川研の助手になることをあきらめたよ」といい、それに対して毒舌家のS君が「助手になることをあきらめたとは、みみっちいな」といって仲間たちを笑わせたことが記憶にある。

2006年2月5日日曜日

湯川・朝永両博士生誕100年へ向けて (Centenaries of Yukawa's and Tomonaga's Birth Are Coming)

 ノーベル賞物理学者の朝永振一郎と湯川秀樹両博士の生誕100年が、2006年3月31日と2007年1月23日にそれぞれ到来するのを機会に、両博士がともに学んだ京大や、その他の両博士に縁のある場所などで、記念行事等が計画されている [1, 2]。

 さる1月27日付けの朝日新聞夕刊は、湯川博士の魅力を市民の目で伝えたいとして活躍を始めたグループについて紹介していた [3]。このグループ「湯川秀樹を研究する市民の会」は、大阪市立科学館――湯川博士が講師をしていて、中間子の存在を予言した阪大理学部の跡地にある――の友の会を中心にして結成されている。博士の論文や著書を読んだり、ゆかりの人に話を聞いたりして、その業績、生い立ちや人柄などをシンポジウムで発表して出版し、科学館にも展示することを目指しているという。同会のホームページ [4] によれば、メンバーは、主婦、幼稚園・中学校・高校の先生たち、エンジニア、会社員、学生など、多彩である。私はその活動に共感を覚え、入会させて貰った。

 入会することになってから、ホームページを再度よく見ると、「科学者には書けないものを出版、これが夢です」とある。私は、湯川博士の専門だった理論物理学については、他のほとんどの会員の方がたと同じく、全くのしろうとであり、その意味では、この場合の「科学者でない者」の仲間といってもよいだろう。しかし、放射線物理学を仕事にしてきたという意味では、一応、科学者のはしくれなので、どのようにお手伝いするのがよいか、慎重に考えなければならない(後日の注記:科学館の方の提案で、正会員でなく、アドバイザーの一人ということになった)。それはともかく、私にとって、ノーベル賞受賞効果によって物理の道へいざなって下さった恩人であり、量子力学の恩師でもある湯川博士について、幅広い市民の方がたと語り合えることは、大きな楽しみである。

 このブログをご覧になった方々からも、湯川博士の、科学から文化や平和運動にもおよぶ幅広い活躍への思いを、コメント欄に寄せていただければありがたい。

 (表題に「湯川・朝永両博士」と書きながら、本文は湯川博士中心になってしまった。これは、朝永ファンの方には悪かったが、私が元同僚とともに書いた論文「鏡映逆転は心理過程に依拠せずに簡単に説明される」中に朝永博士の『鏡の中の世界』を引用し、湯川博士の著作は何も引用しなかったことによって許されるであろう。)

  1. 湯川・朝永両博士 生誕100年で記念行事:京大、企画展や式典開催へ, 京都新聞電子版 (2006年1月11日).
  2. 朝永、湯川博士が生誕100年:出身の京都大など記念事業, Yahoo!ニュース - 共同通信 (2006年1月18日).
  3. 湯川博士はナニワの誇り:魅力伝承へ市民グループ発足, asahi.com (2006年01月27日).
  4. 湯川秀樹を研究する市民の会