2020年9月8日火曜日

水彩画『飯豊連峰大日岳』 (My Watercolor "Mt. Dainichi of Īde Mountain Range")

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水彩画『飯豊連峰大日岳』
My watercolor "Mt. Dainichi of Īde Mountain Range"

 来たる 2020 年 10 月 26 日(月)から 28 日(水)まで、堺市役所本館エントランスホールで開催される『美交会展・34』(主催・堺の文化をすすめる市民の会)に出品するつもりで描いていた水彩画を、9 月 8 日に完成した(上掲の写真)。ただし、美交会展の出品申し込み様式がまだ届かないことからすれば、今年はコロナウィルス・19 のため、中止になるのかもしれない。そういう思いでいたため、私は 3 日間の開催予定期間中に病院での定期的診察予約などを 2 日もうっかり入れてしまい、もしも開催されても今回は不参加とし、作品は次回に出す予定にしている。

 作画にはホルベイン不透明水彩絵具とホルベイン紙 F6 を使用した。文献 1 の表紙写真を撮影して、その左と下を一部カットした形でパソコン画面に表示したものを参考にして描いた。文献 1 の目次ページにある説明によれば、その写真は、高橋金雄氏の撮影による、御西岳から望む飯豊(いいで)連峰の最高峰・大日岳(2128 m)で、7 月の風景である。飯豊連峰は山形、新潟、福島の 3 県にまたがっている。妻が日本百名山をグループ登山で楽しんだ思い出の山々の一つを描いたつもりだったが、実は妻が登った(2007 年 9 月末)のは連峰の主峰である飯豊本山(2105 m)だったということである。なお、深田久弥は夏の一週間に飯豊の全主稜を歩き、「大きな残雪と豊かなお花畠、尾根は広々として高原を逍遥するように楽しく、小さな池が幾つも散在して気持ちのいい幕営地に事欠かない」と述べている(文献 2)。

 私のこれまでの水彩画は、参考にした写真を出来るだけ忠実に表現するようにしていたが、細かく描いていると年齢のせいで目が疲れやすくなって来たことや、以前から、いずれは粗いタッチの絵を描くようにしたいと思っていたこともあり、今回から絵のスタイルを変えた。今回参考にした写真は、そもそも粗いタッチで描きやすいものでもあった。

文献
  1. 『週刊 日本百名山』No. 41(朝日新聞社、2001)。
  2. 深田久弥『日本百名山』(新潮社、1964)。文献 1 に「飯豊山」の章が朝日文庫版から再録されている。

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2020年8月6日木曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -6- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -6-)

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本記事の文献 [25–28]
References [25–28] of this article.

4 理論物理学研究の相異なる方式

 亀淵氏はハイゼンベルクや湯川の晩年の研究が未完のままに終わった理由を説明するために、理論物理学研究の方式を "上昇的" と "下降的" に分けている。"上昇的" 方式は、「理論を基礎から積み上げてゆく」もの、"下降的" 方式は「既存の理論体系を遥かに越える高所に原理的な仮説を措定し、そこから下降して諸々の物理法則を演繹しようと試みる遣り方」で、「直感とか類推に頼る他はなく、客観性・必然性を欠き失敗する場合が多い」と説明している。そして、ハイゼンベルクも湯川も、研究経歴の前半は "上昇的" によって成果を挙げたが、後半には "下降的" に転じたと見る。

 理論物理学研究方式の同様な分類は南部陽一郎も述べている [25, 26]。亀淵氏が一人の研究者に対しても前半と後半で方式が変わり得るという見方であるのに対し、南部の場合は各方式が研究者に固有であるかのように、方式名に研究者の固有名詞が当てられている。ただし、これは各研究者の代表的成功研究の方式という意味と解釈すべきであろう。南部の分類は [25] においては "Yukawa mode" と "Dirac mode" であった。その説明としては、この分類を紹介しているミチオ・カクとジェニファー・トンプソンによる本 [27] の、簡潔な表現を紹介する。
The Yukawa mode is deeply rooted in experimental data. Yukawa was led to his seminal idea of the meson as the carrier of the nuclear force by closely analyzing the data available to him. The Dirac mode, however, is the wild, speculative leap in mathematical logic that led to astonishing discoveries, such as Dirac's theory of antimatter or his theory of the monopole [...]. Einstein's theory of general relativity would fit into the Dirac mode. ([27] p. 85)

 のちに南部はこれを修正して、三つの型に分けた [26]。それぞれについての説明は次の通りである。
  1. アインシュタイン型(上から下へ、top down):「自然はこういう原理に従う筈だ」と仮定して理論を創る。例:アインシュタインの重力理論(一般相対性理論)「一般に空間は曲がっていてもよい」と仮定。
  2. 湯川型(下から上へ、bottom up):「新しい現象の背後には、深い理由は別にして、何か新しい場や粒子がある」という作業仮定から出発する。例:湯川の中間子論、パウリのニュートリノ仮説。
  3. ディラック型(天下り型):数学的に美しい理論は真であるとする。例:ディラックのモノポール理論、現在探究されている超対称性理論や超弦理論。
文献 [25] の段階ではディラック型の一例だったアインシュタインの一般相対性理論が、独立の型に昇格した。その結果、アインシュタイン型(top down)と湯川型(bottom up)は、亀淵氏の "下降的" と "上昇的" に符号することになった。ディラック型の例について、南部はモノポールの存在は場の量子論の自然な帰結であることが分かったが、まだ実証されていないと述べ、また、超対称性理論や超弦理論の研究が目下盛んであることから、「現在はまさにディラック・モードの全盛期」といっている。しかし、その成否もまだ不明であり、素粒子・高エネルギー物理学理論の将来はどうなるのか、なかなか目が離せない。

 ところで、アインシュタインの一般相対性理論が完全に top down 型といえるかどうか、私は疑問に思う。彼が一般相対性理論を創ることを思いつく出発点には、「例えば屋根から、自由落下する観察者を考えれば、彼にとっては、少なくともその近傍には、落下中、重力場は存在しない」という思考実験のあったことが知られている ([28], p. 78) からである。亀淵氏も、研究経歴の「後半に至って下降的に転ずる」ことについて、「アインシュタインも同様であった」として、重力場と電磁場の統一を目標に晩年の 30 年を浪費したことを述べてはいるが、一般相対性理論の時から下降的であったと記してはいない。

 ちなみに、カクとトンプソンの本 [27] には、南部による最初の 2 分類を合わせた型が、南部の 65 歳の誕生日(1985 年)を記念して、仲間たちから「南部モード」と名づけられたという話がある。その説明の一部を引用しておく。
 [...] This mode combines the best features of both modes of thinking and tries carefully to interprete the experimental data by proposing imaginative, brilliant, and even wild mathematics. The superstring theory owes much of its origin to the Nambu mode of thinking.
 Perhaps some of Nambu's style can be traced to the clash of Eastern and Western influences represented by his grandfather and father. [...] ([27] p. 85)

 謝辞
 豊田直樹・東北大名誉教授から、2.5 節で引用した、パウリの講演に対してボーアが批判した話が文献 [10] にあることの教示を得たほか、本稿の話題についてのメール交換で、いろいろ有益な示唆を受けた。ここに記して感謝申し上げる。

 文献
  1. Y. Nambu, "Direction of particle physics," in Proc. Kyoto Int. Symp.: The Jubilee of the Meson Theory, Kyoto, Aug. 15–17, 1985, edited by M. Bando, R. Kawabe, and N. Nakanishi; Prog. Theor. Phys. Suppl. No. 85, 104 (1985).
  2. 南部陽一郎, 素粒子物理学の 100 年 (国際高等研, 京都府相楽郡, 2000).
  3. M. Kaku and J. Thompson, Beyond Einstein: The Cosmic Quest for the Theory of the Universe (Oxford University Press, Oxford, N. Y., 1997; first edition, Bantam, 1987).
  4. G. Holton, "What, precisely, is "thinking"? ...Einstein's answer," in Einstein, History, and Other Passions (AIP Press, Woodbury, 1995) p. 74. [See also "On trying to understand scientific genius," in Thematic Origins of Scientific Thought: Kepler to Einstein, Revised edition (Harvard University Press, Cambridge, Mass., 1988) p. 371.]
(完)

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2020年8月1日土曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -5- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -5-)

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本記事の文献 [15, 18, 22]
References [15, 18, 22] of this article.

3 湯川の悲劇

3.1 湯川の当時の研究

 亀淵氏は「[…] 講演が進み、湯川が研究協力者 K との共著論文 "素粒子の時空的描像" 発表のため、 K の名前を呼び上げた」と書いている。K とは湯川の晩年の研究を知る人ならばよく知っている片山泰久 (1926–1978) である。会議録に掲載された論文の書誌情報は本記事の第 1 回に文献 [3] として載せた。この研究は湯川らが晩年に取り組んだ素領域理論の仕事に属し、湯川は文献 [15] の「まえがき」で「片山泰久氏の大きな努力によって、1967 年には一応の理論を作り上げることができた」と記しているものである。湯川はこれに続けて、「そして翌年には片山氏との共著論文、それにさらに梅村氏も加わった論文を発表できるまでに至った」と、やや誇らしげに記している。それらの論文は文献 [16]、[17] である。

 その 3 年後に、湯川は文献 [18] の監修者として、その序文を記し、また、「第 V 部 素粒子の統一理論」を自ら執筆している。それらの中では、素領域理論に対する学界の反応や自らの思いが、次のように率直に述べられている。
[...]第 V 部では、統一理論へ向かってのひとつの道を辿ることにした。それは唯一の道ではないであろうし、また必ず目的に到達することが保証された道でもない。それどころか、正当的な道から、最も大きく逸脱していると、多くの研究者に思われている道である。([18] 序文、p. vii)
 このような方向に進んでゆくと、結局は何らかの意味における時空自身の量子化という問題に突きあたらざるを得ないかも知れない。素領域という概念自体も、背後に 4 次元連続体としての Minkowski 空間を想定している点で、まだ不徹底であるのかも知れない。しかし、その解明はすべて今後に残されている。([18] 第 V 部、p. 608–609)

3.2 湯川の当時の研究の影響・評価

 湯川らの論文 [16]、[17] の被引用数を Google Scholar で調べると、[17] についてのみ 46 と出て来る。Google Scholar の統計はかなり不正確であることは、私自身の論文の被引用数からも気づいている。例えば類似の題名のものがあると、同じもののように扱われていることがある。そこで、[16]、[17] については、掲載誌 Progress of Theoretical Physics のサイトにある同誌での被引用数と、そこにリンクされている Crossref サイトで表示される被引用数(両者の間に重複はない)の和を利用すると、39 と 28 である。湯川のノーベル賞受賞対象となった論文 [19] の被引用数 2400 余り(Google Scholar による)と比べれば、いかにも少ないことが分かる。しかし、将来の理論の発展において、新たな寄与が生じる可能性はないのだろうか。この点について、専門家の見解に当たってみたい。

 ロシア生まれで、スイス、イギリスで活躍した理論物理学者ニコラス・ケンマー(1911–1998)は、湯川の 1940 年代以後の研究について、文献 [20] で次のように述べている。
[...] Yukawa devoted the greater part of his subsequent life as a research worker to the quest for a better, deeper fundamental theory. He published over twenty papers spanning a period of twenty years developing various approaches to this goal. Central to his thinking was the belief that the association of any elementary particle with a single geometrical point in space was in some deep sense mistaken; the key concept in many of his publications is the 'non-local field'. [...] We cannot see into the future and say with confidence that all the ideas presented in these papers are lacking in any grains of deeper truth that we do not yet perceive. And we cannot measure the stimulation that readers of his papers on the way to developing ideas of their own may have received. Even so it is a fact that in present day work one would be hard put to find reference to or influence of his later publications.
これは控えめにながら、湯川の後半生の研究成果が不毛だったことを述べたものである。

 また、アメリカの理論物理学者で量子場の理論と素粒子物理学に関する歴史学者でもあるローリー・ブラウン名誉教授は、文献 [21] で次の通り述べている。
The idea of nonlocal fields (which is to be distinguished from the idea of local fields having nonlocal interaction) gradually became a theory of elementary particles with internal structure. By the late 1960’s it was superseded by Yukawa’s concept of "elementary domain", based upon the quantization of the classical continuously deformable body. These fundamental ideas do not play a major role in current theoretical physics but may well be vindicated in a future physics.
ここで、最後の文の but 以下の言葉は、湯川ファン(私もその一人である)に将来への期待を抱かせるものだが、ケンマーからの引用の終わりから 3 番目の文 "We cannot ..." とその次の文を合わせたものと同様、若い時に中間子論を発表し、また素粒子論の方法を確立した湯川への敬意のため、批判的表現を緩和する目的で挿入されたものと見るべきであろう。

 素粒子論が専門で京大名誉教授だった田中正(1928–2019)は、著書 [22] の中で、湯川の戦後の研究や素領域理論についての日本生まれの研究者たちによる評価を紹介し、自らの見解も述べている。ここではそれらの中から、最も歯に衣を着せない適切な批評と思われる南部陽一郎の、「湯川博士の戦後の研究活動」についての言葉を引用したい。
残念ながらこれはあまり実りをもたらさなかった。博士が素粒子を幾何学的に拡がったものとして捉えようとされた執拗な努力そのものは別として、その内容や方法は素朴すぎたようである。最近はゲージ場理論の発展によって幾何学的な見方が非常に重要になり、内部量子数を幾何学に帰着させる可能性も出てきたが、博士の考えが種になっているとはいえない。博士が中間子論以後日本の後進学者に与えた影響はもっと間接的なものであった。( [23]; [22] p. 311 から引用)
南部の言葉を引用している田中自身は、文献 [24] において、超弦理論の D0 ブレーンが湯川の素領域の考えに近いことを指摘している。しかし、これは南部が「博士の考えが種になっているとはいえない」といっている内容の一つであろう。

 次回は、亀淵氏がハイゼンベルクと湯川の「悲劇」の頃の研究が未完のままに終わった共通の理由として書いていることに関連して、理論物理学研究の相異なる方式ということについて考えたい。

 文献
  1. 湯川秀樹, 湯川秀樹自選集 2 (朝日新聞社, 1971).
  2. Y. Katayama and H. Yukawa, "Field theory of elementary domains and particles. I," Prog. Theor. Phys. Suppl., 41, 1 (1968).
  3. Y. Katayama, I. Umemura, and H. Yukawa, "Field theory of elementary domains and particles. II," Prog. Theor. Phys. Suppl., 41, 22 (1968).
  4. 湯川秀樹・監修, 岩波講座 現代物理学の基礎 11 素粒子論 (岩波書店, 東京, 1974).
  5. H. Yukawa, "On the interaction of elementary particles. I," Proc. Phys.–Math. Soc. Japan (3) 17, 48 (1935).
  6. N. Kemmer, "Hideki Yukawa. 23 January 1907–8 September 1981," Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society, 29, 661 (1983). JSTOR, https://www.jstor.org/stable/769816. Accessed July 30, 2020.
  7. L. M. Brown, "Yukawa, Hideki," in Complete Dictionary of Scientific Biography (Charles Scribner's Sons, New York, 2008); online version of this article available at
    https://www.encyclopedia.com/people/science-and-technology/physics-biographies/hideki-yukawa. Accessed July 31, 2020.
  8. 田中正, 湯川秀樹とアインシュタイン (岩波書店, 東京, 2008).
  9. 南部陽一郎, "湯川博士と日本の物理学," 科学 52, No. 2 (1982).
  10. S. Tanaka, "From Yukawa to M-theory," in Proc. Int. Symposium on Hadron Spectroscopy, Chiral Symmetry and Relativistic Description of Bound Systems, Nihon Daigaku Kaikan, Feb. 24-26, 2003; KEK Proceedings 2003-7, edited by S. Ishida et al. (KEK, Tsukuba, 2003) p. 3; also available as arXiv:hep-th/0306047.
(つづく)

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2020年7月27日月曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -4- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -4-)

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本記事の文献 [12]
Reference [12] of this article.

2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)

2.6 ハイゼンベルクの当時の研究の影響

 亀淵氏は、エッセイに述べた出来事の頃のハイゼンベルクと湯川の研究について、「両者の研究は、残念ながら、未完のままに終わった」と記している。氏がその共通の理由として書いていることについては後で考えたいと思う。ここでは、ハイゼンベルクの当時の研究が、それ自体は未完に終わったにしても、その研究の中で使った概念が他の研究者に与えた好影響はかなりあったようであり、これについて、科学史を専門とするボストン大学のカオ教授の記述を紹介したい。
 At the 1958 Rochester Conference on high-energy nuclear physics held in Geneva, Heisenberg invoked the idea of a degenerate vacuum to account for internal quantum numbers, such as isospin and strangeness, that provide selection rules for elementary particle interactions (1958).*
 In an influential paper submitted in 1959,** Heisenberg and his collaborators used his concept of a degenerate vacuum in QFT [quantum field theory] to explain the breaking of isospin symmetry by electromagnetism and weak interactions. [...]
 Heisenberg's degenerate vacuum was at the time widely discussed at international conferences. It was frequently quoted, greatly influenced field theorists, and helped to clear the way for the extension of SSB [spontaneous symmetry breaking] from hydrodynamics and condensed matter theory to QFT. ([12] p. 283)
上記引用中に何度も出て来る "degenerate vacuum"(縮退真空)という言葉は、最後の文にある SSB(自発的対称性の破れ)と密接に関係するものである。また引用文中、* と ** のところに引用されている文献は、それぞれ、この記事の第 1 回に記した文献 [2](「悲劇」の講演が論文として会議録に掲載されたもの)と、第 2 回に記した文献 [8](その後、若手研究者たちと共同で発表した論文)である。

 ちなみに、これらの論文の被引用数を Google Scholar で調べると、前者は 16、後者は 226 である。カオは "frequently quoted" と書いているが、ハイゼンベルクのノーベル賞受賞対象となった、行列に基づく量子力学の定式化の論文 [13] と 不確定性原理の論文 [14] の被引用数が 1709 と 4697 であるのに比べれば、かなり少ない(以上の被引用数はいずれも 2020 年 7 月 27日現在)。これは「悲劇」の頃の研究が構想全体としては成功に至らなかったためであろう。

 自発的対称性の破れの素粒子物理学への適用といえば、南部陽一郎のノーベル賞受賞理由が「素粒子物理学における自発的な対称性の破れのメカニズムの発見」だったので、私はほとんど南部の独創であるように思っていた。ところが、実はハイゼンベルクの研究が南部に影響を与えていたのである。カオがこれについて南部の論文を引きながら述べている部分を、これも少し長くなるが、引用しておく(論文に関する注の数字は省略)。
 Nambu's work on superconductivity led him to consider the possible application to particle physics of the idea of non-invariant solutions (especially in the vacuum state). [...]
 [...]
 [...]
 It is of interest to note the impact of Dirac and Heisenberg on Nambu's pursuing this analogy. First, Nambu took Dirac's idea of holes very seriously and viewed the vacuum not as a void but as a plenum packed with many virtual degrees of freedom. This plenum view of the vacuum made it possible for Nambu to accept Heisenberg's concept of degeneracy of the vacuum, which lay at the heart of SSB. Second, Nambu was trying to construct a composite particle model and chose Heisenberg's non-linear model, 'because the mathematical aspect of symmetry breaking could be mostly demonstrated there', although he never liked the theory or took it seriously.

 次回は湯川の場合の「悲劇」に関連する論文について述べたい。

 文献
  1. T. Y. Cao, Conceptual Developments of 20th Century Field Theories, (Cambridge University Press, Cambridge, 1997; second edition available, 2019)
  2. W. Heisenberg, Über quantentheoretische Umdeutung kinematischer und mechanischer Beziehungen, Z. Physik 33, 879 (1925).
  3. W. Heisenberg, Über den anschaulichen Inhalt der quantentheoretischen Kinematik und Mechanik, Z. Physik 43, 172 (1927).
(つづく)

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亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -3- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -3-)

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本記事の文献 [9, 10, 11]
References [9, 10, 11] of this article.

2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)

2.5 パウリの反逆の理由

 亀淵氏は、
ハイゼンベルクとは学生時代からの親友であり、しかも三カ月前まではこの問題を一緒に研究していたパウリが、事もあろうに素粒子論の著名な研究者たちが居並ぶ場所で、何故このような暴挙に出たのか。
と疑問を呈している。ここに「三カ月前」とあるが、パウリがこの国際会議より前に三カ月間の訪米をしていたことからの「三カ月」であろう。しかし、パウリがアメリカへ出発したのは、ハイゼンベルクの自伝 [8] によれば、1957 年のクリスマス前から a week プラス a few weeks あと、つまり 1958 年 1 月下旬頃で、その時から数えれば、国際会議までの期間は五カ月ほどになる。

 亀淵氏が上記の疑問に対して与えている答えは、後年、K. ブロイラー教授(ボン大学)がしてくれたという説明(次の「」内の部分)を疑問つきで引用したものである。
「おそらくパウリは米国で意気揚々と件の研究について講演したことであろう。しかし、米国の若手の俊秀たちから猛反撃を受け、一筋縄ではゆかない仕事だなと考え直したと思われる。そこで、今はもうその理論を信じてはいないということを、会議に来ている俊秀たちに公然とした形で表明したかったのであろう」と。これでは自己の名誉のために友の名誉を犠牲にしたことになるのだが......。
ブロイラーは推定として述べているが、同じことを次の通り、断定的に述べた文献 [9] がある(この文献はポーキングホーンの著書と異なり、学術的なもので、私が今回興味を持ったことは脚注扱いである)。
Although Pauli drafted the first preprint, entitled 'On the Isospin Group in the Theory of the Elementary Particles,' he withdrew from further collaboration in January 1958, after he encountered severe criticism and opposition to the theory from the U.S. physicists at the American Physical society meeting in New York; thus Heisenberg was left to work out the details of the theory with younger collaborators (Dürr et al., 1959). ([9] p. 1120, footnote)
上記の引用末にある "Dürr et al., 1959" という文献は、この記述全体の典拠のようにも見えるが、そうではなく、これはハイゼンベルクが若手共同研究者たちと研究を続けた結果として発表した論文(前回も記した [8])である。したがって、パウリがアメリカ物理学会の席上でアメリカの物理学者たちから厳しい批判を受けたということの典拠を明記してはないのだが、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引く決心をしたのは、渡米早々のことだったようである。

 ところで、パウリが渡米中に厳しく批判されたのは、アメリカの物理学者たちからだけではなかった。イギリス生まれのアメリカの理論物理学者・数学者、フリーマン・ダイソンの随筆集 [10] に次の記述がある。
Pauli happened to be passing through New York, and was prevailed upon to give a lecture explaining the new idea [of Heisenberg and Pauli] to an audience that included Niels Bohr, who had been mentor to both Heisenberg and Pauli [...]. Pauli spoke for an hour, and then there was a general discussion during which he was criticized sharply by the younger generation. Finally, Bohr was called on to make a speech summing up the argument. "We are all agreed," he said, "that your theory is crazy. The question which divides us is whether it is crazy enough to have a chance of being correct. My own feeling is that it is not crazy enough." ([10] pp. 105-106)
ここにあるパウリの講義が若手研究者たちから鋭く批判されたという記述は、ブロイラーの推定および文献 [9] の記述を裏書きしている。その上、パウリは恩師ニールス・ボーアからも手厳しい批評を受けていたのである。"Not crazy enough" が厳しい批評になるということは、ボーアの言葉だけでは分かりにくいが、ダイソンは次の節で、以下のように説明を加えている(要約して紹介しようと思ったが、ダイソンの文は磨かれた宝石のようで、さらに削ることは不可能に思える)。
When the great innovation appears, it will almost certainly be in a muddled, incomplete, and confusing form. To the discoverer himself it will be only half-understood. To every body else it will be a mystery. For any speculation that does not at first glance look crazy, there is no hope. ([10] p. 106)

 なお、パウリがハイゼンベルクとの共同研究から手を引くということは、前者がアメリカ滞在中に後者へ手紙で書き送っていたのである。このことはハイゼンベルクの自伝 [11] に次のように記されている(引用文中 Wolfgang とはパウリを指す)。
Then we were divided by the Atlantic, and Wolfgang's letters came at greater and greater intervals. [...] Then, quite suddenly, he wrote me a somewhat brusque letter in which he informed me of his decision to withdraw from both the work and the publication [of our common project]. ([11] p. 235)
自伝中にこの話が記されているのは、"The Unified Field Theory" と題する章であり、その章は次の文で結ばれている。
Toward the end of 1958 I received the sad news that he [Wolfgang] had died after a sudden operation. I cannot doubt but that the beginning of his illness coincided with those unhappy days in which he lost hope in the speedy completion of our theory of elementary particles. I do not, of course, resume to judge which was the cause and which the effect. ([11] p. 236)
ここだけを読めば、いかにも悲しい。しかし、その前には、亀淵氏もハイゼンベルクの自伝の和訳を参照して述べているように、「会議の数週間後、二人はともにイタリーのコモ湖畔のヴァレンナの夏の学校に講師として招かれる。しかしこのときのパウリはハイゼンベルクに対して友好的だった」との事実がある。またその場所で、パウリはハイゼンベルクに「あなたは例の研究をさらに続けてゆくべきでしょう。私はしかし、もう力にはなってあげられないが」と言ってもいたので、これには救いを感じる。

 ところで、ハイゼンベルクの当時の研究は、その後の理論物理学の中でどのように位置づけられているのだろうか。次回はこの話から始めたい。

 文献
  1. H. P. Dürr, W. Heisenberg, H. Mitter, S. Schlieder, and K. Yamazaki, "Zur Theorie der Elementarteilchen," Z. Naturf. 14a, 441 (1959).
  2. J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Volume 6, Part 2 (Springer, New York, 2001).[注:私がこの本をたまたま持っていたのは、かつて大阪科学館で持たれていた「湯川秀樹を研究する会」に参加していて、その会で討論の参考になりそうなことが書いてあると知ったからである。]
  3. F. Dyson, From Eros to Gaia (Penguin, London, 1993; first published by Pantheon, New York, 1992).[注:私がまだ勤務していた頃、この本を当時の同僚だった豊田直樹氏(現・東北大名誉教授)に勧めたようだが、今回は本記事に関わる話題を彼にメールで告げたところ、本文に引用した箇所がこの本にあることを逆に彼から教えられた次第である。]
  4. W. Heisenberg, Physics and Beyond: Encounters and Conversations, translated from German by A. J. Pomerans (Harper & Row, New York, 1972); original German edition, Der Teil und das Ganze: Gespräche im Umkreis der Atomphysik (R. Piper, Munich, 1969); Japanese version, 部分と全体, translated by K. Yamazaki (Misuzu-Shobo, Tokyo, 1974; new edition 1999).
(つづく)
(2020 年 7 月 25 日投稿、7 月 27 日改訂)

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2020年7月23日木曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -2- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -2-)

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キャシディによるハイゼンベルクの伝記本
D. C. Cassidy's Uncertainty: The Life and Science of Werner Heisenberg.

2 ハイゼンベルクの悲劇(つづき)

2.3 ハイゼンベルクの当時の研究

 亀淵氏は、ハイゼンベルクの当時の研究について、"素粒子の一元論的場の理論" の名で、「一元的な単一の場(あるいは方程式)から出発して、素粒子の総てを導出しようという大構想」と説明している。これに続いて亀淵氏は次の通りに述べている。
私はこのことを最初新聞で知ったから、彼が記者会見を開いて発表したかと思われる。その折、基礎方程式に対して普遍的(ユニヴァーサル)という形容詞でも用いたのか、日本では誤って "宇宙方程式" として喧伝されたようである。

 実は、私もこの研究についての新聞記事を見た一人であり、そのことについて次のように当時の日記に書きとめていた。それは、大学卒業前の 2 月と 3 月のことで、次の通りである。
1958 年 2 月 27 日
 朝日新聞に次の記事:
 【ゲッチンゲン(西独)25 日発UP=共同】ノーベル物理学賞受賞者、西独のハイゼンベルク教授は 25 日ゲッチンゲン大学で「素粒子理論の進歩」と題する講義をし、その中で同教授を中心とする研究グループが故アインシュタイン博士の考えていた「統一場の理論」の研究を発展させ、すべての物理学上の法則を例外なく説明する基本方程式を発見したと発表、…。

1958 年 3 月 13 日
 [注:ハイゼンベルク博士が明らかにした素粒子の基礎方程式を報ずる朝日新聞の囲み記事「これが宇宙方程式」の切り抜きを貼付。]
この日記は、私のウェブサイト内のページ [5] に転記して、元の日記帳は処分したので、「これが宇宙方程式」の切り抜きは残っていないが、その式については後述する。日記に書き写してあった新聞記事によれば、ハイゼンベルクは亀淵氏が推定したように記者会見を開いて発表したのではなく、ゲッチンゲン大学で講義したのを記者が記事にしたのである。

 この点は、キャシディによるハイゼンベルクの伝記本 [6] にも次の通り述べられていて、確かである。
The distribution [of the preprint on work made by Heisenberg and Pauli] was set for February 27, 1958. [...]
Three days before the preprint was to be distributed, Heisenberg announced the new formula in a lecture at the University of Göttingen physics institute. ([6] p. 542)
ただし、この文によれば、講義の行われた日は、朝日新聞が報じたように 1958 年 2 月 25 日ではなく、現地時間の 24 日だったことになる。この違いは、朝日新聞が「UP=共同」の伝えたニュースに対して時差補正をしなかったことによるのだろうか。

2.4 誤訳でなかった「宇宙方程式」

 上に引用したキャシディの本には続いて次の文がある。
An eager reporter in the audience relayed word of a sensational new "world formula" around the world. One enthused press agent proclaimed, "Professor Heisenberg and his assistant, W. Pauli, have discovered the basic equation of the cosmos! ([6] p. 542)
これによれば、外国の新聞も「宇宙の基礎方程式」の言葉を使っていたということであり、朝日新聞が「宇宙方程式」と報じたのは誤訳ではなかったのである。

 しかし、その式の形が朝日新聞に載ったのは、ゲッチンゲン大学での講義の記事より 2 週間もあとだった。このことがある程度理解できる文がキャシディの本には続いて載っている。
Two months later, more than 1800 listeners turned out to hear Heisenberg reveal the secret of the cosmos in the same auditorium on the occasion of Max Planck's one-hundredth birthday. During his highly technical talk, Heisenberg carefully wrote his new equation on the overhead projector in the darkened room:
([6] p. 542)
ハイゼンベルクは 2 月のゲッチンゲン大学での講義では式を具体的には明かさないで、名称だけを話したらしく、上の引用に記されている別の講義で式を書き記したのである。しかし、その講義が先の講義よりも 2 カ月後というのは、朝日新聞が式自体を報じた時期と合わない。あとの講義はプランクの生誕 100 年を祝うものだったということなので、その誕生日を調べると、4 月 23 日である [7]。これは上の引用文が "Two months later" と始まっていることと一致する。しかし、3 月 13 日付けの朝日新聞が 4 月 23 日の講義内容を報道し得るはずはない。プランクの生誕 100 年を祝う講義は誕生日より 40 日余り早めに行われたが、伝記作者のキャシディは、生誕を祝う講義ならば誕生日頃だったに違いないと想像して書いたということも考えられる。

 なお、ここに引用した宇宙方程式は、キャシディの著書にあるのと同じものをハイゼンベルクと若手の研究者らの共著論文 [8] からコピーした。この論文を知ったことは、さらにあとで述べる。

 ポーキングホーンの本にあるハイゼンベルクの講演内容の記述は、亀淵氏の紹介よりもやや専門的で、次のようになっている。
[Heisenberg] had conjectured a 'non-linear spinor equation', whose solutions he thought would correspond to the structure of matter as it was then known. Not only was his equation hard to work with, but in the course of the attempt use was made of the dangerous concept of an infinite metric, something which could result in the appearance of unphysical ghosts. ([4] p. 77)
これによれば、ハイゼンベルクがゲッチンゲン大学で大掛かりな講義をしたにもかかわらず、宇宙方程式はまだ欠陥のあることが明らかなものだったようである。

 キャシディの本からの最初の二つの引用にあるように、パウリはハイゼンベルクの当時の研究の協力者だったのである。それが、国際会議の場に至って、なぜ反逆的な態度に出たのだろうか。この点を次に見て行きたい。

 文献
  1. J. C. Polkinghorne, Rochester Roundabout: The Story of High Energy Physics, (W. H. Freeman, New York, 1989) p. 77.
  2. 多幡達夫「青春時代の日記から:大学生時代(5)」(2003) 、ウェブサイト IDEA and ISAAC 所収。
  3. D. C. Cassidy, Uncertainty: The Life and Science of Werner Heisenberg (W. H. Freeman, New York, 1991).
  4. Max Planck: Biographical in The Nobel Prize, the Web site of the Nobel Foundation.
  5. H. P. Dürr, W. Heisenberg, H. Mitter, S. Schlieder, and K. Yamazaki, "Zur Theorie der Elementarteilchen," Z. Naturf. 14a, 441 (1959).
(つづく)
(2020 年 7 月 25 日修正)

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2020年7月16日木曜日

亀淵氏のハイゼンベルクと湯川に関するエッセイを読んで -1- (On Reading Kamefuchi's Essay about Heisenberg and Yukawa -1-)

[The main text of this post is in Japanese only.]

『図書』誌掲載の亀淵氏のエッセイ
Kamefuchi's essay published in the magazine Tosho

1 はじめに

 最近、理論物理学者で筑波大名誉教授の亀淵迪氏によるエッセイ「英雄の生涯」[1] を読んだ。ここで英雄とは、彼の専門分野での二人の巨人、W. ハイゼンベルクと湯川秀樹を意味する。そして、著者が述べているのは、その英雄たちの晩年における悲劇についての、「目撃者としての証言」である。ハイゼンベルクについては、1958 年 7 月の CERN における「高エネルギー物理学国際会議」の席上で、座長のパウリが彼の講演 [2] に対し途中で激しく攻撃し始め、その研究を全面的に否定したという話である。湯川については、1967 年 8 月、ロチェスター大学での「場と粒子についての国際会議」で、彼が座長をしていたセッションで、彼の協力研究者 K が共著論文 [3] を発表する時に、聴衆の大半が席を立って退出したという話である。著者は英雄像を貶めることを懸念しながらも、真実を伝えることこそ肝要だと思い返して筆を執ったという。私のこの記事では、亀淵氏のエッセイに関連して、他の文献などから知ったことを幾つか述べ、考察も行う。

2 ハイゼンベルクの悲劇

2.1 ポーキングホーンの本にも

 亀淵迪氏は英雄たちの悲劇について、「世上、あまり語られることのないようなので」として書き始めている。しかし、私はハイゼンベルクついての同じ話を最近たまたまある本 [4] で読んだ。

 その本はイギリスの理論物理学者、神学者、英国国教会司祭であるポーキングホーンが、1950 年から 1980 年までの 20 回に及ぶ国際会議を記述することによって綴った、高エネルギー物理学の異色の歴史書である。その本の中でポーキングホーンは、パウリがハイゼンベルクの講演中にその内容を攻撃した言葉を会議録から引用して、亀淵氏のエッセイにあるよりもやや詳しく述べている。また、その記述の前のページには、ハイゼンベルクの講演に対するパウリの発言の一つ "No credits for the future" を添えて、その時のパウリの写真も載っている。そして、その話は、ハイゼンベルクに同情的な感想を含む次の言葉で締めくくられている。
It was a scene at once farcical and sad. Justification lay with the sceptical Pauli but Heisenberg was one of the greatest physicists of the twentieth century who should have been able to enjoy a more dignified close to his career. ([4] p. 77)

 この記事の読者の中には、物理学史の本に感情的な言葉が入っていることを不思議に思う人がいるかも知れないので、この本の性格について付言しておく。これは客観的記述の教科書あるいは無感情な学術書という性格の本ではなく、一般向け(といっても、主に科学に関心のある人たちが対象になろう。私も高エネルギー物理学を「趣味」とする者として読んだ次第である)に、やや砕いて書いた本で、会議の雰囲気や著名な学者たちの特徴も伝わって来る、楽しい読み物になっている。このような本書の性格は、題名と副題に "Roundabout"(「漫遊旅行」の意味がある)と "Story" の語がそれぞれ入っていることからも推定されよう。

2.2 座長パウリの暴挙

 座長のパウリは「講演者を差し措き自分が立ち上がって話し出す。しかもその言動は徐々に激しいものとなり、物理の会議では耳にしたことのないような罵詈雑言の限りを尽く」したという [1]。このような座長の振る舞いに抗議をする参加者はいなかったのか、という疑問を持つ向きもあろう。それに対する答えは、次のことから想像できそうである。亀淵氏のエッセイには、問題のセッションの初めに座長のパウリが「辛辣を持って鳴る彼らしく」、「別に新しいアイディアは何もないようですが、とにかく開会します」と前置きしたことが記されている。ポーキングホーンはこのパウリの前置きをもっと詳しく引用したあと、ここでも次のように私見を述べている。
It would be of no use waving your hands in front of him and expressing the hope that it would all work out right in the end. ([4] p. 77)
聴衆一同はすでにこの時点でパウリに一本取られており、辛辣さの発揮がたびたび有意義な効果をもたらしたことで有名なパウリに向かって、その暴挙に対する忠告を敢えて出来る参加者はいなかったのであろう。

 文献
  1. 亀淵迪、図書 No. 859, p. 18 (2020 年 7 月)。
  2. W. Heisenberg, "Research on the non-linear spinor theory with indefinite metric in Hilbert space" in 1958 Annual International Conference on High Energy Physics at CERN(CERN, Geneva, 1960) p. 851.
  3. Y. Katayama, "Space-time picture of elementary particles" in Proceedings of the 1967 International Conference on Particles and Fields, Ed. C. R. Hagen, G. Guralnik and V. A. Mathur (Interscience, New York, 1967) p. 157.
  4. J. C. Polkinghorne, Rochester Roundabout: The Story of High Energy Physics, (W. H. Freeman, New York, 1989).
 (2020 年 8 月 6 日修正)
(つづく)

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2020年6月20日土曜日

7 日間ブックカバーチャレンジ (Seven-Day Book Cover Challenge)

[The main text of this post is in Japanese only.]

「7日間ブックカバーチャレンジ」のために使った写真の集合。こちらをクリックすると全 7 枚を 1 枚ずつ順次見ることの出来るページにつながる。
Collection of photos used for "Seven-day book cover challenge." Clicking here, you can see all the seven images one by one.

 先月、Facebook 上の友人から、「7日間ブックカバーチャレンジ」のバトンを渡された。これは、読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、好きな本を 1 日 1 冊選び、本についての説明はしないで表紙画像を Facebook へ 7 日間投稿を続ける。その際、毎日 1 人の FB 友だちを招待し、このチャレンジへの参加をお願いする」というものである。

 なお、友だちの招待が困難な場合には、「"7日間ブックカバーチャレンジ" バトン手渡しページ」へ投稿をシェアすることによって招待に代えられる、という抜け道が用意されている。しかし、そのページは抜け道というより、チャレンジ参加者たちのよい交流の場になっている様子だったので、私は 2 日間だけ友だちの招待をしたが、7 日間全ての投稿をそこにシェアした。

 私が掲載したブックカバー画像は以下の本のものである。
  1. "Genius: The Life and Science of Richard Feynman" by James Gleick (Pantheon, New York, 1992)
  2. "Einstein: A Hundred Years of Relativity" by Andrew Robinson (Palazzo, Bath, 2010)
  3. 湯川秀樹自選集第五巻:遍歴(朝日新聞社、東京、1971)
  4. "Brief Answers to the Big Questions" by Stephen Hawking (John Murray, London, 2018)
  5. "Seven Brief Lessons on Physics" by Carlo Rovelli, transl. from Italian by Simon Carnell and Erica Serge (Riverhead, New York, 2016)
  6. 『対訳 万葉恋歌 Love Songs from the Man’yōshū』宮田雅之 Miyata Masayuki(切り絵 Paper cutouts)、大岡信 Ōoka Makoto(解説 Commentary)、リービ英雄 Ian Hideo Levy(英訳 English translation)、ドナルド・キーン Donald Keene(エッセイ Essay)(講談社インターナショナル、東京、2000)
  7. 『トム・ソーヤーの冒険』マーク・トゥエーン作、石田英二訳(岩波書店、東京、1946)
 「本についての説明はしない」という決まりは徹底していなくて、ある程度の説明を書いている人が多いようだった。そこで、私も 3 日目以後はごく短い説明を和英両文でつけた。こちらをクリックすると、7 日間の投稿画像を順次見ることの出来るページにつながり、それぞれの画像の右の説明欄にあるリンクから、各投稿(「"7日間ブックカバーチャレンジ" バトン手渡しページ」へシェアした形のもの)を説明文とともにご覧になれる。

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2020年6月6日土曜日

横光利一著『頭ならびに腹』を読む [Read Riichi Yokomitsu's "Atama narabini Hara (Head and Belly)"]

[The main text of this post is in Japanese only.]


青空文庫版『頭ならびに腹』
Aozora Bunko version Atama narabini Hara

 私が高校 1 年の時に習った国語の K 先生は、「"沿線の小駅は石のように黙殺された。" これが新感覚派」と、授業時間中に何度も繰り返し述べた。「沿線の小駅は」までと、それが横光利一の文であることは覚えていたが、その文の出て来るのが短編小説「頭ならびに腹」の冒頭であることや、その冒頭が次の通りであることを知ったのは、定年退職してから 6 年近くも経った 15 年前のことだった[文献 1]。
 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
 最近、この文に再び出会った[文献 2]。文献 2 の著者は、この文とあわせて、新感覚派を含めて当時流行の文芸表現を批判した青野季吉の文を引用している。横光利一の文については、次のように紹介している。
 […]擬人化や暗喩を用いて「高速時代」というモダン語が重視した「速度感」が示されている。この短編が掲載された『文芸時代』(1924 年 10 月号)を評して千葉亀雄は「新感覚派」の誕生(『世紀』1924 年 11 月号)と呼び、新たな文芸表現を担う世代の到来を告げた。
 この機会にと思い、青空文庫版『頭ならびに腹』[文献 3]の XHTML ファイルをダウンロードして読んだ。ダウンロードしたファイルは、ワープロソフトの A4 サイズ文書ファイルへコピーした。16 ポイントの大きな文字で 5 ページ強の短さである。

 物語は、特別急行列車が線路の故障のため駅間で停車し、乗客らがイライラした顛末を描いたものである。「頭」は乗客の一人の「横着さうな子僧」を意味し、「腹」は同じく乗客の中の「肥大な一人の紳士」を意味している。100 年近く前の作品であるが、今でも似たような情景が展開しそうな話である。

 冒頭の「沿線の小駅は石のように黙殺された」に呼応して、列車が停車したところで、「動かぬ列車の横腹には、野の中に名も知れぬ寒駅がぼんやりと横たはつてゐた」という文がある。「駅がぼんやりと」しているのも新感覚であろう。また、「子僧」が空虚になった列車の中で相変わらず歌を歌っていたところの表現に、「眼前の椿事は物ともせず、恰も窓から覗いた空の雲の塊りに噛みつくやうに、口をぱくぱくやりながら」というのもある。しかし、期待したほど「新感覚」という感じの作品ではなかった。時代の変化がもたらした感覚の相違のせいだろうか。

 文献
  1. 横光利一『機械』の評を読む、Ted's Coffeehouse 2(2005 年 1 月 7 日)。
  2. 山室信一、「モダン」への終わりなき旅路、『図書』No. 858、p. 40(2020 年 6 月)。
  3. 横光利一、『頭ならびに腹』、青空文庫版(2001 年 12 月 10 日公開、2006 年 5 月 19 日修正)。

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2020年6月2日火曜日

歌う催しとの出会い 3 (My First Experience of Singing Events -3-)

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ふじ丸内での皆で歌う催しの会場風景。
Scenery of the singing event at Fuji Maru.

 先の二つの記事で述べた、にっぽん丸によるクルーズよりも先に経験していたクルーズは、ふじ丸で横浜を出発し、礼文・利尻両島を訪れるもので、私たちが参加したのは 1999 年 6 月のことだった。その時の写真や資料を探しても、なかなか出て来なかったが、まず見つかったのは、妻が書いている「5 年間日記」中の記述である。

 その日記帳は 1 日当たり 5 行のスペースしかなく、記述は至って簡潔である。歌う催しについて書いてあるのは、乗船 2 日目の 6 月 16 日(水)に 11:15 から塩野雅子さんの指導で「みんなでうたいましょう」があったことと、6 日目の 20 日(日)に同じ催しの 2 回目があったということだけである。17 日(木)と 18 日(金)にそれぞれ利尻と礼文に上陸して散策し、20 日 15:45 にはもう横浜港に帰着している。なお、塩野雅子さんは、童謡のアルバムをたくさん出している方のようである。

 次節に記す写真アルバムの中には、クルーズ中の毎日のスケジュールのプリントも挿入して残してあり、それによれば、16、20 日ともに時間は 11 時 15 分から 12 時まで、会場は 3 階ラウンジ「エメラルド」とあり、16 日には日本の名歌を歌ったことになっている。ピアノ伴奏者として、蓮沼万里さんの名がある。インターネットで調べると、ウィーン世界青少年音楽祭アンサンブルコンテストにピアニストとして参加し、2位入賞した方である。

 「5 年間日記」中の記述に次いで見つかったのは、ふじ丸クルーズの写真と、同じ年に参加した JTB の「旅物語:九州一周 4 日間」の写真を、妻が整理して収めたアルバムである。それは、納戸中の段ボール箱の中にあったが、もとは一緒にあった多くのアルバムを時折見やすいように取り出してしまっていたので、忘れられた存在のようになっていた。

 上掲の写真は、そのアルバム中にあった、ふじ丸クルーズでの「みんなでうたいましょう」の会場風景を私が撮ったものである。前回の記事に私の記憶として記したように、にっぽん丸での会場に比べて、より明るい部屋で、椅子は簡便型である。ただし、記憶では、会場は学校の講堂のように飾り気がなく、椅子もベンチのようななものに変わっていた。客船の豪華な雰囲気に慣れていない身としては、かつて見慣れた学童・生徒時代の雰囲気へと、記憶が自然に変化してしまうのかもしれない。

 ふじ丸クルーズでの歌う催しのプリントが残っていないのは残念である。それにしても、私が歌好きになった一番のもとは、2 回のクルーズ中で参加した皆で歌う催しにあったことが明らかになったのはよかった。その後、鮫島有美子が日本の名歌を歌っている CD と出会ったことが、さらに拍車をかけてくれたのだが、その詳細はいずれまた記したい。(完)

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2020年5月18日月曜日

歌う催しとの出会い 2 (My First Experience of Singing Events -2-)

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にっぽん丸内での歌う催しの歌詞プリント
The lyrics print of the singing event in Nippon Maru

 2007 年に参加した、にっぽん丸による「ゴールデンウィーク日本一周クルーズ」中での歌う催しの歌詞プリントは、1 回につき B4 サイズ両面刷りのものが各 1 枚配布された。上掲の写真は各プリントの一部分を示している。写真から分かるように、可愛らしい挿絵が挿入されている。各プリントに収められている曲は次の通り。
第 1 回用:春と海に寄せて

 1 面
  1. 春の小川
  2. 春が来た
  3. おぼろ月夜
  4. 故郷
  5. 浜辺の歌
  6. みかんの花咲く丘
 2 面
  1. われは海の子
  2. 出船
  3. 浜千鳥
  4. こいのぼり(やねより たかい)
  5. 鯉のぼり(文部省唱歌)
  6. 茶摘み

第 2 回用:外国の名曲たち

 1 面
  1. ドレミの歌
  2. 大きな古時計
  3. ローレライ
  4. アニー ローリー
  5. エーデルワイス
  6. 幸せなら手をたたこう
 2 面
  1. 旅愁
  2. 夢路より
  3. 野ばら
  4. 子守唄(シューベルト・作曲、近藤朔風・訳詞)
  5. 子守唄(モーツァルト・作曲、堀内敬三・訳詞)
  6. ブラームスの子守唄
  7. 蛍の光

第 3 回用:なつかしい日本の名曲

 1 面
  1. 遠くへ行きたい
  2. 見上げてごらん夜の星を
  3. 早春賦
  4. 知床旅情
  5. すみれの花の咲く頃
  6. 四季の歌
 2 面
  1. さとうきび畑
  2. 切手のないおくりもの
  3. 若者たち
  4. 今日の日はさようなら
  5. 千の風になって
 プリントにあった歌を全部歌ったかどうかは覚えていないが、ほとんどが知っている歌で、それらを参加者一同と歌うことがいかに楽しいかを、この機会によく知ったのだった。

 ところで、にっぽん丸の船内で毎日貰った予定表を見ると、3 回とも 4 階のドルフィンホールという部屋で開催されたことになっている。私の記憶に残っている会場の感じは、前回掲載した写真のようではなく、もっと広く明るい部屋で、簡便な椅子が並行に並んでいるようなものである。ということは、妻と私はこれより先にもう一度、にっぽん丸の時と同じ商船三井客船が企画・実施したクルーズを体験しているので、その時にも皆で歌う催しがあったのかも知れないと気づいた。そこで、その時の写真や資料を妻とともに何日もかかって探し、ふじ丸によるクルーズの写真を収めたアルバムをようやく見つけた。次回はその時の歌う催しについて簡単に述べる。(つづく)

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2020年5月11日月曜日

歌う催しとの出会い (My First Experience of Singing Events)

[The main text of this post is in Japanese only.]


にっぽん丸内での皆で歌う催しの会場風景。船の写真屋さんが撮影。
Scenery of the singing event at Nippon Maru. The photo was taken by a ship photographer.

 歌を歌うことが好きではなかった私が、逆転して歌好きになったきっかけは、鮫島有美子による日本の歌曲の CD を聴きながら歌ってみたことにあったように思っていたが、それよりも少し先の出来事にあったと、このたび気づいた。

 その出来事とは、2007 年に妻と参加した、にっぽん丸による「ゴールデンウィーク日本一周クルーズ」中での催しへの参加だった。それは、日比野幸(みゆき)さんのリードで参加者の皆が歌う、歌声喫茶形式の催しだった。この催しは 10 日間の航海中に 3 回行われ、私たちは 3 回とも参加していた。

 そのクルーズのことを帰宅後ブログに書いたのだが、当時使っていたブログサイトはプロバイダーのコンピューター事故で消滅してしまった。私の記事はパソコン上に控えを残してあったので、幾分かは今使っているこのサイトに復元した。しかし、全部復活させるのは大変で、その作業は途中の、クルーズ参加まで行かない年月ところでやめていた。

 クルーズ中の歌う催しについて最近ふと思い出したものの、その時使用した歌詞プリントを保存しておかなかったことも残念に思っていた。ところが、妻がクルーズの資料一式を保存してくれていて、その中には幸いにも歌詞プリントも含まれていた。それを見つけたのは、ちょうどコロナウィルス19 で外出自粛要請の出ている今年のゴールデンウィーク前だったので、この機会にと思い、「ゴールデンウィーク日本一周クルーズ」のブログ記事を、このブログサイトに復活させた(こちら)。

 上記の復活記事の中から、皆で歌う催しの部分をここに引用する。
4 月 29 日(日)
 まる一日航海が続く。[...]10 時 45 分から 45 分間、4 階メインホールでの「みんなで歌いましょう~春と海に寄せて~日本歌曲」に参加。講師・日比野 幸さん、ピアノ伴奏・相田久美子さん。[...]

5 月 2 日(水)
 船はもっぱら日本海を北進する。[...]操舵室を見学したあと、11 時から「日比野 幸と皆さんで歌いましょう part 2」に顔を出す。「外国の名曲たち」として、「エーデルワイス」「アニーロリー」「野ばら」など。坂本九が歌って有名になった「幸せなら手をたたこう」の原曲がスペイン民謡だとは知らなかった。[...]

5 月 5 日(土)
 航海日。9 時 15 分からフィットネス教室。11 時から「日比野 幸さんと皆さんで歌いましょう part 3」で、「見上げてごらん夜の星を」「四季の歌」「千の風になって」などを歌う。日比野さんが「早春賦」と「知床旅情」の曲が似ているという話をして、この 2 曲を続けて歌った。[...]
 なお、日比野さんはこのクルーズ中に 2 回のソプラノコンサートも行っている。コンサートの内容や詳しい感想は記してないが、1 回目の時に日比野さんの紹介を書いているので、合わせて引用しておく。
4 月 30 日(月)
 [...]21 時 15 分から 1 時間のメインショーは「日比野 幸 ソプラノコンサート part 1」。日比野さんは、イタリアでの第 5 回 TITTO GOBBI 国際声楽コンクール最高位受賞、2005 年に第 6 回藤沢オペラコンクール第 1 位と福永賞受賞の経歴を持ち、二期会会員。その表現力豊かな歌声を楽しむ。

5 月 4 日(金)
 [...]20 時に[青森]出港。夜のメインショーは「日比野 幸 ソプラノコンサート part 2」。
 次回に、3 回の皆で歌う催しにおいてそれぞれ 1 枚配布された歌詞プリントにある曲目を紹介したい。(つづく)

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2020年4月15日水曜日

カミュの『ペスト』を読み始める (Started reading Camus's "Pest")

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『新潮世界文学 48:カミュ I』(1968) 冒頭のカミュの写真。
The photo of Albert Camus at the beginning of "Shincho Sekai Bungaku 48: Camus I" (1968).

 新型コロナウィルスの影響で、カミュの小説『ペスト』がよく売れているというニュースを見た。そこで、私も先日、まだかなりの部分が応接間の本棚に積読になっている『新潮世界文学』中のその作品が入っている 1 冊を取り出して来た。

 まだ少ししか読み進んでいないが、次のような言葉が出て来て、その通りと思った。
戦争が勃発すると、人々はいう——「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行は常にしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気がつくはずである。
ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らは自ら自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。[宮崎嶺雄・訳]
 初めの引用文は、世界に何人もいる戦争好きの政治家たちに読ませたいものである。二番目の引用文は、「ペスト」を「新型コロナウィルス」に、「彼ら」(小説の舞台であるアルジェリアの要港・オランの人々を意味している)を「世界の人々」に置き換えると、いまの現実に当てはまりそうだ。

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2020年4月3日金曜日

歌記事へのコメントから -5-:終戦直後の流行歌 (From My Comments on Song Articles -5-: Popular Songs Just after the End of the WWII)

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チューリップとスミレ。ウォーキング途中で、2020 年 3 月 26 日撮影。
Tulips and violets; taken on March 26, 2020 during walking exercise.

歌記事へのコメントから -5-:終戦直後の流行歌

 本記事は、ブログ記事「ちょっと休憩 ~ ♪」[1] へのコメントをもとにした文である。ブログ makuragakayogakudan のその記事は、更新を 1 週間ほど休む代わりに、コメント欄へ「皆さんの書き込みは、是非、たくさん~お待ちしております!」と述べたものである。その期待に応えるため、本ブログの先の記事にした「花」の思い出中の「[私が小 6 の時、]休み時間に流行歌を盛んに歌っていた児童もいた」ことに関して書いたものである。



 私が小学校 6 年生だったのは、戦後 2 年目で、休み時間に歌われていた歌といえば、♪ 赤い花なら曼珠沙華/阿蘭陀屋敷に雨が降る ... ♪ と始まる『長崎物語(「じゃがたらお春」の唄)』がある(下掲の YouTube 動画参照)。徳川幕府が 1636 年に出した混血児の海外追放令でジャガタラ(現在のジャカルタ)へ追放になった 14 歳の少女「お春」を歌ったものだそうだ [2]。小柄な N 君が得意げに歌っていたのがいまも目に浮かぶ。作詞=梅木三郎、作曲=佐々木俊一で、由利あけみが歌ったレコードが 1939 年に発売されたという [3]。1930 年代の歌といえば、いかにも古いようだが、1939 年は私たちが 6 年生の時から 8 年前で、戦争中には流行歌などはほとんど作られなかっただろうから、当時はまだ新しい歌だったのだ。戦争中のいろいろな束縛から解放されて、この歌などがラジオからよく流れていたものと思われる。



 もう一つ「ジープでハロー」というような語句のある歌を、青い学生服(当時はまだ戦争中の名残で、国防色といわれた黄土色の学生服を着ている児童が多かった中で、その色は目立った)を着て「色男」のあだ名をつけられていた K 君が歌っていた記憶がある。いつかの同窓会の折にそのことを思い出し、K 君にその歌の題名を尋ねたが、彼はそんな歌を歌っていたことさえも覚えていなかった。いまインターネット検索してみると、それらしい歌(「ジープ」と「ハロー」は出てくるが、「ジープでハロー」とつながった語句はない)に、作詞=吉川静夫、作曲=上原げんと、歌=鈴村一郎、レコード発売 1946 年の「ジープは走る」があった[4]。♪ スマートな可愛いボデイ/胸のすくよなハンドルさぱき ... ♪ と、進駐軍のアメリカ兵が乗り回していた小型トラック「ジープ」、あるいはアメリカ兵自体を讃えた歌である(下掲の YouTube 動画参照)。K 君が歌っていたのはこれだったようだ。彼は「ハロー、ハロー」のところで手を上げる所作をしていたものだ。



  1. 「ちょっと休憩 ~ ♪」、ブログ makuragakayogakudan 記事(2020 年 3 月 29 日)。
  2. 「長崎物語」、ウェブサイト『懐かしのメロディー』所収。
  3. 長崎物語「じゃがたらお春の唄」、国立国会図書館デジタルコレクション。
  4. 「ジープは走る」、国立国会図書館 歴史的音源

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2020年4月1日水曜日

歌記事へのコメントから -4-:「花」の思い出 [From My Comments on Song Articles -4-: Memories of "Hana (Cherry Blossoms)"]

[The main text of this post is in Japanese only.]



 以下は、ブログ記事「花」[1] へのコメントをもとにした文である。この記事には、鮫島有美子による歌唱タンポポ児童合唱団による歌唱の YouTube 動画が埋め込んであった。もとのコメントには前の記事へのコメントの間違いの修正を記してあったが、本ブログ内ではその修正は先の記事で済ませたので、その部分を省略するなどの修正をした。



 先の記事「卒業式シーズン」のコメントとして「『仰げば尊し』の思い出」を書いたが、その思い出の場面である、2011 年 8 月の旧金沢市立石引町小学校 6 年 2 組の同窓会で「仰げば尊し」に続いて歌ったのが、奇しくも今回の記事で取り上げられた「花」だった。ドイツ語でクラシックの歌を歌う合唱団に入っている元同級生のリードで、まず私の提案した「仰げば尊し」を歌ったあと、彼女自身の発案で「花」を歌ったのだ。ところが、彼女は 2 番の歌詞を途中で間違えて、そこで合唱は終わりとなった。私がその同窓会のことを書いたブログ記事 [2] には、「『花』は私の愛唱歌の一つであり、私が彼女からマイクを貰って続きをリードすればよかったのだが、...」と記している。

 ところで、同じ 6 年 2 組の同窓会の別の機会にも「花」を歌ったのだが、そのことはブログに書いてなく、2010 年以前のことだっただろうという不確かなことしかいえない。以下の記述にも事実とは相違があるかもしれない。2011 年の時と同じく、会場は石川県のどこかの温泉旅館だった。早めに到着した私は他の男性元同級生 2 人ばかりと温泉に入り、ここならば声がよく響きそうだと思い、「花」を、1 曲全部ではなかったかもしれないが、浴槽中で独唱した。そのあとの宴会の途中で、女性の参加者たちが、申し合わせたように「花」を歌い始めた。途中から、男性では私だけがそれに合わせて歌った。私だけではなかったにしても、熱心に歌った男性は私だけだったといってよいだろう。

 女性たちは先に男湯で歌っていたのが誰かを確かめようと図り、私はまんまとそれに乗せられたのだったかもしれない、といまになって思う。その時は、女湯まで聞こえるほど大きな声で歌った気はしていなかったので、彼女たちが「花」を歌ったのは偶然だと思っていた。しかし、偶然にしては出来すぎていないだろうか。

 私は小学生時代の 2 度の転校で言葉の相違を含むカルチャーショックを受け続け、そのため、6 年生の時は極めてシャイな児童になっていた。休み時間に流行歌を盛んに歌っていた児童もいた中で、私は歌など歌ったことは全くなく、雑談の輪の中にいても、もっぱら聞いているばかりだった。雑談時に自らはあまり話さないという性癖はいまも大して変わらないが、歳を取って歌うようになった私を見た元女児たちは興味深く思ったことだろう。

 なお、このコメントを投稿した元記事中には、鮫島有美子の「花」の動画を「お手本」として紹介してある。最近の私は多くの曲で鮫島有美子の歌唱を手本にしており、この曲も例外ではない。そして、偶然にも元記事と同じく 3 月 26 日付けで掲載された「ねこじゃらしうたチャンネル」(私はチャンネル登録して毎晩聴いている)の曲も「花」だった。ここにそれを引いておく。



 「休み時間に流行歌を盛んに歌っていた児童もいた」という思い出に関連して、それらの流行歌について追加したいが、長くなるので、次回に回すことにする。

  1. 「花」、ブログ makuragakayogakudan 記事(2020 年 3 月 26 日)。
  2. 「小学校同級会」、ブログ Ted's Coffeehouse 2 記事(2011 年 8 月 29 日)。

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2020年3月30日月曜日

歌記事へのコメントから -3-:「仰げば尊し」の思い出 [From My Comments on Song Articles -3-: Memories of "Aogeba Tōtoshi" (a Song Sung at Graduation Ceremonies)]

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堺市クリーンセンター浄化ステーション庭園のチューリップ。
2020 年 3 月 25 日撮影。
Tulips in the garden of Sewage Treatment Plant, Sakai; taken on March 25, 2020.

歌記事へのコメントから -3-:「仰げば尊し」の思い出

 以下は、ブログ記事「卒業式シーズン」[1] へのコメントをもとにした文である。この記事には、「仰げば尊し」が紹介してあり、立川清登による歌唱映画『二十四の瞳』中の歌唱の YouTube 動画が埋め込んであった。もとのコメントには記憶の間違いなどがあったので、ここでは大幅に修正している。



 私は春先によく風邪を引いたので、卒業式は小学校から大学院修士課程(これは卒業といわないので、修了式だが)まで、一つおきにしか出席できなかった。中学と大学の卒業式が抜けたのである。高校の卒業式や大学院の修了式で「仰げば尊し」を歌ったかどうかは記憶にないが、小学校では歌った。その頃は「いまこそ別れめ」の「め」が「こそ」との掛結びとしての助動詞「む」の已然形とはまだ知らなかったから、「いまこそ分かれ目」と思っていた。

 「仰げば尊し」を恩師の前で最後に歌ったのは、約 8 年半前(2011年 8 月)の旧金沢市立石引町小学校 6 年 2 組の同窓会の折だった [2]。A 先生を初め、女性 8 名、男性 10 名が参加していた。ドイツ語でクラシックの歌を歌う合唱団に入って各国を歌い歩いているという元気な女性が、翌日地元で出演する予定が入って早く帰ることになり、その前に彼女のリードで皆で何か歌を歌おうということになった。私は先生を讃えるためにと、「仰げば尊し」を提案し、それが採用になり、一番だけを歌ったと思う。A 先生は 4 年前に亡くなられ、その時の「仰げば尊し」が A 先生への歌での感謝としては最後のものとなった[6 年 2 組の同窓会自体は、この翌年、A 先生が卒寿、生徒の多くが喜寿(どちらも満年齢で)となったことを記念して集まり、これが最後であった [3]]。

 なお、立川清登は私の最も好む男性歌手の一人である。

  1. 「卒業式シーズン」、ブログ makuragakayogakudan 記事(2020 年 3 月 25 日)。
  2. 「小学校同級会」、ブログ Ted's Coffeehouse 2 記事(2011 年 8 月 29 日)。
  3. 「金沢での同窓会」、ブログ Ted's Coffeehouse 2 記事(2012 年 8 月 23 日)。

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2020年3月29日日曜日

歌記事へのコメントから -2-:元気づける歌 (From My Comments on Song Articles -2-: The Song That Cheers Us Up)

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ゲンペイモモ、中の池公園で、2020 年 3 月 25 日撮影。
Cherry plum in Nakanoike Park; taken on March 25, 2020.

歌記事へのコメントから -2-:元気づける歌

 以下は、ブログ記事「1 日 1 歩、3 日で 3 歩 …」[1] へのコメントをもとにした文である。この記事には、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」が紹介してあった。



 新型コロナウィルスが拡散しているこの時期にふさわしく、元気づけてくれる歌を紹介して貰い、感謝している。私は流行歌手が広めた歌をあまり知らないほうだが、「三百六十五歩のマーチ」はおおよそ知っていた。

 この歌の誕生が 1968 年ということなので、その年の出来事を調べると、メキシコ・オリンピック開幕、グルノーブル・オリンピック開催(冬季)、川端康成がノーベル文学賞受賞、小笠原諸島日本に復帰、3 億円強奪事件、日本の GNP がアメリカについで第 2 位に、郵便番号制度実施、日本初の超高層ビルである霞が関ビル完成(高さ 147 メートル)、日本人が初めて南極点に到達(村山雅美隊長率いる第 9 次越冬隊)などがある [2]。水前寺清子より 10 歳年長の私自身はその時働き盛り(?)で、いま大きく成人した孫 2 人の親である長女が幼稚園児だったことになる。

 なお、3 月の心斎橋での「アートクラブ 504」と岸和田での「みんなで歌う音楽会」は、26 日と 30 日にそれぞれ休むことなく開催される予定になっているが、家族が私の度重なる公共交通機関使用を心配するので、残念ながら、コロナウィルス感染者数が減少傾向になるまで不参加とすることにした。もっぱら YouTube の「ねこじゃらしうたチャンネル」や、鮫島有美子の CD に合わせて歌うことを楽しんでいる。

  1. 「1 日 1 歩、3 日で 3 歩 …」、ブログ makuragakayogakudan 記事、2020 年 3 月 24 日。
  2. 「1968年(昭和43年)流行・出来事/年代流行」(ウェブサイト『年代流行』 内)から抜粋。

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2020年3月28日土曜日

歌記事へのコメントから -1-:好きな春の歌 (From My Comments on Song Articles -1-: My Favorite Spring Songs)

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わが家のレンギョウ。2020 年 3 月 26 日撮影。
Forsythia in my yard; taken on March 26, 2020.

歌記事へのコメントから -1-:好きな春の歌

 最近、まくらが歌謡楽団のブログ makuragakayogakudan 中の歌についての記事を読み、それに対するコメントを書くことを楽しみの一つにしている。私のコメントは、その歌にまつわる自らの思い出である場合が多く、長めになるので、少し前からテキストファイルに下書きをすることにした。下書きが溜まったのを読み返してみると、ちょっとした自分史の一端のようになっている。そこから取捨選択し、非対話体のエッセイに修正して、本ブログにも残して行きたい。

 以下は、記事「春の歌いろいろ~♪」[1] へのコメントをもとにした文である(最後のパラグラフは修正時の蛇足)。この記事には、「春よこい」、「どこかで春が」、「春の小川」、「春が来た」、「春のうた」(野口雨情)の 6 曲が紹介してあり、末尾に「皆様はどんな春の歌がお好きですか?」とあった。



「春の唄」、「春のうた」、「春の小川」

 私の好きな春関係の歌は、青春時代の思い出話をつけてブログ記事「2020 年 2 月、岸和田での『みんなで歌う音楽会』」にもすでに書いた通り、第一に喜志邦三・作詞、内田元・作曲、月村光子・歌による「春の唄」(JOBK の定期放送「国民歌謡」1937 年。私はこの時まだ 2 歳で、月村の歌声では聞いていない)だった。しかし、もう青春が遠くなったせいか、いまは、野口雨情の「春のうた」が、最近知ったばかりながら、かなり好きになっている。メロディーが覚えやすく、いかにものんびりして、麗かな雰囲気だと思う。

 「春の小川」は私が小学校(太平洋戦争が始まって、国民学校と呼ばれていた時代)2 年生の時の音楽の教科書に載っていた。学校で習って帰ってから、両親に得意げに歌って聴かせた記憶がある。音階の「ドレミファソラシド」という呼称が禁止されて、「ハニホヘトイロハ」で習ったので、この歌の最初の部分は、音符でいえば「ホトイトホトハハヘイトヘハニホ ...」だったと、いまでも覚えている。他の歌については、このような形で覚えているものがないことを思えば、「春の小川」はよほど気に入っていたのかもしれない。ただし、習った歌詞は原作のままではなく、「春の小川は さらさらいくよ ...」のように、口語調に書き換えられたものだった。

 「ドレミファ」は当時同盟国だったイタリアの言語であるにもかかわらず、なぜ「敵性語」として禁止された英米語由来の外来語と同様に扱われたのだろうか、軍部の不見識によるものか、と思ってきた。いま念のため『ウィキペディア』の「敵性語」の項を見ると、次のような説明がある。
「ドレミ」の語源はイタリア語だが、「軽佻浮薄」だとして言い替えが行なわれた。なお、戦後でもハ長調、イ短調、変ロ長調というように、イロハはドレミと並んで、音楽の現場で使用されている。
 「ハ長調、イ短調」などが戦争中の名残とすれば、戦前は「ド長調、ラ短調」などといっていたのだろうか。"C major" などの英語表現は、音楽の素人である私も目にすることがあるが、イタリア語由来の調名「ド長調」やイタリア語自体の "Do maggiore" は聞き慣れていない。

  1. 「春の歌いろいろ~♪」、ブログ makuragakayogakudan 記事、2020 年 3 月 8 日。

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2020年3月22日日曜日

堺市草部でサクラ開花 (Cherry Blossoms Bloom in Kusakabe, Sakai)


こちらをクリックすると、各写真の拡大版をご覧になれます。
You can see the enlarged version of each photo by clicking here.

 サクラの私的標本木が開花状態になっていた。写真 1 枚目は日部(くさべ)神社の門と、その前にあるソメイヨシノのわが標本木。2 枚目は開花宣言に十分な、開いた 5 輪がちょうど収まる 1 ショット(左下。クリックして出る拡大版でご覧下さい)。3 枚目以下は、開花している 5 輪を分けてズームインで撮影したもの。

My sample tree of cherry was in bloom. The first photo shows the gate of Kusabe Shrine and the Yoshino cherry tree in front of it. The second shot (lower left; see the enlarged version by clicking on the photos) includes just five open blossoms, which is enough for the blooming declaration. The other photos show the close-ups of open flowers.

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2020年3月16日月曜日

トイレ紙・ティッシュ品薄のニュースに思う祖父の晩年 (Toilet Paper and Tissue Shortage News Reminds Me of My Grandfather's Later Years)

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 2020 年 2 月 29 日付の各新聞は、共同通信社による次のニュースを伝えた。
トイレ紙、ティッシュ各地で品薄
 新型コロナウイルス感染拡大の影響で日用品を買い占める動きがあり、各地の店舗で 29 日、トイレットペーパーやティッシュペーパー、生理用ナプキンなどが品薄になった。インターネット上の「マスクの次に不足」とのデマ情報が原因とされ、関連団体や企業は「在庫は十分。冷静に行動して」と呼び掛けている。...
 このニュースで、私は 70 年近く前の祖父の日常を思い出した。その思い出が、私がブログの使い始め頃に記事の一ジャンルとして紹介していた高校時代の日記に書いてあったことに、きょう、たまたま気づいた。その日記中の関連の一節は次の通り([注 1]から抜粋)。
1952 年 2 月 12 日(火)曇り一時雨
 [...]けさもサツマイモを見た祖父の食前の祈りが普通とは違った調子になった。母は、「じいちゃんはイモと鼻紙があればいいがやね[注 2]」といった。祖父の枕元には、ハトロン紙、古新聞、広告紙などを重ねて折りたたんだ束がつねにある。その収集物はひじょうに大切にされている。買って来いとも、出してくれともいわないが、祖父の鼻紙は欠乏しない。
 祖父は旧満州・奉天市(現在の中国・瀋陽市)の日本人小学校の初代校長を長く務めた功績でだったか、日本の敗戦前にその学校の校庭に胸像を作って貰ったような、立派な教育者[注 3]だった。しかし、定年退職後の敗戦前年に大連の自宅玄関で転倒して大腿骨骨折をした後は、半ば寝たきりになった。日記の当時は、大連から引き揚げて来て、祖父、母、私の 3 人家族で、金沢市 K 町の T さん宅 2 階に間借り暮らしをしていた。祖父は明治元年生まれだったから、この時、ちょうどいまの私ぐらいの年齢だったことになる。私はこの時、高校 1 年生だった。

 この 4 年後に、祖父は老衰で死亡したので、この頃は認知症が始まっていたと思われる。当時の日本の家屋には水洗トイレはまだ普及していなくて、現在のトイレットペーパーやティッシュのような製品もなかった時代である。トイレには普通、薄ねずみ色のザラザラした塵紙が重ねておかれていた。祖父は自分用の塵紙として、上記の日記にあるように、いろいろな紙を保存していたのである。現今のトイレットペーパーやティッシュを一度は使わせて上げたかったと、しみじみ思うこの頃である。

 (2020 年 3 月 17 日、追加修正。)

 [注]
  1. 「Vicky も完ぺきではなく」Ted's Coffeehouse 2(2005 年 2 月 12 日)。
  2. 「いいがやね」は「いいのですね」の金沢弁。
  3. 文部省から派遣されて、ヨーロッパの教育事情を視察する旅にも行き、戦前の各界活動家の履歴(名刺大写真付き)を載せた人物名鑑にも入っていた。その名鑑は引き揚げ後に知人が貸してくれたものだったか、しばらく祖父の手元にあった。いまならば、そのページを写真に撮っておくところだが、当時はそれが容易には出来なかったので、私は祖父の履歴の詳細を知らない。

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2020年3月2日月曜日

歌「旅人よ」中の助詞「に」のこと (On the Word "ni" in the Song "Tabibito yo")

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わが家のレンテン・ローズ。2020 年 2 月 28 日撮影。
Lenten rose in my yard; taken on February 28, 2020.

「旅人よ」中の助詞「に」のこと

 ブログ『まくらが歌謡楽団』に先般「旅人よ」と題する記事が掲載された。岩谷時子・作詞、弾厚作・作曲のポピュラーソング「旅人よ」を紹介したものである。その中に、伊賀山人さんによる解説が引用されており、引用中に次の文がある。
第2節に見える「遠いふるさとに聞く 雲の歌に似て」とは、分かりにくい表現ですが、「遠いふるさとに聞く」とは、本来はこのような口語体の歌詞では「遠いふるさとで聞く」とすべきところを、詞全体の韻律を整えるために敢えてこの句だけ文語調の表現にしたものと考えます。
本記事では、「遠いふるさとに聞く」の「に」について、私の思うところを述べたい。(下に埋め込んであるのは、私が YouTube でチャンネル登録している「ねこじゃらしチャンネル」の「旅人よ」。)



 私の持っている『岩波国語辞典 第五版』の「で(格助詞)」の項には、次のようにある。
場所や時を示すには「に」も使えるが、「銀座で会う」「銀座に在る」を比べてわかるとおり、「に」は存在(に関連すること)の場所、「で」は(活動的な)物事の起こる場所を言う。
この説明は、「聞く」という動作の場所を示すには、口語では「で」を使わなければならないことを分かりやすく教えている。ところが、長い音符が当てられるところに「で」という濁音をおいたのでは、この歌の物静かな雰囲気の妨げになる。この意味で「に」に変えることは、伊賀山人さんのいわれる通り、「詞全体の韻律を整える」ことになろう。しかしながら、これを理由として、「に」を口語の「で」と同じ意味の文語の格助詞と見るのは、どうだろうかという気がする。

 「韻律を整える」ことを考えないとしての口語表現で、ここで「遠いふるさとで聞く」と詠むことが、果たして詩として優れているだろうか。詩では力点をおきたい単語に注意が行くように工夫することが重要だろう。「遠いふるさとで」と来ると、どういう「(活動的な)物事」がそこで起こるのだろうか、という期待が生じ、次に出てくる「聞く」に重みがかかる。しかし、ここでは「聞く」という動作よりも、「雲の歌」を昔聞いた、あるいは聞くことを想像するための、場所が「遠いふるさと」という、かつて身をおいた懐かしい所であることの方が意味上重要であろう。そしてまた、韻文ではいろいろな省略も行われる。

 これらのことを考え合わせると、次のような解釈ができる。例えば「かつて遠いふるさとに居て聞いた」という口語文での思いが初めにあり、その詩的簡略化として、「居て」に続いていた「存在(に関連すること)の場所」を示す口語の格助詞「に」を使った「遠いふるさとに聞く」が生まれ、結果として、「遠いふるさとで聞く」よりも「詞全体の韻律が整っている」という副産物が生じたのであろう。このように解釈すれば、「に」は「敢えてこの句だけ文語調の表現にした」という苦渋の選択ではなく、自然な選択だったことにもなる。

 ——私が理系の人間でありながら、助詞一つの解釈にこだわりもするのは、科学論文を書くには、詩を詠むのとは異なった観点からではあるが、言葉を注意深く選ぶ必要があり、そのための経験を積んできたからかと思う(加えて、学生時代までの文学趣味の名残もあろう)。私が研究職についたばかり時の上司は旧制高校時代を太平洋戦争真っ最中に過ごし、英語をあまり学んでいなかったため、私の方が英作文には自信があった。ある時、私が書いた論文原稿をその上司に見てもらうと、彼の直した一カ所が私の気に入らなかった。そこで私は、これこれの理由で、もとの表現の方がよいと思います、と伝えた。すると上司は「そこまで言葉にこだわるとは、詩を作っているようなものだな」といって笑った。そして、のちには、上司の方が私に論文英語の添削を依頼するようになったのだった。ただし、上司は片言の英語を勇敢に使って外国人と意思疎通をすることにおいては、私より遥かに巧みだった。

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