2005年6月30日木曜日

タイムトラベル (Time Travel)



ムクゲの花。堺市内の団地で、2005年6月26日写す。

 【概要 (Abstract in Japanese)】先般アメリカの USA・トゥデイ紙が、マサチューセッツ工科大学の学生アマル・ドレイの企画していたタイムトラベラー会議について報じた。最近それを受け、ニューヨークタイムズ紙がタイムトラベルについての物理学者たちの見解を概説した長文の記事を掲載した。物理学者たちは、ベルンの特許局へ行きアインシュタインを昼食に連れ出すようなことは不可能だと考えているが、タイムトラベルの関わる極端な状況の理論的研究が、いまの物理学の基礎にあると思われる逆説や矛盾を明らかにし、新しいアイデアを指し示すことにつながると期待している。(Read the main text in English.)

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/30/2005
 タイムトラベルの理論的研究によって、物理学のどんな基礎が覆されることになる可能性があるのか、少しお教えいただけると興味深いです。タイムトラベルという発想・構想自体が、物理学の成立の基礎に関わることだろうとは想像できます。実践分野だけでなく、理論分野に強い物理学者の方々の趨勢としても、こういう見方・態度になっているんですね。むしろ、理論の再構築に貢献する研究・会議であるかもしれませんね。

Ted 06/30/2005
 基礎が覆されることになる、というより、現在の基礎にもっと何かをつけ加える、あるいはそれをもっと進化させることにより、たとえば、いろいろな素粒子の質量や物理定数、さらにまた、宇宙誕生のごく初期の様子などが説明できないという現状を打開する道を見出せる可能性がある、ということです。USA Today に紹介された会議自体は、学生主体の半ば冗談を楽しむ目的だったかも知れませんが、Overbye の記事によれば、多くの物理学者たちの考えもメールで寄せられたようで、よい brainstorming の機会になったと思われます。

交換試合を1インニングだけ見た



 写真は、日曜日の午前に試合を楽しんでいる少年ソフトボール・チーム。
2005年6月26日、堺市・泉北スポーツ広場で。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月19日(金)晴れ

 君の学校との野球の交換試合を1インニングだけ見た。1回裏、2塁右を襲う安打で出た1年生で短躯の OM を、3番 SK が遊撃左を破り左翼手を誤らせて迎え入れ、捕逸で SK も帰り、2点を先取した。[1]

 来年の君は解析 II を取るのだろうね。それとも、今年の Octo のように、数学を取らないことになるのかい。そうだとすると、とても残念だね。ある関数の任意の点での変化率を示す関数である導関数を求める操作、すなわち微分、の概念はまったく面白いものだ。

 同じ頃に同じ場所で同じようなことが起こるとは、どうしたことだ。編集室での一対一の紛争だ。昨年のいまごろは、Jack と3年生の KD 君との間でそれがあったのだが、きょうは TKS 君と3年生の UE 君との間でだった。どちらも、怒り出したのが3年生であるということも、意味がありそうだ。編集室の庭球コートに面している金網の張られた出窓に腰かけて弁当を食べていた3人の3年生を見て、「どれが一番サルに近いかな。真ん中の奴だ」と TKS 君がいったことが原因だったのだろう。弁当を食べ終った UE 君は、いきなり TKS 君の帽子を奪い、いつもは優しさをたたえている顔を変形させて、それを水道の蛇口の下に置いた。「冗談でないぞ」というのが口癖の TKS 君は、思うようにならない右手を突っ張らせて、何をするか、とつめ寄った。それから彼らは、紛争を解決するために外へ出ていった。後のことは知らないが、沈着な UE 君としては、何と変わった、そして、つまらない行動だっただろう。しかし、TKS 君もいい過ぎだった。

 引用時の注

  1. 1インニングしか見なかったのは、公式戦でなかったからだろう。この年、わが菫台高校(現・金沢商業高校)の野球部はかなり強く、もう少し後の日記にも記されているかと思うが、秋の北信越大会では惜しくも準優勝だった。優勝校は翌年春の選抜大会で甲子園出場がかなうので、まことに残念だった。

2005年6月29日水曜日

靖国についての米国新聞記事 (US Newspaper Articles on Yasukuni)



写真は、近くの笠池公園(堺市)で咲いていたカンナの花。
2005年6月26日写す。

【概要 (Abstract in Japanese)】最近ニューヨーク・タイムズ紙と USA・トゥデイ紙が相次いで、わが国の靖国問題を取り上げた。前者は、アメリカが真珠湾攻撃を日本に強要したとする靖国神社の主張を紹介し、この史観はほとんどのアジア人やアメリカ人には受け入れられないもの、と批判している。さらに、靖国問題に対するアメリカの沈黙を指摘し、その理由は、中国の台頭が、1940年代の共産主義の台頭と同程度にアメリカを警戒させ、日本人が靖国をどう思うかにかかわらず、日本が再軍備した強い国であることを望ませていることにある、と述べている。USA・トゥデイ紙も靖国神社の戦争観と「A級戦犯は殉難者」とする見解を紹介し、合わせて、小泉首相の靖国参拝は、郵政民営化を初めとする彼の政策に右翼政治家の支持を得るため、という評論家の意見を紹介している。私はむしろ、右翼思想は小泉首相や多くの自民党政治家に深く根を下ろしているものだろうと危惧する。日本の国民は、次の国会議員選挙でよい選択をするため、米紙が伝えるこのような事実をよく知っておくべきだろう。(Read the main text in English.)

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/29/2005
 一度コメントを消してしまいまして。私は靖国問題が苦手で。というのは政治に疎いうえに、a sham-like tribunal?などの訳のわからない史実や史観が出てくるため、さらには今現在の政治の目論見と密接にかかわってきて、中立的な見方をしたいにも私にはよくわからないためなんですね。
 少し思うのは、郵政民営化など、個別な政策への支持を得るために、靖国参拝という行動を選択すると、ここの重たい歴史に小泉氏自身が今現在関与していることを対外的に知らせることになり、郵政民営化自体について、それこそ中立的に論議されにくくなるだろう、ということでしょうか。また適宜お教えください。

Ted 06/29/2005
 靖国神社のリーフレットには、A級戦犯について、「戦後、日本と戦った連合軍の形ばかりの裁判によって一方的に "戦争犯罪人" という、ぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた」と書いてあるということで、"sham-like tribunal" は、ここにある「形ばかりの裁判」に該当します。
 USA Today 紙が紹介している小泉首相の靖国参拝と郵政民営化政策の関わりについての Michael Cucek の見解は、私には皮相的と思われます。日本が始めた戦争を侵略戦争と認めないで、逆に美化するという歴史観を持っている靖国神社に首相が参拝するということは、外国から見れば、日本が過去を全く反省していないということになります。このようなことをし続ける小泉首相や、それをいさめるどころか、むしろ肯定している自民党の政治家たちには、まったく国際政治感覚が欠如しているということが、私としては問題だと思います。

Michael Cucek 06/30/2005
Ted -
I would like to think that I understand the Prime Minister's thinking--but he remains a cipher, a black box. He acts not according to a fixed set of rules but more from a loose set of constantly reconfigured concepts. Ask his inner circle what his philosophy of governance is and you hear a range of contradictory opinions reflecting the prejudices of the speakers rather than the core beliefs of the man. When Paul Wiseman asked me what the PM's motives could be for continuing to go to Yasukuni, I gave an answer that ignores the PM's feelings. It was the only intellectually honest route.

Ted 06/30/2005
Hi Michael,
Thanks a lot for your kind comment. Sure, Koizumi-san is a black box. However, I cannot at least judge him to be the man who sincerely repents Japan's aggressive wars in the past.

ODA ウォッチャーズ 07/01/2005
 次のコメント、全く同感です。⇒「外国から見れば、日本が過去を全く反省していないということになります。このようなことをし続ける小泉首相や、それをいさめるどころか、むしろ肯定している自民党の政治家たちには、まったく国際政治感覚が欠如しているということが、私としては問題だと思います。』

Ted 07/01/2005
Hi ODA Watchers,
Thanks for your kind comment.

創氏改名中の名無し 07/02/2005
 USA TODAY 紙の該当記事を読むと「多くの日本人にとって靖国神社はアメリカ人にとってのアーリントン国立墓地と異ならない」とあるのですが…。まあ史観は政治的なものがふくまれるんですけどね。

Ted 07/02/2005
 靖国神社の史観がもっとよく知られ、その意味がもっと理解されるならば、「靖国神社はアメリカ人にとってのアーリントン国立墓地と異ならない」と考える日本人は減るだろうと思います。私は、そうなるべきだと考えます。

国体参加援助費一人当たり700円


 写真は、大山崎山荘美術館2階テラスから、北西の眺め(2005年6月16日写す)。下に斜めに横たわるコンクリートの枠組は、地下新館への廊下の屋根をなす。前方左寄りに見える九輪は、近くにある宝寺の塔のもの。参観の婦人たちの間から、秋の紅葉の頃の眺めがいい、という声が聞こえた。(以下の記事に無関係。)

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年9月18日(木)晴れ

 国体参加援助費一人当たり七〇〇円というのは安すぎるかね、という表現は気にくわない。選手にとって苛酷かね、と聞こう。本校では三十数名が参加するのだが、第一陣として水泳の T・M 君が行くので、とりあえずこれだけの額を支給することにした。他の学校では、一千円以上出しているのに、と不平をこぼす選手がいるが、本校としてはこれが精一杯であるということを認めさせるのは、なかなかの苦労だ。君の学校ではどうかね。
 放課後、新聞部の Loth (Long and thin) に頼まれて、FJ 君と二人で「全日本大会(インターハイ)をふりかえって」という座談会の速記をする。FJ 君の方はせっせと速記文字で書いていたが、ぼくの方はこんな場合になると全然だめだから、時どき速記文字も使って、普通の文字を大特急で書き、書けないところは、「……」として、要点だけ書いていった。FJ 君もぼくも、ほとんど手を休める暇がなかった。座談会が終ってから、それを FJ 君に渡した。「普通の文字のは、きたなくても速記文字より訳すのに時間がかからないし、文の意味を考えるのにもすぐ分かるから」といって、持っていったのである。それから、せんべいや飴にありついた。この記事は今度のコンクールに応募する新聞の二面トップになるだろうと思う。内容については省略する。

2005年6月28日火曜日

洋ランと平和を愛した男 (The Man Who Loved Orchids and Peace)


【概要】さる6月16日、大山崎山荘美術館(写真)で「万緑の大山崎山荘、絵画コレクション展――印象派を中心に――」を見た。美術館の前身の山荘を建てた実業家・加賀正太郎は、若い日ヨーロッパに遊学し、その際に魅せられた洋ランの栽培にこの山荘で没頭し、多くの新種を生みだした。第2次世界大戦の終り頃、山荘の庭園に戦車を置きたい、と軍人たちが加賀に頼みに来たが、洋ラン同様に平和を愛した彼は、軍人たちの暴力に抗して、許可しなかった。彼は軍事力でなく、文化によって日本を世界に知らせたいと願っていたという。 (Read the main text in English.)

 この日に撮った関連写真:美術館の別の写真美術館2階テラスからの南方の眺めテラスからの北西方の眺め美術館の庭園

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/28/2005
 いま、「高齢者の方々の福祉現場記録」(先日の体験、現象学的記述の前・前段階)が精神的に負荷がかかって一向進まないので、こちらに記事を読みに来ました。
 加賀氏は実業家とのことですが、財も必要なことなのですが、洋ランならば洋ランの栽培に没頭し、実績も文化的価値も生み出せるような、ある意味こだわりの強い生涯を歩める人が輩出される日本社会であることが、貴重な文化・文化的建造物が遺されてゆく秘訣であるかとも思います。加賀氏は生涯がすべて戦時中であったような時代の方ですね。当時は軍人の力に抗する態度は容易ではなかったことでしょうね。

Ted 06/28/2005
 加賀正太郎は、ウィンザー城を訪れた際に眺めたテムズの流れの記憶をもとに、木津、宇治、桂の三川が合流する大山崎に山荘を建てたそうです。まさに、こだわりの強い人だったようです。戦後間もない1946年に、加賀が京都の版画師たちに依頼して自費出版したランの図録『蘭花譜』(木版多色摺り)は、貴重な学術的資料として今に伝わっているとのことです。図録は、いつまた出版が困難になるかも知れないと急いで作成されたため、製本された形でなく、多数のシートを大きな箱に収めたものになったそうですが、その作成にも大いにこだわりが感じられます。一部は大山崎山荘美術館で額に入れて展示されています。美術館のビデオでは、軍人たちの依頼を拒否した結果、顔全体に包帯を巻く結果となった写真が紹介されていました。

大山崎山荘美術館の建物 / 2ページの朗読に疲れる


大山崎山荘美術館の建物

 山崎の合戦で名高い天王山の南麓に位置する大山崎山荘は、関西の実業家・加賀正太郎["洋ランと平和を愛した男 (The Man Who Loved Orchids and Peace)" に紹介]によって、大正初期から昭和初期にかけて建てられた。加賀はイギリスのチューダー様式をもとに、別荘として自ら設計している。加賀の手を離れたあと荒廃していたが、1996年に修理補修と新館の併設がなり、アサヒビール大山崎山荘美術館として開館した。2004年、国の有形文化財に登録。(参照:同美術館リーフレット。写真は、2005年6月16日撮影。)

2ページの朗読に疲れる

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月17日(水)、18日(木)晴れ

 そのことについて何の活動もしなかった。放課後、校内バレーボール大会をしばらく見る。好ましい明るさと楽しさと活気。それらにマッチしない学校新聞が何の役にたつだろうか。ぼくの統率も悪いが、2年生のスタッフも、もう少しよい方が望ましい。SN 君や TKS 君は五目並べ狂になっている。

 英語乙で、次に習うところを2ページ近くも朗読させられたのには、疲れてしまった。これだけ連続的に発声するのは、ぼくの毎日の生活において希有のことなのだ。休み時間にぼくほど雑談を交わさない者はいないといっても過言ではない。授業はほとんど講義形式だから、ここでも口を働かせる機会はない。家での母との会話は片言に近いものだ。こんなふうだから、朗読の終り近くでは、口が渇いてしまい、逐語的に(訳すとはいうが、読むというだろうか)しか読めなくて、breath group も何もあったものではなく、いま思うと冷や汗の出るような読み方をした。初めの10数行は、前の時間から読まされることに予定されていたので、巧みに読んだ。しかし、どこまで進んでも「そこまで」といわれないので、いやになり、次第にまずくなって woman と women を混同し、Imperial を正しく読んだかどうかも分からない。それでも、校長先生のように一つ一つの単語でのアクセントの位置を間違えることはしなかったと思う。[1]

 引用時の注

  1. 英語乙は校長先生に習っていたが、先生の都合で何回か別の英語の授業の担当だった I・S 先生が代理で来られた。I・S 先生の本来の授業では生徒に朗読させることは決してなかったのだが、あるとき、私が I・S 先生から朗読させられ、「(試験の成績から想像したより)案外下手だねぇ」といわれた記憶がある。それが、この日のことだったようだ。

2005年6月27日月曜日

大山崎山荘美術館からの眺め / 英語の「槌」もいろいろ


大山崎山荘美術館からの眺め

 写真は、JR京都線・山崎駅または阪急京都線・大山崎駅から徒歩約10分のところにある大山崎山荘美術館2階テラスからの眺め。2005年6月16日写す。

英語の「槌」もいろいろ

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年9月17日(水)晴れ

 久しぶりの快晴! 秋の感じが深い。体操では思いきりソフトボールを楽しんだ。三十九人を四チームに分けて、ボール二個で試合をしたのである。「人数が足りんから」といって、K 先生も入られ、真剣なプレイをされた。が、ぼくの打球に対してだけでも、三エラーを記録した。技術は退化し切っていて、凡失の続出する、アウトカウントも得点も忘れてしまいそうな試合だった。結局六点の差をつけて、ぼくの属しているチームが K 先生のチームを破った。もう一つの試合もなかなかの混戦だったらしく、破れた方の得点でさえ、二桁の数字だった。
 M・K 先生の駄弁は脱線を常とするが、それは大いに認めるとしても、言葉そのものに関するところまで脱線がおよぶとは、けしからん。"打ち出の小づち" の "つち" を説明するのに「英語では hammer じゃ。木でできているのも、こーんなでっかいのも、鍛冶屋さんのトッテンカンとやるのも、いまの場合も、みんな hammer じゃ」といわれ、おやっと思ったね。英語では、そんなに何もかも一つの単語で済ますということはないはずだが――。さっそく和英を繰る。あったあった。"tsuchi (槌) a hammer (金の); a mallet (木の); a sledge (鍛冶屋の)" となっているじゃないか。「心かたちははじめよりよろづの人にすぐれたまへば…」の文の解釈について問いただすこととの二つを持って教務室へ行った。

 五限が済むとすぐ帰った。道具袋を置き、弁当箱をひやかすと、家を飛び出て、松竹座へ走った。松竹座という映画館へは生まれて初めて(といっても過言ではないはず)入った。いままで松竹座へ来なかったのが不思議なくらいだ。丸い厚紙に青インクで印刷してある紙を受付に出して中へ入った。"Don't Kill Him!" 題名から受けるような、荒涼としてすさまじい感じの映画ではなかった。「ボウボウたるかな五十年、人生ただ夢の如し」という大らかさと、人間のなすべき本当の仕事ということについて考えさせられた。


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/27/2005
 すっかり忘れていましたが、学校授業での先生の話の「脱線」は常でしたね。それが受けないものが多くて。私の高校も伝説的に個性的な先生が勢ぞろいで…京大出の先生が多かったため、多くの先生が教科や学問の研究に熱心でもありました。
 五限が済むと映画館へ走って、映画を通して人間のなすべき本当の仕事について考えさせられる、というのは、素晴らしい青春時代ですね。

Ted 06/27/2005
 私の高校では、脱線する先生は多くはなかったです。しかし、京大入試で当時必修だった世界史を2年生で取りましたが、その先生がたいへんな脱線家で、あまり進まずじまいで、この科目はほとんど独学で入試に備えなければなりませんでした。

四方館 06/27/2005
 大山崎山荘へ行かれましたか。なかなか良いところでしたねェ。

Ted 06/28/2005
 はい。秋のたたずまいもよさそうですね。山荘の一室で見たビデオで知った山荘設立者・加賀正太郎についての短い紹介記事も掲載の予定です。

2005年6月26日日曜日

アインシュタインの勉学に関する言葉 (Quotation from Einstein on Study)


写真は、京都府乙訓郡にある大山崎山荘美術館の庭園。
2005年6月16日写す。


Read in English.

 私はかつて仕事上の必要から、アメリカのオークリッジ国立研究所・放射線安全情報計算センターのニューズレター(月刊、無料)の送付を受けていた。このニューズレターのトップに、いつも先哲の名言が引用してあるのが面白く、毎号の言葉をコンピュータ・ファイルに抜き書きしていたものだ。その後、ニューズレターはウエブサイトで閲覧できるようになり、名言の抜き書きは容易になったのだが、簡単に集められるのでは妙味がなく、収集をやめてしまった。

 上記ニューズレターの最近号 [1] には、アインシュタインの勉学に関する言葉が引用されている。私の大いに共鳴を感じる言葉だったので、ここに紹介する。

 勉学を義務と思ってはいけません。それは、精神領域において美が解き放つ影響を学び知るという、願ってもない機会だと思いなさい。それは、あなた方自身の個人的な喜びと、あなた方ののちの仕事が寄与する社会の利益になるのです。――アルバート・アインシュタイン


  1. RSICC Newsletter No. 484 (June 2005).


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

かわせみ 06/26/2005
 Ted さん、はじめまして、かわせみです。感動を与えてくれた言葉でしたのでトラックバックさせていただきました。他のブログでは Femto などの言葉も見え、科学者でいらっしゃるようです。私も学生時代は物理を専攻し、会社では光通信に関係しており、Femto 秒の世界にも関係しています。これからも精神領域での展開をめざして、行こうとおもっています。

Ted 06/26/2005
 初めまして。コメント、トラックバック、そして、エコー!お友だち追加ご依頼をいただき、ありがとうございました。放射線物理学分野での研究と、のちに教育を少しばかりやって、定年退職し、目下、私設研究所で勝手な「研究」をしています。どうぞよろしく。

Y 06/26/2005
 高校時代に学校から課されていた英語の参考書で、アインシュタインが遺した文章に出会い、感銘をうけました。「精神領域において美が解き放つ影響を学び知る」、まさにその通りだと思います。アインシュタインの文章は、これからも Ted さんにたくさんご紹介いただきたいです。
 私は Ted さんのブログの英文は、最近はいつも声に出して読んでいます。英語の素晴らしさにしてもそうですが、事物の美しさを学問的に知ることの「個人的な喜び」が、社会に貢献する仕事をする自分ののちの capacity を作っていくという、学問と社会との関係を、もっと皆が素直に学べるような上手な機会が多く作られればと思います。

Ted 06/26/2005
 まずはブログを通じ、Y さんと協力して、学びそして社会と関わる喜びを広めて行ければ幸いです。


じょぷりん 06/27/2005
 Y さん、おひさしぶりです。英文を声に出して読む、私は久しくやっていません。
見習わなければ。
 Ted さん、おひさしぶりです。アインシュタインが、こういう言葉を残しているのを初めて知りました。

Y 06/27/2005
 じょぷりんさん、お元気ですか。英文でも日本文でも、声に出して読むと、最初は発音や声に気をとられて、読んでいる文の意味がわからなくなったりしますよね。私はいまでは英文を読んでもそういうことがあまりなくなりました。英語も、つなげて滑らかにまろやかに(?)発音していかないといけないので、そのレベルを上げようとしています。気分転換にもなるので、音楽も一緒に歌ってみられるといいかもしれませんね。

じょぷりん 06/27/2005
> つなげて滑らかにまろやかに
 なんとなくわかります。I get off が、『揚げ豆腐』になるくらい、滑らかに発音するのかな?

Y 06/27/2005
 そうですね。どの単語の語尾と助動詞などが、つなげて、あるいは一緒に発音されるのかは、そういうのは英語解説の本には載っています。それだけでなく、一文としてつながりが良いように発音できるといいですよね。力を入れすぎても入れなさ過ぎてもいけない、という感じですね。

Ted 06/27/2005
Hi Joplin, Einstein is great not only in his scientific accomplishments but also in his wise words.

ハイビスカス / 漆黒の瞳…


ハイビスカス

 写真は、わが家の植木鉢に咲いたハイビスカスの花(2005年6月22日写す)。もう一鉢あったのだが、2、3年前に、大きくなったので地面にじか植えしようとして、枯らしてしまった。

漆黒の瞳…

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月16日(火)曇り

 君が生徒会会計の役をうまく果たしているのに、ぼくは自分の役目に何と熱が入らないのだろう。新聞製作の仕事が、あまりにも印形押しと変わらないように思えてならない。ぼくの心のどこかには、その革新を欲する感情があるのだ。それなのに、その感情はあらゆるものから圧迫を受けている。まず、自分の意志が圧迫している。
 校歌作成委員会も何もあったものじゃない。作詞はもう出来ていて、作曲ももうすぐになって、開校記念祭に発表されるそうだ。これをトップ記事にと、I・T 先生が。

 「『漆黒の瞳…濡れた真珠。やゝ上をむいた鼻。しっかり結んでいるときには、おつにとりすました唇。それがわずかに開かれた時の限りない魅力。微笑。』今年の進学適性検査・乙の[9]の問題文の抜粋だ。こういうものが君の前に現れたとき、君はどう感じるかね。このほか、問題文には『が、声は聞きづらく』とあるが、それを『樋口一葉の作品の朗読に最もふさわしいと思われるような、柔らかく響く品格のある声』と変えて想像し給え。」
 もしも、「夏空に輝く星」のテーマが君の思ったようなものだったら、稔は敏夫との通信帳に、上のようなことを書いただろう。そして、実際にそういうテーマだったら、稔や敏夫はどのような考察をしただろうか。彼らの生みの親は、その解答にちょっと迷う。それは、身をもってする芸術であるとするか、『こころ』(まだ、読み終わっていない)の中で「先生」がいった言葉は真実であるとするか。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/26/2005
 新聞製作は面白い仕事だと思いますね。社会事象をどういう形式・形態にしていくか、広報物の作成は、まずもって煩雑な手作業に追われる部分が多いのですが、意義が大きいですからね。いまはさしずめ、ネットだとブログや HP のような形式・形態になっているでしょうか。
 校内新聞を革新したいという思いを持ちながら、ご自分の意志じたいがそれを圧迫している、というのはわかる気がします。無責任・無謀に革新はできませんし、先生ご自身にも守りたい傾向があったことでしょうね。
 後半の趣旨が…『こころ』の先生の台詞とはどんなものを指しているでしょうか。「恋とは罪悪でございますよ」ではないですよね…。

Ted 06/26/2005
 私ももちろん、新聞製作が面白いと思ったからこそ新聞部へ入ったのでしたが、仲間を動かすことの下手な自分が編集長になり、また、仲間に文のたつ人物が少なく、予算の制約や、受験勉強を始めたことによる時間の制約などもあって、思うにまかせなかったのです。
 『こころ』の「先生」の言葉は、私も覚えていませんが、「身をもってする芸術」に対置したところを見ると、少なくともある程度は否定的な言葉のようです。この日記を振り返って、『こころ』をまた読んでみたいと思わされました。

Ted 06/30/2005
 昨日から『こころ』を再読し、この日の日記を書いたときに頭にあった「先生」の言葉が分かりました。Y さんの書かれた通りでした! 第十二章の終りで「先生」は「私」に、こう言っています。「然し……然し君、恋は罪悪ですよ。解ってゐますか」

2005年6月25日土曜日

舞鶴湾のスケッチ:その3 (The Third Sketch of Maizuru Bay)


 6月12~14日の京都府北部への小旅行での舞鶴湾のスケッチを先に2枚紹介した [1, 2] が、ここに紹介するのは、14日朝、先の絵よりもさらに左(西)の眺めを描いたものである。中央に見えるのは、丹後富士の別名のある建部山。

Two sketches of Maizuru Bay I made during a small trip to the north of Kyoto Prefecture have been posted before [1, 2]. The image here shows the third and last of the sketches of this series. It was drawn by looking at further left (west) in the morning of June 14. The mountain seen at the center is Mt. Tatebe, which is also called Mt. Tango-Fuji.


  1. 京都府北部への旅行 (Trip to the North of Kyoto Prefecture), Ted's Coffeehouse 2 (June 23, 2005).

  2. 舞鶴湾のスケッチ:その2 (The Second Sketch of Maizuru Bay), Ted's Coffeehouse 2 (June 24, 2005).


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/25/2005 17:30
 緑などの描き込みが実に柔らかくて、優しい雰囲気になっていますね。以前描かれるおつもりだった南禅寺はやはり描きにくかったのでしょうか。今は、本格的な作品は何か予定されていますか?

Ted 06/25/2005 20:36
 12月に初めに東京で開かれる大連の小学校同窓生有志による美術展に出す水彩画2点を、そろそろ考えなければなりません。南禅寺の写真も再検討して見ますが、私には描きにくそうです。

ハス盗人? / 「夕鶴」


ハス盗人?

 近くの「中の池公園」に、ピンクの花を咲かせるハスと白のそれとがある。先日、ピンクのツボミが一つかなりふくらんでいたので、翌日写真を撮るつもりで行くと、なくなっていた。心ない人物が持ち去ったのだろうか。そのあたりの茎が1本倒れていた。次にピンクの花が咲くのは、もう少し後になりそうだ。上の写真は6月22日撮影の白いハス。

「夕鶴」

 高校時代の交換日記から

(Ted)

(続)1952年9月15日(月)雨

 国語の授業は、「一寸法師」以下をすっ飛ばして「万葉秀歌」へ入ったので、まだ読んでなかった「夕鶴」に目を通した。ちょっとみれば「……」のむやみに多い脚本だが、読んでいくと、それが少しも間隙を作らないで、かえって次つぎに胸にせまる何ものかを作り出していることに気づく。主題は、簡単にいえば「愛と欲」、もっと簡単にすれば「欲」となるだろうか。しかし、これでは漠然としているから、「金欲とそれに対して優しくしかも執拗に反抗する愛情」という表現もしておこう。
 登場人物の性格について。与ひょうは、主題(上記の後者の表現)の中で対立する二つの事柄の間をさまよう、意志の弱い人物。つうは清浄な心と愛に満ちている人物(?)だが、その愛は与ひょうに強く向けられるあまり、いささか排他的になりがちである。「ずるいわ、あんたたち……ねえ、…ねえ、……えゝ憎い、憎らしい……」というところと、すぐその後の「……いえ……いえ、いえ、すみません、憎いなんて……」というところにそれが感じられる。つうが完全に理想的な心を持っていて、その愛が普遍的なものであれば、惣どと運ずの悪心を積極的に正そうとはしても、「憎い」とは叫ぶまい。そして、彼らが悪心を持った人物であることを知りながら、次の瞬間に、わけもなく許したり、謝ったりはしまい。「お願いします」といっているところからは、与ひょうだけが彼らから救われれば、彼らはいつまでもそのままでよいといった態度が感じられる。惣どはあくまで我利に夢中であるが、運ずは彼より同情心がある。――こんなところで、どうだね。

(Sam)

1952年9月16日(火)曇り一時雨

 将棋がとてもはやっている。誰もだいたいにおいて同じ手腕だ。休み時間にしていると、対局者の付近が黒だかりになり、摂政や関白がわんさわんさと出現する。

2005年6月24日金曜日

舞鶴湾のスケッチ:その2 (The Second Sketch of Maizuru Bay)


 6月12~14日の京都府北部への小旅行で宿泊したのは、舞鶴の五老ヶ岳の上に建つ「かんぽの宿 舞鶴」。その部屋の窓から見えた舞鶴湾を12日午後遅くに描いたスケッチを先に紹介した [1]。ここに紹介するのは、翌13日朝、先の絵よりも少し左へ視野を写して描いたものである。

During our trip to the north of Kyoto Prefecture, my wife and I stayed at the Hotel Kampo-no-Yado Maizuru located at the top of Mt. Goro, Maizuru. A sketch of Maizuru Bay seen from the window of the hotel room has been posted before [1]. The image above shows another sketch of the view a little left to the first one.


  1. 京都府北部への旅行 (Trip to the North of Kyoto Prefecture), Ted's Coffeehouse 2 (June 23, 2005).

ブーゲンビリア(「この花の名は?」改題) / 「いもがゆ」


ブーゲンビリア(「この花の名は?」改題)

 さる6月19日、ウォーキングの途中で、濃いピンクの花の中に白い小さな花が咲いているような、面白い花(写真)を見た。ピンクの花の直径は3~4センチ程度である。名前をご存知の方があれば、教えていただければ幸いである。

 後日の追記:コメント欄で「ブーゲンビリア」と教えていただいた。(記事末尾に引用したコメントを参照されたい。)

「いもがゆ」

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年9月15日(月)曇り

 としよりの日だというのに、祖母に対して特別に何もしてあげられなかった。しかし、近所のとしよりたちと、午後から北国動物園へ行って、大いにまなこを驚かせて来たそうで、帰ったら、おおぎょうなジェスチュアでその話ばかりして、孫に勉強を少しもさせなかった。

 創立記念日の行事が具体化しつつあるが、君の学校ほど盛大なものにはなるまい。運動会について、本校のグラウンドは狭すぎるという理由で、公設グラウンドで開催の案が出ているのは注目に値する。


(Ted)

1952年9月15日(月)雨

 「いもがゆ」の主役はやはり利仁だった。国語甲の時間に、先生に大いに反駁しようと思っていたのだが、『宇治拾遺』中には、「いもがゆ」としてではなく、「利仁薯粥の事」という題で載っているといわれたので、それならば一切の反駁は無駄だと思った。利仁についての描写の量と、五位を連れて来る道みちの積極的な言動・役割が主役であるゆえんだそうだ。そうすると、最後の教訓を含んだ文は、少しとってつけたような感じになる。先生は「これを裏から解釈すれば、さる者、すなわち五位のような待遇を受ける者が、おのずからある、といっても、そういう待遇を与えるのは誰かというと、利仁なのだ」と説明しておられたが、そこまで理屈っぽく説明する必要もないように思われる。
 芥川の「芋粥」に主人公として現れる五位は、典型的な悪風采の持ち主で、欲望の塊である。彼はあらゆる人間の深部にある欲望に関する感情と、それをめぐる幸不幸に関する観念とを具現している。ここに主題となっているのは、心理的なものであるのに対し、『宇治拾遺』の「いもがゆ」のそれは、現象的なものだということが出来よう。精神界・現象界というプラトン哲学的な分類の第一段階において、これらの、同じいもがゆを媒介として書かれた、筋もほとんど同一の作品は、完全に別の道を行くのである。(なにぶんにも、芥川の「芋粥」を読んでいないから、これ以上は書けない。また、これだけの中にも誤りがあるかも知れない。)[1]

 引用時の注

  1. Sam たちが同じ国語の教科書を使用していて、Sam に質問され、私の習ったことや意見を書いたのだろうか。この日、さらに続いて、国語の教科書にあった「夕鶴」の主題等についても書いており(次回掲載予定)、その後で、「こんなところで、どうだね」と記しているので、そう思うのである。その後まもなく、私は芥川の「芋粥」も読んだと思う。読まないうちに『宇治拾遺』の「いもがゆ」との比較を書いたのは、教科書か国文学史の参考書にあった「芋粥」の紹介文でも参照してのことだろう。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ポー 06/24/2005
 ブーゲンビリアでしょうか~。濃いピンクの部分は葉っぱですよね。色もいろいろあるんですね。

Ted 06/25/2005
 ありがとうございました。お陰で、わが家にある『植物の世界』中の掲載ページを索引で見つけることができました。「Bougainvillea spectabilis、和名イカダカズラ、花弁のように見えるのは包葉で、その中に筒状の花がある。ブラジル原産で、世界の温暖な地域で広く栽培され、広い範囲で帰化植物となっている。多数の雑種や園芸品種も市場に出回っており、花と包葉の色、葉の形の細部、花序の形態もさまざまである」などの説明がありました。

2005年6月23日木曜日

京都府北部への旅行



Read in English.

 6月12日から14日まで、妻とともに京都府北部の福知山、綾部、舞鶴への小旅行をした。下記文中の青色の文字は、それぞれの場所の写真と簡単な説明を掲載した記事へリンクされている。

 1日目の福知山では、福知山城を見たあと、由良川にかかる音無瀬橋を渡る。そこから北東へ進み、三段池公園を抜ける。

 散策の参考にしたJR 西日本の「駅からはじまるハイキング MAP (46) 福知山コース」では、そこからジグザグに西進して、新音無瀬橋を渡り、由良川沿いに音無瀬橋の近くへ戻ることになっている。しかし、時間の関係で、公園の西側の道路を南へたどり、あとは来たときの道を逆進し、福知山駅正面通り商店街を通って駅へ戻った。

 宿は舞鶴の五老ヶ岳の上に建つ「かんぽの宿 舞鶴」。窓から舞鶴湾が一望でき、到着早々にスケッチをした(上掲のイメージ)。翌朝のスケッチ翌々朝のスケッチは、このスケッチのより、左(西)へ視野を写して描いたもの。

 2日目は、綾部市内を散策。「駅からはじまるハイキング MAP (26) 綾部コース」では、行きは由良川にかかる白瀬橋を渡り、綾部市資料館や仏南寺を訪れることになっていたが、かんぽの宿の送迎バスで西舞鶴駅へ来たのが、すでに早い時間ではなかったので、そのあたりを省略し、位田橋へ向かった。橋上から昨日に続いて由良川の写真を撮る。

 乗馬クラブへ転身工事中の「綾部ふれあい牧場」内のレストランで昼食を取り、田園風景の中に小さな水車ハナショウブ畑を見て、由良川土手沿いの道へ出た。位田橋を再び渡って、JR綾部駅へ。

 3日目の午前、JR東舞鶴駅付近の北吸トンネル市政記念館赤れんが博物館などを、あわただしく見物し、帰途についた。

 福知山の三段池埋め立て工事や、綾部ふれあい牧場の乗馬クラブへの転身工事を見て、自然や土地の利用方法がこれでよいのかと思い、舞鶴のれんが建造物遺産がかつては旧海軍の兵器庫だったことを知って、平和の重要さに改めて思いをいたした旅であった。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/24/2005
「駅からはじまるハイキング MAP」が大変便利そうですね。このように旅行すれば、徒歩感覚で各地が味わえますね。私たちは車を所持していないため、いつも夫の実家に車を借りるか、レンタカーにするかということになりますが(まずもって前者)、私は鉄道を利用した旅行がもともと好きではあるので、今度はそれで計画したいといつも思っています。
 スケッチの色づかいに、毎回さりげない創意が込められていて楽しみです。

Ted 06/24/2005
 「駅から…MAP」は、指定するコース通りに行くと、2~4時間余りの歩行になり、途中に丘や石段の昇り降りもあったりするので、ちょっと大変ですが、適当に省略すればいいガイドになります。
 今回のスケッチの色づかいに見出して下さった「さりげない創意」とは何でしょうか。自覚しているのは、近くの木々の影に、いままで使わなかった黒を思い切って使ってみたところなのですが。舞鶴湾は、少しずつ視野を左へ写してもう2枚スケッチしていますので、それらも近日中に掲載します。

Y 06/24/2005
 全体の色調ですね。Ted さんは手軽なスケッチのほうが心鮮やかで自由な色調を選ばれるようで、今回は水色、とも言い切れない薄いグレーで木々の緑の部分も整えられていて、木の影として黒を使っておられるのと、バランスがきれいになっていると思います。
 私たちの世代は、少し上でも、幼少時からの習い事に関係なく、ギターなど何かの楽器に一度は挑戦するのが皆がすることで、私もアコースティックギターを買っていますが、Ted さんのころは絵のほうが馴染みがある手近な表現手段でしたでしょうか?

Ted 06/24/2005
 私たちの子どもの頃は、戦争中と戦後間もなくという時代のせいもあり、楽器に挑戦する友人は、あまりいませんでした。私の父はバイオリンをやっていましたので、その楽器が残っておれば、私もする気になったかも知れませんが、父の死後、母と大連へ引っ越したとき、すでに処分されたようでした。バイオリンといえば、大連の小学校の担任の先生はバイオリンを教えておられましたから、クラスの何人かは習っていたかもしれません。その先生は引き揚げ後、名古屋児童放送管弦楽団を指導しておられ、お嬢さんの一人も音楽関係に進んでいました。

赤れんが博物館 / 何だかあべこべ


赤れんが博物館

 舞鶴の赤れんが博物館(写真)は、れんがをテーマにした世界に類のない博物館である。建物は旧海軍の魚形水雷庫として1903年に建造され、本格的な鉄骨構造のれんが建築物としては、わが国に現存する最古級のものとされている。世界四大文明のれんがを中心に、各国のれんがやれんが建造物などを紹介している。舞鶴市指定文化財。(参考:リーフレット「赤れんが博物館」、舞鶴市・舞鶴観光協会「舞鶴・港町浪漫:舞鶴観光ガイドマップ」)門の "World Brick Museum" の文字が、くり抜かれて空の色になっているのが私には面白く、肝心のれんが造りの建物が隅へ押しやられた写真になった。

何だかあべこべ

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年9月14日()雨

 実は相当の理由があって持久戦?をとったのだが、判断の結果は正しくなかった。われわれの間に、「言い得ないこと」があってよいだろうか。自己の体面に対する恥、これがあまりにもちっぽけで、ばからしくて、君にはどんなものか推察できないだろう。しかし、2枚前のページで君がとった行為とよく似たものかも知れない。

 具体的なことをいえば簡単だ。昨日は少々早く帰宅したので、ふと絵を描きたくなったのだ。そこで、家から西の方の道路と家を画用紙に収め、夜になってから色鉛筆で彩色した。遠近法を巧みに利用し、ミニチュアセットのような、図案的な絵にしたのだ。それが果たして成功しているものか、見てほしかったのだ。校内美術作品展に出品してみようかと思っていたのだが、そのために君に見て貰うことをためらったのである。何だかあべこべだと思わないかね。


(Ted)

(続)1952年9月14日()雨 [1]

 「夏空に輝く星」を書く前に、ぼくは君が与えてくれた3通りの主人公案のうち、「青年期の云々」というのに近いものを書くだろうと書いた。しかし、それは決して「青年期の人物の女性に対する関心」に限られたものではあるまい。小説中で、ぼくはそのことを、少なくとも表立っては、問題としなかった。女性の登場は、小説の雰囲気作成上から必要とされたものに過ぎない。これに反し、Jack の作品は、女性の登場がテーマそのものだったのだ。だから、「しっかりと抱擁すべきである」という君の感想は、彼の場合にあてはまっても、ぼくの作品にはあてはまらない。君の書いたことは誤解とまでも行かないが、もっとテーマの中心に触れて貰いたかった。――こんなことを書いていては、作品よりもその弁明の方がおおげさなものになりそうだが。――

 「のらくろ」の漫画で、ぼくが最もヒューマニズムを感じたのは、どんなところだったと思うかね。といっても、はなはだ薮から棒の話だ。われわれがそんなものを読んだのは、よほど以前のことだから。田河水泡のあの漫画は、大部分が失敗の生みだす滑稽さで笑わせるものだが、ときには、主人公の「のらくろ」に、非常に人間的なところが見られたように思う。(君が新しい映画の紹介を書いてくれるのに、ぼくがこんな古い話を引っ張り出すのは悪いが、少しがまんして読んでくれ給え。)まだ士官でなかった頃の「のらくろ」が、何かの失敗をして自分の部屋へ帰り、「床を敷いて寝ちまおう」とつぶやく場面があった。自分がいかに軽はずみであったかを反省もしないで、寝てすべてをまぎらわせるのは、理性的には非難したくなる行為だ。しかし、ぼく自身、「のらくろ」と同じ気持に陥りかけるのを感じるときがある。それでも、そういうときのぼくは、むしろ理性が平常よりハッキリと目覚めていて、すぐにその気持を食い止めるから、「のらくろ」のように寝てしまいはしない。[2]

 引用時の注

  1. この日、ノートを交換していて、正編の方は紛失したノートに記されていたのである。

  2. 家族と一緒に間借り暮らしをしていれば、風邪を引いたのでもなくて、昼間から勝手に「床を敷いて寝ちまう」わけにも行かなかったであろうが。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/23/2005
 Ted さんに先に、「赤れんが博物館」の写真を掲載されてしまいましたね。私もいずれ掲載いたします。この博物館は、貴重なものでしたね。こうした中規模の博物館・美術館でよいものが、国内旅行で行く各所にあるので、こういったところに私は日本のこれからの文化財が期待できるように思っています。
 今日の交換日記はどちらも面白かったです。Sam さんの「自己の対面に対する恥」が何かと思いましたら、ふと絵が描きたくなって本気で描いてみたら…ということでしたか。Sam さんは明るく快活な思考をされますね。
 Ted さんの日記も、よく共感できます。女性の登場が最重要な小説を書いたわけではない、というのは、よくわかるのですね。私も小説を書いていた頃、異性をどうしても恋愛の気持ちを通して登場させないと、純文学として成り立ちにくい、という意識はありましたが、表現したい主題はいつも別のことでした。私のブログもある意味、そういった主題をもつものなのです…愛のかけひきではまったくありません。先生はお判りでしたでしょうか。

Ted 06/23/2005
 赤れんが博物館へ行かれましたか。私たちの小旅行は、風景を見ながら歩くことが主な目的で、博物館の中は見ませんでした。
 由名さんのエコログは、愛の「かけひき」を書いておられるとは思いません。しかし、かなりの程度、愛に関わっているように思われますが…。

Y 06/23/2005
 毎回、書いているうちに、普遍的なテーマや私なりの考えにつなげられるように、と思っています、でないと落ち(結末)がつかないのです。個別な事柄に注目されるか、底流となっている普遍的な事柄に関心をもたれるかは読まれる方しだいということで。友人なども話に出せば、より幅広い愛についても書けるのでしょうが、許可を得るわけにもいかないと思い、出てくる人は限られることになっています。

Ted 06/23/2005
 そうですね。ブログは公開している限り、「普遍的なテーマや私なりの考え」につながるように努めることが重要です。そうでなければ、ウエブの世界は雑文の掃き溜めになってしまうでしょう。

2005年6月22日水曜日

エム・ワイ君からの感想(2005年5月分)


写真は近くの中の池公園へよく来るアオサギ(2005年6月19日写す)。

 さる6月20日付けで、M・Y 君から "Ted's Coffeehouse" 5月分への感想文を貰った。同君の了承を得て紹介する。長かったので部分的割愛を考えたが、ごく一部を除くに留めた。青色の文字をクリックすると、関連ページが別ウインドウに開く。




1. 随筆

(1) 憲法記念日に思う

 この論旨には賛成です。「日本国憲法9条1項は1928年パリ不戦条約以来の国際的流れ…、憲法にうたうか、うたわないか、によることなく、各国が守らなければならない内容である」としてパリ不戦条約第1条が挙げられています。このことを始めて知ったので、『岩波基本六法』で日本国憲法 第9条を見ましたら、参照条文として「戦争放棄ニ関スル条約(不戦条約)」がありました。[1]

 パリ不戦条約については世界史の読本には、ほとんど記述がなく、『世界の歴史14』(中央公論社)の「社会主義と民族主義」の項に「一方、ポアンカレー内閣に留任したブリアンによて、「ロカルノの太陽」はさらに新しい光をくわえた。それは、彼とアメリカの国務長官ケロッグとが主唱者となって結ばれたパリ不戦条約(ケッログ・ブリアン協定)である」と記述されていました。

 これを見てマルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』の次の場面を思い出します。ジャックがインターナショナル(革命運動)に身を捧げ、第1次世界大戦勃発時不戦運動をしていたフランスの同志(ドイツの同志も同様)が次々と愛国的社会主義者に変貌し動員令に応じて行くことに絶望しますが、あきらめず、最後の手段として、身を賭して独・仏軍が対峙する最前線上空で独・仏語のアジビラをまく計画を実行します。

 「フランス人諸君よ、ドイツ人諸君よ! 諸君は人間だ。諸君は兄弟だ!…一斉に立て。そして戦争を拒絶せよ! 各国にたいし、平和の即時樹立を要求せよ! 一斉にたて、明日、日の出とともに!」(山内義雄訳)という大量のアジビラを準備し、スイス国境の丘の上で同士の操縦する飛行機と待ち合わせ、払暁に北西へと、愛するジェンニのことなど思いながら飛び立ちます。無念なことに、飛行機はフランス前線上で墜落し、ジャックは重傷を負い、スパイと疑われ、司令部に搬送される途上で本人の要求により射殺されます。不戦運動はこの時代にはヨーロッパの希望の曙光だったのでしょう。

 アインシュタインの原爆に関することば に引用されているアインシュタインの言葉の結びを読むと、彼が生きていて、日本の憲法9条を変える動きを聞いたとすれば、本当になんといったかと思わされます。

(2) 靖国問題とは

 このたびの国会で岩国哲人衆議員議員が「天皇が一度も靖国参拝をしておられないことをご存知か」との質問をしているのを、たまたまテレビの国会中継で見ました。私もかねてから靖国問題でこの点を皆がどう受け止めているかと思っていましたので、岩国議員が国会でこの指摘をしたことに共感を覚えました。

 その後6月3日付け朝日新聞の「一から分かる靖国問題」に、天皇の戦後の参拝記録表があり、「75年11月を最終に参拝は途絶える。理由は明確でないが、78年のA級戦犯の合祀と関連しているとの指摘がある。今の天皇は89年の即位後一度も参拝したことがない」とありました。6月14日の同紙の社説「遺族からの重い問いかけ」には、「小泉首相は4年前の自民党総裁選のさなか、日本遺族会幹部に靖国参拝を条件に支援えを求めたことを認めている」とあります。

 貴君の論旨は明快で、「このような神社に首相が公式参拝するならば、日本は侵略戦争を反省していない、と外国からみられて当然である」との主張は客観的(常識的に)に認められることだと思います。

(3) 生命操作への疑問

 福岡教授が「動的な平衡系としての生命を機械論的に操作するという営為自体の本質的な不可能性を証明しているように思えてならない」と述べているような限界のある中で、生命工学(科学)はどのようにして健全な進歩を遂げていくのでしょうか。

(4) 人磨呂文学の最高峰

 私は先の貴君の書評 [2] にあった『英語でよむ万葉集』を読み、万葉集の今まで知らなかった世界が広がりました。今回の「人磨呂文学の最高峰」は、四方館さんの引用になる人磨呂の衝撃的な刑死説と人磨呂のみまかりし時に読んだ妻の歌、そして、リービの著書からの人磨呂が妻の死を悲しんだ歌を構成要素として、人磨呂にまつわる話題を提供しています。その上で、人磨呂は皇子皇女の死を悼むために最大級の「公」の挽歌を創りだしたが、彼の文学の最高峰は「私」的な挽歌にある、というリービの考えを簡潔に紹介した秀れた一文だと思います。

2. 写真

 5月はバラの季節。赤、白、黄、色々な美しいバラを楽しみました。浜寺公園の「ばら園」は昔ながらの風景の中にバラの彩りを取り入れた日本庭園をコンセプトしたとのこと。普通、薔薇といえばイングリシュガーデンなどを連想しますが新しい発想ですね。二城下町への小旅行の琵琶湖湖畔にある長浜と彦根は、私の知らないところで、説明付きで興味深く拝見しました。旅行をさぞ楽しまれたことでしょう。浜寺公園の睡蓮の写真(「ワン、ツゥー、スリー、フォア、ポプラがゆれる」の記事中)は、光の差しかたなど、モネの睡蓮を思い出します。庭のシャクヤク、植木鉢のユリ(「ああ何ということ!」の記事中)など、四季折々の花、楽しみですね。

3. 交換日記

(1) 「夏空に輝く星」 [3]

 表記小説のウエブ版序文に「主な筋は全く創作であるが、細かい挿話や詳細な描写には、日記にあった記述を縦横に活用した」とありますが、このことは、この日記を読むとよく理解できます。ことにSam(里内敏夫のモデル)の果たす役割と言動が。小説は7月28日から8月15日の20日足らずで書き上げられた、とのことですが、Sam は7月28日の日記「胸がどきどきして」に、Ted の書く主人公の性格について3件の提案をしています。これに対し、Ted は各提案について真摯に自分の意見を述べ、主人公の性格を方向付けています(7月31日の日記「宿題の小説の主人公」)。

 小説の中に、主人公の稔が、ものの見方や絵と自己の感情についての示唆を得るために、敏夫と一緒に女主人公の宏子を訪ねる場面があります。しかし、Ted が Sam と一緒に Minnie に会いに行ったのは、日記によると小説を書き終えた後の8月16日(ああ何ということ!)のことです。そこには、「われわれは二人で行き、すべての話は Sam がしたけれども、Minnie や彼女の母は、ぼくが一人で行ったように感じなかっただろうか。…… Henry David Thoreau のことばを、ぼくは自分の小説の中で肯定した。また、彼女の家を辞するとき、それが正しかったと思った」と記されています。とすれば、創作の時点では小説中の情景は想像だったのでしょうか [4]。それにもかかわらず、内容がよく類似しているので、関心を惹かれました。引用時の注に、「小説を書いたあとで、なお、そのモデルについてもっとよく知りたくなったかのようだ」とあり、なるほどと思いました。

 この訪問を実行するにあたっての関連記述としては、Sam の7月26日の日記「総天然色漫画」に、「Ted が休暇になるとは、こんな問題を持ちだすのは何に起因するか?」とあります。また、Ted の8月3日の日記「愉快に過ごすための…」には、「Sam と対等で実行したい、と書いたね。だから、もしも Sam が、そこへ行こうという意志と、行って何かを得たいという意志において、ぼくと同程度でなければ、今度の場合、われわれは行くことが出来ない」とあり、引用時の注にも、「さんざんちゅうちょしながらも後日実行した件についての記述」とあり、Minnie と会うことの障壁の高さがうかがい知れます。

 8月14日の自作小説への反省において、「悩みは悩みらしくなく、解決は解決らしくなく、中心事件なく、まとまりなし、というないないづくしがこの小説かもしれない」と、Ted は自ら述懐しています。しかし、「序」に簡潔に書かれた小説化の趣意に基づいて、緻密な構成のもとに、日記と日常の自己向上のための思索や交友の様子などの実体験を縦横に活用して、物語りは展開されています。思索にやや難解なところもありますが、小説化の趣意が格調高く表現された名作だと思います。ホームぺージの日本語インデックス・ページに引用されている F・N さんの感想に、「みずみずしく鋭敏な青春時代の精神生活を、もう一度垣間見る思いで読みました」とあるのは、その証でしょう。

(2) 海水浴

 Ted も Sam もそれぞれのクラブのメンバーと日を違えて海水浴に行っています。Sam の7月27日の日記「海水浴」には、彼の場合の情景が生き生きと描写されています。Green とのリンゴの投げあいの場面、帰りの込み合ったバスの後ろから Green を見て受けた感じ、『別れるとき、「サヨナラ」といったが、これで、よほどの偶然がないかぎり、一カ月ばかり Green とは会えないのである』と、快く思っている女性への思慕が率直に表現されています。他方、Ted の8月1日の日記「波と雲の白、水の緑と青…」には、「着いたときも一度大雨が来たが、あとはきれいに晴れ上がって、波と雲の白、水の緑と青、砂の白と茶色、それらがわれわれを十分に楽しませてくれた」とあります。前者は積極的かつ感情をこめて、後者は客観的に淡々と、記しており、両人の性格が現れているようです。

(3)「オリンピック賛歌」の和訳を英訳

 当時の放送技術レベルが分かって面白いし、うまく訳された英文を読み、このような賛歌があったのかと当時のことを思い出します。戦後日本が初めて参加したヘルシンキ・オリンピックですね。古橋が400m自由形決勝で第八のコースで泳ぎ、フランス若手のボワトがアメリカの紺野を抜き優勝し、喜びのあまり、父親がプールに飛び込んで抱き合ったこと、そして、古橋は8位、その夜ひとりで、宿舎のベランダに出て月を眺めていたということに、何となくしんみりとさせられたものです。もう一つ前のロンドン・オリンピックに日本が参加出来ていたら、日本の水泳は大きな花を咲かせただろうと思うと、賛歌の "To win is a great thing but to join in competition is a much greater thing." のbut以下の句は白々しくも聞こえます。

 引用者注

  1. パリ不戦条約の条文等についてはこちらを参照されたい。

  2. 『英語でよむ万葉集』を読む:鹿の妻恋にも名訳 (Ted's Coffeehouse, March 20, 2005).

  3. 6月中のブログに引用した高校生時代の交換日記には、私が高校2年生の夏休みに、国語の宿題として小説「夏空に輝く星」を書いた経緯が出てくる。M・Y 君は、ここでその経緯を引きながら、小説自体への感想も記している。

  4. Sam と私の Minnie 訪問は、1年以上前の、高校1年生の春にも実行されており、小説はそのときの様子を参考に書いたのである。

舞鶴市政記念館 / 2番目の Vicky にさえも完敗


舞鶴市政記念館

 舞鶴市に、12棟の赤れんが倉庫群が歴史的建造物として残っている。現存する日本のれんが建造物の中でも、貴重な近代化遺産の建造物群である。その一つである市政記念館(写真)は、1902年に、旧海軍の兵器廠倉庫(砲銃庫)として建設されたもので、戦後は、市庁舎の一部として使用されていた。1994年10月、芸術・文化の交流の場として生まれ変わり、舞鶴市の歩みの展示コーナー、市民サロン、ホールを含む。国の有形登録文化財。(参考:舞鶴市・舞鶴観光協会「舞鶴・港町浪漫:舞鶴観光ガイドマップ」)

2番目の Vicky にさえも完敗

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月12日(金)雨

 停電。ロウソクの光で書いている。殺人的な停電だ。

 昨年のように掲示して発表はしないそうだが、国語では、別クラスで2番目の Vicky にさえも完敗していた。われわれのレッスン・クラスの90点台も2人いた。もう1人は YMG 君だったが、われわれはどちらも、SN 君のクラスの90点台には劣っているのだ。[1] SNN 君や Twelve は、どうして振るわないのだろう。

 これでは、小学生の社会探訪だ。まあ、仕方がない。金大の学部長連は、きょうは都合が悪いそうだったし、自分で決めた締め切りは守らなければならないから。

 宇治拾遺の「いもがゆ」の主役は誰か。

 自分の思索が究極においては、誰のものよりも優れたものであり得るという、半分うぬぼれたような考え…。

1952年9月13日(土)曇り

 無為にして治まっている国の女王のようにはしゃいで…。決してうまく行っているのではないのに。もしも、どれだけかのことが出来るとすれば、それは編集長以外のメンバーの努力のお陰だ。

 引用時の注

  1. たかだか5、6点の差に、ずいぶん残念がったものである。

2005年6月21日火曜日

北吸トンネル / ヘルシンキでの日本水上選手のよう


北吸トンネル

 京都府北部への小旅行の最終日、東舞鶴駅付近を散策した。まず見たのは、レンガ積みの北吸トンネル(写真)。舞鶴線から分岐して、鎮守府のあった余部地区へ向かっていた軍港引き込み線跡に、そのまま整備され、残されている。この線は戦後、中舞鶴線と呼ばれ、市民の足として活躍したという["舞鶴・加悦:汽車旅の追憶" JR 西日本ジパング倶楽部『旅の雫』誌 Vol. 21, No. 6, p. 5 (2005) による]。

 上記雑誌の記事には、トンネル内の美しい写真が掲載されていて、内部もすべてレンガ積みであることがよく分かる。そのような写真を撮るには、大型の照明装置が必要だろう。

ヘルシンキでの日本水上選手のような

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月11日(木)曇りのち雨

 ヘルシンキでの日本水上選手のような自分を感じる。試験でのわずかの差は、限られた1時間中の少しばかりの頭のひらめきの差かも知れないが、とにかく、女生徒に負けたのは悔しい。SN 君の国語のレッスン・クラスに96点と94点がいたと聞いたのだ。94点のVicky にはどうか分からないが、96点の FR さんという、われわれと同じく奨学金を受けている女生徒には、負けているに違いない。オリンピック風にいえば、この種目の金メダルは昨年通り取れるものと思っていたが、日本人が古橋選手にかけたような期待を自分自身にかけていたようなことになった。

 HM 君から葉書が来ている。昨日の不在の詫びと、日曜日に来てくれということが書いてある。「わが生涯の最も華やかなりしときのことを思い出して話したい*」だと! それは好ましくない。断然いけない。第一、そういうバカなことがあるものですか(これは新聞部先輩 KN 君の口癖だ)。彼に KW 君の「われら若人には、とやかくいう過去はない」という言葉を聞かせたい。はなはだしい考え方の相違だ。そして、KW 君の考え方に従えば、HM 君は「現在と将来に対する不忠実な」人間だ。われわれ(HN 君とぼく)は、彼の招待に応じる代わりに、彼のこの考え方を改めさせたいものだ。

 「リンゴの歌」よりも意外 [1] なものは、英単語のアクセントだ。中学生時代、AR 先生に習った instrument という単語は、第2音節にアクセントをおいて豪も怪しまなかったのだが、第1音節におくのが正しいのだった**。校長先生は、きょうも traverse を 第2音節にアクセントをおいて読んでおられたようだった。Twelve が持っていた大きな辞書でも調べたが、確かにアクセントは第1音節にある。

(Samの欄外注記)
* 映画「思春期」の春雄のような感じがする。ぼくならば、一応聞きに行くね。頭ごなしに捨ててしまってはだめだ。実際に聞いて見なければ。Ted のエマーソンの言葉の適用は、好き嫌いがあるらしいね。
** ぼくは初めから、そう聞いて、そう思っていた。


 引用時の注

  1. 作詞:サトウ ハチロー、作曲:万城目 正
    1.赤いリンゴに 口びるよせて
      だまってみている 青い空
      リンゴはなんにも 云わないけれど
      リンゴの気持ちは よくわかる
      リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
     この歌の「リンゴの気持ちは」の節回しにおいてだけ、「リ」が長く、「ゴ」が短いのが意外に思われる、という趣旨のことを以前に書いたのである。


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/21/2005
 このように、明確な点数でひそかに惜しい思いをする時代が懐かしい、というよりは、あれはあれで厳しい毎日ですよね。いまは自分で抱える厳しい基準がありますし。
 どうして、「わが生涯の最も華やかなりしとき」について思うまま語らせてあげるのはよくないと思われたのでしょう? そんな一人舞台は、目の前で聞いていても楽しいと思うのですけれど。「若人にはとやかくいう過去はない」とのことなんですが、幼少期のときめく思い出を語るのが得手な作家は私は高く評価しているんです。

Ted 06/21/2005
 私は、HM 君が高校生の年齢で、中学生時代(その頃、彼は勉強のかなりよくできる少年でした)あたりのことを「わが生涯の最も華やかなりしとき」という表現をするのは、警察の厄介になっているらしいことも考え合わせれば、将来に向かって自分を向上させる意欲をなくしているのではないかと思い、それを反省させたいものだという気持を書いたのです。彼の話を聞きたくない、ということではなかったのですが、Sam にも、話を聞きたくないという意味に取られました。「招待に応じる代わりに」と書いたので、無理もありませんが。

2005年6月20日月曜日

田んぼ脇のハナショウブ畑 / 元上司への礼状


田んぼ脇のハナショウブ畑

 一つ前の記事で紹介した綾部市の「小さな水車」の場所から、もう少し用水路沿いの道をたどると、右手に写真のようなハナショウブ畑があり、ちょうど花盛りだった。

元上司への礼状

 私が最初の職場で最も世話になった元上司、S・O 博士から、先日「邯鄲一炊の夢(続):生命の発生、エイリアン、宗教」("Identity for Myself" No. 7 掲載)という文の別刷りが送られてきた。A4版7ページで、終りの2ページには、パリのノートルダム寺院、モスクワのノボデビッチ修道院、ヘルシンキ大聖堂、イスタンブールのブルーモスク、奈良の薬師寺の美しいスケッチと簡単な説明がついていた。昨日、苦心して、下に引用するような礼状をしたためた。

 なお、昨年のいまごろ貰った「邯鄲一炊の夢」正編の副題は、「神はおわすのか」であり、その趣旨は、最近の物理学や宇宙物理学の知見を眺めても、物理的世界観がいずれ宇宙のすべてを統べる法則を見出すだろうと期待した O 博士の夢は、まだまだ実現しそうにない、というものであった。




2005年6月19日
S・O 様

 拝復

 梅雨入り宣言後、近畿では雨が少なく、水不足が心配なこの頃です。

 先日は「邯鄲一炊の夢(続)」をご恵贈いただき、まことにありがとうございました。正編をお送りいただいた折のお便りに、次に「生命の発生」と神の問題を取り上げてみたい、と書いておられましたが、それをこれほど速くまとめられるとは予想していませんでした。地球上の生命の科学だけでなく、地球外生命の探査や、地球上での民族紛争、ヒトの滅亡後の話まで盛り込まれた O さんの広い視野には、いつもながら敬服させられました。

 私も、宗教は、人間の文化活動の一端として尊重するにしても、非科学的な考え方や紛争のもとになっているところを好みません。他方、宇宙の法則を神と呼ぶならば、それは存在するものと思っていました。しかし、今や、物理定数が必ずしも定数でないとか、定数が全く異なった値になっている別の宇宙が無数にあるかも知れないといわれています。そうなれば、このような神の存在さえも疑わしくなって来ます。

 お手紙にありました「ヒト属の途絶えた地球」を考えれば、確かに空しい感じがしますが、その空しさが予想されるからこそ、ヒトはつまらない紛争をやめて、今をよく生きるべきではないかと思います。

 同封の写真は、O さんの感化を受けて、私が最近始めました水彩画の作品(6号サイズ)を撮ったものです。[以下、絵の詳しい説明の引用は省略]

 これから蒸し暑い季節が続きます。くれぐれもご自愛のほどお願いいたします。

 敬具

 T.T.

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/20/2005
 物理学の先生が、これだけ広い視野で考察を続けておられるのですね。私自身も、(遅々たる歩みですが)研究活動は広いテーマも目標に据えた夢のあるものだなぁと思えてきた昨今です。それは研究者にとっての普遍的な愉しみではないかと想像します。
 私自身は、物理学で神の法則を押さえてほしいというよりは、むしろ科学と非科学的なものとが別個に尊重されたほうがいいのではないか、と思っていますが、当然両者を包括したり、すべてを体系付ける考察はなされていくべきだろうとも考えています。こうした考察は、長年の業績のある方にしか、ほとんどなしえないことだろうと思うのですが、Ted さんはいかがお考えでしょうか。
 先日、福祉の実践分野の年配の責任者の方が、福祉の「科学性」が高められるべき、とのお考えを私に示されたので、時代の流れは感じました。

Ted 06/20/2005
 西欧式科学にはなじんでいないけれども、いろいろな民族が古来からの経験に基づく知恵として重んじている行き方などは、非科学的といって無視するのではなく、科学の目で見直すことが必要だと、私は思っています。これは、Y さんのいわれる「科学と非科学的なものとが別個に尊重されていくべき」というお考えと通じるところがあるのではないでしょうか。

小さな水車 / 絵画の主観と客観


小さな水車

 先日の京都府北部への小旅行の2日目に、由良川にかかる位田橋を渡った後、「綾部ふれあい牧場」へ向かった。しかし、どこかで「駅からはじまるハイキング MAP」指定の道からはずれてしまった。地元の人に出合ったので、牧場への道を尋ねると、牧場は廃止になり、乗馬クラブへの転身工事中だという。牧場の焼肉レストランで昼食をするつもりが、食いはぐれたかと思いながら、ともかく牧場跡へ行く。焼肉レストランは健在で、助かった。かつての牛舎には馬が一頭いて、付近は整地中だった。乗馬クラブよりも、牧場の方が幅広い年齢層の人びとに親しまれてよさそうに思えるのだが、経営不振となったのだろうか。

 京都府立農業大学校横を通って由良川土手沿いまでの帰路、「のどかな田園風景の中に小さな水車がまわっている」と、上記「MAP」に紹介されている水車を見つけた(写真)。どこかの地区で観光用に水車をいくつも復元した話が、最近テレビで紹介されていた。この水車もそれらと同じく、用水から水を汲み上げて田へ供給するタイプのものだが、ずっと小型で1機だけしかない。いじらしく、汲み上げた水を用水へ戻す作業を続けていた。これも観光用なのだろう。

絵画の主観と客観

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月10日(水)晴れ

 髪を三つ編みにして登校している女生徒が、ときとしてふさふさと垂らしたまま出て来たのを見ると、こんなにも沢山の髪が彼女の頭にあったのかと思うことがある。それと同様な感じを与えて、先日来の雨のあとの初秋の日光が、意外に輝かしく降り注ぐ午後だった。3時過ぎに電車に乗り、歩き、尋ね、がっかりし、再び電車に乗り、降りて少しばかり歩き、わずかの間探し、しばらく躊躇し、「都賀田先生いらっしゃいますか」といい、そして、山の方へ仕事に行かれ、4、5日帰られないと聞いて残念がった。せっかく沢山の質問を考えて行ったのがフイになるとは、どう思っても残念だ。訪問記事のための代わるべき人物を考えなければならない。

 HN 君が、HM 君の家も弥生町だったから探して寄って行こうといって、交番で彼の家を尋ねたが、ボックスの中でラジオを聞いていた巡査に、「ふん、HM YK [1] か。何しに行くのだ。どこの学校だ」と尋問されてしまった。それでも、家は教えてくれた。交番を出てから、HN 君は「YK って知っとるとは驚いたな。どうせ、あんなところの厄介になっとるがやろ」という。都賀田勇馬氏が先頃製作した鳩を抱いた少年像のある弥生小学校を右に見て進むと、新しくてしゃれた、合理的設計の HM 君の家はすぐに見つかった。呼び鈴を押すと、横の窓から、子どもたちにグリム童話でも読み聞かせるのがふさわしいような顔と服装の彼の母が上半身を現して不在を告げたので、また、がっかりしなければならなかった。

 昨日の北国新聞夕刊に「"何が描いてあるか" から "何を感じるか" に」という見出しで、絵の見方に関する記事が載っていた。その中にあった、この頃の画家は「"何を描くか" という写真の代役的なものから "何を表現するか" という主観的なものになっ」たという言葉は、ぼくに一本の針を突き刺した。「夏空に輝く星」の中で、ぼくは、稔に芸術の客観性を肯定させた。少なくとも、させたつもりだ。しかし、ここには堂々と「主観」の文字がある。「要するに現代の絵は作画の動機がつねにハッキリしており、画家の精神が画面に踊っている」とも書いてある。客観といっても、作意が現れないということを意味したつもりではないが――。難しい。主観・客観ということ、そのものが分からなくなって来た。古代ギリシャの哲学者プロタゴラスは「主観の絶対性を強調して客観的真理の存在を否定し」たそうだ。

 引用時の注

  1. YK は HM 君の名。「HM という家」を尋ねたのだが、巡査は彼の名まで知っていたのである。


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/20/2005
 芸術において客観性は、あると思うのです。音楽でも、非常に客観性の高い音楽として評価したくなる音楽があります(特にクラシックの演奏)。このときの「客観性」とは何か、とは、なかなか理論的に言明しにくい、難しいテーマだろうと思います。
 絵画だと、主観的な伸びやかな表現の中にも客観的な指標が踏まえられている絵画、といったふうになるかと思いますし、主観の可能性が推し進められたからといって、絵画が客観性を必ずしも失うわけではないでしょうね。ただ、「客観性が高い」と「観る人のことをよく配慮した」とは別な評価基準だと私は捉えています。なかなか表現しにくいですね。

2005年6月19日日曜日

Sam と Ted の合作


 左のイメージ内の左側の幅広いスケッチは、下に引用の交換日記の9月9日付け部分に一部削除するため貼り付けた画用紙の切れ端の一つに、後日、私が間借りしていた部屋(二階)からの眺めを描いたもの。向かいは製材所で、多くの木材が立て掛けてある。左下隅に、10月26日を意味する「10.26」の文字がある。

 右側の幅の狭い絵は、相対するページに貼付してあった画用紙のもう一つの切れ端に、Samが想像で描き加えたもの。こちらの絵の上部の薄茶色は、画用紙の黄変などによる。二つの画用紙の切れ端が別ページにあり、それらの位置が絵の上下方向にずれていたため、電線の間隔が合うようには描けていない。なお、私の絵の右下がりの電線の右端は、その急な下がり具合から、Sam が描いたように近くの電柱につながっているのではなく、家へ引き込まれているものと思われる。

 Samは欄外に次のように記している。

 平凡だが、これを次ページの絵の右に加える。想像して描いたものだ。こうして並べてみると、君の描き方の巧いところが分かるね。


 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月8日(月)雨

 充実とは、いかに美しく愉快なことであるか。また、それを得るには、いかに強い忍耐を必要とすることであるか。

1952年9月9日(火)雨

 『菫台時報』の「門を叩く」欄の取材ために、明日、もと日展審査員の都賀田勇馬氏をHN君と一緒に訪問することになった。[1]

 内容に支障はなかったが、表現が気に入らなかったので消す。[2]

 「民衆的な力強さ。」どうしても、そのような表現はできない。それもそのはず、これはトルストイの表現についていわれた言葉だ。しかし、例え文学でなくても、文字で何かを表そうとするときには、そういう表現が出来るようでありたいと思う。この言葉は、まっすぐな倫理と盛り上がる意志と的確な判断をなし得る知性と、まだ他にも挙げられるだろう優れた社会人の持つべきすべての要素を含んだ、文を書く人の人柄、そして、表現の飾り気のなさ、豊富な観察による平凡な言葉の巧みな配列、そうしたものを感じさせる。

 引用時の注

  1. 都賀田勇馬氏は祖父の小学校での教え子である。牛の塑像作成で著名であった。学業が必ずしも得意ではなかった都賀田少年を、祖父は次のように励ましたと語っていた。「何でもよい、自分のできることで、日本一の者になれ。たとえば、日本一の車引きもよいではないか。」

  2. 20行にわたって、画用紙を切り取って貼り付け、消してある。

2005年6月18日土曜日

由良川再見 / 「秀作」の絵が理解できない


由良川再見

 6月12~14日の小旅行の2日目は、綾部を散策した。前日、福知山で見た由良川にここでも出合う。写真は、綾部市内の中心部を横切って流れる由良川の、位田橋からの眺め。近畿地方は11日に梅雨入りしたばかりで、しかも、12日からもう梅雨の中休み状態だったが、由良川の水量は豊かだった。

「秀作」の絵が理解できない

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月7日()雨

 全体を2回見てから、HS 君の絵を理解するまで動かないつもりで、その前にたたずんだ [1]。灰色と藍色と茶色と黒。不可解だ。もしも、彼がそこにいたならば、「これは一体何かね」と聞きたいくらい不可解だ。しかし、聞いても分かるまい、何とあっても、自分で理解しなければ、と思って、全精神を目と頭に集中した。左にある下に長いもののついた丸いものは樹のようだ。真ん中より少し右に三角形のものがあり、その下に黒い坊さんの頭のようなものがある。墓場かも知れない。…こう思っていたとき、不意に「こんにちは」という声が精神を散らした。HZ 君 [2] だ。前に自分の絵を見に来たときに、その隣りの隣り辺りに彼の絵を見出したのだった [3] が、その彼と一緒に同じ場所で絵を見ることになろうとは!
 「これにいらっしゃった?」と彼はいった。油絵講習会 [4] のことだろうと思ったから、「いいや」と答えた。そして、HS 君の絵から離れて、彼と後になり先になりして、もう一廻りした。廻り終ってから、彼は「行きますか?」と聞いた。うなずいて、一緒に会場を出た。淡緑色のタイルや縁に取り付けてある金属に一歩一歩下駄を打ち付けながら、ゆっくり階段を降りた。4階、3階、2階、1階…。何も語ることなく降りた。出口へ来ると、彼はまた不意に帽子を取って「さようなら」といった。ぼくは最初と同様に驚いて、首をわずかに動かした。そして、別れた。[5]
 HS 君の絵が完全に理解できない。ひげを剃ったあとのあごをなでるときにかんじるような、よい手触りを絵の境地において感じるために、ぼくは何を刈り除いてそこへ到達しなければならないのだろう。「秀作」の金紙のついた彼の作品に接して、何も感知できなかったからといって、トルストイがいったように「万人に理解出来ぬような芸術作品は無価値である」とはいえない。理解できないのは、それに接する者が、理解に到達し得るほどに訓練されていないということに過ぎないのではないか。

 引用時の注

  1. HS 君は絵の道に進んだ中学校の1年後輩だったか。同年代の人物が描いた抽象画を初めて見て、驚いたのだろう。最近の私は抽象画も好んで見る。この日に書いているように、「理解」しようとはしないで、味わっている。

  2. HZ 君については、前に登場したときにも説明しているが、彼と私は七尾市の小学校で隣り合うクラスの級長同士だった。

  3. 中学3年生のとき、私の絵が海外との交換のための絵(イーゼルペイントという商品名の、油絵風に描く水彩絵の具を使うことが条件になっていたと思う)のコンクールの石川県予選・中学生の部で金賞2作品の一つとなり、金沢市の大和デパートへ見に行った。そこで、七尾の中学校にいた HZ 君の絵も入賞していることを知ったのである。

  4. この日見に行った展覧会の主催団体による講習会の広告が近くにあったのだろうか。

  5. このとき HZ 君は金沢大学附属高校へ行っており、その後、彼に会うことはなかったかと思う。彼と私は、それぞれ、関西の隣り合う都市にある大学の理学部へ進むことになった。近接し平行していながら、深くは交わらなかった私たちの歩みであった。


 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/18/2005
 そうですね、理解しようと思うと、絵の意図や完成度に到達すべく「ぼくは何を刈り除い」たらいいのだろう、とまで悩んでしまいますよね、そういった絵は。むしろ観ることで私たちの何かが「刈り取られる」という受身的な体験であろうと思うのですね。あるいは、やはり相互作用でしょうね、絵の鑑賞は。

Ted 06/18/2005
 絵に対面すれば、まず、感動を喚起されるという受け身から始まって、積極的に分析したり味わったりするという能動的な鑑賞へ進むことも出来ます。これを総合すれば、Y さんのおっしゃるように、相互作用です。鑑賞に理解が必要な場合もなくはないでしょうが、意味よりも感動を提供しようとしている作品を、理解しようと努める必要はないはずです。それにもかかわらず、展覧会場などで抽象画を前にして「こんなのは分からない」といっている人たちを多く見かけます。こういう私にも、抽象画と出会って、「理解できない」などといっていた日があったのです。

四方館 06/19/2005
 昭和27年ですね、この頃すでに高校美術も抽象化の傾向が強まっていたのでしょうね。私のは後追いの知識ですが、昭和30年代には高校美術の全盛を迎えていますね。具象もアンフォルメルを非常に強めていった。
 絵をどう観るか、どう感じ取るか、自分なりに掴めていったのは、やはり高校を出てからですね。それまでは、抽象画なんか出会いがしらの事故みたいなものです。いきなり頭をポカリと殴られたようなもので、訳わかんないって。その訳を求めるからダメなんだってことに気づくのは、美術手帖なんかを読むようになってからです。

Ted 06/20/2005
 四方館さんは後追いでも、よく勉強しておられます。私は、自分で描くことも好きながら、絵について系統立てて学んではいません。

2005年6月17日金曜日

池のなくなる三段池公園 / デカンショ


池のなくなる三段池公園

 福知山市内にある三段池公園(写真はその一部、2005年6月12日撮影)は、福知山藩主・松平忠房が手がけたとされる三段池を中心とした総合公園。周囲1.3 km の池を中心に、数万本の松、ヒノキが周りを取り囲み、その林の中に、サクラやツツジなどの四季の花が彩りをそえる、と説明されている(JR 西日本「駅からはじまるハイキング MAP(46)福知山コース」)。しかし、先日訪れてみると、池はほとんど干され、工事が進行中で、工事完成予想図には、池の代わりに広場ができることになっている。大きな池を壊して、自然の豊かだった公園の生態系に影響はないのか心配であり、なぜそういう計画をしたのか不思議だ。三段池がなくなれば、この公園の名称もナンセンスとなる。

デカンショ

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月6日(土)晴れ

 きょうのアセンブリーの時間が、文化委員長で3年生の NG 君とぼくの関係を、道で会ったときに先方から「さっきはご苦労さん」と声をかけて貰えるようなものにした。いままでのぼくは、彼を見るたびに、わだかまりを感じていた。というのは、彼は放送文化クラブの長でもあるので、1学期にそのクラブの記事を作るための資料を提供して貰うべく、何項目かの質問を書いて渡したのだが、その記事は先輩の HM 君が書いてしまったし、その後、ぼくは NG 君に会う機会がなく、依頼がうやむやになってしまったということがあったからだ。そのわだかまりを今年度5回目のアセンブリーが吹き飛ばしてくれた。
 スクール・クイズというのがそのアセンブリーの内容で、司会は NG 君だった。各ホームからの出場者が、理数科、社会科、体育芸能科の三つに別れた箱の中からおのおの一つを取って、3科目とも答えられれば卒業ということになるのだ。棄権したホームが多く、出場者は10名ほどだったが、卒業単位取得者の間で優等生を決めるところまでは時間が足りなくて出来ず、3人の単位未修了者以外は、全員優等生ということになって終った。
 最初に登場した出場者は3年生の秀才の1人である SA 君で、レコードの音楽を聴き、その題名の中の1字に木へんをつけると何になるかや、たんぱく質、脂肪、炭水化物は消化されて何になるかなどを答えて、無事修了した。進適模試などでいつもよい点を取っている3年生で化学クラブ所属の HS 君が未修了になったり、次つぎに難しい問題が出たりしたので、自分の番が来るまで心配だった。
 しかし、ぼくの選んだ問題は最も簡単なものだったような気がする。社会科の問題では、2人ずつ2組の歴史上の人物の名前を聞き、もう1人ずつ誰だれを加えれば三大○○と呼ばれる組になることを答えればよかった。答は三大詩人と三大哲学者だったが、哲学者の方は、デカルトとショーペンハワーに誰を加えればよいか、しばらく考えていたら、NG 君が「昔の四高生がよく "デカンショデカンショ"といいましたね」とヒントを出してくれ、助かった。
 実は、いつか KZ 君の置き手紙の封筒に「デカンショ」と書いてあり、謎だったのだが、それが思いがけないところで解けもしたのだ。――とにかく、先方が問題を読み上げ、ヒントを与え、当方がずばりと、あるいは、かなり考えて答える、という形式的なやりとりによって、わだかまりが取れたことはよかった。――

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 06/17/2005
 哲学者のもう一人は「カント」ですね。三大詩人は誰だったのでしょうか?

Ted 06/17/2005
 私も覚えていませんが、2人いわれたら、3人目は答えられたのでしょう。三大哲学者と似た時代と地域の詩人たちならば、シラー、ゲーテ、ボードレールでしょうか。[後日の注:「世界三大:雑学大全」によれば、世界三大詩人はダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ。なお、ドイツの三大詩人は、ゲーテ、シラー、ハイネ。]

2005年6月16日木曜日

音無瀬橋 / をみなごに花びら流れ


音無瀬橋

 福知山市内を流れる由良川にかかる音無瀬橋(写真)の一帯では、8月に花火大会が開催され、10万人以上の人出で賑わうとか。(JR 西日本「駅からはじまるハイキング MAP(46)福知山コース」を参照した。2005年6月12日撮影。)

をみなごに花びら流れ

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月5日(金)曇り

 編集室で弁当を食べているとき、校内放送が、ぼくを含む何人かに生徒会室へ来るようにといっていたようだった(編集室のスピーカーは壊れて、さらに紛失してしまっている)。明日のアセンブリーの出場者の集まりに行かないでいたので呼ばれたのか、と思いながら行ったが、そうではなかった。去年、文化委員長だったときは長髪にしてもったいぶっていたのが、会長になってから坊主頭になって軽快で朗らかな感じを前よりも多く与えるようになった OK 君が、しごく丁重な態度と言葉遣いで、校歌作成(「作成」でなく「作詞」かも知れない)委員会を作ること、そしてわれわれが国語の先生からそのメンバーとして推せんされたものであること、きょうの生徒議会で承認を得ることになっているから承知して欲しいということを話してくれた。いままでに数回、OK 君の話を承ったり、彼の質問に答えたりしたが、それらはいずれも学校新聞についてであった。今回はそれに関係はないが、彼のへりくだった話しぶりには恐縮した。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす」という『平家物語』の巻頭の文の、「祇園精舎」とは何であるかを世界史の時間に聞いた。今学期はすぐにゲルマンの大移動へ入るものと思っていたら、まだ、古代のインドと中国をするらしい。1時間で、釈迦が悟りを開き、入滅し、第1回仏典結集が行われる。――こんな進み方では遅すぎないだろうか。

 国語の試験での間違いが2箇所分かった。一つは、
「あはれ花びら流れ をみなごに花びら流れ
 をみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音空に流れ
 おりふしに瞳をあげて翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍みどりにうるほひ
 廂々に風鐸のすがたしづかなれば
 ひとりなるわが身の影をあゆまする甃(いし)の上 (三好達治)」
の詩で、作者のいる所が寺院の境内であるか、寺院の近くの舗道であるか、の判断を誤っていたのだ。もう一つは、「天皇、はやくあれを死ねとや思ほすらむ」の「らむ」について、文法的説明をする問題で、上に「や」があることを忘れていたのだ。その文の横に書き込むのならば、「や」に気づいただろうが、抜き出してあったので、うっかり本文を吟味することを怠り、連体形としなかった。

 休み時間に廊下を流れるように移動しているとき、後ろから来る新聞部先輩の UN 君と KN 君の会話から、except のような前置詞は不定詞の前に置かれることがあるという exception を知った。『蛍雪時代』を探すと、"The pressure was such as left him no choice except to commit great wrongs." という例があった。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


Y 06/17/2005
 Ted さんの日記はやはり、同級生らへの細かい観察が一番面白いですね。そう、確かに、Ted さんよりはるかに遅れて、私も最近になってようやく、そういった幾分親しい情をもって割合多くの人のことを見ることができるようになった気がします。長い間の疎外感とは違う道をすっかり歩み出せたかどうかはわからないのですが、だいぶ異なるという実感はあります。私の場合は、人との出会いの積み重ねかと思います。

Ted 06/17/2005
 この日の日記にある1年先輩の OK 氏(当時は先輩も君付けで呼んでいました)のほうが、のちに新聞界で活躍し、若くして北国新聞社総務室長になっていましたので、金沢で物理学会のあった折に会いに行きました。労働組合の委員長として経営者側を鋭く攻めたので、けむたがられて早く管理職に昇進させられた、といっていました。その後、同社の社長、会長も勤めていました。

2005年6月15日水曜日

由良川 / 「あべこべ玉」


由良川

 大江山、三岳山などの山やまに抱かれた福知山盆地を、近畿北部最大の河川、由良川(写真)が悠然と流れ、その流域は京都府と兵庫県にまたがる。福知山は、戦国時代、明智光秀の福知山城を中心とした城下町だあった。「ドッコイセ、ドッコイセ」のかけ声とともに賑やかに踊る福知山音頭は、光秀を偲んで作られたといわれている。(JR 西日本「駅からはじまるハイキング MAP(46)福知山コース」による。写真は2005年6月12日撮影。)

「あべこべ玉」

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月4日(木)曇り一時雨

 サトウ・ハチローの「あべこべ玉」という子ども向けユーモア小説を小学生のときに読んだ。兄と妹が、柱時計の中だったかから赤い玉を取り出し、それに向かっておまじないをして、兄妹が入れ替わる。兄になった妹は、ヘビを使う芸をするという、兄の友だちとの約束を果たさなければならなかったり、野球の試合に出なければならなかったりする。他方、妹になった兄は、言葉遣いに困ったり、女生徒らしい作法がうまく出来なかったりするが、結局は、夢だったということになる。これは平安時代の物語「とりかへばや」にヒントを得たものだろうと気づく。
 2、3年前までは、サトウ・ハチローのユーモア小説を相当感心して読んでいたものだ。しかし、少年雑誌を読まなくなってからは、次第に彼に対する賛美の念は薄れてきた。そして桑原武夫の『文学入門』の中に「迎合文学」ということばを見つけたいま、『甚七と正太』などを書いた坪田譲治とサトウ・ハチロー(その詩は別として)の相違が理解できたように思う。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 06/15/2005
 大江山付近に鬼の資料館みたいなのがありましたね。それに、小野小町ゆかりの里も。福知山から出石へ抜けるのも、トンネルができて便利になりました。

Ted 06/15/2005
 大江山は由良川の形容に出したまでで、今回は残念ながら、その付近までは行きませんでした。

2005年6月14日火曜日

福知山城 / 試験が終りトランプに興じる


福知山城

 福知山城は、1580(天正8)年頃、丹波平定に成功した明智光秀が丹波の拠点として築いたのが始まり。明治の廃城令によって、天守閣は取り壊され、石垣だけが残っていたが、1986年に再建された。この天守閣(写真)は、望楼型の独立式を基本として復元され、初期の特徴がよく現れたものとなっているという。[JR 西日本「駅からはじまるハイキング MAP(46)福知山コース」を参照した。写真は2005年6月12日撮影。6月12日から2泊3日の、福知山ほか京都府北部への旅行については、いずれ掲載の予定。]

試験が終りトランプに興じる

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月3日(水)曇り

 われわれの通信帳を試験の復習帳のようにしてしまっては恐縮だが、きょうの試験の全失策箇所をここに書くことを許してくれ給え。
 製紙法の発明は__世紀で、8世紀の中頃それは、__、__に伝わった。漢書の著者は__。武帝が大月氏国と同盟したのは、__のためである。1世紀中頃、後漢の皇帝から金印を貰って帰ったのは、わが国の__という部族国家。ローマ皇帝の使者が始めて漢へ来たのは__世紀。中国で郡県制を確立した皇帝は__である。武帝の政治方針は____。ウパニシャッド哲学が宇宙の根本原理とするものは____。* たくさん間違ったものだ。習っていないところだから、誰もがそうだったかも知れないとはいえ、全部教科書にあることだ。記憶の不正確さと努力の足りなさとの現れでなくて何であろう。
 解析 II は3題しか出なかった。これは何も書くことがない。

 稔が殿村に会ってから、繁行の家へ行って過ごしたような午後 [1] を経験するために、Jack、SN 君と連れ立って、TKS 君の家へ行った。TKR 君たちとするときには Almighty と呼ばれる札を、TKS 君と、彼の家へ遊びに来ていた同学年の他校生らしい人物の呼び方に従って Speculation と呼びながら、「ナポレオン」をした。夏休みに東京へ行って手術して来た右腕の肘の辺りにまだ包帯をしている TKS 君がナポレオンになり、ぼくが副官になったときに、2度も perfect game を演じた。「君はナポレオンなんかになる器ではないですな」という冗談をよく口にしていた SN君 と、Speculation の発音に苦労していた Jack は不振だった。最後に12枚を指定して見事にそれを射止めた他校生らしい人物が、ちょうど合計100点を獲得して覇者となった。――稔がしたような思索は出来なかった。――

*(欄外注記)この試験は採点しないそうだ。メチャクチャ先生だけのことはある(13日記す)。

 引用時の注

  1. 夏休みの宿題として書いた私の小説「夏空に輝く星」の記述を引いている。


 前回の「試験に謎なぞが出る」に記載の英語の問題の答:"See 80." をゆっくり読めば、"C, A, T" のようになるので、 "cat" である。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


Y 06/17/2005
 Ted さんの時代の高校生は、英語も良い発音をするように努力したのですね。なんと私の時代では、ネイティヴ風に発音しようとすることは恥ずかしいと、和製英語を皆心がけていた向きがありました。なので、当時私は(そんな迎合は嫌なので)その中庸で良いほうの発音を授業でするようにしていた覚えがあります。こんな点ひとつみても、周囲の皆の同質化志向を気にしすぎて自分の成長が逃される、という時代がとうに始まっていたことがわかりますね。

Ted 06/17/2005
 いや、必ずしも皆が「英語も良い発音をするように努力した」というほどではありません。この日に Jack が Speculation の発音に苦労したと書いているのは、彼が日本語式発音においてであれ、この単語を覚えるのに苦労していたという意味です。高校生時代の日記にはあまり登場しませんが、中学で同じクラスだった岡一朗君というのは英語朗読が上手でした。彼は五木寛之夫人となった岡玲子さんの弟で、前にも書いたかも知れませんが、玲子さんは中学生時代に英語弁論大会で優勝しています。彼ら姉弟は英語のネイティヴ・スピーカーにでも習っていたのでしょうか。

2005年6月12日日曜日

近隣でも田植えが進む / 試験に謎なぞが出る



近隣でも田植えが進む。堺市のわが家のごく近辺で撮影(2005年6月10日)。

試験に謎なぞが出る

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月2日(火)曇り

 愉快! 試験に謎なぞが出るから愉快だ。今にいたっても、間違いが発見されないから、なおさら愉快だ。' "See 80." What does this mean? It means a little animal which you know very well.' が英語の第2問だったのだ [1]。「もう一度ゆっくり読んでみなさい。そして、3字に綴りなさい」とまで書いてあったので、わけなく分かった [1]。YMG 君が分からなかったとは、驚いたね。
 国語は『蛍雪時代』にちょっと載っていた詩が応用問題になっていたので、せっかくの問題を考えられた先生には気の毒だった。物理は答案用紙を受け取ったとき、天秤の感度を求める公式を導き出せ、というのがすぐに出来るかどうか自信がなかったが、やり出すと難なく出来た。

 昨日、イギリス人はゲルマン語族だ、いやラテン語族だ、と口論していた TKH 君と SN 君の問題は、TKH 君の方が正しくて、パンを二つせしめたという結果になったようだ。

 引用時の注

  1. 答は次回(6月14日付け)に掲載。

2005年6月11日土曜日

Single Gene Changes Sex Orientation of Fruit Flies (単一の遺伝子がミバエの生本能を転換)



 写真はわが家の植木鉢に咲いたユリの花(2005年6月8日)。

 【概要】オーストリアの研究者たちが6月3日発行のCell 誌に、オスのミバエがメスに対して示す複雑な求愛の動作を、ただ一つの遺伝子の操作によってメスに起こさせ得たことを発表した。これは、人間の本能的な振舞いの理解への重要な一歩となるかも知れない。

Barry Dickson and colleagues at the Institute of Molecular Biotechnology in Vienna, Austria, published a pair of papers in the 3 June issue of Cellto report on a first elegant demonstration that a single gene can serve as a switch for complex behavior [1, 2].

Miller [2] writes, "The male fruit fly is a winged Casanova. He pursues lady flies with a repertoire of song, dance, and well-placed licks that many find impossible to resist." Female flies altered by the Austrian scientists to use a gene called fruitless (fru) to make proteins normally made by males pursued a waiting virgin female, showing all the components of that repertoire.

This could be an important step toward understanding instinctive human behavior.


  1. E. Rosenthal, For Fruit Flies, Gene Shift Tilts Sex Orientation, New York Times (June 3, 2005).
  2. G. Miller, Spliced Gene Determines Objects of Flies' Desire, Science Vol. 308, p. 1392 (2005).
[The above English text is also given at the "IDEA & ISAAC: Femto-Essays" site.]

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/11/2005
 私の分野に出てくるのですが、「振舞い」は他者を意識した装いが含意された行動、であろうかと思います。このハエの動作は本当に「振舞い」のレベルの本能的行動ですよね。人間において、本能的な行動が一遺伝子によって起こるだけでなく、異性などの他を意識した「振舞い」も生得的になしうることがもし解明されれば、それこそジェンダー・アイデンティティの問題への視座も新たなものが得られるかもしれませんね。

Ted 06/12/2005
 ヒトはミバエほど単純ではないでしょうが、それでも最近は、ヒトの遺伝子と動物のそれが大差ないということも見出されつつあるようです。

テディ 06/12/2005
 私などは全くの門外漢ですが、いわゆる「性同一性障害」にも関連してくるのでしょうか?

Y 06/12/2005
 性同一性障害が一遺伝子に起因する、といったような仮説はすでに出ているようです。
ただし性同一性障害といっても広範で、文化的な性、ジェンダーの方の問題にどれだけ傾いているか否か、ということで形相面はがらりと変わります。生得的な性に対する障害の方が遺伝子関与の可能性が高いであろうことは、自然に考えられますよね。

小学校同級会 (Reunion of Our Elementary School Class)

 旧石引小学校の同級会が金沢犀川峡温泉の滝亭で、6月2日夕方から3日朝にかけて行われた。A 先生ご夫妻、アメリカからの H・I さんとその妹も含め、出席者総数は27名、うちクラス OG は15名、OB は9名だった。クラスの児童数は61名だったが、そのうち男児6名はすでに故人となっている。傘寿の祝詞を受けて、A 先生(実際はすでに83歳)が挨拶をされたが、最初にいわく、「私が石引小学校へ来たのは、皆さんが卒業してからのことです。」元児童からは、「あり得ない!」「その通り、といって上げよう!」などのヤジが飛ぶ。先生は痴呆症なのではなく、「私は皆さんが卒業して間もなく、石引小学校を去りました」を、いい間違えられたのだった。こうして、爆笑のうちに始まったパーティは、愉快な雰囲気に終始し、それは2次会へも続いた。まさに、小学生時代へタイムスリップした一夜だった。

The reunion of our class at the former Ishibiki Elementary School in Kanazawa was held at the Japanese style hotel Takitei in Kanazawa Saikawakyo Spa from the evening of June 2 to the morning of June 3, 2005. Participants were our teacher Mr. A and his wife, 16 class OGs including Prof. H.I. from US and her younger sister to help her travel, and nine OBs including myself; a total of 27 people. The number of pupils in our class was 61. Among them six OBs died already.

The party of the reunion took place from 6:00 pm to 8:00 pm. We were seated along the three lines of tables put in the shape of Π, with Mr. A at the center of the shorter line. Mrs. A who has a problem at her knees took a seat at the corner of one of the two long sides. The other participants' seats were determined by drawing.

The organizer in chief, Y.T., presided the party. He explained that this reunion celebrated Mr. A's age of 80 (actually he is now 83 years old) and ours of 70, and then asked Mr. A to give a short talk. Mr. A began saying, "I came to Ishibiki Elementary School just after you finished it." Some OGs and OBs said, "Oh, no! Then we couldn't have been your pupils!" "It's wrong!" "Let's say for his honor, 'Mr. A is quite right.' " and so on.

Does Mr. A have Alzheimer's disease? No, that was a slip of the tongue. He wanted to say, "I left Ishibiki Elementary School soon after you finished it." Thus the reunion started with a big laughter, and merry mood continued all through the party and a party after party, which ended at 11:00 pm. It was an experience like a time slip into elementary school days.

At the party after party, H.I. told me that she had had the disaster of losing the memory of her lap-top computer by exposing it to X-ray inspection at an airport. On June 5, I called her at her mother's house in Takarazuka to ask if I could help her with her computer. However, it seemed that I could have nothing to do, because she had lost only document files and because she had back-up files back in US. Wishing to get a copy of her publication some day, I sent her the book "Kagami no Naka no Hidarikiki (A Left-Hander in a Mirror)," in which I had written a comment of twenty pages.

[The above English text is also given at the "IDEA & ISAAC: Surely I'm Joking" site under the title "Then we couldn't have been your pupils!"]

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 06/11/2005
 1クラス61名というのが時代を物語りますね。私の場合で、52、3名だったでしょうか。今は、2クラスあった学年で同窓会をしていますが、連絡先不明者が半数以上という状態です。

Ted 06/11/2005
 先生が当時24歳で、61名をよく指導されたものと感心します。落ちこぼれ的な学力状態のままの児童も何人かいましたが。私たちのクラスの連絡先不明者は、61名中6名のみです。

Y 06/11/2005
How do you explain your computer not to be exposed to X-ray inspection at an airport?

Ted 06/11/2005
Oh, you have to learn how to say on that occasion in order to go to USA. Simple words for asking this would be, "Please pass this lap-top computer without X-ray inspection."

簡単に解いてやった



 写真は金沢市・卯辰山の菖蒲園で、2005年6月3日。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月1日(月)晴れ

 暑い。明日と明後日だ [1]。
 放課後、掃除と SNN 君の質問に解答を与えることをしなければならなかった。物理の問題集に SNN 君があれほど目を通しているとは思わなかった。しかし、その割には頭が練れていない。彼の分からないという問題は、どれも簡単に解いてやった。最後に1題だけ答えられなかったが、もうちょっと考えれば、分かるだろう。

 NK 先生 [2] に勧められた英語の参考書がなかなか届かないので、催促の葉書を績文堂へ出したが、その返事が来ていた。印刷工場で組版進行中で、10月中旬になる予定ということだ。『蛍雪時代』に広告も出ていたから、すぐにも送ってくれるものかと思っていたが、これでは、いつかのような感情でその日を待たなければならない。

 "Shut off from the companionship of boys, he very early learned to depend upon the companionship of books." この文頭の分詞構文は、うっかり読むと、命令文かと思ってしまう。"Judge not that you be not judged." "What I did I did in honor." なども面白い文例だ。

 引用時の注

  1. 試験の日のこと。

  2. 中学校での恩師の一人。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

しゅりんく 06/12/2005
 『蛍雪時代』ですか…。そうすると、『赤尾の豆単』というのが存在していた時代でしょうか。

Ted 06/12/2005
 そうです! 私は大抵の科目の受験勉強を旺文社発行の『○○の研究』でしました。

2005年6月10日金曜日

歩きながら考えるのは…



 写真は金沢市・卯辰山の菖蒲園で、2005年6月3日。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月31日()快晴

 のちに見れば自分でこんなに書いたかどうか思い出せないだろうほどの、たくさんの文字を雑記帳ならぬ雑記紙に書き散らすのが午前の仕事だった。ソフォクレス、デモクリトス、プロタゴラス、フィディアス、エラストテネス、…と「ス」でくくれる名前ばかりを書き並べたり、それらに、悲劇、原子論、懐疑論、…というものをくっつけたり、物理の公式を使ったり、果ては、極限の問題を解くのに、まだ習わない余弦法則を使わなければならないところを見出して、それを使ったりした。
 午後は、昨年の standard test の始まる前々日の日曜にもそうしたように、Jack のところへ行った(そんなに古い話を持ち出さなくても、日曜はたいていそうしているのだが)。彼の家の位置は、ぼくのためにちょうどよいようだ。もっと近いならば、ぼくが日光の下を10分以上歩く日が1週間に1日もないことになってしまうだろうから [1]。Jack は、あらゆる問題をもっと納得いくまで理解するように努めるべきだと思う。
 歩きながら考えるのは、数学の問題に関する限り、能率的とはいえないが、Jack の家からの帰り道などに、疑問な問題をときどき思い出す。そうしたときは、まったく自由な気持で、自分の力でその問題にぶつかってみることが出来る。しかし、細かい計算を進めることは出来ないから、あとは帰ってからの仕事にして、速足になる。手足を洗って2階へ上がり、机に向かう。鉛筆を動かす。――こんな具合にして得た理解は、格別の味がするものだ。

 引用時の注

  1. 間借りしていた家から高校までは、徒歩5分たらずの距離だったのである。

2005年6月9日木曜日

友の田園情緒の作文を読む


 写真は小学校同級会の行われた金沢犀川峡温泉の風景。(2005年6月3日写す。6月7日に掲載のものを「田園情緒」のタイトルに合わせるため、こちらへ移動した。移動跡へは別の写真を掲載。)

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月29日(金)晴れ、30日(土)曇り

 大きな失策を経験しつつある。自分の生活がそれのみではないから、それほど重大とも感じないでいるが、もしも、これが社会へ出てからのことだったらどうだろう。はなはだしい損失に違いない。たったこれだけのことを、完全にやれないとは、このままにしておけないことだ。Stray sheep でも、自分の足で歩かなければならない。この経験を無視してはいけない。[1]

 Twelve の国語甲の宿題を見せて貰った。原稿用紙状の罫線の入った作文帳に書かれた下書きだったが、15枚におよぶものだった。それを今から清書して出そうというのだから、悠長なものだ。そして、内容も同様に、のんびりしたものだった。回顧的な調子の文章は、あっさりしていて読みやすく、そこに盛られた田園情緒は、『千曲川のスケッチ』で読んだような稻や農具の匂いが、そっくりそのままこもっているものだった。
 生産することを愛し、田と鍬を可愛がった(という表現は、Twelve の文中にあったものではないが、彼はそれを他のことばで巧みににじみ出させていた)百姓のお爺さんの思い出と、後に残された息子(孫かも知れない)と田圃と、それらが Twelve 自身に与えた感懐を綴ったものだった。その田圃は彼の家の前に今も拡がっているものだと思われる。天候や収穫に関する百作と貞夫の会話や、その環境は、おおまかに、あるいは、こまごまと、多くの情趣を含んで描写されていた。ロマンチックということばが3箇所に使われていたが、Jack の使ったそれとはまったく異なる状況においてであった。Twelve は、害鳥を追うために田の中に設けられた、音を出して回転する器械(何という名前だったか)の「からから」という音にロマンチシズムを感じたのである。風物や人生に対する俳諧の精神に近い彼の感じ方・見方が現れている。
 Twelve の作品のよい点ばかりを書いたが、休み時間に飛ぶように目を走らせて読んだことが残念だったというに価する作品であることは確かだ。この作品は、人間の感情を静寂な自然と一体化させようとする、いわゆる純日本的(あるいは東洋的)なものであり、自然観察を人間の性格の考察中に引き入れ、人間性の追求を目的とする西洋的なものの対極といえよう。そのことだけが、ぼくには物足りなく思われた。

 Flame, philosophy, pollen, pluck, cluck, acorn ――2年生のリーダーに新しく出て来た250近くの単語の書き取りをしてみたら、これだけ間違った [2]。l を r に、i を y に、ll を l に、u を a に、…というような間違い方だ。習ってよく理解したばかりの範囲だから、全部書けそうだと思いながらも、誤ってしまうものだ。

 引用時の注

  1. 新聞部でのクラブ活動のことだったか。

  2. 単語帳の日本語の方を見て英語を書いてみたのである。私は英語の試験前には、よくこういうことをしていた。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/09/2005
 田園風景などに代表される純日本的な「自然」は、落ち着いたくすんだ色合いが多く、また日本人はその自然と日常的にかかわる「人々」をも含めて、自分にとって身近な「自然」としている、ということで、自然と対峙するような関係にないですよね。確かに、日本人的な「調和」の性格はこのあたりにも由来する部分があるのでしょうね。日本人的文化心性は、私も少し先の論文で取り上げます。

Ted 06/09/2005
 日本人の「調和」の性格が豊かすぎて、政治や経済を動かす人びとに対する批判が不十分なことが、私には歯がゆく思われます。

2005年6月8日水曜日

カルミア / 父の命日


カルミア:金沢で小学校同級会に出席したあとの6月3日昼近く、卯辰山を訪れた。そこの菖蒲園付近に、遠目にはアジサイのような花(写真)が咲いていた。近寄るとアジサイではないと分かる。「カルミア オスポレッド」という札がついていた。『大辞泉』によれば、カルミアはツツジ科の常緑低木。北アメリカの原産で、日本には1915年に渡来。「はながさしゃくなげ」「アメリカしゃくなげ」の名もあるとか。


父の命日

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月27日(水)晴れ、28日(木)晴れ

 Journalism。Positivenessの最も必要なものだ。10月30日までにどれだけのことが出来るか。そして、その後はどうなるか。

 サトウ・ハチロー夫人自殺を計る、か。原因が何であるにせよ、自殺までしなくても――とも考えられるが、人間の感情はそれほど理論通りには行かないものだ。しかし、彼女の意志がそこへ到達したのは、純粋な理論によってかも知れない。

 28日は父の命日なので、祖父はまず自分で経を上げてから、ぼくに仏壇の前に座るように命じた(と書いたのでは、少し強すぎる表現だが)。こういうことは、今までにほとんどなかったことだ。祖父が毎日読む経本の代わりにトルストイやゲーテやホーソーンの作品が祖父の枕元にあった方がよいなどと思っているぼくだが、父の人柄を偲び、自分の決意を新たにするのも無意味ではないと思って、快くそれに従った。
 父は背のあまり高くない、太り気味の温和な人だった [1]。特に印象深い思い出はないが(あるにしても、今はそれを思い出して書くだけの暇がない)、決してぼくを叱らなかったこと、しかも、決していたずらなどさせなかったこと、どこか深遠さを漂わせている優しさに満ちた顔を持っていたことなどは、容易に思い出せる。
 Sam には新しいお父さんがあるようだね。どんな方か、機会があったら、書いてくれ給え。

 引用時の注

  1. 太り気味だったのは、私がよく覚えている病気療養中の頃だけで、それ以前の写真によれば、そうではなかった。父が死去したのは、私が小学校3年生になったばかりの1944年4月28日だった。

2005年6月7日火曜日

旧大阪府立放射線中央研究所別館


 [mtymさんの「ミース・ファン・デル・ローエ記念館」にトラックバック。(後日の注:トラックバック先のブログは、その後消滅した。)]

 上にタイトルを引用した mtym さんの記事の写真を見て、私の最初の職場(2番目で最後の職場も同じ場所にあり、所属と名称が変更になっただけだが)、旧大阪府立放射線中央研究所別館(写真;1962年3月1日、研究所落成記念に発行のパンフレットから引用)を思い出した。屋根の張り出し具合が、ミース・ファン・デル・ローエ記念館の写真の正面にある建物と似ていたからである。こちらの屋根は裏に空洞があり、その外観は記念館のものより分厚く見えるのだが。

 放射線中央研究所の設計は京大工学部建築科の当時の研究室、増田研究室によるものと聞いている。その落成は1962年であり、設計者が1986年竣工の上記の記念館を知るはずはないが、その原型の、バルセロナ博覧会(1929年)に出展されたドイツ館を写真ででも見ていた可能性はないだろうか。

 上記研究所別館は150名収容可能な講堂(写真の向かって左側)の他、食堂(建物入口部分の奥から向かって右手にかけて)、全建物の熱源、電源をそれぞれ供給するボイラー室と受電室、それに機械工作室(いずれも写真の向かって右側)を備えていた。壁はコンクリートの打ちっ放しである。同研究所を紹介するテレビ番組の録画に来た某テレビ局のアナウンサーは、「正面に見えます寝殿造りのような建物は…」などといっていた。

 1900年、放射線中央研究所は隣の大阪府立大学と統合し、大阪府立大学附属研究所となり、さらに1995年、大阪府立大学先端科学研究所と名称変更した。2005年4月、大阪府立大学が府立3大学を統合し、公立大学法人大阪府立大学として再出発するにあたって、同研究所は、産学官連携機構・先端科学イノベーションセンターに転身した。(場所は堺市学園町1-2。南海バス北野田、福町方面行きで、府大研究所前下車。または、南海高野線白さぎ下車、徒歩10分。)

関連サイト

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

mtym 06/07/2005
 研究所の写真を掲載していただき、ありがとうございます。これらの建物はモダニズム建築様式といいまして、機能性重視、装飾性がないなどの特徴があります。欧州でアールヌーボーの流行のあとに発生し、遅れて日本にも伝播したものです。陸屋根で低層な建屋が長大である点や、建物の前に広場(または庭)のような空間が開けられているところが共通していますね。違いといえば記念館の主な建材は鉄とガラスですが、これはミース設計の建築物に多く見られる特徴です。白黒写真ではわかりづらいのですが、欧米のモダニズム建築様式を日本というフィルターを通して設計された建物であると見受けられました。

Ted 06/08/2005
 「欧米のモダニズム建築様式を日本というフィルターを通して設計された建物」ですか。なるほど。専門的な解説をいただき、ありがとうございました。コンクリートの打ちっ放しですから、カラー写真でもこれとあまり代わり映えはしないと思います。長年勤務していながら、自分で撮った写真はないのです。もっとも、いまのように、デジカメという便利なもののなかった時代です。元職場へ行く機会があれば、撮ってみましょう。

あまりに蒼白く



 写真は6月2、3日に小学校同級会の開かれた金沢犀川峡温泉「滝亭」の遠望。「滝亭」は平屋建ての建物が、美しい中庭を囲んで立つ料亭兼旅館。「金沢の奥座敷で、季を味わい、時にくつろぐ、清流山水の宿」と宣伝している。(2005年6月3日朝写す。)

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年8月26日(火)晴れ

 今までに感じたことのない感じが周囲にあるような気のする日だった。白っぽい落ち着いた雰囲気が――。
 Sam がしてくれたのは、「夏空に輝く星」への感想の表明(ということばを使ってもよいほど、十分に思ったことを伝えてくれたかい?)と漫画映画の話で、われわれが一緒にしたのは、ことばの間隙の製造と漢字の尻取りで、ぼくがしたことは…、何もなかったのじゃないかな。

 M 嬢のお父さん [1] が病気で1週間ほど休まれるそうだ。われわれは、ゲルマンの大移動開始直前のところで、足踏みを続けなければならない。英語乙は、"Isaac Newton" の残りを最後まで進んだが、校長先生は先学期と同様に、mischief を第2音節にアクセントをおいて読んでおられた。授業が終り、鞄をさげて教壇の前を通るとき、黒板を拭いておられた先生に、よっぽど「"いたずら" ということば(word を "字" といわれる先生がよくある。校長先生もそうだ。これも "ことば" に改めて欲しい)は mischief でなく mischief です」といおうと思ったが、いわなかった。いうべきだった。
 放課後、廊下の、もう数メートルで昇降口へ折れるところで、Vicky と行き違った。彼女の顔はあまりに蒼(あお)白く、どう見ても愉快そうだとは思えない様子だったので、極端に顔をそむけてしまった。あたかも、あらゆる忌むべきものが彼女の顔からほどばしり出ていて、ぼくがそれを恐れるかのように。[2]

 引用時の注

  1. 世界史の MY 先生のこと。先生のお嬢さんは、この年にあったオリンピックの飛び込みの選手だった。

  2. Vicky はこの夏、体調がよくなかったようである。私の表現は、いくらかおおげさだったかも知れない。

2005年6月6日月曜日

ミドルネーム

Read in English.


 写真は小学校同級会の行われた金沢犀川峡温泉「滝亭」の入口
(2005年6月3日写す)。

 金沢の旧石引小学校同級会の連絡を貰って幾日か、私は出欠を決めかねていた。そこで、級友の一人で好ライバルだったカリフォルニア大学勤務の H・I さんに出席するかどうかをメールで尋ねた。しかし、そのメールは届かず、インターネット検索によって、大学のホームページで新アドレスをつき止めた。その際、彼女が新しくミドルネームの頭文字 G を名前につけ加えていることを知った。

 私は H・I さんの出欠を尋ねると同時に、ミドルネームが小学校時代のあだ名「がちゃ」(金沢の方言で「魅力的でない顔」を意味する)をとったものだろうという推量を書き記した。そのあだ名を彼女は自任していたので、ユーモア心からそれを利用したと思ったのだ。

 H・I さんからはすぐに返事があり、「同級会には妹を伴って出席します。ミドルネームは母の婚前の姓からとっています!」とあった。失礼な推量だっただろうか。彼女の名誉のために、私は彼女を決して「がちゃ」とは思っていないと付記しなければならない。彼女の強い意志と高い知性と健康にあふれた顔は、いわゆる美女のものではないが、立派な別種の美なのである。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 06/06/2005
 彼女の名誉のために、"I have to write here" ここでだけ、彼女が魅力にあふれた女性であることを書かれたほうが、いいのかもしれませんね。H・I さん宛てのメールで、「あなたはこのような美しさを持っている…」と Ted さんが改めてお書きになっても、女性というのはなかなかまっすぐには受け取らないものです、そのような場合。
 同級生の H・I さんが今もカリフォルニア大学で教えていらっしゃるのですか。私も、予定通りなら来年から夫がアメリカ留学なので、短期留学はしようと思っています。主に福祉施設を見て回りたいのですが、アメリカの大学制度も事前に調べて、よく準備しないとな、と思っています。

Ted 06/06/2005
 Ha-ha. H・I さん宛てのメールに書くつもりはありません。私が何年かに一度は彼女に連絡をとったりすることで、私の彼女への評価は分かって貰っていると思います。
 アメリカのどのあたりへ留学されるのでしょうか。

Y 06/06/2005
 それが、研究所まで教授は決めてあったのでしょう、私の知らない地名だったので、アメリカの東側だということだけは確認しました。その後、何度か夫に確認しているのですが、確かにものすごく多忙な教授に、ゆっくりその件について尋ねることはできないのでしょう。
 目の前の多くの仕事に忙殺、いや圧倒されて、どうすればいいのか、という共通課題については夫とよく話すようになりました。

Ted 06/06/2005
 東側ですか。はっきり分かったら、またお知らせ下さい。
 共通課題についてご夫君とよく話されるようになったとのこと、嬉しいニュースです。

Y 06/06/2005
 今、夕食を一緒に食べた夫に確かめましたら、ペンシルバニアでした。知らない地名というのもさすがにおかしいと思い…。夫は教授から任されている仕事がたくさんあるので、なかなか「僕の留学は…」という落ち着いた話が教授に切り出せないのもわかる気がしました。5年任期中の早いうちにどこかに留学しなければならないのは確かなようです。
 私が研究者に戻ってから、共通の課題について話せることが多くなり、またこんなにお互い、大変なら楽しみも大事にしてよいだろうということで、今日は以前のように週末に寺社めぐりをしたいという話をしていました。Ted さんのように写真をアップもしたいと思って、結婚以来撮りためた写真を再度 PC に入れなおしています。

2005年6月5日日曜日

伯母に漢詩和訳を習う



 写真は2005年6月2、3日、旧金沢市立石引小学校同級会の行われた金沢犀川峡温泉「滝亭」脇を流れる犀川(3日朝撮影)。

 高校時代の交換日記から

(Ted)

(続)1952年8月25日(月)晴れ

 伯母にこうも、ぺしゃんこにされるとは思わなかった。漢文の宿題を見て貰ったのだ。伯母は中国の方ぼうを実際に見て来ているから、その経験を生かし、相当な地理と国語の蘊蓄をここぞとばかりに傾けて、ぼくには一言もいわさないで(ときどき「先生はどう解釈しなさったの?」とは聞いたが)、細いが聞きよい声で、とうとうと説明した。

 雲乳色の白帝城 朝(あした)いとまを告げ出でて …

とぼくが訳したのは、伯母によれば次の通り。

 五彩の雲たなびける晨 暇を告げて白帝城を辞す
 三峡の険を下れば 右岸左岸にましらの声を聞く
 そのいまだやまざるうちに 我が舟ははや幾山々をよぎりたり [1]

これは、まだ驚く程でもなかったが、

 はるばるたどる山みちは 石多くして斜めなり

とした「山行」の詩の起句に対して、伯母は、

 喘ぎ喘ぎのぼる山径は ともすれば石にまろぶ

という範を示し、

 そよ風吹きて水晶の すだれかすかに動きなば

とした「山亭の夏日」の転句には

 微風至れば水晶の簾 和する如くに揺れて

という訳を与えた。伯母の文学性豊かな訳を参考に、もう一度作り直さねばならない。

 序でながら、ぼくが「科学的な考え方をする心」を最初に教えて貰ったのは、学校の先生や父母からではなく、この伯母からだったということができる。それは、小学校3年生で大連へ移り、祖父母や伯母の家族と一緒に住むようになった頃のことだった。

 引用時の注

  1. 李白の次のような詩、「早(つと)に白帝城を発す」を易しく意訳したのであろう。日記には承句の訳を写し落としたようである。
      朝に辞す 白帝 彩雲の間
      千里の江陵 一日にして還る
      両岸の猿声 啼いて住(とど)まらず
      軽舟 已に過ぐ 万重の山
       [荘 魯迅『漢詩 珠玉の五十首』(大修館書店、2003)による]

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 06/06/2005
 ああ、この伯母様はたいしたものですね。具象的にきっかりと押さえていらっしゃる解ですね。こういう方が身近におられた Ted さんの幼少年期が羨ましい。大連では同居もされていたのだから、ご自身仰るように、影響を受けない訳はないですね。

Ted 06/06/2005
 伯母(母の姉)は身体が弱かったですが、その分、他の人より読書を多くしたのでしょうか。母と私の間で、「文学少女」とあだ名していました。

2005年6月4日土曜日

金沢駅の新構造物 (The New Structure of JR Kanazawa Station)


 6月2日、小学校の同級会に出席のため金沢行きの列車に乗った。ちょうどその日の朝日新聞に、北陸新幹線富山・金沢間着工の記事があり、金沢駅東口に7年間と172億円をかけて今春完成した、ガラス張りの巨大屋根を備えた「もてなしドーム」の航空写真が掲載されていた。ドームには鼓を模した高さ13.5メートル幅24メートルの木造の「鼓門」(写真)がある。全体の構造は市民の間では必ずしも好評を得ていないようである。私も建設途中では、感心しなかったのだが、でき上がったのを見ると、まんざらでもないと思った。

I took a train to Kanazawa to attend the reunion of our Elementary School class on June 2. The Asahi-shimbun of that day just carried an article about the start of constructing the new JR line for bullet trains between Toyama and Kanazawa. The article included an air photo of the huge glass dome, "Motenashi (Welcome) Dome," at the East Entrance of the Kanazawa Station completed this spring by spending seven years and 17.2 billion yens.

The dome has a wooden gate (13.5 m high and 24 m wide; see the above photo) symbolizing traditional Japanese instruments called tsuzumi (hand drums). It is named Tsuzumi-mon ("mon" means gate). The whole structure does not seem popular among all the citizens of Kanazawa. During construction I thought it not so good, either. Looking at it as completed, however, I felt it not so bad after all.

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ヨハン 06/04/2005
 大衆の税金を無駄に使ってほしくないとの思いと、一部の地方建設業界への還元や地域へもたらされる経済効果等、公金の使われ方は本当に難しいです。東京の都市博中止が本当に正しかったかどうか今でも疑問が残ります。浮いた資金で都民に何が還元されたか等々。政治は結果論の世界なのかもしれませんね。ところで Ted さんのブログは英文訳つきなので私の妻(一応外国人)も一緒に拝見させていただき理解出来るのでうれしいです。

Ted 06/04/2005
You're right. Construction of the Hokuriku-Shinkansen line and new station buildings for it would bring general public both merits and demerits, and the latter might not be small.
Where does your wife come from?

ヨハン 06/05/2005
 北陸のみならず、新幹線の駅と言う言葉に躍ってしまう在来線沿いの地域も多々あります。目新しさに惹かれてしまうのは日本人気質なのでしょうか。恥ずかしながら、my wife は資本無き資本主義国と呼ばれて久しい国の出身です。(次回は英文でコメント?してみようかと迷うところですけど…)

Ted 06/06/2005
Capitalism country without capital? Does your wife come from our next neighbor country? Whichever country it may be, it's wonderful that you have an international family.

Y 06/04/2005
 すっかり見慣れた金沢駅ですが…本当にお金のある都市だと思うのですが(金沢の建設業界の力が大きいのですか? 財源をよく知らないもので)。文化都市と言われるような都市は、一つ一つの文化的建造物を建てるたびに「どのような文化性を形づくっていくか」という観点から検証されねばならないだろうと思っています。郷土性を出すのはもちろんなのですが、都市文化としての統一性がないと、目新しさだけでは、対外的にも都市全体の評価の向上にはたやすくつながらないでしょう。
 私の大学時代まで、長く大工事中であった JR 京都駅も、建設途中までは「古都・京都というスタイルを守れていない」との批判が多かったようですが、地元民としても、世界から人々を迎える立場から見ても、非常に良いアイデアと完成度を得ていると今では思います。
 金沢駅のバスターミナルなど、バスの整備がよくなされている点には感心しています。駅前の石川県立音楽堂も、実に多彩な演奏会が開催されていて、ホールの構想の良さは京都コンサートホールより、斬新であってはるかにすぐれているように思うので、うらやましいです。

Ted 06/05/2005
 私も財源は知りませんが、新幹線関連整備事業の一環として、国庫からの補助が相当出ているのではないでしょうか。
 鼓は金沢で盛んな能楽を象徴し、郷土性を出すものとして、また、ガラスのドームは駅周辺の高層ホテル群の現代性とマッチするように作られているようです。建築中は、巨大な木製の門がグロテスクに見えましたが、大きな松の木々も前に植えられて完成した後は、周囲と比較的溶け合ってきたように思われます。

四方館 06/05/2005
 なかなかの偉容ですね。このドームはまだ建設中? プロ野球やサッカーの開催が可能な規模?

Ted 06/05/2005
 ドームは完成していますが、この写真は、「鼓門」(「もてなし」はドーム全体の名称でした。訂正します)の構造がよく見えるように近くから撮り、さらに明度を明るい方へ修正しましたので、ガラス屋根の見え方が少なく、また写った部分も白っぽくなって、はっきりしなくなっています。駅ビルとその前の広場を覆うもので、球技などをする空間はありませんが、全体の規模は球技場に匹敵するかと思います。

四方館 06/05/2005
 ハイハイ、成程、駅ビル全体をドーム状で設計したという訳ですか。

Ted 06/05/2005
 以前からある普通の四角い駅ビルをドームが覆っているので、そのあたりは無駄なような気もします。

ポンタ 08/04/2005
 ドームは駅ビルを覆っているのではないですよ。駅ビルの手前、駅東広場の中央部分にある歩行者空間の上を覆っています。

COMMENT:
08/04/2005
 ポンタさん、間違いのご指摘ありがとうございました。あまり大きいので勘違いしました。朝日新聞石川版のウエブサイトの記事を見たところ、「東広場を覆う」とありました。ただし、奥へ行って、中央部分にある歩行者空間よりも左右に拡がっているようですね。

盆踊り



 写真は彦根の玄宮園で、2005年5月24日。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年8月24日()晴れ

 暑い。暑い。一日中、このことばの連発だった。もしも、数人で「暑い!」と一言いうたびに十円罰金として徴収するシステムでも作っておけば、数百円の金が集まったであろう。風呂へ行ったら、浴槽の湯まで熱かった。そして、そこで、きょうの気温は最高三十三度で、今年の最高記録だということをラジオがいっているのを聞いた。

 盆踊り。それは、健全なダンスであるとともに、妖艶な社交場でもあり得る。そして、この両面を持てばこそ、踊りの輪は回るのであろう。色彩電球の輝く下に、踊り跳ねる腕、手、指、浴衣姿の着物の袖から足の先まで、みな動いている。それに見入る人びとの顔もまた楽しからずや。


(Ted)

 とんだ「文学の研究」をやったね。途中で Sam が「どこかで読んだような…」といったところが、昨日 Jack のためにぼくが書かなければならなかったことの原因の一つなのだ。――新しいものを生み出すことは、非常に愉快なことだ。――とだけ書いたのでは、きょうの午後のどんなときにこう感じたのか分かるまい。Sam が Jack の作品(私小説に属するものだね。ぼくのも多分にそんな向きがあるが)の最後に「彼女のまばたきのように――」と付け加えたときに感じたのだ。ぼくも自分で一応満足の出来る、もっと新しいものを作るべきだった。しかし、そのためには、夏休みの宿題であるために受けた時間的制約のないことが必要だ。Jack の小説の上に四つの目を注ぎながら、われわれは何だか沢山のユーモアを飛ばしたね。あんなふうに楽しく古典的な文学についても話し合えたら、「また楽しからずや」だ。

 Sam の考え出すことは、しばしば、コント的で民謡的な渋味のあるユーモアだね。正月に Octo と3人でしたリレー小説の遊びでも、「こけし」を持ち出したり、駅で別れた女性から男性のところへ、近日中にそこへ移る、と手紙でいってきた番地が、彼の新しい家の表札にあるものだった [1]、としたりして、われわれを喜ばせたが、Jack の創作の題名として Sam が提案した「弥次さんと京人形」も、それらに似た趣のものだ。表紙に千代紙でも貼ったら似つかわしいような題名だ。Jack が自分のあだ名を題名に含む小説を作って来たことが知れれば、少なからず笑いの種になるだろう。[2]

 Sam が最近の3日間に書いたことは、どれもこれも、ぼくの見聞外にある事柄ばかりで、われわれの通信帳の利点を改めて感じさせられた。

 引用時の注

  1. 私は長年、Sam がこの結末を与えたリレー小説遊びをしたのは、私が大学生、Sam が社会人のときだったと記憶違いしており、そういう記憶違いのままで、短い英文随筆にも書いていた("Relay Composition" 参照)。

  2. "Jack" はわれわれの日記をブログで紹介する上だけでのあだ名であり、学校で本当に使われていたあだ名は「弥次さん」だったのである。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 06/05/2005
 この時期なら、関西でいうと地蔵盆の盆踊りですね。観光名物と化してしまった越中八尾のおわら盆に行ったことがありますが、あの踊りは幽明の境をゆく感があります。

Ted 06/05/2005
 なぜ8月24日に盆踊りなのだろうと思いながら書き写していました。なるほど、地蔵盆というのは8月23、24日なのですね。私は音楽と体操が苦手でしたから、両者を結合した盆踊りを Sam のように楽しむことはありませんでした。大学1回生のときの学園祭でのスクェアダンスや、40歳台のときの小学校同窓会での社交ダンスを、いい加減な動きで楽しんだのが、数少ない踊りの機会となっています。

2005年6月3日金曜日

代用教科書のことなど


 大連嶺前小学校同窓会会報「嶺前」第21号に掲載の文と挿絵を引用する。挿絵は旧電車道の方から見た嶺前小学校。T・I さん(同小学校昭和21年卒)が、1987年5月に撮影された写真を参考に描いたもの。




 先日、高校生時代の日記を見ていたところ、嶺前小学校の頃の思い出に触れたところがあった。終戦後の国語の代用教科書のことや、戦争中に「軍人勅諭」を暗記しなければならなかったことなどが書いてある。小学校5年生用に徳富蘆花の『自然と人生』の一節があったとは、ずいぶん高尚な代用教科書を与えられたものだ。「軍人勅諭」暗記の思い出は、いま憲法を変えようとする動きのある中で、そのような教育が再びなされてはならないとの思いを強くさせる。

 以下に、その日記をそのまま引用して紹介する。高校2年生になったばかりの日のものである。

1952年4月1日(火)曇り時どき雨

 「木の下は落花と紅蕚と点々として影と共に地に貼せり。白き鶏一羽身に斑々たる若葉の影を帯びつゝ落花を啄ばむ。」と読んできて、ふっと、どこかで読んだ文章だ!と思った。読み返してみた。そして、これを最初に読んだ本――薄っぺらな印刷物という方がよいほどのものだったが、終戦後(1946年、5年生になってからだと思う)嶺前小学校で習った国語の教科書だ――をかなりの明りょうさで思い出すことが出来た。

 あれが徳富蘆花の『自然と人生』の中の「湘南雑筆」中にある「新樹」の一節だったのかと、もう一度読み返すと、妙に強く印象に残っている白くてよい紙質だった代用教科書の一ページが、そして一冊全部が、またそれにまつわる思い出が、懐かしく湧いてくる。あの教科書の最初の課は、少年野球大会の観戦記的な文章だった。そこを習ったのは、南部地区代表の嶺前小チームが優勝校霜藤に2対1で敗れ、全能の神と信じていたものが全能でなかったことを知ったときのように、がっかりもし、残念にも思ったすぐあとだった。しかし、その代用教科書の文中で優勝する学校に嶺前小そっくりのところがあったのは愉快だった。

 代用教科書にはほかにどんな文があっただろうか。「リズム」というのがあったようだ。難しい漢字のたくさんあったのはアムンゼンの探検の物語だったと覚えている。この課は、嶺前小の南側の校舎を中国の保安隊に接収され、北側の寒い教室で2クラスが一緒になってひしめいていたことや、運動場の旋回壕の底に厚い氷がはっていたことなどの思い出とともに記憶に浮上する。

 思い出は戦争中にさかのぼる。5項目からなる「軍人勅諭」の、各項目に付属する長い文を覚えなければならなかったものだ。どうとかすれば、でくのぼうである、とか、烏合の衆である、というようなところがあったことだけを覚えている。その頃のある日、日の出と日の入りの時間を調べるという算数の宿題を出され、早起きして旗山の見えるところへ行った。周囲は白っぽく、日が昇るまでいくらか時間があった。

 あたりが少しずつ黄ばんで活気づいてくる新鮮な空気の中で待つ間、ポケットから「軍人勅諭」の小冊子を取り出し、その暗記に努めた。日の出が近づくとともに、読んでいるページの文字が、赤くなったり、緑になったりした。明るさの激しい変化に対する目の反応のせいだっただろう。旗山の国旗掲揚台の竿と並んで輝く太陽を目にしたとき、軍国主義教育を受けつつあった頭で、それをまさに「躍進日本の勇姿」を象徴する光景と思ったのだった。その何カ月かあとに「玉音放送」を聞き、そのイメージがしぼむことなどまったく予想しないで。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

しゅりんく 06/10/2005
 はじめまして。新着で「異常に多いアクセス」(Ted 後日の注:この記事は復元の際に省略した)を見つけてこちらに来て、記事を幾つか見させていただきましたが、大変感銘を受けました。いつか、自分もこのようなブログを書けるほど成長できればと思います。

Ted 06/10/2005
 年齢を重ねた分だけ、若い方がたにもご参考になるようなことを書かなければと思って、頑張っています。時どきコメントをいただければ幸いです。

御影大橋の渡り初め



 写真は彦根市の玄宮園で、2005年5月24日写す。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年8月23日(土)曇りのち雨

 竣工成った御影大橋の渡り初めを見に行く。泥のような雲が空にかかっていて、時どきそぼ降って来た。それでも沢山の人だった。ぼくが見たのは、十数個の風船が空に舞い上がって行ったのと、カメラマンが三夫婦の前に橋に足を踏み入れてシャッターを切っていたのと、それから、日本独特の竹製の古めかしい楽器を吹奏しながら木沓をはいて、のそのそと歩んで行く神主に続いて、味気なく足を運んでいる三夫婦と、それに続く、胸に赤いリボンをつけた井村市長、その後にぞろぞろついて行く市議や多額寄付者や町の有力者の顔々だった。この行列をぼくは、橋の人道で、土下座することなく、ざわざわと見ていた。他の物珍しげな人たちとともに。
 折から明るくなってきた空に、鉄柱や鉄骨はすべて銀色に輝き、六千万円の巨費と二ヵ月の長年月を費やして作られた百米余の大橋は、見事なものである。これで金沢駅と松任、小松などとを結ぶ道路がぐんと短縮され、郷土の発展に大きな役割を果たすだろうとのことだが、ぼく自身にとれば、夕食後の散歩と夕涼みか、あるいは競馬場へ行くときくらいしかその恩恵を感ずることはないであろう。が、あくまでこれは、ぼくだけについていったことであって、多くの人たちがこの橋の完成によって恩恵をこうむるに違いなく、そして、そこにこの橋を作った意義がある。

 午後からの寄合い相撲は見に行かなかったが、夜のアマチュア歌謡コンクールは最後まで見ていた。今夜の花火は、一発一発が見ごたえのあるものだった。アマコンの方は、出場者に森永キャラメル一箱があたるというも。OG 君は出場申込をしたが、遅かったので出られなかったというほど、盛大だった。これを司会したのは、NK 君とかいう二十歳くらいの青年だったが、彼は腹話術というのを心得ていて、彼と人形(この人形は口が動くように作られており、人並みのおしゃべりをするのだが、実をいうと、彼が口を動かすか動かさないかの程度で人形の分もしゃべっているのである)の会話には舌を巻かずにはいられなかった。彼はこの前の「ほろ酔いクイズ」の公開録音のときにも来ておしゃべりをした。そのときは、人形のセリフは先に録音してあるのだろうと考えていたのだが、きょうは本当のことを知って驚いた。

2005年6月2日木曜日

根拠のない噂



 写真はタイリンキンシバイ(大輪金糸梅)の花。
2005年5月31日、堺市・笠池公園で。

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年8月22日(金)晴れ

 昨夜は「ほろ酔いクイズ」の公開録音に行ったのだが、それは今夜八時から聞いて貰うことにして――、三番目の出場者がぼくだ。迷答ばかりし続け、司会者のヒントでようやく進んだものだから、第三問題で照れくさくなって止めてしまった。福正宗一升の処分にはだいぶん頭を悩ましたが、中央下に「大日本帝国印刷局製造」と印刷してある紙幣八枚で、父に買い上げて貰った。

 ちょうどよい時間だった。"The Well" [1] は、初めは教育映画のようなつまらない(教育映画をつまらないというのではない。場面や俳優の演技がそんな感じを与えるのだ)ものかなという気がした。だが、六十フィートもある狭い古井戸の底にいるキャロリンという幼い黒人娘を、彼女を誘拐したという嫌疑で逮捕されたことのある元坑夫・クロードが助け出すあたりは、人種的差別を越えた温かいものがあった。この場面では、古井戸の横にもう一つ穴を掘って、そこから助けることになるのだが、その穴を掘るために使う機械のすばらしいのに驚いた。あんなものは今までに見たことがない。
 それよりも、この映画でどうしても論じなければならないのは、人種問題である。とある噂から、白人対黒人の人種的対立となり、殺傷事件が相次ぎ、暴動にまで発展しかけるのである。それが寸前に、「彼女は古井戸の中に落っこちている」という真実が分かり、暴動に発展しなくて済み、クロードの無罪も明らかになるのだが、もしも、これが映画でないならば、本当に暴動化することもあり得るだろう。とすると、日本における青い目の子どもたちの問題や在日韓国人のデモも相似た事実として慎重に考えなければならない。そしてまた、根拠のない噂がいかに恐ろしいものであるかも、しみじみと考えさせられた。夏休みの英語宿題帳にある "Did these prejudices prevail only among the meanest and lowest of the people, perhaps they might be excused." という文には、いささか問題があるようだ。

 通信帳 [2] を今までの二倍の価値のあるものにしよう、という意見には賛成である。現在のぼくのような使い方では、ノートがきっと泣いているであろう。しかし、いかに実行すべきかについて規定することは、非常に難しい。さしあたって、ここ当分の間、この目的に沿うよう、いろいろな方式を試みてみようではないか。


 引用時の注

  1. 1951年製作、モノクロのアメリカ映画。下記レビュー参照:The Well (1951) (IMDb.com); Film Review "The Well" (TimeOut.com).

  2. われわれの交換日記のこと。私が「今までの二倍の価値のあるものにしよう」と提案したようである。

 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

テディ 06/03/2005
 アラバマ物語 "TO KILL A MOCKINGBIRD" が1962年の作品であるので、その10年以上前に人種問題を題材としたアメリカ映画があったのですね。初めて知りました。

Ted 06/03/2005
 映画『アラバマ物語』と小説 "TO KILL A MOCKINGBIRD" のそれぞれの題名だけを別べつに知っていましたが、『アラバマ物語』は "TO KILL A MOCKINGBIRD" の映画化でしたか。

Y 06/04/2005
 Sam さんはおおらかで、文章を読むと独特のしっかりとおとなびた、安定した視点がいつもあるように感じますね。こういう高校生が今の時代にも沢山育ってくれればいいと思いますが、なかなかそうはいきません。

Ted 06/04/2005
 敗戦後まだ7年目、大人たちが日本の復興のために一生懸命に働いている姿が、当時の生徒たちをも、おおむね真面目な方向に導いたと思います。

2005年6月1日水曜日

氏か育ちか



 近隣の堺市・笠池公園で、まだ小さい木ながら咲いているいろいろなアジサイ。
2005年5月31日撮影(記事に無関係)。

 先日、"The Long Shadow of Temperament" [1] という本に対するScience 誌掲載の批評 [2] を読んだところ、その導入部分に人格の形成に関する nature 対 nurture 論争のことに触れてあった。Nature 対 nurture という言葉は、これまでにも何度か目にしたし、この書評にも、"temperaments or biologically based inherited influences (nature) against environmental influences from parenting, peers, and culture (nurture)" と説明づきで登場するので、その意味は分かる。

 しかし、nature 対 nurture は、日本語で何といい習わされているのだろうかと気になった。手っ取り早く調べるには、最近はなんといってもウェブの検索がよい。Nature と nurture をキーワードにして、Google で日本語のページを検索したところ、「遺伝か環境か論争」という言葉が見つかり、一応納得したのであった。

 ところが、それから間もなく、朝日新聞の読書欄において、「心を生みだす遺伝子」[3] という本の批評 [4] の見出しに、「氏(うじ)か育ちか」ということばがあるのに目が留まった。「遺伝か環境か」よりも、こちらの方が私には好ましい。「氏」という語は古めかしいが、英語の nature と nurture が同じ語尾で終っているのに似せて、氏も育ちもイ列の音で終っているからである。詩の用語でいえば、韻を踏んでいるのである。

 といっても、これはどちらを選ばなければならないというほどの問題ではない。むしろ、「氏か育ちか論争」自体は、現在どういう状況になっているのかが気になるところである。私は、生物学や心理学には素人ながら、この論争はどちらに軍配が上がるという形で決着のつくものではなかろう、とかねがね思っていた。自分の歩みを振り返ってみても、氏と育ちの双方が絡み合っているような気がする。

 そこで、「心を生みだす遺伝子」の書評中に、『「ヒトの心を決めるのは、氏か育ちか」なる論争はもはや成立しない。遺伝は当然介在するが、遺伝だけで決まるはずもないのだ』とあるのを見て、わが意を得たりと思ったのであった。

 ちなみに、「氏より育ち」という諺がある。英語で同意義のものも "Birth is much, but breeding is more." "Not where one is bred but where he is fed." "Nurture and good manners maketh man." "Nurture is above nature." などと、多くある [5]。これは氏に恵まれない人びとを勇気づけるための古来の知恵といえよう。


  1. J. Kagan and N. Snidman, The Long Shadow of Temperament (Harvard University Press, Cambridge, MA, 2004).

  2. P. T. Costa Jr., Fleeting Infant Types to Enduring Traits, Science Vol. 308, p. 500 (2005).

  3. ゲアリー・マーカス、心を生みだす遺伝子、大隅典子訳(岩波書店, 2005)[Gary Marcus, The Birth of the Mind: How a Tiny Number of Genes Creates the Complexities of Human Thought (Basic Books, New York, 2004)].

  4. 渡辺政隆、「氏か育ちか」の議論を超える地平へ、朝日新聞 (2005年5月29日).

  5. 池田弥三郎、ドナルド・キーン(監修)、日英故事ことわざ辞典 Proverbs (朝日イブニングニュース社, 1982).


 
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 06/01/2005
 私としては、遺伝子か自然か、或は氏か育ちかについて五分五分とはあまり考えたくないですね。もはや、なべて「存在が意識を決定する」と言い切る訳にはいかないでしょうが、いくら遺伝子解明が進もうとも決定論に傾斜を強めたくはないですね。氏は二分か三分、育ちが七分か八分といったあたりで踏みとどまっていたいですね。

Ted 06/01/2005
 私も、両方が寄与しているといっても、五分五分という考えではなく、環境からの摂取の努力如何では、育ちが七分か八分にも成し得るし、努力を怠れば、逆に三分か二分止まりにも堕し得るのではないかと思います。